June 23, 2005

白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 20

 範理さまの亡骸は鳥辺野で荼毘に伏され、木幡のご一族の墓地に埋葬されたそうです。ご葬儀の日は晴れて空は冴え亘り、すっかり葉を落とした裸の木々に滲んだ墨のような稜線をみせる東山が、遠くからもはっきりと伺えました。
 
ご葬儀にはわたくしなどのようなものの参列するべくもなければ、蔭ながらでも最後まで野辺の送りをさせていただくことを思わないでもありませんでしたが、覚悟を決めて家にいました。
 
生きて範理さまにお眼にかかれるのならなんとでもしましょう。永久に亡骸にとりすがったまま永久にいられるなら、それも考えたでしょう。でも、どうあっても、範理さまはいられないのです。どうあがいても、範理さまはお戻りになれないのです。お別れはわたくしの中では既に済んでいました。二度に亘って範理さまのもとに届けてくださったお使いの方お一人がわたくしを気遣って、ご葬儀の日取りをそっと教えてくださっていました。

 わたくしは一人部屋にいました。
 
坐してただ時間の流れに耐えていました。そうして、そろそろご出発の頃、もう山道をたどっていられる頃、着いて荼毘の準備がされている頃、と逐一を心の中で測っていました。
 
一筋の煙は白かったでしょうか。清らかにに空へと昇ったのでしょうか。そう思われた頃、はじめてわたくしは動きました。なにに向かうともなく一礼して、髪を鬟に結い、片袖を脱いで垂らし、扇を榊の枝に見立てて翳し、声に出して詠いつつ、そっとその一歩を。早韓神のあの舞を舞うために。
   肩に取り掛け、我れ韓神の、韓招祷せんや、韓招祷。

   手に取り持ちて、我れ韓神の、韓招祷せんや、韓招祷。

   韓招祷せんや、韓招祷。

   於介阿知女。

  於介。
 
三度舞いました。
 
この舞は人長という男の舞人のものなのだが、なぜかおまえには男舞が合う気がする。もっとも、おまえもいずれは一人前の白拍子として立つのだろうから、男舞が似合って当然なのかもしれないのう、というお声が甦りました。
 
そのときの眼差しが甦りました。
 あんなに小さかったのに、片時も忘れることなくいた不思議を改めて思いました。範理さまとの縁の強さが思われました。

 宇治での舞も甦りました。
 
慈円さまと、範理さま……
 
お二人が同じ一人の人の気がしました。煙となって宇宙に遍満された範理さまは、今は慈円さまの穏やかさそのものでした。

 涙がとめどもなくあふれ頬を伝い落ちましたが、ぬぐうことなく舞い切りました。範理さま、これは貴方さまに教えていただいた舞です。だから、こうして貴方さまにお返ししているのです。お空で、これからもずっとわたくしを見ていてください。
 
其駒揚拍子に移りました。 其駒揚拍子も、三度舞いました。余命幾許もないと言われつつ、あの綺麗に敷かれた白砂のお庭で舞ってくださった範理さま。
 
ここはわたしの宇宙だよ  

 そうおっしゃられた範理さまは、ほんとうに宇宙の彼方に行ってしまわれました。どこにいられるのでしょう。今この世での逢瀬は適わなくても、人の命は尽きることなく未来永劫宇宙に遍満するといいます。縁があれば、信じていれば、巡り巡ってふたたび逢う日もくるでしょう。たとえそれが気の遠くなるほど遠い先の世のことであっても。でも、わたくしにはそんな遠い未来のことの気がしませんでした。

 不思議に温かい気が満ちていました。気が付くと涙が止まっていました。わたくしの中にも気が満ちていました。足をあげて踏み下ろし、手を翳したとき、はっとしました。範理さまの気配を感じたのです。
 
気配はわたくしを取り巻いてありました。それと共に、わたくしの中にもありました。範理さまはわたくしと一体となって舞ってくださっていたのでした。この手に、この指先に、範理さまが生きておられました。おまえは一人ではないんだよ。そう言われた気がしました。ふたたびどっと涙が溢れました。

 舞い終えたとき、床に突っ伏して、今度こそ思いきりわたくしは自分に声に出して泣くことを許しました。日が暮れるまでずうっと。夜がきて、夜の帳がすべてを包み込んでもずうっと。疲れて、意識が朦朧として、なにもかもが曖昧に受け入れられて、ふらふらと立ちあがるまで。

 立ちあがったとき、わたくしは世の中が、自分を取り巻く空気が一変していることを感じました。暗く厳しいものを感じたのです。これがこれからのわたくしをとりまく色合いだと思いました。わたくしはもう以前のような甘えた自分ではいられないことを悟ったのです。範理さまにも、銀嶺姉さまにも、寄りかかって生きていくことが適わなくなった今……

 範理さまのご葬儀からしばらくたったある日、定家さまのご訪問を受けました。緊迫したお顔を見てすぐに察しました。銀嶺姉さまはもう生きておられないということを。さっと血の気の引いたのがわかりました。でも、いくら残酷とわかっていても、その宣告から逃れるわけにいきませんでした。

 定家さまのお知り合いに範理さまのご葬儀に参列された方がいらして、鳥辺野で奇妙な光景を眼にしたと話しているのをお聞きになられ、気になって検非違使の役人に訴えて調べさせたそうです。
 
ご葬儀の帰途、その方は不審な乞食を眼にし、ふと気を引かれて後をつけたそうです。というのも、男が花を抱え、人に見られているのも気づかずに、いそいそと前を横切っていったからだそうです。不審というより怪訝で、つい引かれるままに追ったのだといいますが、着いたところは破棄されて身元のわからない死体や骨が散乱する、鳥辺野でもいちばん忌まわしい、ほとんど人の踏み込まない凄絶極まりない場所だったそうです。ですが、近付くにつれ新しいお香の薫りがほのかに漂い、場違いな感じがしたといいます。

 そこに銀嶺姉さまはおられました。
 古い供養塔が立つ塚と塚の間に筵の上に横たえられて。身にまとっていた装束があの日のままだったので、銀嶺姉さまだということが確認できたそうですが、亡骸は既に腐乱して眼もあてられぬ状態だったと伺いました。
 
でも、男はそういうことは意に介さずに香を薫き、花を捧げ、枕辺にはどこでどう調達したのか、椀に箸を立てた白いご飯が添えられていました。そのようすから見て男が毎日そうしていたのは明らかでした。そして、男は枕辺に坐して、それは愛おしそうに、身動き一つせず、銀嶺姉さまのお顔に見入っていたとか。愕然としました。あのお美しい銀嶺姉さまが……

 いやな想像が身内をかけ巡りました。銀嶺姉さまはあの男に……。考えたくもないことですが、考えないわけにいきませんでした。男の片眼は潰れていたそうです。声もなくしているわたくしに、定家さまは更に妙なことを言い出されました。

「これだけ言ってしまうと悼ましいかぎりですが、夜叉殿、銀嶺殿は案外お幸せな死を迎えられたのかもしれないと思う節がないわけでもないのです」

「どういうことでしょう」

 わたくしには定家さまがなにを言いだされるのか見当がつきませんでした。これだけむごい眼に合われて、なにを幸せといえるでしょう。ですが、定家さまのおっしゃられたことはわたくしにももしかしたら銀嶺姉さまは喜んで逝かれたのかもしれないと思わせるに足る、人の幸不幸は傍からはうかがい知ることはできないと考えさせられるできごとでした。

 あの乞食はもと資盛さまのお邸の警護にあたっていた武士だったのです。当時は若く人の上に立つようなものではなかったから目立たなかったし、あの乱で傷を負った上、更に片眼を潰していましたので、検非違使庁で見たときも、定家さまにもすぐにはそれと察することができなかったそうです。ですが、取り調べが進んで、そういえばそのような若い武士がいたと徐々に記憶が甦り、それから注意して見ているとたしかにそのときの若武者だったのだそうです。

 正清というその男は、宴をはられる資盛さまのお邸の警護をしたとき、召された銀嶺姉さまをひと眼みるなり魂を奪われるほどの恋をしたのだそうです。が、所詮しがない武士の身、資盛さまに愛されてみるみるお立場の華やいでいく銀嶺姉さまはとうてい手の届く相手ではありませんでした。 いっそ刺し違えてでも思いを遂げたい気持を必死におさえて、男は銀嶺姉さまをお守りするだけの思いで任務にあたっていたといいます。
 銀嶺姉さまには気づかれる由もありませんでした。間近に接したことはただの一度もなかったといいます。篝火の光もとどかない暗い塀際で、いることさえも認められてはいない立場の男はじっとそれに耐えつつ、煌々と照らしだされる豪奢極まりない宴席の、中でも一際輝いて映る銀嶺姉さまに熱い眼差しを送るだけでした。
 
乱の後、死ぬことも考えたそうですが、生きていれば銀嶺姉さまに逢うこともあると、それだけの一心で京に戻ったそうです。
 宇治
で、その思いが適ったのでした。どうなってしまわれたか、それだけが気になっていたのが、ご無事だったことを見届けてこれ以上はないという喜びを覚えたと同時に、白拍子として凜とした風格を身につけられたごようすを見ていっそう打たれ、眼もくらむ心地になったそうです。
 
法性寺のお歌の会で、はじめて男は銀嶺姉さまの前に姿を現しました。床下に潜んでいて、白氏の琵琶行の女の生きざまにからめてご自身の気概を訴えられるお声にいたたまれなくなり、銀嶺姉さまの心がけの美しさは誰よりもこの自分がいちばん知っていることを告げずにはいられない思いに駆られ、身を隠していることに我慢できなくなったのでした。
 
 渓流のところに男は立っていたそうです。そのときは立場も身なりの凄まじいことも忘れて。それを認めた銀嶺姉さまが思いがけず寄ってこられ、まっすぐに正面から対されて、

「ようやくお眼にかかることができました」

と言われたときには、思わず強く抱きすくめてしまったそうです。銀嶺姉さまは、

「嬉しい」

と呟かれ、男を恍惚とした表情で見つめられたとか。
 
そのとき男は自分の風采、立場を思い出し、愕然として銀嶺姉さまを突き放して逃げ去ったのでした。
 
男は二度とこのようなことはありえない、これを終生の思い出としてと決意しながらなお未練がましく紅葉の宴の日も法性寺をうろつき、寺の衆に追い出されてもまた境内に戻り、そうしてふたたび銀嶺姉さまと逢いました。今度はもうお歌の会のときのような心持ではなかったので、慌てて男が隠れようとすると、銀嶺姉さまは、なぜ行ってしまわれるのですか? と叫ばれたそうです。

 その声の必死さに男は留まりました。そのとき銀嶺姉さまが自分を今ある姿ではなく、なにか誤解していられることに気付いたそうです。誤解と知りつつなお対しているうちに、連れて行ってください、わたしを、極楽へ、と希まれ、必死さにほだされて首を絞めて殺したのだと。

「男は今でも銀嶺殿が自分をなんだと思っていられたのかわからないと、首を振ってばかりいます。今でも不可解でならないと」

と、定家さまは言われました。

「銀嶺姉さまは、あの方をご自分を迎えにきてくださった聖衆来迎の菩薩さまと思っていられたのではないでしょうか」

 すらすらと口をついてでた言葉に、自分で驚きました。
 
そうだったのです。だから、銀嶺姉さまは男に会うたびに嬉々としたごようすを見せられたのです。男の眼差しの中のご自分に対する切実な思い、志の深さを真に美しいものとして、銀嶺姉さまは敏感に感じとられたのでしょう。銀嶺姉さまの最後の言葉は、有難う、だったそうです。ひと筋の涙と、神々しいばかりの微笑の中で息を引き取られたそうです。
 
検非違使の役人にそのような話のわかるはずがありませんから、ただ男を責め立てて、それでおまえは女を犯したのだな、と問い詰めたそうです。すると男は毅然としてこう答えました。真実心から愛する人を犯すなどできないと。

 身内に戦慄が走りました。なんという愛の崇高さ。今こそ銀嶺姉さまは渇仰していたものを手に入れられたのです。少なくとも定家さまとわたくしの間ではそう信じられました。
 
銀嶺さま。宇治で話していられたような、天竺の雪の蔵(ヒーマラーヤ)という聳え立つ白い雪山が見下ろす大地ではありませんが、満天の星の下で横たわって眠れたらと希まれたとおり、星空の下でご自分を深く愛してくださる人に見守られて、どんなにかお幸せでいられたでしょう。どうぞ、安らかにお眠りください……

 銀嶺姉さまのお骨が戻ってきて供養して差し上げた後、わたくしはお骨を抱えて青墓への旅につきました。 銀嶺姉さまと二人でたどった道を、今は一人で逆にたどっているのでした。湖が眩しく光っていました。比叡のお山がくっきりと青い稜線を描いて対岸に見えました。

 慈円さまからはほんとうにあのまま音信が途絶えました。
 
最初はお忙しいからと思っていました。紅葉の宴のあったちょうどあの頃、慈円さまは兼実さまのご子息の良尋さまを後継者として迎えられて、慈円さまにあっても、兼実さまにおかれてもお忙しくかつ喜びのさなかでいられたからです。
 
でも、銀嶺姉さまのことであれほどのことがあっても、ついにひと言も慈円さまからのお労りのお言葉は届きませんでした。一介の白拍子のことになぞといってしまえばそれまでですが、それまでのいきさつ、慈円さまのお人柄を考えると、その沈黙は異様でした。はっきりとしたご自覚のもとでと考えないわけにいきませんでした。
 こちらからご消息を差し上げる立場ではありませんでした。わたくしは闇の底で遠くに蠢く気配を察しようと全感覚をそばだてるようにして幾日かを過ごしたあと、すべての見極めがついたと認めて旅立ちました。

 青墓には一年ほどいました。そうして気持の整理をつけて、ふたたび京に出ました。京は変わっているようでもあり、変わっていないようでもありました。定家さまにだけご連絡いたしました。そして、以前のご縁は断ち、あえて九条家とは離れたところで生きていきたい意向をわかっていただきました。

 わたくしの心の中にはきらきら光る湖の凪いだ鏡面のような眩しさだけがありました。それはとても美しくもあり、また寂しくもありました。慈円さまという素晴らしいお方と交わらせていただいた一時期があるという、それだけで善しとする覚悟が、わたくしの中では据わっていました。

 でも、慈円さまは思わぬところで、思わぬ形で、この世では適わなかった思いを遂げさせてくださったのです。それはお歌の冊子の中にありました。九条家とは関係のない方々の間で暮らしていましたが、当代を代表する歌人でいられる定家さまや慈円さまのお歌は衆目の集まるところで、こちらで意図しなくても折に触れ眼にするところとなっていました。
 それは、西行さまご勧進の御裳濯百首の一部でした。定家さま方は既に前年完成させていらしたのですが、慈円さまは遅れて文治四年のその年ようやく完成を見られたのでした。

 ああ、あのころ、と詠じられていた頃のことを思いだし、懐かしさいっぱいの思いでそれを開きました。

  一首一首たどっていって、あるお歌のところにきたとき、不意に、ほんとうに不意に、思ってもみなかった涙が迸り出ました。
 お歌の意味を理解するよりも先に、全身全霊がそれを察知し反応したのでした。
 お歌は慈円さまのお声そのものとなって、生きた説得力もつものとして、わたくしの心に突き刺さるように飛び込んできました。

 震える手で、曇った眼で、必死になって先を読み進もうとしました。でも、駄目でした。わたくしにはもうなにも読むこともすることもできなくなっていました。ただ茫然と冊子の中の墨文字をくいいるように見つめるよりほかは。

 確かにわたくしは受け止めました。真に慈円さまが放ってくださったお心を。ああ、もういい。もう、これでいいと、心の底から思いました。これがあればわたくしは終生強く生きていくことができます。それは次のようなお歌でした。
  
奥山の谷のむもれ木苔むして知る人もなき恋に朽ちぬる

 そして、
  
惑ひぬる昨日も今日も見し人の夢になりゆく永き夜の空 (完)

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 19

  山深み我も入るべき道なれどさきだつ人はうらやまれけり

  つひになほ思ひ入るべき山の端をあはれ隔つる夕霞かな
 これが晴真さまの百首歌に応えられた慈円さまのお歌です。
 
晴真さまはいつまでたっても決断されそうもない慈円さまに、一人先に大原へ赴くことを、百首歌でもって告げてこられました。
 
それに対して慈円さまも百首歌でもってお応えになられ、そこにこの二首がありました。厭離百首といわれるこのお歌群は、よほど万感の思いを込められたのでしょう、驚くほど短時間の内に詠まれたといいます。

 とにかくそうして慈円さまはきっぱりとご自分の年来の欲望を断念されたのでした。以後、慈円さまは比叡のお山を下りられたとき以来兼実さまの希まれるままに、兼実さまのご満足のいかれるようにのみ行動していらした生き方を改められ、人が変わったようにはっきりと権門の僧侶としての方向を定められ、ご自分のご意志で、時に強引と思われるまでに精力的に、確固とした足取りで歩いていかれます。
 ずうっとのち、晩年近くなられたころ、慈円さまがお諌めになるのもお聞き届けになられず、後鳥羽院さまが承久の乱を起こしてしまわれるまで。そのことのために『愚管抄』に思いの丈を書き綴られるほどまでに。
 
わたくしは思うのですが、『愚管抄』は慈円さまの払われた犠牲が大きかったが故に、その犠牲の無に帰しかねない状況を眼のあたりにされて、止むに止まない思いでお書きになられたのではないでしょうか。

 けれど、わたくしは気が付かなかったのですが、断念はただ晴真さまのことだけではありませんでした。
 
あの日、慈円さまとわたくしは千手観音菩薩さまのみ前でかなりの長い時を過ごしました。慈円さまが真言を終えられた後も立とうとされなかったからです。慈円さまが黙られたままほとんど身動きなさいませんでしたから、わたくしも黙ってお傍に居させていただきました。
 
ひそかでした。
 
わたくしには慈円さまの匂いがお肌の温もりが、お腕の在処までが、まとわれているお衣を通してほのかに伝わって感じられていました。それはとても親密な濃密な気配でした。小さな空間の中で思う人とたった二人あることほど豊かな時はないでしょう。黙っていればいるほど思いは満ち、溢れるほどに膨らんで、もうこの地上における限りある身であることも忘れ、すべてが微細に浮遊するだけになって。
 
慈円さまが黙っていられる間、御堂の中はあたかも慈円さまが瞑想に入られてしまったかのように空気がぴんと張り詰めて、わたくしはその感触も心地よく味わっていました。
 
そういう中で慈円さまがおっしゃられたお言葉は、あのときはとうてい裏に伏せていられることがあるなど思いも及ばなかったのですが、後になって、すべてを知った状態で考えると、それはとてつもなく重たいものでした。

「人はどれほどそうしたい、そうありたいと希んでも、どうしてもできないことがあります。それは、自分がまずそれをしてはいけないといちばん知っているからでしょう」
 
慈円さまはそう言われました。また、

「夜叉殿、今ここに貴女がいてくださったことに対して、心からお礼申します」

と、こうもおっしゃられたのでした。
 
わたくしはと言えば、慈円さまのお心の内を察することもなく、ごくごく自然にそれを受け止めて、

「はい」

とお答えしたのでした。
 
慈円さまはあのとき晴真さまだけでなく、わたくしにも別れを告げられたのでした。ただの一度も本心を述べ合うことがなかったどころか、素振りを見せられたこともないままに。あの日を最後に、慈円さまとはお眼にかかっていません。もしあのときわたくしが慈円さまのお気持をお察しできるほど賢くいたら……

 でも、知らないでいたからよかったのです。知らないままに、ただ茫漠とした考える時間を残してくださって、それが、慈円さまのご配慮でもあったわけですから。それに、こういう場合になにがお言いになれたでしょう。慈円さまはそうされるしかない態度をとられただけなのです。たとえ残されたわたくしの理解するところとならないかもしれなくても。
 
でも、わたくしは幸いにも理解しました。かけがえのないものを失ったあとの苦しみは、当然のごとくそれに耐え、乗り越えるのに長く辛い年月を要しましたが、でも、そうであったからこそ清らかに、水晶のように透明に、思いを結実させることができたのです。

 けれど、わたくしの喪失はそれだけではありませんでした。銀嶺姉さまがいなくなられたのです。
 
法性寺から戻って、てっきり先に帰られたものとばかり思っていた銀嶺姉さまが夜更けてもお戻りにならず、白拍子である以上家をあけることもめずらしくない日頃とはいえ、なぜか不思議にこれはただならぬことと胸騒ぎが覚えられて。
 
それは、なんというのでしょう。ただ、もう直感としか。ふと不安が兆した途端、それは既に確実なこととして覚えられ、いたたまれなくなったのです。この夜の底でなにが起きているのか、漆黒の闇が深いが故に、不安は嫌が上がにも募ってわたくしを煽りたてました。

 最後まで定家さまとご一緒されていたと思っていましたので、こんな夜中に申し訳ないとは重々承知されながら、使いをやって問い合わせますと、定家さまも驚かれ、すぐに駆け付けてくださいました。そうしてお話を伺ったのですが、定家さまも銀嶺姉さまがいつ法性寺を出られたかご存じないとのこと。ご一緒されている間、いつかのような怪しいことはなにもなく、その後定家さまは急なご用がおできになってご自宅からお迎えがあり、先に帰られたとのこと。そのとき銀嶺姉さまはまだ寂蓮さまや家隆さま方と親しく交わっていらしたとのことでした。

 夜が明けるのを待って定家さまが慈円さまに、それから思い当たる限りの方々へ問い合わせてくださいました。が、誰も銀嶺姉さまの足取りに気付いていられる方はなく、手掛かりらしきものはまったく得ることができませんでした。
 
定家さまはご自身でも法性寺へ赴いてくださって、慈円さまとお話してきてくださいました。慈円さまもたいそう心配してくださり、手を尽くして探してくださるとのことでした。そのときはまだ慈円さまとの別離など思いも寄らず、ああ、法性寺のあのお寺の内で慈円さまもお心を砕いてくださっていると、それだけ勇気づけられる思いがしたのでした。

 けれど、それほどまでにして皆様が探してくださったにもかかわらず、二日たっても、三日たっても、銀嶺姉さまからは連絡がなく、行方は杳としてわかりませんでした。
 
そういうとき、わたくしは気掛かりなことを耳にしました。紅葉の宴のさなか、法性寺の境内に乞食が一人入り込み、寺の男衆に追い出されたというのです。即座にわたくしは思い出しました。しっ、しっ、あっち行け、という騒ぎがあったことを。あれが、そうだったのです。わたくしのなかでぱちんとなにかがはじけました。

 宇治の男……

 あの日、銀嶺姉さまは「吹く風の恋」などという曲を舞われたのです。今思い出しても、それはぞっとするあでやかな舞でした。翳した扇にさっと風が走って、そこにはらはらと紅葉が散りかかって、森羅万象ことごとく銀嶺姉さまの内に雪崩れ込み、もうほんとうに舞が呼び寄せたとしか思えないような、そんな神々しいというより禍々しい一瞬がありました。その乞食も、あるいは銀嶺姉さまの舞に呼ばれて……

 居ても立ってもいられない思いで、あの秋の一日、清水の観音さまに詣でた帰りに乞食と会った鳥辺野へ行きました。
 
あの日、銀嶺姉さまは小鼻の脇に小さな汗の玉をためて、暑いわねえと珍しく文句めいた言いようをされたのでした。あの日あんなにさんさんと赤く照り輝いていた曼珠沙華は当然なく、築地塀には色付いて痩せた蔦が這い上がり、夏の間に茂った草は無惨に枯れて風にそよいでいました。

 そんなところに銀嶺姉さまがいられるはずがないと思いつつ、乞食が潜んでいた岩陰を探したりする内に、気が付くといつしか岩や木立の密生する奥の方まで入り込んでいました。ぞっとして戻ってきたのですが、それでもなんの形跡も見出すことはできませんでした。
 
あのときも宇治のできごとを思い出し、男の眼が潰れていたかどうか気になったのでした。それで、定家さまにお頼みして、法性寺の男衆が追い出した乞食がどういうようすだったか聞いていただくと、紛れもなく片目だったというお返事が返ってきました。愕然としました。宇治のあの狭い道で擦れ違ったとき、男は銀嶺姉さまのお顔を覗き見たのです。それできっと男は銀嶺姉さまを追って京に入り、それとなく付きまとっていたのです。

 鳥辺野で見た男は宇治で出会った男に間違いないでしょう。
 
お歌の会のときも、おそらく銀嶺姉さまは男となんらかの接触をもったのでしょう。それがあの失踪となって……。
 
でも、もしそうだとしても、銀嶺姉さまは厭な眼にあったふうは微塵もお見せにならず、逆に聖衆来迎に遇ったと驚くようなことをそれはもうお幸せそうに語られたのです。あのお顔からしてそれが嘘だとはどうしても思えないのですが。
 
そういえば宇治のときも、銀嶺姉さまは忌避するようすを見せられるどころか、なにを見たのでしょうと、うっとりした恍惚としたお顔をなさって。銀嶺姉さまには、男の姿が見えないのでしょうか。男の真実の姿がほかにあるのでしょうか。まさか、そんなことが。乞食と銀嶺姉さまの失踪と、聖衆来迎と、どういう結び付きがあるのでしょう。銀嶺姉さまはいったいどうしてしまわれたのでしょう。わからないことばかりでした。

 そういうさなかでした。範理さまが危篤になられたのです。この間と同じ使いの方が見えてそう告げられたとき、覚悟していたとはいえ、眼の前が真っ暗になりました。銀嶺姉さまへの心労が極限に達していたのでしょう、なにもかもかなぐりすててその場に泣き伏してしまいたい衝動に駆られました。それに耐えたのは範理さまのご容体を正確に知りたい一心からです。

「もう意識はほとんどおありになりません。おそらく今夜あたりがご最後かと。受戒も済まされました。ただ、そうした中でわたくしが呼ばれ、苦しいお息の中でお連れするようにと」

と、その使いの方は言われました。
 
この前のときのように迷わず車に乗り込みました。
 
この間は暮れてゆく空に東の連山が山の端を溶け込ませ、嫌が応にも緊張を強いてきましたが、ゆく手には範理さまとお会いできる喜びが控えていました。今は明るく空に光が満ちてなにも心配がないように見えていながら、なのに先には範理さまが死の床に横たわっていられる厳然とした事実があるのです。間に合うかどうかの心配はありませんでした。範理さまは待っていてくださる確信がありました。

 お邸はこの前のときと同じくお人払いがなされていて、ひっそりしていました。使いの方もわたくしをご寝所まで導いて声をかけると、すっと姿を消されました。それで、わたくしは一人範理さまが伏せていられるお褥まで歩いて行きました。仏眼仏母のお像の前を通ると、もうだいぶ範理さまのお勤めがなされていないのでしょう、どこか寂れた気配がそこにはあって胸が痛みました。

 範理さまは眠っていられました。
 
とても静かに眼を閉じていられますので、もしかしてという気がしてそっとお鼻に顔を近づけますと、かすかにお息がし、ああ、まだ生きておられると思ったのでした。 でも範理さまは眠っていられたのではなく、わたくしをすぐお認めになられたようでした。

「範理さま」

と、声をおかけしました。範理さまは頷かれたように見えました。そしてわたくしに近い方のお手を動かすようにされるので、そのお手をとって両手で包み込みました。そうしてどれほどいたでしょう。わたくしの手の中の範理さまのお手になにか合図のように力が込められた気がしました。それはほんとうに気のせいかもしれないかすかな動きでした。でも、わたくしにはわかったのです。それで、

「入ってよろしいですか」

とお訊ねしました。範理さまが頷かれた気がしました。
 
真綿が入ってやわらかな絹のお褥にすべり込み、範理さまの傍らにそっと横たわりました。範理さまはそよともみじろぎなさいませんでしたが、ご満足のごようすがわかりました。そうして並んで、隣り合っている手を繋ぎ合って、長い間じっとしていました。
 
いろいろな思いが駆け巡りました。範理さまに抱いていただいた先刻の夜のこと、もしこのまま銀嶺姉さまが出て来られなくて、範理さままでがこの世から去ってしまわれたら、この先わたくしはどうやって生きていけばいいのだろうとか、助けてください慈円さま、などの。

 時は流れ、範理さまは去っていかれました。わたくしの隣で、わたくしと手を繋ぎ合ったままひそやかに。
 
それはいつともわからないほんとうに静かなご最後でした。間違いないと知ったとき、わたくしの眼尻からつつうっと涙が伝い落ちました。涙の熱さがいっそう石のように凝固した死という気配を際立たせ、迫ってきました。一度しゃくりあげると、嗚咽はもう止まらなくなりました。そうして滂沱と伝う涙もぬぐわず、眼をあけて天井を見つめたまま、気がついて人が来るまでずっと、範理さまのお隣に侍らせていただいていました。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 18

 ちょうどその頃、慈円さまは二十五のお年で千日の籠山行を達せられて比叡のお山を下りていらしたときからずっと、片時も絶やすことなくお心にくすぶらせ続けていらしたお希みの生涯における最大の危機、そして最後となった決断のときを迎えておられました。慈円さまは今度こそほんとうになにもかも捨てて大原に隠棲されることを考えていらしたのです。

 治承三年三月、比叡のお山を下りられた慈円さまは、すぐには兼実さまが希まれた今のようなご生活、京での藤原氏一門を担う僧として栄達の道を歩むことをされず、しばらく大原の江文寺に居住していられました。いえ、それより早く、二十歳になられたとき既に江文寺にはご自身のお心の内に深く思われることあって参籠され、法華持経者たるべく百箇日の厳しい修行をされています。
 
摂関家の出でいられる慈円さまには、僧侶としておのずと開ける道が敷かれていて、本来ならそれほどの修行をなさる必要はありませんでした。けれど、十一歳で覚快法親王さまのもとに入室し、仏門での日々を重ねてこられて、慈円さまのお心の内には形だけの修行では収まりきらないある強い希求が兆していました。それに衝き動かされるようにして、江文寺の百箇日の参籠に飛び込まれたのです。

 江文寺での修行は、それは激しい荒々しいものと伺っています。でも、慈円さまはそれをやり通されたのでした。生い立ちという周りからの事情で仏門の人となられた慈円さまでしたが、いつしかご自分の意志で、極限までおのれを追い込み、おのれを見つめ、真剣にみ仏と対峙したい願望に目覚められていたのです。
 
それからも葛川に参籠されるなど慈円さまの荒行へのご志向は変わることなく続くのですが、そうした根底には大原の里、江文寺で修行を成し遂げられたご体験があってのことでしょう。後年、
  身のほどを思ひ知りにしその日より深きあはれは大原の里
と詠じておられますが、大原は慈円さまにおかれてはご自身の生の根源を見極められた大事の地、求道の原点の地なのです。
 
慈円さまには深山幽谷の気配濃いお歌がたくさんあります。
  鳴く鹿の声に目覚めてしのぶかな見果てぬ夢の秋の思ひを
という、ずうっと後年後鳥羽院さまが催された千五百番歌合でのお歌がそうですし、近くは西行さまご勧進の御裳濯百首中、
  谷川の音に月すむみ山辺はそれさへ冴ゆるむささびの声

  風の音も秋にさきだつここちして鹿鳴きぬべき野べの夕風

  松が枝に枕さだむるかもじしのよそめあだなるわが庵哉

  庵さすかた山ぎしの木菟もいかが聞きなす峯の松風

  山深みなかなか友となりにけりさ夜更けがたの梟の声

  いかにせむ友こそなけれ山の犬声恐ろしき夜半の寝覚に
など、京にあって定家さま方が山を桜を、寂寥さえも、研ぎ澄まされたご感覚でさながら絵のようにお詠じになられたお歌と違って、慈円さまのお歌からは、実際に体験した方ならではの、森のどよめき、湿った土の香、飛沫を浴びた岩礁の白々と月光に光るさまなど、まがまがしい実感が立ち昇ってくる気がいたします。慈円さまのこうしたお歌群にはなにか蠢く底知れぬ恐怖があります。人がたった一人あることの恐怖とでもいうのでしょうか。でも、それこそがお籠もりなさった比叡のお山で毎日毎日慈円さまご自身がそれを感じ、それに耐え、戦い、そしてそれをのみ友として過ごされていた故のごくごく自然なご発露なのです。

 千日といえばほぼ三年にも亘る長い日々の連なりです。寂寥は、恐怖は、もうほとんど慈円さまのお身体の一部となって、慈円さまをして切り離せないものとなってしまっているのでしょう。
 だから、どんなに高位に昇られ、どのように栄華を身にまとわれ、人から崇められて過ごしていようと、そうした恐怖、寂寥といったものと離れていると、それがむしょうに恋しくなってたまらなくなるのでしょう。
ご自身のうちにふつふつと滾る孤独への憧れ、深山幽谷の深遠な気配に身を浸し霊気を感じていたい渇望は、どのように年月が積み重ねられ、そういった生活から遠のいていようと、決して薄らぐことなく慈円さまのなかにあり続けました。いえ、薄らぐどころか、無理矢理押し殺していられるから逆にどんどん大きく膨らんで。

 わたくしたちがふだん拝見するあの穏やかな、柔和なことこの上なくいられる慈円さまからはとうてい想像しえない、それこそが真実の慈円さまなのでした。
 
でも、一方で、慈円さまはほんとうに心お優しい方でいられました。ご自分の抱えていられる悲しみが深いが故に、人に悲しみを与えることを躊躇されてしまう……。秩序を乱すことなど恐れずに、ご自分の意の赴くままに出奔などしたら……。兼実さまがお嘆きになるとわかっていることを、ご自身の勝手な欲望で決行するなどとうていおできになりませんでした。
 
慈円さまには真実に生きたいご本心と、それとは別の道を歩んでいる現実との間の葛藤を詠われたお歌も多くあります。
  
位山さかゆく峯にのぼるとて誠の道をよそにみる哉
  
なを深く心はかけん吉野山うき世出でたる身とは思はじ
  
思ひ立つ道にしばしも安らはじさもあらぬ方に迷ひもぞする
  
世とともにある甲斐もなき身にしあれば世を捨ててこそ世をば厭はめ
  
思ひゐる心の末を訪ぬとてしばしうき世に巡るばかりぞ
  
せめてなほうき世にとまる身とならば心のうちに宿は定めむ
  こうしたお歌に接し、そこに潜む深いあきらめを見るとき、とてもあのすべてに満ち足りたご境涯にいられるお方が詠まれたお歌とは思えなくなるのは一人わたくしだけでしょうか。
 
慈円さまのお心の内には、そうした諦観を終生抱えて生きていくのだというようなひっそりとしたご覚悟ができていたのだと思います。
 
ですがその年の春、思いもかけない方と再会されて、抑えていたものの一気に吹き出すこととなりました。晴真さまというその方は、そうそれこそ大原の江文寺で一緒に修行されていた方でした。京でのきらびやかな生活よりも大原で生きることの方がどれほどか真実であることを身をもって体験し、分かち合ってきた方でした。

 再会されてすぐ、なにも語らずともお互いに互いの心の内にはかつての大原での生活への希求が未だ消えずにあることを見抜いてしまっていました。
 
慈円さまのお立場がご自分のようには簡単にすべてのことを運ぶなどできないことを晴真さまは知っておられましたが、すでに真実に生きることを知ったものとして、大原での生活をはじめようではないかとお誘いにならずにいられませんでした。そして、その実行を年内にとのお約束をまでされました。慈円さまは悩まれたと思います。誰に相談できることでもないので、お一人でずっと。

 法性寺で紅葉の宴の開かれたときは、お約束の期限も迫ったそうしたときでした。もちろん、わたくしをはじめ誰一人そういうことの知る由もありませんでした。
 
宴は華やかに続いていました。法性寺の紅葉はそれはもう真っ赤に染まって陽に輝き、綺麗でした。境内は集まった方々の賑わいで満ちていました。 陣を組まれてご酒を召されながら舞を所望され、銀嶺姉さまが一際鮮やかに「吹く風の恋」などを歌いながら舞われました。
 
わたくしは水くくるとはにちなんで水尽くしなどようの宴曲を試みさせていただき、それもやんやの喝采ではしゃいだ心地になっていました。
 
紅葉が絶えずはらはらと散りかかっていました。紅葉はご酒を注いだかわらけの中にも、殿方のお髪の上にも、美しく染めあげられた御衣のお肩にも止まって、赤い興趣を添えるのでした。
 
それから、お集まりになった方々は三々五々散らばって紅葉照り映える渓流の山道に入って行かれました。銀嶺姉さまは定家さま方とご一緒でした。とてもうちとけた打ち解けたごようすで皆様方と打ち興じつつ歩んで行かれました。遠くで、寺の男衆たちによる、

「おい、こら、どうしてこんな所に」

「しっ、しっ、あっち行け」

というような騒ぎが一瞬ありましたが、それもそのときだけで、誰も気に留めるものはありませんでした。

 わたくしは慈円さまのお傍に控えていました。慈円さまがご本尊さまのところにお連れしましょうと言ってくださったからです。わたくしは、後で、あら、わたしも拝したかったわなどと言われるのではと思い、銀嶺姉さまをお探ししたのですが、銀嶺姉さまは後姿を見せてもうずっと遠くを歩いておられました。 そして、それがこの世での銀嶺姉さまのお姿を見た最後だったのです。
 
お堂へ向かう道すがら、慈円さまは、

「すこし廻り道をして、境内を案内しましょう」

と言われ、燃えるような紅葉の中、心まで燃える気のしながら、わたくしは慈円さまと二人歩いていました。

 先だってもこうして慈円さまの歩まれるあとを従いていったと思いながら、でも、あのときは青ざめて気を失っていられる銀嶺姉さまをお助けしたい思いで必死でした。
 
今度は違います。わたくしにとっては二度とない、今度こそ至福の至上の歩行に思われました。渓流に差しかかったときには、ちょっとわたくしが躊躇いたしますと、慈円さまがお手を出して渡してくださいました。そんな、もったいないと、それこそ躊躇されましたが、すなおに甘えさせていただきました。

 法性寺のご本尊さまは頭頂に一体のみ仏、その下に小さな二十四の変化の面、そしてお顔の左右にさらに一体ずつの脇の面といった、たくさんのお顔をもつ立像の千手観音菩薩でいられました。 檀像風の刀の冴えがきりっとしたお像の印象を強めて、怖いような、すがすがしいような、対しているだけで心が澄み渡るようでした。

「このみ仏は忠平公の法性寺創建当時のものです」
 
お堂に入ってお像の前に立たれ、慈円さまはそう説明してくださいました。そうして額づくなど拝礼を済まされると、慈円さまは長い間黙って千手観音菩薩を仰いでおられました。それからお念珠をとられ、おもむろに、オンバザラダラマキリクソワカ、と激しく三度お唱えになりました。
 
それがあまりに激しく気魄が籠もっていて、以前平等院のお堂の下で銀嶺姉さまと二人、そっと浴させていただいたお経とあまりに趣を異にしていましたので、驚きました。
 
今思うと、慈円さまはそのとき晴真さまとのお約束をお心の内に図っていられたのです。そうして、その短い三度の真言の間にご決断をされたのです。真言を終えられ振り返られた慈円さまは、なにかすっきりしたお顔に見えました。

「人もこのみ仏のようにたくさんの顔を持っています。見えている顔だけがその人なのではないのです」

とおっしゃいました。
 
慈円さまはご自身のご決断の実行に当たり、どなたに相談するべくもないことですから、却ってわたくしのような身分の低いどうということもない相手にお心を許して打ち解けてくださったのだと思います。けれど、そのことが理解できたのはずっとあとになってからでした。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 17

 その年の十月、奥州平泉では義経さまをかくまわれていらした秀衡さまがお亡くなりになりました。義経さまは壇ノ浦で平家追討を果たされたあと、そのまま京にとどまって任官され、それが頼朝さまの逆鱗に触れて、その同じ後白河法皇さまから、今度は頼朝さまが義経さま追討の院宣を得られると、追われる身となって奥州に逃げのびられたのです。

 秀衡さまはよほど義経さまをお心にかけていらしたのでしょう。ご自分の命ある内はと、朝敵をかくまう危険も顧みられずお守りになられたのです。その秀衡さまが亡くなられて奥州藤原氏一門の中で義経さまの安泰は揺らぎました。そして、いざ頼朝さまがじきじきに出陣して奥州征伐に当たられるとすぐ泰衡さまの翻意に遭い、衣川で自害されることになります。そうした忠誠の証しを見せられた泰衡さまですが、結局はその甲斐もなく頼朝さまの軍勢に追い詰められて討たれ、ここに奥州平泉の藤原氏の栄耀は終焉を迎えます。

 その翌年の建久元年、北の脅威藤原氏の威圧からようやく解放された頼朝さまは晴れて鎌倉を離れられ、かねてからのご悲願であった上洛を果たされます。

 都入りの日のそのご行列の威風堂々としてなんとめざましかったこと。後白河の法皇さまも物蔭からそっとご見物されたとのことですが、それを拝したことが以後のわたくしの運命を変えることになろうとは、人の世の定めほどわからないものはありません。わたくしはその行列のなかにいられた和田義盛さまに目をとめ、あの方ならという思いでのちほど義盛さまのご宿所に推参したのです。そうして義盛さまのお勧めで鎌倉へと旅立つことになったのです。

 兼実さまは頼朝さまと長くご懇意でいられました。お二人が実際にお会いになられたのは、その上洛のときが初めてでいられるのですが、鋭敏に時代を察知し、今は公家社会と武家社会が手を組むことこそ最上との姿勢をいち早くとられた兼実さまのご気概が、頼朝さまにも鋭敏に感知されていたのです。

 兼実さまはその同じ月、八条院さま女房の方との間に二人目の男の子を儲けられました。三位局と呼ばれるその方は、あの平氏打倒をかかげて挙兵された以仁王さまとの間にもお二人のお子を儲けていられます。後白河の法皇さまの皇子以仁王さまは八条院さまの養子となっておられ、三位局さまはその八条院さまの女房でいられました。
 お二人の間は傍目にも仲睦まじくお幸せそうだったと伺っています。
挙兵が失敗し、以仁王さまが宇治の平等院で戦死されたあとも変わらず、その方は八条院さまに女房として仕え、いつしかやはり八条院さまのもとに出入りされていた兼実さまと親しくなられたのでした。
 
わたくしはときどき三位局さまのお心の内を思うのですが、正直言ってわたくしには測りかねます。わたくしがその方のことを知ったその頃はもう、三位局さまは兼実さまのご愛情にくるまれ穏やかな日々を送っておいででした。
 
でも、七年前、そう、たったの七年前、その方は怒涛のような時代の波に足元からさらわれ、一瞬にして最愛の以仁王さまを失い、我が子である以仁王さまのご遺児男宮とも無理矢理引き離されるという、生きてこの世で地獄を見ていられるのです。そういう方が、こんなにもすぐにまるでなにごともなかったかのように平穏な幸せな日々に戻れるものなのでしょうか。

 三位局さまにとっておそらく以仁王さまとのご関係こそ生涯忘れ得ない切実なご関係だったでしょう。ほとんどそれこそがご自身のありようと化して、切ったら血の吹き出しかねない想い出。だとしたら、兼実さまとのそれは……。女が生きてゆくということは順応を重ねるしかないということなのでしょうか。おそらくその方は今は兼実さまの誠実なお人柄にほだされて落ち着いていられるのでしょう。それならそれでいいのです。

 でも、世のなかには順応できない、順応したくない、順応すれば楽とわかっていてかたくなに順応しないことを守りとおす女もいるのです。あの治承寿永のといわれる数年にわたる大変な世の中で、どれほどの女が、どれほどむごい別れを体験し、生涯癒すことのできない傷を負ったでしょう。
 
そうした方々のとられた道はさまざまでした。小宰相の君と呼ばれた方のように後を追って死んだ女、重衡さまの北の方さまのように尼になった女、世尊寺家のお方のように亡き人の菩提を弔うことに生きる女、狂った女、乞食の身に落ちた女、遊女に身をやつすしかなかった女、茫然自失のまま立ち直れない女、そうした中でも前向きに新しい生に踏み出した女……

 たくさんの女がそれぞれにそれぞれの思いを胸に秘め、誰も誰も癒しようのない傷に耐えながら、じっと耐え、それでも生きていくしかなかったのがあの頃でした。銀嶺姉さまのお苦しみは、そうした中で少しようすを異にしていました。それは、おそらく銀嶺姉さまという思慮深く突きつめてものを考えられる方でなかったら、決してそれをそこまで負とお認めになることのない類のものだったと思います。

 定家さまから色づいた紅葉が一枝届けられ、珍しく、まあ、と華やいだお声をあげて銀嶺姉さまは受けとられました。
 
定家さまとお心を合わせられるようになってから、銀嶺姉さまは少し明るくなりました。以前よくわたくしと二人きりでいるときなど、人目のないところで垣間見せられることのあった愁いある表情を窺うことは、気が付くと減っていました。

「西山に参りましたので」  

とだけ、お文には書かれていました。
 
定家さまは、お勤めの間を縫われてはお歌の境地を磨かれるべく郊外に出られて、一人で山野を愛で、鳴子の音に耳を傾け、路傍の草に目を止め、ご自身を外の清澄な気配で満たして帰られるのです。
 
銀嶺姉さまはお文を手にされたまましばしなにか考えていましたが、わたくしが傍にいることを思い出されると、お文をたたみ、お膝もとに置かれて、

「西山にはね、紅葉の想い出があるの」

と言われました。

「資盛さまが紅葉狩りを催されて。繰り出したみんなのお顔が紅葉の赤に染まって、それは燃えるように華やかな、とうていこの世のこととは思えない楽しい宴だったわ。今思うと、あれは残照。栄華を極められて、贅を尽くされて、雅びな中にも雅びにああしてすべての人の心を魅了してくださったのも、間近に滅びの時を控えていらした一族の方々の血の騒ぎだったのかも」

 定家さまとのご交情の中心は、そういう平家の方々とあった日々の共有、追憶の共鳴でした。
 
いえ、それがすべてといっていいお付き合いだったでしょう。ご潔癖な定家さまが白拍子のようなものにお気を許されるなど、そうでなかったらほとんどありえなかったでしょうから。
 
けれど、今の世、今主従関係を結んでいる九条家の方々のことをはばかられて、お二人でいるときでさえ、維盛さまや資盛さまのお名前が語られることはなかったと思います。それは決して口に出してはいけない、いえ、出そうとしても出すことのできない、許されないことなのです。だからそのお文も、西山に、とだけ記されて。

「もう二年半になるのね、資盛さまがご入水されて。まだ二年半というのかしら」

 そう言われて、ふふ、と自嘲するかのように銀嶺姉さまはお笑いになりました。
 そういうとき辛いのです。わたくしにはなにも成しようがなくて。笑うしかない辛さというものがこの世の中にはあるのだということを知ったのは、こうして間近に銀嶺姉さまと接していたからでしょう。おそらく、大方の生涯にあっては、悲しければ泣く、苦しければ悶えると、それなりの過程をくぐれば昇華できる手だてが残されているものですのに。
 
でも、銀嶺姉さまにはなにも残されていませんでした。悲しみも、苦しみも、辛ささえも。なぜなら、銀嶺姉さまは世尊寺家のお方のような菩提を弔うためだけに生きるほどの喪失を、資盛さまをはじめとする平家の公達の方々のどなたからも蒙っていませんでしたから。
 
そう、それだからこそ確実に銀嶺姉さまはなにかを失ってしまわれたのです。平家の方々が都落ちされたとき、銀嶺姉さまのお心の中でも確実にひとつの終焉があったのです。それが、時の運なのでしょう。平家の方々の没落と、新しい時代が台頭するちょうどその狭間にあって、銀嶺姉さまは、銀嶺姉さまが精魂傾けて生きてゆくことのできる場が、機会が、すなわちご自分の生きてあることの意味が、するりと掌中から逃げ落ちてしまったのをまざまざと見てしまわれたのでした。

 いつだったか夏、資盛さまのお邸を見てきたのと、銀嶺姉さまが言われたことがありました。平家の方々は都落ちなさるとき、ご自分の住んでいられたお邸にことごとく火を放って行かれました。だから、そこには礎石だけがあって、そこに日がさんさんと降り注いで、昔を偲ぼうにも跡方もなく、思わず茫然と佇んでしまったと、淡々と銀嶺姉さまは言われたのですが、そのとき浮かんだ光景が妙に白々として切実でわたくしの方が暗澹としたのでした。

「貴女、この頃変わったみたい。なにかあって?」

  ふいに銀嶺姉さまにそういわれて、ふっとたじろいでしまいました。

 範理さまとのことはとうとう銀嶺姉さまのお知りになることなく過ぎていました。あの日の明け方、わたくしは早々に帰りましたし、銀嶺姉さまは離宮でのご逗留が長引かれて何日かしてお戻りになられましたから。

「慈円さまにお招きを受けて、それで無理して落ち着きはらっているの?」

 銀嶺姉さまはそう言われ、からかうように目を細めてわたくしを見つめられました。
いいえ、そんな」

「ふふ。いいのよ、心の安定はおのずと顔に出るものよ」

 紅葉の賀をいたしますからおいでくださいとのお招きを、つい先日わたくしたちは慈円さまからいただいていました。だから、銀嶺姉さまの言われることもあながち間違ってはいないのですが、さすが銀嶺姉さまはなにも語らなくてもほんとうのわたくしのもう一つの充足、もう一つの深い思いのありようを鋭く感じていらしたのです。

 範理さまと過ごしたあの日からこころはしんと鎮まって、わたくしは、もうなにもいらない、もうこのまま死んでも幸せと思う境地に達していました。わたくしの中に身をもって範理さまが植え付けてくださったものが、静かに静かに育まれつつありました。
 それはこの世での、そして宇宙全域に渡ってあることの中心。それを抱えてわたくしは生きていけばいいのです。それさえあれば、わたくしはもうどんな苦しみの中であろうと、どんな悲惨な目に遇おうと、すっくと強く生きていけるのです。

 一方で、そこには範理さまがあちら側の世界へ旅立たれるという厳然とした事実が横たわっていました。でも、だからといって、厭だ、それは厭だ、生きていて欲しいと叫ぶ気持にはなりませんでした。範理さまは静かに去っていかれるのです。一際明るく輝くあの明けの明星が、白みはじめた空にいつしかすうっと消えて無くなるように。最後に消える瞬間に、範理さまはこの世にあって生きたご自分の命の火をわたくしの体内に移し替えるべく、わたくしと逢ってくださったのでした。

 わたくしは受け止めていました。涙もでないほどに痛く受け止めていました。そう遠くない将来における範理さまの死を。もう一度お逢いしたい、もっともっと抱かれたかった、という身体の底から疼く正直な命の迸りとは別に、寂しさの際の際の思いで。離れていても範理さまとわたくしは見えない一本の線で繋がっているのです。たとえ範理さまがあちら側の人になってしまわれたとしても。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 16

 思いがけずそれは懐かしい匂いでした。焚きしめられた御衣の香が、いつしかそれを身につけられた範理さまの男の匂いそのものとなり、得もいわれぬ香しさ艶やかさでもってわたくしを包みこんできていました。
 
あのときは舞を教えていただいただけで、袖の触れ合うことのありこそすれ、こんなふうにじかに肌身を接したわけでもないのに、それに、例え一瞬なにかの折にたしかな匂いを嗅ぐことがあったにしろ、もう十年余にもなる幼いころのことで覚えているはずがなく、したたるほどの汗とともに範理さまの重たく被さってこられているお身体の下で、わたくしは懐かしいと感じたそのことをなにか不思議なおかしなことと思ったのでした。

  早韓神を舞い終えると、範理さまはお口許に笑みを浮かべられ、深く頷かれました。それから、

「来なさい」

と、わたくしを招じられ、わたくしは、

「はい」

とお答えしてお傍に参りました。そして、遠慮がちに、でも勇をふるってそっと範理さまにしなだれかかりました。ふわっと御衣が沈みました。
 
長いあいだ、どんなにかそうしたかったでしょう。はじめてわたくしはそれをしたのでした。範理さまに甘えるというその一事を。父なくして育ったわたくしが、抑えに抑えていた欲望の甘やかなその行為を。

 範理さまは肩にお手をまわし、力を込めてわたくしをお引き寄せになりました。そして、大きな御衣の袖であたりを遮断されながら覆い被ってこられ、わたくしの口を長く長く、それはこのままずっと果てしもなく続くと思われるまでに長くお吸いになられたのでした。
 まるではじめてそれを知ったかのように初々しくそれはわたくしを酔わせました。それだけでもう身体が内側から危うく切なく溶けていくのがわかりました。そのあいだじゅう、範理さまは空いている方のお手でわたくしの仰向けた喉元を探っていられました。
そうした長い時間を持ったあと眼を覗き込まれ、手の一本一本の指をたしかめられながら、

「小さいのう。こんなに細い。じゃが、しなやかで、生きて、こんなに温かい。おまえの命を今少しわたしに分けてくれるか」

と言われました。わたくしは、

「いいえ、少しなどと。範理さまのお為なら、すべてを」

と、嘘偽りなく本心から申しました。ほんとうにそうできましたならどんなにか。

「そうか」

と、範理さまはおっしゃられて俯かれ、じっと眼を閉じ黙ってしまわれました。わたくしはそのときなんの脈絡もなく、ああ、範理さまは今わたくしを殺すことを考えていられると思ったのです。わたくしを殺して、わたくしの命を奪っておいて、そうしてご自分も自害なさる。そのことの意義を推し量っていられると、そう感じたのです。そうならそうでいいとわたくしは思いました。 躊躇はありませんでした。
 
それよりか、ためらわれているのが範理さまの方だということがわかっていましたので、躊躇なさらないでください、わたくしは範理さまとご一緒なら、どのようなことになろうと本望なのですからと、心で祈っていました。

 範理さまがそれをなさらなかったのは、わたくしを殺しても、そうしてすぐご自分が自害をなされても、範理さまとわたくしが真に一つのもの、一体となるわけでなく、ただ虚しいだけで、それを認められたからだと思います。

「範理さま」

と、お顔を下から見上げて言いました。

「ん?」

と、範理さまが覗き込まれました。
 思わずどきっとした厳しい眼差しでした。無そのものを見つめていられるようでした。もし髑髏の穴の空いたあの眼を見ることがあったら、その眼差しがそうであるかのような。
 
わたくしにはお伝えしたい思いがありました。でも、それは言葉になりませんでした。で、ただお腕のなかでにっこりとしただけでした。そのときのわたくしの思いを言葉にしていたらどういう言葉になったでしょうか。死にたい、だったでしょうか。殺してください、なのでしょうか。殺してくださってもいいのです、だったのでしょうか。

 おそらく範理さまはわたくしの思いを受け止めてくださったのだと思います。
 
範理さまはぎょっとしたお顔をなさってわたくしを見つめられました。
 瞬間おん眼の奥がぎらぎらと輝いて、そこにおそろしい獣の気配が立ち昇るのがわかりました。
 範理さまはわたくしを抱いて立ち上がられると、墨をたらしこめたかのような闇の中、几帳の奥にしつらえられていた褥の上におろされました。そうされてから手ずから燈台に火を点され、赤々と揺らぐ火の下で、一枚一枚わたくしの装束を剥いでいかれたのです。ときおり剥がれるお手のしぐさをとめられ、わたくしの眼と身体とを見比べ見据えつつ。わたくしも範理さまの一挙手一投足を逐一眼に納めていました。
 
そのとき、範理さまの中で夜叉というわたくしはなく、わたくしはただの範理さまの思いを遂げるためだけの道具になりきっていたのです。それをたしかめて、わたくしもまたそうあるべくすべてを委ねて眼を閉じました。
 
範理さまとの交わりはそれまで知ったどの殿方とも違うものでした。他の殿方のそれがご自分のであれ、わたくしのであれ、むさぼるように歓びを求められる生の探求、外へと迸り出るものだとしたら、範理さまのそれは死の儀式。激しければ激しいほど、狂えば狂うほど、迸りは内へ内へと向かって、最後に至るのは死。無に吸収されてあとにはなにもない……

 それはさながら範理さまとわたくしがこの世の果てにただ二人崖っぷちに立っているかの感覚でした。
 
几帳の向こうにはあの白い仏眼仏母のお像がかかっていてこちらを見ていられるはずでした。
 
範理さまはひたすら激しくひたすら切実でした。
 悲しいほどに切実でした。
 
いつかしらわたくしは声もなく音もなく意識が遠のいて深い奈落の底へ落ちていきました。
 それからのことは覚えていません。ただ一つ、ほんのかすかにですが、範理さまの両のお手がわたくしの喉にかかり絞めようとなさった記憶が……

  眼を開けると、範理さまがわたくしの眼を覗き込んでいられるのが見えました。

「気がついたか」

 範理さまがいわれ、わたくしは小さく頷きました。

「よく耐えた」

 範理さまは片方のお腕でわたくしの頭をしっかりと、身動きできないほど強く抱え込んでくださいました。

「おまえは生まれついての白拍子だ。おまえが女で、わたしが男であることがこんなにも愛おしい」
 
範理さまはそう言われました。それからまたわたくしはうとうと眠ったようでした。
 
夢の中であの仏眼仏母の白い仏さまは揺らぎ揺らいでたゆたい、いつしかこの同じ夜の底のどこかでどなたか殿方のお身体に組み敷かれ、喘いでいられる銀嶺姉さまのお身体になっていました。横たわった白い柔らかな起伏。小さな小さな存在ではあるけれど、世を包括してなお余りある女という生身の起伏。そうしてそれは銀嶺姉さまが憧れて止まないあの天竺にあるという雪の蔵というお山ともなって星空の下で燦然と輝き……

 眼が覚めたときは夜明けが近くなっていました。
 
驚いたことに範理さまはわたくしがうとうとしたそのときのまま、わたくしを抱いて待っていてくださったのです。範理さまは、

「よく眠っていた」

と言われ、それから、

「充分寝た?」

と訊ねられました。

 わたくしが頷きますと、

「では、おいで」

とお立ちになられ、御衣をおつけになられました。わたくしも従って支度をしました。

 外は満天の星でした。わたくしは夢のなかの星空を思い出しました。

「早韓神のあの舞は神迎えの儀式で、そのとき今宵の神は降りたもう。それから夜通し神と遊び交わしつ、御神楽ではまた最後に天にお戻りになる神をお送りする為に人長が舞う。昔を偲んで、今ここでおまえにそれを舞って見せよう。神送りの曲になる頃には空が白みはじめ、星が一つまた一つと消えていく。榊の採物を頭上に翳したその先に、一際明るくあった明けの明星も、舞の終息とともに、すっかり明るくなった空に消えていくのを見て、今宵の御神楽も終わりだと心にとめたものだ」

と、範理さまは言われました。
 
階を一歩ずつ降りて行かれた範理さまは、中庭に敷き詰められた白砂を踏みしめてゆっくり歩んで行かれました。
 いつ火を入れたのでしょう、中庭には篝火が赤い火の粉をはぜさせ燃え盛っていました。
範理さまの足音が静かな明け方のお庭に響きました。ひとときの静寂のあと範理さまは舞いはじめられました。
 
  其駒(そのこま)ぞや、我れに我れに草乞ふ。草は取り飼はん、水は取り、草は取り飼はん……
 朗々としたお声とともに大振りに舞われる範理さまのお姿を、わたくしは階の上に座して見させていただきました。
 あのお方は余命幾許もないと言われたのだという思いがわたくしを捉えていました。
 白砂のお庭は果てしもなく続くと思われ、消えて行く星と一緒に、範理さまもまた遠く歩み去ってしまわれるかの気がして、わたくしは突き上げてくる恐怖と悲しみに必死に耐えていました。つい先刻範理さまに刻印された身の内の熱い火照りの切ない疼きにも。

 あのとき範理さまはほんとうにわたくしの首をお絞めになろうとされたのでしょうか。ほんとうだったのか、幻想か、今でも定かではありませんが、あのときわたくしは範理さまとこの世にたった二人あることを、そうしていつかは離れ離れにならなければならない死という定めをもつ人間であることを確かめ合ったのだと思います。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 15

「まあ、綺麗な仏さま」
 
それは、雪のように白い仏さまでした。 範理さまのお部屋には、壁に大きな仏眼仏母のお像の画が飾られていました。文机が置かれ、そこに、火の灯った燭台、お花の活けられた華瓶、一筋の紫煙とともに薫香たちこめる香炉が揃えられていました。どれも装飾といってなにもない、艶やかな生地を生かしただけの具足でしたが、細工の良さはおのずと形の上に現われて雅やかな落ち着きを放ち、常日頃のお部屋のありようをそこに収斂させているかのようでした。

 燭台の火はちらちらと揺らぎ、仏眼仏母像のお顔を照らし、天井にただならぬ気配を散逸させていきます。炎の輪は広がって、端にいくほど闇に侵食され、お部屋の隅ともなるともうそこは墨を流し入れたかのようにひたひたと暗いのでした。

 わたくしが案内されて入ったとき、範理さまは仏眼仏母のお像に向かってお勤めをされているところでした。それで最初にわたくしが眼にしたのはやはりまた範理さまのお背中でした。
 
おそらく、連れてきたら案内をこわずともまっすぐ部屋に通すよう言いつけられていたのでしょう。わたくしをそこまで伴ってきたお使いの方は、お邸について車を庭内に引き入れ、階(はし)近くまで寄せてわたくしを廊下に下り立たせると、あとに従うよう指示され、お邸内のどなたに声をかけるでもなく、廊下を歩みはじめられたのでした。
「お連れしました」

 お使いの方は廊下にひれ伏してそう声をかけられ、お部屋の中から、

「通しなさい」

とのお返事を待ってわたくしのほうを向かれ、

「どうぞ」

と目配せされると去って行かれました。
 
範理さまはすぐにはお振り向きになりませんでした。範理さまの読経のお声は廊下を渡っているときから聴こえていました。ああ、勤行のご最中なのだと思いました。ちょうどお部屋についたとき一段落したのでしょうか、読経が止みました。お使いの方が声をおかけになったのはそのときでした。

 わたくしが座すのを待つように、ふたたび読経ははじまりました。わたくしの知らないお経でした。わたくしは背筋を正し、黙って範理さまのお勤めを後ろから拝していました。
 静かな時間が流れていました。とても厳かな時間のそれは流れでした。時間というものが、そういう形でだけあるかのような。それ以前にもそれ以後にもわたくしが別の形の、別の場所、別の交わり、別の営みがあったこと、あるだろうことが、信じられなくなるような。
 
時々お念珠の擦れる音が心地よく耳に届きました。ほのかな闇に白い仏さまが浮かびあがっていました。最初、それは眼に見たとおりの仏さまでした。けれど、範理さまの背後に座してじっと拝しているうちに、ぼうっと大きく膨らんで、いつしかわたくしにはお部屋いっぱいに充満する巨大に感じられるまでになっていました。

 それは綺麗な仏さまでした。けれど、それは一方でとてつもなく恐ろしい気もしていたのです。 範理さまの朗々とした読経の海に浸されながら、もう、範理さまのお姿も掻き消えて、わたくしは一対一で仏さまと相対していました。あるときふっと範理さまが遠のかれお姿が見えなくなったかと思うと、突然、わたくしはみ前に一人置かれていたのです。それは不思議な感覚でした。仏さまにすっと引き寄せられたかのようでした。仏さまがご自分の前にある一切の現象を排してわたくしのために場所を空けてくださったかのようでした。そうして見つめあっていると、それは眼光鋭い仏さまなのでした。

 怖い……、と思った瞬間、仏さまがにこっと微笑されたように感じました。すると、眼光の鋭さはもとのままながら、仏さまは得もいわれぬ柔和な仏さまに変わられたのです。思わずわたくしもにこっとしてご挨拶してしまいました。拝むのではなく、はい、わたくしです、とでも言ったかのような。このようなわたくしですが、よろしくお願いいたします、とでも言ったかのような。
 それは無類の慈悲にくるまれた安堵の心持でした。仏さまのみ前で、わたくしは小さく小さくこの上もなく小さくなって、それがとても嬉しく心地よかったのです。
 
そうこうしているうちに範理さまの読経が終わりました。すべてはもとの光景に戻りました。そう、わたくしは範理さまの背後にいて、範理さまのお肩越しに仏さまを拝していてという。仏さまももとのままの壁に収まったお姿に返っていられました。けれどおん眼は変わらず鋭く温かくまっすぐにわたくしを見下ろしていられました。
 
真っ白な仏さまというのはこのように不思議なものなのでしょうか。栂尾の明恵上人さまが生涯ご自身の念持仏として崇めとおされ、慈円さまも早くからそのご信仰の基盤に据えていらしたという……

 そういえば明恵上人さまと慈円さまというお方はどことなく似ておられます。お二方ともにお母さまへのご思慕の念哀切極まりなくいられることに於いて。お二人のご親交の底にはそういう人間としての熱い触れ合いがお有りなのでしょう。それは、傍からは窺い知れない深い……。仏眼仏母という仏さまにお二人はお母さまを見ていられるのでしょうか。
 けれど、それも結局は子は父親にしろ母親にしろ、亡くした親を追って止まないということなのでしょう。人は得ることあたわないものを追って終生思慕し続けるものなのでしょうか。なべて人は孤児なのです。孤児という思いが信仰に血を吹き込ませるのです。みなし子のたぐひおほかる世なれどもただ我のみと思ひしられて、という慈円さまのお歌が今更に胸に迫って思い出されます。

 仏眼仏母という仏さまは、仏の真理を見通される眼をお持ちの、み仏すべての母という偉大な仏さまでいられます。明恵上人さまは画像の奥に「キミヨリホカニ、シル人モナシ」と賛を書き入れられたとか。なんという孤独の深さかと、それを伺ったとき胸ふたがれる思いがしましたが、また、それは慈円さまも同じだと、ふっとそのとき思いもしたのです。
 
ようやく範理さまが振り向かれ、お膝をずらしてわたくしと相対してくださいました。わたくしは深々とその場にひれ伏し、しばらくは顔をあげられませんでした。万感の胸迫る思いがありました。やっとの思いで、

「お会いしとうございました」

と申しあげました。

「生きていれば、おまえと会うこともあると思っていた」

と、範理さまは言われました。

「ほんとうですか?」

 思わずわたくしは訊ねてしまいました。わたくしがそう思っていたとしても、まさか、範理さまもとなど誰が思えましょう。

「ほんとうだ。おまえのことは忘れたことがない。これは、ほんとうなのだよ」

 不覚にも膝に涙が落ちました。落ちた重みが伝わったほどそれは大粒の涙でした。

「わたしの命はあと幾許もない。間にあって、これ以上嬉しいことはない。おまえとは不思議な縁で結ばれていると思わざるを得ないのう」

 そう言われて範理さまははじめて笑みをお見せになられました。たしかに、幼いときにお見かけしたお姿からはお年を召されています。でも、か細くはいられてもきりっとして矍鑠たるものをお見せになるそこからは、余命があと少しと言われても信じる気持は起きませんでした。そういうお年なのだと悟って、どきっとはしましたが。 積もる思いはあり過ぎて言葉になりませんでした。でも、言葉のなにが必要でしょう。範理さまとお眼にかかれた今、すべてはここからはじまるのです。

「舞はもう忘れただろうの」

 範理さまは言われました。

「いいえ、忘れてはおりません」

と、わたくしが申しあげると、

「ほう」

と、眼を細められました。

「よく覚えていたものだ」

「忘れてはならないと思っていました」

「見たいのう。舞ってくれるか?」

「はい。謹んで舞わせていただきます」

 一礼して立ち上がり、板敷の間の中央へ進み出ました。範理さまが端へ座を移されましたので、またわたくしは仏眼仏母のお像の正面に立つことになりました。ひととき合掌して範理さまの方に向きますと、範理さまが頷かれて拍子をとりながら歌いはじめられました。

  かたにとりかけわれからかみの……
 紛れもない範理さまのお声でした。それは身震いするかの感覚で身内を貫き、走り抜けました。のびやかに、軽やかに、これほど気持よく舞ったことはないと思われほど心地よく、わたくしの舞は進みました。

「ここはわたしの宇宙だよ」

 舞の中で、範理さまのお声が聴こえた気がしました。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 14

 わたくしには気になっていることがありました。
 慈円さまのお歌の会に参じたとき、慈円さまには先にお客人がいられました。法性寺に着いたとき、ご門の前には既に立派なお車が停まっていました。お歌の会のどなたかのお車でしょうと語らいながらそう気にとめず、銀嶺姉さまとわたくしが下りようと支度を整えていますと、そのお車の従者の方々の気配が慌しくなり、それで、見るともなくそちらの方を見ることになったのです。
 まもなくお供の方を従えられた一人のお公家さまがご門の中からでていらして乗り込まれ、去って行かれました。後にはときどき軋みつつからからと廻る大きな轍の音だけがしていました。
 わたくしにはすぐわかりました。お年を召してはいられましたが、あのお方だということが。まちがいありません。お鼻の尖った風貌。今あることよりずっと先、世の果ての果てまでも見ていられるかの鋭い眼光。お顔をみた瞬間、どきっとして立ち竦み血も止まったかと思われました。
 そう、それは紛れもないあのお方でした。お会いしたい、生きていればどこかで必ずお会いすることもあると念じ続け、いつ如何なるときにも片時も心から離したことのない、わたくしに人長の舞を教えてくださったあのお公家さま。
 幼い頃の青墓でたった一度の邂逅を見ただけなのに、以来、わたくしの運命を左右するかのように、しっかりとわたくしの心の手綱を握って離さない、父のようなあの・・・
 お公家さまがご門から出ていらしたのは、先に下りられた銀嶺姉さまに助けられてわたくしも下り立ち、ちょうど二人並んでそのお車を見ていたときでした。お公家さまはまっすぐお進みになると、そのままお乗り込みになり、寸時の躊躇もなくお車は去って行きました。あまりに思いがけなく、わたくしは成す術もなく立ち尽くしていました。
「どうかして?」
 銀嶺姉さまに問いかけられて我に返りました。
「あ、いえ、別に」
 わたくしには答えようがありませんでした。
 瞼の裏に、お車の中に消えたそのときのお姿が焼き付いて残りました。その残像は、たしかにそのときのお姿のはずでした。けれど、わたくしの中に残るお公家さまは、乗り込まれようとして佇まれ、瞬時時間が静止したかのような空白のときをもって、お背中でわたくしに語りかけてこられたのでした。
「おまえか」
  そう、その残像は言われました。
「はい、わたくしです。お会いしとうございました」
 どきんとして硬直しながらもわたくしは、とうとうお会いできたという思いでいっぱいでした。
 わたくしには、実際にはなかった瞬時のその会話こそが、この世の真実あるべき姿の会話だと思われました。人と人との熱い血の脈絡で結ばれた繋がり。そういうことがなんの隔てもなく信じられる繋がり。わたくしにはお公家さまとの関係はそのようなものに覚えられていました。
 走ってでも後を追いたい気持を抑えてご門の中へ入りました。一歩踏み込んで法性寺の清浄な空気に触れると、すっと気持が改まりました。神々しささえ覚えて身の引き締まる思いがしました。
 お歌の会が開かれるお部屋の控えにはもう定家さまと寂蓮さまがいらして、くつろいだごようすで慈円さまとお話になっていられました。
「若狭からお戻りになられたのはつい先年でしたが」
 すぐ、あのお方のことだとお察ししました。
 赴任されるなどなんらかのご用向きがあってあのお方は若狭に行かれ、あるいはその帰途かもしれませんが青墓にお立ち寄りになられたのでしょう。そして、早韓神(はやからかみ)のあの舞を、たった一つのあの舞を教えていただいたのです。おまえには男舞がよく似合うと言われて。もっともおまえもいつかは白拍子として世に立つのだから、男舞が似合って当然かもしれないが、と言われて。
 舞を考えるとじっとしていても血が疼きます。 舞は宇宙です。舞うときだけ、わたくしはこの世にある不自由さを離れて宙(そら)に飛翔できるのです。そのときわたくしはただただ宙と同化してあまねく世界と一体になれるのです。そのとき、お公家さまも息吹となって宙に充満し、それを感じるときわたくしの身体は燃えるように熱くなるのです。そのお方のお名前が藤原範理(のりまさ)さまだということを、お歌の会で、しかも慈円さまのお言葉の中で知ることになりました。
 後からおいおいわたくしにもわかってきました。範理さまが四十年もの長きにわたって伶人を務められ、なかでも篳篥の名手でいられること。多く高倉の天皇さまの御代にその祗候をされたこと。それは、御白河の法皇さまが天皇であられた御代には、法皇さまが管弦や舞楽よりも今様や催馬楽等の歌謡を好まれたために、そういうお召しがなかった等のことが。御遊や舞御覧のほかにも、石清水や賀茂の臨時祭での御神楽の陪従も務められたといいますから、人長の舞も習熟されていて当然でしょう。
 定家さまは高倉の天皇さまを深くご敬愛申され、また、中宮徳子さまにもお仕えになっていられましたから、徳子さまおましの閑院に設けられた楽所(がくそ)に祗候されていた範理さまとお声を交わされたこともおありでしょう。御遊の折の篳篥にお耳を傾けられたこともおありでしょう。
 藤原範理さまのお名前は聞き知っていました。お若いころ、父君の任国へ下向されるのに従われ阿波へ赴かれた折、範理さまの吹かれた篳篥のあまりの素晴らしさに龍神が感じ入って旱魃が治ったこと。けれど、それでも雨は止まずとうとう洪水を引き起こしてしまったというような伝承を。 慈円さまとはどういうお繋がりなのでしょう。あるいは慈円さまも童舞を率いておられますから、なにか管弦のご相談にでもいらしたのでしょうか。
 銀嶺姉さまがいなくなられた心配で、範理さまのことはすっかり忘れたようになっていましたが、お歌の会から戻ってしばらくするとふたたびそれが気になりだしました。
 気がつくと、窓から見る景色はいつしか変わって、もう曼珠沙華はあとかたもありません。
 当面のわたくしの気がかりは、どのようにしたらその範理さまのもとにたどり着くことができるかということでした。直感がはずれていなければ、範理さまもわたくしをお認めになって、すぐ使いを遣わしてくださるはずでした。それがなかったとしたら、わたくしの信念は土台からなし崩しに崩れてしまうことになります。そうしたらわたくしは生きていてもなんの意味もなくなるのです。
 それは一つの賭けでした。有り得べくもない一つの大それたことを待ち望みながら、一方で大胆にそれを信じ、でも、一方でそんなことのあるはずがないという反芻の中で、わたくしはそわそわと落ち着かない心持に陥っていました。そんなわたくしを察して、
「なにか、考えごと?」
と、さりげなく銀嶺姉さまはお声をかけてくださいます。
「慈円さまのこと?」
 銀嶺姉さまはお歌の会での夜、慈円さまとのあいだでなにか親密な話が交わされていたのではと思っているのです。
「貴女には、男と女でない真の関係というものを成し遂げて欲しいの。貴女ならできると思うから。そうして、慈円さまという方がお相手なら」
 おそらくそれは、ご自分で叶えられなかった銀嶺姉さまの悲願なのでしょう。それはわかります。でも、それでは具体的になにをと考えるとわたくしには正直のところまだよくわかってはいませんでした。
 ただ、こういうことは言えます。慈円さまはあくまでも澄明な世界のお方で、範理さまは、銀嶺姉さまにも秘しておきたいわたくし一人の心の奥の暗い世界のお方と。
 煩悶はいたずらに時間を長引かせ停滞させていきます。ひたすら進まないと感じられた時間も、振り返ってみるとなんのことはないただのふつうの時の流れがあっただけだったりして。
 お歌の会があってからどんなに長い時間が経っただろうと思われ、気持が焦りはじめたころ、そのお使いがきました。ほっとして落ち着きをとり戻してみると、まだ日数はそう多くを経ていませんでした。地位のあるお忙しいお立場の方としたら、それこそ稀有のような速やかさでそのお使いは遣わされたのです。
 その日は鳥羽の離宮にお召されになって、銀嶺姉さまは前日からお出かけになってられました。そのお留守を見定めるようにしてお使いがあったことは、やはりこれは銀嶺姉さまとは別の次元の展開と思わざるを得ませんでした。もしいらしたらいつものように甘えが湧いて、躊躇したりお伺いをたてたりあれほど決然とお使いの方の言葉に応じるなどできなかったでしょう。
 この車に乗せてお連れするようにとの仰せでしたというお使いの方の言葉に、わたくしは迷うことなく従いました。時は既に日の暮れに差し掛かっていました。お使いの方がどこへ行くともおっしゃらず、わたくしもあえて訪ねませんでしたので、車の中から見る景色だけがおのれの行く末を窺い知る唯一の手がかりでした。 不安はありませんでした。喜びだけがありました。
 東山の連山に沿って車は進んでいました。
 遠く山の端が黒ずみかけた夜の空に溶け込みつつありました。
 山並みは行けども行けども果てしもなく続くと思われました。
 いつしかすっかり夜の帷が引き下ろされていました。ぎいっぎいっと軋む轍の音が耳に馴染んで心地よく感じられます。車は揺れてときどき大きく傾ぎました。そんなふうにしてわたくしは地底奥深くある洞窟へと導かれていったのです。その洞窟の奥まったところにお範理さまがいられるのです。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 13

 銀嶺姉さまのお話では光が見えたのだそうです。 岩場の蔭からぽっと紫色の雲が湧き出で得もいわれぬよい薫りが漂ってきたかと思うと、そこに二十五菩薩の聖衆の来迎されるさまが見えたのだそうです。
「覚えてる? ほら、あの宇治の平等院で、慈円さまがお勤めをなさっていたお堂のなかに、どの壁もどの壁もいっぱいに阿弥陀さまがたくさんの菩薩さま方を従えられて、雲に乗って下りて来られる絵が描いてあったでしょ。あの絵のとおりのことが起きたの」
と、銀嶺姉さまはわたくしを見て言われました。
「仏さま方がほんとうに降りて来られるのよ。そうして、おいでおいでって手をお靡かせになって、わたしをお招きになるの。それでわたし歩いていったの。そのあとは……、わからない。なにをしたのか、なにがあったのか、どうしてあの場所に倒れていたのか、なにも覚えてないわ」
 気が付いたたら、慈円さまのお腕の中だったそうです。
「有難うございました。お茶は大層おいしうございました」
と、銀嶺姉さまは手にされていた白磁の碗を置かれて言われました。
「温もりましたでしょう」
「はい、とても。心まで温まりました」
「もう一服、差し上げましょう」
「有難うございます」
「貴女にも」
「はい。有難うございます」
 わたくしたちは慈円さまのお言葉に甘えて法性寺の一室で休ませていただいていました。既に定家さま方はお帰りになられていました。慈円さまは茶は養生になりますぞと勧められ、煎じてくださいました。
 真夜中の僧院の静かな部屋で、慈円さまの背後で湧き立つ釜のじんじんという湯の音だけが不断に響いていました。
 窓からは、月の光のもとに明るい築山が幾重にも重なって奥へ延びていくのが見えていました。慈円さまのお前で、銀嶺姉さまが心の底から安堵されくつろがれているのがわかりました。わたくしもそのようすを見てほっとしていました。
 わたくしは銀嶺姉さまの話されることに耳を傾けながら、一方で白磁の碗の底にうっすらと残ったお茶の緑色の美しさをしっかりと心に刻みつけていました。なぜなら、慈円さま手ずから煎じていただいたお茶を、このように立場を越えた境涯で心置きなくいただくなどということが、この先二度とあるとは思えなかったからです。
 わたくしには、このひとときがどれほど得難く珠玉のひとときであるのかは、容易に理解されていました。いいえ、慈円さまへの思慕そのことが、どれほど遠い高みへの隔てられたものでしかないかが、否応なく理解されていたのです。ですから、慈円さまの測り知れない温かさに包まれるそのときそのときが、わたくしには心に刻み付けなければならない貴重な瞬間瞬間なのでした。
 わたくしは既に予感して、慈円さまとの近い将来の訣別に備えて準備をしていたのです。まだはじまってもいないのに、わたくしはもうそのときの身を切るような悲しみに備えて、心の鍛練をはじめていたのです。蓄積された思い出があれば、いくらかはその傷も癒されるのではないかと。それを拠りどころに多分強く生きていけるのではないかと。もしなにも残っていなかったら、それがどんなにか味気なく辛い、深淵を覗くかのように恐ろしいものになるだろうと。
 飲み干したあとの碗の底では、箆掻きされた大らかな花びらの線にうっすらとお茶が残ってたまり、濃い緑色の線となって文様を浮かびあがらせていました。のびやかなその線は陶工の技の凜とした美しさを伝えてわたくしの心を揺さぶるのでした。技というもののはかなさが、はかない故にどうしようもなく切なく心に響くのでした。
 わたくしなどはまだ人生もはじまっていませんが、資盛さまを失うという喪失を身に刻みつけられている銀嶺姉さまは、なにを拠りどころに生きていられるのでしょう。そういう銀嶺姉さまが御仏の来迎に遭われたというのはなにを意味するのでしょう。わたくしはそっとそんなふうに銀嶺姉さまのお心の内を慮らざるを得ませんでした。
 銀嶺姉さまは光が見えたときから奇妙に嬉しい気分になられ、定家さまとご一緒だったことを忘れてしまったといわれます。待っていてくださるよう定家さまに言い置かれて立ち去られたことも、覚えていらっしゃいませんでした。ただふわふわと心楽しく岩場のほうへ歩いて行かれたそうです。今思うとなにか人の力を越えた強いものに牽かれていくような感じだったと言われます。
 銀嶺姉さまのお心の内にはおそらくとてつもなく強い彼岸への憧れがあるのでしょう。わたくしには、銀嶺姉さまが聖衆の来迎の話を出されたときからずっと、京へ上る途中立ち寄った近江の国でのある来迎会が思い出されていました。
 青墓を出て不破を抜け近江に入ったわたくしたちは、それから湖沿いに京をめざして歩いてきたのですが、守山を過ぎてまもなく瀬田というあたりの村で、大勢の人が三々五々着飾って華やいでいるのに出会ったのです。
 聞くとその日は迎講の日で、それでみんなでお寺へ向かうところなのだということでした。銀嶺姉さまはすぐわたしたちも行きましょうと言われ、村の人たちに混じってお寺へ行くことになりました。
 それは湖が間近く望める高台にある花摘寺というお寺でした。七宝蓮華の波ぞ立つと今様にも歌われる近江の湖はきらきらと波頭を輝かせ、眩いばかりに眼下に広がっていました。小舟が一叟航跡もなくゆっくりと湖上を進んでいました。
 遥か対岸には比叡のお山が聳えていました。霊山の呼び名にふさわしい、それは堂々として美しい見事なお山でした。そのときはまだわたくしは慈円さまを存じあげていませんでした。ですから、ああ、あれが比叡のお山と、ただ有り難く手を合わせお祈りしただけでした。今思うと、そうだったのです、あのお山の奥深く慈円さまがお若い頃を過ごされた無動谷があるのです。
 花摘寺の境内には既にこの世とあの世を結ぶ長い橋が、人の頭よりも高く本堂と東の娑婆堂のあいだに渡され、どこもかしこもたくさんの人でぎっしり埋めつくされていました。若い人も、働き盛りの人もその日ばかりは仕事を休んで、老いた人も、子どもも、どの顔もどの顔もこれから繰り広げられる来迎会への期待に満ち、あたりは熱気に包まれていました。
 楽器の音色を合わせているのでしょう、どこからか笙や篳篥の楽の音が聞こえてきて、いやが上にも興奮を煽ります。後から着いたわたくしたちは人垣に阻まれ、もみくちゃにされ、前に進もうにも先へ行けず、懸橋を間近に仰ぐところまで近づけませんでしたが、銀嶺姉さまはと見ると、もうご自分の周囲で起きている混雑などまるでお気にならないほどうっとりと恍惚に近い表情を浮かべられて、ひたすら菩薩さまのお通りになるのを待っていられました。
 それは笙と篳篥と龍笛と、美しい装束を身にまとった楽人の橋の上に登場して歩みつつ奏でる音楽ではじまりました。迦陵頻伽の声もさりなんという篳篥の強い旋律に絡まるように、龍笛の音が野太く割って這ってゆきます。つかず離れずふくよかにやわらかく笙の音が沿ってゆきます。
西の本堂からあらわれた楽人の行列は懸橋をゆっくり進んで東の娑婆堂へ消え、そのあいだじゅう雅やかな楽の音は境内いっぱいに響き渡り、わたくしたちは次に来る聖衆来迎への期待を募らせられたのです。
 やがて本堂の扉口から金色の観音、勢至の菩薩さまのお面を被った人が二人登場し、境内に、おお、とも、ああ、ともつかない異様などよめきが走りました。眼は一斉に橋上の両菩薩さまのお練りに吸い寄せられ、釘づけされます。両菩薩さまはあとに続く他の菩薩さま方を先導しつつ、これから娑婆堂に待つ往生者を迎えにいくのです。そうして赤、緑、紫、黄色、橙、青という錦の法衣に身を包み、袈裟をつけ、これもやはり金色の菩薩のお面を被った舞人たちによる二十五菩薩さまの行列ははじまりました。
 それは見事にたくさんの菩薩さま方でした。お地蔵さまのお姿もありました。不思議な感動がそれぞれの身内を突き抜けました。そうです。有り得べくもないことが起きたのです。見ることの適わないはずの極楽浄土が眼のあたりに現われたのです。
 境内は一瞬しいんと鎮まり、それから我にかえるとあちらこちらで南無ありがたや、南無ありがたや、の声が湧きあがりました。感極まって嗚咽する人もいます。わたくしも胸が熱くなり、気がつくと目尻に涙が溜まっていました。
 銀嶺姉さまは紅色の靄にもやったように頬を紅潮させ、嬉しそうにほのかな笑みを浮かべて、一心にくいいるように行列を見つめていられました。そのときのお顔の輝いていらしたこと。あんなに可愛らしくかつ崇高な銀嶺姉さまをわたくしは他に知りません。
  
うれしやな煌めく風に導かれ花摘寺のほとけにまみゆ
 
後で、宿に落ち着かれたときに銀嶺姉さまはこうお詠みになりました。
「銀嶺殿は、銀嶺殿のお心の内の御仏に逢われたのでしょう。仏はみずからの心の中にいるのです」
と、慈円さまが言われました。そうして、
「ですが、銀嶺殿。もう、あのような心配を夜叉殿にかけないようにしないでいただきたいですな。待っているあいだの夜叉殿のようすといったら、傍で見ていて気の毒でたまりませんでしたぞ」
とつけ加えられました。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 12

 どきっとしました。すぐにでもその場を去ってお庭に走り出たいと思いました。それをしなかったのは、慈円さまが袖を接するほど間近くいらっしゃったからです。慈円さまはいつものとおりの穏やかさで、
如何されました」
と、言われました。
はい。銀嶺さまとはぐれまして。心当たりをお探ししたのですがおられぬものですから、あるいはこちらにもうお戻りになっていられるかと」
と定家さまがお答えになられました。
 
そのときはまだ定家さまはそう心配されているふうではありませんでした。
 それはそうです。広いお庭のどちらかでお歌の会でご一緒だったどなたかとたまたま出逢われて、そのままお話がはずまれていると思う方が自然です。なぜなら、そこは法性寺の境内なのです。手入れのゆき届いた植込みに月の光が燦然と当たって、敬虔そのもの、荘厳そのものの、厳粛なお寺の中なのです。不穏なものの入り込む要素がどこにあるでしょう。
 
定家さまから銀嶺姉さまを見失ったあたりのようすを詳しくお聴きとどけになると、慈円さまは
わかりました。手分けして、お探ししましょう」
と言われ、手を叩いてお寺の方をお呼びになりました。
 
定家さまのお話では、話し込まれて気が付くとお二人はお庭の奥深く渓流の見えるところまで足を運ばれていたそうです。もう戻りましょうと銀嶺姉さまが言われ、踵を返して歩み出したとき、あら、と立ち止まられ、ふらっと一歩行く手からそれる方向へ足を踏み出されたのだそうです。
 定家さまがそちらをご覧になられても、そこには庭石の配された植込みがあるだけで別に変わったことはなく、銀嶺姉さまもまたなにごともなかったかのようにもとのとおり歩き出されたので、そのときはそのままになされたそうです。
 しばらくして、今度は別段怪しむべきこともないのに、銀嶺姉さまが突然ここで少し待っていてくださいと言い出され、つつと離れて行かれました。咄嗟のことで問いかける間もなく、急ななにか憚りごとでもと配慮され、定家さまは待つことにされました。そのときのごようすではすぐ戻られることを疑いもされなかったそうです。
 でも、あまりに長く帰ってこられず、不審に思いはじめた定家さまが、銀嶺姉さまの向かって行かれた先の岩場の蔭等を探されてもおられず、それで、あるいは道に迷って一人で先に戻っていられるのではないかと思われたのだそうです。
 
寂蓮さまと良経さまが連れ立って戻られたのを最後に、さきほどの方々がお揃いになりました。ただ、銀嶺姉さまお一人を除いて。そうしてその方々のどなたも銀嶺姉さまをお見かけされた方はいませんでした。
 
夜は更けて月は高く昇っていました。 お寺の方々がかかげる松明の火が遠くに見え隠れしていました。銀嶺さま、銀嶺さまと、銀嶺姉さまをお呼びする太い声が境内に響き渡っていました。時折、火が、声が、がさごそという音が、たったったと慌ただしく土を蹴って走る足音が、近付いては離れて行きました。
 けれど、それらの火は、音は、すべて高く澄み昇って月空に吸収され、一瞬にしてあとかたもなく掻き消され、そうすると後にはただしいんとした恐ろしい静寂が広がるのみです。そうしたことの繰り返されるたびにみなさまが緊張されるのがわかりました。
 
わたくしの不安は極度に達していました。
 
そのとき、捜索に携わっている方がいらして、慈円さまに、境内に乞食が一人潜んでいたので追い出したというような報告をされました。別に銀嶺姉さまに関係する事柄ではありませんでした。京ではよくあることなのです。つい先だっても、定家さまがこの法性寺に近い九条のお邸でそのようなことがあったと話されたばかりでした。でも、わたくしはそのひと言ではじかれたように席を立ち、履物もとらずお庭に走り出ていました。
 夜叉殿、と慈円さまが言われ、もう引き止めることはなさらずに、慈円さまもまた履物のないままわたくしを追ってついてきてくださいました。
 迷わず、さっき定家さまが銀嶺姉さまを見失われたという渓流へ向かいました。なぜそちらへと問われても、お答えのしようがありません。ただ、何者かに導かれでもしているかのように足が勝手にそちらへ向かっていったとしか。
 
月の光にさらされて、銀嶺姉さまは渓流の際の岩場に投げ出されたように横たわっていられました。長い髪が延びて水につかり、流れにもて遊ばれて水藻のようにたゆたっていました。眼を閉じた銀嶺姉さまのお顔はぞっとするように白く、透き通って見えました。
 銀嶺さま、と声に出したかどうかわかりません。驚いてわたくしが立ち竦んだよりも早く、慈円さまはしゃがみ込まれ、銀嶺姉さまの上体に覆い被さるようにしてかがまれ、鼻孔にお耳を当てていられました。そうしてわたくしを振り返られると、
生きておられる」
と言われました。お怪我をなさっているようすはありませんでした。
 水際から平坦な場所に移そうと慈円さまが銀嶺姉さまを抱き上げられると、髪から水が滴り落ち、はずみで慈円さまのお顔にはねました。あっと、わたくしは声をあげ、ぬぐってさしあげながら、
申し訳ございません」
と言いました。
構いません。お気遣いなく」
と、慈円さまは言われました。
 そのごようすに、わたくしがどんなにか有難く嬉しく心強く思ったことでしょう。
わたくしは滴る水がお衣を濡らさないよう、長く美しいしとどに濡れた銀嶺姉さまの髪を束ねて自分の袖にはさみ、少しさがり気味でしたがそれでもご一緒に歩を進めました。慈円さまの歩みはゆっくりと、それでいて確かでした。行をされたお方の歩みとはこうなのでしょうか。軽やかでいられて、それでいて地を確実に踏みしめていられるのです。
 わたくしは比叡のお山に籠もられていた頃のお若い慈円さまが、今と同じように裸足同然のお御足で、小暗いお山の峰々を逞しく強く巡って行かれるお姿に思いを馳せざるを得ませんでした。
 
たった一人のお山での行。千日の籠山行。慈円さまはそれを成し遂げられた方なのです。その慈円さまが今は下界に下りていられて、こうしてわたくしと歩いていられるのです。
 人の世の、人と人との出逢いほど不思議なものはありません。ほんのわずかな狂いがあっても、そのときその人との出逢いはありえないのです。たとえば慈円さまがお山にいられるときにわたくしが京に出ていてでもしたら。 人と人との出逢い、それは天空に振れる鈴音のごときものなのでしょう。いっさいは時の運に委ねられて………
 
それは、彼方に控える円光の至上の中へ引き込まれてゆくような輝かしい歩行に思われました。それは、わたくしにとって一生の間で二度とないだろう安心(あんじん)の至福の歩行でした。わたくしにはこの慈円さまとのこの世でたった二人心通い合うこのときこの場のこのひとときが永遠に続くといいと思われました。
 
定家さまが駆けつけてこられ、お寺の方々も集まってこられました。定家さまはもうとっくに渓流付近を探すことを止めて、離れたところにいらした捜索の方々を連れてきてくださったのです。
銀嶺さま」
と、定家さまが慈円さまのお腕の中の銀嶺姉さまを覗き込まれて声をおかけになりました。そうして不安そうな問いかけの表情を慈円さまへお向けになりました。
ご安心ください。ご無事です」
と、慈円さまがお答えにならました。ふうっと力が抜けるようにして、その場に居合わせた方々のあいだで安堵が広がるのがわかりました。わたくしはその方々に向かって、
お世話をおかけしました」
と、深々と頭をさげてお詫びしました。
 
捜索されていた方々の話では、渓流のあたりは特に念入りに探されたそうですが、そのときには銀嶺姉さまのお姿はなかったそうです。とすれば、銀嶺姉さまはまだどちらかを彷徨われていて、そうしてそこに戻られたことになるのでしょう。 ほどなく銀嶺姉さまは息を吹き返されました。
気が付かれましたか」
と定家さまに言われ、周囲を見回されて、銀嶺姉さまはご自分のおかれている状況を、ご自分が抱えられているのは慈円さまのお腕の中だということをお察しになったようでした。それで、
とんでもないことを」
と、慌てて慈円さまのお腕からおり立たれようとされました。
 でも、そうするためにはまた慈円さまをお煩わせするしかありません。困ったような表情をされた銀嶺姉さまのお気持を推しはかられて慈円さまは、銀嶺姉さまのお手をご自分のお首に回され、ご自分から銀嶺姉さまを下ろして差し上げられました。銀嶺姉さまはすばやく居住まいを正してその場に伏されると、
重ね重ね、ほんとうに申し訳ございませんでした。深く深くお詫び申しあげます」
と額を岩にこすりつけられんばかりに頭を下げられました。
お顔をおあげください、銀嶺殿。ご無事だったことがなによりです」
と、慈円さまが言われました。
 月の光は変わらず白く眩く地上に降り注いでいました。

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白拍子の風 ■曼珠沙華・京の章 11

 都落ちなさるとき、維盛さまは行く先行く末の困難を案じられ、愛する家族を憂き目に合わすのは忍びないと北の方さまや幼い若君、姫君を都に残して行かれました。ご出立の日、いざ馬上の人とならんとされるとき、嘆き悲しまれる若君、姫君に鎧の袖、草摺にとりどり取りすがられて立往生され、門の外で待っていられた資盛さま方に大音声でもって咎められ急かされられたと言います。
 
資盛さまは、平家一門の命運の尽きたのを感じとられたとき、世尊寺家のお方のもとに赴かれ、旧交を温められてしばし和まれ、ご自分の亡きあとの菩提を弔うよう言い置かれて都落ちされたそうです。ご自身よりも年長で賢くいられるその方に、今はというとき心の拠りどころを求められたのでした。
 世尊寺家のその方はその一事で一時の情熱が冷めて遠のかれた恨みも忘れ、資盛さまのご入水の報を受けられたあとはひたすらご菩提を弔うことをご自分の生のよすがとして過ごされています。
  銀嶺姉さまはそのときたしかにまだお若くいられました。頼られる、というよりもまだ頼るしかないお立場ではありました。公達の方のどなたかに庇護していただく間柄となるには、まだ白拍子として世に出て日が浅過ぎはありました。そうして、たかがはかない一白拍子という身ではありました。ですが、それでも女として情を交わした一人の生身の人間には違いありませんでした。けれど、都落ちという非常事態の中で、一人として誰も、親身になって銀嶺姉さまの身を気遣い、あるいは別れを惜しみ、あるいはひとときの夢をむさぼってでも心の安らぎを求めにこようとした方はいられませんでした。
 
女としてこれほど寂しい、屈辱的なことがあるでしょうか。銀嶺姉さまの絶望は、平家一門という庇護者を失い生きてゆく道を断たれたからなどでは決してありませんでした。銀嶺姉さまの絶望は、今際の際に立った者の誰にも思い出していただけなかった女としての寂しい、寂し過ぎる絶望なのでした。
 
世尊寺家のお方のような、資盛さま亡きあと形見の手紙を料紙に漉かせ、尊勝陀羅尼など書かせて経供養するなどの、心籠もる豊かな悲痛を手にできなかった、おそらく永久に手にできないだろうことを悟った、絶望なのでした。弔う方のある離別は幸いです。追憶があれば美しく生きてゆくことはできますから。弔う相手のない離別は索漠として砂を噛むような、まともに見つめたら嘔吐するしかない、それはもう凄まじい荒涼とした心の世界です。
 もしもあと二、三年はやく生まれていたら……。もしも、女として熟した年齢でそういう事態に遭っていたら……。そのときだったら、銀嶺姉さまほどの方に、あの世までもと約束して契りを交わす公達との巡り逢いがないなどということはおそらくなかったでしょう。
  
けれど、それが、持って生まれたその人の運命なのです。どれほどの資質、どれほどの器量をもっていたとしても、それを生かせなかったら、それを生かすことのできる巡り逢いがなかったら、それは無に等しい。それがその人の限界なのです。
 厳し過ぎるかもしれませんが、巡り逢い、それ自体がその人のもって生まれた資質というのかもしれません。どれほど優れた器量をお持ちの修行者でも、一身の世話をひきうけてくださる有徳の方のつかない者は、人の心を捉えられない、すなわち真に人を引き付け人を救うことなどとうてい望めない、力の足りない者と見做されるといいます。
 教えなら経典を読めば書いてあるはずなのに、それでも師を求めて求道者が全国を行脚し、命の危険を犯してまで大陸へ渡るのも、血と血の触れ合い、人と人との接触の血の通った伝授を求めてにほかなりません。
運というのは、力があればおのずから備わってくるものなのでしょう。もし、備わってこないとしたら……
 銀嶺姉さまの絶望はご自分のその限界を見極められたところに根差していたのです。聡明な銀嶺姉さまは決してご自分の力の世に認められないことに忸怩たる思いを抱いたり嘆いたりする方ではありませんでした。銀嶺姉さまはご自分の限界を見極められた上で、その先を見ていられたのです。ただ、女としての一抹の命の迸り、それがさきほどのただ一つ悔いがあるとしたらの言葉なのでした。 それに対して慈円さまはこう言われました。
ただ、ほとけをこころに祈念しなさい。それに勝るものはありません」
  銀嶺姉さまは、
はい」
と素直に頷かれ、静かに頭をさげてひれ伏されたのでした。
 どれほどの時間そうしていられたでしょう。それがそんなに不自然なほど長かったはずもありませんが、銀嶺姉さまのお心の内を整えるに必要な時間としてわたくしにはとても長く感じられました。ふたたびお顔をあげられたとき、銀嶺姉さまは晴れやかな表情になっておられ、まっすぐに慈円さまを見つめて微笑まれました。
慈円さまは余裕ある風情で頷かれると、一転して陽気なお声で、
ですが、銀嶺殿。わたしは、白氏のその世俗的なところが人間的で好きですぞ」
と言われました。
もっとも、定家殿はお嫌いで、そこが二人の意見の分かれるところですが」
と。銀嶺姉さまは定家さまの方を振り向かれてくすっとお笑いにな利ました。定家さまはほっとされたように見えました。
 
お庭を歩いて銀嶺姉さまは定家さまとなにをお話になられたのでしょう。気が付くとお二人の姿は視界から消えていました。慈円さまのお心の内にも銀嶺姉さまに対する気掛かりは残ったのでしょう。
 他の方々が座を離れられ二人になると、わたくしの方に向き直られ、
「銀嶺殿を守ってさしあげなさい、そうできるのは貴女しかいないのだから」
と言われました。わたくしになにができるでしょう。銀嶺姉さまに守っていただきこそすれ、守って差し上げるなどできませんと申しますと、慈円さまは、いや、貴女はいるだけでいいのです、ずうっとついていて差し上げなさい、と言われました。わたくしもそれしかない気がして、心を込めて、はい、とお答えしました。
不思議ですね。貴女とははじめて二人でいる気がしない。貴女には、そういう力がお有りだ。銀嶺殿は貴女といるだけで既に救われているのだと思いますよ」
 慈円さまにそう言われても、わたくしにはまさかとしか思いようがありませんでしたが、そう言われる慈円さまご自身がくつろがれているごようすがありありなので、わたくしはそれでいい気がしました。
 夢のようでした。
 宇治でのあの夜、兼実さまと並ばれた高貴なお方が、とうてい手の届かない高みにいられるとばかり思っていたお方が、今はこうしてそよとしたわずかなお袖の気配さえも伝わってくるお側にいられるのです。そうしてそのお袖のそよぎを通してかすかに、でも確実に、慈円さまの人としての温もりを感じることができるのです。生きて、呼吸して、思考していられる人の匂いのする温もりを。
  瞼の裏にあの夏の日の明るい日射しが輝き、耳の中であのとき絶え間なく届いていた川音がふたたびしました。池の面を走る風にさささっと漣の立つのが見えました。
 
あの日、平等院のあの金色の阿弥陀さまがおられる御堂の下に、銀嶺姉さまとわたくしは座していたのでした。
 
御堂の中では今しも勤行がおこなわれ、散華の花が床に散っていました。そうしてそこに緑の衣のお坊さま方を従えられて緋の衣の慈円さまがおられたのでした。
 お勤めを終えて出てこられて慈円さまはわたくしをお認めになられ、そのときたしかにわたくしたちは、ほんの一瞬でしたが、心と心の交わりを見たのです。あのとき慈円さまがふらっとされたように思ったのはわたくしの思い違いでもなんでもなく、慈円さまは運命という重たい風に煽られられたのでした。
「今日はいらしてくださって嬉しく思います。ずうっと、この日を待っていました」
と慈円さまは言われました。
 
地下水が地中深く浸透してゆくように、慈円さまのお声はわたくしの心に深く滲みてゆきました。静かでした。特になんの話を交わすわけでもないのにそこに人がいるだけで満ちた空間。わたくしにははじめて経験する不思議な空間でした。
 しみじみと心の底から嬉しいと思いました。永久にそれは続くと思われました。でも、そうはあり得ないことはわかっていましたので、今時間が止まってくれたらいい痛切に思いました。
また、貴女の舞を見せてください。ここは紅葉が格別美しい。そのとき、貴女をお呼びしましょう」
 慈円さまは口数少なく、けれど思っていられることはその幾層倍も深いことがわたくしにははっきりと伝わってくるごようすで言われました。
 
そのとき、
銀嶺さまはおられますか?」
と、定家さまのお声がしました。

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