October 08, 2007

歴史11 【名古屋市博物館「大にぎわい城下町名古屋展」と10月16日伊勢湾深発M5.8の雲】

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710061155097_4 710061156104_3 名古屋市博物館「大にぎわい城下町名古屋」展に、国宝古事記が出展されていると聞き、観にいきました。残念ながら古事記の写真撮影は許されていませんでしたので(当然ですよね・・・)、他の撮影可だった画像をご紹介させていただきます。
 一枚目から三枚目までは、地下鉄桜通り線桜山駅構内の壁面広告です。あまりに綺麗なので撮りました。
 四枚目から六枚目までの、獅子・関羽・龍の作り物は、今回の展示の江戸時代の大賑わいを記した絵本にあった、巨大な作り物の復元です。名古屋は信長・秀吉・家康と凄い武将にゆかりの地で、江戸時代の城下町の大賑わいは、展示からほうふつとしました。江戸時代、名古屋でもアザラシが出現したとかで、見世物になって大人気だったそうです。他に、ラクダまで来たとか・・・。不思議な展覧会でした。
 目的の古事記は、そういう展示のあとに、ひっそりと展示されていました。他に、芭蕉や蕪村、北西の自筆の展示などもあり、見入ってしまいました。
 最後の二枚は、展示を観て外にでたら、目の前に広がっていた雲。滅多に観ない空が圧巻でした。南西発生に思います。

追記:【10月16日10:16 伊勢湾M5.8 深発333.4㎞】が発生しました。最後の二枚の雲の該当と思います。

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August 30, 2007

歴史10 【大分県 宇佐八幡宮】

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 大分県宇佐市にある宇佐八幡宮は、全国にある八幡宮の総社。国の官幣大社でした。かつての神仏習合の時代にあって、この宇佐八幡宮の影響下で、国東半島に霊場が広がりました。
 今、『平家物語』を読んでいます。そうしたら、ちょうど、平経正が宇佐八幡宮への奉幣使に選ばれて、遣わされるところに遭遇。訪ねようと思っていた矢先でしたので、偶然にしても・・・と驚きました。経正は琵琶の名手で、「青山」という名器を賜って持参し、社殿の前で弾いて、並みいる人たちをして感動させたとあります。その社殿の前に立って、経正を偲んで帰りました。経正は、『平家物語』のなかで、私の好きな人物の一人です。
 宇佐八幡宮の境内に入ると、どういう事情からか、クラウス号が展示されているのが目を引きました。

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歴史9 【九州国立博物館】

70823kyuuhaku073 70823kyuuhaku443 70823kyuuhaku446 70823kyuuhaku075 70823kyuuhaku463_2  菅原道真ゆかりの大宰府天満宮境内に、昨年、超近代的な建物の九州国立博物館がオープンしました。東京・京都・奈良に次ぐ、日本で四番目の国立博物館です。
 上から、太宰府天満宮本殿。九州国立博物館へあがるエレベーターのある入り口。エレベーターをでたところにある碑。九州国立博物館のガラス張りの建物の全貌。中のミュージアム・ショップ脇のエレベーターをあがると、展示室があります。「日本のやきもの」展が開催されていました。

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August 28, 2007

歴史8 【福岡県 鴻臚館跡】

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 一枚目は復元された宿泊施設。二枚目は往時の想像図。奥の海が玄界灘です。三、四枚目は発掘状況と出土状況。下は、発掘された陶磁器です。

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歴史7 【国東半島 富貴寺】

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 以前からどうしても行ってみたかった寺院です。大分県国東半島は大きな半島ですが、ぐるりと一帯が霊場になっています。神仏習合の時代、国の官幣大社だった宇佐八幡宮の系列で、国東半島がそうした聖域になったそうです。臼杵の磨崖仏が有名です。富貴寺のこのお堂のなかには、中央に阿弥陀様が安置されていて、その周りを修行されるお坊様がぐるぐる回れるようになっています。常行堂という形式ですが、私はどういうわけか、この常行堂に惹かれています。比叡山の横川が発祥の地とか。宇治平等院阿弥陀堂、平泉毛越寺、福島県いわき市白水阿弥陀堂、京都府日野法界寺、大原寂光院など、みな中央に阿弥陀様を安置されるこの形式です。(すべて周囲を巡れるかは、ちょっと曖昧ですが。)顕著なのは、四方の壁に目も覚めるばかりに眩い装飾壁画がされていること。今はほとんど剥落して見る影もありませんが、絵具のあとは残っています。下の写真は、帰ろうとした石段で、ふっと目についた崩れた築地塀。赤いベゴニアの花に目が留まりました。

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July 05, 2007

歴史6 【横須賀市立横須賀美術館】

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 6月中、ADSLがあまりに不具合だったので、昨日工事をして光ファイバー回線に変えました。それで使い勝手の試しに、何かいい画像はないかと探したら、この記事がまだ未整理でしたので載せることにします。
 2007年4月28日、オープン初日の横須賀市立横須賀美術館に行きました。美術館へは、横須賀駅からバスで観音崎灯台まで行くと聞いていましたので、何も確かめずにJR横須賀線に乗って、横須賀駅で降りました。そうしたら、オープン初日だというのに駅は閑散。人の姿がないどころか、美術館のポスターもありません。
 実は、横須賀駅からバスというのは、京浜急行線で横須賀中央駅からの意味だったのです。地元の方のお話では、横須賀という地名があまりに有名になりすぎて、物凄い立派な駅を想像する人が多いそうですが、JR横須賀駅周辺に「街」はありません。あるのは、米軍基地の軍艦が停泊する青い海と空・・・
 でも、間違ったばかりに、とてもいい光景、感慨深い地に降り立つことができました。
 横須賀は、私にとって、鎌倉時代に一時期、夢窓疎石が隠棲の庵を結んだところ。夢窓疎石が京都へ行って天龍寺など巨大な寺院の住持となって活躍される直前のことです。
 夢窓疎石は鎌倉の建長寺で修行を積んだ方ですが、幕府の権力を嫌い、横須賀に泊船庵という庵を構えてからは、誰の面会にも応ぜずに孤高を貫きました。
 もちろん、例外の方もあって、例えば藤原定家の孫の冷泉為相などは招き入れられて歌を詠み交わしたりし、帰途には船を見送られています。
 以前、その泊船庵のあったところを調べて訪ねようとしたら、なんと、そこは米軍基地のなかになってしまっていました。唖然として、それでも米軍基地の門の前まで行って、夢窓疎石が生きた地を偲びつつ写真を撮って来ようと、バッグにカメラを詰めるなど準備していたときに、ふとテレビを見ると、「ニュースステーション」の画面の下に一行のテロップ。「アメリカの貿易センタービルに小型機が衝突したもようです。」
 それが、9.11テロの最初のニュースでした。すぐ戒厳令が敷かれ、翌日訪ねる予定だった米軍基地の門の前の緊迫したようすが頻繁に流れるようになりました。
 テロにも唖然としましたが、私にはよりによってあの夢窓疎石がかつて住んでいらした地が何故と、そのあまりの不似合いな落差に思いが錯綜しました。生涯も名前も美しい夢窓疎石に最もふさわしくない状況がふりかかったと思われたのです。
 時がたって今は、やはり夢窓疎石は慧眼だったのだ。疎石は、将来自分の住む地が世界情勢の中心と目されるのを見込んで、あえてその地に住まわれたのだと思っています。というのも、何よりも平和が大切だということを、師は訴えたかったのだと思いますから。
 それはともかく、かつての泊船庵は今、横須賀駅をおりたら広がる海の向こう、軍艦が停泊するあたりの半島のどこかに埋もれています。
 話が唐突になりますが、横須賀といえば「海軍カレー」。と思っていたら、駅に海軍カレーを手にしたカモメの水兵さんのお人形があり、思わず撮ってしまいました。海軍カレーは海軍の方々の食事として発案されてできたとか。
 でも、これも私には歴史の名残りとして感慨に浸る一件なんですよ。先に、冷泉為相が夢窓疎石に見送られて泊船庵から船で帰ったと書きましたが、為相の船は三浦半島を相模湾へは出ずに、東京湾へまわって、六浦という湊に下り、そこから陸路で鎌倉へ戻っているのです。六浦の現在の地名は横浜市金沢区・・・。中世資料の宝庫の金沢文庫があるところです。明治時代には伊藤博文の別荘があったりして、そのころ、この地から船でランチに海軍カレーを食べに通ったという話も聞きました。
 昔と今が、政治と宗教、文学が、不思議に錯綜する横須賀という地。そういう地にできた横須賀美術館は超近代的に美しい建築で、目の前には広々と青い海が広がっています。時々米軍の軍艦が航行しているそうですが、時には空母まで通るとか。そのときには皆さんやはり走りよって眺めてしまうそうです。

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May 06, 2006

歴史5 【源氏物語宇治十帖古跡】

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 連休を利用して『源氏物語』宇治十帖の地を歩いてきました。各帖の地と比定された場所に標識があり、撮ってきましたので、歩いた順路で載せさせていただきます。
 上の二枚は宇治平等院。ちょうど藤が満開で芳香を放っていました。三枚目は宇治川中州にある十三重塔。神奈川県六浦称名寺とも関係のある中世の律宗僧侶によるものです。
 四枚目からが古跡で、順に、東屋・椎本・手習・浮舟(三室戸寺境内)・蜻蛉・総角。
 十枚目は宇治十帖の巻名にちなんだ与謝野晶子の歌碑。十一枚目、宇治上神社。十二枚目から、早蕨・宿木・橋姫・夢の浮橋。最後は宇治川です。

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September 06, 2005

歴史4 【京都白河地区見学会 白河院跡・法勝寺跡等】

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 3日と4日に「中世都市研究会」の京都大会があり、参加させていただきました。大会は午後からで、午前は4つのコースの分かれた現地見学会。私は白河コースを希望し、発掘調査にあたっている京都市埋蔵文化財研究所の方の案内で回ることができました。
 ここには白河殿という御所があり、院政の舞台ともなった重要な地。研究所や地図でこの辺りとわかっていても、東京在住者にとっては隔靴掻痒、ピンポイントでここと確定できる手がかりがありません。
 どうしてもこの憧れの地を知りたいと思ってましたので、メールで案内を頂いたその場で申込みの返信。先着順の枠内になんと一番で無事希望がかなえられたのでした。
 と、前置きが長くなってしまいましたが、写真の説明をさせていただきます。思い入れを込めてしまうとまた長くなってしまうので、それはおいおい文章化することにして、簡潔にまとめます。
 一枚目…集合した地下鉄東西線蹴上駅をでて白河一帯へ向かう道。かつて都から東山を越えた人たちは、ここに来て前方に広がる白河一帯の景観を目にしたそうです。有名な法勝寺の巨大な九重塔は左半分に写っている木立の奥に見えていたはずとか。そこは今は岡崎動物園内で、観覧車のあるあたりだそうです。
 二枚目…白川
 三枚目と四枚目…白川殿跡地に立っている案内。白川院の御所は広い法勝寺境内の東門にあたる一帯を占めていました。
 五枚目…法勝寺金堂基壇の石垣。これだけの歴史的価値ある建造物群のなかで、今に残る唯一の当時のままのものだそうです。1185年の大地震でこの地区は壊滅的被害を受け、部分的に復興されても火災などにあって鎌倉時代には一切消滅。礎石などもすべて持ち去られて荒廃。礎石の下に敷いた小石がかろうじて発掘時に掘りだされる程度だそうです。
 六枚目…白河院前の道は二条大路の東の末にあたり、見学会ではその末端から市内中心部へ向かって歩きました。途中、円勝寺の標識がありました。かつてこの地には法勝寺をはじめとして「勝」の字がつく寺院が6個あり、一括して「六勝寺」と呼ばれていましたが、円勝寺もその一つです。
 七枚目…平安神宮です。ここが尊勝寺跡。知りませんでしたので、驚きました。そうだったのですか・・・、という思いです。平安神宮は縮小されてはいますが、当時の面影そのままに再現された貴重な建造物。文化遺産の名のもとに、さぞ高邁な理念でもって建てられたのかと思っていましたが、京都万博の際のメイン建造物だったのでした。万博も、さまざまな試みがあるでしょうけれど、そういう機会を使っての復元とは、随分貴重な試みと思いました。

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August 01, 2005

写真3 【愛知万博大地の塔 万華鏡】

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June 16, 2005

写真2 【マレーネ・ディートリッヒさんの想い出】

20050616ran188  愛知万博が開かれています。
 日本に於ける最初の万博は大阪万博でした。1970年開催です。当時私は写真短大をでたばかりで、羽田空港写真部にカメラマンとして勤務していました。
 万博が終わる最後になって、マレーネ・ディトリッヒさんが会場内でのエキジビションの為に来日されました。ショーが無事終わって、たしか翌日だったと思うのですが、羽田から帰国されたのでした。当時はまだ羽田は国際空港でした。
 ディートリッヒさんといえばもう凄い方ですから、当然新聞社各社では出発の写真が欲しいところです。けれど、ディートリッヒさんはお仕事以外で撮られるのは大嫌いということでした。それで、招聘元のプロダクションから緘口令が敷かれて、空港内での撮影は一切禁止ということになりました。
 でも、新聞社としてはそうはいきません。どうしても一枚欲しいわけです。それで依頼が空港内にある写真部に来ました。
 デスクはT氏という英語堪能のとても敏腕な方でした。三十名ほどいたカメラマンの中で紅一点だった私は大変可愛がっていただき、下積みから段階を昇っていかなければ到底撮らせていただけないような仕事も回していただいていました。(当然嫉妬もされましたし、今から思うと済みません!・・です・)私はそのT氏の「行こう!」の一声で、何を撮るのかもわからずカメラを持って従いました。
 通行証代わりの赤い腕章をはめ、通関手続きを終えた搭乗者の方々がいるロビーへ行く道すがら、はじめてマレーネ・ディートリッヒさんが今空港にいらして、それを撮らせていただくのだけれど、少しでもカメラを向けたのがわかると大変なことになるから、ようすを見つつ待つのだと教えられました。
 ディートリッヒさんはすらりとした長身に浅いブルーのジーンズの上下、同じ色のつばのついた帽子を被りという姿でした。ロビーにはたくさんの人がいましたが、日本人で気づいた人は一人もいませんでした。でも外人の方はさすが擦れ違う毎に誰もがはっとなさっていました。中には気軽に声をかけて握手を求める方もいられ、ディートリッヒさんも笑顔で応えていられました。そして、時には一角にあるカウンターバーでくつろがれたりと。
 一部始終を撮りたかったのですが、なにしろあれだけの映画に出演された方です。レンズの気配は後ろにあっても察知されてしまうでしょう。じっとこらえてT氏と二人で目で追いながら、撮るチャンスを窺いつつ時を待ちました。
 結局、ロビーで撮らせていただく機会はありませんでした。そのままディートリッヒさんは搭乗。私たちもランプに出ました。でも、既にディートリッヒさんは飛行機の中です。どうするのだろうと思っていると、T氏がタラップを昇って行かれました。そして、ドアの所でスチュワーデスさんと何か話しています。スチュワーデスさんが奥へ消え、再び現われたと思うとT氏に何か告げ、そして、T氏は降りて来られました。
 こういうことでした。
 「往年のファンです。一枚だけ撮らせて下さいと取り次いで貰ったら、一枚だけならOKということになった。今、ドアの所に出てくるから、そうしたら撮ってくれ」
 しばらくしてディートリッヒさんがドアの前に現われました。私は「一枚だけ」の言葉を肝に銘じて前に進み出て一礼し、カメラを向けさせていただきました。
 ディートリッヒさんも想定外の若い女の子のカメラマンに、ん?と目をとめて下った気がします。そして、手を挙げて「撮ります」の合図をし、カメラに向いて頂いたのを確かめて、シャッターを切りました。もう一枚!と、どんなに思ったでしょう。「Once more , please」といえば許していただけそうな雰囲気でした。でも私は「一枚だけ」を厳守しました。
 今思えば、生涯で最大の緊張の一枚だったかもしれません。でも、若かったし、それにディートリッヒさんと目が合った時の温かさみたいなものが胸にあって、不安はありませんでした。
 写真は翌日の英字新聞各社共通で載りました。手元には日付の判を押したその切抜きが一枚だけ、黄色くなりかけてあります。このブログにアップしたいのですが、肖像権の問題などわかりませんので、当分私一人の範囲で納めておきます。
 愛知万博が開催されて、ニュースで万博の文字を見るたびに、私にはディートリッヒさんの思い出が懐かしく甦ります。

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