2021.3.2 【華鏡】は後撰和歌集の編纂の項にかかっています。

今まで【華鏡 一】としていましたが 【華鏡一 仙覚以前】【華鏡二 仙覚の生涯】にしようという明確な枠組みが見えてきて 目下その【華鏡一 仙覚以前】の第一章「華の後宮 醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」の 1.2.3.4.まで終わって 「5.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』」にかかっています

以下、ツイッターから転載させて頂きます

**************************************

 

3月1日

おはようございます という時間ではないけれど未明に寝たから起きたのが遅く朝の用が済んだらこんな時間 今日はこちらを 『文華秀麗集』 届いたまま開封してなくて やっと本体を出しました まだ箱から出してなくて どんな世界が広がるか楽しみ 世界は広いですね!

 

源順と勤子内親王の関係は嵯峨天皇皇子の定の家系なのだけれど 定の子の至が順に 定の子の唱が勤子内親王に繋がる 勤子内親王って 源高明と姉弟なんですね だから順は高明と親しく… など ちょっと整理したい心境(順の周辺が見えてきて深まっています)

 

三月一日の朧月夜 (本当言うと少し日付が変わっていますが) 綺麗です

 

3月2日

おはようございます 写真は去年のミモザ 今年は見逃しましたが井の頭公園近くで咲いているのを見ました 原稿は後撰和歌集撰集にかかっています この勅撰集 撰者が一首も採られてなく 後宮の方々の歌もない あったら面白いのにと期待していたのですが これら選歌方針から後宮の方々が読むために

 

作られたのではないかというご論考 村上天皇の後宮は 徽子女王が斎宮女御集を残すなど才媛揃いですが 徽子女王が入内する前から歌は切磋琢磨されてました 和歌所が梨壺という後宮内に設けられたのもその意味があるのではと 梨壺って中宮安子のいたところなんですよね 安子は後撰和歌集で歌の多い

 

師輔の娘です なんか 安子が重要人物では? という気が萌していて これから大鏡で師輔を読みます 原稿が村上天皇の後宮と源氏物語の関係が主題になって私自身の迷いもすっかりなくなりました 少し前まで鎌倉の源氏物語に関わった15年のあいだに失ったものは大きいなど恨みがましく呟いてました

 

後撰和歌集には 師輔の歌壇と 兼輔の歌壇があります 師輔は源順に『和名類聚抄』を作らせた勤子内親王と密通して降嫁させたほどの文化人 兼輔は堤中納言と呼ばれる文化人で紫式部の曽祖父 紫式部の祖父雅正の歌が入集しているのもこの歌壇の人だから 師輔と安子の線で撰集の動きが書けるのでは?

 

源高明が勤子内親王の同母弟で 内親王は高明邸に住んでいらしたそう そこは大納言定が買い取って南北二町にし たもの 風流な邸宅だったよう 定ー唱ー近江更衣周子ー高明と継承されたのでしょう 師輔との密通はここでしょうか 四条北、朱雀西だそうです 高明は光源氏のモデルの一人らしいけど私にはまだ

 

大鏡 師輔の項を読んだのですが僅か何行とかの少なさ 解説を読んだら温和で人柄がいいから奇行がなく書くことがないからだと ちょっとびっくり 私的にはいっぱいあるのにと 娘の村上天皇中宮安子は 最初は弘徽殿女御的奇行が書かれ 別項で女房らに気を配る素晴らしい中宮と まるで別人でこれも

 

びっくり そして 素晴らしい評価の中に歌など雅にも気を配った人とありました 安子の後撰和歌集への関与 書いていいかも それから高明親王の安和の変が書かれている項があったので読みました 左遷 大変だったんですね 高明親王が力を得ると源姓の勢力になるから藤原氏方に左遷させられたと

 

それが光源氏の須磨流謫になるのでしょうけれど 私が今まだ整理つかないでいるのは 源順が高明親王と竹馬の友的親戚関係で親しく(たぶん 乳母子的存在) それで安和の変で順も困窮しますが 順を紫式部がどう見ていたか まだ全然絞れていません

|

2021.2.23 ツイッターから転載…【華鏡】第一章「華の後宮」は、「五.梨壺の五人」にかかりました(目次を更新しました)

2月21日

原稿が以前に書いていたところに戻ってほぼ推敲で進んでいるから 楽しい 前に書いていたときはなにか物足らなくて不満でしたが 冒頭に嵯峨の山荘・融から 続いて勤子内親王から藤壺の話を入れたら薄っぺらさがなくなって充実 あとは目次どおりに進んでいきます

 

何日ぶりだろうこの寛ぎ もしかしたら1日か2日くらいの周期かもしれないけど 原稿が一山越えた時の寛ぎは 越えるまでの疲労困憊感で一週間ぶりくらいに思える その繰り返しでした たぶんもうそういう山はないと思うから 今はほんとうの寛ぎかもしれません

 

紫式部の祖母は村上天皇の後撰和歌集も生き証人的に同時代を生きてるんですね さっき前に書いた原稿に戻ったから推敲だけで楽しく進む なんて呟いてしまいましたが 前#は紫式部の祖母が視野に入ってなかったから一面的で 目下両面になるべく整合中です 紫式部は梅枝巻で古万葉集について書いて それは

 

源順が梨壺の五人を命じられたときの詞書にある古万葉集と響き合うものとして その辺りを詰めていこうかと思う 後撰和歌集で一項目 梨壺の五人の万葉集訓点作業で一項目 と思っていましたが 一つにまとめていいかも 話は変わりますが 徽子女王の娘規子内親王と紫式部の父は同年生まれなんですね

 

古万葉集って 万葉集とは別にあるものと思っていたら 仮名で訓点をつけた新しい形の万葉集が流布したから 区別して 万葉仮名だけのもともとの万葉集を古万葉集といったそう その万葉仮名だけの万葉集に訓点をつけたのが源順ら梨壺の五人なんですよね

 

とこんなふうに呟きながらメインをどこに持っていくか 構想を練っています

 

大事なことを忘れていました 梨壺の五人を統括する別当が伊尹で 紫式部の祖母は伊尹に嫁いだ姪の恵子女王を助けて女房として伊尹家に仕えています これをどうにか生かして書く線が正しいかも

 

久しぶりにblogを更新しました 勤子内親王の項を書き上げ 昨夜から梨壺の五人について書きそうな展開になっているので その節目に ほんと 久しぶりの万葉集です なんか 嬉しい

 

前に書いていた原稿に戻ってたんたんと推敲していけばいいと思っていたのが 紫式部の祖母の件にまだ気づいていない段階の原稿は薄っぺらでどうしよう~といった感じでした 気づいて 年譜を見直したら紫式部が『源氏物語』に古万葉集と記しているのを思い出し そこからの展開です

 

『源氏物語』梅枝巻より:嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜帝の、古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緂の唐組の紐などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる←明石の姫君の入内に備えてです

 

小川靖彦先生『萬葉学史の研究』にここのところの詳細なご考察があります 万葉集は全20巻だから それを書写するのも保管するのも大変 なので抄本にして(ここでは4巻)調度としてちょうどいいように作ったのが万葉集の新しい需要のかたちになったと(うろ覚えの知識ですみませんが)

 

なんか 昨日まで悲痛な思いで斎宮女御徽子さんをしていたのに ひと晩あけたらすっかり万葉集 でもこれが仙覚さんの小説の本来のかたちなのです笑

 

目次更新

第一章 華の後宮 ―醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代

      一.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

      二.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』

      三.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

      四.梨壺の五人 ―村上天皇『後撰和歌集』と『万葉集』訓点作業

      五.華の歌合 ―村上天皇「天徳内裏歌合」

      六.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻

      七.白の表白 ―藤原公任『和漢朗詠集』

*三「琴の音」が終わり、四「梨壺の五人」に入ったところです

 

2月23日

おはようございます 終わったとした琴の音の項に 斎宮が伊勢に出発する際に天皇から額に黄楊の小櫛を挿して呼んでもらう別れの儀式を追加しました 煩瑣になるから儀式儀礼は省略していたのですが この時天皇の発する都のかたにおもむきたまふなの文言がこの項の最後と呼応すけわる気がして

 

源氏物語では賢木巻に六条御息所娘に朱雀帝から挿して頂いています

 

斎王って酷な制度ですね 物凄い経費もかかるから鎌倉か室町あたりで自然消滅したようです 白河天皇ではまだあって 白河天皇の皇女も斎王に 天皇のお気に入りの皇女で この方は無事に帰京されて白河天皇と仲睦まじく暮らされます

 

徽子女王は十歳で両親から引き離されて一人伊勢に下り 母寛子さんの死で任務を解き放されて帰京 十七歳になっていました 十歳のこの時が母寛子さんとの永遠の別れになったのです 華鏡では帰京した徽子女王が寛子さんの一周忌が執り行われた棲霞寺で寛子さんを思い出して泣き崩れるシーンで終えました

 

この後二十歳で徽子女王は村上天皇に入内して女御になります 神の聖域の人から愛憎渦巻く後宮の人に そこに村上天皇院宣による『後撰和歌集』と『万葉集』の訓点作業の梨壺の五人 その一人に源順がいて徽子女王を守っていく…… 書いていて 自分でも凄い世界だなあと その梨壺の五人の項に入っています

 

|

2021.2.22 ツイッターから転載…【華鏡】第一章「華の後宮」、勤子内親王と藤壺の関係の項を書き終わりました

昨年一月ころから仙覚さんの小説の見直しを始め、ウンベルト・エーコ『小説の森散策』からネルヴァル『シルヴィ』の分析を学び、人称と時制の書き方を追求しました。そうして書き始めたころ、世の中がコロナ禍で不穏になり、そして一月末にNHK大河「鎌倉殿の13人」の発表。

これは仙覚さんの小説と登場人物も時代もまったく重なりますから、それまで書いていた従来の時代小説的書き方ではダメだとなり、三谷幸喜さんの脚本の指向の発表を待っていました。

夏の終わりだったか、それが発表され、やはり私がそれまで書いていた小説とぴったり重なるので徹底的に方向転換をしなければならないと決意したのでした。

それで新しく書き始めた今の形態がそれです。三谷幸喜さんは武士の世界の鎌倉だから、私は文化・芸術の世界の鎌倉にする! との志向です。なぜなら、仙覚さんは万葉集の学者さんなのだから。

それで、仙覚さんが信奉した二条天皇の万葉集に遡り、二条天皇がなぜそういう万葉集を作ったかの解明をはかって白河天皇の時代に至り、白河天皇の万葉集がなぜできたかを探ったら醍醐天皇の古今和歌集に至ったので、再出発の【華鏡】は醍醐天皇の『古今和歌集』から始めました。

今はその皇子、村上天皇の時代にかかって書いていますが、それは村上天皇が源順ら梨壺の五人に『万葉集』に訓点をつける作業を命じたからです。昨夜から、やっと、原稿がその梨壺の五人にさしかかってきました。

ですので、総括として、勤子内親王の項を終えて万感の思いがした辺りのTwitterを転載させて頂きます。

************************************

 

2月20日

おはようございます 未明に起きてずっと入力しています 源順と勤子内親王ははとこどうしなのですが その関係で『和名類聚抄』の編纂が命じられたところまで終わりました 勤子内親王が寛子さんの弟の師輔と密通して降嫁してからの編纂ですから重明親王は順の仕事の最初から見ていたことになるとしました

 

今日は集中してできそうなのでこのまま続けます

 

勤子内親王の項 書き終わりました 久しぶりに全力投球できました

 

大坂なおみさんが優勝されたそうですね 快挙! 会長の辞任も見届けたし 思い残すことはないからといった心境で原稿に没入していました 長い長いトンネルを抜けました 融のことと勤子内親王の件がネックになって先を塞いでいたんですね きれいにクリアしてもとに書いてあった原稿のところに戻りました

 

脇目もふらずに書けるようになりたい と それだけの一心でコロナ禍のこの一年を過ごしました 信じてはいたけど ほんとうにここに到達するなんて何年かかるか と内心疑っていました 到達してみるとあっけらかんとした世界 見事にクリアな世界です まだ第一章村上天皇の時代は先が長いですが 頑張ります

 

今日打った原稿を印字して二階に上がってきました 私は印字しないと推敲できない 二階の小さなPCはプリンターに繋いでないので印字できない で しばらく階下と二階を行ったり来たりになります 原稿は融と勤子内親王問題が起きる前までに取り組んでいたところだから 戻れて久しぶり感 70枚になりました

 

印字した原稿を見ていたら 伊勢から徽子女王が戻った翌年に寛子の一周忌が棲霞寺で行われていることを書いていない 前にこの辺りを書いていて棲霞寺に行き着き 融問題になったわけだから書いてないのは当たり前だけれど 原稿って こんなふうに表面的な流れから深層の部分解明へとなって進むのですね

 

母寛子の死で斎宮の任を解かれて帰京した徽子女王 亡くなってもすぐには帰れず遠く偲んでいるしかなかった徽子女王が 幼いころに寛子ともよく過ごした棲霞寺の一周忌で母の死を初めて実感する ということを書かなければ と思っていたのを思い出しました 辛い章 どう書いたらいいのか

 

2月21日

おはようございます という時間ではないけど一日の区切りとして 昨夜徽子女王を見直していたら 寛子さんの一周忌を重明親王が棲霞寺で行った というのを読んで 棲霞寺って? となったのが源融について調べることになった始まりだったと思い出しました 棲霞寺が清凉寺境内の阿弥陀堂が跡地 とか

 

それから知って 融がすべての原点と理解し 原稿が進んだのでした 穏子が基経の娘と昨夜読んで あの融が天皇になるのを阻んだ人の娘だったんだ~と 融を知らなかったときはただ村上天皇が慕う母 だったんですよね 知識があるとないとではこんなに理解が違う という楽しみをしました

 

RTさせて頂いた高山寺様の雪中の梅 ちょうど【華鏡】第三章「琴の音」を完了して 棲霞寺の雪中の梅に始まり 棲霞寺の雪中の梅 で完にしたのでタイムリー過ぎて不思議でした 斎宮女御徽子女王の斎王時代を描ききったと思います 最後 棲霞寺で泣き崩れましたと書き終えて自分で茫然となりました

 

これから徽子女王の村上天皇女御時代にかかります

|

2021.2.17 醍醐天皇皇女の勤子内親王は、『源氏物語』の藤壺のモデルでは?

しばらくご無沙汰しておりました 原稿は詰まったり進んだりで特にご報告するようなこともなかったのですが 突然 【華鏡】の核心にもなるだろう本質が見えてきて これを書いておかなくてはとblogに戻ってきました ここが書けたら【華鏡】は成功 というくらいの感触です

『源氏物語』には多くの女主人公が登場しますが ほとんどの方のモデルは想定できるのに 今まで藤壺だけは不明で それが謎でした が 徽子女王に忠誠を誓う源順に その順が二十歳くらいのときに『和名類聚抄』という日本で最初の字典を編纂させた勤子内親王という方がいて 順の説明にちらっと勤子内親王について調べて入れようとしたら ん? これって 藤壺? という疑念が浮かび上がりました 以下 Twitterに呟いていますので 経緯としてそれを転載します

*************************************

2月15日

おはようございます やっと原稿が動き出しました 勤子内親王で詰まってたみたいです (早く先を進ませたくてスルーしてました) 昨日見たYouTube 京都市立造形大学の琴譜オンライン講座が展開を広めてくれました 棲霞寺の項 完成させたと思ってたのに勤子内親王の件でふたたび逆戻り でもやっとこれで完結かな笑

 

最初は源順に和名類聚抄の編纂を命じた人としてしか認識なかった勤子内親王 醍醐天皇皇女で天皇から箏を伝授されたとウィキに 探したご論考では絵に堪能で秋好中宮のモデルと そんなふうに深まっていったら それほどの方を紫式部が単に秋好中宮のモデルだけで済ませているはずない気がしてきました

 

この方 内親王の身分で師輔と密通していられるんですよね 皇女で密通といえば藤壺 以前から藤壺のモデルは誰かしらとずっと疑問でしたが 勤子内親王が相当するかもしれないと思いはじめました 原稿はその線で進めます ウィキには女四の宮と称されたとあり 藤壺も見たら なんと 四の宮でした

 

源順が『和名類聚抄』序に 「淑姿花のごとし」とわざわざ記載したような美しい方だったようです

 

勤子内親王の件 『和名類聚抄』の編纂を命じるような教養人だった内親王 学問・教養は紫式部が自分こそはと自負する分野です それを凌ぐような女性がいたら紫式部は絶対意識すると思いました 敬服としてそしてライバル心からも それならその人を書くには藤壺? の思いが萌したのが最初です

 

2月16日

終日紫式部にとって藤壺って何なのだろうと そればかりを考えていました モデル論を詳しく見たわけでないからわからないけど彰子というのは違うと思う これだけ重要人物なのにモデルがはっきりしないのは 紫式部があえて隠蔽しているのではないかという気がして では何をそんなに隠すことがあるのかと

 

久しぶりに中孝介「恋」を聞きました アニメ「源氏物語千年紀Genji」の主題歌です 出﨑統監督はあのアニメで紫の上を無視された 藤壺一本槍の王道で通された それくらい藤壺は重要なんです なのに紫式部にとって藤壺とは のご論にあまり接していないような 勤子内親王から藤壺に思いがいき 華鏡ここに極まれり の心境です ここがたぶん核心 筆力を試されるところと思います だから もう とにかく 紫式部にとって藤壺とは を書き切るよう取り組んでみます

 

万葉集の梨壺の五人が訓点作業をしたのが広幡御息所の要請で ということから村上天皇の後宮に入り 女御更衣を見ていったら源氏物語の姫君のモデルと一目瞭然でわかる人満載 中宮安子は弘徽殿の女御 斎宮女御徽子は六条御息所 女御芳子は女三宮 登子は朧月夜 明石の上は徽子さんですね 通説と違うかも

 

知れないけど作家としての私の勘です なのに不思議と藤壺のモデルが出て来ない 不思議だなあと思っていました 一般に彰子と言われているらしいけど 彰子に密通させますか! 彰子さんのイメージは正反対の極にいます 私にはですが でもこれだけ秘している藤壺 そこに作家としての紫式部の本意があると私は

 

思います 一見してわかるモデルの人たちは表層次元で それは紫式部にとって本質でないから物語として自由に書ける 書いてわかってもらって楽しんで貰えばいい でも 本質の部分は人には見せない 作家ってそういうものだと思うんです 見えない本質が下で支えているから上に乗っている表層が生きてきます

 

なんか そんなところの紫式部論を書きたくなってしまいました でも脇に逸れてる余裕はないから 華鏡の中で書きます

 

何が何でも勤子内親王に結びつけようとするわけではないのですが 紫式部が祖母から勤子内親王のことを聞き知っていたら 和名類聚抄を編纂させた皇女 というのは琴線に触れたはず で 藤壺と並べてみたら 二人共に女四の宮で 勤子内親王は7歳まで母子二人の生活 藤壺も先帝亡きあとの母子二人生活 密通した光源氏と師輔は

 

共に5歳年下 藤壺は37歳で勤子内親王は35歳と違うけど若く病没 生涯が重なります 私が思うに例え紫式部といえど勤子内親王には歯が立たない なにしろ和名類聚抄を編纂させているのだから その辺りが一目瞭然のモデル化を隠蔽した理由でしょうか 身分が低くても自負する分野での負けは認めたくないから

 

勤子内親王の教養世界を調べます(京都市立造形大学のオンライン講座の琴譜にヒントを頂きました)

|

2021.2.3 立春の日に! 光源氏のモデルといわれる源融を探っていたら、紫式部がなぜ『源氏物語』を書いたか、の真意が見えてきました


以前からずっと 学生時代からですが 紫式部は藤原道長に仕え 仕えているからこそ『源氏物語』を書けたのに どうして光源氏という臣籍降下させられた 藤原氏に対抗するような人物の物語を書いたのだろう というのが謎でした ずっと気になっていて それがほんとうに頭から離れませんでした それが 解けたのです モデルの一人といわれている源融という人を追って調べていたら

源融は嵯峨天皇の皇子です 臣籍降下して源姓になりました 河原院という広大な敷地の邸宅に 塩竈の風景を模した庭園を造り 実際に海水を運んで塩焼きをしたなど伝承の風流人です その河原院が『源氏物語』夕顔巻の光源氏が夕顔を連れていって頓死させた屋敷のモデルになったといわれています そのことから融が光源氏のモデルといわれるようになったとか

ですが 私には紫式部がたったそんな河原院ごときの事象で融を光源氏のモデルにしたとはどうしても思えないでいました では なぜ 融を光源氏に見立てたのか

それを知りたくてずっといろいろ読んでいたのですが なかなか核心に触れるご論に辿り着けなくて ずっと検索したり読んだりをしていたのです 原稿を中断して

その原稿というのが 徽子女王の父重明親王が嵯峨の棲霞寺を訪ねる段で それは源融の山荘だったところを寺院にしたのが棲霞寺なのでした 重明親王は融の曾孫なのです だから棲霞寺は重明親王には氏寺です

棲霞寺を書いていて 棲霞寺の本尊である阿弥陀三尊像に辿り着きました 中央の阿弥陀如来坐像は源融が生前に自分の顔を模して造らせたのが間に合わず 一周忌に子息の昇たちが完成させたみ仏です

勢至・観音の脇侍坐像は 昇たち子息が造りました

この勢至・観音脇侍坐像の写真を見たとき 立派な仏像! と魅入られながら違和感を覚えたのですが それが宝冠にあったんですね 勢至・観音菩薩なのに 宝冠を冠っていられるんです しかも坐像

ふつう 私たちが見慣れた勢至・観音菩薩の脇侍像って 来迎図にあるような宝冠をかぶらない髪型の立姿で造られてますよね 直感で もしかして密教の仏様たち? と思いました

それで気がついたのですが 源融は嵯峨天皇の皇子 嵯峨天皇といえば空海です

それで空海の年譜に源融の年譜を重ね合わせて見ました そうしたら源融は空海が嵯峨天皇から東寺を賜った前年に生まれ 空海が東寺講堂に立体曼荼羅を造り それが完成した時 融は18歳です 融は東寺講堂の立体曼荼羅造立の文化的に高揚した時代に思春期を過ごしているんですね

東寺講堂に行ったときに買った絵葉書を出して 棲霞寺の阿弥陀三尊像の写真と並べたら 一目瞭然 似ていました 阿弥陀如来坐像は定印を結んでいますし 勢至・観音菩薩像がそれを模して造ったかのような宝冠の菩薩坐像があります

密教系の阿弥陀三尊像はこの棲霞寺の三尊像と 仁和寺の三尊像が先駆らしいのですが 仁和寺の三尊像が前代の阿弥陀三尊像ふうなのに比して 棲霞寺の三尊像は明らかに東寺講堂ふうです

ここに私は源融の意志というか 思想を見ました 相当に凛々しい思想の持主ではないかと それで源融その人を調べていったら 大変な実力者で 政治的にも優れ 左大臣にまで昇りつめるのですが ある時期から藤原基経に疎外されます

基経は藤原氏全盛の時代をもたらしたそもそもの人で 基経ー忠平ー兼家ー道長 と続く家系の原点の人です そして その全盛時代を築いた原点が「源融の前途を阻んだこと」なのでした

つまり 源融は藤原氏の長である基経により 前途を阻止されたのでした

この事が胸につかえて 1日くらい経って気づきました これは 紫式部の父が花山天皇に仕えて蔵人にまで昇りつめ 一家が栄えようとした矢先に 兼家によって花山天皇が引き摺り下ろされ 紫式部の父為時がそこから受領階級になっていった その疎外と同じではないかと

紫式部が源融をモデルにして書きたかった原点はこれだ! と思いました 藤原氏に疎外された融 それを光源氏に投影させたのと

単に河原院のモデルだからという表層的なことでなく 藤原氏によって人生を潰された人 紫式部一家の自分たちをも含めて その人たちの精神的慰謝を図るために ある意味 現実では叶わない復讐の思いも込めて 紫式部は光源氏を書いたと 私はそう結論づけました 『源氏物語』は紫式部の復讐心の昇華です

紫式部の核心に辿り着きましたので 書き始めます

ちょうど今日は立春 素敵な滑り出しになりました

原稿が一段落するまで このblogもしばらくお休みします 再開を目指して頑張らせて頂きます

|

2021.1.30 重明親王邸宅の東三条殿は、のちに兼家のものになって、そこで一条天皇がうまれたり、一条天皇中宮の定子がそこから入内したなどの舞台となる歴史のところでした

おはようございます 【華鏡】第一章「華の後宮ー醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」の第二段「嵯峨の山荘・棲霞寺ー紫式部『源氏物語』」を書き始めています 重明親王が曾孫となる源融について書くわけですが 徽子女王が八歳で斎王に卜定される前の小さな時代になります

それで小さな徽子女王を登場させて書いていて 東三条殿問題に遭遇しました

偶然だったのですが 『源氏物語図典』の東三条殿のカラフルな想像図が目に入って 「兼家が新造して藤原氏の中心的な邸宅になった。それまではあまり重要な邸宅ではなかった」とあり えっ? となったのでした

それまで重明親王の邸宅としか意識してなかったから 東三条殿ってなんとなく耳にした名称だなあ という気がしていたものの 藤原氏の邸宅 というところに引っかかったのです

結論を列挙します

東三条殿は藤原北家の全盛期を築いた良房の家でした それを代々の藤原氏の氏長者が継承したんですね 孫の忠平の代になって忠平が娘の寛子が結婚した重明親王夫妻に住まわせたようです

寛子が亡くなり 重明親王も世を去ったあと 氏長者は寛子の兄弟の師輔になっていますから 東三条殿は師輔が継ぎ 師輔の子の兼家が継いで大きくした

と こういう流れのようです

兼家が新造した寝殿造の邸宅は 兼家が入内させた娘たちの里第になり 次女の詮子はここで一条天皇を産みます 道長の姉です

兼家のあと 道長の兄道隆が継ぎ 一条天皇中宮の定子はここから入内しました

と こう歴史を追っていくと 徽子女王は 『枕草子』を書いた清少納言の仕えた定子の家に 『源氏物語』を書いた紫式部が仕えた彰子が中宮の一条天皇が生まれた家に 生まれ育っているのですね

なにか 東三条殿の場の力みたいなものが 徽子女王には染みついているのだというような 不思議な感慨にうたれました

|

2021.1.28 紫式部の祖母は師輔長男の伊尹家に女房として出仕していました、というのが昨日の発見です

おはようございます 徽子女王を書いていく中で『源氏物語』が浮かびあがり 徽子女王が末裔の源融を書いたら融が光源氏のモデルの原点 ということで またしても『源氏物語』が無視できなくなって もしかして紫式部には徽子女王に対する特別な配慮というか関心があるのでは? という気がして そんなことを昨日考えていました

紫式部と徽子女王を繋ぐのに 紫式部の祖母が徽子女王について紫式部に語ったことになりますから その祖母がどんな風に徽子女王家と関わったかを調べていったのです

そうしたら 紫式部の祖母はただの祖母でなく 紫式部を引き取って育てる前は 師輔長男の伊尹家に女房として出仕していたのでした 師輔は徽子女王のお母さん寛子の兄弟です

以下、昨日のTwitterの記事を転載します 

******************************

blogに昨日からの呟きを転載しました なぜ徽子女王を辿って行ったら紫式部の『源氏物語』がどう書かれたか が見えてきたかが不思議で それはずっと感じていたのですが 源融に至って そもそもの始まりから徽子女王が関係してる? と驚いたのでした きっとここに何かあります 今日いっぱいそれを詰めます

ふいに 絶唱 の言葉が浮かんで そういえばこの言葉の正確な意味を知らなかったと検索したら この上なく優れた詩歌 とありました

また 表白 の語が浮かんで調べたら 言葉や文章にして述べることと 白の表白 なんていいかな と(第一章のタイトル名を変えそうになってきています)

こうならなければ嘘 の「こう」の地平に辿り着いたようです

ようやく紫式部の祖母と重明親王家の繋がりが見えてきた気が 定方娘の祖母は 早世した姉の子の子供達と一緒に育ちますが その一人が荘子女王 そして公任の母になるのが厳子女王 もう一人長姉の恵子女王がいて 恵子女王が師輔の長男伊尹に嫁ぎます この伊尹家に祖母は女房として入っているんです その

時期がいつかがわからないのですが 祖母自身の出産とか考慮すると荘子女王入内後以降かと するとそれは梨壺の五人の時代で 伊尹はその別当 さらに 伊尹は重明親王夫人で徽子女王母の寛子さんの兄 寛子さんも もしかして重明親王とも没後の出仕かもしれませんが 祖母は伊尹家で村上天皇最盛期を見てます

紫式部が生まれた時 祖母は50歳くらい もう女房を退いていたでしょうし 母を亡くした紫式部を引き取って育てる余裕があったでしょう そうした中で 伊尹家で見聞きした村上天皇後宮の話を紫式部に自分の実体験だから懐かしさも自慢もあってリアルに話せたでしょうね 荘子女王からの伝聞だけではなかった

もう なんか 祖母がこう言ってました みたいな 話者が紫式部の人称で書きたいくらい笑 それは憚られるので苦心して工夫しますが

ウィキ情報ですが 伊尹って安和の変の源高明失脚を陰で目論んだ人とか 大変な実力者だったんですね 紫式部の祖母は大変な家に出仕してました

祖母というと 陽だまりで孫と遊ぶおばあちゃん みたいなイメージになってしまってましたが この時代の女性力を侮ってはいけませんでした

毎日書こうとしている内容の確認をする度に視野が広まって昨日あのまま書き進めなくてよかった と思う 今日の収穫はその最たるものでした 暮れに目次を作った頃は祖母を話者にして紫式部について語らせようとしたのに 今日の進展で紫式部に祖母を語らせたい転換 こうやって舞台が固まっていきます

でも そろそろ実作に入ります 日中 おさらいをと思って予定していた本を繰ったら 自分の視点と離れていて もうおさらいをしている場合でないと痛感 それで自分なりに系図をノートにとっていったら祖母の出仕に辿り着いたのでした

問題は祖母がいつ伊尹家に出仕したかです 恵子女王と祖母は同年代 恵子女王の結婚と同時に身内として付き添ったなら伊尹妹の寛子さん逝去に間に合うから会うチャンスが もしそうなら 為時が殿上童として天徳内裏歌合に出仕したのは荘子女王の推挙でなく 母親たる祖母その人の力によるものだったことに

祖母に伊尹家で寛子さんを会わせて その印象を思い出話として紫式部に語らせたい との思いで祖母の年譜を作ったのでした

世尊寺の月 って素敵ですね 月岡芳年『月百姿』の藤原義孝です 伊尹の三男で恵子女王との子 大鏡で容姿が絶賛されているそう 行成のお父さんです

|

2021.1.27 紫式部の祖母の人生を醍醐天皇からの時代に重ねる年表を作ったら、『源氏物語』の構造と一致しました

おはようございます 昨日【華鏡】第一章「華の後宮 ―醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」の目次が整ってこのblogにアップしたら それから深まって 思いがけずこの原稿の核心に辿り着いた興奮をしています それは 紫式部が『源氏物語』をどう書いたか の本質部分です もう少ししたらまとめられると思いますが まだ途中です 興奮に至る経緯をTwitterに呟いていますので それを転載させていただいただきます

*************************************

1月26日

blogにようやく整った【華鏡】第一章の目次を載せました 白河天皇の斎宮女御道子さんから徽子女王に入り 六条御息所のモデルというあたりから『源氏物語』の影がちらつき始めて そうしたらとうとう紫式部の『源氏物語』がメインに底流する章になってしまいました 隠れているものは隠れきれないんですね

 

不思議なのだけれど 【華鏡】第一章の隠れたテーマが『源氏物語』が書かれていく過程だったことに気がついた最初が徽子女王と六条御息所の関係 その時はまだ徽子女王の時代にまだ源氏物語は書かれてませんでした と綴った ではいつ頃書かれたのかしらと調べてたった50年後だったことに驚いたのでした

 

いづれの御時にだから200年位は前の時代とばかり思ってました そしていろいろわかってきて でもまだ源融の光源氏モデル説を無視しようとしていたのに 重明親王が棲霞寺で法要を催すので調べたら親王は融の曾孫 そこでやっと融を光源氏のモデルの一人と受けいれる境地になったら 光源氏のモデルなら

 

徽子女王の少女時代からもう紫式部の源氏物語執筆過程が背後にあったのだと なぜこうも徽子女王にだけ拘ったのに紫式部がついて離れないのか それが不思議で気になっています

 

私が知らないだけかも知れませんが 徽子女王の源氏物語のモデル説って六条後息所とか斎宮女御 でも もしかして実人生で紫式部は他のどんな女性よりも徽子女王を意識していたのでは? などという気がしています たしか紫式部を育てた祖母は醍醐天皇といとこ 重明親王家のことはそう遠くない話です

 

女性って(私もそうだから笑)一番近寄りがたく思うほど敬意を持っている女性についてほど人に語らない そっと自分だけの世界にとどめて大切にします 紫式部にとって徽子女王がそういう人ではなかったかと そんな気がするのですが 迂闊に語れない人みたいな

 

その表れが 明石上の白い装束だった とか… ここのところ 詰めてみます

 

源融光源氏モデル説で始める段だから そこに紫式部は醍醐天皇の母を叔母に持つ祖母に育てられたから醍醐村上宮廷が身近だったと入れて説明しようとしていたのですが 重明親王家について格別な関心を寄せていたと その角度から解いていくことにすればいい と 今 展開しました 紫式部の視点は徽子女王に

 

そうっか 紫式部に重明親王夫人の寛子さんを語らせれば その兄実頼が公任の祖父 というのも もうここで登場させられますね なんか興奮してきました まったく新しい展開になりそう(停滞してたのは私事がわさわさしてるからでなく ありきたりのモデル説に抵抗あったから だったみたい笑)

 

醍醐天皇から紫式部が源氏物語を書いた時代まで 通しの年表を作ったら 紫式部が生まれるまでに華鏡で書いている大方の事件は終わっていて 母を亡くした紫式部を母親代わりに育てた祖母は それら事件をリアルタイムに見たり聞いたりして知っている 紫式部が越前に行く時の祖母の年齢を73歳位として換算

 

徽子女王の伊勢斎宮群行から入内 荘子女王の入内 村上天皇の即位から崩御 重明親王夫人寛子さんの死去 重明親王の薨去 などなど全部同時代に生きた人で その後生まれた紫式部に全部語ってあげられる人です たぶん徽子女王の伊勢群行を十代で見物してる

 

10歳の徽子女王が伊勢に下る群行の時 その頃紫式部の祖母は結婚してるから 堤中納言邸にいたとして 京極まで出る群行の行列を祖母は見物に出たかどうか もしかして紫式部の伯父の為頼を懐妊中 紫式部は祖母からそういう話を聞いていたとしたら 徽子女王の人間観察もできていたでしょうね

 

1月27日

おはようございます 醍醐天皇からの紫式部の祖母年譜を作ったら 源氏物語の構造が祖母の人生と重なることが鮮明に これから斎藤正昭氏『紫式部伝』で細部を詰めていくのですが ざっと見た構造は 源氏物語桐壺更衣は醍醐天皇期 これは祖母にとっても伝聞だから肉薄していない 源氏物語が肉薄するのは

 

村上天皇期で これは祖母にとっての実体験 女御の荘子女王は母を失って母の実家に引き取られて育ちますが その母の妹が紫式部の祖母 荘子女王7歳と祖母14歳で同居します つまり二人は姉妹同然に暮らしたのです この仲良し関係は荘子女王が入内しても続いたでしょう だから天徳内裏歌合に祖母の子為時が

 

童として出仕できた 紫式部が生まれる数年前に安和の変が起きて高明が流される こうしたことは全部祖母が見ていて 紫式部を育てながらリアルに語ったでしょう これが源氏物語の肉薄性 紫式部は祖母と一緒に荘子女王に会って話していたと思います その時はもう荘子女王は村上天皇の崩御で出家してました

 

これから 紫式部の祖母の重明親王家との関係に絞って見ていきます どうしても源氏物語には紫式部の徽子女王観が通底していると感じるからです

 

それが私に徽子女王を書かせた源氏物語の意図だった気がして

 

荘子女王ー具平親王系は世俗的 重明親王ー徽子女王系は崇高 精神的には徽子女王系に惹かれてもそれは面白い小説にならないし 徽子女王を称えるのは荘子女王の手前憚られるから源氏物語で徽子女王が表立ったメインに書かれなかったのでしょう とはこれまで徽子女王を書いてきた私の勘です

|

2021.1.26 【華鏡】第一章「華の後宮―醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」は、紫式部の『源氏物語』からはじめることにしました

一昨日 【華鏡】目次の第一章に手を入れて以下のようにしました

  1.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

  2.嵯峨の山荘 ―源順『本朝文粋』詩序

  3.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

  4.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』

  5.夕顔 ―村上天皇女御荘子女王と紫式部『源氏物語』

  6.華の歌合 ―村上天皇「天徳内裏歌合」

  7.梨壺の五人 ―村上天皇『万葉集』訓点作業

  8.源順の白 ―藤原公任『和漢朗詠集』

2.の「嵯峨の山荘 ―源順『本朝文粋』詩序」を挿入したのです

その後にこのblogを書いてアップしたのが昨日の源融の記事なのですが それが起因になって光源氏のモデルとしての源融ということが私の意識のなかで重要になって ここで融を書くなら 『源氏物語』についての論考的部分はもうここから始まるわけで そうしたら今まで書いていた紫式部の『源氏物語』執筆経緯はここから始めなければ という気持ちになり 突然 閃いて 2.の「嵯峨の山荘」を

  2.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』

とすることにしました 改めて列挙すると

  1.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

  2.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』

  3.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

  4.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』

  5.夕顔 ―村上天皇女御荘子女王

  6.華の歌合 ―村上天皇「天徳内裏歌合」

  7.梨壺の五人 ―村上天皇『万葉集』訓点作業

  8.源順の白 ―藤原公任『和漢朗詠集』

となります これまで村上天皇後宮と『源氏物語』の関係は 5.の荘子女王「夕顔」から始めていたのですが(荘子女王が具平親王の母と知ったのがきっかけです) 徽子女王のところでも六条御息所との関係を書いていたり とにかく知っていったその都度書いているから 紫式部の『源氏物語』は前後関係もばらばらで どこでまとめるか どう一章を立てるか悩んでいました

それが 昨日の源融の記事で決着したのでした

|

2021.1.25 【華鏡】第一章「華の後宮 ー醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」は、紫式部は『源氏物語』をどう書いたか、が隠れたテーマになってきました

おはようございます 一昨日源融についてまとめましたが その後も融について考えることがあり ずっと棲霞寺について調べていました そして ふっと気になって融が発願し 亡くなる直前に完成したという棲霞寺の本尊の阿弥陀如来像を画像検索して見たのです 愕然としました それまでの源融像が一変しました

それまで私の中で融のイメージは決していいものではありませんでした だから徽子女王が融の末裔と知っても違和感あったし 内心困ったな という印象でした 幽霊譚とか伝わっていることが庶民感覚のレベルで 澄んでいないんですよね

でも 阿弥陀如来像は「澄んで」いました 写真を見た瞬間 その崇高性に撃たれて目が釘付けになりました

こういう仏像を造る人が崇高でないわけがない!

一瞬にしてそう思いました そうしたら徽子女王までの系図も自然に納得できました 子息の昇という方が ウィキではとても美しい賢そうな素敵な人物に描かれていて 融の俗物的なイメージと相反していたのですが 融もそうだったのだとわかりましたし 何より徽子女王がその血を継いで崇高な気質だったことも頷けます

それまで私は【華鏡】の中で 例えば斎宮女御徽子女王が『源氏物語』の六条御息所のモデル というようなことを文章の中に散りばめてきていたのですが 源融がいくら光源氏のモデルの一人といっても 意識的に書かずにいました でも 昇と同じイメージの人なら 書きます

というようなわけで 徽子女王が八歳で斎王に選ばれるまでに両親に連れられて行っただろう棲霞寺 重明親王が遊宴を催して源順がそこで詩歌を詠んだだろう棲霞寺 それを書こうとしたら当然そこには源融が入ってきますし そうしたら光源氏のモデルの最初の人としての登場になります

それをどう書こうか と考えていたら 【華鏡】第一章「醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」は紫式部が『源氏物語』をどう書いたか を同じ書く人としての作家の目で解き明かす章になるんだな と思いました どう書くか それが文体の問題で 私の文学としての主眼です

|

«2021.1.23 光源氏のモデルの一人という源融について