歴史3 【藤原定家小倉山荘跡】
宇都宮歌壇について調べています。
宇都宮氏は鎌倉幕府御家人中でも重鎮で、鎌倉には宇都宮の名を冠する幕府や辻子(通り)があったほどです。
細かなことを言い出すときりがないので結論だけ記しますが、五代当主宇都宮頼綱が出家して蓮生と名のり、京都小倉山に移り住みました。それが中院山荘です。
その山荘近くに藤原定家の小倉山荘があり、両者の交流がはじまりました。定家の息為家と蓮生の娘との婚姻をみるまでに。
蓮生は定家を歌の師と仰ぎ、それが東国の一地方に宇都宮歌壇という稀有な文化が芽生える基となったのです。
蓮生は自分の山荘の襖を飾るべく定家に百首の歌の色紙を依頼します。それが今に残る小倉百人一首になったといわれます。
定家の小倉山荘がどこにあったかはまだ確定していないようです。
私はそれに興味をもって、角田文衛氏のご論文を手に京都の嵯峨を訪ねました。
角田氏は、小倉山荘を遺産相続した為家の孫娘が二条良基の一族に嫁いだ関係で、良基の墓がある場所が山荘敷地の内側という説を書かれていました。
写真は2003年5月14日に訪ねたときのものです。
中院山荘という石の標識がある小道の奥へ入っていくと、厭離庵という、一説に小倉山荘跡とされる尼寺があります。
その奥に定家の息為家の墓があり、定家卿墳遥拝所という石がありました。為家は蓮生の娘と結婚して中院山荘に住んでいました。
二条良基の墓は、探すのに苦労しました。
京都駅で乗った観光タクシーの運転手さんも、「聞いたことがないなあ」と四苦八苦。角田氏のご論文からコピーしてきた嵯峨一帯の地図を手に回っても堂々巡り。何度も同じ場所にでてしまいます。時には瀬戸内寂聴先生の寂庵の前まで通ってしまいました。
結局運転手さんの勘が働いて、鬱蒼と茂る藪の中に見出したのでした。それが一枚目と二枚目の写真です。中へは入れず、崩れた門にかかる綺麗な額絵と説明の案内板を撮ってきました。
下の二枚は中院山荘跡の為家の墓と定家卿墳遥拝所石です。
宇都宮氏については、三代当主朝綱が隠棲して移り住んだ、栃木県益子町上大羽の尾羽寺を訪ねた際の写真をまとめてあります。
宇都宮家歴代当主の眠る地でもあります。下記URLにてご覧になってください。
参考論文:角田文衛「藤原定家の小倉山荘」
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