若狭局は比企能員の娘です。頼家の側室となって男児一幡を産んだことから、能員が北条氏に代わる外戚となる可能性ができたために、比企一族は滅ぼされました。
比企の乱とはいうもののたった一御家人の屋敷を襲うだけですから、一日と戦わずにしてあっけなく終わっています。
妙本寺の境内に入って、昨日地図でご紹介した一族の墓がある平場へ昇る坂道はちょっとした山道のようなすずやかさがありました。この山道があるために鎌倉市街からはちょっと遊離した避暑地的空間になっています。その昇り詰めたところにあった屋敷・・・。火を放ってもそんなに一日中燃えているわけではなかっただろう狭い空間・・・。乱のとき、こんもりした小さな森を隔てた高台でそれだけの殺戮が行われていることを市街の人は知っていたでしょうか。もちろん、武具をまとった武士団が乗り付けて入っていったのですから、察しはついたでしょうけれど、中の雄叫びや悲鳴が市街にまで届いたか、私には気になります。たったひとっ跳びの森を隔てての地獄とふつうの日常・・・。一方では怒号が飛び交い血しぶきが飛び散る命がけで戦う人々。その一方で反対側ではいつものとおりの時間が流れていて、人々は心配しつつも別世界のように谷を窺っている・・・
一族の墓がある場所で討たれたのは一族のうちの男性陣と幼い一幡君だけだったようです。あとで乳母が一幡君の遺体を確認しています。それで一幡君は骨を拾ってもらって高野山に葬られています。ということは、乳母は一幡君と一緒にいなかったことになります。『吾妻鏡』で、その一日の事の顛末を読んだとき、最初はどうしてもいろいろ不可解でした。何故乳母なのに一緒にいなかったの・・・とか、母親の若狭局はどこにいたの・・・、いえ、若狭局自体、ほんとうにこの乱で死んでいるの・・・とか。
若狭局の死は『吾妻鏡』に明記されていません。ただ、ずっと後に執権北条政村の娘にとりついて、「自分は若狭局の霊で蛇となって未だに苦しんでいる」と告げたということが書かれています。幕府が関わってできた『吾妻鏡』の記載にそうある以上、若狭局が乱のときに亡くなっていることが幕府の中では認知されていたのでしょう。気持ちの上では比企郡にある「若狭局が逃げ延びて住んだ」という伝承を信じたい気もしますが・・・
蛇苦止明神を祀る蛇苦止堂は、前回地図で確かめていただいたとおり、一族の墓がある広い平場とは離れたところに独立してあります。この堂自体は政村の娘にとりついた若狭局の霊を慰めるために建てたそうですが、ここだったのか、それとも別の平場か、私の推測ですが、とにかく若狭局は乱のときの屋敷とは別の私的な住居に乳母と一緒にいたのでしょう。
おそらくそのとき、若狭局は一幡の妹となる女児(竹御所)を産んだばかりで、その育児に乳母とともに専念していた・・・。一幡はすでに比企氏を背負う長として公の場であるメインの館に男たちに交じっていたのだと思います。それで一幡は一族とともに果て、若狭局・竹御所・乳母は助かります。
が、その後、絶望のあまりに若狭局は井戸に身を投げて死んだそうです。残された竹御所は祖母政子に引き取られて成長したようです。若狭局の霊はずっと後になっても祟ってでるほどだったといいますから、如何に比企の乱が理不尽な許せないものだったかがうかがわれます。
蛇苦止堂に向かって狭い石段を昇り詰め、視界が目に収まったとき、一瞬来るのでなかったと後悔したほど思わず足がひるみました。なにかとても不吉なおどろおどろしい感じがしたのです。全体に薄暗く、蛇とか祟りとかの伝承を知っているからというだけではない不気味さがそこにはありました。そして、若狭局が蛇となって住んでいるという池や、身を投げた井戸、というものが実際にそこにあるのです。
でも、蛇苦止明神というのは、前回でも記しましたが、「苦を止める」のです。一瞥したときに感じる文字の怖さと意味は正反対です。どうにかならないでしょうか、この名前。美しかったでしょう若狭局にもっとふさわしい名称はなかったのでしょうか。
そんなことを思いつつ、こわごわと井戸を撮ったりしながら、次第に境内の雰囲気に慣れて、それから最後に再びお参りしてから帰ろうとお堂に向かって手をあわせて「これから恨みを晴らしてさしあげる小説を書きますね」と心のなかで呟いた時、ふっと後ろから陽が射してきてあたりが明るくなりました。振り返るとそれまで空を覆っていた雲が引いて青空が見えています。若狭局に気持ちが通じたんだ、よかった・・・と思いつつ石段を下りはじめました。一枚目の写真がそれです。お堂に陽が射していますでしょ。着いたときは射していなかったんですよ。下の方の池や井戸の写真はそれより前に撮ったもので薄暗いままです。
石段の途中に妙本寺の庫裏があります。そこにさしかかったとき、ガラッと引き戸があいて、中から作務衣姿のお坊様が出て来られました。「写真を撮らせていただきました」とお礼を申し上げると、「いい写真が撮れましたか?」といわれます。「はい、ちょうど陽が射してきましたので」と申しあげると、「それはようございました」と、その方がおっしゃるのです。なんか変な会話・・・と思ったとき、ふっと私は若狭局がそのお坊様に乗り移って言葉を発せられたかのような感覚にとらわれてしまいました。
三枚目のお墓の写真は「讃岐局の墓」で、一族のお墓の脇の細い階段をのぼったところに一基だけあります。若狭局はのちに讃岐局と呼ばれました。仙覚が頼家の子と推測されるご本を拝読したことがあります。そうすると母は若狭局ということになります。けれどいろいろな事情を重ね合わせてみて竹御所の母はやはり若狭局とするのが妥当というところに私の気持ちは固まってきています。すると、同じ年に竹御所が産まれているのですから、仙覚と竹御所は双子?! なんて驚異的な考えにまで飛躍してしましました。目下は治まって、やはり竹御所の母は若狭局、仙覚の母は別の人・・・という考えに落ち着いています。