2020.7.8 ツイッターから転載…日々雑感、都知事選が終わり華鏡に専念する日々に戻ります、今年も【七夕は鎌倉の源氏物語の日】がきました他

7月4日

雨の朝の玉簾の蕾第一号 放置していたベランダのプランターを整備して生き返った玉簾です おはようございます 都知事選が終わるまで煽られるのが嫌だからTLは見ないという当初の覚悟は跡形もなくついに終盤戦 宇都宮けんじさんのどんどん風格ついて輝いていかれるご様子にひょっとしてひょっとしてと

 

こんなに見事に開いた時期もあったのになぜか今年はまだ蕾です 我が家のカサブランカは 日照とかいろいろ影響あるのでしょうね 周りに木や家が建って 諸事あって原稿に向かえないでいましたがその間もずっと思念は進行していて 昨夜頃から彰子さんと能信が会話しはじめています こんなことって!

 

石巻や鳥取で感染した方々は東京にきて帰られた方々とか 横田基地のマップでは東京の赤い地域に入った人は何日か隔離と 東京都心部 相当ヤバイと思うし 当地は多摩だからやはり地図の赤い都心部地域には例え美術館でも行かないでいようと思います

 

朝蕾だった玉簾が開いていました でも過去写真を見てたら玉簾の開花は9月 たった一輪なのはこの一輪が間違って咲いたのでしょうね でも嬉しい

 

7月5日

雲が刻々と金色に染まって目が離せませんでした

 

もう一枚 風が強く 嵐のような風 雲と関係あるのでしょうか

 

家の背後になる西の空はもっと強烈な金色に

 

TLは コロナを配慮して最終日の街宣を止められたために 他の候補の方の街宣ばかりが怒涛のように流れてくる こうなるのをわかっていて止められた方だからこそ信頼できる と思う 慎重過ぎてし過ぎることのないコロナ 最終街宣を取りやめるなどのありえない決断こそあり得ない真の候補者さんと思います

 

案じていますとお葉書を戴いた 東京にいる私に どうぞどうぞお気をつけてお過ごし下さいとも 鎌倉の活動を最初からずっと見ていて頂いた あとは成就のご報告をと思っていました この方にはまだ華鏡のことをお伝えしていない 書けたらと思っていたけれど そろそろやはり華鏡 前編に全力投球しなければ

 

7月5日

おはようございます 朝一で投票にいってきました どうか願いが叶いますようにと祈る思い 昨夜届いた恩師のお葉書に励まされているなあとしんみり 東京を離れられてから糸の切れた凧みたいだったとつくづく思いました 都知事選に気をとられることもなくなるからこれから心機一転頑張ります

 

都知事選が終わりました ほっとしたのは山本太郎さんの立候補で宇都宮けんじさんの票が割れてという敗北にならなかったこと 両陣営の方々に心から感謝します そして 私的には宇都宮けんじさんが今でも政治活動に前向きに健在でいて下さったことの確認ができてほんとうに嬉しかったです

 

都知事選が終わりました ほっとしたのは山本太郎さんの立候補で宇都宮けんじさんの票が割れてという敗北にならなかったこと 両陣営の方々に心から感謝します そして 私的には宇都宮けんじさんが今でも政治活動に前向きに健在でいて下さったことの確認ができてほんとうに嬉しかったです

 

宇都宮けんじさんは 最初にたったひとりで立候補の会見をされ そして コロナを配慮したったひとりで夜の街で最後の街宣をされた孤高なお姿 政治家としての美学のお姿 ずっと心に焼き付けられていくと思います 心からありがとうございました

 

7月6日

おはようございます 都知事選の明けた朝 今日から私は華鏡に心機一転頑張ります 密教では血脈といって人から人の教えを大切にします それを教えて頂いた方からの励ましを得て 今迄随分枯渇していたなあと 人から人の温もりから離れていたから原稿に心を込められなかった そんな気がしての心機一転です

 

それにしても 共産党の方々 なかでも志位委員長と小池晃さんの知性に裏打ちされた信念のブレなさ 大きなことのためには潔く身を引いて それがのちに裏切られても文句一つ言わないで達観されている凄さ 感服しています

 

そういえば私 仙覚さんの小説を書くからこんなに政情に関心を持つようになったのだから 以前はひたすら文学だけに没頭していたのだけれど 共産党不破委員長のファンで 新人賞を頂いた小説で憧れの人を不破さんと命名して書いたのでした だから志位委員長との交代の時期も知っています

 

政治の世界の魑魅魍魎は仙覚さんの人生がそれであったのだから理解しているつもりだったけど でも今は民主主義の選挙で選ばれた人が政治をする時代だから鎌倉時代とは違うと思っていたのに 選挙をする人たち自体がなにもわかってなくて魑魅魍魎を選んでしまうなら選挙なんてと思ってしまいました

 

私の原稿はこれから仙覚さんの人生に入って書いていくのだけれど 今日のここの感想はどう書けるか自信がない 今までは為政者の側の酷さとだけしか認識してなかったので でもこれがたぶん中世にあってもそうなんだという気が微かにしています 人間社会ってそうなのかも

 

でも だからこそ仙覚さんは万葉集に没頭し 普遍の芸術性 普遍の真理に浸った 対極の意味で 今日の経験は私には有意義だったのでしょう 仙覚さんの原稿の華鏡 普遍の価値に仕上げます

 

用あって昨年夏に岐阜の学会で発表した時の資料を見ていたら 昨年の今頃はこんなことをしていたのだなあと一年後にこんなコロナの世界になるなど夢にも思わなかったと 人生は 歴史も 本当に先は予測つかない 写真は自分で作った王朝継紙の端切れですが左の一枚は徳川美術館の講座で頂いた本物です

 

昨年の今頃発表用の配布資料をコピーに立川のキンコーズに行っていました そんな写真を見ていたらなぜ撮ったのかこの一枚があって料紙っていいなあと改めて思いました 発表は源氏物語写本の大型本についてでしたが 金沢文庫本万葉集にも言及していて そこが目下の関心事で読んだのでした

 

白河天皇と能信のこと 白河天皇があまりにいい流れで院政まで書けてしまったから 法勝寺を入れるのに苦労して やっと入れられたと思ったら 能信が入ってない 気持ちの流れを選挙とかで中断して書いた院政までの文章は 能信の生前没後に分けて 生前に源氏物語 没後に法勝寺 と気持ちを込めて書くべきと

 

やっとそこに思い至りました 情ないくらいに気がつくのに時間がかかる 執筆を再開したら もう中断したくない!

 

やっと気がついたのですが 白河天皇はずっと大江匡房に教えを受けていたわけでなく 能信に源氏物語を 匡房に法勝寺を 開示されていたんですね (選挙前に これ わかっていたか 今となっては不明)

 

貴方の鎌倉での活動の今迄の著作を読み返していますと頂いたので それなら華鏡をこそ見て頂きたいと思って纏めています 今迄の著作はこの華鏡への序章だったから それに付して去年の岐阜での発表資料をと思って見ていたら この方にこそこれは聴いて頂きたかったという内容 去年お送りするのを遠慮して

 

たのは 鎌倉でいろいろなことがあって気持ちが支離滅裂だったからだけれど 今ならすっきり以前みたいにお送りできる 気持ちって整理つくと変わりますね で 今ツイートしてるのは 配布資料の一文章をご紹介したいから 引用します 「尾州家河内本源氏物語は親行の稿本ではないかとの説もあるが、親行は

 

思われているほどにはこの写本に関わっていないのではないか。従来の研究は尾州家河内本源氏物語が河内本源氏物語の由緒正しい写本ということに捉われ、親行を偉大に扱い過ぎたために論点がずれてしまったのだろう」← 尾州家本についてはもう立派な研究書が出ていますが、小説の進行にはここが重要で

 

それともう一点 金沢文庫本万葉集について 「金沢文庫本万葉集は金沢北条氏三代当主貞顕の手になるものではないか。文庫のさらなる充実を図った貞顕が蒐集・制作したものの一つではないか。風格から推して貞顕の六波羅探題在京中に制作されたものだろう」←貞顕は『たまきはる』を書写したりしています

 

昨年の学会で発表したものです。本当はこれらを論文に仕立てて機関紙に載せるべきなのですが それをしてると仙覚さんの小説にかかれなくなるので 小説を書くほうを選びました 鎌倉滅亡の時代の貞顕までは書けないけど 実時と親行の関係は書きます(ここが私の鎌倉の源氏物語の原点なので力を込めて)

 

7月7日

【写真は大宮八幡宮乞巧奠です】『源氏物語』は紫式部が書いた本は残っていず、私たちが読むことができるのは昔の人が書き残してくれた写本があるからです。『源氏物語』には二大写本といって「青表紙本源氏物語」と「河内本源氏物語」があります。「青表紙本源氏物語」は藤原定家の校訂で京都で成立。

 

「河内本源氏物語」は源光行が始めて鎌倉で成立しました。仕えていた平家が滅亡したために光行は鎌倉に下り、頼朝・頼家・実朝三代の将軍に仕えるのですが、武士に囲まれ雅とはほど遠い鎌倉の地で、親しかった平家の方々を偲ぶよすがとして『源氏物語』の校訂を始めたのでしょう。光行の代では完成せず

 

親行が引き継ぎ、それからなお二十年近い歳月を要して建長七年七月七日に完成しました。親行は六十歳半ばに、時代は第六代将軍宗尊親王の世になっていました。建長七年七月七日の朝、「河内本源氏物語」の完成をみた親行の胸に去来したのは、まず紫式部のことであり、それから玄宗皇帝と楊貴妃でした。

 

写真は鎌倉の源氏物語の講演用に作ったパワポのスライドです もう定番になっていて どんなテーマの時も親行さんの河内本完成のときはこれ 親行さんは河内本完成の日付を長恨歌のこの詩句から固執しました それほど親行さんには長恨歌が原点だったということ 七月七日は鎌倉の源氏物語の日です

 

たまたま深夜親行さんと実時の『尾州家河内本源氏物語』のことで呟きました その親行さんです 鎌倉時代の宗尊親王周辺で親行さんを筆頭に 政府高官の実時が先導して 源氏物語愛好のブームが起きていました その宗尊親王の御所跡地あたりが今更地とか 発掘調査されるのでしょうか 興味津々

 

華鏡のご報告のお便りを書きました これからが勝負です 頑張ります

 

今年の七夕は自粛のおかげで落ち着いてツイートできた 去年は鎌倉の諸々で憤っていたりしたからうっかり忘れるところだったのを思い出しました そういえば去年は小川町で仙覚さんの講演をさせて頂きnそのパワポを作っている過程で実時と仙覚さんの最初の出会いが見えてきて小説が動き出したのでした

 

日付が変わって今年の七夕は終わり 去年の小川町の講演が今年だったらと思うと 昨年だったことに奇跡的と感謝を禁じ得ず 昨年発表した学会も今年は中止で昨年だったことにこれも奇跡的と感謝 そうした流れの中での華鏡 恩師の方へのご報告が奇しくも七夕の日だったことに気がついて偶然にしてもと思う

 

今日から新しい流れです

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2020.7.2 ツイッターから転載…日々雑感、白河天皇の摂関家大好き! みたいな感じが見えてきました

7月1日

おはようございます 七月ですね 華鏡は道長から書き直し始めて二日目 能信が結構面白いです 昨夜は道長妻で能信母の明子さんを検索 父親の源高明は光源氏のモデルともいわれた人物ですよね そういう人を妻にして道長っていう人も面白いですね ここから後三条天皇の即位になり白河天皇にまでいく

 

光源氏のモデル論は追及したことがなかったので 深く知らないのですが 高明の大宰府左遷とかそういうモデル的人生を紫式部は知っていて源氏物語を書きはじめていたわけで それから道長に重用されたのだけれど 現実的になった明子さんの存在を式部さんはどんなふうに思っていたのでしょう

 

写真は過去の 2009年撮影です 七月でどんな写真があったかなと見たらこの玉川上水の山百合と甘草がありました 気のせいかもしれないけど 最近より昔のほうが玉川上水べりの植栽が生き生きしていた気がします

 

あのまま書いていたら大江匡房を書いていたと思う それを考えると玄覚さんバージョンで迂回したことが熱に浮かれた気分を冷ましたことになって 再開したら賢子さんの浮上 不思議です

 

後三条天皇と白河天皇を巡っては 大江匡房や六条藤家の人達がいて 調べている間面白くて早くこれを書きたいと燃えまくっていたのだけれど すべて同次元でなのに関わる人が違う 道長で書き直し始めてどれをとるか悩むなあと思っていたのですが 筆が ふっと賢子さんに入っていって あ これは とびっくり

 

賢子さんのことはそんなに重視してなくて 玄覚さんバージョンで始める直前ころに何気なく見た程度 その時はまだ大江匡房か六条藤家が重要と思っていました でも 賢子さん 思っている以上に重要だって 筆が入っていって認識させられました ここには心がある 大江匡房や六条藤家を書くのに心は…です 

 

賢子さんの入内で師実から贈られたのが白河の地 そこに法勝寺を建てたのでした 賢子さんから書き始めるのは法勝寺への布石 と今気が付きました

 

長く離れていると主題が見えなくなっていたり・・・ 法勝寺に戻れてよかった

 

悲観的に考えないようにしているのだけれど 今日はやはり考えてしまう 香港のこと都の感染者数のこと三味線のこと鎌倉のお能のこと 夕食時コロナ前よく行っていた吉祥寺のスーパーが今月で閉店との話を聞く コロナで行かなくなったのは何もそこだけでなく必要最小限の買物しかしなくなったからだけれど

 

このスーパーだけでなく Twitterでも今度ロックダウンしたら持たないと呟かれる店長さん 生協のチラシでも商品の載らない白い空白が沢山あった たぶん卸せなくなった企業が出たのでしょう この先どうなるのかと思う 廃墟となっていく吉祥寺はまだ浮かばないけど 砂上の楼閣のような危うさを感じます

 

Twitterで とにかく生きて下さい 生きていて下さい 生き延びて下さい との呟きを眼にした すべての人にそう思います

 

RTさせて頂いた 胸の暗いざわめき 私だけの思い過ごしでなかったんだなあと (先ほどのツイートのことです)

 

だんだんわかってきました といっても推測ですが 賢子さんの入内のこと 後三条天皇や祖母陽明門院が嫌う摂関家からの賢子さんの入内をなぜ白河天皇がしたのだろうと ずっと謎でした 能信ですね 源氏物語を愛する白河天皇は道長息の能信に特別な思いを抱いていた 史実では大夫殿と呼んで父後三条天皇が

 

受けた恩を忘れなかったといわれますが それよりも道長の子ということへの憧れと尊敬だったのでは? 以前少年白河天皇が中宮彰子を訪ねたとき 赤染衛門の曾孫の大江匡房が同伴したのだろうと推測しましたが それより能信だった方が可能性高い 何しろ彰子さんとは異母兄弟ですものね 白河天皇はそうして

 

少年時代から摂関家に馴染んでいたから師実とも縁ができていたのでしょうし それで賢子さんの入内にもなった 父後三条天皇とは摂関家に対する思いが違うんです だから父帝の思惑を裏切ってでも賢子さんの子を即位させたかった とそんなふうに読むと全部辻褄が合います

 

11歳の少年白河天皇が中宮彰子さんを訪ねたとして 能信は白河天皇が13歳のときに亡くなっているから それまで十分彰子さんのもとに連れて行くなどできたでしょう 面白いですね 三者の対談を想像するのは

 

7月2日

おはようございます 今朝思いついたこと 能信は紫式部を見てますね たぶん仲が悪い異母姉に仕える女房だから親しくはなかっただろうけど 後年自分が擁する少年白河天皇の源氏物語志向に接して もっと深く付き合っておくのだったと後悔してたりして それでも知っている限りの範囲で語ってあげたでしょう

 

紫式部が仕えた側の道長妻倫子さんは日記にも登場するから身近だけど 明子さんは永井路子さんの小説で読んだだけ 能信という子息がいて 後三条天皇の即位に倫子さん側の子供たちと争って など 今回白河天皇の源氏物語で調べなければ想像だにしなかった世界 物事はほんと 多角的に見るべきですね

 

私が忘れているだけで 永井路子さんの小説に書いてあったりして笑

 

紫式部については研究史も辿ったし 一般書もほぼ眼を通してるし なのに全く知らない視点でじかに彼女を知ってる人がいたという 驚き以外のなにものでもないです 研究もそうだけど 論文で詰まっていても 一人投入すると一挙に開けることがよくある 人の交流って そういうこと

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2020.6.30 ツイッターから転載…日々雑感、玄覚さんの独白バージョンで書き始めたのですが・・・& 六月も終わりですね、コロナの終息はいつになるでしょうか

6月28日

先此集ヲ萬葉集ト名ツクルハ何意ソヤ。コレハヨロツノコトノハノ義也 仙覚『萬葉集註釈巻第一』の冒頭です 佐佐木信綱編仙覚全集より 華鏡の二条天皇と万葉集の項の冒頭を仙覚さんから始めているのですが 仙覚さん関係の資料が埋もれてしまって深夜は確認不可 なので掘り出してきました

 

萬葉集註釈は必要な箇所を拾い読みしただけで 小説にするにも晩年だからその時に読めばいいと思って後回しにしてたけど たまたま発掘した資料の一番上にあったのが目に入って 二条天皇の万葉集に関連して仙覚さんを紹介がてら少し書いておこうと思っていた安易な気分が吹き飛びました

 

6月29日

万葉集註釈は仁和寺に伝わっている写本があって この図録の時に展示されていたそう 鎌倉でお世話になっている方が こんなのがあったとこの図録を送って下さいました 万葉集註釈は仁和寺本だけが特殊で 他に残る写本はみんな玄覚さん書写の本が基 記述も違うところがあっていろいろ考えてしまいます

 

深夜 ヨーロッパ城と宮殿巡りという番組を何気なく観ていたら マクベスの舞台というスコットランドのお城が出て そういえば時政の後妻牧の方はマクベス夫人に例えられていたなあと 読んでいるはずなのに忘れてるマクベス 牧の方って結構重要なのだけれど まだ書く気なかったけど 無視できないかも

 

一斉に自粛になって吉祥寺の店舗が閉まったとき 東急吉祥寺店も閉まって 愛用している日高昆布の徳用パックと 六月末に頂くお菓子水無月が 間に合って買えるかしらとちいさなことだけれど個人的に心配になっていました 間に合って 先ほど両方とも買って帰りました こんなちいさなことだけれど

 

深夜のPCデータをそれまで書いていたPCの原稿に合体させて印字し 通しで読んだら璋子さんへの情感が甦り 目下無理やり玄覚さんの独白バージョンで二条天皇の万葉集を書き出していることへの疑問が 鎌倉の講演で熱心に語ってきたことだからもっと乗って書けると思っていたのに停滞 それへの疑問です

 

璋子さんや 法金剛院 白河天皇を書いていたときの情熱 あれが今湧かない 理で書いているし書こうとしているからなんですね 璋子さんに戻ろうかしら と思い始めています

 

深夜の入力用に買った卓上用のちいさなPC 璋子さんの法金剛院の段から使いそのままにしてあったのを 今迄のPCに取り込んで合体 二条天皇の万葉集の段になって気分が万葉集になっているから久しぶりに璋子さんに浸りました 写真はかつて璋子さんが龍頭鷁首の舟を浮かべたという法金剛院の池です

 

6月30日

おはようございます ほんの小さなPCなのに ちゃんとデスクトップがこの画面なのが可愛い 書く意慾を削ぐ日常の障害は茶飯事で それがなかったら玄覚さんの独白バージョンも順調だったかもしれないけど 昨夜から璋子さんに戻る気持ちが強くなっていて 障害は理で書くことへの警鐘という思し召し? 等と

 

道長から書き直しはじめています 写真は玄覚さんの独白バージョンに疑問を持ち始めたツイートに添付した法金剛院蓮池のときの蓮の花です

 

この写真は鎌倉の講演用パワポの定番で 光行・定家世代と 親行・仙覚世代の 時代の区切りとして使っていました

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2020.6.27 ツイッターから転載…日々雑感、随分遠い迂回をしましたが、二条天皇と万葉集の段がやっと書き始められるところまできました

6月23日

おはようございます 萬葉学史の研究の二条天皇の項 これでは最初に読んだときわからなかったわけとつくづく 題詞にしても 歌より高く書くか低く書くかなんて それが政治に関わるなんて! 万葉集の題詞は古今集以降の詞書のことで ただ決定的に違うのは漢文で記されていること 古今集以降は仮名文です

 

そして古今集以降の詞書は歌より低く書かれているのに対し 万葉集の題詞は高く書かれているのと低いのとある どうやら低いのは古今集以降の詞書が低いのに影響されてのようです 仙覚さんはそこに着目して 高く書かれているのが万葉集の本来の形態とし それをした二条天皇本を重要視したのでした

 

華鏡の二条天皇の万葉集の項 やっと書いていいかなというところにたどり着きました 思いっきり先程ツイートの題詞のことなど 国文学的な内容を入れようと思っています それが仙覚さんの万葉集研究の主眼なので ここのところを書いておかないとと思います

 

仙覚さんの万葉集研究の希求がやまとの言の葉の淵源を求めてでした(言い方は違いますが) やまとの言の葉ってたしか古今集の序にあった? となって 家に古今集がないので吉祥寺に出て文庫本を買ってこようかなと 仙覚さんのやまとの言の葉についてはいろいろ言及されてますが 私なりに考えてみたい

 

やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける 古今和歌集仮名序 ネットで検索すれば出るんですね まだ私はすぐそこに思いが至らない笑 仙覚さんのやまとの言の葉と微妙に違うかしら

 

ふう〜っと やっと六条藤家 万葉集の題詞の高低問題 道長ら摂関家は古態尊重で題詞が高い体裁の写本 対して白河天皇親政期では新しい時代に相応しく古今和歌集に倣った題詞が低い体裁 院の権力が強靭化して写本も題詞の低い体裁が一般化していった 二条天皇期になって天皇と清輔が突然題詞の高い体裁を

 

仙覚さんが尊重した二条院御本は題詞が高い体裁で この「新たに採択された体裁が、二条天皇に仕える歌人たちと、六条藤家の間で踏襲されていったと見られる」 仙覚さんはこれを「六条家本」と称した

 

6月24日

おはようございます 萬葉学史の研究 六条藤家になって俄然面白くなってきました 題詞の高い六条家本に真観本があるのですが ずっと仙覚さんはどこで六条家本に目覚めたのだろうと謎でした 真観ですね 繋いだのは 後年真観は鎌倉にきて宗尊親王の歌の師になり 仙覚さんに宗尊親王へ万葉集を献上させます

 

六条藤家で面白くなったのも束の間 顕季になったらなんかトーンダウン 母親子さんが白河天皇天皇の乳母だったことから引き立てられ六条藤家の祖になったと知り 親子さんの華鏡登場も考えて盛り上がりましたが どうも顕季は経済の人ですね 通俊の後拾遺和歌集選者抜擢のあたりから関心が薄らぎました

 

白河天皇も乳母子として兄弟のように育った顕季を大事にして羽振りよくさせていますが 何か昇進を願った時に駄目なものは駄目ときっぱり 白河天皇も人物を読んでますね 顕季の項を終えて次が清輔! 顕季の孫で父の顕輔に疎まれ長く六条藤家の宮廷での活動に入れて貰えなかった人物です なんか感性の問題でわかる気が

 

ここら辺でもやはり白河天皇の文化芸術に対する感性のよさ 本物度を感じます 通しでずっと読んできて 摂関家関係の万葉集に携わる人物を見たら 顕季の経済の人のイメージが定着してしまいました 万葉集を書写したり歌を作ったりするから文学的感性豊かな人というわけではないようです

 

結局二条天皇の万葉集に繋ぐ白河天皇の項は 中宮賢子さんの薨去で白河天皇が新政への意慾を全く失ってしまうので それまでの摂関家との攻防に付随しての法勝寺建立と後拾遺和歌集 これに尽きて 後の白河院政期の堀河朝近衛朝は飛ばして二条天皇にいっていいかもとなりそう

 

Messengerからある方からお知らせが届いたと通知があり 仙覚について書いてられるのですね頑張って下さいとのこと お返事するとその方と繋がりができて電話頂くことも可能になると お礼を返信したいけど自粛させて頂きます FBは某ページの管理人のために止められなくて 自分用としては使ってません

 

ほんとうは管理人の権利も譲りたいのだけれど そのページを始めるのに普及のために半年間自分で撮った写真を使ってある歴史を連載していたから 半年後にその会が再会した時に普及が行き届いて連絡帳の役割を果たした というそういう部分があるので 手放せないでいます

 

6月25日

おはようございます 百均の付箋 珍しく紫があって購入 でも外で使うと源氏物語をしているから如何にもみたいになるので家で調べ物のときだけ用 今日からたぶん書き始めます 何度も今日からと宣言したのにやっと 原稿は意志でなく書かされてるの感強しです

 

東北の地震の余震という今朝の地震 当時数年は余震に注意といわれ 我が家では頚が細くて長いガラスの花瓶があって 東北の震災時 たまたまその花瓶の前に別の花瓶が倒れてその花瓶の倒れるのを防いでくれました で 数年は余震に備えてそのままにしてあったのですが もういいかなと思った矢先の事でした

 

東北の地震のような地震は 人間の数年なんてまだまだ単純に余震の範囲 十年は覚悟してと その花瓶を見ては心を引き締めています 八年でしょうか 積もった埃もあえてそのままにしてあるので忘れません あと二年はと思いつつ コロナ後の世界もこんなふうになるのかしらと

 

6月26日

おはようございます 父仙覚は鎌倉時代に万葉集を研究した学僧である と 二条天皇と万葉集の段は玄覚さんの独白バージョンで始まりました 白河天皇と源氏物語で回り道をしましたが ここからは鎌倉の講演でずっと語ってきたこと こなれているから思い切り書き進められると思います

 

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2020.6.24 ツイッターから転載…日々雑感、二条天皇の万葉集に繋ぐための白河天皇の親政期を調べています:法勝寺や大江匡房のことなど

6月21日

白河天皇の法勝寺関係の調べが面白くて止まりません 八角九重塔を冨島義幸先生が復元CG化された画像に出会い 今まで右の正面からのしか見てなかったのでなんか中国っぽいと思っていたのですが 斜め画像だとたしかに日本の五重塔のイメージ 冨島先生のご論考拝読したいのですが例の如くに図書館ネック笑

 

思ったのですが 即位したばかりの二十代の若い白河天皇にとって 父帝から引き続き東宮学士になった大江匡房は父帝亡き後のよき相談相手 お父さん代わりだったのでしょうね 後拾遺和歌集も法勝寺も大江匡房の進言がよほど入っている気が

 

枠という固定観念から抜けるのにどうしてこんなに時間がかかるのだろう 七大寺巡礼私記の大江親通までいってやっと見えた世界 白河天皇は大江匡房が東宮学士になってから教えられたのでなく 匡房は後三条天皇の東宮学士だったから生まれた時から賢い皇子として気に入られ 折を見てはいろいろ教えられた

 

おそらく少年白河天皇が上東門院彰子さんに源氏物語や紫式部の話を聞きに伺った時 付き添ったのは匡房ですね それを書いていた時 誰が伴って行ったのだろう 乳母かしら いや一人で? など考えていたのですが誰も思い浮かばなかった 即位してから思い出話としてそれを匡房に語るシーンを考えたのが直近

 

でもまさか幼児期から匡房が後三条天皇の皇子である白河天皇を見ていたなど思いもよらず 後三条天皇が亡くなってからとずっと思っていました 後三条天皇の 白河天皇の という東宮学士の枠を外し誕生からずっとそばにいた人と思いついたのがやっと今日 その為の七大寺巡礼私記までの思索だったようです

 

法勝寺は仏教を保護して国を治める いわば国王の氏寺の意を持って建てられた 二十歳の若者が即位したからといって早々にそんなことを思いつくはずがない でも儒者大江匡房が生まれた時から身近にいて人格を育んだと思うと腑に落ちます 何十年にも渡る長い院政もそういう視野があってのことなのでしょう

 

先程のtw 白河天皇が即位したのは21歳 それから突然30歳頃までに内裏歌合をして後拾遺和歌集をつくったり 法勝寺を建てたり をする 即位して大江匡房がブレーンになっていろいろ進言したと考えていたのですが それにしてはされることの悉くが深い 謎でした 皇子時代からずっとと考えれば自然ですね

 

6月22日

おはようございます 雨の日の柏葉紫陽花は綺麗ですね 昨夜久しぶりに萬葉学史の研究に戻ったら 白河親政期に万葉集を書写した公卿に通俊の名が 後拾遺和歌集で身近になった人物 知らない名前ばかりでちんぷんかんぷんだったページがやっと生きて動き出しました

 

メモ: 賢子さんと経子さんの時系列 1071賢子さん入内 1074中宮 1075典侍経子さん(通俊妹)覚行法親王出産 1079賢子さん堀河天皇出産 1083覚行法親王仁和寺に 1084賢子さん崩御 1086後拾遺和歌集 1087堀河天皇即位← 覚行法親王は中宮賢子さんに堀河天皇が生まれたから仁和寺入寺になったんですね

 

だんだん見えてきました 清輔の袋草紙にある顕輔?(出先でうろ覚えです)ら二人の宇治宝蔵庫本の万葉集の書写 なぜ敵対する摂関家の宝蔵庫のを? と疑問だったのですが 萬葉学史の研究でもその時期は頼通らが没した後とあります それは師実が宇治長者になってからということで 賢子さんを入内させている

 

師実が宇治長者になったのを機に白河天皇に摂関家の別業の白河の地を献上し 白河天皇はすぐにそこに法勝寺を建てた 万葉集の書写は師実の計らいですね 万葉集法勝寺後拾遺和歌集 全部繋がりました

 

摂関家対天皇家の構図は後三条天皇までで 賢子さんを中宮にした白河天皇は摂関家を取り込んだ形 それで摂関家の万葉集を書写できたのでした このネジレが今まで理解できなかったんです

 

人の動きとしての概要がつかめたので 改めて万葉集に戻って題詞と歌の高下をしっかり把握しようと萬葉学史の研究の冒頭を見たら 「題一章 題詞と歌の高下 ーレイアウトに見る平安時代の政治史・和歌史・文化史の中の古写本ー」 あまりの言い得て妙の副題に感嘆 万葉集の研究にこんなに政治が絡むなんて

 

仙覚さんが二条天皇の万葉集を規範にしたので その二条天皇本のよってきたるところを探ったら 後三条天皇 白河天皇 と遡ってしまったのでした このあとここに後白河天皇が入ります(先は長い……)

 

体力が弱っているのと 昔みたいに自分のことだけに専念できる環境でないのと 諸々で 集中できないからとても遅筆 でも その遅くなった分 そのまま書いていたら書きこぼしていただろう深みが書けている そのまま書いてとっくに完成させているより 深みが書けてる今のほうがいいと思うけど 悩み多いです

 

清輔が袋草紙に書いたという法成寺宝蔵本の二人の書写者 俊綱は頼通の次男で師実の兄 顕綱はなんと讃岐典侍日記の長子の父 いろんなところで繋がりが!

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2020.6.21 ツイッターから転載…日々雑感、大江匡房が鍵だったなんて!&法勝寺八角九重塔について

6月18日

昨日TLでちらっと読んだことが頭から離れない 分野が違うので詳細はわからないけれど(源氏物語ではない分野ということ)研究が半世紀だったか進歩していないという でもその間に女性研究者さんの凄い業績になる研究があるのにそれが反映していないと 徒然草がそうでした 林瑞栄氏『兼好発掘』

 

もう夢中になって拝読したものでした なのに女性研究者でたしか教授とかの立場でなかったから研究者さんの業界からひどい迫害にあって研究史に反映されてなかった 私はそんなふうなことを見てきたから素早く小説に切り替えたのだけれど 今 TLであることを見つけて傷つきそんなことを思い出しました

 

闘っても無駄 とにかく華鏡を完成させること それに尽きます

 

白河天皇は二冊勅撰集を出してられるんですね その最初の勅撰集が後拾遺和歌集ということでそれを図書館に借りに行きたいところなのだけれど 行かれないから 思いついて吉祥寺の古書店に行ったら 二冊目の金葉和歌集があったので これも何かの縁かなと思って買ってきて見ています 巻頭歌が顕季だなんて

 

まさか大江匡房が鍵となるとは思わなかった 後三条天皇の東宮学士ということでウィキを見たのでした そうしたら赤染衛門の曾孫と 儒者だから後三条天皇には荘園整備などの善政を 赤染衛門の曾孫だから白河天皇に和歌を説いたのでしょうね ひょっとして二人の会話から後拾遺和歌集が生まれたのかもなど

 

だから勅撰集を作るときに 赤染衛門とか和泉式部など たぶん彰子さんから聞いた人たちの歌を取り上げた

 

苦笑されるの前提でツイート 未だに白河天皇が後白河天皇とごっちゃになるときがあって ふ~ん 最初は和歌に凝ってらしたのにいつから今様に? など考えて 違う違うと自分のなかで慌てて打ち消します

 

白河天皇といえば待賢門院璋子さんとの源氏物語だけれども それは五十代になってから 勅撰集の頃は二十代で和歌 源氏物語は影もない と思ったら いや違う 即位される前は源氏物語どっぷりでいらしたのだから 和泉式部や赤染衛門が身近だったんだ〜 と勝手に納得してしまいました

 

後拾遺和歌集は勅撰集のなかで一番面白いとかつてある方から聞いた 白河天皇の和歌との関係を探っていて読んだら後拾遺和歌集は和泉式部や赤染衛門など女流歌人満載で他の勅撰集と一線を画しているという では なぜ白河天皇はそういう趣向にされたのか やはり後拾遺和歌集を見なくては始まらなそう

 

やはり図書館に自由に行かれないのがネック 予約してでも借りに行くべき?

 

6月19日

おはようございます だんだん頭のなかで固まってきているのですが 白河天皇と和歌の問題 構図がみえてきています これを萬葉学史の研究に出てくる人名と当てはめたら 当時の白河天皇中心の和歌 それに付随しての万葉集書写の活動が浮かび上がるのではないかと 人名の把握って重要ですね

 

まさか大江匡房が鍵となるとは思わなかった 後三条天皇の東宮学士ということでウィキを見たのでした そうしたら赤染衛門の曾孫と 儒者だから後三条天皇には荘園整備などの善政を 赤染衛門の曾孫だから白河天皇に和歌を説いたのでしょうね ひょっとして二人の会話から後拾遺和歌集が生まれたのかもなど

 

歌壇の重鎮源経信をさしおいて 後拾遺和歌集の選者に選ばれた藤原通俊は 妹の経子が白河天皇の典侍で覚行法親王を産んでいる 天皇にとって経信より親しい感覚の人物だった?

 

覚行法親王 仁和寺第三世門跡 白河法皇は彼を寵愛して事あるごとに褒章を与えたが 彼はそれを仁和寺の他の僧侶らに譲り昇進を助けた 仁和寺が歴代治天の君の保護を受け、法親王として御室を継承する慣例を二人が完成させた

 

後拾遺和歌集選者の件 通俊が選ばれ重鎮の経信が選ばれなかったのが通俊の妹と白河天皇の親しい関係によるとして そんな情実で? と思ってしまいますが 六条藤家の祖顕季もいたはずとウィキを見て三者三様の描かれ方の印象が 白河天皇は情愛というか愛のある人間関係がお好きだったのでは?と感じる

 

顕季は乳母子として兄弟のように接し 地位も与えて羽振りよくさせたから財を成してその邸宅が白河院の御所に使われるまでに でもそこに通俊と妹や待賢門院璋子さんのような 内側からの情熱 人としての熱さはなく それは経信も同じ 白河天皇の人間的な芸術性って これ 相当偉大なのでは?

 

通俊や璋子さんの側の人間に 文学的芸術的感性を感じるし それを重用する白河天皇の感性はたしかと思います

 

6月20日

おはようございます 昨日白河天皇の感性の確かさに気持ちが一新され それまで院政を始めた天皇とか 璋子さんを寵愛したとかの表層の次元だけで捉えていた人物像を深めたくなり それでは法勝寺を建てたのはいつかしらと調べたら なんと 後拾遺和歌集になっていく和歌の変遷と同時期でした つまり二十代

 

即位して数年後に落慶供養です しかもそれが国家の氏寺意識のスケール 天皇ではなく国王の壮大なビジョンをもって造られているんですね 八角九重塔を建てるなんて どこから発想を持ってきたのでしょう ウィキでは他に百済大寺のものしか知られていないと ウィキでそれを見たら 白河天皇は日本書紀を

 

読んで国家ということを考えられていたのかと思ってしまいました 紫式部が日本紀の局と呼ばれたと知ってるわけだから 興味を持って 即位できない不遇時代に日本書紀まで読み進んだことも考えられますね

 

私が読んでいないだけかもしれないけど 朝の日本書紀の件 昔の人やまして天皇家の方々は日本書紀にかぎらず 今の人よりずっと もっともっとたくさん歴史や宗教の本を読んで勉強されていたのでしょうね 仙覚さんの知識を見ても あの時代に! と驚嘆するのですが 便利になった現代人の方が泣

 

白河天皇建立の法勝寺九重塔がどこから着想を得てのことか知りたくて大安寺のウィキを見てたら 七大寺巡礼私記を書いた大江親通という人物を知る 白河院政期の諸大寺の実情を知る重要な資料と 白河天皇や大江匡房と関係ある人物か ウィキでは不明 でも白河天皇 百済大寺と無縁ではなさそう?

 

江談抄というのがあって 大江匡房の談話を信西の父藤原実兼がまとめたものだそう その成立時期が 大江親通といわれる七大寺日記と重なる 偶然かもしれないけど 気になります

 

白河院政期で堀河天皇の御世です

 

大江匡房は六十代半ば 晩年に近いです

 

大江匡房は後三条天皇の学友的家庭教師(東宮学士)だったから 皇子の白河天皇の東宮学士にもなり 白河天皇がまた皇子の堀河天皇の東宮学士にした というほど後三条白河両天皇に信頼されていたんですね その匡房乃至大江某による二つの書 偶然にしては と思います

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2020.6.18 ツイッターから転載…日々雑感、後三条天皇周辺の事情がわかりやっと原稿にかかれそうです

6月15日

ズッキーニの花 フェンネルの苗を買いに行った時にあって どんな風にあのズッキーニがなるのか楽しみに買ってみたものです 昨夕ベランダから見たら開いてたのに 日中だと萎むのですか?

 

6月16日

萬葉学史の研究に すでに後三条天皇期か白河天皇期か答えが書いてあるのに そして最近また通読したばかりなのに 後三条天皇について把握できていなかったからピンとこなかった 今鏡など辿ってきて 能信のことなど背景を知って ご著書に戻ったら 一挙に理解できました 萬葉集の書写が活発に行われたのは

 

白河親政期である可能性が高い そうです そしてそれは摂関家の方々が相次いで没した後のことと思われる ← 六条藤家隆経没の翌年後三条天皇崩御の翌年上東門院彰子と頼通没の翌年教通没 と これはもう完全に白河天皇が万葉集の書写をされたということですね そしてその近臣に顕季の存在

 

過去のツイートで読み返したいのがあって 遡っても出てこないから人名で検索したら 大河清盛にその人物が出ていて 私も見ていたはずなのに この辺りの歴史に疎かったから全然記憶にない TLで皆様盛り上がってられるから きっとそのフォロワさん方 私の昨今のツイートに呆れ返ってられるんだなあと苦笑

 

でもいいんです 私の視点は万葉集 それについては何方も触れてられない

 

袋草紙をもう一度確認したくなって 図書館が今週から開いたはずだから行こうかとHPを見たら 滞在時間短縮のために本を予約してから受け取りに来て下さいなど やはりコロナの影響で状況が厳しい 当分行けないと自戒してたけど やはり当分行きたくないと気持ちを確認しました

 

東の空に細い月が 今夜は空気が澄んで夜空が綺麗です 他の本を探して文庫の棚を見たら なんと和漢朗詠集がありました 講談社学術文庫 川口久雄氏全訳注 2センチ分厚い文庫本 読み通したらしく所々角が折ってあったり 栞用に絵葉書が挟まっていたり たしかに自分の本 すっかり忘れていました

 

6月17日

おはようございます 昨夜みつけた和漢朗詠集です 挟まっていた百合の花の絵葉書は手作り 昨夜読み返して思ったのですが 分りやすい! 解説もついてるから知識は簡単に入るし でもこれに料紙に墨文字の朗詠集の魅力は全くない 写本の魅力というのは全くの別次元の崇高さ 畏怖の世界なのだなあとつくづく

 

たぶん今日から書き始めるから 極力Twitterは見ないことにしようと思う 改憲案に抗議とか会期延長などハッシュタグの一票として今迄必死に追って見ていました でも都知事選の候補者が出揃ったらこれからは大変 気分を煽られるのは必定 都議選当日までしばらく逃避するべきだろうな と思っています

 

やはり袋草紙を見たくて図書館に行きたいとなり 別の図書館の開館状況を読んだら コロナで閉館中に9000冊もの予約があったそうで 予約しても配備できたと連絡がくるまで取りにいけないそう 図書館の方々も大変なのだなあと もう袋草紙は諦めました

 

去年の今頃は三菱一号館美術館でラファエル前派展に行ったのでした 鎌倉での活動に終止符を打って禁断から抜けたようにモロー展に行ってラファエル前派展に行って 無理していたもののそぎ落としをこの一年やってきたのだなあと思う その締めくくりがまさかのコロナの自粛ですが 全部執筆にいい流れ

 

でも 家族といると自分だけのために時間を使うなど無理だから 気を遣いつつやってきたことの弊害が出ているのかなあと思う今日この頃 まさかの眩暈復活 の予感 無理しないようヒーリング音楽を聴いて過ごしています せっかく華鏡が乗ってきているのだけれど

 

6月18日

まだ朝は涼しいから久しぶりに熱い珈琲を入れました 起きたら目眩感がすっかりとれていて嬉しくて おはようございます 昨日書き始めそうだった華鏡ですが 人物がわかって萬葉学史の研究を拝読したら今まで何度読んでも頭に入らなかったのがすうっと入ってきて驚きました で それをノートに纏めています

 

思念でなく物体としての把握って重要ですね 昨日和漢朗詠集の活字化された文庫本の分かりやすさと料紙に書かれた写本の和漢朗詠集の崇高さの違いに驚きましたが 今度は論考のなかにある人物名が生きた人間として把握されているかで論考の理解度が違う 文化の中には結局人間がいるんです

 

恐る恐るまた遠心力に引っ張られるような目眩感が起きるかと気にしながら動いているのですが まだ無くてほっと 一晩中タブレットを耳元に置いて ヒーリング音楽を聴きながら就寝 たしかにこの音楽 自律神経の乱れを治します

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2020.6.17 ツイッターから転載…日々雑感、後三条天皇周辺に六条藤家の淵源を探りました

6月12日

おはようございます やはり乳母って存在 凄いですね 比企尼を思い出してしまいました 白河天皇の乳母親子は六条藤家の祖の隆経妻 顕季の母です 六条藤家がここから始まるっていうのも宜なるかなでした

 

ただ 乳母といっても漫然と 乳母 だったというのでなく その人自身に教養と意志があることが大事 比企尼も春日局もそうですよね 親子さんの下で隆経も顕季も白河天皇の近臣になって 存分に教養を発揮されたのでした

 

ウィキですが 後三条天皇があまりに素敵な方で眼をみはってしまいました お子さまの白河天皇から全然想像つかない (親子さんの動向を後三条白河天皇の年譜に当てはめたらどう見えるかと思ってウィキを)

 

逆だったんですね 六条藤家といえば万葉集ですが 初めに万葉集ありきでなく 白河天皇の近臣になったから 後三条天皇白河天皇の摂関家との対抗策としての万葉集研究に巻き込まれた それが隆経の六条藤家の祖としての始まり それが清輔の時代まで引き継がれているうちに専科の家系みたいになったのでは?

 

遠因まで辿り着くと やっと 見えてきましたみたいになって 書くことに進めます

 

ここまで来たら 親子さんになにか喋らせたくなって 声の降りてくるのを待つ気分 比企尼には最高の決めセリフを書いてあります そんな決めセリフ 親子さんにも

 

後三条天皇から二条天皇清輔までをざっと年譜に組み込もうと書いてみたのですが いつもしている鎌倉時代だと1200年代 どこに何の事跡ががだいたい見当つくのに 1100年代以前だからさっぱり 源氏物語千年紀がたしか1008年だから そこから入れていきます(相変わらずの雑記で汚くてすみません)

 

画像があまりに素敵で驚いた後三条天皇ですが 大江匡房に和漢才知誠絶古今と書かれるなど教養人で善政を行った方らしく わずか五年で国家を淳素に戻し とあります こういう治世もあるのですね(と 今の世を鑑みて)

 

いろいろ書き込んでみたのですが 白河天皇誕生で親子さんが乳母になったのは33歳 その二年後に顕季が生まれて 白河天皇は顕季を乳母子として兄弟のように親しんだそう それが院の近臣になって 万葉集 これから後三条天皇の摂関家との関係を探ります

 

六条藤家の万葉集が後三条天皇と隆経から始まっているのか 白河天皇と顕季からなのか ごっちやになってわからなくなってきたので まず後三条天皇の時代を把握しなくては というところにいます 頼通との対抗とか

 

としまえんの閉園がいよいよ決まったそう ドイツ製のメリーゴーランドをいつか観たいと思っていて やっと今年になって夢が叶ったのが二月 また行きたいと思いつつコロナで自粛していて 八月の閉園までにまた行かれるでしょうか 写真 撮り切れない素晴らしさでした 全部木製だそうです

 

明るくなってきてまた雨の音 後三条天皇関連を見てたら夜が明けてきて 能信って誰? とほんの気まぐれにウィキを読んでいたら これが一番後三条天皇即位の裏として分かりやすかった 長くなりますが面白いのでご紹介

 

道長には頼通・教通の母倫子の他に明子という妻がいて能信は明子の子 後三条天皇は後朱雀天皇の第二皇子で 兄の第一皇子が後冷泉天皇になった時に皇太弟にと推したのが能信でした でも世間では後冷泉天皇に皇子が生まれたらその子が皇太子になるからと皇太弟の後三条天皇に冷たく 娘を入内させる公卿

 

はいなかった それで能信が自分の養女茂子を入内させ皇太子妃不在の事態を回避 した が 結局後朱雀天皇に皇子がなく後三条天皇が即位 茂子に生まれたのが白河天皇なのでした 能信あっての後三条天皇と白河天皇 その人が明子さんの子だったなんて というのが私自身の驚きです

 

6月13日

おはようございます 能信が頭から離れないのですが 後三条天皇に対する能信は 頼朝に対する比企尼ですね 何がなんでも我が君を守りとおし位につける それだけの器量がある我が君だったんですね 結果として後三条天皇は摂関政治で乱れた荘園を整理し直し民衆を楽に 政治は頼通達摂関家を離れ天皇親政に

 

後三条天皇も能信も 私には今まで関心外の知らない人たちでした 源氏物語の一条天皇から璋子さんの白河天皇の間だにあって地味な存在 でも そこに なんだか私は惹かれています 明子さんの子 というのも面白い

 

RTの陽関 思い出してしまいました 渭城の朝雨軽塵を潤し 客舎清清柳色新なり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出ずれば故人なからん

 

漢詩っていいですね やはり 今朝は雨が降っているからいっそうこの詩が身に沁みます

 

ツイートしてから漢詩が頭から離れないのですが 夜光の美酒葡萄の盃 この盃を受けてくれ とか先ほどの詩の君に勧む更に尽くせ一杯の酒のこの畳みかけるフレーズがとても好きで光景が眼に浮かぶのですが 私が好きな漢詩はお酒ばかり ってさっきから考えています笑

 

6月14日

大江匡房が東宮学士とあるのでてっきり東宮より年長かと思ったら皇太子の学友的存在の家庭教師とあり えっと思って年齢を見たら 東宮より八歳年下 東宮学士拝命の翌年東宮は即位されて後三条天皇に 天皇のブレーン的近臣で 善政の推進にあたって重要な役割をなす

 

後三条天皇の近臣には他に隆経がいて 妻の親子が顕季を産む 天皇即位の時 顕季は14歳 万葉集が隆経の時に始められていたか 顕季になってからか この視点でまた萬葉学史の研究に戻ります

 

高砂の尾の上の桜咲きにけりとやまの霞立たずもあらなむ 大江匡房 どこかで聞いたことのある と思っていたら百人一首のこの歌のかたでした 後三条天皇を読んでいるとお名前が出てくるのでウィキを見たら 尊仁親王の学士と 後三条天皇とは東宮時代からのご関係なのでした 赤染衛門が曾祖母とは

 

いつも図書館で調べものをしてたのに 今は行かれないからウィキで済ますことが多くなり そうしたら肖像画があるので図書館でしか爪らしく調べるより手早く実感がわくと気づきました 後三条天皇の肖像画でまず驚いたし

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2020.6.13 ツイッターから転載…日々雑感、六条藤家の万葉集の遠因をたどって後三条天皇に

6月9日

おはようございます 紫陽花の季節なので思い出して写真を以前通っていた鎌倉禅研究会時に撮った建長寺様の紫陽花を いろいろほんとうにありましたが 諸々決着がついて(思いがけず絶対不可抗力的にコロナが後押しをしてくれて) 今日からほんとうに独りになりました 今日から華鏡だけに専念します

 

昨年秋の鎌倉ペンクラブ連続講座【現代作家が読み解く万葉集】のチラシを マイページのトップに固定したツイートにしていましたが 外しました 終わってすぐに削除するつもりが 終わってからいいねを下さる方がじわじわ延びて未だに そろそろ今年のチラシと間違われているかの心配が出てきました

 

無数の星が見えるかしらと コロナの自粛で空気が澄んだ筈と夜空をみるのだけれど 霞がかかったような東京の空では無理 それでもその霞の奥にチラチラと瞬いているような小さな星たちの気配がする ふだんの空では到底見えてなかったそれらの瞬き 嬉しくてこの自粛期間何度もベランダで眼を凝らしました

 

星って不思議な気がする 宇宙というとなんか違う 無窮というとそうだと思う なにがどう違うかわからないけど とにかく星を見るのが好きです

 

6月10日

今日から華鏡 ほんとうは昨日同じ言葉を呟いて実行したかったのだけれど 配布資料の作成にかかって日常の雑事を溜めに溜めていたから 昨日はその処理に終日 今日からほんとうに自由の身です 配布資料の作成に古い資料や写真を掘り返していたら こんなのもあった などいろいろありました

 

写真は先日ツイートしたパークホテルに滞在した折の鎌倉の夜の海 鎌倉といえば海 なのですが 在住でないと海は撮れない この時はその日頃の鬱憤晴らしに撮りに出ました 波が寄せては引いていくのが楽しくて何枚も撮ったり 遠くに材木座海岸が見えていて嬉しかったり 手持ちでブレててすみません

 

ふっと思い出したので忘れないために 鎌倉の夜の海をほんとうに撮りたいのですが 宿泊しないと無理と考えていたら あ 先日泊まっていいのよ 終電に遅れたらいつでも電話して とお電話番号を交換した方がいらっしゃいました 皆様 私が遠くから通ってるのをご存じだから 優しい!

 

突然明日あたり梅雨入りかもとのことでびっくり 暑さでふうふう言っていた今日のあまりの展開でした 慌てて衣類を片づけたり家の中の見直し さきほど夜空を見たら雲がなんか変 空気が澄んで空が綺麗なのは日中の強風で塵が吹き払われたのだと思いますが 夜空に真っ白な雲 地震でもあるのかしらと

 

6月11日

おはようございます 突然 六条藤家の天皇家での近臣としての活躍は○○の母の親子が白河天皇の乳母だったところから始まる というフレーズが降りてきてびっくり 二条天皇の六条藤家との二人三脚の万葉集について書き始めていたのですが まだ決定打でないなあと感じていて 昨夜はウィキにあったご論考を

 

二本拝読しつつ寝ました 大中臣家との繋がりとか そういうご論考で あまり万葉集とは関係ないからざっと眼で追っただけなのに それが今朝のフレーズのこんな重要な書き出しになるなんて どうして六条藤家が白河天皇に がずっと謎でした でも近臣なんて偶然の成行でよくあることだしと通過してました

 

あのまま書いていたらこの書き出しはなかった 例の休会手続きのための配布資料の作成で中断して気分を削がれたから その気持ちの離れた分 自己韜晦から抜けられたんですね これ なにかの思し召し?

 

カフェロシアさんでテイクアウト 数に限りがあって滅多にお目にかかれないというゲブジャリア 眼にとまって即座にこれ下さい と買ってしまいました ミントで味付けしたカッテージチーズを薄く延ばしたスルグニチーズで包んだジョージア料理です 美味しかったことといったら!

 

梅雨入りの日の雨の雑木林@井の頭公園 吉祥寺の帰りに降られました

 

イラストの方の呟きや作家の方の原稿料のこと そして最近の編集者さん業界の事などTLで見て 私は新人賞受賞と同時に挫折して小説の業界に残れなかったのが今となっては幸いだったのかも とふと気づく だから15年間も純粋に鎌倉の源氏物語活動に打ち込めたし 励まして下さる良縁の方ばかりと知り合えた

 

だから 鎌倉の源氏物語や令和になっての仙覚さんのことで 行政や権威ある立場の人たちの仕打ちに純粋に傷ついたり怒ったりしたけど 若いときに小説の現場に残って仕事してたらこんなものではなかったと思うと 昨年までの諸々の怒りや苦しみが あっけらかんと消えていく気が 時が解決してくれて?

 

でも 華鏡を書いているからですよね 境地がそこに到達したのだと思います で さらに現実に戻って この小説 今の編集者さん業界に持ち込んだらどうなるのだろうと 先を考えてしまいました ここから先はまた未知の世界です

 

公園の入口 この坂道を降りて行くと公園の池の光景が広がります 濃い青の紫陽花が綺麗で眼について 先日閉店された芙蓉亭さんの入口脇になります

 

石岡瑛子さんの回顧展 11月から来年の2月まで どうかコロナが終息していて気兼ねなく観に行けますように と思う

 

原稿料の件 講演でも最初に講演料を明示して頂いたのはほぼ皆無(一件だけありました) 仕事なのに変だなあと思っていたのですが著名な作家の方々がそうだなんて Twitterをするまでそういう現実って見えてませんでした ただつくづく個人ですることの立場の弱さを痛感したから 私自身は強くなっています笑

 

お夕食後 突然疲労感でダウン やはり吉祥寺に出ると緊張するのかと思う(他に理由が見つからない) 自粛が解けて 感染者数も一時よりは減り ともすると以前の重大な危機感を忘れそうなくらいの吉祥寺滞在だったのですが

 

眠いのを必死にこらえてのメモだから ひどい汚いです でもやっと親子について書けそうに 明日から入力

 

巨大な白い夾竹桃でした@井の頭公園

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2020.6.12 ツイッターから転載…日々雑感、所属している歴史の会、年内休会を申請し発表担当の配布資料を送ることに

6月6日

おはようございます 水茄子が手に入ったので塩漬けに 昨日取りかかったら あると思っていた焼ミョウバンがなくて 急いで吉祥寺に出て購入し それで疲れて早寝してしまったので今しています笑 今夜のお夕食の楽しみに

 

ケリがつきました 例の例会を中止して頂いている会の件 6月まで中止になっていたのですが 7月再開と決まったそう 私の意向ではせめて秋以降の決断をして下さるくらいの方たちであって欲しかった コロナでこうした情勢下での判断基準が人を炙り出しますね 私は年内は行くのは無理と休会を申し出ました

 

幹事さんは会場を大きな会議室に変更するなど配慮して下さって良かったのですが 集まる方々の意識って重要ですよね 自粛解除でマスクなしで街に繰り出すのと変わらないなら怖いです 中止を提案した時のご反応で そういうことが見えてしまいました

 

休会を申し出た会の配布資料の作成にかかっています たまたまコロナで例会中止になった3月が私の発表担当 なので再開したら行かなければならないのが重圧でした でも年内休会と決めてご相談申し上げ 全員分の配布資料を作って幹事さんから皆様に配って頂くことで了解して頂きました

 

これでほんとうに華鏡だけに専念する生活になります いろいろ切れない縁ってありましたが コロナでそんなこともいってられずにあっさり切れて 私にはこれからがほんとうの専念する生活です こういうめぐりあわせだったのでしょうね 華鏡は

 

華鏡は待賢門院璋子さんを書き終わって順調だったはずなのですが つぎの段落の二条天皇の万葉集に移ったころから例の会の7月再開が気にかかって それで集中できずにいました えいっとばかりに年内休会を決断し 今日その旨の了解を頂きほっと これで完全に外部との接触がなくなります

 

こういう状況になるのを心から望んでいました でも社会で活動するかぎりきずなやしがらみから切り離されない こんなことがあっさりできてしまったのもコロナだからなんですね 絶対にコロナの状況下以外あり得なかったと思います あとは皆さまがそれぞれに無事でいつかの再会を喜びあえますように

 

6月7日

おはようございます 昨夜ルッコラをサラダにしてオリーブオイルと岩塩だけで頂いたら美味しかった と思ってたらTLに同じ呟きの方が なぜか同じ日にと不思議 我家では胡椒がダメな人がいるので 使う人は各自で取り分けたお皿にふりかけます 水茄子は美味しくて幾つ食べた? などちょっとした競り合い笑

 

窓から涼やかなフェンネルが見えているだけで楽しい 最近スマホのカメラ機能で 近づいて撮る があるのに気がつきました(気がつくとそればかり使います笑)

 

近づいて撮った夏萩です (源氏物語絵巻の末摘花みたいな庭の風情に憧れ 萩を植えたくて買ったのですが しだれて風に靡くのは宮城野萩で夏萩は木の萩なので靡かないと知ったのは植えてからでした)

 

配布資料の作成 少し進んで次が問題の姫の前 『吾妻鏡』建久三年の義時に嫁ぐ記事です 再来年の大河鎌倉殿の13人の要の女性 どんな女優さんが演じられるのでしょうね たまたま発表担当になったページがここだなんてとなにかのご縁を感じ得ませんでした これから比企氏系図を作ります

 

写真は埼玉県比企郡にある比企遠宗館跡 姫の前の系図は 遠宗―朝宗―姫の前 となります 比企尼は遠宗に従って上洛し頼朝の乳母になりますが 朝宗の母は比企尼ではないから 遠宗には比企尼とは別に本妻みたいな女性がいて これが朝宗の系統 比企尼の系統は丹後内侍―島津忠久&範頼妻&安達景盛

 

配布資料をつくっていてなにが嬉しいって 実際に発表するのだったら『吾妻鏡』の漢文を読み下ししなければならないところ 資料の作成だけですむ気軽さ いつも資料を作るのに精いっぱいで 深夜眠いのを我慢して読み下しの練習をしてたから それからの解放感!

 

配布資料の姫の前関連の比企氏系図の作成を終わりました エクセルでしようと思っていたのですが 慣れたパワポで 今まで仙覚さん関連でしていたのに足して姫の前関連を入れました 姫の前は頼朝にあんなに離縁しないよう義時が言い含められて結婚したのに 比企の乱で離縁されたのですね

 

丹後内侍を入れようか迷ったのですが 個人的に推しなので入れてしまいました笑 それにしても丹後内侍の三人の子供の見事さ! 彼女をドラマにしたらきっと仏映画のようになる カトリーヌ・ドヌーヴとか・・・ なんて たった今思いついたのですが

 

6月8日

おはようございます 今日の吾妻鏡配布資料は永福寺について 壁画が完成したそうです 秀衡建立の円隆寺を模したとあるので どんな絵かしらと鎌倉歴史文化交流館発行の図録を見たのですが 燃えてしまった伽藍の壁画が残っているわけないですよね 図録でわからないから円隆寺を検索したら 平泉でも碑だけ

 

でも この円隆寺が仏師雲慶があの運慶かで問題になっている寺院なんですね 京で造らせた雲慶の仏像があまりに見事なので忠通が京から出すことを禁じたという 平泉というと毛越寺とか有名どころの寺院ばかり思ってしまいますが 円隆寺こそ知りたい寺院の気がしてきました

 

なんと この円隆寺は毛越寺の金堂でした どうりで平泉の地図に円隆寺を探ろうと思っても合致する場所がなかったわけ だいたいに雲慶仏師の話も『吾妻鏡』に書かれていて 頼朝の奥州合戦の際に見聞したと書かれています 文治五年のこの条 私もあの会に参加していて発表を聞いてたはずなのですが泣

 

岩波文庫版のこのページ 自分でも予習して四苦八苦の書き込みがあるのに 忘れるものですね 雲慶仏師のエピソードとしては覚えていました 本仏は薬師丈六 玉を以て眼を入るるの事、此の時始めて例となす ってもうこれは運慶でいいかと素人考え的には思ってしまいます(時代が合うかわかりません)

 

もともとオンラインとかテレワークが必要な機関やグループに所属してないけど 例の会の休会で得た外部との完全無接触 なのに孤絶している感がないのはTwitterで社会と繋がっているから ということに気づいたのは大きい ラインで連絡取れ合うなら コロナ以降の世界でも この籠った隠棲生活を など思う

 

休会のための配布資料の作成を終わり 事務の引継ぎのための整理作業にかかっています こういう諸々 世事に疎いのにお引き受けしたり のこういうことが もうほんとうに終わりになるのだから 今夜のうちに済ませたい

 

と なんか休会というより退会気分 たぶん引き続き休会のまま もう行かないだろうな あの教室には という気分です こうして人はいつのまにか抜けるべきところから抜けていくのですね コロナが本質をあぶり出してしまいました お世話になった教室なのに

 

思ったより大変でなく引き継ぎの整理がついて なにしろ昨年は令和改元から仙覚さんのことでもう支離滅裂な忙しさだったから手が回らなくて ミスがあるのではと心配でした 無事に引き継ぎできそうでホッとしたところです で 突然開けた無の世界 なあんにもすることがないって こんなことある?って心境

 

お月様が綺麗です 近くにいられるお星さまはどなたでしょう

 

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«2020.6.9 ツイッターから転載…日々雑感、鎌倉の建長寺様から『蘭渓録』をご恵送賜りました→北条時頼の原稿を書いていたことを思い出しました