2021.6.13 小説【華鏡 紫文幻想】は最終章にかかっています

ご無沙汰しておりました。【華鏡】を順調に書き進めていました。最後の更新が4月27日だったんですね。その時にあと二項を残すだけとなりましたとあって、その二項のうちの「11.源高明の大宰府左遷」が終わり、目下最終章の「12.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻」にとりかかっています。

そして、この最終章にきて、突然この小説のテーマが明確になったのでした。それでそれをブログに残しておこうかと。

少し前に、エピグラフを入れました。それが、

     わたしの祖母は藤原師輔さまご子息の

     藤原伊尹さま家に女房として出仕していました  紫式部

というもので、幼くして母を亡くした紫式部を育ててくれた祖母が、時の政権の中枢にいる藤原伊尹家に女房として出仕していた女性だったことをまず明確にしました。

【華鏡】はこの祖母の語りを入れて書いています。それは彼女が時代の生き証人だったからで、その彼女から昔話として聞いて育った紫式部が大人になって物語として話をつむいだのが『源氏物語』だったという構成です。

これは、最初からこうした構成が見えていたわけでなく、書いているとその途次途次に紫式部の祖母の生き証人的役割が出てきます。それで、その都度、紫式部の祖母は藤原伊尹家に女房として仕えていたことを説明していたのですが、あるとき、ふっと、これを一番最初に入れたらあとで説明する必要ないと気づいたのでした。

そうして入れたのがエピグラフで、おのずと最初の項にその話をいれることになり、今までの目次の1から11が後ろにずれて、2から12になりました。それが以下です。 

   一.中務の宮わたりの ―紫式部『紫式部日記』

   二.河陽の離宮 ―嵯峨天皇『文華秀麗集』

   三.太液の芙蓉・勧修寺 ―紫式部『源氏物語』桐壺巻

     四.菅原道真の大宰府左遷 ―醍醐天皇『古今和歌集』

   五.内親王の密通 ―紫式部『源氏物語』若紫巻

   六.琴棋書画の気風 ―源順『和名類聚抄』

     七.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』松風巻

   八.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

   九.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』と『万葉集』訓点作業

   十.後宮の歌合 ―村上天皇【天徳内裏歌合】

   十一.源高明の大宰府左遷 ―紫式部『源氏物語』須磨巻・明石巻

   十二.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻

そうして最終章の「12.雪の越前」を書いていたわけですが、『源氏物語』の夕顔巻は、紫式部の家とは懇意の具平親王が起こした実際の事件をもとにして書かれています。で、その具平親王を書いていた昨日、突然、この小説の大きなテーマが見えたのでした。最終章にして、テーマが見える! なんて、おかしな展開ですが、それまで何がなんだかわからないまま『源氏物語』の深層を追って年代順に書いていたのでした。

なので、その年代ごとに事件が起きて『源氏物語』に関係してきます。最終章にきても、またも同じテーマが浮かび上がって、やっと、そうっか、これが【華鏡】の深いところのテーマだったのだ、と気がついたのでした。

それは、藤原北家という権力者が、自分たちの権力を守るために他氏を排斥してきて、私が書いていたのはその排斥された側の人たちだったということでした。そして、最終章にきて紫式部自身がその排斥された側の人間だったということが明確に浮かび上がったのでした。

藤原北家による他氏排斥事件を列挙します。

   842承和の変
   866応天門の変 
   888阿衡の紛議(宇多天皇の時代 首謀者藤原基経 橘氏排斥)
   901昌泰の変(醍醐天皇の時代 首謀者藤原時平 菅原道真大宰府左遷)
   969安和の変(冷泉天皇の時代 首謀者藤原師尹 源高明大宰府左遷)
   986寛和の変(花山天皇の時代 首謀者藤原兼家 花山天皇退位)
         この後一条天皇が即位して藤原道長へと続く藤原氏全盛の時代に

花山天皇に紫式部の一家の盛衰がかかわっていたのでした。

紫式部の祖母が女房として出仕していた藤原伊尹の娘の懐子が花山天皇の母なのです。そして、懐子の母が紫式部の祖母の姪にあたる恵子女王です。祖母は恵子女王が嫁ぐときに母親代わりにお世話する役割として伊尹家に女房として出仕したのでした。

この縁で、花山天皇が即位したときに、紫式部の父為時が式部丞・六位蔵人という地位につきます。退位させられて為時は散位となり、長い貧窮の生活を強いられることになります。紫式部が14歳の時でした。

紫式部が藤原北家の道長に仕えながら「源氏」を主人公にしたわけは、ここにあります。それを知って許している道長も寛容ですが、『源氏物語』は藤原北家によって排斥され、人生を奪われた氏族「源氏」の人たちの物語です。

【華鏡】はもともと比企の乱によって滅ぼされた比企氏一族の万葉学者・仙覚の生涯を追う小説として始めました。藤原北家の時代は白河天皇の王政復古で終焉しますが、その後源平の争乱を経て権力を握ることになったのが北条氏。比企氏はその北条氏によって排斥されたのでした。

歴史は、権力者による邪魔者排斥によって成り立っているのですね。【華鏡】を書いていてつくづくそう思いました。

でも、権力者が握ったものよりももっと高いところにあるのが文化・芸術です。『源氏物語』がしかり。そして、仙覚さんの『万葉集』しかりです。

と、ここまで書いて思い出したのですが、もともとこの第一章となる『源氏物語』の項は、仙覚さんの『万葉集』訓点作業の原点となる村上天皇の時代の梨壺の五人を書くためでした。梨壺の五人は、「9.華の後宮」でしっかり書きましたのでご安心ください。

じつを言うと、『源氏物語』をあまりにしっかり書き切ったために満足して、【華鏡】はもうこの一冊でいいか、など思ってしまっていました。でも、権力者による他氏排斥がテーマの根幹なら、排斥されたがために『万葉集』を完成することになる仙覚さんを書かなければなりません。テーマが明確に浮かび上がったので、このまま突っ走る気分になりました。

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2021.4.27 執筆中の『華鏡』は、第一章・村上天皇の時代を【紫文幻想 華鏡】として順調に進んでいます

ご無沙汰しました。『華鏡』の第一章、醍醐天皇・村上天皇の時代を【紫文幻想 華鏡】として、あと最後の二項を残すところにきました。

が、ここにきて、今まで予定したいた目次の最後の二項が、年代順では逆だという事がわかり、目次を作り直しました。以下が新しい目次です。

【紫文幻想 華鏡】

   一.河陽の離宮 ―嵯峨天皇『文華秀麗集』

   二.太液の芙蓉・勧修寺 ―紫式部『源氏物語』桐壺巻

   三.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

   四.内親王の密通 ―紫式部『源氏物語』若紫巻

   五.琴棋書画の気風 ―源順『和名類聚抄』

   六.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』松風巻

   七.琴の音 ―藤原公任『和漢朗詠集』

   八.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』と『万葉集』訓点作業

   九.後宮の歌合 ―村上天皇【天徳内裏歌合】

   十.野宮の歌合 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

   十一.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻

今まで、最後を藤原公任の『和漢朗詠集』として、そこに徽子女王の娘の規子内親王が斎王に選ばれて、徽子女王が同行して二度目の伊勢斎宮にくだる話を書く予定でした。その潔斎に籠った野宮での規子内親王が催した歌合で、徽子女王の絶唱「琴の音に嶺の松風かよふらしいずれのをよりしらべそめけむ」が歌われます。

そのことは、七.「琴の音」で少し書いていて、それで最後に絶唱のように終わらせようと思っていたのですが、年代順に入れ替えることになったので、七.だった『斎宮女御集』を十.に持ってきて、七.に『和漢朗詠集』を入れました。

最後が紫式部の「雪の越前」になったわけで、ラストが変わるわけです。「雪の越前」は、前の予定では越前から帰った紫式部が荘子女王と会って語り合うところにしたかったのですが、どうなるか、今後の進み方次第です。

 

「書く生活」がやっと身に沁みついてきました。早稲田文学新人賞を受賞したときに続かず、挫折して、もう小説は書けないと思い、鎌倉の源氏物語の研究に入ったのでした。もうずっと論文ばかり書いていて、筆致が論文体になり、『華鏡』にかかってもその論文体から抜けるのに苦労しました。コロナ禍の自粛でとにかく籠って『華鏡』に集中して、やっと去年の暮れ頃から、あ、文学に戻ったかな、の感触がつかめるようになりました。

ちょうどその頃、村上天皇の後宮が紫式部の『源氏物語』の舞台だったのだと気がついて、第一章がさながら『源氏物語』論みたいになってきてましたので、楽しく、やはり私は『源氏物語』が好きなんだなあ、『源氏物語』だとこんなにするする書けるんだなあと、『源氏物語』に助けられたのでした。

あと少し、頑張ります。

 

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2021.3.31 ツイッターから転載…【華鏡】原稿は勧修寺の胤子さんのことを書いて順調に進んでいます

原稿がなめらかに動き出すようになって今までのようにはいろいろ気をまわせなくなりました。それだけ集中できてきているということで、このまま最後まで突き進もうと思います。

ご報告がとにかく滞りっぱなしですが、ツイッターからの転載で記録として残します。

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3月27日

おはようございます 写真は勧修寺様の池 この蓮は平安の氷室の時代からあったのでしょうか 【華鏡】の目次に新たに宇多天皇の項を入れて 1.河陽の離宮―嵯峨天皇『文華秀麗集』 2.太液の芙蓉・勧修寺―宇多天皇『新撰万葉集』 3.紅葉の大井川行幸―醍醐天皇『古今和歌集』としました

 

【華鏡】目次は今後の展開の予定ですが 不動のTOPだった醍醐天皇の『古今和歌集』が押しやられて三番目になってしまいました 仙覚の万葉集の原点としての古今和歌集だからTOPだったのですが 紫式部の源氏物語になったらその前に冬嗣が そして勧修寺が となって押しやられたのでした

 

家族に胤子さんの話をして ここから書き直して始めるの と言ったら やっと売れるようになってきたね との返事 笑ってしまいましたが それだけ私のなかで原稿がこなれてきたということと受け止めたけど 万葉集だと売れなくて 源氏物語になったから売れる みたいな構図は厳然としてあります

 

「二.太液の芙蓉・勧修寺―宇多天皇『新撰万葉集』」の項を終わりました 印字したのでこれから推敲 この先はもう書いているからいろいろ辻褄合わせをしながら進めればいいだけになりました なんか ほっとして気持ちが楽に 写真は2003年に訪ねた時の勧修寺様庭園 まさかここにこんなに深まるとは

 

胤子さんを書いていて楽しかった 華鏡で初めて楽しかったといえる執筆になりました 仙覚さんの小説を書くというしがらみから抜けたからでしょう どうしても仙覚さんの小説では史実の枠を抜けられないから論文タッチか伝記調 楽しいわけないですよね 胤子さんの世界はただただはかなく優雅でした

 

こういうはかなく優雅 が好きです (徽子女王がそうなのですが 徽子女王のときは華鏡の書き始めでどうなるものともわからないまま調べ調べながらで大変だったから楽しむ余裕はありませんでした)

 

なんか 文章の入り込み方からして違ってきている感がします

 

3月28日

おはようございます 原稿にかかっています 昨日は宇多天皇と胤子さんの項を書き 醍醐天皇は書き飛ばしたので 今日は醍醐天皇の亡くなった母・胤子さんを偲ぶよすがとして勧修寺を建立するところをしっかり書こうと思います 醍醐天皇のこの思いから胤子さんってどういう人?の展開になったのでした

 

【華鏡】の原稿 醍醐天皇の『古今和歌集』を終わって 勤子内親王の密通もすでに書いたものの見直しだから印字してこれから推敲 そのあといよいよ源融の棲霞寺に入ります もうここまで来ればあとは本格的に流れで書いていくだけです 写真は2009年の井の頭公園 桜の季節になると鴛鴦がいたのですが

 

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 堤中納言兼輔は娘の桑子を醍醐天皇に入内させる時 後宮で苦労しないか心配でこの歌を詠んで献上したそう 華鏡で最初の頃にこれを書いた時は そうだよなあ 後宮は大変だもの くらいの認識でした 定方と懇意と知っていてもでした が 宇多天皇後宮の

 

胤子さんを追って書いていたら 突然それが繋がって 兼輔は定方から胤子さんの話を聞いていたから 桑子が胤子さんみたいになったら大変と 実際の危機感を持っての詠歌だということに理解 この気付きは思いもよらなくて 我ながらよくここまで という感じです ここに来るまでほんと 苦行僧のようでした

 

3月29日

おはようございます 写真はかつて蹴鞠を観に行ったときの白峯神宮の桜です 飛鳥井雅経邸址の白峯神宮 飛鳥井雅経を小説に書いていてからもう十何年が経ちました でもそういうことの全部が結実して華鏡ができようとしている いろいろなことがあったけれど やっと先が見えてきました

 

資料を整理していたらこんな書き込みが 村上天皇後宮が源氏物語としっかり二律背反で食い込んでいると気づいたのがこれ 昨年暮れの12月7日でした そこから紫式部の祖母が浮上して今日の着地感までに ほぼ四ヶ月かかりきりました

 

着地感 はじめてこの手応えを掴みました 【華鏡】 1.2.3.が推敲終わって完了です 5.の琴の音から始めたのでした 暮れに紫式部の祖母が浮上し そこから深まって辿り着いた淵源が冬嗣 冬嗣から書き直し始めて3.まで整いました

 

琴の音は6.でした 最初2.だったのが 次から次に前が埋まって押し出されて6.笑 でも徽子女王を書いていて この時代はまだ源氏物語はできていません と書いたらふっと気になって ではどれ位後の時代なのだろうと見たら 60年位しか違わなくて もっと遠い昔を紫式部は書いたと思っていたから驚いたのでした

 

3月30日

おはようございます 写真は今年は撮りに出ていないのでずっと過去写真ですが2009年@井の頭公園 【華鏡】が というより私の書く姿勢がやっと定着して文学を取り戻しました 挫折して〇年 長かった~ もう書けないと思っていたので嘘のよう 気が軽くなりました 今日から勤子内親王の密通の項です

 

内親王の密通の項はすでに書いてあるので推敲だけ で 一応終わって印字 これをまた推敲したら終わりで次の項に 師輔は徽子女王の母寛子さんの弟だから ここから徽子女王につなげていくので徽子女王が近づいてきて嬉しい 師輔はまさに光源氏をほうふつとする人物です

 

内親王の密通の項 これを書いていて密通相手の師輔ってどういう人? と調べるのを思い立ったのでした それがこんなに長く遡ることになって あのまま書き進んでいたら胤子さんのことにも気をとどめることなくいたのだなあと今更に あと勤子さんが源順に和名類聚抄の編纂を命じるのを書いて終わります

 

源高明が光源氏のモデルの一人と言われているのは知ってたけど 高明に興味ないしスルーしようと決め込んでいたら 高明は勤子内親王の弟 それで密通相手の権中納言師輔が重用して村上天皇期に活躍 となったら これは書かないわけにいかないなあと 勤子内親王と師輔と高明三人の会話を考えています

 

そこに 源順をからませようかと

 

内親王の密通の項を書いたら頭が満杯で こういうときは寝るしかなく休みました そうして起きたらこの項は密通でひとつ 切り離して和名類聚抄を とするべきとわかって切り離し 密通が4.和名類聚抄が5.となってまた項目がひとつ増え 琴の音がまた先に送られました 7.琴の音 です あ~あ笑

 

だんだん恐ろしいことになって来ました笑 12月の段階で琴の音は2.だったのに 今や7. 12月の段階で気がついたばかりの紫式部の源氏物語が席巻して来ました

 

3月30日

おはようございます 【華鏡】 今日は勤子内親王が源順に和名類聚抄の編纂を命じる項を書きます 琴棋書画の文人がたしなむべき四つの芸 平安時代に絵を描いていた記録が残っているのは勤子内親王だけだそうです このふたりははとこの関係ですが内親王だから我に辞書を与えよみたいな命令調の口調が魅力です

 

ここで源順を登場させて 勤子内親王とのつながりが師輔との縁になり 和名類聚抄の功績があっての梨壺の五人のひとりの抜擢にとなっていきます 仙覚さんの『万葉集』のために始めた華鏡 その最初の梨壺の五人の訓点作業を書くための第一章だったから やっと本題に入ります

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2021.3.24 ツイッターから転載……【華鏡】の原稿は、新しい鉱脈が見えてきて最初から書き直しています。その鉱脈は、藤原冬嗣の流れです

ご無沙汰いたしました。先日、原稿を読み返していて、ふいに紫式部の祖母に名前を与えたくなりました。そうしてつけたのが、高子。別にあるかしらといろいろ考えても、結局、これしかない、といった気分で、高子で書いていこうと思います。

そうしたら、なにかがはじけたのでしょうね。展開が全然ちがってきて、紫式部の祖母の祖、藤原冬嗣が重要になってきて、今まで書いてきた原稿の前に『文華秀麗集』から始める段を入れようと。

そうしてそれを書いていたらどんどん気持ちが定まって、今度こそ本命の書き進み方をしていると思います。長い転載になりますが、一気にご紹介させていただきます。

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3月20日

おはようございます 昨夜華鏡を読み返していて 師輔の想い出話を語る紫式部の祖母があまりに生き生きしているので名前を与えました それまでは紫式部の祖母という語り部に過ぎませんでした 軌道に乗って書いている時に鎌倉の件で中断し 少し離れて客観的になったらこうなりました よき展開と思います

 

ちょっとうとうとしたらあるニュースの夢を見て あまりにそれがはっきりで正夢かとTwitterを 全然話題になってなくてほっとしたのですが あまりにはっきりで飛び起きて こんな完全な覚醒って前代未聞 この勢いで原稿にかかります

 

日向一雅氏『謎解き源氏物語』に光源氏の予言が明石姫君で実現した事の解説を読んで胤子を彷彿とし 研究されたご論考があるかしらと検索して辿り着きました【PICK UP】『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?藤原高藤と宮道列子のロマンスの地 京都市山科区

 

本当に覚醒したのかもしれない さっき正夢かと驚いて飛び起きた覚醒感が半端でない 昨夜紫式部の祖母に名前をつけたからと思う 華鏡が別の展開になってきて それでなぎさんのblogに辿り着く思考回路になったのだけれど 華鏡は宇多天皇の新撰万葉集から始まってるから それより先に胤子を書かなくては!

 

胤子は明石の君を彷彿とします 華鏡の最後が表白の白 の小見出しで和漢朗詠集のラストの白です それは源順が徽子女王を白い人 高貴な純白の人と捉えていて その白い崇高性を紫式部は明石の君に与えました 衣配りでの白の装束 紫式部はなぜそんな構成にしたのかの遠因が胤子だったんですね

 

宇多天皇は一旦臣籍降下で源氏になった人です それを皇室に復籍させて天皇にしたのが藤原基経 源融の即位を一旦臣籍降下したものは即位できないと拒んだにも関わらず宇多天皇を即位させました 胤子が宇多天皇と結ばれたのは臣籍降下していた時期で まさか胤子も自分が天皇妃になるとは思っていなかったでしょう こうした経緯を源融のところで調べて知っていたから 今回の胤子の明石の君との関連がピンときました

 

また年表作成 嵯峨天皇即位辺りからノートいっぱいまで そうしたら前に作った徽子女王誕生辺りからの年表にちょうど繋がりました 嵯峨天皇の時代は冬嗣 その孫の高藤 その高藤と宮道弥益娘の子の胤子が宇多天皇女御になって醍醐天皇を産む と この流れの中に源融や源定ー勤子内親王の流れがあります

 

3月21日

冬嗣の文華秀麗集から始めることにしました 徽子女王が母寛子さんの死で斎宮を離れて帰京する途中 河陽宮に一ヶ月滞在します 河陽宮って何だろうと調べたのが発端です それで文華秀麗集を買って どこに挿入しようかはかっていたら まさか紫式部の祖母関係になるとは 冬嗣ー良門ー高藤と宮道娘ー胤子

 

胤子の弟が定方で紫式部の祖母の父です

 

【華鏡】 書き直し作業に入って 目次がこうなりました

◆第一章 華の後宮

   一.河陽の離宮 ―嵯峨天皇『文華秀麗集』

   二.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

   三.内親王の密通 ―源順『和名類聚抄』

     四.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』

   五.琴の音 ―徽子女王『斎宮女御集』

   六.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』と『万葉集』訓点作業

     七.華の歌合 ―村上天皇「天徳内裏歌合」

   八.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻

     九.白の表白 ―藤原公任『和漢朗詠集』

 

五の「琴の音」から始めてその都度疑問が浮かび上がって遡って遡って探って行った結果が 一の「嵯峨天皇 」先へ進もうとして書くたびに前に逆戻りの年末からの作業でした

 

平安時代 よく交野に狩猟に行く記事があるのですが 京都との位置関係がわからないので検索 中央真下が交野 京都からだと 大山崎町ー八幡市ー交野 大山崎が河陽宮で八幡市が石清水八幡宮 河陽宮が交通の要衝というのがやっとわかりました 交野は奈良との県境の生駒山地の丘陵地帯が狩場で風光明媚だそう

 

平安時代には天野川の水辺や丘陵地帯に天皇・皇族・宮廷人が訪れ、狩猟や歌を詠じて楽しむ→嵯峨天皇が交野に行幸する途中、山崎駅を行宮に定め、後に河陽宮という離宮にしたのでした

 

地図だけだと高低差がわからなくて辛い どなたかのblogで紹介されてないかなあ と期待するのですがあまりなく でもいつか行ってみたいですね 平安時代の貴族気分で

 

GoogleMAPで地形が見られました 上から山崎(河陽宮)ー八幡市(石清水八幡宮)ー交野 交野は見るからに狩猟に適した地ですね

 

3月22日

嵯峨天皇の河陽宮関連の年譜 作りながらなんか既視感があったのですが 源融のところで空海の事跡と重ね合わせて作ったのでしたで 今度はそれを重ねると 河陽宮や文華秀麗集の文化活動は 空海が高野山を下賜されるまでの期間と一緒 空海が東寺を賜るのはもっとずっと後でした

 

こういうところに源定が生まれたり 源融が生まれたりして 後の勤子内親王や徽子女王といった方々の血筋や文化の継承がなされていくんですね

 

そこに今度は『文華秀麗集』の編纂を命じられた冬嗣が そこから孫の高藤に行って紫式部まで と どこまで重要な事が繋がるのでしょう 不可思議ということはないけど感動ものです

 

なんでも今は逆に辿るといい 文華秀麗集な漢詩集 嵯峨天皇たちは漢詩ができて漢詩集まで作って凄い! となるのは現代の感覚で 当時は渤海の使節らと会話できないのを 漢字を使う国同士だから筆談で意思の疎通ができたと 今は漢詩ができないから そんな当たり前のことが当たり前でなく感じられる

 

日本古典文学大系の解説から当時の中国語が喋れたかどうかの実情を まだ訓読に頼っている段階と簡単に受け止めてしまったことの背景に 鎌倉で数年 蘭渓道隆の来朝以降の日本の禅僧が中国語を覚えないまま蘭渓道隆に教えを受けていた実情を聞いていたからです 通訳はやはり帰国僧に頼っていたと

 

三春二月河陽縣。河陽従来富於花。花落能紅復能白。山嵐頻下萬條斜。 おはようございます 文華秀麗集の嵯峨天皇が河陽宮を詠んだお歌です 中国語ができる方のお歌かどうか私にはわかりませんが それをしていると華鏡の執筆が遅延しますのでこのまま進めます このお歌に冬嗣が和しています

 

こんなところで という解明が 遡って歴史を見ていると浮かび上がってくる 醍醐天皇が万葉集以降歌が廃れたのが惜しいと古今和歌集を作った その廃れた原因が漢詩集横行だったとは 日本独自の歌では外国との交流ができないと官人たちがこぞって漢詩に移行したからのようです(岩波古典大系解説より)

 

文華秀麗集に渤海の使節との交流を示す歌があり 使節が来朝して一年経つのにまだ帰りの船がないと 円仁の場合をみても一旦渡海したら帰りの船が確約されているのではなく都合よくみつけるしかなかった そんなに大変な渡海なのによく当時の人々は と息を呑む思いです

 

重明親王が渤海の使節に残したエピソードがあり 嵯峨天皇の時代にも渤海の使節が 信じられなくなって年表を見たら 渤海の滅亡は重明親王が二十歳のころでした

 

3月23日

おはようございます 文華秀麗集から書き直し始めて順調です 既に後半を書いてきたから ここで何が必要かが見分けがついて書き進められて楽 例えば嵯峨天皇といえば空海 空海は源融の項に重要だから入れると 文華秀麗集は空海が高野山を造っていた頃 となります 煩雑さをいかに避けるかに苦心しています

 

師輔が文徳天皇の源氏の血筋 ということを以前ツイートしましたが 師輔の政治手腕と寛容で鷹揚という人柄が冬嗣を読んだらそっくりな気がしていました そうしたら文徳天皇は冬嗣の血筋なんですね 直近の隔世遺伝ではないけれどそういう感じ ここのところ書いていて系図にそういう関係をよくみます

 

醍醐天皇が母胤子と死別したのは12歳の時だったのですね 高藤が六年も列子一人を思い詰めて生まれた胤子の子が 後宮で最多の女御更衣 と 今気がついたのですが 母を求めて女性遍歴をする光源氏って 醍醐天皇その人なんですね 勧修寺を建てたりして胤子を忍ぶところから気になって年齢を計算したら

 

改めて源融のウィキを見ていたら 太政大臣良房の薨去で融が太政官のトップに立って左大臣になったと 良房は日中高藤を調べていて伯父と知ったばかり 融は ああ ここに来るんだ~ と 融の側から 高藤の側からと多方面に見ていてややこしいのですが こうしているうちに統合してきます

 

宇多天皇は即位する前に胤子と結婚して醍醐天皇が生まれ 即位後は基経を憚って娘の温子を入内させ 更衣胤子をさておいて女御に その後基経が亡くなると翌年胤子を女御にしているから 基経への忖度があっても心は胤子にあったみたい でも胤子さんはその四年後に薨去 心労が重なったのでしょうか

 

醍醐天皇が母胤子さんを慕って女性遍歴をする光源氏だとすると 先のツイートの胤子さんの薨去は温子という権力者の娘の入内に圧されて弱る桐壺更衣そのものですね

 

宇多天皇は即位した時 阿衡事件を起こして基経を怒らせてしまう 困った宇多天皇は左大臣源融に命じて…… と こんなところに源融が! 胤子はもう結婚していて 醍醐天皇を産んでいるくらいだから 源融は胤子を見ているでしょうね 即位礼の時の胤子さん さぞ美しかったことでしょう それを融は見ている!

 

なんか 胤子さんはスルッと通過して 早くもとの醍醐天皇から始まる原稿に戻りたいのに 終わらない 胤子さんが膨らみすぎて困ってます

 

もとの原稿では桐壺更衣を兼輔娘の桑子さんにしていたけれど それは形態からのモデル論 でも 胤子さんは内面をたどっての桐壺更衣を書ける 桑子さんを書いた辺り 無駄になるのかしら

 

そうっか 阿衡事件に引っかけて 臣籍降下の源融と 融の即位を阻止した基経と 臣籍降下していたのに即位した宇多天皇を書けばいい そこに胤子さんもいると(ここら辺 スルーする予定でした) 原稿って進まないですね

 

3月24日

おはようございます 写真は勧修寺様 醍醐天皇が母胤子さんを偲んで祖父宮道弥益の邸宅跡に建てた寺院です 紫式部の祖母から発展してとうとうここに 実はこのあたりの知識 知ってはいたのですが頑なに避けてきました でも突き詰めてきたらここが原点 しっかりとここを書きます

 

藤原冬嗣―良門―高藤が宮道弥益娘の列子と結婚―胤子が宇多天皇女御に―醍醐天皇 そして 高藤ー定方(胤子の弟)ー紫式部の祖母―為時―紫式部 → こういう系列を見ると紫式部は宇多天皇・醍醐天皇の後宮はかなり身近な話題だったはず 紫式部の祖母を語り部にして華鏡を書いているから人間が膨らみます

 

書くことは隠れている鉱脈を掘り当てるまでが大変 ふっと 昨年 和漢朗詠集と巡り合ったのは今頃だったなあと思い それから夏に白河天皇の時代に移り 十一月から紫式部の源氏物語に そして今 醍醐天皇 この流れのほんとうの鉱脈が高藤なのでした ほんと 固い岩盤を掘ってきた感でいっぱいです

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2021.3.14 ツイッターから転載…藤原師輔は光源氏のモデルの一人ではないかという気がしてきました→紫式部の祖母の語りでそう入れて、師輔の項を終了

ご無沙汰しました。ずっと原稿に集中していて捗りました。なにか、随分、悩んだり迷走したりしてきましたが、ここにきて書ける心境が著しくなって、やっとほんとうに「書いていく」気がしてきました。何回もそう言ってはさらに先があって前言取り消しを繰り返してきましたが、ここにきてやっとです。勤子内親王が藤壺のモデル、と辿り着いたと思ったら、お相手の師輔が光源氏のモデルだったようすが見えてきて、まさかの思いでしたが原稿にそう書いてまとめました。光源氏のモデル、という究極の核心に辿り着いてこれからが本腰の気がします。ツイッターから転載させて頂きます。

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3月11日

おはようございます 今日は東北震災の日 心静かに過ごします

 

震災の追悼式拝見しました 震災関連は辛いから今日はTLを見ないと決めていたのに 原稿に一段落ついたきっかけで何気なく開いたら開始直前の3分前 ご縁を感じて追悼式とともに黙祷しました

 

3月12日

日付が変わって 師輔と勤子内親王の原稿を見直しています 震災の1日 籠って仕上げました これで完成 と思ったのに見直したらまた膨らむ 原稿が意識で書き進むより以上に原稿内部の突き上げで動いてくるようになった感 まさか堅苦しい印象だった勤子内親王の項からそうなるなんて と意外です

 

広瀬裕美子氏「『大鏡』の学芸人ーその描写方法ー〔二〕藤原実頼」を拝読しました。実頼と師輔の大鏡での描かれ方の対比。二人の人間性がよくわかり参考になりました。師輔も歌や管弦をよくする人だったけどそれは無視され政治家としてだけ描かれたと。師輔って光源氏なんだ〜とふと思ってしまいました

 

岡部明日香氏「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実―絵画と斎宮―」を再読しました これは勤子内親王が源順関連で浮上したときにみつけて拝読していたご論考 その時はこの時代における絵画の意味や師輔という人物の詳細を知らなかったから ただ ふ~ん といった感じで終わっていました その後

 

琴の関連で京都芸大?の琴譜のYouTubeを観たり 昨日の師輔関連の渉猟でこのご論考の主旨がやっと明確にわかりました 知らないとほんとうに猫に小判です笑 ここでは師輔が光源氏の政治面でのモデルかもと書かれていて 私も昨夜色好みの面でモデルかと思ったばかりですから なんとなくこのご論考は

 

今の私の方向に通底しているなあと ただ 拝読していてなんかピンと来ないのはなんだろうと繰り返し拝読したら 勤子内親王を秋好中宮になぞらえているだけだからだとわかりました 私は 藤壺説です

 

先程のピンと来なかった件 最近よくご論考に接していてこうなるのですが 資料だけのご考察だと背後の人と人の繋がりの 温かい血の交流が感じられない 華鏡がここにきたからそうなのだけれど モデル説の背後に私には紫式部の祖母の声がある それを聞いて育った紫式部の書いたのが源氏物語です

 

ご参考に:師輔と勤子内親王が結婚した年 紫式部の祖母は15歳 勤子内親王は醍醐天皇皇女で 醍醐天皇は紫式部の祖母の叔母が母です 師輔が右大臣として活躍する村上朝で 祖母は師輔の子の伊尹家に女房として出仕していました 幼くして母を亡くした紫式部を育てたのはこういう女性でした

 

やっと自分の時間 日中もPCに向かっていたのですが 全く新しい文章に入るには諸々所用が起きる日中はやはり無理 深夜に文章を打って日中に推敲 というのがいいのかも ともあれ原稿が書きたいものが見えてきたのと構成が整ったのとで気分が充実してきました

 

3月13日

おはようございます 岡部明日香氏「勤子内親王・雅子内親王の史実ー絵画と斎宮ー」より 唐代五代の山水画の理論についての荊浩『筆法記』に 一曰気、二曰韻…とあり 気は心筆に随いて運り、象を取ること惑わず だそうです 絵画をよくした勤子内親王はこういう気の運筆をされていた方なんだなあと

 

最初にこのご論考を拝読した時には価値を知らずここを読み飛ばしていました その後 徽子女王の琴関連で京都市芸大?のyoutube「琴譜」を観た時に 琴棋書画 の言葉が出て 古代中国文化において君子の修めるべき四つの芸術という文化があると知り そういえば竹林の七賢人はいつも傍に琴があったなあと

 

源氏物語や宮廷で貴族たちがあらゆる芸術を嗜んでいるのは ただの趣味でなく こういう列記とした修めるべきという文化のもとでだったのですね 「気」を修める勤子内親王 琴棋書画 のもとで漢籍に親しみ わからない漢語があるのがもどかしく それで我に辞書を と源順に和名類聚抄を作らせたのでした

 

師輔は母が源氏なのですね 文徳天皇ー源能有ー源昭子ー師輔 文徳天皇の曾孫になります 何度も内親王と結婚した意味がわかったような 高貴な血筋という志向だと思います これ 表にはあらわれないけど 大きいと思う

 

雨はすっかり去りました 師輔の項で詰まっていたのですが 先ほどツイートした母が源氏の件 紫式部の祖母の声として追加して終わりにします 雷も去ったからこれから階下のPCで

 

師輔の入力を終わってこれはもう師輔は光源氏そのものだなあと 源融とか源高明が「源氏」で疎外された人生だから明らかにモデルとして通っているけど 政治的手腕 色好み 学芸才能すべてに秀で 人柄もよく人望篤い すべてが光源氏の人間性の造型になっています しかも祖先をたどったら源氏でした

 

謎が解けた思いです 昔から紫式部は光源氏の政治手腕をどこで学んで書いたのだろう が不思議でした 道長を見て と言われますが 道長に出仕してすぐ源氏物語を書き始めていますから 時間的にそう簡単に身につくものではないので絶対違う 祖母から師輔の政治力を聞いて育ったからだったんですね

 

師輔の光源氏説について 岡部明日香氏「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実」に≪光源氏がどこまで師輔その人に重なるかは別として≫として注に紹介されている日向一雅氏のご著書を古書で注文しました 源氏物語の政治面からの切込みのようで 私はこれを知りたかった という感じです

 

ただ 私は【華鏡】第一章 師輔の項で 実際に師輔を知る生き証人みたいな紫式部の祖母の話として 色好みとか人柄とかの人間性の面で師輔光源氏説を書いたので 政治面での具体性がわかっても追加しないようにしたい 折角祖母の語りという口語体で柔らかな文体になっているのでと今から警戒

 

師輔の項に引き続き 勤子内親王と源順の和名類聚抄を書きました ドラマ仕立てでセリフなど浮かんでいたのですが 予定外に師輔の項が膨らんで さらにまた和名類聚抄が膨らむと煩わしくなるので小さく纏めることに 明日入力して たぶんまた急転直下の完成 そうしたら! 徽子女王の項に戻ります やっと

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2021.3.2 【華鏡】は後撰和歌集の編纂の項にかかっています。

今まで【華鏡 一】としていましたが 【華鏡一 仙覚以前】【華鏡二 仙覚の生涯】にしようという明確な枠組みが見えてきて 目下その【華鏡一 仙覚以前】の第一章「華の後宮 醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代」の 1.2.3.4.まで終わって 「5.華の後宮 ―村上天皇『後撰和歌集』」にかかっています

以下、ツイッターから転載させて頂きます

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3月1日

おはようございます という時間ではないけれど未明に寝たから起きたのが遅く朝の用が済んだらこんな時間 今日はこちらを 『文華秀麗集』 届いたまま開封してなくて やっと本体を出しました まだ箱から出してなくて どんな世界が広がるか楽しみ 世界は広いですね!

 

源順と勤子内親王の関係は嵯峨天皇皇子の定の家系なのだけれど 定の子の至が順に 定の子の唱が勤子内親王に繋がる 勤子内親王って 源高明と姉弟なんですね だから順は高明と親しく… など ちょっと整理したい心境(順の周辺が見えてきて深まっています)

 

三月一日の朧月夜 (本当言うと少し日付が変わっていますが) 綺麗です

 

3月2日

おはようございます 写真は去年のミモザ 今年は見逃しましたが井の頭公園近くで咲いているのを見ました 原稿は後撰和歌集撰集にかかっています この勅撰集 撰者が一首も採られてなく 後宮の方々の歌もない あったら面白いのにと期待していたのですが これら選歌方針から後宮の方々が読むために

 

作られたのではないかというご論考 村上天皇の後宮は 徽子女王が斎宮女御集を残すなど才媛揃いですが 徽子女王が入内する前から歌は切磋琢磨されてました 和歌所が梨壺という後宮内に設けられたのもその意味があるのではと 梨壺って中宮安子のいたところなんですよね 安子は後撰和歌集で歌の多い

 

師輔の娘です なんか 安子が重要人物では? という気が萌していて これから大鏡で師輔を読みます 原稿が村上天皇の後宮と源氏物語の関係が主題になって私自身の迷いもすっかりなくなりました 少し前まで鎌倉の源氏物語に関わった15年のあいだに失ったものは大きいなど恨みがましく呟いてました

 

後撰和歌集には 師輔の歌壇と 兼輔の歌壇があります 師輔は源順に『和名類聚抄』を作らせた勤子内親王と密通して降嫁させたほどの文化人 兼輔は堤中納言と呼ばれる文化人で紫式部の曽祖父 紫式部の祖父雅正の歌が入集しているのもこの歌壇の人だから 師輔と安子の線で撰集の動きが書けるのでは?

 

源高明が勤子内親王の同母弟で 内親王は高明邸に住んでいらしたそう そこは大納言定が買い取って南北二町にし たもの 風流な邸宅だったよう 定ー唱ー近江更衣周子ー高明と継承されたのでしょう 師輔との密通はここでしょうか 四条北、朱雀西だそうです 高明は光源氏のモデルの一人らしいけど私にはまだ

 

大鏡 師輔の項を読んだのですが僅か何行とかの少なさ 解説を読んだら温和で人柄がいいから奇行がなく書くことがないからだと ちょっとびっくり 私的にはいっぱいあるのにと 娘の村上天皇中宮安子は 最初は弘徽殿女御的奇行が書かれ 別項で女房らに気を配る素晴らしい中宮と まるで別人でこれも

 

びっくり そして 素晴らしい評価の中に歌など雅にも気を配った人とありました 安子の後撰和歌集への関与 書いていいかも それから高明親王の安和の変が書かれている項があったので読みました 左遷 大変だったんですね 高明親王が力を得ると源姓の勢力になるから藤原氏方に左遷させられたと

 

それが光源氏の須磨流謫になるのでしょうけれど 私が今まだ整理つかないでいるのは 源順が高明親王と竹馬の友的親戚関係で親しく(たぶん 乳母子的存在) それで安和の変で順も困窮しますが 順を紫式部がどう見ていたか まだ全然絞れていません

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2021.2.23 ツイッターから転載…【華鏡】第一章「華の後宮」は、「五.梨壺の五人」にかかりました(目次を更新しました)

2月21日

原稿が以前に書いていたところに戻ってほぼ推敲で進んでいるから 楽しい 前に書いていたときはなにか物足らなくて不満でしたが 冒頭に嵯峨の山荘・融から 続いて勤子内親王から藤壺の話を入れたら薄っぺらさがなくなって充実 あとは目次どおりに進んでいきます

 

何日ぶりだろうこの寛ぎ もしかしたら1日か2日くらいの周期かもしれないけど 原稿が一山越えた時の寛ぎは 越えるまでの疲労困憊感で一週間ぶりくらいに思える その繰り返しでした たぶんもうそういう山はないと思うから 今はほんとうの寛ぎかもしれません

 

紫式部の祖母は村上天皇の後撰和歌集も生き証人的に同時代を生きてるんですね さっき前に書いた原稿に戻ったから推敲だけで楽しく進む なんて呟いてしまいましたが 前#は紫式部の祖母が視野に入ってなかったから一面的で 目下両面になるべく整合中です 紫式部は梅枝巻で古万葉集について書いて それは

 

源順が梨壺の五人を命じられたときの詞書にある古万葉集と響き合うものとして その辺りを詰めていこうかと思う 後撰和歌集で一項目 梨壺の五人の万葉集訓点作業で一項目 と思っていましたが 一つにまとめていいかも 話は変わりますが 徽子女王の娘規子内親王と紫式部の父は同年生まれなんですね

 

古万葉集って 万葉集とは別にあるものと思っていたら 仮名で訓点をつけた新しい形の万葉集が流布したから 区別して 万葉仮名だけのもともとの万葉集を古万葉集といったそう その万葉仮名だけの万葉集に訓点をつけたのが源順ら梨壺の五人なんですよね

 

とこんなふうに呟きながらメインをどこに持っていくか 構想を練っています

 

大事なことを忘れていました 梨壺の五人を統括する別当が伊尹で 紫式部の祖母は伊尹に嫁いだ姪の恵子女王を助けて女房として伊尹家に仕えています これをどうにか生かして書く線が正しいかも

 

久しぶりにblogを更新しました 勤子内親王の項を書き上げ 昨夜から梨壺の五人について書きそうな展開になっているので その節目に ほんと 久しぶりの万葉集です なんか 嬉しい

 

前に書いていた原稿に戻ってたんたんと推敲していけばいいと思っていたのが 紫式部の祖母の件にまだ気づいていない段階の原稿は薄っぺらでどうしよう~といった感じでした 気づいて 年譜を見直したら紫式部が『源氏物語』に古万葉集と記しているのを思い出し そこからの展開です

 

『源氏物語』梅枝巻より:嵯峨帝の、古万葉集を選び書かせたまへる四巻、延喜帝の、古今和歌集を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緂の唐組の紐などなまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる←明石の姫君の入内に備えてです

 

小川靖彦先生『萬葉学史の研究』にここのところの詳細なご考察があります 万葉集は全20巻だから それを書写するのも保管するのも大変 なので抄本にして(ここでは4巻)調度としてちょうどいいように作ったのが万葉集の新しい需要のかたちになったと(うろ覚えの知識ですみませんが)

 

なんか 昨日まで悲痛な思いで斎宮女御徽子さんをしていたのに ひと晩あけたらすっかり万葉集 でもこれが仙覚さんの小説の本来のかたちなのです笑

 

目次更新

第一章 華の後宮 ―醍醐天皇・村上天皇・一条天皇の時代

      一.紅葉の大井川行幸 ―醍醐天皇『古今和歌集』

      二.嵯峨の山荘・棲霞寺 ―紫式部『源氏物語』

      三.琴の音 ―村上天皇女御徽子女王『斎宮女御集』

      四.梨壺の五人 ―村上天皇『後撰和歌集』と『万葉集』訓点作業

      五.華の歌合 ―村上天皇「天徳内裏歌合」

      六.雪の越前 ―紫式部『源氏物語』夕顔巻

      七.白の表白 ―藤原公任『和漢朗詠集』

*三「琴の音」が終わり、四「梨壺の五人」に入ったところです

 

2月23日

おはようございます 終わったとした琴の音の項に 斎宮が伊勢に出発する際に天皇から額に黄楊の小櫛を挿して呼んでもらう別れの儀式を追加しました 煩瑣になるから儀式儀礼は省略していたのですが この時天皇の発する都のかたにおもむきたまふなの文言がこの項の最後と呼応すけわる気がして

 

源氏物語では賢木巻に六条御息所娘に朱雀帝から挿して頂いています

 

斎王って酷な制度ですね 物凄い経費もかかるから鎌倉か室町あたりで自然消滅したようです 白河天皇ではまだあって 白河天皇の皇女も斎王に 天皇のお気に入りの皇女で この方は無事に帰京されて白河天皇と仲睦まじく暮らされます

 

徽子女王は十歳で両親から引き離されて一人伊勢に下り 母寛子さんの死で任務を解き放されて帰京 十七歳になっていました 十歳のこの時が母寛子さんとの永遠の別れになったのです 華鏡では帰京した徽子女王が寛子さんの一周忌が執り行われた棲霞寺で寛子さんを思い出して泣き崩れるシーンで終えました

 

この後二十歳で徽子女王は村上天皇に入内して女御になります 神の聖域の人から愛憎渦巻く後宮の人に そこに村上天皇院宣による『後撰和歌集』と『万葉集』の訓点作業の梨壺の五人 その一人に源順がいて徽子女王を守っていく…… 書いていて 自分でも凄い世界だなあと その梨壺の五人の項に入っています

 

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2021.2.22 ツイッターから転載…【華鏡】第一章「華の後宮」、勤子内親王と藤壺の関係の項を書き終わりました

昨年一月ころから仙覚さんの小説の見直しを始め、ウンベルト・エーコ『小説の森散策』からネルヴァル『シルヴィ』の分析を学び、人称と時制の書き方を追求しました。そうして書き始めたころ、世の中がコロナ禍で不穏になり、そして一月末にNHK大河「鎌倉殿の13人」の発表。

これは仙覚さんの小説と登場人物も時代もまったく重なりますから、それまで書いていた従来の時代小説的書き方ではダメだとなり、三谷幸喜さんの脚本の指向の発表を待っていました。

夏の終わりだったか、それが発表され、やはり私がそれまで書いていた小説とぴったり重なるので徹底的に方向転換をしなければならないと決意したのでした。

それで新しく書き始めた今の形態がそれです。三谷幸喜さんは武士の世界の鎌倉だから、私は文化・芸術の世界の鎌倉にする! との志向です。なぜなら、仙覚さんは万葉集の学者さんなのだから。

それで、仙覚さんが信奉した二条天皇の万葉集に遡り、二条天皇がなぜそういう万葉集を作ったかの解明をはかって白河天皇の時代に至り、白河天皇の万葉集がなぜできたかを探ったら醍醐天皇の古今和歌集に至ったので、再出発の【華鏡】は醍醐天皇の『古今和歌集』から始めました。

今はその皇子、村上天皇の時代にかかって書いていますが、それは村上天皇が源順ら梨壺の五人に『万葉集』に訓点をつける作業を命じたからです。昨夜から、やっと、原稿がその梨壺の五人にさしかかってきました。

ですので、総括として、勤子内親王の項を終えて万感の思いがした辺りのTwitterを転載させて頂きます。

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2月20日

おはようございます 未明に起きてずっと入力しています 源順と勤子内親王ははとこどうしなのですが その関係で『和名類聚抄』の編纂が命じられたところまで終わりました 勤子内親王が寛子さんの弟の師輔と密通して降嫁してからの編纂ですから重明親王は順の仕事の最初から見ていたことになるとしました

 

今日は集中してできそうなのでこのまま続けます

 

勤子内親王の項 書き終わりました 久しぶりに全力投球できました

 

大坂なおみさんが優勝されたそうですね 快挙! 会長の辞任も見届けたし 思い残すことはないからといった心境で原稿に没入していました 長い長いトンネルを抜けました 融のことと勤子内親王の件がネックになって先を塞いでいたんですね きれいにクリアしてもとに書いてあった原稿のところに戻りました

 

脇目もふらずに書けるようになりたい と それだけの一心でコロナ禍のこの一年を過ごしました 信じてはいたけど ほんとうにここに到達するなんて何年かかるか と内心疑っていました 到達してみるとあっけらかんとした世界 見事にクリアな世界です まだ第一章村上天皇の時代は先が長いですが 頑張ります

 

今日打った原稿を印字して二階に上がってきました 私は印字しないと推敲できない 二階の小さなPCはプリンターに繋いでないので印字できない で しばらく階下と二階を行ったり来たりになります 原稿は融と勤子内親王問題が起きる前までに取り組んでいたところだから 戻れて久しぶり感 70枚になりました

 

印字した原稿を見ていたら 伊勢から徽子女王が戻った翌年に寛子の一周忌が棲霞寺で行われていることを書いていない 前にこの辺りを書いていて棲霞寺に行き着き 融問題になったわけだから書いてないのは当たり前だけれど 原稿って こんなふうに表面的な流れから深層の部分解明へとなって進むのですね

 

母寛子の死で斎宮の任を解かれて帰京した徽子女王 亡くなってもすぐには帰れず遠く偲んでいるしかなかった徽子女王が 幼いころに寛子ともよく過ごした棲霞寺の一周忌で母の死を初めて実感する ということを書かなければ と思っていたのを思い出しました 辛い章 どう書いたらいいのか

 

2月21日

おはようございます という時間ではないけど一日の区切りとして 昨夜徽子女王を見直していたら 寛子さんの一周忌を重明親王が棲霞寺で行った というのを読んで 棲霞寺って? となったのが源融について調べることになった始まりだったと思い出しました 棲霞寺が清凉寺境内の阿弥陀堂が跡地 とか

 

それから知って 融がすべての原点と理解し 原稿が進んだのでした 穏子が基経の娘と昨夜読んで あの融が天皇になるのを阻んだ人の娘だったんだ~と 融を知らなかったときはただ村上天皇が慕う母 だったんですよね 知識があるとないとではこんなに理解が違う という楽しみをしました

 

RTさせて頂いた高山寺様の雪中の梅 ちょうど【華鏡】第三章「琴の音」を完了して 棲霞寺の雪中の梅に始まり 棲霞寺の雪中の梅 で完にしたのでタイムリー過ぎて不思議でした 斎宮女御徽子女王の斎王時代を描ききったと思います 最後 棲霞寺で泣き崩れましたと書き終えて自分で茫然となりました

 

これから徽子女王の村上天皇女御時代にかかります

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2021.2.17 醍醐天皇皇女の勤子内親王は、『源氏物語』の藤壺のモデルでは?

しばらくご無沙汰しておりました 原稿は詰まったり進んだりで特にご報告するようなこともなかったのですが 突然 【華鏡】の核心にもなるだろう本質が見えてきて これを書いておかなくてはとblogに戻ってきました ここが書けたら【華鏡】は成功 というくらいの感触です

『源氏物語』には多くの女主人公が登場しますが ほとんどの方のモデルは想定できるのに 今まで藤壺だけは不明で それが謎でした が 徽子女王に忠誠を誓う源順に その順が二十歳くらいのときに『和名類聚抄』という日本で最初の字典を編纂させた勤子内親王という方がいて 順の説明にちらっと勤子内親王について調べて入れようとしたら ん? これって 藤壺? という疑念が浮かび上がりました 以下 Twitterに呟いていますので 経緯としてそれを転載します

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2月15日

おはようございます やっと原稿が動き出しました 勤子内親王で詰まってたみたいです (早く先を進ませたくてスルーしてました) 昨日見たYouTube 京都市立造形大学の琴譜オンライン講座が展開を広めてくれました 棲霞寺の項 完成させたと思ってたのに勤子内親王の件でふたたび逆戻り でもやっとこれで完結かな笑

 

最初は源順に和名類聚抄の編纂を命じた人としてしか認識なかった勤子内親王 醍醐天皇皇女で天皇から箏を伝授されたとウィキに 探したご論考では絵に堪能で秋好中宮のモデルと そんなふうに深まっていったら それほどの方を紫式部が単に秋好中宮のモデルだけで済ませているはずない気がしてきました

 

この方 内親王の身分で師輔と密通していられるんですよね 皇女で密通といえば藤壺 以前から藤壺のモデルは誰かしらとずっと疑問でしたが 勤子内親王が相当するかもしれないと思いはじめました 原稿はその線で進めます ウィキには女四の宮と称されたとあり 藤壺も見たら なんと 四の宮でした

 

源順が『和名類聚抄』序に 「淑姿花のごとし」とわざわざ記載したような美しい方だったようです

 

勤子内親王の件 『和名類聚抄』の編纂を命じるような教養人だった内親王 学問・教養は紫式部が自分こそはと自負する分野です それを凌ぐような女性がいたら紫式部は絶対意識すると思いました 敬服としてそしてライバル心からも それならその人を書くには藤壺? の思いが萌したのが最初です

 

2月16日

終日紫式部にとって藤壺って何なのだろうと そればかりを考えていました モデル論を詳しく見たわけでないからわからないけど彰子というのは違うと思う これだけ重要人物なのにモデルがはっきりしないのは 紫式部があえて隠蔽しているのではないかという気がして では何をそんなに隠すことがあるのかと

 

久しぶりに中孝介「恋」を聞きました アニメ「源氏物語千年紀Genji」の主題歌です 出﨑統監督はあのアニメで紫の上を無視された 藤壺一本槍の王道で通された それくらい藤壺は重要なんです なのに紫式部にとって藤壺とは のご論にあまり接していないような 勤子内親王から藤壺に思いがいき 華鏡ここに極まれり の心境です ここがたぶん核心 筆力を試されるところと思います だから もう とにかく 紫式部にとって藤壺とは を書き切るよう取り組んでみます

 

万葉集の梨壺の五人が訓点作業をしたのが広幡御息所の要請で ということから村上天皇の後宮に入り 女御更衣を見ていったら源氏物語の姫君のモデルと一目瞭然でわかる人満載 中宮安子は弘徽殿の女御 斎宮女御徽子は六条御息所 女御芳子は女三宮 登子は朧月夜 明石の上は徽子さんですね 通説と違うかも

 

知れないけど作家としての私の勘です なのに不思議と藤壺のモデルが出て来ない 不思議だなあと思っていました 一般に彰子と言われているらしいけど 彰子に密通させますか! 彰子さんのイメージは正反対の極にいます 私にはですが でもこれだけ秘している藤壺 そこに作家としての紫式部の本意があると私は

 

思います 一見してわかるモデルの人たちは表層次元で それは紫式部にとって本質でないから物語として自由に書ける 書いてわかってもらって楽しんで貰えばいい でも 本質の部分は人には見せない 作家ってそういうものだと思うんです 見えない本質が下で支えているから上に乗っている表層が生きてきます

 

なんか そんなところの紫式部論を書きたくなってしまいました でも脇に逸れてる余裕はないから 華鏡の中で書きます

 

何が何でも勤子内親王に結びつけようとするわけではないのですが 紫式部が祖母から勤子内親王のことを聞き知っていたら 和名類聚抄を編纂させた皇女 というのは琴線に触れたはず で 藤壺と並べてみたら 二人共に女四の宮で 勤子内親王は7歳まで母子二人の生活 藤壺も先帝亡きあとの母子二人生活 密通した光源氏と師輔は

 

共に5歳年下 藤壺は37歳で勤子内親王は35歳と違うけど若く病没 生涯が重なります 私が思うに例え紫式部といえど勤子内親王には歯が立たない なにしろ和名類聚抄を編纂させているのだから その辺りが一目瞭然のモデル化を隠蔽した理由でしょうか 身分が低くても自負する分野での負けは認めたくないから

 

勤子内親王の教養世界を調べます(京都市立造形大学のオンライン講座の琴譜にヒントを頂きました)

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2021.2.3 立春の日に! 光源氏のモデルといわれる源融を探っていたら、紫式部がなぜ『源氏物語』を書いたか、の真意が見えてきました


以前からずっと 学生時代からですが 紫式部は藤原道長に仕え 仕えているからこそ『源氏物語』を書けたのに どうして光源氏という臣籍降下させられた 藤原氏に対抗するような人物の物語を書いたのだろう というのが謎でした ずっと気になっていて それがほんとうに頭から離れませんでした それが 解けたのです モデルの一人といわれている源融という人を追って調べていたら

源融は嵯峨天皇の皇子です 臣籍降下して源姓になりました 河原院という広大な敷地の邸宅に 塩竈の風景を模した庭園を造り 実際に海水を運んで塩焼きをしたなど伝承の風流人です その河原院が『源氏物語』夕顔巻の光源氏が夕顔を連れていって頓死させた屋敷のモデルになったといわれています そのことから融が光源氏のモデルといわれるようになったとか

ですが 私には紫式部がたったそんな河原院ごときの事象で融を光源氏のモデルにしたとはどうしても思えないでいました では なぜ 融を光源氏に見立てたのか

それを知りたくてずっといろいろ読んでいたのですが なかなか核心に触れるご論に辿り着けなくて ずっと検索したり読んだりをしていたのです 原稿を中断して

その原稿というのが 徽子女王の父重明親王が嵯峨の棲霞寺を訪ねる段で それは源融の山荘だったところを寺院にしたのが棲霞寺なのでした 重明親王は融の曾孫なのです だから棲霞寺は重明親王には氏寺です

棲霞寺を書いていて 棲霞寺の本尊である阿弥陀三尊像に辿り着きました 中央の阿弥陀如来坐像は源融が生前に自分の顔を模して造らせたのが間に合わず 一周忌に子息の昇たちが完成させたみ仏です

勢至・観音の脇侍坐像は 昇たち子息が造りました

この勢至・観音脇侍坐像の写真を見たとき 立派な仏像! と魅入られながら違和感を覚えたのですが それが宝冠にあったんですね 勢至・観音菩薩なのに 宝冠を冠っていられるんです しかも坐像

ふつう 私たちが見慣れた勢至・観音菩薩の脇侍像って 来迎図にあるような宝冠をかぶらない髪型の立姿で造られてますよね 直感で もしかして密教の仏様たち? と思いました

それで気がついたのですが 源融は嵯峨天皇の皇子 嵯峨天皇といえば空海です

それで空海の年譜に源融の年譜を重ね合わせて見ました そうしたら源融は空海が嵯峨天皇から東寺を賜った前年に生まれ 空海が東寺講堂に立体曼荼羅を造り それが完成した時 融は18歳です 融は東寺講堂の立体曼荼羅造立の文化的に高揚した時代に思春期を過ごしているんですね

東寺講堂に行ったときに買った絵葉書を出して 棲霞寺の阿弥陀三尊像の写真と並べたら 一目瞭然 似ていました 阿弥陀如来坐像は定印を結んでいますし 勢至・観音菩薩像がそれを模して造ったかのような宝冠の菩薩坐像があります

密教系の阿弥陀三尊像はこの棲霞寺の三尊像と 仁和寺の三尊像が先駆らしいのですが 仁和寺の三尊像が前代の阿弥陀三尊像ふうなのに比して 棲霞寺の三尊像は明らかに東寺講堂ふうです

ここに私は源融の意志というか 思想を見ました 相当に凛々しい思想の持主ではないかと それで源融その人を調べていったら 大変な実力者で 政治的にも優れ 左大臣にまで昇りつめるのですが ある時期から藤原基経に疎外されます

基経は藤原氏全盛の時代をもたらしたそもそもの人で 基経ー忠平ー兼家ー道長 と続く家系の原点の人です そして その全盛時代を築いた原点が「源融の前途を阻んだこと」なのでした

つまり 源融は藤原氏の長である基経により 前途を阻止されたのでした

この事が胸につかえて 1日くらい経って気づきました これは 紫式部の父が花山天皇に仕えて蔵人にまで昇りつめ 一家が栄えようとした矢先に 兼家によって花山天皇が引き摺り下ろされ 紫式部の父為時がそこから受領階級になっていった その疎外と同じではないかと

紫式部が源融をモデルにして書きたかった原点はこれだ! と思いました 藤原氏に疎外された融 それを光源氏に投影させたのと

単に河原院のモデルだからという表層的なことでなく 藤原氏によって人生を潰された人 紫式部一家の自分たちをも含めて その人たちの精神的慰謝を図るために ある意味 現実では叶わない復讐の思いも込めて 紫式部は光源氏を書いたと 私はそう結論づけました 『源氏物語』は紫式部の復讐心の昇華です

紫式部の核心に辿り着きましたので 書き始めます

ちょうど今日は立春 素敵な滑り出しになりました

原稿が一段落するまで このblogもしばらくお休みします 再開を目指して頑張らせて頂きます

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«2021.1.30 重明親王邸宅の東三条殿は、のちに兼家のものになって、そこで一条天皇がうまれたり、一条天皇中宮の定子がそこから入内したなどの舞台となる歴史のところでした