歴史6 【横須賀市立横須賀美術館】
6月中、ADSLがあまりに不具合だったので、昨日工事をして光ファイバー回線に変えました。それで使い勝手の試しに、何かいい画像はないかと探したら、この記事がまだ未整理でしたので載せることにします。
2007年4月28日、オープン初日の横須賀市立横須賀美術館に行きました。美術館へは、横須賀駅からバスで観音崎灯台まで行くと聞いていましたので、何も確かめずにJR横須賀線に乗って、横須賀駅で降りました。そうしたら、オープン初日だというのに駅は閑散。人の姿がないどころか、美術館のポスターもありません。
実は、横須賀駅からバスというのは、京浜急行線で横須賀中央駅からの意味だったのです。地元の方のお話では、横須賀という地名があまりに有名になりすぎて、物凄い立派な駅を想像する人が多いそうですが、JR横須賀駅周辺に「街」はありません。あるのは、米軍基地の軍艦が停泊する青い海と空・・・
でも、間違ったばかりに、とてもいい光景、感慨深い地に降り立つことができました。
横須賀は、私にとって、鎌倉時代に一時期、夢窓疎石が隠棲の庵を結んだところ。夢窓疎石が京都へ行って天龍寺など巨大な寺院の住持となって活躍される直前のことです。
夢窓疎石は鎌倉の建長寺で修行を積んだ方ですが、幕府の権力を嫌い、横須賀に泊船庵という庵を構えてからは、誰の面会にも応ぜずに孤高を貫きました。
もちろん、例外の方もあって、例えば藤原定家の孫の冷泉為相などは招き入れられて歌を詠み交わしたりし、帰途には船を見送られています。
以前、その泊船庵のあったところを調べて訪ねようとしたら、なんと、そこは米軍基地のなかになってしまっていました。唖然として、それでも米軍基地の門の前まで行って、夢窓疎石が生きた地を偲びつつ写真を撮って来ようと、バッグにカメラを詰めるなど準備していたときに、ふとテレビを見ると、「ニュースステーション」の画面の下に一行のテロップ。「アメリカの貿易センタービルに小型機が衝突したもようです。」
それが、9.11テロの最初のニュースでした。すぐ戒厳令が敷かれ、翌日訪ねる予定だった米軍基地の門の前の緊迫したようすが頻繁に流れるようになりました。
テロにも唖然としましたが、私にはよりによってあの夢窓疎石がかつて住んでいらした地が何故と、そのあまりの不似合いな落差に思いが錯綜しました。生涯も名前も美しい夢窓疎石に最もふさわしくない状況がふりかかったと思われたのです。
時がたって今は、やはり夢窓疎石は慧眼だったのだ。疎石は、将来自分の住む地が世界情勢の中心と目されるのを見込んで、あえてその地に住まわれたのだと思っています。というのも、何よりも平和が大切だということを、師は訴えたかったのだと思いますから。
それはともかく、かつての泊船庵は今、横須賀駅をおりたら広がる海の向こう、軍艦が停泊するあたりの半島のどこかに埋もれています。
話が唐突になりますが、横須賀といえば「海軍カレー」。と思っていたら、駅に海軍カレーを手にしたカモメの水兵さんのお人形があり、思わず撮ってしまいました。海軍カレーは海軍の方々の食事として発案されてできたとか。
でも、これも私には歴史の名残りとして感慨に浸る一件なんですよ。先に、冷泉為相が夢窓疎石に見送られて泊船庵から船で帰ったと書きましたが、為相の船は三浦半島を相模湾へは出ずに、東京湾へまわって、六浦という湊に下り、そこから陸路で鎌倉へ戻っているのです。六浦の現在の地名は横浜市金沢区・・・。中世資料の宝庫の金沢文庫があるところです。明治時代には伊藤博文の別荘があったりして、そのころ、この地から船でランチに海軍カレーを食べに通ったという話も聞きました。
昔と今が、政治と宗教、文学が、不思議に錯綜する横須賀という地。そういう地にできた横須賀美術館は超近代的に美しい建築で、目の前には広々と青い海が広がっています。時々米軍の軍艦が航行しているそうですが、時には空母まで通るとか。そのときには皆さんやはり走りよって眺めてしまうそうです。