9. 超音速ジェット機コンコルドの機長さんたち・・・
羽田空港に勤務していたときのことです。コンコルドの機長さん方が、売り込みのプレゼンテーションをなさるからと、都心のたしかホテル・ニューオータニだったと思いますが、ミニ出張を命じられたことがありました。
コンコルドって、ご存知ですよね。音速を超えるジェット機で、三角尾翼のシャープな機体。当時は夢の旅客機でした。
ふだん、例えばランプそのものとか、見送りの方や見学者の方々が見守るエプロン、それから日航のオペレーション・センターなどで撮っていて、広いとはいえ、空港の外にでるなんてことは滅多にありませんから、その日は小学生が遠足にいくような浮き浮き気分でした。
気の張らない取材でしたから、35ミリカメラのニコンFをもって出ました。ふだん、空港のなかで使っていたのは、4×5(しのご)インチカメラのスピグラでした。このカメラは報道用なので軽く、4×5サイズなのに手持できるのです。でも、いくら軽くても4×5は4×5。フィルムの取替えとか、やはり気を使います。こんなこと、写真を好きな方なら説明しなくても、私なんかよりずっとお詳しいですよね。
で、35ミリサイズでいい日は気が楽なんです。しかも、晴天。空港から浜松町に向かうモノレールの車内は明るくかがやいていました。
品川区に住んでいた私は、通勤には蒲田にでて空港行きのバスに乗るのが一番近く便利だったのですが、ときどき浜松町にでて、モノレールで通いました。なぜなら、終点近くなっての整備場あたりの光景が好きだったから。
大井競馬場駅を過ぎたあたりから、空港を離陸したばかりの旅客機が、モノレールの車体をかすめんばかりに低く飛んでいくのと遭遇します。それはさながら巨大な怪鳥。私はそれを見るのがたまらなく好きでした。そしてそれが夕方ならなお一層。夕陽の色に沈む整備場一帯の光景に、黒いシルエットとなった怪鳥が轟音とともに通り過ぎる・・・。日常生活のなかなのに、こんなスリリングな経験ができるなんて・・・と見るたびに息を呑んで感動しました。
コンコルドは2003年に引退しました。が、当時は花形機種。それを機長さんじきじきに売り込みに来られたのです。見るからにフランスの方といった風情の機長さんが3人、ホワイトボードに、物理の教科書かレオナルド・ダ・ヴィンチの科学のノートかのような図面をいろいろ写しだされて、説明されました。
明瞭に覚えているのは、35ミリでの撮影だったから、仕事で使ったのと別に、記念に何枚か焼いてもっているからです。随分いろいろ撮影したのですが、全部仕事として会社に残し、今も写真が手元にあるのなんて、ほんのわずか。ホワイトボードの前の機長さん方の写真は、我ながら結構よく撮れていて、それで暗室の方に頼んで余分に焼いていただいたのでしょうね。
整備場というと、いつも併せて作家の中上健二さんを思い出します。彼は和歌山県出身なのですが、羽田の整備場で働いていたことがお有りでした。作家になられてから、「私の原風景」というエッセイで、モノレールから見た整備場をあげられていたのです。
同じだ・・・と思いました。
中上健二さんは、和歌山の土地に密着した作品を書き続けられ、それが氏の作品の原動力になっていました。なのに、その彼にして、「原風景は整備場」といわしめているのです。熊野古道など、とても深い、深い、土地柄を、熟知された氏にしてなお・・・
あの光景を、一枚でいいから、目にしたとおりの巨大な怪鳥を撮ってみたいのですが、まだ叶えていません。デジタルの一眼レフを買ったので、撮りにいきたいところですが・・・
このブログは執筆中の原稿が本になったときの公開サイトをめざして、そして、それを電子書籍化するのを目的に、「たった一冊の紙本と、たった一冊の電子書籍しかないかもしれない出版社」への準備にはじめました。
原稿は終盤に近づいていて、8月には上梓が可能と楽しみにしていました。が、ここにきて急展開。新しい資料がみつかって、冒頭から書きなおさなければならなくなってしまったのです。ですので、今までみたいに悠長にしていたら、夏の刊行はとうてい無理。しばらく専念するしかなくなりました。はじめたばかりのブログですが、書き上げるまで一ヶ月程度お休みさせていただきます。
何を書いているかって・・・? それは、来年に期限の迫ったあることに向けて。なので、どうしても夏まで、譲っても秋までに刊行しなければならないのです。頑張りますので、再開したときにはまたよろしくお願いいたします。
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