2012.5.19 ツイッターの呟きを転載・・・写真を撮るということについてのいろいろな逡巡と思ったこと

5月7日
雨が降っているのをみていると、それはじつに様々なすがたで庭に落ちてくる。中央では、断続的な細かいカーテン(あるいは網目)だ、非常に軽そうな水滴の、執念ぶかいけれどもかなりゆったりとした落下、永遠に無気力な性急さ、純粋な大気現象の極度の微小部分の集団だ(フランシス・ポンジュ「雨」)

引用部分に「あるいは網目」とあってあまりに直結過ぎて気が引けるのですが、ポンジュは井筒俊彦さんの意識の網目なんですね。森敦さんの意味の変容は阿頼耶識…。言語は哲学の実践。そんなことを小説の講座でしつこく(失礼!)しつこく丁寧に教えていただきました。

5月8日
月下のラベンダー:月の光の撮影、今夜も撮ってみました。相変わらず手ブレですがかえって水墨画のような効果が…

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今夜の月は山吹色がかっています。時々少し雲がでて、上のラベンダーのときは月が隠れています。

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今夜は立待月というのだそう。6日の満月より欠けているのがわかります。

そういえば立川で発掘調査をしていたとき、江戸時代、その村で月に関する講がありました。何日の月だったか…。立待月講ではなかったのは確かだけど、そんなふうな名前。月下に村人が集うお講。なんて風流な風習!と思った記憶が。ペリーが浦賀に来た時代で村長の日記に黒船の記述がありました。

5月9日
今日の夕陽:一眼レフをマニュアルにしてわざとピントをはずして撮ったらこんな幻想的に。コンデジでこれは撮れない?こういう微妙に雲がかかった夕景は綺麗なので撮りにでて…

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5月10日
昼顔が群れて咲いていてそこに蜜蜂が蜜を吸っていたのを撮っていたら脇をてんとう虫が通りました。あ、と思ったのだけれどマクロで撮っていたのでてんとう虫はボケてしまいました。でも赤い色が可愛い!そして蜜蜂の羽が光っているのが綺麗!

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最近どうして写真が下手でならないのだろう記録写真にしかならないのだろうと悩んでいましたがわかりました。心がざわついていたからでした。写真をみると撮ったそのときの心のざわつきが見えてしまって嫌でならなかったのです。処理しきれない程の用を抱えてその合間に写真を撮って、では無理でした。

それで一昨日から用を減らす事にして生活面での断捨離を実行。しばらく籠って心に耳を澄ますことに。写真も心美しく撮ろうと心がけることにしました。

17:24撮影の東の空を覆っている雲。東北に達した先端に勢いがありました。嵐のあとの澄んだ青空を撮りにでて…

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そうしたら麦の穂がこんなに光っていました。

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5月12日
私の原点@『原中最秘抄』(池田亀鑑氏大成資料編)…ここのところ疲労がたまって心がざわざわしていました。書くために籠って懐かしい資料に囲まれたら、ああ、やはりここが私の世界だなあと。おのずとカメラもこういうものを撮りたくなります。

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5月13日
それにしても、事実上初めて接する光行70歳の筆跡がいかにもみずみずしいのには驚かされた。老人とはとても思えない端正さで、きびきびしながら運筆は流麗で、しかも力強く、世尊寺流の能筆とは異なるものの、品位を湛えたけだし名筆の部類(池田利夫先生「源光行自筆書状の進出をめぐりて」)

『源氏物語と鎌倉』所収の原稿のあとに池田先生の『源氏物語の回廊』が出版されました。そこに光行自筆書状の写真が…。あまりの流麗な筆跡に私も驚きました。こういう字を書かれる方だったのだ…と感慨。回廊には私の論の先の資料も出されています。今書いている原稿と整合性つくか、どきどき…

光行の自筆書状は、『明月記』紙背文書から発見されたそう。仲の良さを改めてほうふつ。

池田利夫先生は先だって他界されました。ついに『源氏物語と鎌倉』をお届けすること叶いませんでしたが、先生は最後まで光行を書かれていたんですね。私もそれらご論の合間に垣間見える歴史を埋めて光行の人生をさらに充実させたいと思います。

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2012.5.5 今夜の満月はスーパームーン! 月がいつもより大きく明るく見えるのだそうです!

5日夜から6日にかけて、月が大きく明るく見えるスーパームーンという現象が起きるそう。そう期待していたら、ほんとうに、びっくりするほど綺麗な満月。見る人がみんな、思わず、綺麗、綺麗と口に出すほど・・・

この現象は、月の軌道が楕円のために地球との距離が近づいたり遠のいたりするためだそう。しかも、今回は通常よりも顕著なのだそうです。

それで、エイッとばかりにカメラを持って撮りにでました。久しぶりです。鎌倉や慈光寺のような記録として必要な写真以外で、「撮ろう」と思って出るのは・・・

でも、いいですね。ほんの短時間でしたが、撮ることを堪能しました。以下、ツイッターにあげた呟きを転載します。

@odayuriko

月のハレーション。あまり月が綺麗だから撮りにでました。そうしたら…。月がハレーションを起すなんて…。スーパームーンだからでしょうか。

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@odayuriko

月の光の色分解:モノクロしかない真っ暗な木の茂みのなかです。赤や緑の光は月光…。あまり月を撮る機会はないからこんなふうな経験ははじめて。手持ちでブレていて済みません…


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@odayuriko

この写真も好き…。月の光で輪郭がくっきり。月光ってこんなに明るかったかなあ。それともやはりスーパームーンだから?

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@odayuriko

ちなみに月の単体では明るいから手持ちでもブレません…(昔はこんな月のアップの写真、大きな望遠でなければ撮れなかったのにコンデジだとこんなに簡単。時代の進歩というより価値観の転換についていけません…)

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@odayuriko

月下のモッコウバラ。石川賢治さんの月光浴を思い出して撮りました。photoshopで少し明るく加工しましたがこんなに撮れるんですね。

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@odayuriko

月下のモッコウバラ、星と。赤い星が写っていますがシリウス? 日常を忘れて嵌ってしまいそうです。月下の写真…

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2012.5.4 明王院建立に秘められた謎が解けました! そこには竹御所の深い思惑がありました…ツイッターの呟きを転載

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4月26日
@odayuriko
この度、鎌倉の明王院木造不動明王座像が国の重要文化財に指定されました。それで第四代将軍頼経が建立した当時の記録を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から連ツイさせていただきます。発願は寛喜3年(1231)、頼経は14歳。前年竹御所と結婚したばかりです。

@odayuriko
寛喜3年10月6日 御願寺を建てられるとの審議があり、その場所を永福寺・大慈寺などの内と定められた。(略)永福寺内の場所は、御台所(竹御所)の御願寺の場所として内々に決定されたという。

@odayuriko
寛喜3年10月16日 二階堂の内で五大尊堂を建立することになっている場所は、本堂の場所が犯土となる。その方角を調べるよう命じられた(略)戌の刻に武州(泰時)の御邸宅で、尾藤右近入道を奉行として御堂造営の日時定めが行われた。

@odayuriko
寛喜3年10月19日 二階堂の御堂の地を甘縄に改め、城太郎(義景)邸の南、千葉介邸の北で、西山の側に決定された。寛喜3年10月25日 晩になって大風が吹いた。戌の四刻に相州の公文所が焼失した。(略)炎は飛ぶようで、右大将家(頼朝)と右京兆の法花堂、同じく御本尊などが燃え尽きた

@odayuriko
寛喜3年10月27日 両御願寺の新造については、この火災により延期された。寛喜3年11月18日 将軍家(頼経)の御願である五大尊像が造り始められた。寛喜3年12月26日 五大尊像の御衣木加持(が行われた)。導師は信濃法印道禅。

@odayuriko
貞永元年(1232)5月14日 武州(泰時)が政治に専心されるあまり、御成敗式目を計画され、このところ内々に審議が行われており、今日まさにこれを始められたという。←なんと、明王院の木造不動明王座像造立は御成敗式目のできた時代と一致するのでした!

4月27日
@odayuriko
鎌倉の明王院木造不動明王座像が重要文化財に指定されて明日のお不動さんの日では混雑が予想されるそう。私も行きたかったのですがまたの月にして、明王院建立の記事を『現代語訳吾妻鏡10 御成敗式目』から。昨日は発願まででしたので、今日は建立まで進めたいと思います。連投させていただきます。

@odayuriko
貞永元年10月2日 将軍家(頼経)の御願として寺院を大倉に建立されることについて、今日、日時定が行われた。 10月5日 御台所(竹御所)の御堂の地について審議が行われた。(略)御堂の場所は大慈寺の境内に設けられたという。 7日 今日、御堂の場所である大慈寺の境内で地曳始が行われた

@odayuriko
貞永元年10月22日 将軍家(頼経)の御願として、来年に五大尊堂を建てられる事について、まだその場所が決まっておらず、人々に命じてふさわしい場所を探されていた。(略)大倉の奥の地がよいとの審議があり、(略)この地にしようと思われたという。

@odayuriko
文暦元年3月1日 今日、御台所の御着帯が行われた。 7月26日 御台所が御産所(時房邸)に移られた。(略)子の刻になって産気づかれた。 7月27日 寅の刻に出産された。(死産・略)御出産の後に苦しまれ辰の刻に亡くなられた。←竹御所は明王院の建立を見ずして亡くなっているんですね。

@odayuriko
嘉禎元年(1235)2月15日 五大尊堂の門の木作り始が行われた。来月10日に堂舎を建てられるので、まずこの事が行われた。 2月10日 今日、御堂を建てられた。(略)午の刻になってその儀式が行われた。 6月19日 五大堂の梵鐘を鋳造されようとしたが、今日、鋳造に失敗した。

@odayuriko
嘉禎元年6月29日 新御堂の安鎮法を弁僧正定豪が行い、また梵鐘が鋳造し直された。(略)辰の刻に鐘を(鐘楼に)懸け、同じ時に五大明王像を堂の中に安置した。巳の二点に明王院(五大尊堂)の供養が行われるので、将軍家は…出かけられた。(略)午の二点に供養の儀が行われ、曼荼羅供であった。

@odayuriko
明王院建立の引用はこれで終わりにしますが、ここで竹御所が亡くなっているのはショックでした。彼女の結婚生活は数年に満たず、この間に仙覚ら比企氏の残党が帰省を許され、仙覚は竹御所の菩提を弔うために新釈迦堂の住持となるなど、明王院の建立はまさに仙覚の鎌倉での活動初期と重なっていました。

@odayuriko
そして、竹御所の葬儀の奉行をしたのが北条実時。それから頼経が催した歌会には源親行が参加…と、後年の「河内本源氏物語」完成から『尾州家河内本源氏物語』、さらに『西本願寺本万葉集』へと至る萌芽がここにはありました。

4月28日
@odayuriko
やわらかな夏日といった感じの空が広がっています。鎌倉は六浦路にある明王院の建立についての引用を『現代語訳吾妻鏡』から昨夜終わりましたが、一夜明けてわかってきたことが。明王院の建立に際しては発願の最初から頼経室(竹御所)の御堂建立とセットになっていて???、でした。

@odayuriko
場所も永福寺内とか大慈寺内とか両方が一転二転錯綜して幕府の奔走させられている感じ。頼朝が勝長寿院や永福寺を建てたときの確定感がまるでありません。さらに竹御所の御堂の方は先に大慈寺内に建てられたと思うのに名称とか供養の記述がない…。何なのだろう、これ、といった感じでした。

@odayuriko
一夜明けて見えてきたシナリオはこうです。比企の乱で北条氏に両親を殺されながら政子に引き取られ北条氏によって育てられた竹御所は、両親への思いを口にも出せずにいた。が、頼経と結婚して御台所となったとき、将軍家の力をバックに両親供養の堂を建てようと思った。そのとき一緒に頼経も明王院を。

@odayuriko
というか、将軍が明王院を建てるので御台所のもとカモフラージュだったのでしょう。二人は建立発願の前年に結婚しているのです。竹御所は将軍室の権威を盾に仙覚ら全国に潜む比企氏残党の帰省を許していますから、結婚と同時にというか、結婚自体が北条氏に有無を言わさない将軍家の権力獲得でした。

@odayuriko
それまで竹御所は政子の後継者となるべき女性として大事に扱われていました。まさか北条氏も復讐を抱いているとは思わなかった。が、頼経と結婚したと同時に両親の為の堂建立、残党の帰省と次々に牙をむきはじめた竹御所に、北条氏は危惧をもったに違いありません。それで出産をいい折と利用して暗殺…

@odayuriko
実朝を暗殺した公暁は竹御所の兄。公暁も政子に育てられ、政子の配慮で二人は実朝の猶子になるなど目をかけられています。が、二人の内に潜む怨念は根が深かったのです。誰か二人をそそのかす人物がいたのでしょうか。明王院建立の『吾妻鏡』からこんな小説のような背景が浮かび上がりました。

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2012.4.27 埼玉県比企郡ときがわ町にある慈光寺を訪ねました→国宝「慈光寺経」のことなど・・・ツイッターの呟きを転載

4月24日 
慈光寺さん入り口にきました。桜が映青えています。やっと晴れました!

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今日訪ねた慈光寺は埼玉県比企郡ときがわ町にあるのですが、「ときがわ」は以前「都幾川」と書きました。それは慈光寺が昔は関東一の古刹でまるで「都」のような繁栄。去る人は飽かずに「幾」度も振り返ったからと。安易な町名変更はよくないですね。http://bell.jp/pancho/travel/saitama/jikoji.htm

4月25日 
慈光寺はかつて山内に75坊もあったそう。手前の二つの山の向こうに頭だけ覗いている山に慈光寺はあります。天台宗寺院です。

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4月25日 
私は慈光寺を仙覚が出家した寺と見ています。慈光寺はたぶん比企氏の庇護もあっての繁栄。頼朝も寄進しているし、範頼の子息も入寺して別当になっています。仙覚も比企氏ゆかりです。それで、仙覚さんも眺めただろう山頂からの風景を…

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4月25日 
帰り、小川町駅近くの小川町のアンテナショップに立ち寄りました。仙覚祭りのことや仙覚の万葉顕彰碑、その他お話したり質問すること一々に淀みなく意志の疎通ができて、仙覚の事でこんなに話が通じたのははじめて!『源氏物語と鎌倉』の話をして送らせていただくことに。資料もたくさん頂きました。

4月25日   
慈光寺へ上る山道の入り口にお店を構えていられる寧々房さんの写真を二枚、アップします。最初は店先を。定休日だったのを偶然いらした群馬の四人組の方のために開けたところに山から下りてきた私が到着。一緒に入らせていただきました。

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4月25日
そして、全景。この建物は昔、庄屋さんだったところとか。一揆にあって、梁や柱に刀や鉈のあとが残っています。二階を仏像のお作品のギャラリーにされています。垂直くらいに切り立つ怖い木の階段でした。

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4月25日 
慈光寺情報1 ご住職様のお話では国宝慈光寺経は三大装飾経の一つだけれど、平家納経・久能寺経のようには研究がほとんどされていない。今まで東博に収納されていたが展示の機会がないので奈良博に移されると。奈良博の方が装飾経の研究が進むそう。←私にとっては近くの東博にあったのが奈良へなんて

4月25日 
慈光寺情報2 国宝慈光寺経の結縁者が京都の九条家の人々で、その一覧目録が一枚残されています。それを書いた人物が誰かまだわかっていないのですが、仙覚の可能性も。書かれた時期ちょうど仙覚は比企にいました。目録は現在京都で修復中で完成が四年後。その後どこに収蔵されるかは未定とのこと。

4月25日   
慈光寺情報3 http://www.temple.or.jp/freepage_20_1.html←慈光寺経。このページのtopにある右側のお堂が観音堂。非常に華麗な彫刻が施され往時の慈光寺の様子が窺えます。ご本尊は十一面千手千眼観世音菩薩像。左側は現在の本堂で阿弥陀堂です。

4月25日   
慈光寺情報4 仙覚が慈光寺で出家したとしても歴史の中で慈光寺は比叡山のような焼打ちにあってそれ以前の記録が一切残っていないのでわからない。別当格ならわかるがとのこと。もしかしたら仙覚は75坊のうちのどこかの坊での出家とも考えられそう。

4月25日   
慈光寺情報最後 75坊あったというお堂は残っていませんが、山のあちこちに見かける平場が皆そうだということで、下山中、あ、ここも、と思って撮りました。

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慈光寺境内は至るところシャガの群生地でした。アップで暗めに撮ったら貴婦人のドレスのよう…

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4月26日 
山の霊場の守り神?(ほとけさまですが…)。慈光寺から山道を下りてきて最後のところにあった巨大な岩の露頭。その頂に村をみはるかすように石仏が置かれていました。宝冠の阿弥陀様? ふしぎな思いで立ち止まりました。

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4月26日   
そのアップです。

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4月26日   
国宝「慈光寺経」は、国宝「久能寺経」、国宝「平家納経」についで鎌倉時代初頭につくられた三大装飾経の掉尾を飾る優婉華麗な名品である。元久3年3月7日、太政大臣藤原良経の急逝を後鳥羽上皇がいたく悲しまれ、中宮冝秋門院を中心に営まれた一品供養経といわれている。(慈光寺百七世明了識)

4月26日   
上のツイートは慈光寺で頂戴したパンフレットより。慈光寺では現在その中の「信解品」を拡大陶窯焼成して本堂に展示されています。中宮冝秋門院任子の御筆。ちなみに序品は後鳥羽院、他に兼実、道家等九条家ゆかりの方々がそれぞれの品を分担されています。

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4月26日   
国宝「慈光寺経」には「一品経書写次第」という書写した人の目録が一枚残されています。この作成時期が、仙覚が比企にいて『万葉集注釈』を成した時期と重なるので、仙覚が書いたのでは?という方もいられます。写真は週刊朝日百科日本の国宝89より。

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4月26日 
仙覚の側から追及する私としては仙覚の作成であって欲しい訳ですが、お訊ねした慈光寺のご住職様のお話では、まだ紙がいつの時代のものかも特定されていないとのことでした。それにしても九条家ゆかりのこんなに華麗な文化財が関東の山奥にある不思議。それを謎解くのは楽しいのですが個人では限界…。

4月26日 
私の推測は『源氏物語と鎌倉』に書きましたが、国宝「慈光寺経」は将軍頼経が関東に下向したときに父道家が持参させた宝物の一つで、後鳥羽院崩御に際し頼経がその供養に関東最大の古刹だった慈光寺に奉納。それはその時頼経に仕えていた仙覚のアドバイスによるものでは?という流れです。p140。

4月26日   
それにしても国宝「慈光寺経」が九条家という由緒がありながら、他の久能寺経(待賢門院璋子と西行)や平家納経(平清盛)に比べて研究が進まず、知られてもいないのはひとえに関東にあったためでしょう。関東の歴史家は文化・文化財に対して意識のレベルがほんとうに低いとつくづく思う。

4月29日
埼玉県比企郡ときがわ町にある慈光寺さんの古代瓦を型押しして造った文鎮です。山道の登り口に店舗を構えていられる寧々房さんの作。手にしたときのずっしりした重みが歴史を…

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文鎮の表面です。

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文鎮の裏面です。古代瓦は遺跡発掘で年代特定や産地・流通を調べるのにとても重要な遺物。それとはべつに井上靖さんの天平の甍のイメージがあって古代ロマンそのもの。史跡に行くと、つい、落ちていないかなあなんて足元ばかり見て歩いてしまいます。

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慈光寺さんから霊山院さんへ向かう途中の山道脇のこの空間でおにぎりを。慈光寺の写真をまとめたいのですが執筆に入りたいので遅くなりそう。そのうちに季節が変わってしまいますね(泣)

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霊山院さんのお庭がそれは素晴らしいと会う人ごとに言われて行ったのですが…。わぁっ、と思わず声にしたほど素晴らしかったです! 写真の整理ができないのであきらめて一枚だけ…

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今日慈光寺さんで知り合った寧々房さんからメールを頂き仙覚さんの出家した寺院について考えることが。仙覚という法名に何かふしぎを感じていたのですが慈覚大師門人というその覚の字をとったのかなと。仙の字は順徳院仙洞の仙では?と以前から感じているのですが…。あくまでも私の感です。

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2012.4.22 ツイッターの呟きを転載…六浦路の大江広元邸のことや、明王院の木造不動明王座像が国の重要文化財に指定されたことなど

4月15日
今日の雨で突然桜が終わりに。『現代語訳吾妻鏡』も次の「承久の乱」を借りてきてあるのですが、慌ただしく撮り溜めた写真の整理をしなければならないし、何より原稿を書かなくては。先ほど六浦路をYouTubeにアップしましたが、次に桜をまとめて、それが終わったらしばらく原稿に専念します。

おはようございます。「六浦路」をわかりやすく詳細に説明してくださっているサイトがありました。筋替橋…、碑があるのは知っていましたが、私も撮らなくては……

http://www.kcn-net.org/kama-michi/mutuuraji.htm

4月18日
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』建保2年4月18日 御所で大倉新御堂(大慈寺)の供養について評議が行われた。「供養の導師には京都の高僧を招きたい」と(実朝の)御希望があった。ところが広元朝臣らは「今回は関東に住む僧侶を用いられることが最も徳政となるでしょう」と頻りに申したという。

建保2年4月21日 金剛力士像が造立された。これは大倉新御堂(大慈寺)の惣門に安置されるためである。←金剛力士像のある惣門はかなり立派?先日現地を訪ねて大慈寺が檜皮葺屋根か瓦葺か気になったけれど、『鎌倉廃寺事典』に大慈寺出土の丸瓦の写真が。田舎びた寺院ではなく瓦葺の伽藍があった寺院のよう

建保2年7月1日 民部大夫行光を御使者として、大慈寺供養の導師を勤めるよう(実朝が)葉上僧正(栄西)に命じたという。←栄西については建仁寺とともに年譜を作って考えます。

4月19日
@luv134_eyes 
4月20日(金) 建仁寺 栄西降誕会。明庵栄西(みんなんようさい)は日本に禅宗と茶をもたらした天台僧で、#鎌倉 寿福寺の開山(開基は北条政子)。京都では建仁寺の開山(開基は源頼家)として知られます。四頭茶会(よつがしらちゃかい)を催し生誕を祝します。
織田百合子さんがリツイート

建仁寺がある場所は六波羅で、平家が去ったあと鎌倉幕府の所有するところとなり、それを継いだ頼家が栄西を開山とする建仁寺を建立しました。『源氏物語と鎌倉』に建仁寺様のお写真を載せさせて頂きましたが、その時の許可を下さったお坊様のお声の凛としてからからとした清々しさが忘れられません。

4月20日
ここまで六浦路の大倉幕府や大慈寺をみてきて思うのだけれど、頼朝から実朝期までは文化の基点が雅。御家人に遠慮して表だってそれは出ていないけれど大江広元の影響が大きい。栄西に帰依してもだからといって禅宗にはならない。禅宗が武士文化に適うのは時頼以降なのですね。そこを分けて考えないと。

源家将軍期と時頼以降の執権期のあいだに将軍頼経、宗尊親王期がはさまるけれど、その象徴が明王院といえるかもしれない。執権も経時までは将軍家と対抗していなかった。だから経時の時代まで泰時も大慈寺を大事にしていたし、だから頼経も隣に明王院を。六浦路にある二つの寺院は文化の移行の象徴。

法華堂は、神仏分離によって(略)白旗社が建立された。白旗社の右上、頼朝の墓の左下の平地には鎌倉時代、瓦葺の建物があったことは過去における出土物によって明らかである。(『鎌倉廃寺事典』法華堂の項より)

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アップした写真は頼朝の墓を参拝して白旗社を見下ろしたときに、中間になんか気になる平場があって撮ったもの。そこに法華堂の何等かの建物あったのですね。廃寺事典にはこの法華堂も、大慈寺も明王院も出土瓦の写真が載っています。でもみんな場所的に狭い…。京都の大寺院という訳にいきません。

ここまでくると大慈寺の向かいに位置する場所に大江広元邸があったのも納得。ここがそうという確かな証拠はないとどこかで読んだけれど、私には確かに思えてきた。大倉幕府の前と大慈寺の前→六浦路の両端に広元邸。比企の乱の時の広元の不思議な記述など、これから広元がどう関わっていくのだろう。

4月21日
二階堂はことにすぐれたる寺なり。鳳の甍、日にかがやき、鳧の鐘、霜にひびき、楼臺の荘厳よりはじめて、林池のありとにいたるまで、殊に心とまりて見ゆ。(『東関紀行』より永福寺についての描写)

上のツイート、昼に六浦路の寺院は狭くて京都の大寺院という訳にいかないと書いてしまった訂正・補足です。永福寺は頼朝が奥州征伐から還って平泉の大長寿院を模して造った宇治平等院と同じ形式の伽藍。出土仏具からも繊細・優美が伺われて京都や平泉に引けをとらず、鎌倉にも華麗な寺院がありました。

@luv134_eyes
4月20日(金) 文化庁、新たに2件を国宝、46件を国指定重要文化財に追加と発表。#鎌倉 建長寺開山堂安置の木造蘭渓道隆坐像、明王院本尊の木造不動明王坐像の2件。#横須賀 曹源寺の木造十二神将立像の1件。#神奈川 県内では他に箱根神社の木造神像2躯も選ばれた。

@luv134_eyes
新たな国指定重文、木造不動明王坐像は鎌倉幕府4代将軍頼経発願のもの。昨年修復、明けて鎌倉国宝館「鎌倉×密教」展に五大明王として出展があったばかり。本堂安置で通常非公開ですが、毎月28日13時より営まれている不動縁日の護摩祈願法要終了後に拝観可。境内撮影不可。
織田百合子さんがリツイート

『尾州家河内本源氏物語』の実寸見本を作りました。大きい大きいと言われても見てみないと実感が湧きませんよね。こんなに大きいです! 寸法は『源氏物語と鎌倉』113頁に。『西本願寺本万葉集』も作って並べてスライドショーでご紹介しますね。

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昨夜思った事。どうして鎌倉は頼朝が頼朝がといいながら頼朝を顕彰する記念碑がないんだろう。歴史の地ならたいてい、あ、その人の所に来たと実感する何かがあるのに。銅像は好きでなかったけれど、先年太平記の里を歩く写真を撮って歩いて象徴的に思い出すのは新田義貞の銅像。分かりやすいから?

そうしたら気がつきました。頼朝が顕彰されていない事と六浦路がさびれている事は連動していると。六浦路の横大路に対して、若宮大路から北鎌倉の線は縦。観光がみんなこの縦のラインになっているんだなあと。横のラインは頼朝から実朝、縦は北条氏。と見ると省みられない横大路の歴史が浮かびます。

新しい仕事は新月にはじめるというサイクルを守って今日から論文に着手。頭のなかでは起承転結ができているのだけれど、まったくの白紙に書く最初の一歩が思ったより簡単に踏み出せずに戸惑う。新しい原稿に向かうときにいつも覚える逡巡。

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2012.4.18 井の頭公園の桜【花筏】と【枝垂れの夕まぐれ】【花吹雪】の写真、そして、『源氏物語と鎌倉』にいただいたご感想

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華やかだった桜…。それがもうすっかり過去のことに。写真を撮ってはいましたがアップする時間がないまま終わって、でも、綺麗だった盛りの写真を載せておきますね。

『源氏物語と鎌倉』は新聞に書評を載せていただいたり、いろいろしていただいていますが、ツイッターでもこういうコメントをいただきました。ありがとうございます!

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「源氏物語と鎌倉」を読み終える。 現存しない紫式部による「源氏物語」―この写本をめぐる研究書は、まるで約800年前の京都~鎌倉で繰り広げられた人間ドラマを覗いたよう。 生死が近いこの時代、人の喜怒哀楽はとても深いだろう。それこそが文学に繋がるのなら、現代を生きる励みにもできる。

komai

「源氏物語」および「万葉集」の写本に人生を懸けた人達の話は、平清盛~鎌倉幕府6代将軍の時代を生きた多くの人々の激動の人生と重なっていた。 平家の話を「おごれるものもひさしからず」なんだなとか、「源氏物語」を日本最古の恋愛小説かとか、そんなくらいにしか理解していなかった自分…。

komai

源氏物語人気=雅への憧れ…だけではないことがわかる。それは鎌倉武士のバイブルでもあったということを知り、目から鱗。 江戸幕府の役職、奏者番を思い出す。 社会で生きるには、最高のマナーを知っておく必要があって、位の上の人ほど学ぶ必要に迫られていたのかな。 歴史が長い国は大変そう。

komai

やっぱり、江戸時代の武士らしい武士にとっては、鎌倉時代は憧れがあったろうなあって思う。でも、私が好きな田沼~化政時代の武士といえば、町人の「粋」を真似する風潮もあったそうで、武士らしさは「野暮」とされそう。いや、本当のカッコよさはそのどちらでもなくて、なんかありそう。。

komai 

写本とは、原本よりも価値が低くされるのでしょうが、その写本にまつわる時代背景と人の生き方がわかると、価値感がぐっと広がると知りました。 歴史ミステリーみたいな研究書でした。 『源氏物語と鎌倉ー「河内本源氏物語」に生きた人々ー』織田百合子著

★hmikann
綺麗です~・・。そして、ようやく頂いた本を拝読しております。読みやすいです。今、頼経室・竹御所と仙覚さんの所を読んでいます。二人の意思の強さに感銘を受けております。

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2012.4.18 ツイッターの呟きを転載…『フェルメールのカメラ』と「芸術家の肖像~写真で見る19,20世紀フランスの芸術家たち」展のこと

4月6日

ブレてしまいましたがこの写真、好き。アンセル・アダムスがたった一枚のシャッターチャンスで月光の下の村を撮った写真にあやかりブレないよう祈りながら撮ったのですが(笑)


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4月12日

『フェルメールのカメラ』(フィリップ・ステッドマン 鈴木光太郎訳)を借りてきました。まだ最初ですがフェルメールはカメラ・オブスクラを使っていたと。といっても今のように誰でも撮れる写真でなく当時写真を使うこと自体が最先端の芸術だった時代。フェルメールは時代の先を行ってたのですね。

先日テレビでフェルメールの青い色についてフェルメールは光が粒子でできているのを見ることができた人と。窓から差し込む光が青い衣装に反射して、その角度にある影にはよく見ると青い微粒子が混在して描かれていました。驚嘆する思いで見ていたのですが、カメラを駆使する人ならと今日納得です。

それにしても、今のカメラのことを「明るい部屋」というのは、カメラ・オブスクラが「暗い部屋」だからそう。ピンホールカメラ(針箱)のようです。ロラン・バルトの『明るい部屋』をママ読んだんでしょ、とは娘の言。読後はバイブルのように崇めても内容についてはいつもすっかり忘れてしまう私です。

4月18日
「芸術家の肖像~写真で見る19,20世紀フランスの芸術家たち」展@三鷹市美術ギャラリーに行きました。写真は図録と絵葉書数葉。絵葉書はすべての人が揃っている訳でなく、ちょっと残念…。でもこんな凄い写真が手に入るなんて…と。

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展示には写っている芸術家についての解説と、それを撮った写真家の解説が付されていて、写真家の解説の方が詳しい。美術書やテキストで馴染んだ有名な写真が生でみられるなんてとふしぎでした。写真家の解説も面白かったし珍しいのでそれに気をとられてしまいました。

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2012.4.17 最近の異常な空とその後の地震…13日の空→福島県沖M5.9を含む群発、16日水色の夜空→父島M5.3やニューギニア付近 M7.0

ここのところ異常な空が時々あります。今日は午後、八王子で凄い雷雨でした。天地がどうかなっている感じです。

●↓ 4月13日17時ころ、全天がこんな状況でした。これは大きな地震が間近に控えている空です。しかも、ある方向という部分でなく、全天…。何があるんだろうと気になって撮っていました。

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■以下、気象庁の発表から。福島県沖の群発が、M5規模が2つ、M4規模が軒並み。続いているあいだこれ以上の規模にならないようにと祈るしかありませんでした。これ以降も続いていますが、少し収まってほっとしています。

4月15日19時36分頃 福島県沖 M4.7
4月15日02時26分頃 福島県沖 M3.5
4月15日00時08分頃 福島県沖 M4.4
4月15日00時05分頃 福島県沖 M4.4
4月14日23時13分頃 福島県沖 M4.0
4月14日22時17分頃 福島県沖 M4.3
4月14日19時51分頃 福島県沖 M4.6
4月14日19時48分頃 福島県沖 M4.5
4月14日18時57分頃 福島県沖 M3.9
4月14日17時46分頃 福島県沖 M4.3
4月14日01時52分頃 福島県沖 M4.3
4月14日00時57分頃 福島県沖 M4.1 
4月14日00時26分頃 福島県沖 M4.4
4月13日23時53分頃 福島県沖 M4.2
4月13日21時52分頃 福島県沖 M3.6
4月13日21時15分頃 福島県沖 M3.4
4月13日21時12分頃 福島県沖 M5.2
4月13日20時04分頃 福島県沖 M4.0
4月13日19時33分頃 福島県沖 M4.1
4月13日19時16分頃 福島県沖 M4.5
4月13日19時10分頃 福島県沖 M5.9

■他に、大きなもので気になるのがこの2件。その他、茨城県沖、宮城県沖もたくさんでした。
4月14日18時25分頃 茨城県沖 M5.0
4月14日00時55分頃 三陸沖 M4.8

●↓ 4月16日深夜、ふと見た夜空が明るく水色っぽく見えてぎょっとしました。すぐに撮ろうとカメラを準備しているあいだ、あっという間に雲が広がって水色は南西低空だけに。みるみる広がる不穏な雲は南南東か南の発生でした。

深夜の透明感ある水色の空は、どういう科学的事情によるのかわかりませんが、翌日に大きな地震を控えています。低空だけですと海外のM7規模ですが、昨夜は天頂一帯全部でしたので緊張しました。それで撮ったのですが、みるみる広がる雲の速さには驚きました。

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↑二枚目の下の方、低空が水色がかっているのがわかっていただけるでしょうか。深夜のこの透明感ある水色の空は要注意です。昨夜はこれが全天に広がっていて、ふと窓の外を見たその一瞬だけでも、ん、青い?、とぎょっとしたのでした。結果は、以下です。

■気象庁発表より

4月17日14時54分頃 三宅島近海 M3.0
4月17日11時15分頃 父島近海 M5.3

4月17日16時14分頃 ニューギニア付近 M7.0

●↓ 17日(今日)、八王子にいたら凄い豪雨と雷に遭遇。その後中央線で帰宅する車窓から見たのがこの空です。南南東に巨大な積乱雲が発生して、それが広がっての雷雲だったのではないかと思います。伊豆諸島方向注意でしょうか。

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追記:
4月18日 ツイッターからの情報ですが、「14:37頃小笠原諸島方面でM5.4発生」

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2012.4.15 銀の鈴社社長西野真由美様がテレビ神奈川「にほんごであいらぶゆう」で『源氏物語と鎌倉』について語ってくださいました→YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=VAnisYZ1nFE&context=C4825d53ADvjVQa1PpcFPTGsUWBJEJidoNcs44WN1FUDVZq2ArZPs=

銀の鈴社さまは鎌倉にある出版社。西野様のお祖父様は山口正様という万葉集の研究者でいらして、それで私の仙覚の『万葉集』、光行の『源氏物語』、の話にご理解くださって、売れるはずのない学術書の『源氏物語と鎌倉』を刊行してくださいました。

そして、のみならず、一生懸命ご自分でも理解に努めてくださって、鎌倉ロータリークラブでお話してくださったり、こうしてテレビで紹介してくださったりしています。これは大切なことなのだから、長い時間をかけてでも普及させていくとの強い信念のもとに。

私は大変な出版社さまと巡り合ったのだと日々実感しています。

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2012.4.15 ツイッターの呟きを転載(4)・・・YouTubeに【井の頭公園の桜 2009】をアップしました

http://www.youtube.com/watch?v=8lK098oWQr8&context=C4d8ecbdADvjVQa1PpcFPTGsUWBJEJic7se9puEJKp9hEjQ_WYWeQ=

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