2008.1.9 吉川弘文館人物叢書 山中裕先生『藤原道長』のこと
昨日、吾妻鏡の会の帰り、駅の構内に書店があったので入りました。知らない街の書店て、入ると楽しいですよね。行き慣れたお店と違う棚の配置なので、ふっと、思わぬ見つけものをすることがあって。もっとも昨日の収穫は、ふだん行きつけの書店でも手にしたでしょう新刊でしたが・・・
それは、山中裕先生の『藤原道長』。2008年1月1日発刊の、ほんとうに新年早々できたてほやほやのご著書でした。今年の幸先はいいなあと悦にいって購入しました。でも、驚きました。山中先生が吉川弘文館のこの人物叢書にまだ道長を書いてらっしゃらなかったなんて、と。目にしてはいないけれど、当然、もうあってしかるべき・・・と思っていました。
まだ最初しか読んでいませんが、道長について書かれていた部分に、心が広がる思いをしたので、そこを引用させていただきます。
「道長は決してあせらず、強硬なこともせず、人の気持ちを充分に考慮に入れながら事を運んでいく。ここに平和な文化の華がひらき、女流作家たちが続出したのも、道長が最高の地位に就いてよき政治を行っていたからということができよう。道長の人物の賜物によるものであった。」
そうなんですね。ほんと、ここ、感動しました。たしかに紫式部は偉いけれど、道長という大きな懐、土壌、あってのことでした。
いいなあ、早く、私も、そんな懐、土壌のなかに入りたい・・・とは内心の呟き。でも、いいんです。私にも近々、『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』が生まれます。ここにくるまで、たぶん、道長のようなたった一人ではないけれど、分散して、とてもたくさんの方々の恩恵があったことは確かです。感謝!!です。
昨日書いた、吾妻鏡の会にお誘いくださった峰岸純夫先生はそのお一人で、峰岸先生に宇都宮歌壇についてご教示いただいたことから、鎌倉歌壇に目がいき、そこから河内本源氏物語の源光行に関心が広がったのでした。
峰岸先生は、同じ人物叢書に『新田義貞』を書いていられます。そのなかで、私が撮った稲村ケ崎の写真を使っていただいていますので、書店とかでこの本を手にとられたら、ご覧になってください。ほんとうは、その写真には、峰岸先生も写っているんですが、「編集者にカットされてしまった」そうです。新田義貞の鎌倉攻めが可能だったのは引き潮だったからということで、先生に引き潮のときに案内していただいたときのものです。
この人物叢書には、一昨年亡くなられた佐藤和彦先生も『楠正成』を書かれる予定でした。なんでも網野善彦先生が書かれる予定をされていたところ、亡くなられたので、佐藤先生が引き継がれたとか・・・。
私は、個人的に、先生から正成論を伺って、早くご本にしてくださいと、よくお願いしていたのですが、にこにこと、まあまあ、などといって延ばしてられました。そのころは峰岸先生もまだ新田義貞にとりかかっていられなくて、お二人でお互いを見合って冗談を言い合ってらっしゃったのですが、さすが、峰岸先生が『新田義貞』を刊行されてからは本気になられたようでした。
私は歴史学は専門でないので、どこか間違っているかもしれませんが、ここは個人的に伺っての私なりの受け止めた内容ですので、違っていたら許してください。佐藤先生の人物叢書にこだわるのには、私なりの理由があって、今思うと、それは『楠正成』でなく、『足利尊氏』を書かれようとなさっていたのだ思いますが、先生はその下準備にご旅行にでられて、どこかのお墓を検証なさってこられ、「これで確信がつかめた・・・」と、そのお墓の写真をコピーして見せてくださったことがあるのです。
それからまもなく先生は急逝され、ご本の完成は永久に見ることができなくなりました。先日、年末の片付けものをしていたら、思いがけなく、佐藤先生にいただいたそのときのお墓の写真のコピーがでてきて、「これは、佐藤先生が独自に解釈、あるいは発見なさったお墓なのに、この論考はどなたが継いで書かれるのだろう・・・」と、ふっと、この件を、どなたか別の学者さんがご存じで書かれることもあるのかしらなどと、思ってしまいました。私みたいな素人の門外漢の口をだすことではないことと思い、このコピーのことは秘めておこうと思っていたのですが、思いがけず、新年早々、山中裕先生の人物叢書『藤原道長』に接して、思念が幾層にも広がってしまいました。
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