2010.2.6 栃木県立博物館連続講演会【足利尊氏再発見―肖像・仏像・古文書からみた尊氏―】のお知らせ

Totigi003 「最新の研究成果をもとに、尊氏と足利一族の実像に迫る」と銘うたれた連続講演会です。以下、詳細をお知らせさせていただきます。

 会場: 栃木県立博物館講堂
 時間: 午後1:30~3:30
 定員: 200名(先着順)
 申込・問合せ: 栃木県立博物館普及資料課 028-634-1312
           お電話でお申し込みください。2名まで予約可。一回のみ受講可。
 ■第一回 3月6日(土)  米倉迪夫氏   【足利氏の肖像】
 ■第二回 3月13日(土) 山本勉氏       【足利氏と仏像】
 ■第三回 3月20日(土) 峰岸純夫氏    【足利尊氏と直義】
 ■第四回 3月27日(土) 入間田宣夫氏 【青年尊氏の財産目録】

  先年、10何億の単位で落札されて話題になった運慶作の大日如来座像は、もとは足利市にある足利氏の菩提所「樺崎寺」の下御堂「法界寺」にありました。明治維新後の神仏分離政策で境内にあった八幡宮が残って樺崎八幡宮となり、仏教寺院は壊されて仏像が海外に流出したとされています。

 この連続講演会は、こういった新しい情報が加味された足利氏像のお話と思われます。全部拝聴したいのですが、連続4回、毎週土曜日に宇都宮まで行くのはちょっと大変。悩んでしまいます・・・。栃木県立博物館は、宇都宮市の中心部にほど近い栃木県中央公園内にあります。

●栃木県立博物館
http://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/news/2010/03/post_73.html

●樺崎寺を訪ねたときの記事
http://ginrei.air-nifty.com/kujaku/2009/12/post-182a.html

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2010.2.5 昨日は立春でした・・・、古今集「春立つ日の歌」から万葉集の仙覚へ

221 昨日は立春でした。一年のうちで一番好きな日です。何かそれらしいお花を撮ってアップしようと思っていたのですが、時間がとれずに今日になってしまいました。写真も撮っていたなかから探して水仙の花を・・・。小さな鼓はお正月の飾り用に売っていた小物です。いたずらに乗せてみたら意外とマッチしてパチリ・・・と。春を寿ぐ写真になりましたでしょ!

 立春ということばを思うと頭のなかで「春立つ日に詠みたまいける・・・」みたいな文言が離れなくなって、そしてすぐに「年のうちに春は来にけり・・・」と続きます。歌は特に意識しているわけでないのに、こうして日本人の感性の基層になっているのですね。

 ちょうどいい機会なので古今集のこの歌のあたりを見てみました。「巻一 春歌上」です。

     ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
一. 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
     春たちける日よめる 紀貫之
二. 袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん
     よみ人しらず
三. 春霞たてるやいづこみよしのの 吉野の山に雪は降りつつ
     二条のきさきの春のはじめの御うた 二條のきさき
四. 雪のうちに春は来にけり鴬の こほれる涙いまやとくらん
     よみ人しらず
五. 梅がえにきゐる鴬春かけて 啼けどもいまだ雪はふりつつ

 万葉集研究の歴史をひもどいていて、歌集の書き方に、題詞を高く書くか、歌を高く書くか・・という流派のような経緯があるそうです。

 例えば、
「題詞を高く」の場合は、
 ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
   年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ
 となり、
「歌を高く」の場合は、
   ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
 年のうちに春は来にけりひととせを こぞとやいはんことしとやいはむ

となります。

 第四代将軍頼経によって最初に万葉集の校定を命じられた源親行の本は「歌を高く」だったそうです。これはその当時の普通の形式で、親行が底本にした万葉集もそうなっていたようです。これはどうも歌が上の場合の方が歌を一行に書き切れるという合理性から普遍的になったようです。

 その後、再び頼経の命によって今度は仙覚が万葉集の校定にかかります。いわゆる寛元本です。そのときは親行が成した本を底本にしたので「歌を高く」でした。が、そのとき、仙覚の心のなかにはある思いが湧いていたようです。それは、「万葉集の古い時代にあっては題詞が高いのが正しいのではないか・・・」というものでした。

 そして、宗尊親王のもとで再度万葉集の校定にかかったとき、仙覚は「題詞を高く」を採用しました。これが文永二年本、文永三年本です。この問題に言及されている小川靖彦氏はご著書『万葉学史の研究』のなかで、「『万葉集』本来の姿を復元を強く志向する仙覚の万葉学の性格からすると、(中略)、仙覚は題詞の高い体裁こそを『万葉集』本来のものと考えていたのであろう」と書かれています。

 古今集の歌を引きながら、話がついつい万葉集にいってしまいました。万葉集で有名な春の歌って何でしたでしょう・・・。春の野にすみれ摘みにし、が思い浮かびますが、これは立春の歌ではないですね・・・

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ shine

★冒頭のブログパーツの動物をクリックしてみて下さい。素敵な「Tord Boontjeワールド」が出現します。rtsgarden.jp/cs/blogparts/detail/091211001227/1.html

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2010.2.2 雪の称名寺を撮りに行ったのですが・・・

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067 昨夜は珍しく関東でもかなりの雪が降って、ここ三鷹でも一面真っ白に積りました。たまたま最近称名寺の写真を整理していて四季折々撮り溜めてはきたものの雪景色だけがないなあ・・・と思ったばかりのときでしたから、これは!とばかりに出かけました。私は称名寺を1999年頃から撮っていますが、あいにくその頃から温暖化が進んで雪が積もらなくなっていたんです。たまに降っても、二時間かけて行ったころには溶けてしまっていて・・・

 昨夜の降りでは相当真っ白の銀世界が撮れるものと思っていました。で、期待して行ったのですが、やはり消えてしまっていて、地面が濡れている他は雪が降った形跡すらもないくらいでした。でも、一応、折角来たのですから撮ってきました。午前中に撮りたてのほやほやの写真の称名寺です・・・、といっても荒涼とした真冬の光景で寒々しいばかりですが(笑)

 橋は昨年春に塗り替えられたばかりのはずですが、もう褪色がすすんでいて唖然としました。塗り替えって、こんなに早く褪せるものですか? この以前の橋のときはもっと長く色が保たれた気がするのですが・・・

 先日来、ある必要があって称名寺の写真を見返しています。1999年からというとほぼ10年ですよね。そのころがその当時の真新しい橋で、とても真っ赤で綺麗でした。側面の剣菱のような文様も金色の輝きが見事で。浄土式庭園というのは平安時代の作庭の形式ですが、平安風にほんとうに優雅な光景を醸し出していました。称名寺は関東で数少ない平安の面持ちを有する寺院です。

 写真一枚目は赤門の「称名寺」の額。二枚目は苑池。三枚目は山門の上にかかっている扁額を守る鳳凰?です。今まで下の仁王様にばかり気をとられていて気がつきませんでした。最後は苑内に咲いていた蝋梅です。

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2010.1.29 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!! 番外編・・・⑪埼玉県比企郡 慈光寺

019_2 133_2 084_3 010_2 102 105 117_3 118_3 【万葉集の歴史の森に分け入りましょう】シリーズは先日10回をもって終了にしましたが、ここにきて慈光寺について書いておきたいことがでてきましたので番外編として追加させていただきます。

 『承久記』という承久の乱について書いた合戦記がありますが、その諸本のうちに「慈光寺本承久記」というのがあるのだそうです。ある方からそれを伺って、早速国文学研究資料館の図書室で調べてきました。私が仙覚をめぐって埼玉県の慈光寺に行ってきたことをお話したところ、「『承久記』に慈光寺本というのがあるのだけれど、その慈光寺と関係あるか・・・」みたいなことで教えていただいたのです。

 「慈光寺本承久記」について書かれているのは、村上光徳先生の「慈光寺本承久記の成立年代考」と「慈光寺本承久記の出所をめぐって」です。拝読して、「出所」としての結論は、村上先生のご論考のなかでは「江戸時代に慈光寺家にあった本を書写したもの」ということでした。たしかに江戸のその段階ではそうなのでしょうけれど、では、その慈光寺家に伝わる前の室町・鎌倉時代へとさかのぼったらどうなのか・・・では、まだ埼玉の慈光寺との関係がまったく否定されるほどでもないなあ、という感触をもちました。何か、関係を示す資料が現れたら面白いのですが・・・。

 慈光寺を訪ねたときに、ここがあの日本三大装飾経の一つ『慈光寺経』の寺院なのだと驚いたのですが、その後調べていくうちに、この『慈光寺経』が九条家ゆかりのものだと知りました。どうして京の中枢に位置する九条家のものが、こんなといったら埼玉に失礼ですが、鄙びた関東の奥地の寺院に?といった疑問が湧きました。

 それでなお調べていって、当時の幹線道路は東山道で、現代のような東海道ではなく、奈良・京都の文化は東山道を通って関東についたらまず群馬や埼玉といった地域に定着した。それから鎌倉街道をくだって南下して鎌倉に入った、とありました。成程納得です。現代の私たちは現代の流通機構でしか考えられませんが、当時を知るには当時の機構を綿密に知らなければなりません。以前、称名寺の長老を下野薬師寺から招いた・・・みたいなことを読んで、そのときもどうして「下野」にそんな大きな寺院があったのか・・・も疑問だったのですが、そういうことだったのですね。案外、当時において、鎌倉のほうが文化が遅れていたんです!! これって、結構、案外、みなさん知らないことではないでしょうか!!

 経路はわかりましたが、それでもまだ「何故、京の九条家が関東の奥地の慈光寺にまでわざわざそんな宝物を奉納されたのか?」の謎は不思議です。それを今探っていて、もしかしてここに「仙覚が誰か」の謎を解くキーワードが隠されているのかも・・・みたいなことになってきています。一つヒントを書きますね。仙覚に『万葉集』の校定を命じたのは九条家出身の将軍第四代頼経です。

 慈光寺と、『慈光寺経』と、『慈光寺本承久記』と、仙覚・・・、そこにどんな繋がりがあるのでしょう。ほんとうのことをいいますと、うっかり答えをここで書いてしまいそうにほぼ全貌が見えてきています。わくわくする世界です。実証できるかどうかはともかく、論文では納得いただけるようには書いていくつもりです。

 写真は慈光寺を訪ねたときのもの。時間がなくて最初の本堂をしか訪ねられませんでしたが、山全体が慈光寺です。宝物殿や観音堂、五重塔(五重か…不確かですが)などへはもっと上へのぼっていきます。下の二枚は境内に建てられた「空海の破体心経」と「良寛の楷書心経」の碑です。

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2010.1.27 有賀眞澄氏【うつしみうつしゑ】展のお知らせ

002 有賀眞澄さんが人形作家の衣(メリユ)さんと銀座で【うつしみうつしゑ】展を開かれます。
以下、詳細です。

会期: 1月30日(土)~2月4日(木) 12:00~19:00 
                        最終日は20:00まで
会場: ギャラリーツープラス 中央区銀座 1-14-15 2・3F
                  03-3538-3822

追記:2010.2.1 
 拝見してきました。人形作家衣(メリユ)さんとのコラボレーションの世界は素敵でした。辻村ジュサブローさんの人形ファンの私には、衣(メリユ)さんの作風が少し似ているような・・・。心惹かれて飽かず観てしまいました。でも独学でここまで来られたそうです。サイトにお作品が並んでいますから、是非ご覧になってください。死ぬ思いで創作されたとのこと。そういう魂の籠った気魄を感じます。
 有賀さんの世界は最近少し宗教的な深みを帯びてきてらっしゃいます。仏教とかそういう宗教でなく、私には《釈尊》といった《原始》の哲学を感じます。美しすぎて怖くてうかつに言葉にできない世界です。でも、今日はその創作過程を伺って、作品の奥の透明感が理解できました。

有賀眞澄氏サイト: http://algasmi.jp/
衣(メリユ)さんサイト: http://melsine.com/

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2010.1.27 シンポジウム【書写山円教寺と兵庫県下の山岳寺院】のお知らせ

仁木宏様からいただいたメールのお知らせを転記させていただきます。

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シンポジウム 書写山円教寺と兵庫県下の山岳寺院

日時: 2月20日(土) 10:30~17:00

場所: 日本城郭研究センター 大会議室
     〒670-0012 姫路市本町68-258
     TEL: 079-289-4877

参加費: 無料

申込先: 〒662-0965 西宮市郷免町8-17 
          大手前大学史学研究所 山寺シンポジウム係
          E-mail oteshigaku@gmail.com
                      FAX  0798-32-5045

【プログラム】

趣旨: 大手前史学研究所では、平成19年度より「中世「山寺」と地域社会」と題し、いわゆる播磨六ヶ寺(書写山円教寺・増位山随願寺・八徳山八葉寺・妙徳山神積寺・法華山一乗寺・蓬莱山普光寺)をとりあげて空間構造の復元やその展開、また寺院が地域社会に果たした役割などを考察する研究プロジェクトを企画しました。播磨六ヶ寺は『峯相記』に「公家・武家ノ祈願寺」とあるように、時の権力者の保護をうけて国家安寧を祈願した寺々であり、播磨の歴史にとって非常に重要な役割を果たしていたと考えられるからです。この3ケ年は六ヶ寺中最大の規模をもつ書写山円教寺の遺構や遺物、史料について調査・研究をすすめてまいりました。今回のシンポジウムではその成果をご紹介しつつ、兵庫県下の調査研究の現状を概観して、中世山岳寺院遺跡研究の展望を得たいと思います。

11:00~ 開会挨拶
11:10~ 基調報告  「書写山円教寺の調査と中世寺院研究」 中井敦史
11:50~ 事例報告1 「書写山円教寺の空間構造」 山上雅弘
12:20~ 昼食
13:30~ 事例報告2 「中世後期の書写山円教寺」 小林基伸
14:00~ 事例報告3 「多可町の山林寺院」 宮原文隆
14:30~ 事例報告4 「但馬地方の山岳寺院」 西尾孝昌
15:00~ 休憩
15:10~ 討論
16:40~16:50 閉会挨拶

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2010.1.26 【平安京・京都研究集会 第19回】のお知らせ

仁木宏様からのメールをご紹介させていただきます。

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平安京・京都研究集会 第19回 御案内

  平安京・京都研究集会では、「検証 考古学が明らかにした古代・中世の京都像」と題する一連の企画を催すこととしました。近年刊行された、京都の考古学にかかわる3冊の論集を順次とりあげ、連続書評会をおこないます。これらの研究集会によって、考古学を中心とする京都研究の成果を確認するとともに、今後の研究の課題を見出すことができれば幸いです。
 第19回は、そのうちの第1回として、鋤柄俊夫著『中世京都の軌跡』(雄山閣、2008年)をとりあげます。同書で鋤柄氏は、11世紀から16世紀までの京都内外のさまざまな歴史事象に注目し、多角的、学際的に都市京都の特色を解明しようとしておられます。研究集会では、権門都市論、室町幕府論などの視角や、考古学の方法論をめぐって議論したいと考えています。

  日時:2010年2月28日(日) 13:00~17:00

  会場:機関紙会館 5F大会議室
       京都市上京区新町通丸太町上ル東側。日本史研究会事務所の建物 
              市バス「府庁前」バス停すぐ。
        地下鉄「丸太町」駅下車、2番出口より西へ、2筋目を北へ。徒歩6分
    http://homepage2.nifty.com/kikanshi-keiji/kaizyou.html

    報告(評者);美川 圭氏(摂南大学、日本中世史)
          桃崎裕一郎氏(立命館大学、日本中世史)
          山本雅和氏((財)京都市埋蔵文化財研究所、日本考古学)
  コーディネート;仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史)

     *事前の申込不要。一般来聴歓迎。
     *当日、資料代をいただきます。

  主催  平安京・京都研究集会

          集会案内のHP http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/kenkyu/staff.html

  後援  日本史研究会

  問合先  平安京・京都研究集会事務局(山田方) 090-9697-8052

  本シリーズの第2回では、堀内明博『日本古代都市史研究』(思文閣出版)、第3回では、山田邦和『京都都市史の研究』(吉川弘文館)をとりあげる予定です。

●鋤柄俊夫『中世京都の軌跡-道長と義満をつなぐ首都のかたち-』雄山閣、2008年
  序章 慶滋保胤の意図
  第1章 分裂する都市-鳥羽殿の意味-
   1 京の外港
   2 鳥羽殿
  第2章 再生する都市-上辺と下辺-
   1 七条町と八条院町
   2 西園寺公経と持明院殿
  第3章 主張する都市-「首都」の条件-
   1 花の御所を掘る
   2 洛中洛外図の発掘調査

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2010.1.24 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!! 最終回・・・⑩鎌倉妙本寺 竹御所ゆかりの新釈迦堂跡地

Dsc_0090 Dsc_0081 Dsc_0070 Dsc_0122 Dsc_0104 Dsc_0129 Dsc_0141 竹御所は頼家の遺児ということは確かですが、母が誰かについては確定されていません。比企一族亡きあと、そこを相続するようにして比企ケ谷に御所を構えて住んだことから一族の血を引く・・・、つまり母は若狭局だろうというのが通説です。が、室町時代にできた『尊卑分脈』では木曽義仲の娘になっています。

 私も最初は『尊卑分脈』のこともあるし、通説を疑って、もっと別の女性の可能性もあると考えていました。小説的にはその方がずっとゆたかな話になるんです・・・。が、仙覚についていろいろ知識が深まるとともに、竹御所についても自然と経緯が読めてきて、今ではすっかり若狭局の娘という考えに定着し、揺るぎなくなっています。

 つまり、比企の乱の年、それは建仁3年(1203)ですが、竹御所は産まれたばかりで若狭局とともに政局とは関係のないメインの館でない場所にいた。それで乱に巻き込まれずにすんで生き残ったが、母若狭局が悲嘆のあまり自殺してしまったために、祖母政子によって養育された・・・、というのが私のなかでの自然な決着です。そして、これは通説通りです。

 成長した竹御所は頼家の遺児として、実朝亡きあとは源家の血を引く最後の人として御家人たちの象徴的存在になります。政子も竹御所を後見人のようにして育て、竹御所自身、それに応えられるしっかりした女性になっていきます。『吾妻鏡』をみるとそのころ竹御所主導でいろいろとりしきられていることが明記されていますから、さすが政子の孫!といった感じです。

 28歳のとき、15歳も年下の第四代将軍頼経と結婚します。これは今一度源家の血を引く人間を将軍にという切なる望みを一身に背負ってのことでした。その夢が叶いそうになっての出産で竹御所は命を落とし、ここにほんとうに源家の血が絶えてしまったのでした。京に滞在していた御家人たちが彼女の訃報を聞くや慌てて鎌倉にこぞって戻ったといいますから、如何に源家血筋の唯一の存在として人望を集めていたかが伺われます。15歳も離れて年上の女性とはいうものの、頼家は彼女を慕っていたようで、『吾妻鏡』にいっしょに名前を連ねている歌会の記事などをみると微笑ましくなります。

 生きてらしたら素敵な女帝が鎌倉に存在して、鎌倉の歴史ももっと彩られたでしょうと思います。なにしろ政子の血を引くやり手で、若狭局から受け継いだ優しさと美しさを兼ね備えていたでしょうから。(そうでなくて頼経があれだけ心を寄せるはずはないですよね・・・)。薄倖の女性で若狭局の娘というとどうしても楚々としてはかない美しさと思いたくなりますが、実際は鎌倉の長にふさわしいしっかり者だったと思います。彼女自身、頼家の娘としての尊厳を自覚していたようですから。

 彼女の死を悼んで建てられたのが新釈迦堂です。それは妙本寺境内の一番高い位置にある平場といわれ、現在そこは妙本寺の墓地になっていて、その一番奥に竹御所のお墓があります。一枚目の写真がその光景です。二枚目はお墓です。お墓の脇に女扁に美という漢字に子と書いた「びし」と呼ぶのでしょうか、名前が刻まれた碑があります。が、竹御所にはもう一つ別の名前があって鞠子といいます。頼家が蹴鞠を好きだったことからつけられたのでしょうね。私はなんと読むのかわからない「びし」よりも鞠子の方が好きですから、「花の蹴鞠」では鞠子を使うつもりでいます。

 この新釈迦堂の僧侶として仙覚はここで万葉集の研究に勤しみました。仙覚は竹御所と同じく比企の乱の年の生れです。母親も、父親さえもわかっていませんが、『万葉集』『万葉集註釈』の二つの奥書に「比企」があることから、比企一族ということが察せられます。乱のあと、一族の血を引く男児として殺されないために鎌倉を離れ、おそらく埼玉の比企郡に身を寄せたのでしょう。そこからさらに京都にのぼったり変遷して、竹御所を悼む新釈迦堂ができたときに、同じ一族の血を引く者として住職に迎え入れられたのではないでしょうか。そして竹御所亡きあとの頼家に仕え、その頼家から万葉集の校定を命じられるのです。

 仙覚は竹御所と会っているでしょうか。産まれたばかりでちりじりになって、その後は仙覚がほとんど鎌倉に戻っていませんから、もし竹御所の死後、その追悼のために呼ばれたのだとしたら一度も会っていないことになります。仙覚がいつ鎌倉に戻ったか・・・のあたり、もっと詰めて考えたいですね。気持ちとして孤児どうし残された身内・・・、心の通い合いがあったと思いたいですものね。

 仙覚の万葉集の功績を称える碑は竹御所のお墓がある平場にのぼる石段の下に建っています。ひっそりと、永遠に、竹御所を守り続けるかのような風情です。妙本寺の境内には、日蓮宗寺院としての現在の伽藍・お堂とは別に、こんなにも深い比企一族の方々の歴史があるのです。当時を偲ぶものは何も残されていませんが、その地にはたしかに一族の方々の生きた思いが込められているのを感じます。比企の乱のあった地として、その狭い空間で歴史の流れが変わった地として、若狭局、竹御所が暮した地として、一度妙本寺を訪ねてみていただきたいと思います。そうしてそこに仙覚が万葉集を研究した地として・・・。(このあたり、もっともっと思いは深いんですが上手く書けなくてもどかしい・・・です。これからかかる論文と「花の蹴鞠」とに思い切り書きこむことにします。)

 これで10回に分けてご紹介させていただいた「万葉集の歴史の森に分け入りましょう」シリーズを終わらせていただきます。私のなかではすでにはっきりと仙覚が誰かメドがたっています。その人生を追うと、さまざまな折で当時の重要な文化にも遭遇し、それがまた仙覚が誰かの問題解決につながったりして面白い展開になっています。論文の発表は夏以降になりそうです。そのときに仙覚がいったい誰だったかをまたここで書かせていただきますね。

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2010.1.22 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑨鎌倉妙本寺 若狭局ゆかりの蛇苦止堂

052 156 054 043 049 036 若狭局は比企能員の娘です。頼家の側室となって男児一幡を産んだことから、能員が北条氏に代わる外戚となる可能性ができたために、比企一族は滅ぼされました。

 比企の乱とはいうもののたった一御家人の屋敷を襲うだけですから、一日と戦わずにしてあっけなく終わっています。

 妙本寺の境内に入って、昨日地図でご紹介した一族の墓がある平場へ昇る坂道はちょっとした山道のようなすずやかさがありました。この山道があるために鎌倉市街からはちょっと遊離した避暑地的空間になっています。その昇り詰めたところにあった屋敷・・・。火を放ってもそんなに一日中燃えているわけではなかっただろう狭い空間・・・。乱のとき、こんもりした小さな森を隔てた高台でそれだけの殺戮が行われていることを市街の人は知っていたでしょうか。もちろん、武具をまとった武士団が乗り付けて入っていったのですから、察しはついたでしょうけれど、中の雄叫びや悲鳴が市街にまで届いたか、私には気になります。たったひとっ跳びの森を隔てての地獄とふつうの日常・・・。一方では怒号が飛び交い血しぶきが飛び散る命がけで戦う人々。その一方で反対側ではいつものとおりの時間が流れていて、人々は心配しつつも別世界のように谷を窺っている・・・

 一族の墓がある場所で討たれたのは一族のうちの男性陣と幼い一幡君だけだったようです。あとで乳母が一幡君の遺体を確認しています。それで一幡君は骨を拾ってもらって高野山に葬られています。ということは、乳母は一幡君と一緒にいなかったことになります。『吾妻鏡』で、その一日の事の顛末を読んだとき、最初はどうしてもいろいろ不可解でした。何故乳母なのに一緒にいなかったの・・・とか、母親の若狭局はどこにいたの・・・、いえ、若狭局自体、ほんとうにこの乱で死んでいるの・・・とか。

 若狭局の死は『吾妻鏡』に明記されていません。ただ、ずっと後に執権北条政村の娘にとりついて、「自分は若狭局の霊で蛇となって未だに苦しんでいる」と告げたということが書かれています。幕府が関わってできた『吾妻鏡』の記載にそうある以上、若狭局が乱のときに亡くなっていることが幕府の中では認知されていたのでしょう。気持ちの上では比企郡にある「若狭局が逃げ延びて住んだ」という伝承を信じたい気もしますが・・・

 蛇苦止明神を祀る蛇苦止堂は、前回地図で確かめていただいたとおり、一族の墓がある広い平場とは離れたところに独立してあります。この堂自体は政村の娘にとりついた若狭局の霊を慰めるために建てたそうですが、ここだったのか、それとも別の平場か、私の推測ですが、とにかく若狭局は乱のときの屋敷とは別の私的な住居に乳母と一緒にいたのでしょう。

 おそらくそのとき、若狭局は一幡の妹となる女児(竹御所)を産んだばかりで、その育児に乳母とともに専念していた・・・。一幡はすでに比企氏を背負う長として公の場であるメインの館に男たちに交じっていたのだと思います。それで一幡は一族とともに果て、若狭局・竹御所・乳母は助かります。

 が、その後、絶望のあまりに若狭局は井戸に身を投げて死んだそうです。残された竹御所は祖母政子に引き取られて成長したようです。若狭局の霊はずっと後になっても祟ってでるほどだったといいますから、如何に比企の乱が理不尽な許せないものだったかがうかがわれます。

 蛇苦止堂に向かって狭い石段を昇り詰め、視界が目に収まったとき、一瞬来るのでなかったと後悔したほど思わず足がひるみました。なにかとても不吉なおどろおどろしい感じがしたのです。全体に薄暗く、蛇とか祟りとかの伝承を知っているからというだけではない不気味さがそこにはありました。そして、若狭局が蛇となって住んでいるという池や、身を投げた井戸、というものが実際にそこにあるのです。

 でも、蛇苦止明神というのは、前回でも記しましたが、「苦を止める」のです。一瞥したときに感じる文字の怖さと意味は正反対です。どうにかならないでしょうか、この名前。美しかったでしょう若狭局にもっとふさわしい名称はなかったのでしょうか。

 そんなことを思いつつ、こわごわと井戸を撮ったりしながら、次第に境内の雰囲気に慣れて、それから最後に再びお参りしてから帰ろうとお堂に向かって手をあわせて「これから恨みを晴らしてさしあげる小説を書きますね」と心のなかで呟いた時、ふっと後ろから陽が射してきてあたりが明るくなりました。振り返るとそれまで空を覆っていた雲が引いて青空が見えています。若狭局に気持ちが通じたんだ、よかった・・・と思いつつ石段を下りはじめました。一枚目の写真がそれです。お堂に陽が射していますでしょ。着いたときは射していなかったんですよ。下の方の池や井戸の写真はそれより前に撮ったもので薄暗いままです。

 石段の途中に妙本寺の庫裏があります。そこにさしかかったとき、ガラッと引き戸があいて、中から作務衣姿のお坊様が出て来られました。「写真を撮らせていただきました」とお礼を申し上げると、「いい写真が撮れましたか?」といわれます。「はい、ちょうど陽が射してきましたので」と申しあげると、「それはようございました」と、その方がおっしゃるのです。なんか変な会話・・・と思ったとき、ふっと私は若狭局がそのお坊様に乗り移って言葉を発せられたかのような感覚にとらわれてしまいました。

 三枚目のお墓の写真は「讃岐局の墓」で、一族のお墓の脇の細い階段をのぼったところに一基だけあります。若狭局はのちに讃岐局と呼ばれました。仙覚が頼家の子と推測されるご本を拝読したことがあります。そうすると母は若狭局ということになります。けれどいろいろな事情を重ね合わせてみて竹御所の母はやはり若狭局とするのが妥当というところに私の気持ちは固まってきています。すると、同じ年に竹御所が産まれているのですから、仙覚と竹御所は双子?! なんて驚異的な考えにまで飛躍してしましました。目下は治まって、やはり竹御所の母は若狭局、仙覚の母は別の人・・・という考えに落ち着いています。

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2010.1.21 万葉集の歴史の森に分け入りましょう!!・・・⑧鎌倉妙本寺 比企能員一族の墓

007_2 803 009 008 001_2 023 015 鎌倉の妙本寺のある地はかつて頼朝から比企尼がこの地を与えられて住んだことから比企ケ谷と呼ばれています。能員は比企尼の甥です。比企尼の養子となって頼朝から格別にとりたてられたご家人です。妻が頼家の乳母となり、娘の若狭局が側室となって男児一幡を産んだことから、順調にいけば将軍の外戚となって北条氏に代わる権力者になるはずでした。

 そんなことをみすみす許すはずのないのが北条氏です。建仁3年(1203)、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。それが比企の乱です。一族の墓が妙本寺境内にあります。

 現在日蓮宗寺院の妙本寺は、能員の子孫が一族を弔うために建てたものです。日蓮に帰依した僧侶でしたから日蓮宗寺院になりました。それまでは比企の乱で生き延びた頼家の遺児竹御所が住んでいたようです。竹御所は成長して第四代将軍頼経の室となります。が、出産時に死去。御所のあった地あたりに葬られ、そこに新釈迦堂というお堂が建てられました。この時点では天台宗寺院だったようです。仙覚は天台宗の僧侶です。

 妙本寺境内は平場が何段かになっていて複雑な地形です。下から二枚目の地図をご覧になっていただきたいのですが、赤く「現在地」と記されたところまでは鎌倉駅から通ってきた通りと同じ平地です。そこから斜め左にあがった平場に現在の方丈があります。そこへは行かずにまっすぐ進むとかなりな急坂になり、祖師堂のある別の平場に出ます。この一帯に比企一族の墓と一幡君の墓があります。なので能員の屋敷はここにあり、ここで攻められて滅びたのでしょう。

 竹御所の墓や新釈迦堂があった平場はここからさらに階段で上に昇ったところにあります。地図では階段だけが描かれていて平場は切れてしまっています。階段を昇ると現在は広い墓地になっています。仙覚の万葉集の碑は、この階段の下にあります。上の平場の竹御所の墓を守っているような感じです。仙覚も比企の乱の年の生まれ。同い年の二人です。どういう関係の二人だったのでしょう。

 地図に戻って赤い「現在地」から左へくねくねと延びる小道の先にあるのが蛇苦止明神。若狭局のお堂です。おどろおどろしい名前ですが、「蛇」となった「苦」を「止」めるというのですからいい名前なのですが・・・。若狭局の旧跡と竹御所ゆかりの平場については順次アップしていきます。

 仙覚は最初鎌倉の「比企ヶ谷新釈迦堂」で万葉集の研究に勤しみ、晩年近くなって「埼玉県比企郡小川町」で万葉集註釈を成しました。これまでずっと比企郡の地をたどってきましたが、ここから鎌倉に戻ります。仙覚の移動した空間を追体験していただけましたでしょうか。写真は昨年暮れの27日に訪ねたときのものです。なので一枚目の写真には門松が立っています。

【織田百合子ホームページ】 http://www.odayuriko.com/ shine

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