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9. 超音速ジェット機コンコルドの機長さんたち・・・

 羽田空港に勤務していたときのことです。コンコルドの機長さん方が、売り込みのプレゼンテーションをなさるからと、都心のたしかホテル・ニューオータニだったと思いますが、ミニ出張を命じられたことがありました。

 コンコルドって、ご存知ですよね。音速を超えるジェット機で、三角尾翼のシャープな機体。当時は夢の旅客機でした。

 ふだん、例えばランプそのものとか、見送りの方や見学者の方々が見守るエプロン、それから日航のオペレーション・センターなどで撮っていて、広いとはいえ、空港の外にでるなんてことは滅多にありませんから、その日は小学生が遠足にいくような浮き浮き気分でした。

 気の張らない取材でしたから、35ミリカメラのニコンFをもって出ました。ふだん、空港のなかで使っていたのは、4×5(しのご)インチカメラのスピグラでした。このカメラは報道用なので軽く、4×5サイズなのに手持できるのです。でも、いくら軽くても4×5は4×5。フィルムの取替えとか、やはり気を使います。こんなこと、写真を好きな方なら説明しなくても、私なんかよりずっとお詳しいですよね。

 で、35ミリサイズでいい日は気が楽なんです。しかも、晴天。空港から浜松町に向かうモノレールの車内は明るくかがやいていました。

 品川区に住んでいた私は、通勤には蒲田にでて空港行きのバスに乗るのが一番近く便利だったのですが、ときどき浜松町にでて、モノレールで通いました。なぜなら、終点近くなっての整備場あたりの光景が好きだったから。

 大井競馬場駅を過ぎたあたりから、空港を離陸したばかりの旅客機が、モノレールの車体をかすめんばかりに低く飛んでいくのと遭遇します。それはさながら巨大な怪鳥。私はそれを見るのがたまらなく好きでした。そしてそれが夕方ならなお一層。夕陽の色に沈む整備場一帯の光景に、黒いシルエットとなった怪鳥が轟音とともに通り過ぎる・・・。日常生活のなかなのに、こんなスリリングな経験ができるなんて・・・と見るたびに息を呑んで感動しました。

 コンコルドは2003年に引退しました。が、当時は花形機種。それを機長さんじきじきに売り込みに来られたのです。見るからにフランスの方といった風情の機長さんが3人、ホワイトボードに、物理の教科書かレオナルド・ダ・ヴィンチの科学のノートかのような図面をいろいろ写しだされて、説明されました。

 明瞭に覚えているのは、35ミリでの撮影だったから、仕事で使ったのと別に、記念に何枚か焼いてもっているからです。随分いろいろ撮影したのですが、全部仕事として会社に残し、今も写真が手元にあるのなんて、ほんのわずか。ホワイトボードの前の機長さん方の写真は、我ながら結構よく撮れていて、それで暗室の方に頼んで余分に焼いていただいたのでしょうね。

 整備場というと、いつも併せて作家の中上健二さんを思い出します。彼は和歌山県出身なのですが、羽田の整備場で働いていたことがお有りでした。作家になられてから、「私の原風景」というエッセイで、モノレールから見た整備場をあげられていたのです。

 同じだ・・・と思いました。

 中上健二さんは、和歌山の土地に密着した作品を書き続けられ、それが氏の作品の原動力になっていました。なのに、その彼にして、「原風景は整備場」といわしめているのです。熊野古道など、とても深い、深い、土地柄を、熟知された氏にしてなお・・・

 あの光景を、一枚でいいから、目にしたとおりの巨大な怪鳥を撮ってみたいのですが、まだ叶えていません。デジタルの一眼レフを買ったので、撮りにいきたいところですが・・・

 このブログは執筆中の原稿が本になったときの公開サイトをめざして、そして、それを電子書籍化するのを目的に、「たった一冊の紙本と、たった一冊の電子書籍しかないかもしれない出版社」への準備にはじめました。

 原稿は終盤に近づいていて、8月には上梓が可能と楽しみにしていました。が、ここにきて急展開。新しい資料がみつかって、冒頭から書きなおさなければならなくなってしまったのです。ですので、今までみたいに悠長にしていたら、夏の刊行はとうてい無理。しばらく専念するしかなくなりました。はじめたばかりのブログですが、書き上げるまで一ヶ月程度お休みさせていただきます。

 何を書いているかって・・・? それは、来年に期限の迫ったあることに向けて。なので、どうしても夏まで、譲っても秋までに刊行しなければならないのです。頑張りますので、再開したときにはまたよろしくお願いいたします。

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8. 角田文衛先生の『紫式部伝―その生涯と「源氏物語」』のこと

 角田文衛先生という学者さんをご存知ですか?

 ご存知の方は、先生を国文学者と思ってらっしゃいますか? それとも、考古学者・・・

 私が先生のお名前を知ったのは、紫式部の邸宅があった場所を特定した国文学の論文「紫式部の居宅」ででした。ですから、当然、私の頭のなかでは、先生は国文学者。

 よく、学会にいくと、併設して、その分野の図書販売がおこなわれています。高価な学術書や、一般ではなかなか目につきにくい専門書が、フロアいっぱいに陣どられたそれぞれの出版社のブースに所狭しと並びます。それを割引価格で購入できるのも嬉しく、学会へいくひとつの楽しみになっています。

 で、国文学の学会へいくと、そこには角田文衛先生の、『紫式部とその時代』や『王朝の映像』など高名なご著書があり、先生が国文学者でいられることに疑いをもつなど、夢にもあり得ませんでした。

 ところが・・・

 遺跡発掘調査の仕事に携わっていたある年、大崎にある立教大学でおこなわれた考古学総会のプログラムを見て驚きました。そこには、「基調講演 角田文衛。演題 ポンペイの遺跡発掘調査について」・・・

 目が点になりました。あの、角田文衛先生????

 遺跡関係の方は、ほとんど源氏物語などという優雅な領域に関心をもっていられませんから、周りのどなたに伺っても、「さあ・・・、源氏物語? 角田先生は古代学の権威だよ」と。

 でも、よくある名前の同姓同名ならわかりますが、「角田文衛」というお名前に、同姓同名がいられるとは、とうてい思えません。

 半信半疑で、立教大学へ赴きました。そして、配られたパンフレットを見て愕然。やはり、ポンペイの遺跡発掘調査について講演される「角田文衛」氏は、「紫式部研究で高名な」角田文衛氏だったのです。そして、ポンペイの遺跡で発掘所長として携わられたときの経験を、映像を交えながらとうとうと講演されたのでした。つまり、ポンペイの発掘を誰かの聞き語りとしてでなく、ご自分の体験として。

 どうしてこんなことが・・・、と今まで不思議でなりませんでした。

 それが、今年の一月に刊行された角田先生の『紫式部伝―その生涯と「源氏物語」』(法蔵館)のあとがきで明らかになったのです。謎が解けるって、こういうことですね。もう、私は、本分はさておいて、この「あとがき―紫式部と私―」を、真っ先にむさぼるようにして拝読しました。

 少し、引用させていただきます。

 「この素晴らしい紫式部の作品に感動した私は、後に与謝野晶子の現代語訳や『湖月抄』を幾度となく通読し、その舞台となった京都がむやみに恋しい土地に思えるようになった。」「高等学校を卒業し、私は考古学を専攻する目的を持って京都に移ったが、心情的には、京都ではなく平安の京(みやこ)に居を移したつもりであった。」

 角田先生の学究姿勢は、「歴史学の方法論についての体系を作るためにヨーロッパの古典考古学を究めることで」、そのために氏は、「大学卒業後の三箇年間はローマに滞在」されました・・・。しかし、「高等学校の二年頃に兆した平安文化への興味は消えることなく、ヨーロッパ留学から帰った昭和十七年頃から、片手間であったが、再びこの方面にも力を注ぐようにな」られたそうです。

 「昭和二十六年、古代学協会を創立した頃、『源氏物語』への関心は更に盛り上がった。その頃から、『源氏物語』の中の人物史や紫式部伝を実証的に研究しようという意欲が湧いたのである。」

 きりがありませんので、引用はこれくらいにしますが、そうした中で、紫式部が住んでいた場所を特定した「紫式部の居宅」を発表されました。その場所は、今の京都御苑と通りを隔てたところにある廬山寺。境内を訪れると綺麗な白砂の敷かれた「紫式部の庭」などが整備されています。受付では、ご論文「紫式部の居宅」も抜刷冊子で購入することができます。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/index.htm#MAIN_TOP

 私が角田文衛先生のご論文に惹かれるのは、それが「土地」に即して肉薄して感じられるからです。居宅のご研究で先生を知ったからというのでなく、先生のご論文にはどれにも「実際の場所に即した現実感」がお有りなのです。

 それが不思議でなりませんでした。どうしてこういう文章が書けるのだろうと。どうしてこの方は、他の国文学者の方と思考回路が違うのだろうと。

 本職が考古学者でいられるからだったのですね。

 来年2008年は、『源氏物語』が完成した千年紀にあたります。『紫式部伝―その生涯と「源氏物語」』は、その記念に法蔵館から刊行されました。紫と銀を基調とした表紙カバーの雅で素敵なご本です。

 以前、法蔵館刊行の真鍋俊照先生のご還暦記念論文集『仏教美術と歴史文化』に「北条実時と『異本紫明抄』」という論文を載せていただいた関係で、法蔵館の編集者の方とお話する機会がありました。私が角田先生への驚愕をお伝えすると、「九十四歳になられる今も、凛として、精力的にお仕事されてましたよ」とのことでした。

 私は、立教大学でのご講演のときのお姿しか知りませんが、なんとなく、「ポンペイの角田先生」と、「「紫式部の角田先生」ではイメージが違って、京都の一出版社の奥に入られてご自分の本の校正をされる氏を、まったく違う人のイメージで想像してしまいました。古色蒼然とした、ドイツの古い小説のなかにでてくる人物のような・・・

追記:角田文衛先生は、藤原定家の小倉山荘の位置についてもご論文を書かれています。以前、そのコピーをもとに、特定された場所を求めて嵯峨の地を巡りました。論文というのは、学問ではなく、サスペンスだなあといつも思います。謎があるから挑戦し、解決に導く・・・、まさにサスペンスですよね。定家の小倉山荘を訪ね歩いた小さな旅も思い出深いものになりました。写真のブログに載せてあります。綺麗なカワセミの絵の門があったり・・・、よかったら訪ねられてください。文化・芸術のカテゴリーにはいっています。
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7. 十九世紀的人間の楽しみ・・・

 「風」と題する詩を一篇、載せさせていただきます。

   それは格子のあるガラス戸の向こうにあった
   積み木を積んでいた
   積み木は
   格子の枠に嵌った
   日だまりのなかで崩れないでいた
   そのときから時は
   止まってしまっていたようだ
   窓を叩いたものがある
   顔をあげた
   積み木が崩れた
   窓をあけると
   ピリッと切る
   風が通った
   立ちあがったものがいる

 現代詩を荒川洋治氏と清水昶氏に学びました。荒川洋治氏からは先鋭さを、清水昶氏からは深さを身につけさせていただいたといったらいいでしょうか。冒頭の詩は、現代詩とは何かが長くわからず、四苦八苦した挙句の、はじめて荒川氏に認めていただいたときの作品です。

 徹底的に言語を切り詰めて書いていますから、これだけでは何がなんだかと思われる方に、ちょっとだけ説明させていただきますね。これは、孔雀がいた公園の近くにあった、幼児期を過ごした家の廊下での描写です。昭和初期の家ならどこでもあった格子の嵌ったガラス戸。そのガラスを通して射しこむ陽だまりのなかで、私はよく積み木をして遊んでいました。

 現代詩は破壊です。いえ、書くことそれ自体が破壊という行為にほかならないでしょう。自分を破壊しなければ現代詩は書けない。それが徹底した荒川洋治氏の教えでした。詩といえば島崎藤村にはじまって中原中也。そして、リルケにランボー。そういう体験しかなかった私にとって、現代詩との遭遇は衝撃的でした。

 冒頭の詩を提出したとき、氏はじっと原稿に見入ったまま、しばらく無言でした。やがて、顔をこちらに向けられて、「できてますね」と、ニタッとされました。それまでの私の暗中模索、悪戦苦闘ぶりを知ってらいれるからこその、同士のような「ニタッ」でした。

 現代詩の旗手たる荒川洋治氏に認めていただいた記念の詩です。私は詩集をだしていないし、同人誌にも載せなかったので、今まで活字にしたことのない詩。ふっと思いついて、そうだ、ここに載せておこうと紹介させていただきました。

 その後、氏には個人で発刊されている『柿の葉』という雑誌に、エッセイを書かせていただきました。あるとき突然電話がかかってきて、「書いてみませんか」といっていただいたのです。初回のタイトルが「十九世紀的人間の楽しみ」でした。このときも最初は駄目で、書き直しを命じられました。苦しんで、書けないどん底に陥ったとき、ふっと閃いたのがこのタイトルの内容でした。これも、ある意味で自分自身を「破壊」しました。原稿をお送りしたとき、「いいですね。この調子です・・・」といって頂いたのが今も耳に残っています。

 荒川洋治氏の言葉に、とても響いているものがあります。それは、「人にとりいって出してもらおうと思っている人が多いけど、あれは駄目ですね・・・」ということ。「僕はデビューするのに、それはお金を使いましたから・・・」。何も賄賂を使ったとかの話ではありません。デビューしたいなら、それなりに自分で苦労し、出費も覚悟しなさいということです。

 最近知ったのですが、宮沢賢治の最初の詩集『春と修羅』も自費出版だったとか。売れなくて、神田の古本屋さんの店頭に山積みされていたのを、中原中也がみつけて、これはいいとばかりに何冊も購入して、「いいぞ、いいぞ」と、知人に配ったのだそうです。中也だって、そんな余裕はなかったはずなのに、そうしなければいられないくらいに、中也はひと目でその詩集に魅入られたのでした。歌人の福島泰樹氏のコンサートで、氏自身の言葉で伺いました。

 自費出版というと、生涯も終わりに近づいた方が自分史をだすものといったイメージが強く、今まで避けてきました。今回、執筆中の原稿をどうしてもこの夏までに仕あげなければならないリミットを抱えて、仕方なく自費出版を決意したのです。でも、天才方はとっくに、それも、文学者としての最初の時点で、決行されていたのですね。

 荒川洋治氏の「お金を使いましたから・・・」の言葉の背後には、ご自分で紫陽社という出版社を立ちあげられている自負がお有りです。詩集をだそうと思っている人には憧れの出版社です。名前も素敵です。詩集だったら、もしかしたら私もお願いしていたかもしれません。

 たった一冊の紙本と、たった一冊の電子書籍しかないかもしれないネットの出版社を立ちあげようと奮闘をはじめた今、荒川洋治氏の紫陽社が、心の奥の深いところで強烈な印象として残っているからでは・・・という気がしないでもありません。

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6. サンリオ映画脚本賞企画奨励賞のこと

 青山にあったシナリオ・センターに8年前後通いました。

 当時、表参道の駅をおりて脇の小道をはいったところのセンターの前のマンションに、向田邦子さんが住んでいらして、センターの講師の森栄晃先生から、よく向田さんのエピソードを伺いました。例えば、「向田さんが今のような書き手になった背景には、売れなかったころにやっていたラジオの15分番組の脚本を、毎日毎日書いていた蓄積がある」というようなことを。

 森先生は以前東宝映画会社の企画室長をされていて、黒澤明監督の一連の作品の現場に立ち会われていた方です。お家が仏門の方で、高幡不動尊で修行をされたこともお有りとか伺っていますから、大変洞察力の鋭い、奥の深い方でした。私はここに通って先生の「洞察力」を視野に入れた教えに接したことが、その後の私の人生のすべてを決めたと思っています。

 こういう方ですから、黒沢監督をはじめ、いろいろな方の信望を集められていて、そのお話もよく伺いました。例えば、志賀直哉さんがよく企画室を訪ねられては、「何か映画を見せてよ・・・」と乞われたとか。先生が、「どうして小説をお書きにならないのですか。もっとお書きになればいいのに」といわれると、志賀直哉さんは、「書けないんだよ。『暗夜行路』を書いたら、もう書く必要がなくなってね」というようなことをおっしゃったとか。

 森先生の講義には二つの忘れられない事件があります。事件というか、授業内容ですが。

 一つは、「ドラマにおける起承転結がどういうものかを身につけるために」、公開されたばかりの黒澤明監督の映画『影武者』の台本を手に入れられて、私たちにそれを構造のほうから分析して教えてくださったのです。例えば、「黒澤はメリハリということに非常に注意した。だから、冒頭では武田信玄が峠の高いところから湖を見下ろしているのが、最後は死んで深い湖の底に沈められる。その対比を覚えなさい」というような。

 もう一つは、シナリオを教える教室でありながら、シナリオを離れて先生が「西洋文学史」の講義をしてくださったのです。私がいた教室はおかしな人ばかりの集まりで、他の教室ではみんなが如何にして世に出るか血眼になっているのに、そんな人は一人もいず、ただ森先生のお話を聴きたい一心で毎週通っていたのでした。そういうとき、私たちのなかに正統的な文学史の体系ができていないのを見抜かれて、「じゃあ、センターに知られたら叱られるから、内緒で文学史の講義をしましょう」といって、はじめてくださったのでした。それで、私たちは、シナリオ教室に通いながら、ボードレールやランボーの話を聞き、バルザックの『従兄弟ポンス』や、フローベルの『ボヴァリー夫人』、ジョイスの『若き芸術家の肖像』などを課題にだされては読んで、近代小説とは何かを教えていただいたのでした。

 ある日、先生がこっそり近寄ってらして、「『ケーキ屋ケンちゃん』の書き手を探してるんだけど、君行ってくれないかなあ」といわれました。私は即座に、「有難いお話ですけれど、私はもっと先生のお講義を聞いていたいので」とお断りさせていただきました。すると、先生は、「そうだろうな。君ならそう言うと思ったよ」と笑ってられました。そのときお話を受けていたら、今頃はシナリオライターとして活躍していたでしょうか。それとも、潰されていたでしょうか。少なくとも、今書いている原稿の領域に到達することはなかったでしょう。

 森先生にお習いしていた最後のころ、キティちゃんで有名なサンリオという会社で、映画脚本の募集がありました。第一回に私は邪馬台国の卑弥呼を題材にした「青銅鏡物語」で応募しました。青銅鏡には中国でつくられて輸入した精巧なものと、日本でつくられた粗悪なものとがあります。卑弥呼の鏡はとても精緻な造りで、明らかに輸入鏡なのですが、不思議なことに中国本土で類似のものが発見されていず、それで日本製なのではという説がでていました。それをもとにして、私は邪馬台国の青年鏡造り工人の悲恋物語を構築しました。これは最終審査に残りました。

 第二回の募集では、静岡県の登呂遺跡を題材に、やはり若い恋人どうしを主人公に、日本の稲作のはじまりを描きました。これは、「脚本は稚拙だが、昨年の青銅鏡物語といい、この作品といい、アイデアが非常にいい」ということで、特別に企画奨励賞を設けて授与されました。それを森先生に電話でご報告したら、「センターから三人最終審査に残ったんだよ。ほんとうのことをいうと、三人のなかでは君のが一番技術的に下手だったから、最初に落ちると思っていた」といわれてしまいました。

 授賞式は、その年のキネマ旬報賞と一緒に行われました。その年の最高栄誉を受けた映画の作品賞や監督賞、最高男優賞などと並んで授与されるというのです。通知を受けた私は、「とんでもない」とばかりに、同封されていたはがきの出欠の項の「欠」に、迷わず丸をつけて投函しました。その年のキネマ旬報作品賞は『駅』で、主演男優賞は高倉健さん。高倉健さんと同じ舞台にあがるなんて、とうてい私にはできません。

 その後サンリオの方から連絡があって、「貴女だけ当日欠席されました。つきましては賞金と賞品を授与したいので、本社にいらしてください。社長からお渡しさせていただきます・・・」

 これには参りました。でも、もう逃げられません。万事休すと覚悟を決めて、五反田にあったTOC内のサンリオ本社にでかけました。社長の辻信太郎氏は若々しい素敵な方でした。社長室には、ディズニーのショールームかと見紛うような驚くべき楽しい仕掛けがあり、社長みずから一つ一つゆっくり見せてくださいました。長くなるので、ここで書ききれないのが残念ですね。賞品は、キティちゃんがレーザー彫刻されたクリスタルガラスの盾に、非売品のキティちゃんのカメラと腕時計。楽しい思い出です。辻信太郎氏が、「僕は去年の青銅鏡物語のほうが好きだな。ロマンがあって」とおっしゃられた言葉は、今も鮮明に残っています。

 第三回の募集があったら、また応募しようと準備をしていました。が、それはなくて、イラストレーターの登竜門になり、第一回の受賞者が葉祥明さんです。

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5. 地震は予知できるのです!!

 【2007年7月16日10:13 新潟中越沖地震M6.8】が発生してしまいました。

 2003年10月から、私は地震予知をめざして、地震雲の観点から空を撮っています。きっかけは、歩いていて前方に夕焼け色に染まった一本の太い立ち昇る雲を見たことでした。異様な光景にぎょっとして、急いで帰宅してネットを探ると、なんと、阪神淡路大震災の直前に見られたという雲に酷似。一週間以内にこの近辺で震災級の地震が起きるということになったのです。身体がぶるぶる震えました。

 結局、その雲は飛行機雲の名残りだったらしく、大地震に遭遇しないで済みましたが、そのときに地震雲という領域の存在を知りました。慣れてきた今は、ほんとうに地震前兆の立ち昇る雲と、飛行機雲の名残りとの違いは、見極めがつくようになっています。

 地震予知のサイトは、阪神淡路大震災以後、少しでも被害を軽減することができるならという願いのもとで、さまざまな方が立ち上げられています。そういう中の幾つかを巡り、紹介されている本を読んで、あとは毎日毎日雲を撮って経験を積み、4年目にはいりました。

 空を撮るようになって一年たった秋に新潟県中越地震が、冬にスマトラ大地震が起きました。一年の経験がある程度蓄積されてきたときに、前代未聞の地震と遭遇。前兆としては、これ以上はない経験をして、今に至っています。

 結論としていいますが、地震予知は可能です。私は雲の種類(形状や発生方向)で判断していますが、他に気象衛星画像から読んだり、大気中のイオンや電磁波、体感など、予知に使う手段はさまざまです。

 地球は生きています。通常私たちが立っている地面は不動ですが、地球内部ではマントルが対流し、プレートがぶつかり、躍動しているのです。物理的に、地球内部の活動で電磁波が発生するなど何かが起こり、それが大気中にも影響し、空にのぼって雲になる、或いは異常な色に空を染める・・・・など、あり得ると思います。いえ、ないと決め付ける方が不自然です。4年間空を観てきて、空の異常とその後に発生する地震との関わりを見てきて、そういうことが、今は自然に身体に滲みこんで感じられます。

 今回の地震ですが、私が勝手に地震雲の師とさせていただいている湘南のIKU氏という方が、気象衛星画像と15日の台風から見事に予知を成功させられました。気象衛星では、7月14日に現れた雲に「中越地震前の雲に酷似」と懸念され、15日の台風からは、「勢力を維持しながら関東の南海上を東進」するはずだった台風が、「東海沖あたりにさしかかったところで、急激に勢力を無くした」ことが、「台風23号の電磁気エネルギーが中越震源に受け渡された」ときと同じではないかとされたのです。

 IKU氏はそのことを、急遽ご自分のサイトで報告されました。いつもは夜一回だけの日々の更新が、その日は14:00に緊急更新されたのです。【懸念】と赤い文字を記されて。結果は、16日朝の新潟中越沖地震M6.8の発生となりました。URLをご紹介しておきます。是非、ご覧になっていただきたいと思います。http://homepage2.nifty.com/syounan_iku/footer_04.html

 地震は、自然現象の一端です。空も、雲も、気象も、すべて自然現象です。関係ないというほうが不自然です。これほどのことが地震学会や国を治める方々のあいだで認知されていないことを不思議に思います。

 私はこれを政府がしたならどんなにいいだろうと、いつも思います。以前勤めていた羽田空港にあった管制塔のようなものを各自治体に備えて、交代制で常時空を監視するシステムをつくったら、絶対に地震予知ができると思います。いつか、それができるまで、民間の私たちがボランティアで頑張るつもりです。たぶん、IKU氏はじめ、皆様同感と思います。

 私が「写大」を出て写真の道に進んだことは先に記しました。技術では問題ありませんでしたが、写真について、私はどうしても肌に馴染むものをもつことができませんでした。私が写真を志したのは、早逝した父がカメラマンだったからという、家の事情からでした。好きだった国文の道をあきらめて。ですから、技術をいくら身につけても、同級生のようには希望に燃えて写真を撮ることができませんでした。文学少女の習性で、何のために撮るか・・・など考えてしまうと、写真を撮る意義が見出せず、ずっと苦しみました。どんなに羽田でいいお仕事をさせていただいても、心は枯渇したままでした。

 遺跡の仕事で、発掘された遺物写真を撮らせていただくようになったときに、はじめて写真を楽しいと思いました。でも、それも、現場から離れたら機会自体が失われます。

 雲を撮るようになって、はじめて、私は写真を撮ることに正々堂々の使命感を覚えられるようになりました。「撮る」という行為の背後に見え隠れする「盗る」といううしろめたい響きから、はじめて解放されることができました。その上、それが地震予知に役立つのです。毎日毎日空を観て、荘厳に繰り返される自然現象の真っ只中に身を置いて、撮っています。

 新潟地震のような規模の地震は、「一ヶ月くらい前に異常に強烈な夕焼けや朝焼けが観測され、同時に水平虹という非常に珍しい虹が各地で頻繁に観測され、そうしたあとに地震の発生」となります。

 6月15日頃から水平虹の観測が報告されはじめ、16日と17日に異常夕焼けが観測されました。これは・・・と、緊張しました。地震を待つわけではありませんが、7月にはいって、まだ発生しない・・・と、無いのを不思議な面持ちで空を眺める日が続きました。そして、はたして新潟で発震。綿密に何日の何時とまでは無理ですが、情報が多くなればなるほど確実性は高くなります。国家単位なら、どんなに情報が綿密になるでしょう。そして、危険となったときの誘導を、どんなにか有効に活用することができるでしょう。逃げるなり、水を蓄えるなり、何かはできます。

 地震は予知できるのです。もう一つのブログでは、地震雲の写真を主に載せています。よかったらご覧になってください。今回の新潟中越沖地震前兆についてもまとめました。
http://ginrei.air-nifty.com/ 

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4. 国会図書館の【明治期刊行図書マイクロ化プロジェクト】のこと

 国会図書館における「明治期刊行図書マイクロ化プロジェクト」は、1989年9月27日に本格始動しました。酸性紙が100年たって劣化し、そのままだとボロボロになって閲覧に耐えられなくなるので、その対応策でした。丸善さんと富士フイルムさんの共同でおこなわれたメセナの事業です。

 だいぶ作業が進行したとき、富士フイルムの課長がロンドンに出張することになりました。手土産に、その頃売り出されたばかりの電子辞書を用意したりしていたときに、ブッシュ大統領(父の方)による湾岸戦争が勃発。出張をとりやめた経緯がありますので、ああ、あの頃と思っていただくといいでしょう。

 今ではこういう事業はデジタル化となっています。20年近い歳月が流れていますが、技術の革新はそれ以上のようです。ただ、当時の上司だった富士フイルムのNさんは、デジタルは不安定で永久的ではない。マイクロ化との併用が望ましいというようなことをいっていられます。CD-ROMは意外に早く劣化、マイクロフィルムなら数百年の保存が可能なのだそうです。(うろ覚えで間違っていたら、すみません。)

 刊行図書の総数は16万冊。ページ数にして3500万ページです。それを全部撮るのです。板垣退助の『板垣政法論』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』、坪内逍遥の『小説真髄』、与謝野晶子の『みだれ髪』など、教科書で習った雲の上の存在のような書物がずらっと該当します。私にとっては母校の実践女子学園の創設者下田歌子先生(http://www.jissen.ac.jp/library/shimoda/)の文字を、次に撮影するための準備カードに見たときは嬉しかったですね。

 作業は国会図書館のなかの書庫の最上階のフロアを使いました。そこにあった本棚をすべて撤去し、マイクロ用のカメラを30台設置。当然、撮影するオペレーターも30人。書庫から本を出したり、撮影にまわす準備や記録などに作業する人員は毎日80人ほど。書庫ですから当然窓がありません。火災が発生したら即座に図書を守るためのガスが発生して、全員の命はないといわれました。人の命よりも本を守ることが優先される世界でした。

 当時、新聞や各種メディアで随分とりあげられましたから、ご存知の方も多いと思います。毎日毎日、館内に入ればお昼の時間まで外の光の入らない不健康な部屋。昼食をとって戻ってふたたび夕方までカビ臭い書庫のなかの作業でしたが、前代未聞の画期的な事業に、そして、働いている人はほとんどが本が好きで応募してきていますから、みんな目を輝かせて動きまわっていました。

 事業は海外からも注目され、コロンビア大学からドナルド・キーン氏や、お弟子さんにあたる日本の中世史学、特に中世の尼僧を研究されているバーバラ・ルーシュさんなど、たくさんの著名人の方が、ほぼ毎週どなたかが見学に来られていました。私は「写大」をでているので、Nさんに「撮ってくれる?」といわれて、フロアをめぐるキーン氏を撮影させていただいたのも、素敵な思い出です。

 来賓といえば、思い出深いのが梅原猛氏と後藤田正晴氏の書庫での対談。たしか中京テレビの番組のための撮影だったと思います。私も興味津々で、ときどき作業の合間を盗んでは覗きにいきました。いっしょに作業していた人で梅原猛氏の大ファンの男性がいて、彼は朝からそわそわそわそわ。梅原氏が帰られたあと彼がいうには、「トイレに行ったら、隣に梅原さんがいるんだよ・・・」と。大興奮でした。

 彼は私が卒業した通称「写大」の一年後輩。「写大」の正式名は東京写真短期大学で、当時写真の大学は日大の芸術学部と、国立の千葉大にしかなく、それに中野坂上にある私の母校が並んでいたので、「写大」で通っていたのです。短大ですが、写真の専門大学としては唯一の自負があり、細江英公氏や立木義弘氏など、そうそうたる大先輩がいられます。私が卒業した直後に4年制の大学になり、校名も東京工芸大学となりました。

 仁和寺の孔雀明王像の木版画についての情報は、そのプロジェクトのなかでNさんから頂きました。ある日、「こんなのが届いたのだけど、興味あるだろ。あげるから」といって、孔雀明王像が綺麗なカラー写真で全面印刷されている大判はがきをもって来てくださったのです。NHKのドキュメンタリー番組が仕上がったというスタッフの方からのお知らせでした。番組のタイトルは、「明治の技に挑む~世界最大の木版画再現」。その写真を見た一瞬から私が孔雀明王像に魅せられたことは先日記しました。

 現場って不思議と、いつも思います。どういうわけか、私の働く場はいつも現場。写真をやっていれば、当たり前・・・でしょうか。一番最初に就いた職場が、まだ成田に移る前の国際空港だった羽田。その後結婚して職から離れましたが、この国会図書館のプロジェクトがはじまって従事。それから、遺跡発掘作業などという、超超現場の体験もしました。土と埃と汗にまみれる現場ですが、現場ではたらくということは、汗といっしょに醜いこの世の垢までも流れ落としてしまう自浄効果があります。現場で働く人の目はかがやいているといつも思います。

追記:羽田空港で撮っていたときの最大の思い出は、大阪万博の最終日のエキジビションに来日されたマレーネ・ディートリッヒさんを撮らせていただいたこと。それについては、もうひとつはじめている写真関連のブログに載せてありますので、よかったらご覧になってください。「文化・芸術」のカテゴリーに入っています。http://ginrei.air-nifty.com/ginrei/

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3. 「孔雀の庭」について

 孔雀について書いてみたくなりました。

 原稿の自費出版を決め、書店流通に見切りをつけたとき、自分でネット会社を立上げ、本の紹介をして、皆様に知っていただこうと考えたことを先に記しました。会社となれば、名称が必要。本を刊行するとなると、奥書ページにつけるロゴ・マークが必要。と、さまざま必要尽くしにいいアイデアはないかと考える日が続きました。

 原稿が最終章に近づいた今、そろそろ本格的にロゴ・マークの準備にとりかからなければと思うものの、だからといってそう簡単に素敵なアイデアが浮かぶわけがありません。それでぱらぱらとイラスト素材集を見ていたら・・・、あったのです。孔雀の絵が。

 突然、懐かしさに胸に熱いものがこみあげました。これだ!!と、即座に心が決まりました。私にとって孔雀は郷愁あふれるとっても身近な鳥だったのです。

 幼いとき、東京都品川区の戸越というところに住んでいました。家から歩いて数分とかからない近さで戸越公園という公園があり、そこが毎日の遊び場でした。江戸時代に細川家の別邸だった回遊式の大名庭園が、品川区に寄贈されて公園になったところです。

 こどもですから、そんな由緒ある歴史なんて関係ありません。通りをはいればそこは別天地。ごつごつした岩がころがる渓谷があり、滝があって水が激しく渓谷に流れ落ち、その脇の橋をわたって築山にはいっていくと、途中に大きな石燈籠があり、ぐるっと回って一番高いところにでると、下に広々とした回遊式の苑池が見下ろせ・・・

 逆側では、池の中に人の歩幅で飛び飛びに置かれた石の橋があって、踏み外したら大変とおそるおそる渡っていく・・・。小さなこどもには、大人の歩幅の間隔は空き過ぎで、それこそえいっとジャンプしなければ、次の石に飛び移れない。怖いのに、怖ければこそ、また戻って行ったり来たり。

 その橋をわたった先には、高さを違えてつくられている平場が三つあり、おそらくそこはそれぞれ江戸時代にはお屋敷が建っていたのでしょうけれど、それは残っていなくて、ただ豪華な藤棚があり・・・、その下にお砂場がつくられていました。

 べつの平場には、なんと本物のD51の蒸気機関車があり、それには自由にあがったり下りたりできて・・・。危険なので上に乗らないことの貼紙があっても、こどもになんの効力があるでしょう。大人しく機関車の運転席におさまっているだけなんてことはなく、背中によじ登って、またがって、高いところで妹とじゃれ合って遊んでいました。

 そして、そのD51と同じ平場の反対の端に孔雀の檻があったのです。回遊式の築山を巡るにはその檻の脇をとおらなければなりません。D51に飽きると築山を駆け回っては汗をかいていましたから、日に何度も檻の前を通りました。檻には二羽の孔雀がいて、毎日その檻を覗いては話しかけていました。一日中遊んでいますから、孔雀が羽根を広げるのは何度も目撃します。すると、あ、また開いたと目を瞠って感動し・・・。そういうこども時代でした。

 不思議ですね。動物園ではないから、他になにもいず、ただ孔雀だけがいたのです。記憶がたしかなら、檻は中で二つに仕切られていて、それぞれに一羽ずつというか、あるときは一方の折に二羽いて、合計三羽だったときもあったような。今思うと、江戸時代に細川家の方々が孔雀を飼ってらして、それがずっと慣習として引き継がれていたのでしょうか。

 昨年、隣接している国文学資料館を訪ねた折に戸越公園に寄ったら、あまりの変貌に驚きました。通りに面した入口には立派な大名屋敷の門が建ち、さびれてどちらかといえばそれが風流だった庭園も、ところどころ白いコンクリート舗装が目立ち、足を踏み外したら水の中に落ちそうで怖かった飛石の橋はなく、ただのコンクリートの橋になってしまっていました。きっと危険だからそうしたのでしょうけれど、もったいないなあと、つくづく思いました。そして、孔雀の檻はなく、孔雀のすがたもありませんでした。

 孔雀を見なくなって、どれくらいたつでしょう。孔雀が身近な鳥だったなんて、ロゴ・マークを探して素材集を見るまで、思い出しもしませんでした。たったひとつの小さなマークに、こんなにも思い出が深く甦るなんて。なんだか「失われた時を求めて」の主人公が食べたマドレーヌみたいな話になってしまいした。

 孔雀については、もう一つ忘れることのできない思い出があります。それは、国立国会図書館で行われた「明治期刊行図書マイクロ化プロジェクト」に従事していたときのこと。丸善さんと富士フイルムさんによるメセナの事業のなかでの出来事でした。

 それは、仁和寺所蔵の宋画で国宝の「孔雀明王像」が明治時代に木版化され、行方不明になっていたその版木が発見されたので、光村印刷会社さんが復元を試みて完成し、展示するというもの。それをNHKがドキュメント番組につくって放映したのでした。私はそれを上司だった富士フイルムのNさんに教えていただいたのですが、いただいたDMのカラー写真の孔雀明王像をひと目見たときから、すっかり虜になってしまいました。もちろん、展示は観にいきました。

 孔雀は、インドの樹林のなかで毒蛇を食べて生きている生き物だそうです。そこから仏教では悪を払いのける聖なる鳥として崇められ、その象徴が孔雀明王になっているのだそうです。ただ美しいだけでなく、孔雀にはそういう獰猛さがあるのです。

 書きはじめるときりがないので、この話は次回に持ち越すことにします。仁和寺の孔雀明王像は、ご覧になっている方も多いと思いますが、とにかく繊細で綺麗。仁和寺で検索すると寺宝として紹介されていますから、まだの方は是非訪ねられてください。ここでは、木版製作した京都の竹笹堂さんのURLを載せさせていただきます。

http://www.rakuten.co.jp/takezasa/772389/

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2. 電子書籍出版への流れ・・・

 東京国際ブックフェアの招待券にあった「デジタル パブリッシング フェア」の文字に触発されて、書いている原稿の電子書籍化を思い立ったものの、そんなことが果たしてほんとうに可能か、会場に行ってみるまでまるで見当がつきませんでした。おそらく、たいていの方がそうですよね。それで、三日間通って、私なりにわかったことを書いてみたいと思います。

 まず、電子書籍をつくるソフトですが、「XMDFビルダー」を使います。幾つかあるソフトのうちで、最もポピュラーなのがこれのようです。というか、私はこれに一番惹かれました。単純にSHARPさんのブースが一番大きくて目を引き、展示の仕方が素人にもわかりやすかっただけかもしれませんが。

 三日間行った最初の日にまず理解したのは、電子書籍の編集ソフトは「クォーク」ではなく、この「XMDFビルダー」ということでした。それだけで私には充分な収穫でした。なにしろ、とにかく未知の領域への踏み込みです。「クォーク」を習ってでも頑張ろうと覚悟していたのを、「XMDFビルダー」に正しく修正できたのですから。もっとも、あとでこのソフトは使わなくていい結果になるのですが。

 会場ではすでにこの程度の知識のある人が対象ですから、このソフトがどういうものかなど、とうてい質問する勇気がなく、パンフレットを手に帰宅して、ネットで検索して調べました。「XMDFビルダー」は昨年までは業者さん向けにしか公開されていず、検索しても出てこなかったそうです。今年から一般の出版社さんにも販売することになったとのことでした。ということは、昨年思い立っても不可能だったということ。ラッキーと思いました。価格には専門の業者さん向けと一般の出版社向けの二つがあり、一般の出版社さん向けなら、私でも手の届かないことはない価格。この段階で、自分で電子書籍をつくる夢は叶いそうな手応えを覚えました。

 二日目。「XMDFビルダー」を使えば電子書籍ができることがわかったので、今度はつくったものをどう流通に乗せるかの、出版への流れを見ました。簡単に図式化すると、「コンテンツ提供の出版社→取次ぎ業者→コンテンツプロバイダ→購入者」となります。

 「コンテンツ」という言葉を、皆様はご存知ですか? 私は最初の日に手にしたカタログではじめて目にしてちんぷんかんぷん。通常使っている意味と、電子書籍業界での「コンテンツ」は当然違うでしょうから・・・。ここでは電子書籍そのものと解釈していいのでしょうか。あるいは、小説とかマンガとかの素材のことのようです。

 私としては、その「コンテンツ」を販売するネットの出版社を考えていますから、ゆくゆく私が関わることになる位置は、コンテンツプロバイダだと解釈しました。これが大間違いで、結局最後の日に質問させていただいたメーカーの方に、そんなだいそれたことができるはずがないとあきれられ、意志の疎通のとれない状況に陥る結果になってしまいました。

 三日目は東京国際ブックフェアの最終日で、もうあとがありませんから、今日こそは質問する覚悟ででかけました。

 結果からいいますと、私なりに理解して資金調達まで決意して臨んだ「コンテンツプロバイダ」の夢は、無残にも崩されました。「コンテンツプロバイダ」になるにはライセンス契約というものをしなければならず、それには何十万という資金が必要です。一応そこまで覚悟して出向いたのですが。

 私の勘違いと、それを理解されないメーカーさんのやりとりは、最初まったく噛み合いませんでした。当然ですよね、こんな「ど」のつく素人が、こんな超最先端の巨大な業界に、個人で乗り込んでくるなんて、その方にとってはまったくの想定外だったでしょうから。あまり噛み合わないので、みかねて途中からコンテンツ制作会社の女性の方が加わって、それからようやく双方の思い違いを正すことができました。

 私が立上げようとしている出版社は、流通の流れでいうと「コンテンツプロバイダ」ではなくて、最初の「コンテンツ提供の出版社」だったのです。「コンテンツプロバイダ」をつくるにはコンピューターに精通したプロの人材を置かなければならず、サイトを構築するのに百万とか二百万かかるので、そんなこと貴女にできるはずないでしょう・・・と暗に見下すような言い方で説得され続け、私はそういう話ではないのにと思い続け・・・で、話は堂々巡りでした。

 そのとき、脇で聞いてらした制作会社の女性の方が、私がいっているのは「コンテンツプロバイダ」ではなくて、「コンテンツ提供の出版社」のことだと気づいてくださったのです。私は「そう、そうなのです」とほっとし、メーカーさんは「それなら、できます」と納得され、やっと話がほぐれました。冷や汗たらたらの時間でした。

 そして、見えてきたこと。

 私がしようとしているのは「電子書籍にする原稿を用意する場所」で、その原稿は、自分で「XMDFビルダー」を購入して作業しなくても、その女性のいられる「コンテンツ制作会社」に入稿すれば電子書籍化してくださり、「コンテンツプロバイダ」を通じて読者へ配信していただく・・・。私が立ち上げようとしているネット会社での配信は不可能だけれど、コンテンツをラインナップして紹介することは可能・・・

 と、こんなふうになりました。「XMDFビルダー」を習わなくてもよくなったかわりに、振り出しに戻って、もしかしたらまた「クォーク」を習わなくてはならなくなったようです。「コンテンツ制作会社」に入稿するとき、編集済みの原稿とそうでないのとでは金額が一桁違うのです。

 たった三日間でのはじめての領域への挑戦です。まだ思い違いがあるかもしれません。もっと難解な問題が控えているかもしれません。が、ひとまず、メーカーさんの言葉の「それなら可能です」を信じて、これから踏み出していくことにします。

 でも、当面しなければならないことは、「原稿を書き上げること」。まずは紙本での結晶へ。しばらくはこのブログを更新しつつ、原稿に専念することにします。

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1. 第14回東京国際ブックフェアが終わって

 ひとつの夢の実現に向かって、このブログをはじめたいと思います。

 それは手元に一通の招待券が届いたことからはじまりました。「第14回東京国際ブックフェア。会期は2007年7月5日から8日。会場は東京ビッグサイト」。昨年知人に連れていっていただき、そのとき入場券と引き換えに住所を残してきたものですから、送られてきたのでした。

 招待券とはいっても、それは新聞の折込チラシのような両面印刷された大きな紙で、広い会場の地図が載っていました。会場には大きく分けて三つのエリアがあり、凱旋門のようなかたちの左のエリアは、主に大人向けの専門書。右のエリアは、児童書や教育出版関係。そして、上部エリアに、「デジタル パブリッシング フェア」の文字が。

 私はその文字に目が釘付けになりました。昨年行ったときに、電子書籍の出版社のブースがあったのを思い出したのです。人によっては、デジタルといえば「アドビ」、別の人には「グーグル」・・・でしょうけれど、「デジタル パブリッシング フェア」は私には「電子書籍」なのでした。

 実は今、原稿を書いていて、脱稿し次第自費出版をする準備を進めています。来年にどうしても間に合わせなければならない事情ができ、それでとても急いでいるのです。

 最初は私も「書く人」の端くれですから、出版するなら一般書として、一般の本屋さんの棚に並び、一般の人の手にとっていただくのを夢見ました。

 が、しばらくして、書店に並んでも、一般の人が自費出版の本なんか手にとってくださるだろうかという疑問が湧きました。私だったら、とりません。あっさり、私は流通に乗せることをあきらめました。

 次に、でも、何故来年を期して急いで出版するかというと、それは多くの方の目に触れて欲しい、一人でも多くの方に意のあるところを理解して欲しい、の思いに他なりません。では、どうしたらいいのでしょう・・・

 私はネットで知っていただくことを考え、専用のホームページを作って紹介させていただこうと決めました。当然、販売も兼ねますから、たった一冊とはいっても会社運営になります。それで少し前からネットでの会社の立上げ方の本を読んでいました。東京国際ブックフェアの招待券が届いたのは、そういうときでした。

 すぐに、閃きました。「そうだ、この本を電子書籍にしよう!!」

 電子書籍に関心があったのは、私は写真も撮るので、電子書籍なら写真集を出せると思っていたからです。学術書の分野に入る「お固い原稿の本」も、電子化して悪いわけはありません。

 でも、果たして、素人の私にそんなことができるだろうか。
 それよりか、電子書籍って、いったいどんなソフトで作るの?

 出版用のソフトなら「クォーク」・・・、くらいは知っていましたが、電子書籍も「クォーク」を使うのかしら・・・

 何も知らない素人が、あれこれいろいろ考えたところで埒があきません。私は楽しみに東京国際ブックフェアの開催を待ちました。膨大な不可能の前ではわくわくしますよね。それがクリアになったときのことを思って。

 結局、6日と7日と8日の三日間通って、少しだけ、ほんとうにほんの少し、電子書籍の世界がわかりました。逆にいえば、三日間通わなかったら、何もわからなかったと思います。質問しようにもどう質問していいかわからず、最初の二日間はひたすらカタログを集めてまわるしかありませんでした。それを家に帰ってからひたすら眺め・・・

 三日目に意を決して展示パネルの前に立っていらしたメーカーの方に声をかけ、相談にのっていただきました。そして、その方に「ど」がつく素人扱いされながら、でも、「私の一冊が電子書籍になる」可能性は確保することができました。

 長くなりますから今日はこれくらいにしますが、とにかく私はこれからの半年を、「原稿を仕上げ→自費出版し→同時に電子書籍化し→サイトを運営して本を売る」に賭ける決意です。

 素人の無謀はいつもの私の習性です。このブログの到達点は一冊の電子書籍。そして、紙本と電子書籍とそれぞれ一冊しかないかもしれない出版社の立上げです。

 ブログ名の「孔雀の庭」はいずれ立ち上げるサイトの社名のつもり。孔雀については思い出があるので、近々それも書かせていただきます。

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