2008.1.30 今日は綺麗な彩雲が観られました!
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【古典と風景】に「鎌倉・大蔵幕府跡」をアップしました。
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【古典と風景】に「鎌倉・大蔵幕府跡」をアップしました。
昨日、王朝継ぎ紙の講師をしていられる近藤陽子先生から、「王朝継ぎ紙だより」が届きました。そういえば、昨年は私のなかで、ちょっとした王朝継ぎ紙のマイブームだったと、懐かしく拝見させていただきました。
王朝継ぎ紙というのは、陽子先生のお母様でいられる近藤富枝先生がはじめられた世界で、『西本願寺本三十六人家集』に代表される料紙を現代に甦らせたものです。
料紙というのは、古今集や家集などで、歌が書かれた紙のこと。色とりどりの和紙に金銀の箔が押されたり、砂子という手法で砂のような細かな粒で金銀が吹きつけられたりしている綺麗な紙。日本人なら誰でも見ているあの紙のことです。
継ぎ紙は、それら料紙を手でちぎってつなげたもの。その繋げ方の精彩さ、斬新さには目をみはるものがあります。私は『西本願寺本三十六人家集』がたまらなく好きで、展覧会に出展されるとかならず観にいっていました。そして、富枝先生がはじめられた「王朝継ぎ紙」も好きで、一冊の本になったときにはもちろんすぐ購入させていただいて、眺めては、あまりの美しさにため息をついていました。
今回、源氏物語に関係する本をだそうと準備していて、原稿も終わりが見えてきたと思ったころ、そろそろ表紙も考えなくては・・・という気持ちになったとき、ふっと、「あの継ぎ紙を、私の手でできないかしら」と思ったのです。去年の八月末のことでした。
それには、原稿の内容が、思いもかけず、源氏物語よりも平家物語に近くなってしまい、それで平家納経を何度か目にすることになったのが大きかったと思います。「平家納経」のような、絢爛豪華なあの色合いを出せたら・・・などと、今考えるとぞっとするのですが、そのときは、やってやれないことはない!くらいの意気込みでした。それは、陽子先生の教室に足を踏み入れた最初の一瞬で「とんでもないこと」と悟りましたが・・・
ネットで検索すると、近くの荻窪の読売文化センターで、陽子先生が教えていられる講座がありましたので、何も考えずにすぐ申し込みました。というのも、あとで、しまった!!と慌てるはめになってしまったのです。それは、授業の日が、聴講に通っている大学院ゼミの曜日と重なっていたのですが、夏休みだったので、うっかりそれを忘れていたのでした。二回目に、陽子先生にそれを告げて謝って、9月末までの三回だけ、受講させていただきました。
でも、たった三回でしたが、とても豊かな世界でした。今でも、原稿の執筆や刊行から手が離れたら、また通わせていただこうと思っています。
こういう教室に通うといいのは、その世界の情報が逐次つかめること。そのときは、名古屋の徳川美術館で、『王朝美の精華・石山切』展が10月6日からはじまるということを紹介されました。陽子先生とお母様の富枝先生は、前日の内覧会からいかれることになってられ、陽子先生は残られて、翌日の記念講演会を聴いてから帰る、というようなお話をされました。
石山切というのは、『西本願寺本三十六人家集』のうちの、「伊勢集」と「貫之集」下の断簡をいうそうで、私は今回のこういう経緯のなかで、ただ好きで見ていた『西本願寺本三十六人家集』を、きちんと把握できました。『西本願寺三十六人家集』は、藤原公任撰の「三十六人撰」に選ばれた三十六人の家集で、白河法皇の六十賀の贈物としてつくられたものだそうです。それがあるとき西本願寺に贈られたので、現在「西本願寺本」の名称で呼ばれているものです。
話がそれてしまうのが心配ですが、この白河院の周辺の文化の雅さといったらないですね。一説には、国宝『源氏物語絵巻』も、この仙洞でつくられたといいますし・・・
このあたりにこだわってしまうと、途方もなくひろがってしまうので、止めますが、その徳川美術館の『王朝美の精華・石山切』展に、私も行きました。せっかくなら、陽子先生が聴かれるという講演の日に。受講しなければ、こういう展覧会があると知っても、名古屋まで行く情熱は起きなかったでしょうし、陽子先生のお話を聞かなければ、初日にかけつけて講演を聴くという配慮もできなかったでしょう。陽子先生に感謝!!です。
ご講演は、福田行雄氏。祖父に、源氏物語絵巻や平家納経の復元をされた田中親美氏をもたれる方で、料紙作家。石山切の分断にまつわるエピソードなど、興味深いお話を伺うことができました。
料紙作家でいられるから、氏のもとには、もうたくさんの料紙がおありです。もちろん、ちょっとした失敗作も・・・。氏は、「皆さん、こんなものでも差し上げると喜んでくださるので、今日も持ってきました」とおっしゃられて、その「失敗作」を5センチ四方くらいに切った唐紙(からかみ)の束を取り出され、聴衆の私たちに配ってくださいました。
唐紙というのは、色の料紙に、雲母で刷った模様の紙のことです。この雲母の温かみのある鈍い銀の輝きが、またたまらないですよね。みんな、思いがけないプレゼントに、わあっとどよめきが走り、会場は一気にどことなく目が血走った雰囲気に・・・。だってせっかく頂いて帰るなら、少しでも綺麗な図柄の紙が欲しいでしょ・・・
福田氏はにこにこと笑まれながら、壇上で「選んじゃダメですよ。上から順にお取りになって、後ろへ回してください・・・」と。
でも、そんなこと、守られませんよね。私は後ろのほうに座っていたので、見ていると、紙がまわってくると皆さん、隣どうしで肩を寄せ合いながら、ひそひそと、選びあっているごようす・・・。でも、そうしたくなって当たり前と、許せてしまうほど、綺麗なのが料紙の世界です。私も選びたかったのですが、どれがいいかもわからないし、上にあった一枚をいただきました。渋草色の地にすすきのような草の模様が押されている紙でした。
日本人て、他愛ないかも・・・。たった一枚のこんな小さな紙で、究極の幸せを手にしてしまえるんですから。
見れば一瞬の世界を、文字で語ろうとすると、とりとめがなく、もどかしいかぎりですので、展覧会のアドレスを付記しておきますね。
http://www.tokugawa-art-museum.jp/special/2007/05/index.html
夏休み明けの大学院ゼミに、三回の受講で作り上げた「料紙の葉書」を持っていきました。印刷物で見ているだけでは、継ぎ紙は単に色塗りした紙にしか見えないから、貼り合わせたものという認識がなく、院生さん方は驚いてました。2ミリの糊代をつくって貼り合わせるわけですが、葉書の糊代の厚みを手でさすったりして確かめて。が、さすが、源氏物語を研究される学生さんだけあって、持っていった『王朝美の精華・石山切』展の図録には、熱心に見入ってられました。
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駅の構内のコーヒーショップでくつろいでいたら、「ロラン・バルトのタンジール」という言葉が浮かんできました。以前は、レンストランや喫茶店に一人いるとき、お店の人が用意するスプーンやフォーク、グラスなどの触れあう音がすると、よくその言葉が浮かんだものでした。最近ではそれさえも忘れていたほど久しぶり。ふっと考えてしまいました。
一つには、分野が違ったこと。そして、もう一つは、以前にくらべて浸る余裕がなくなっていること。やるべき仕事がみつかって忙しいのはいいことですが、浸る時間がない、浸っている精神の余裕がないというのは問題です。
分野が違うといえば、もともとは私は仏文の先生に小説作法を教えていただいたのですから、当時は仏文世界の文学にどっぷり浸っていました。しかも、教授がヌーボー・ロマンの方だったから、読んだ本といえば、クロード・シモン、ジュリアン・グラック、ミシェル・ビュトールにマルグリット・デュラス・・・、そして、プルースト。
私の本棚には、かつての名残りで、そういった作者名の本が並ぶ一画があります。時々、懐かしく眺めてはいます。今でも、例えば長瀞へいって、シルトが溶け込んで綺麗なエメラルドグリーン色になっている水の流れを見ると、グラックの『シルトの岸辺』を思い出したりします。この小説には、凄い嵌まって読みました。
そうしたなかで、ロラン・バルトを知り、ちょうど第二次ロラン・バルトブームとかで、多くの著作が刊行されたので、次から次へと購入し、現在書棚で一画を占めています。
「ロラン・バルトのタンジール」とは、『テクストの快楽』にある、ある章のことで、それは、
ある晩、私は、バーの椅子でうつらうつらしながら、戯れに、耳に入って来る言語活動を全部数え上げようと試みた。音楽、会話、椅子の音、グラスの音、要するに、立体音響のすべて。(セベロ・サルドゥイが描いた)タンジールの広場・・・
から来ています。今、改めてこの箇所を読んでみると、
私の中を単語や小さな連辞や常套句の切れ端が通り過ぎた。そして、いかなる文も形成されなかった。あたかもそれがこの言語活動の法則であるかのように。極めて文化的であると同時に、極めて野蕃なこの言葉(パロール)は、とりわけ、語彙的であり、散発的であった。それは、私の中で、一見流れているようにみえながら、完全に不連続であった。この非文は、文に到達する力のないもの、文以前にあるものではなくて、永遠に、堂々と、文の外にあるものであった。こうして、潜在的に、言語学全体が崩壊した。(沢崎浩平訳『テクストの快楽』より)
とあります。長々引用させていただきましたが、今、このブログに書こうとしていることと、奇しくも重なる内容に驚いています。
このときは、ほんとうに凄い勢いのロラン・バルトブームでした。それで、カルチャーで講座ができ、もちろん、私も申し込んで受講しました。講師は、松浦寿輝さん。松浦さんも新進気鋭の詩人でいらして、その人気のせいもあって講座は満席でした。五回の連続で、たしか、最終日だったと思いますが、当時その講座を設定された保坂和志さんが、せっかくだからと、終了後にお茶を飲む席を用意してくださったのです。そこに参加してのこと。
結構皆さんお友達と誘いあわせていらしていたのか、講座に通うあいだに仲良くなられたのか、お店の幾つかあるテーブルは、あっという間にグループ毎に占められ、たった一人の参加者の私のような人だけ2,3人、立ちんぼうに取り残されてしまいました。あっというまのできごとで、唖然として立っていると、保坂さんが、ここに座りましょうと、「取り残され組」をまとめてくださったのです。
そこに、当時大ヒットした、高橋真梨子さんの「桃色吐息」を作詞された康珍化(カンチンファ)さんがいらっしゃいました。康さんも、松浦さんの「ロラン・バルト」に興味をもたれて、受講されていたのでした。
私は、その曲が大好きでした。そして、その歌詞が常々不思議でならなくいたので、こんな機会は二度とないとばかりに、意を決して、「どうやって、あの歌ができたんですか?」とお訊ねしました。
機嫌を損じられるかと思ったのですが、康さんは快く答えてくださいました。
「あれは、ばらばらに言葉を置いて、それを組み合わせたんです」と。
当時はまだワープロの時代でした。なので、康さんがワープロの中で、「金色」「銀色」「桃色」「吐息」・・・の語を、あれこれ並べ変えたりされていたのか、それとも、実際に紙のカードに言葉を書いて、机の上で動かされたのか、忘れましたが、とにかく、そんなふうにして、あの歌はできあがったのでした。
私は、歌詞の斬新さに驚いていましたが、作詞方法の斬新さにもっと驚き、感動しました。
でも、考えてみれば、それこそがヌーボー・ロマンですよね。小説作法の教室に通っていて「読まされた」、クロード・シモンの『三枚続きの絵』は、まったく関係のない三つの話が錯綜する小説です。それをシモンは、三色のプッシュピンでコルクボードか何かに止めて、動かしながら組み立てていったといいます。読んでいると、段落毎に話が変わるどころではなく、一つの文章に続く文章が別の話のことだったり、ひどいときには、句点で途切れて別の話に行ってしまったり・・・と、混乱はなはだしく、完遂して読み上げるのに、何度ページをめくり直したことでしょう。
康さんの手法は、ヌーボー・ロマンを身につけられてのことだったのか、それとも偶然かはわかりませんが、いずれにしても、新しい感性あってのこと。私も、文学を志すには、感性だけはいつまでもみずみずしくありたいと思っていたのですが、ヌーボー・ロマンから離れ、分野が日本の中世になって、少し、「感性の世界」から離れていたようです。
その意味で、「ロラン・バルトのタンジール」の語が甦った今日は、きっといい兆しなのでしょう。奇しくも引用したバルトの言葉と、康さんの手法が重なるなんて・・・。こんなに時を経て、私にも戻ってくるものがあることを期待しましょう!!
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ホームページに【寺院揺曳】5をアップしました。仁和寺の孔雀明王像についての項です。とても美しい画像。宋画です。宋画の描線の補足硬くピリッと切れるような感じがたまらなく好きです。
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仮眠のなかで白い椿の夢を見ました。夢のなかで、凛とした白い椿は、山中裕先生の『藤原道長』で読んだ、三条天皇の妃≪せい子(せいし)≫という女性の象徴でした。(「せい」は女偏に成という字)。
三条天皇がまだ東宮であられたころ、すでに≪せい子≫は入内していて、東宮との愛情も特別にこまやかな間柄でした。そこに道長が二女≪けん子(けんし)≫(中宮彰子の妹)を入内させることになり、周囲は≪せい子≫を気遣います。今をときめく道長の娘に、≪せい子≫が勝てるわけがありません。いくら、東宮の愛情が深くても。(「けん」は研を女偏にした字)
が、≪せい子≫は堂々と、「これまで身分の低い自分のような者が東宮妃として一人あることを、東宮のために心痛めていたので、≪けん子≫が入内するのは当然、かえって喜んでいる」といい、東宮のために立派な装束を仕立てたり、薫香を調合してさしあげたのです。
この話は『栄花物語』にあるそうで、山中先生は特別な感想は書かれていませんが、かなりの行数を費やしてここを紹介されたお心のうちには、≪せい子≫を立派と評価する思いがおありだからでしょう。
が、私は、ふと、≪せい子≫は果たしてほんとうにそうだったのかと考えてしまいました。というのも、最近、小さなあるできごとがあって、筋道がたって傍からは何の問題もないそのことで、体調を崩してしまったからです。理性では当然と思って受け入れた事柄でも、自分の存在を抹殺するような、そこまでではないにしても、ただ存在を揺るがしかねない危機感にあったとき、肉体は正直に反応してしまうのだということを実感したばかりでした。
私の場合は、ほんの大したことのないことでしたから、ただ数日の体調の乱れで済みましたが、≪せい子≫のような場合、「立派に装束を仕立て、薫香を調合してさしあげた」あと、病気になって寝込んだというようなことはなかったでしょうか。
『栄花物語』を読んでいないから、その先のことはわかりませんし、その後、東宮が三条天皇になられたとき、≪けん子≫とともに二后並立されていますから、立場的に揺らぐことなくいられたようです。三条天皇の変わらない愛情の深さによって。
でも、立后の儀式では、道長の娘≪けん子≫の華々しいそれと比して、大臣もかけつけなかったほどの寂しさだったといいますから、折にふれ、寂しさや屈辱感に耐えるその後だったことは確かでしょう。
山中先生のご著書で≪せい子≫の部分を読んで、特にそのときに思い当たる節はなかったにもかかわらず、そこがずんと心に響いたのは、それが女性には普遍的問題だからでしょう。山中先生は男性でいられるから、あっぱれ、見上げた女性!ですませていられますが、女性である側の私たちには、それが本心でないのは明らかです。陰でどんなにか苦しみ、ひそかに涙を流したことでしょう。
最近、先にも書きましたが、ほんのささいなあることがあって、理性では受け入れても、身体が変調をきたしてしまったとき、ふっと≪せい子≫のこの話が思い浮かびました。それが、仮眠のなかで「白い椿」として屹立したのだと思います。
そして、この思いは、突然、『源氏物語』の「紫の上」へと飛躍します。
昔から『源氏物語』を読んでいて、女三宮の降嫁に苦しんで紫の上が病気になり、ついには命を落とすことになる流れを、漠然と、そんなことで病気になったり、衰弱したりするのかなあという疑問をもっていました。あれは、物語のうえでの結末なのだ・・・というような。紫の上の苦しみ・悲しみを、読んでいて身をもって実感しているにもかかわらず、です。人間の生命力はもっと強いものと思っていましたから。
が、今回、些細なことで体調を崩したとき、「こんなことでこれほど肉体に出るのなら、紫の上が命を落とすほど衰弱して当然」ということが、身をもってわかりました。そして、≪せい子≫のことも、絶対にそんな綺麗事だけの表面では済まなかったはずと、今は思っています。
もしかして、≪せい子≫の≪けん子≫入内事件は、「紫の上の女三宮降嫁事件」のモデルだったのでしょうか。『紫式部日記』にある『源氏物語』の清書作業は、寛弘四年(1008)。だから、その年には『源氏物語』は完成していたとして、今年2008年が千年紀です。
≪せい子≫の≪けん子≫入内事件は、寛弘七年だから、その三年後。『源氏物語』はすでに完成しています・・・、と思いつつ、いや、もしかして、その完成は、光源氏が太政大臣にまでのぼりつめるところまでで、(つまり、第一部といわれる「藤裏葉」巻までで)、第二部の「若菜」巻以降は、≪せい子≫事件後に書かれたのではないかしらと、そんな思いが今私の胸を占めています。
紫式部は彰子に仕えていて、しかも『源氏物語』の作者として特別なはからいを受けるほど密接だったわけですから、彰子の妹の≪けん子≫の入内も、内部から一部始終をみつめていたでしょう。しかも、『紫式部日記』にあるように、外部が華やげば華やぐほど、内心に冷めた苦しみを抱える性格からして、式部が道長一族と一緒にうつつをぬかして喜んでいたとは思えません。≪せい子≫のほうに気遣う思いがいって自然ななりゆきだったと思います。それが、「若菜」巻の女三宮降嫁事件に結実した・・・
あれほどの『源氏物語』を成しながら、その後の式部と道長の関係は冷えていたといわれますが、「若菜」巻に道長が暗に式部の自分に対する冷やかな批判を読み取ったとしたら・・・
「若菜」巻は近代小説のような葛藤の文学といいます。それまでの「光りかがやく光の君の物語」とうって変わって、暗く辛い内容です。それを、道長一族のなかにあって、その繁栄に心から同化できないでいるのを隠しきれなくなった式部の悲鳴、と見たら・・・
国文学の世界で、このあたりのことがすでに書かれているのかどうか知りませんが、ふとした自分の体験と、たまたま拝読したばかりの山中先生の著述から、「紫の上」にまで気持がいってしまいました。これも、ふっと、昨日日中にブログを書いていて、為兼を思い出し、「為兼歌論と唯識説」まで筆が及んで意識が深まったせいでしょう。それが、白い椿の夢となってあらわれたのでしょう。唯識は・・・ですが、ただ「唯識」と書いたり読んだりするだけで、意識がふっと深まります。
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糸魚川―静岡構造線をだしたら、どうしても書かずにいられなくなる場所があります。それは、山梨県早川町にある新倉(あらくら)の大断層。しかも、逆断層です。
断層というのは、地震などで岩盤がスパッと割れてその両面が左右など反対方向ににずれること。地層をみるとよくわかります。逆断層とは、通常は新しい地層が上にあるのが、地中の活動の結果、逆になって、被さっている地層のほうが古い地層の断層のことです。新倉の断層は、元来地中奥深くに埋もれているはずの断層が、露頭にでていて、しかも見上げるくらいに巨大なことで有名です。どれくらい有名かってことのお話をこれからしようと思います。
昨日書いた「糸魚川―静岡構造線」の旅は、太平洋側の静岡にはじまり、日本海側の糸魚川に終わります。静岡は登呂遺跡のあるあたり。あの一帯は平野部ですが、列島中心部から小高い丘のような山が幾筋も延びてきて、平野部の下にもぐり、海中へと消えていきます。そこに構造線があるので、構造線自体は見ることができません。
以前、登呂遺跡を舞台にした物語をシナリオで書いて、サンリオ映画脚本賞で特別に企画奨励賞をいただいたことを記しましたが、そのように登呂遺跡は私にとって忘れられない親しみのある遺跡です。その遺跡が、構造線の旅で、私のなかでふたたび巡りあうのも、何かの縁で不思議な気がしました。考えてみると、何故、突然、登呂村がこの世から消えたのか謎とされていますが、構造線上にあった村ならば、地震とかなにか、そういう天災があったと考えていいかもしれません。発掘調査でそのあたりの何かがでているのでしょうか。
糸魚川側の終点は、有名な親知らず海岸です。絶壁のしたにあるこの海岸は、如何にも構造線の先っぽという気がしました。ここでは、姫川などの転石がさらに砕けて流された、アルビタイトの小石を拾うことができるので、11月の真冬のような光景だというのに、二人か三人、下を向いて探して歩いている人がいました。結構、皆さん、拾いにくるのだそうです。私も、少し拾ってみました。この石に翡翠が入っているのかな・・・、ともっているのが楽しみな石です。でも、割ってみないとわからない。割って、入っていたら嬉しいけれど、なかったら、割らないほうがよかった・・・。となりますね。
構造線の両端がそうなら、中央部はというのの一つが、山梨県の新倉の断層です。露頭というのは、本来地中に埋もれている岩石や地層が、地表に現われていること。これは感動です。地表にであうと、ついつい足をとめてしばし見入ってしまいます。岩盤の露頭も然りです。新倉の断層は、見あげるほど高い崖の上から下まで、スパっと、断層線が入っています。小さな断層しか見たことがなかった私は、目の前にある崖を目にしながら、「どれが断層?」と、思わず探してしまいました。
そこは、身延山の近くといったらわかりやすいでしょうか。そこをさらに山深く入っていったところにあります。辺鄙な奥地なこときわまりないので、人ひとり出会わない、かなり怖い思いをしました。が、行ったとき、突然マイクロバスが一台来て停まりました。そこから先は徒歩、という地点です。私もそれから歩いて探そうと思っていたところでした。バスから袖まくりをしたチェックのシャツを着た、青年のような方がおりてきて、「断層を見にいらしたんですか?」と聞かれました。それが、静岡大学の地質学の新妻先生で、「それでしたら、あとに着いてきてください。ちょうど僕たちも行くところですから」とおっしゃってくださいました。
新妻先生が、「地質学の学会が終わって、彼らを現地見学に案内してるんですよ」と説明してくださったとおり、氏のあとについて降りてこられたのは、皆さん、外国の方々ばかりでした。私は、その人たちのあとについて、小道を抜け、草むらの茂みを抜けて河原へ下り、無事に断層のある場所へたどりつけたのでした。
一行は、その後、翌日伊豆半島へまわるというお話でしたが、外国の地質学の学者さん方を案内するほどの断層ということなのです。その方々が、河原に立って断層を見上げたときに、「おおうっ!」というような、感嘆のどよめきが起きていました。
その河原にどれくらいいたでしょうか。断層は大きすぎて、ふつうの広角レンズでは収まりきれず、撮るのに相当もどかしい思いをしました。おそらく、河原からでなく、どこか遠く離れたところにいたほうが、シャッターチャンスにはよかったかも、です。ただ、地質学者の方々は、地質そのものに触れるのが目標ですから、ハンマーを持って川に入り、断層の真下までいって・・・、ということをされていました。
前に、「慈円さまの微笑み」で、小説を書く際にモデルは決めないけれど、描写には思い描くことがあると記しました。実は、このときの一行にいらしたベルギーの学者さんが、尖った鼻に鋭いまなざしの、物凄く風格・品格のある素敵な方でした。その方が、断層の下の岩場を一人思索されながら歩いていられるお姿を、私はずっと目で追っていました。何か、鷲の紋章でも背負っていられるような、そんな感じでした。
「白拍子の風」で、範理(のりまさ)さまという、舞楽をする一人のお公家さまを登場させました。その人物の容姿は、まったくのそのベルギーの学者さんです。
新倉ではもう一つ、私の文学観に深く浸みこむ思い出があります。断層へいくまでのあいだ、車窓から見える景色が、手前の山、その奥の山、さらにその奥の山、というふうに、山並が幾重にも幾重にも重なって見えました。山と山のあいだから次の山の三角が見え、その山と山のあいだから・・・というふうな光景です。
岩佐美代子先生のご著書で京極派歌人を追っていたとき、そのリーダーである京極為兼の歌を先生が紹介されていました。
沈み果つる入日の際にあらわれぬ霞める山のなお奥の峰
この歌こそ、私には、新倉の断層を訪ねたときの「さいはて」の感覚とともにある歌です。岩佐先生の『京極派和歌の研究』中の、「為兼歌論と唯識説」に、私はうなっています。糸魚川―静岡構造線の地質学のような世界から、いきなり国文学になってしまいましたが、私にとってはどちらも重要。「さいはて」を知った為兼の心情に、旅の一点で触れることのできた新倉の断層。この旅がなかったら、あるいは、為兼の歌に接しても、綺麗な光景の歌・・・という印象に過ぎなかったかもしれません。
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山梨県の石和にある帝京大学山梨文化財研究所の敷地内には、「やまなし伝統工芸館」という、ちいさな博物館がひっそりと建っています。中に入って、さまざまなコーナーを突っ切った奥の一帯が、鉱物の展示コーナー。私はそこが好きで、ここのシンポジウムに参加すると必ず中に入ってめぐってきます。
山梨は鉱物が豊富な県なんですね。特に水晶が。シンポジウムの合間に近くを散策すると、とにかく水晶関連の看板が目につきます。なにしろシンポジウムは二日間の泊まりがけですから、二日目の早朝、一人起きて、歩いてまわるんです。
何故、一人かって。それは、同性の知り合いがいないこともありますが、みんな、前夜の懇親会で、早朝はぐっすり。というか、4時過ぎまで飲んで、ようやく散会。二日目のスケジュールは9時開始ですから、6時頃なんて、みんな夢のなか・・・というわけです。それで、一人歩いていて、水晶の看板を目にするのですが、あと、目につくのはぶどう畑。ぶどうの葉が緑に茂って、とても素敵な光景です。懇親会へは、最初の網野善彦先生とお話した年と次の年の二回参加しましたが、以降、止めました。飲めないし、4時までのおつきあいって、かなり辛いし・・・
でも、今日ここで書こうとしているのは、同じ鉱物でも、水晶ではなく、翡翠です。帝京大文化財研究所の一画にある「やまなし伝統工芸館」前に、素晴らしく大きな翡翠の原石が、庭石として置かれているんです。それはもう、立派。巨大な石です。
翡翠の原石をアルビタイトといいます。ずっと以前、「翡翠峡」という小説を書くための取材で、新潟県の糸魚川市を訪ねました。糸魚川の翡翠といえば、考古学の世界で有名。縄文時代にすでに糸魚川の翡翠は各地へ転出しています。青森県の三内丸山遺跡でも、出土品として、大きな翡翠の加工品が展示されていました。
翡翠といえば勾玉。そんなふうに考古学的な色合いの濃い印象の鉱物ですが、私にとっての翡翠の感覚は、地中のロマン。フォッサマグナとか、糸魚川―静岡構造線関連での鉱物なんです。「翡翠峡」という小説では、主人公に、太平洋側の静岡から構造線をたどって日本海側の糸魚川へ抜ける旅をさせました。
私がその地を訪れたのは、11月15日。何も考えずに、ただ都合のいい日程で行ったら、なんと、その日がその年の山へ入れる最後の日。翌日だったら、せっかく行っても無駄だったと知り、ぞっとした覚えがあります。雪に埋もれる地というのは、東京に住む人間には思いもかけないことがあります。
糸魚川では、明星山の麓の姫川の支流に入りました。そこは、翡翠の原石がごろごろ、ほんとうにあちこちに点在しているのです。翡翠は、原石をアルビタイトといいます。真っ白な綺麗な石です。緑の翡翠は、それを割ったなかに入っています。割らないと見えないわけですが、川の中に転がっている巨岩のなかには、表面にうっすらと翡翠の緑を見せているものもあります。私は川のなかに入って、石と石を踏んで渡って、夢中になって巨石を撮ってまわりました。
それで、翡翠の原石を知っていたので、はじめて山梨の帝京大文化財研究所を訪れて、片隅のちいさな博物館のアプローチに、その巨大な原石を見たときは、懐かしさに目が釘付けになりました。以来、毎年、シンポジウムに行く楽しみの一つとなったのでした。
糸魚川の翡翠についてちょっと書いておきます。翡翠はもともと地中深く、マントルとかそれほど深いところで生成される鉱物です。(曖昧な書き方ですみません。いずれ、検証するとして・・・)。それが、川の浸食とか山崩れとかで、川の流れに乗り、河口へ運ばれるのです。明星山の麓の翡翠は、そうして流れてきた転石です。
そのときは一泊してもう一つの翡翠峡を訪ねました。それが青海川でした。去年の新潟県中越沖地震のときに、山崩れで埋まった駅のあの「青海」です。車でずっと山をのぼって、そこから手書きの標識を目安に、ひたすら狭くて急な山道を下って・・・、やっとの思いでたどりついたところに開けた「翡翠峡」は、明星山の麓の明るさとうって変わって、鬱蒼と茂るまさに「秘境」。たくさんのアルビタイトの巨石が目に飛び込みました。
糸魚川―静岡構造線は、フォッサマグナという地溝帯の縁を沿っています。静岡から、山梨・長野と地中を走って、新潟の糸魚川で抜け出ます。姫川がその境なのです。明星山の隣の山は、真下を構造線がとおっているので、常に崩れて砂山のようでした。
私が、糸魚川―静岡構造線とか、フォッサマグナとかの言葉に惹かれて止まないのは、そこに地中の生成を見る思いがするからです。ふつうなら、絶対に見ることのできないはずの、地球の活動を。翡翠は、その象徴なのでしょうね。
追記: 三内丸山遺跡の資料館で展示されている糸魚川の翡翠を載せます。
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ホームページ【孔雀のいる庭】の更新・開始情報を書かせていただきます。
1月24日
Photo Gallary【古典と風景】を開始しました。今まで訪ねた古典にかかわる風景を逐次アップしていきます。同時に、古典のなかから、その地を描写する文章を引用、ご紹介したいのですが、とりあえず今は写真だけアップ致しました。【安芸の宮島「厳島神社」】と【大分県「宇佐八幡宮」】です。ここは『平家物語』に大好きな文章があるので、是非、載せたいのですが・・・
1月25日
歴史随想「寺院揺曳―幻の廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」(その四)をアップしました。やっと、遺身院の本題に入り、主役の益性法親王も登場され、アップしながら、燃えてくるのを覚えました。雅な素敵な世界です。この章は、寺院建築について書いています。佐々目遺身院が寝殿造りの寺院でしたので・・・。なんと、鎌倉時代には、鎌倉の地に「寝殿造り」の寺院があったのです!! 今まで、この仕様の寺院は西にしかないと思われていました。
次の(その五)では、仁和寺の孔雀明王像について書かせていただきます。自分でいうのも何ですが、佳境に入ってきました。
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昨日は高橋文二先生の【源氏物語を読む会】の日で、八王子へ行きました。それで、高尾行きの電車を待って中央線の駅のホームに立っていたとき、目の前を特急「あずさ」が通過したのです。「あずさ」には網野善彦先生の強烈な思い出があり、「あずさ」を見ると、必ず網野先生を思い出して懐かしみます。
網野先生がお元気でいられたころ、石井進先生も健在でいられましたし、それはもう、日本中が中世史ブームに熱く燃えていました。お二人は先進的なお考えの持ち主でいられて、歴史学が、文献史学と考古学に分かれていることに疑問をもたれ、それで、よく、山梨の石和にある帝京大研究所で、両者の分野に携わる方々の交流をはかるシンポジウムを開催されました。
この二つの分野の交流は、画期的な成果をあげています。一例をあげますと、従来の文献史学重視の観点では、太平洋側がずっと文明的にリードしていたように思われてきましたが、考古学の発掘調査によって、陶磁器などの出土遺物の状況から、中世では日本海側の方が栄えていたとか・・・
発掘調査の仕事に就いた最初の年、そのシンポジウムに調査員の方が参加されるというので、興味半分に私も申し込ませていただきました。考古学の分野ではまだ一年にも満たない経歴の新参でしたが・・・。その申込のとき、調査員の方が「懇親会はどうする?」といわれるので、そこまでは・・・と躊躇しました。が、「大丈夫だよ。一緒にいるから。」といわれて、じゃあと、出席することにしたのでした。その懇親会で、まさか、網野先生とお話することになろうとは・・・
懇親会はシンポジウムの終了後にはじまります。そのはじまりを待って私たちが席についていると、編集者かどなたかと話をされていた網野先生が遅れて入ってらっしゃいました。が、そのときにはすでに狭い会場は満席。一つも席が空いていません。網野先生と同伴の方のお二人は、しばらく立ってどこか空いてないかと見回してられましたが、まったくない状況でした。そして、みんな、天下の網野先生が困って入口に立たれていることに気付くと、シーンと、なんだか妙な気配が漂いました。なのに、誰も立って席を譲る人はいません。
私は、学者でもなく、考古学者でもなく、ただのど素人が興味本位に来ただけの私が抜けるのが一番と思い、席を立って、お二人のところへ行って、「どうぞ」と申し上げました。同伴の方はほっとされて、網野先生を私がいた席へ誘導。それまではよかったのですが、なんと、その方は、「ほんとうに有難うございます。どうぞ、ここへ」と、網野先生のお隣に、どこかから椅子を持ってきて座らせてくださったのです。辞退したのですが、結局私は、網野先生の真隣に、しかも、いきさつ上、向いあうように、しばし同席させていただくことになったのでした。
あとで知ったのですが、誰も席を立たなかったのは、譲るのがいやだったためでなく、あまりに畏れ多くてできなかったのでした。ど素人の私だから、「図々しく」、率先して動くことができたのでした。というのも、そのとき、15分くらいはたっぷりと、網野先生とたった二人だけの会話をさせていただいたのですが、それが、どんなにか会場のなかで注目されていたか。
会がひけたあと、知り合いの別の調査員の方がいらして、「あれが誰かわかってる? 中世史の世界では天皇のような人だよ。それをあんなにして話すなんて、図々しい」といわれてしまいました。後にも先にも、人生で「図々しい」と他人から言われたことは、この一回です。私としては、ただ、困っていられるのを見かねてしただけなのに・・・と、ショックでした。そのまた後で知ったのですが、その人も悪意で言われたのではなく、ただ発掘をする人特有のさわやかな、単刀直入・・・、言い換えると「ただ口が悪いだけ」・・・、なのでしたが。
その15分間に話させていただいた会話の内容は、上行寺東遺跡という、横浜市にあった巨大な中世墳墓の遺跡に関してでした。網野先生方は、その遺跡の重要さを訴えて、市と争って保存運動をされたのですが、叶わずに遺跡は壊され、マンションが建つという、先生方にとっては痛恨の思いの遺跡です。
私はがその遺跡について知ったときにはもう、壊されていましたが、それが金沢文庫や称名寺のある六浦という地域の遺跡だったために、個人的に非常に関心をもっていました。それで、何度か通っては、写真を撮り溜めていました。すでに、一部分だけのレプリカ遺跡になっていましたが。
それで、私が「上行寺東遺跡」の名をだしますと、それまで穏やかだった網野先生の目が突然鋭くなり、きらりと光った感じがしました。それは、ふつうの人だったらわからない程度の変化だったかもしれません。ですけれど、一応、私はカメラマンをしていましたから、瞬間のその変化を見逃しませんでした。先生は「あの遺跡には、あれ以来行ってません」と、どちらかというと吐き捨てるような感じでおっしゃいました。それほど保存運動の叶わなかったことの憤りが生々しくいられたのでした。
「スサノオノミコトのような、荒ぶる火を抱えた人」というのがそのときの印象です。ふだんはとても穏やかで、優しくいられる方ですが、本質はとても熱い、激しい方と思いました。素敵でした。以来、私はすっかりファンになってしまいました。もちろん、ご著書だけは、そのシンポジウムに行く前から拝読させていただいてはいましたが。
特急「あずさ」との思い出というのは、二日間の日程でシンポジウムが終わると、一斉に皆さん、石和から帰られます。発掘をされる方は日頃から野生生活に慣れてられますから、前もって指定席を買うなんてことはなく、各停の来た電車に乗りこんで、三々五々帰ってしまわれました。私は「あずさ」の指定をとっていたので、一人、列車の到着を駅で待っていると、そこに網野先生方のグループがいらしたのです。そこにはダンディなお姿の宮田登先生もいらしたと思います。
どきどきしました。恥ずかしいので、みつからないようにそっと動いて、列車に乗り込みました。先生方の車両は隣でした。列車が新宿につくまで、「隣の車両に網野先生がいられる」と思って幸せでした。その後も何度かシンポジウムはあり、網野先生のご講演には、ミーハーさながら「追っかけ」をし、思い出もいろいろできましたが、私の記憶には、「あずさ」といえば網野先生というほど、あの日の思い出は強烈です。
網野先生、石井進先生、宮田登先生・・・と、あのころ活躍されていた方々ですが、もうこの世にいられません。信じられない思いで、この何年かを見ています。ただ思うのは、私が考古学の世界に入ったときに、この先生方のブームの絶頂期だったことが、その後の私をどんなにかゆたかにしてくださっているか。
石和の駅構内の、帝京大研究所の敷地内の、シンポジウム会場の、あのときあのときの、それぞれの方の笑顔、お声、さんざめきは、今も私の眼に、耳に、あでやかです。決して、一生、消えないと思います。
織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/ (PhotoGallary「安芸の宮島・厳島神社」)をアップしました。
小説を書くというと、よくモデルが誰かが問題になりますが、私の場合、特定の誰かに限って書いたことはありません。ただ、雰囲気とか仕種を描写するときに、あのとき、あのときの、誰それがどうだった・・・というような、それはしっかりと思い出しながら書いています。
「白拍子の風」は、私がはじめて手がけた歴史小説で、所属する短歌結社「月光の会」の同人誌『月光』に、20回にわたって連載させていただきました。中世が舞台で、白拍子という立場の女性を主人公とし、天台座主慈円とのプラトニックな恋愛が主軸に展開する物語です。
最後は筆が乗って毎月の連載になりましたが、そこに行くまで、慣れない歴史への下調べやら、取材旅行やらで、この小説にかかっていた期間は4年を優に越えています。なので、主人公の気持ちにすっかり私自身が入り込み、「慈円さま」にすっかり私も思いが入って、執筆が終わった今でも、例えば兼実とか、頼朝とか、誰々と、客観的に叙述する場合でも、慈円さまに関しては、「慈円さま」としか書けないでいます。
その慈円さまの描写に、こういう箇所がありました。
「慈円さまは、ほかにも神楽を舞うか訊ねられました。舞いませんとお答えしますと、慈円さまはふっと口許に笑みをお見せになりました。澄んだ、穢れのない、はかなくてそのまま虚空に吸い込まれて消えてしまいそうな、寄りかかろうとするとするっと向こうに突き抜けてしまいそうに透明な、かといって空虚などでは絶対にない、なにか笑みそのものが未来永劫そのときその場所に存在した記憶となって残ってゆくというような、わたくしにははじめて見る不思議な微笑でした。修行を積まれたお方の笑みというのは、このようなものなのだと思いました。」
これは、一度だけ、岡谷の照光寺の宮坂宥勝先生をお訪ねして、月輪観(がちりんかん)という朝の座禅のような観想の会に参加させていただいたときの、宮坂先生を思い出しながら書いたものです。宮坂宥勝先生といえば、ご著書もたくさんお有りになり、日本の密教界の最高権威の方。そういう方と、一度でもお目にかかることができたということは、以後の私のとても強い励みというか、心強い信念になっています。
当時、宮坂先生はご自坊の照光寺で、ご自分がご用で他県に出られない限り毎日、朝6時から有志の信者さんに対して、月輪観と法話の会を行われていました。現在、先生は京都の智積院の化主でいられ、照光寺は今ご子息の宥洪氏が継がれています。
私が訪ねさせていただいたのは、真鍋先生のご紹介でした。「空海の哲学」というカルチャーの講座のあと、それは写仏という実技の講座に変わりました。活字世界に生きたい私は、内心、なんで・・・と困り果てましたが、真鍋先生の密教世界にもっと接しさせていただいていたく、しぶしぶ受講を継続。数年近く写仏をさせていただき、時を過ごしました。
そのなかで、先生がよく、「密教は頭で理解するものでなく、体得するものです。」とおっしゃいました。「空海の哲学」という、どんなに続けても終わることがないはずの魅力的な講座をやめて、写仏に変わったのも、そうしたご意志あってのことでした。
が、どんなに写仏をしても、そんなに簡単に密教の奥義に入り込めるわけがありません。一応文章を書く文学畑の人間として、写仏だけをやっていても、何か足りない、これはまだ違う・・・という、生意気なもどかしい気持ちが湧いてくるのは当然の成り行きでした。
しばらく悶々としたあと、真鍋先生にその気持ちをぶつけてみました。「月輪観をしてみますか」と先生はおっしゃられ、東京でそれをしている道場がないか、探してくださいました。が、その当時は結局、高野山でなら行われているけれど、高輪にある東京別院にはないということに。それで、先生の師でいられる岡谷の宮坂先生のところへ紹介してくださったのでした。
早朝の会でしたから、前日に長野に入って、諏訪湖のほとりのホテルに宿をとり、その夜のうちにチェックアウトを済ませて、翌朝、まだ誰もいないホテルの暗いフロントを背に出発しました。夏の早朝の道の両側に、黄色い月見草がたくさん群れて、さわやかに風に揺らいでいるのが記憶に残っています。
月輪観というのは、禅でいう座禅ですが、禅が「無」を目指すのと対極的に、密教では「有」を志向します。目も、座禅が閉じるのと違って、半眼(はんがん)という薄開き。密教では、身体そのものが悟りの場で、それが即身成仏なのです。
たった一度の経験で偉そうなことの何もいえたものではありませんから、これ以上のことは書きませんが、その朝、宮坂先生は、はじめての私に対してみずから手の印の組み方や、観想の進め方をお話してくださいました。そのあと、信者の皆様が帰られたあとも、こちらへどうぞと畳のお部屋に通してくださって、お話を伺いました。夏の開け放された扉の向こうには、綺麗に手入れされた緑のお庭が見えていました。
「白拍子の風」に描かせていただいた、「慈円さまの微笑み」は、そのとき、宮坂先生から感じた、先生の存在感です。あの日以降、どの方にお目にかかっても、ああいう、空気のような、やわらかな、あたたかな、ほわっとした、包み込むような、優しさにくるまれるような、広大な感覚にとらわれたことはありません。梅原猛先生がご著書のなかで、宮坂先生とご一緒にある風景をご覧になったときの思い出として、同じようなことを書かれているのを拝見したことがあります。そのとき、ああ、やっぱり・・・と思ったのでした。
以来、先生の穏やかな笑みはずっと心のなかにあり、それが私の深いところの活力になっているのですが、「白拍子の風」を書いているあいだ中、慈円さまの「修行を積まれたお方」としての厳しさ・優しさ・穏やかさを書くときは、いつも宮坂先生の思い出に空気のように包まれていました。
何故、今頃、こうしたことを思い出したかというと、この「慈円さまの微笑み」について、お便りをいただいたのが、菱川善夫先生との文学的なつながりの最初だったからです。それまでは、ご講演のお姿を撮らせていただいたカメラマンという立場でした。
この文章が載った号のあと、突然、菱川先生から封書のお便りがありました。そこには、「慈円の微笑について考えています。どうしてこうもこのことに惹かれるのだろうと。不思議な微笑です・・・」というようなことが書かれていました。私は逆に、背後に宮坂先生の大きな存在があるこの箇所に惹かれてやまないという、菱川先生のご感性に感動しました。ここに着目していただけたことが、何よりも嬉しかったのでした。
その後も、菱川先生には「語録」としてまとめておきたいような、文学をする立場の者として、意義深いお言葉をたくさんいただいています。宮坂先生の思い出も、書かせていただいたらきりがありません。ほんとうに、たくさんの方のご配慮や恩恵があって、今の私があることをしみじみ思います。
小説「白拍子の風」 http://ginrei.air-nifty.com/
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昨夜は装丁家の間村俊一さんの第一句集『鶴の鬱』(角川書店)の出版記念会。飯田橋のホテル メトロポリタン エドモントが会場でした。私と間村さんの出会いは、所属している短歌結社「月光の会」を通じてです。会の同人誌『月光』の装丁を、間村さんが手がけられているご縁からでした。素敵なデザインの凝ったお年賀状に、いつも堂々とした俳句を一句載せてくださるので、間村さんが俳句をなさっていることは知っていましたが、昨夜はその全貌を拝見することのできた楽しいひとときでした。
昨夜は、この出版記念会の発起人のお一人だった菱川善夫先生の和子夫人が、わざわざ北海道から上京されて、出席されていました。菱川先生は、昨年の暮れ、間村さんの句集が刷り上がる寸前に急逝されたのでした。私は和子夫人とも少し面識がありましたので、どういうお気持ちでいられるかと心を痛めていましたが、まさか、昨夜の会においでになられるとは思ってもいませんでしたから、とても驚きました。
さすが、フランスで絵の個展をなさる方だけあって気丈でいられると感嘆しました。が、あとで直接伺ったら、「そうじゃあないんですよ。ホテルを出る二時間前まで、どうしようか、このまま帰っちゃおうかと、ベッドで寝ていました。」とのこと。いっしょに、心で泣いてしまいました。それで、今日は、菱川先生のことを書かせていただきます。
私と菱川先生の出会いは、月光の会が催した講演会に菱川先生をお迎えしたときのこと。記録係にカメラマンとして駆り出されてご挨拶したのがはじまりでした。その日の二次会で、たまたま私が山中智恵子さんの『明月記をよむ』を読んでいる話をしたら、先生が「明月記なんて読むの?」と驚かれたのです。
私は短歌世界に疎く、月光の会に入会していても、短歌とは無縁に「文学」として福島先生のフィールドに加わらせていただいているだけですから、短歌世界では神様のような存在の菱川先生を存じ上げていませんでした。それで、そのとき、何故そんなに驚かれたのか理解できませんでした。先生は国文学畑のご出身で、高名な風巻景次郎先生の門下生。評論家になる前は国文学者となることを嘱望された方だったんです。
その後、いろいろ書き残しておきたい貴重な思い出は尽きませんが、今日は現在執筆中で、この春刊行予定の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』に限って書かせていただきます。
この原稿にかかったのは、一昨年の秋ごろでした。昨年三月のある文学賞に向けて書き出したのが始まりです。が、三月になっても終わらずにしまったので、それで意を決して自費出版をという運びになったのでした。なにしろ、今年は源氏物語千年紀。せっかく源氏物語にかかわる本を出すなら、この年にと思ったのです。
この本について書きだすと長くなりますので、割愛しますが、最初はただ単に「『河内本源氏物語』校訂者の源光行を調べて書く」程度のはじまりでした。光行についてはあまりわかってなく、資料もあまりありませんし、『吾妻鏡』にもほんの数回くらい登場するだけ。これでいったい書けるのだろうかと、相当不安な出だしでした。
が、それが、意外な展開になって、なんと、『源氏物語』写本をつくった光行は、平家文化の真っただ中に生まれて育った、生粋の平家文化人だったということがわかったのです。『源氏物語』写本として、光行の『河内本源氏物語』と二大双璧を成す『青表紙本源氏物語』校訂者の藤原定家も、同様でした。二人は一歳しか違わない同時代人です。
これまで、『源氏物語』と『平家物語』はあまり関係なく、定家と光行もライバルとしてあまり仲がいいとは思われていませんでした。まして、定家は『明月記』のなかで、現実に起こっている源平の争乱は、文学者である自分とは関係ないというようなことを記していますので、定家を平家文化の人とする常識はまったくありませんでした。ただ、谷山茂氏お一人を除いて。
谷山氏は、『新古今和歌集』の妖艶美を、選者定家らが、感性の磨かれる思春期を平家文化絶頂期に育った故というご論文を発表されています。
それが、光行にも当て嵌まったのです。そして、それこそが、定家と光行の、奇しくも時を同じくして生きた二人の文学者が、『源氏物語』写本という膨大な業績を、生涯をかけて成し遂げる原動力となったのでした。
原稿の第一章でそんなことがわかってきたので、当初、本のタイトルは『平家レクイエム』と決めていました。そして、その第一章を菱川先生に送らせていただいたのが、昨年の春でした。
先生からはすぐお返事をいただきました。そこには、「驚きましたね。平家文化の余光のなかで、源氏物語と平家物語がドッキングし、定家と光行が見えない糸で結ばれて・・・」と書かれていました。
古典に関する文章を書くようになってから、私は菱川先生のご感想を戴くのがとても楽しみで、とても力強い応援になっていました。そのころまだ先生が国文学者でいられたことを存じ上げませんでしたから、どうしてこの方はこんなに国文学世界に理解があられるのだろうと不思議に思いながら。
いつもお便りは嬉しく有り難く貴重な内容でしたが、このときのご感想はなかでも特別に嬉しかったですね。とても自信になり、安堵をいただきました。なにしろ、内容は、まだどなたも書かれたことがないどころか、定家と光行が互いに反目し合っているというようなことの方が、国文学の世界では通用しているのが現状ですから。
この本が出た暁には、きっと、菱川先生が最初にどこかに取り上げて、書評をしてくださることを、私は信じていましたし、楽しみにしていました。以前にも、名もない私の「白拍子の風」という小説を、北海道の新聞のコラムに載せてくださったりしていましたので。が、先生が亡くなられて、その夢も消えました。
昨年秋、原稿のための取材で厳島神社を訪れた際、「新平家物語」という風雅な名のお菓子をみつけて、菱川先生にお送りしました。原稿が終りにさしかかっていて、刊行のめどが立ってきた報告を書き添えて。すぐにお葉書のお礼状が届きました。そこには、「必ずや詩神が天恵を与えてくれると信じています。」と書かれていました。
先生の訃報をきいてしばらく茫然自失状態が続いたあと、ふっと、先生のこのお言葉が、先生の私に対する遺言だったんでは・・・と思いました。何かを感じられて、先生は渾身の思いをこめて書いてくださったのでは・・・と。
間村さんの出版記念会でお会いして、和子夫人のそのことを申し上げてみました。すると、夫人は、「そうだと思いますよ。あのころはもう書くのも辛くなりかけてましたから、字が乱れてましたでしょ。」と。気がつかなかったのですが、訃報を知って改めてお葉書を見たときに、字が乱れていることを私も認めていました。
それからずっと、原稿を書きながらも菱川先生のことが頭にあり、過ごしていたとき、ふっと、そうだ、先生のあのお手紙を「あとがき」に載せさせていただこうと思いました。叶わなくなった先生のご書評の代わりに。そして、それに何より、先生のあのお手紙が、この本の内容を顕著にコンパクトにまとめて教えてくださっていますから。
昨夜、和子夫人にそのことを申し出てみました。「載せさせていただいていいでしょうか。」と。夫人は、「どうぞ、そうして下さい。織田さんのことは主人もいつも心にかけていましたから。」と。そして、私はそのお手紙をコピーして、和子夫人にお送りさせていただくことをお約束して別れました。
年末年始の所用以外にもいろいろあって忙しく、一月には書き上げている予定だった原稿に、今年に入ってまだ一度もとりかかっていません。このままでは、標榜している「春刊行」も危うくなりそう。でも、昨夜和子夫人にお目にかかったのを機に、また原稿世界に戻ることにします。ご訃報に接しても、泣いたり涙を流したりする悲しみよりは、呆然自失状態でした。昨夜、和子夫人にお目にかかったら、突然涙が溢れて困りました。和子夫人の方が気丈でいられるのに・・・。菱川善夫先生のご冥福を心からお祈り申し上げてやみません。
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三宅先生の経塚研究のご業績を書いたら、拝読中の山中裕先生『藤原道長』が、ちょうど道長の金峯山詣での項にさしかかり、このことを書いておきたくなりました。
仏教を詳しく学ぶまでは、たぶん、経石を見て敬虔な気持ちになるなどなかったと思います。地中に埋められた、経文の書かれた石なんて、神々しいよりはむしろおどろおどろしいものとして、不気味に思えたことでしょう。
けれど、経典の意味を知り、歴史を知って、経石に対したとき、それは、不思議というか、感動以外のなにものでもありませんでした。出土遺物としての分析のためというよりは、むしろ、自分の感動のために、純粋に、ひたすら純粋に、経石を手のひらに乗せて、何度眺めたでしょう。なにしろ、石は我が家にあり、2500個の経石の、分断され、ばらばらにされた経文の復元は、私ひとりの手に委ねられていたのです。左にコピーした法華経を置き、右手でつかんだ経石の経文が、法華経のどの部分にあたるか・・・、ひたすら石に書かれた経文の断片を頭に浮かべ、ぶつぶつと口で唱えながら、照合し続けました。
この経石を担当させていただけると決まったとき、経石だけでなく、埋経という世界を知ろうと、図書館でその分野の本を探して、参考にさせていただいた中に、三宅先生の『経塚論考(コウは別の漢字ですが・・・)』がありました。
ちょうど、そのころ、三宅先生が、たしか群馬県立博物館だったと思いますが、講演されることを知り、伺いました。展示は道長の経筒世界で、そこではじめて道長の経筒や中宮彰子の経箱を知ったのです。
寛弘四年(1007)、道長は金峯山に詣でて、そこに自筆の法華経などを収めた金銅製の経筒を埋めて帰ります。それが江戸時代に発掘されたために、私たちが現在、博物館の展示で見ることができるのです。そこには、道長の名とともに、寛弘四年の文字が彫られています。これが、発掘された経筒では最古のものとされていますが、とても大きく、立派さにおいても、その後の他の経筒をはるかに凌いでいます。
九条兼実の経塚について書きましたが、経筒や経塚は、優雅な貴族世界のものです。財力に任せて立派な鋳物製の経筒をつくり、華々しい儀式とともに、経塚として地中に埋める・・・。そこには、宇治平等院鳳凰堂の絢爛豪華な内部空間につうじる、きらびやかな世界が繰り広げられています。
それに比して、経石は、ただの石に経文を書いたものですから、どこにも色からして「金」の存在はなく、経文の価値を知らなければ、地味を通り越して不気味です。それもそのはず、経石は、経文を地中に埋めるという貴族世界の風習が、民間におりてきたもので、財力がないから石を用いただけのもの。根底にある思いは同じです。すなわち、経典に対する敬虔さ。末法の世となった現世から救われたいという祈りの思いは・・・
源氏物語に心酔している私は、道長の経筒によって埋経世界の華麗さに目覚め、経石の分類に携わっているあいだ中、心のなかは仏教世界の黄金色に彩られてゆたかでした。
三宅先生が繰り広げられた埋経世界のゆたかさ、山中先生の道長・・・を知らずに、たんに石としての経石を見る人と、知って見る人の違いを、すんでのところで「知らないで見る人」だった私としては、「知る」ことの限りないゆたかさに驚異を覚えてやみません。
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遺跡発掘調査の仕事に従事していたとき、経石という、地中に埋められたお経の書かれた石の出土に立ち会いました。そのときはまだ三鷹市の現場にいて、経石が出土したのは立川市にある寺院でしたから、知り合いの調査員が調査団長を務めていられた関係で、見学させていただいたのでした。柱跡という、柱があった跡の遺構の底に経石はあって、まだ発掘されたままの状態でそれを見たときは、不思議な感慨に目が釘付けになりました。
三鷹市の現場が終わったとき、その調査員の方が、「うちに来ないか?」と誘ってくださいました。それは日野市にある遺跡でした。その方にとって日野市の現場がメインで、掛け持ちで立川市の寺院現場も持っていられたのでした。
私は、経石の担当をさせていただきたいと、かねがね思っていましたから、誘っていただいたのを機に、申し出てみました。三鷹市の現場にいるあいだ、ずっと「狙って」いて、まだ経石の調査がはじまっていないとの情報は、それとなくチェックしていましたので。それで、「もし、まだ、担当が誰にも決まってなかったら、させて・・・」というと、「考えてみる」とその方は答え、じきに、「頼むよ」という了解のお電話をいただきました。
そうしたら、それからが大変。まだ正式に契約もしていないのに、突然、家に、二千五百個の経石が運び込まれたのです。出土した個体の全部です。遺跡発掘調査の際に出土した遺物は、テンバコという灰色の専用の箱にとりあえず詰め込まれます。そのテンバコにして幾つだったでしょう、20箱だったか30箱だったか、はっきり覚えていないのですが、とにかく食堂にしている部屋の半分が埋まりました。まるで、工場か何かの作業現場みたいな部屋になりました。そうして我が家では半年、経石の山に囲まれて、一家団欒の食事をしていました。現場の事務所に通ってでは、とうてい経石の分類調査をする時間が足りません。苦肉の策というか、それは最良の方法でした。
分類とは、ばらばらになった経文を元通りにつなげて、何のお経が書かれているかを判明させる作業です。立川市の寺院が臨済宗だったので、まず、華厳宗ではないかと見当とつけました。それで図書館で華厳宗をコピーしてきて手元に置き、石に書かれた経文と一致する部分がないか、調べました。が、どうしても、みつかりません。一週間ほどやったでしょうか。これは違うと見極めて、次の経典へ移ることにしました。
そうしたら、次はもう法華経に決まっています。また図書館へいって、今度は法華経をコピーして来ました。法華経にも訳者によって種類がありますので、直感で鳩摩羅汁訳を選びました。これが正解で、じきに、経典の部分と、石に書かれた部分との一致する文言が次々とみつかっていきました。そうして、二千五百個全部の経文を、経典通りに並べる作業が半年続き、終了しました。ほんとうに、寝ても覚めても、頭のなかは経文だけという半年でした。
その分類調査の結果を調査報告書に仕上げたとき、私は、調査の段階で参考にさせていただき、大いに役立たせていただいた経塚研究の第一人者でいられる三宅敏之先生に、その報告書を送らせていただきました。すぐに三宅先生はお便りをくださって、「よくできている」と、喜んでいられることを書いてくださいました。それから、時々、先生から発表されたご文章のコピーを送っていただくようになりました。
私が、先日このブログに書いた「冷泉為相と武州金沢称名寺」の抜刷を送らせていただいたときも、「分野が違うので興味深く読ませていただきました」と、すぐにお返事をいただきました。そのとき、「称名寺のなかにも経塚があるのをご存じですか」と、それについて書かれたご論考を教えていただいたりしました。
あるとき、「経塚の発生と展開―藤原道長と彰子を中心として―」と題するご講演のコピーを送っていただいたご封書のなかに、竹の皮に包まれた香木が入っていて、「つれづれにでもどうぞ。比較的すずしい方のお香です」とありました。東京国立博物館次長を務めていられた方の風雅というものを垣間見る思いがして、とても嬉しかった思い出です。
「北条実時と『異本紫明抄』」にとりかかったとき、まだ三宅先生はご存命でした。為相の論文であれだけ喜んでくださったのだから・・・と、私はまた送らせていただくのを楽しみにしていました。が、刊行なったとき、三宅先生はすでに他界されていました。
一昨日、桑山先生のことを書いていたら、三宅先生のことが思い出され、書いておきたくなりました。三宅先生には、ご著書や数々のご論考で、経塚について、ほんとうにたくさん教えていただきました。道長が金峯山に埋めた経筒も、博物館で見るたびに、三宅先生のことを思わないときはありません。
三宅先生が書かれた経塚の数々あるなかで、これだけはと思うことを一つ書かせていただきます。それは、九条兼実が姉の崇徳天皇中宮皇嘉門院聖子の菩提を弔うために築いた経塚であろうという経塚があること。それは、京都市伏見区稲荷山経塚で、副葬品の華麗さ、女性らしさから、そう考えられるのだそうです。その副葬品が、現在、上野の東京国立博物館の考古学展示室へ行くと、見ることができるのです。行かれたら、是非ご覧になってください。経塚のコーナーのメインの展示として、正面に広く場所をとって展示されているので、すぐわかります。
立川市出土の経石の写真は、もう一つのブログ【ゆりこの銀嶺日誌】の「文化・芸術」カテゴリーにあります。 http://ginrei.air-nifty.com/ginrei/
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記憶って忘れていたと思っても、ふとしたきっかけでそのシッポをつかむと、映画のスクリーンに映し出される世界のように、そのときのことが甦りますね。なんで、こんなに広い世界を忘れていることができたのかしらと、不思議に思うくらいに。
昨日、桑山先生に「北条実時と『異本紫明抄』」を読んでいただくことが叶わなかったあたりを書いていたら、この論文について、あまり説明していなかったことに気がつきました。これは私がこれから書いていく上で、テーマ的にも、領域としても、ほぼターニングポイントとなっている論文なのに、です。
なぜ、この論文を仕上げることになったのかをいうと、話はまた宇都宮歌壇を調べていたことに遡ります。私自身忘れていたり、こんぐらかってしまっていたりしますので、一度整理してみますね。
まず、ほんとうの最初は、「寺院揺曳」というエッセイを書いたこと。そこで、藤原定家の孫の冷泉為相が、じつは神奈川県立金沢文庫がある称名寺を訪ねていたのでは・・・という興味深い事象に巡りあい、可否を実証しようとしたことが、そもそもの発端です。
歌人で名高い定家ですが、もちろん、定家自身が関東に下ったことはありません。が、その息の為家は、宇都宮歌壇中の人物の娘と結婚していて、関東と縁が深く、嫡子二条為氏は鎌倉に下って暮していましたし、宇都宮にも訪れています。為家自身も一度、鎌倉を訪れたことがあります。
余談になりますが、そのとき寄宿した先は、昨日話題にあげた飛鳥井雅経の息で、北条実時の娘婿となる雅有の父の、飛鳥井教定邸ではなかったか・・・とは、私の推測です。新古今歌人として仲のよかった定家と雅経の息子同士、馴染みでしたから。
冷泉為相は、為家の後妻の阿仏尼とのあいだにできた子です。為氏は宇都宮氏の娘が母。為家亡きあと、阿仏尼が『十六夜日記』の旅をして鎌倉に下ったのは、相続争いの訴訟のためでした。為相が晩年の子だったために、心配した為家は、一度為氏に譲った荘園を、為相の相続に変えるのです。一旦は承諾した為氏ですが、為家が亡くなるとそれを守らず、そのために阿仏尼が鎌倉に直訴に赴いたという事情です。
私はあまりこういうあたりに興味がありませんので、詳細は割愛させていただいて、その為相と称名寺の関係に話を移します。
謡曲「青葉の楓」に、為相が称名寺を訪れたことが描かれています。紅葉しない楓を見て、旅の僧が不思議に思って訊くと、為相に褒められたことがあるので、それを誇りに、以来紅葉するのを止めたと、楓の精が答えたという話です。従来、それはあまりに突拍子もない話として、単なる伝承に過ぎないとされていました。
ですけれど、宇都宮氏と縁戚関係をもった御子左家ですから、ありえないことではないとの予測で、私はそれを実証する一文をしたためました。それは「冷泉為相と武州金沢称名寺」としてまとまり、『歴史と文化』第3号に載せていただきました。「論文を書いてみませんか」と、高橋文二先生が書く機会をくださったのでした。そのときは研究ノートとされてしまいましたが、高橋先生は、「あれで、いいんです。国文学としては十分に論文になっています」といってくださいました。金沢文庫の学芸員の方からも、納得のご感想をいただいています。
それを調べているなかで、『異本紫明抄』という源氏物語の注釈書の著者に、宇都宮時朝と北条実時のどちらかという、二つの説があるのを知りました。宇都宮氏関係の書籍を調べていましたから、時朝説が大きくとりあげられているなかに、小さく「実時説もある」という一行をみつけたのです。これは私には青天の霹靂で、はじめて知る世界。興味をもったのですが、金沢文庫ではあまり問題になっていなくて、「北条実時」展の図録でも、「『異本紫明抄』の著者という説もある」程度のご紹介。こんな偉大な業績が、ほんとうに実時のものかを確かめる人はまだいられなかったのです。
金沢文庫長でいらした真鍋俊照先生が、ご還暦記念の論集をだされるときに、私にも「書いてみませんか」とお誘いくださいました。それで、金沢文庫にもっともふさわしい題材として、実時説を実証してみようと思い立ったのです。先生は、「いいね・・・」とおっしゃって、楽しみにしてくださいました。
『異本紫明抄』の原本の一つは、宮内庁書陵部にありました。いつも同じことを繰り返しますが、私は人文系の学問を修めていませんので、古文書の扱いについても学んでいません。それで、その方面のことからは距離を置いていましたが、論文を書くとなれば、そうもいっていられません。奇しくも、「勘仲記を読む会」に書陵部に勤務される方がいらして、意を決して、「私でも拝見できるのでしょうか」と伺いました。その方に閲覧の仕方等を教えていただいて、半日、書陵部の隅にこもって、必要ページをマークし、コピーを依頼して、そのうちの四枚を論文とともに、真鍋先生の記念論集に載せたのでした。書陵部勤務の方は、歴史学の方ですから、『異本紫明抄』をちらっとご覧になって、「これのどこが面白いのか、理解できない」と笑ってられましたが。
長くなりましたが、流れを整理すると、「寺院揺曳」で為相を調べた→そのとき宇都宮氏を調べる中で、『異本紫明抄』の著者に実時説があるのを知った→それをテーマに調べて書いた→「北条実時と『異本紫明抄』」としてまとまった、となります。これは、真鍋俊照先生の『仏教美術と歴史文化』(法蔵館)に収めていただいています。2005年秋刊行です。
それからが今になるのですが、実時と源氏物語の関係に興味が深まって、最初は、中世の「源氏のひじり」と呼ばれた実時の娘婿の雅有を、その後、実時書写の『尾州家河内本源氏物語』をと関心を抱いていって、とうとう、源氏物語の写本世界、源光行・親行親子校訂になる『河内本源氏物語』についての考察を、この春、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』を上梓する運びとなり、それらのためにこのブログをはじめたのでした。
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「勘仲記を読む会」には桑山浩然先生がいられて、峰岸先生からこの会のお誘いを受けたとき、「浩然なんてお坊さんみたいな名前だけど、そうじゃないんですよ。紹介しますから・・・」と、何度かいわれました。東大史料編纂所を経られて、お会いしたときは国士舘大学の教授でいられました。
じつは、私はそのころ「歌人瓔珞」と題するエッセイに挑戦していて、そこで飛鳥井雅経について調べて書いていました。雅経は藤原定家とならぶ新古今歌人の代表的存在です。人文系の出身でない私には、雅経にたいする事前の知識はそれだけでした。
何故、雅経をというと、ゆくゆく孫の飛鳥井雅有が、鎌倉で北条実時の娘婿となって、『尾州家河内本源氏物語』が成立する発端の存在になるからです。飛鳥井家は京都の家系なのに、何故、そんな人物が金沢文庫のゆかりの人に・・・?というのが書こうと思った動機でした。それで、雅有が何故鎌倉にいたかを探っていったら、淵源は祖父の雅経までさかのぼったという次第です。
雅経は、父頼経が義経に加担した罪で頼朝の逆鱗に触れ、伊豆に流罪になった事情で、自身も鎌倉に下向するはめになったのでした。鎌倉では頼朝の信頼を得て、頼家に蹴鞠を教えていました。そう、飛鳥井家は蹴鞠の家だったのです。雅経は好青年だったらしく、大江広元女と結婚して不自由なく活動していました。
そのあたりを書き込んでまとめた原稿を、峰岸先生に見ていただいていたので、峰岸先生は私に桑山先生をご紹介してくださろうとなさっていたのです。桑山先生に『蹴鞠の研究』という、とても大部の貴重なご著書がお有りになるので。
私はといえば、雅有を調べたときに、そこに蹴鞠についてもかなり詳細に載っていたために、『蹴鞠の研究』を知らずにいました。それで、会に参加させていただいて、桑山先生とかなり親しくお話させていただくことになっても、蹴鞠について伺うこともなく過ぎていました。気がついたのは、だいぶたってから。その日の会が終わって、喫茶店でお話をしているなかで、たぶん、私が雅経の原稿について話したからだと思いますが、「私も以前、蹴鞠について書いたことがあるんですよ」とおっしゃられて、その本のことを教えてくださったのでした。
驚いて、すぐ国会図書館へ行って、拝見。コピーさせていただきました。それを知ってから雅有のときの資料に戻って改めて見ると、その方の参考文献に桑山先生の『蹴鞠の研究』が、しっかりと挙げられていました。峰岸先生は、宇都宮歌壇のときと同様に、すべてお見通しで本をお貸しくださったり、桑山先生を紹介してくださったりしていられるのですが、歴史の分野に足を踏み入れて日の浅い私には、峰岸先生がしてくださることの意味に気づくのが、だいぶ後になってからばかりです。
「勘仲記の会」での桑山先生のご指導は、私にはとても得難い経験でした。『勘仲記』は勘解由小路兼仲という、鷹司兼平に仕えていた中世のお公家さんの日記です。ですので、儀式などの次第の流れが綿密に書かれています。が、名詞が羅列されているだけの漢文では、よほど状況を頭に描いて読まないと、そのときの人物の作業動線など思い浮かびません。桑山先生はそのあたりの曖昧を許されないのでした。担当の発表者がちょっとでも曖昧だと、鋭くそこをついて、徹底的に解明までもっていかれるのです。中世のお公家さんの日記は、こう読むのだということを、そこで私も徹底して教えていただきました。
桑山先生との思い出を一つ書かせていただきます。それは、日記に「出衣(いだしぎぬ)」の記事があり、国文学でなら周知のこの言葉が、歴史学の院生さんたちには馴染みがなかったらしく、しばらく討議になりました。それで私は百聞は一見に如かずの思いで、翌月の会に『紫式部日記絵詞』から、その部分をコピーして持っていきました。すると、桑山先生は、「この絵巻の成立はいつですか?」と言われたのです。史料として正確かどうかと問われたのです。どきっとしました。
『源氏物語絵巻』の成立は白河院の時代ということはわかっていました。が、『紫式部日記絵詞』は時代がくだって、鎌倉時代の成立かも・・・と、漠然としかわかっていなかったことに、そのとき気づきました。
家に帰って、そのあたりを調べ、そうして、天福元年に藤原定家が後堀河院のもとで各種絵巻の制作にあたったことが『明月記』に書かれていて、現存の『紫式部日記絵詞』もそのときのものではないかと思われるという、国文学での論考部分をコピーして、桑山先生に送らせていただきました。
先生からはすぐにメールでお返事がきて、「大変面白かった。ほんとにこれがほんとうかなあと疑いたくなるほど面白かったです」というような内容でした。冷静でシビアでいられる先生のうきうきしたお心が届くようなメールに、思わずこちらまで楽しくなったのでした。
桑山先生は、まもなく足を痛められ、入院されたりしていましたが、原因がわからないまま悪化。佐藤和彦先生より一年早く亡くなられました。私の「北条実時と『異本紫明抄』」が活字になったとき、先生はもう会にお見えになることができなくなっていて、それからまもなくのことでした。
ご葬儀のあと、気落ちされている峰岸先生に、こんなことがありましたと、「出衣」の一件をお伝えすると同時に、同じコピーを送らせていただき、桑山先生のメールを添付させていただきました。峰岸先生からも、メールで、「桑山メール、しみじみ拝見。それにしても、国文学者の想像力に脱帽。たったの『明月記』の記事から、これだけのことを推測するとは・・・」といただきました。
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去年一年、『紫文幻想』の執筆にかかり切ったためか、思考がまるで断層ができたかのように、間がかくんと欠けていて、一昨年までの流れと今とがうまくつながりません。9日のページに宇都宮歌壇について峰岸先生にご教示いただいたと記しながら、ふと、先生とのご縁のはじまりは何だったかしらと考えて、しばらく思い出せませんでした。私にとってはとても大切な思い出だったはずなのに。
それで、少し、そんなあたりを考えていて、宇都宮歌壇について書かれている『宇都宮市史』を貸していただいたのはあのときだったし、それは、山梨にある帝京大研究所でのシンポジウムのあとで・・・、とたぐっていったら、思い出しました!! そうしたら、突然、どうして今までこんな大変なことを忘れていられたのだろうと思う世界が、みるみる広がったのです。少し、そのあたりを書いておこうと思います。
それは、「寺院揺曳」という、鎌倉のとあるまぼろしの廃寺をめぐっての随想を、所属している短歌結社の同人誌に連載していたときのこと。鎌倉の笹目という地にかつてあった佐々目遺身院という寺院をめぐっての随想でした。そのなかで、『親玄僧正日記』が必要になり、ネットで検索すると金沢文庫の図書館にあることがわかり、赴いてコピーしてきたのでした。
その日記の翻刻をされたメンバーの一員でいられたのが、峰岸純夫先生と佐藤和彦先生でした。私はそれをかなり活用、引用させていただいたので、解釈に対する心配もあり、連載のそこまでの部分の原稿コピーをお二人に送らせていただいたのでした。それまで何の面識もなかったのですが。それで、かなり、恐る恐る・・・
佐藤先生からはご丁寧な封書のお便りをいただきました。誤りを正してくださった部分には、思わず背中に冷水を浴びせられたような厳しさを覚えました。が、お手紙そのものの内容は、連載を続けていく上でとても勇気づけられた嬉しいものでした。その後、「勘仲記を読む会」で毎月お目にかかるようになり、緊張が解けて打ち解けることができたころ、「お手紙にはさっと青ざめたんですよ・・・」と申しあげると、先生はにこにこされて、「いやいやいや・・・」と笑っていられました。厳しさと優しさの相反する両面を際立ってお持ちの方でいられました。
峰岸先生は、読まれたその直後のような勢いで、原稿が届いてすぐの日に、お電話をいただいたのでした。
「織田さん?」と、それは始まり、「峰岸だけど・・・」と唐突にいわれても、まさかお電話をいただくなんて思っていなかった私は、すぐには理解できませんでした。そのお電話のなかで、帝京大研究所でシンポジウムがあることを教えていただいて参加し、宇都宮歌壇を教えてくださるために、『栃木県史』を貸してくださり、それから、中世のお公家さんの日記の『勘仲記』の翻刻をされている会に誘ってくださり、その「勘仲記を読む会」に行ったら、そこに佐藤和彦先生もいらして・・・、というふうにつながっていったのでした。
何故、唐突に宇都宮歌壇になったかを、やっと今、思い出しましたが、連載のなかで、蓮性という宇都宮歌壇中の人物に触れて書いていたからでした。
いわゆる鎌倉といって思い浮かぶのは、ふつうには、頼朝、義経、または実朝、あるいは北条氏の誰彼・・・、御家人の誰々でしょう。けれど、私の連載の登場人物は、前半の佐々目遺身院関係では、頼助に益性法親王。後半は冷泉為相に、蓮性、夢窓疎石に高峰顕日。そして、京極為兼・・・。これらの人々は、全部、鎌倉にいて、鎌倉で活動されていたんです。このあまりに知られていない世界が、探れば探るほど面白くなって、連載は21回になりました。
途中、例えば、金沢文庫当主の北条貞顕が、どうしても冷泉為相と会っているとしか思えない状況が浮かび上がって驚いたり・・・。これは金沢文庫関係の方でも初耳のようで、関係者の方から、「ほんとうに会っていたのかなあ」と言われたりしました。為相は、訴訟で鎌倉に下向した阿仏尼息。阿仏尼は願い叶わず鎌倉で亡くなりますが、その後鎌倉に住んで「藤ヶ谷殿」と呼ばれていた為相は訴訟を勝ち取ります。そのときの幕府内での訴訟担当が貞顕だったというわけです。
京極為兼は、京極派歌人のリーダーで、岩佐美代子先生のご研究で知られています。私も岩佐先生のご著書ですっかり為兼のフアンになった一人ですが、その為兼が『親玄僧正日記』の親玄と交流があったらしく、為相→為兼→親玄の流れでたどっていったのでした。日記に、少しでも為兼の痕跡がないかと期待して・・・。
そうしたら、なんと、日記の最初のページに為兼の記事が。驚いて、引用させていただき・・・と、ほんとうに日記を活用させていただきました。この日記の為兼の部分は、この時点でまだ国文学の領域では知られていませんでした。だから、この連載が終了した時点で出版していたら、新資料として岩佐先生にご貢献できたのですが・・・
そのとき、ミネルバ書房で人物叢書の企画が進行していて、第一回配本が今井明先生の『京極為兼』でした。興味をもって、発刊するとすぐ購入して拝読したら、さすが、歴史学の方でいられるだけあって、『親玄僧正日記』の件はしっかり書かれていました。
そんなふうに、「寺院揺曳―まぼろしの廃寺を訪ねて・鎌倉佐々目遺身院―」という随想には、たくさんの思い出と、結構新発見と自負できる事柄が詰まっています。連載が終わったとき、幾人かの方に、「本にしたら」と言っていただきましたが、実現しませんでした。勝手放題に書いたものなので、テーマが分散してまとまっていませんので、整理していつかと思っていました。
今回、思い出したのを機に、ホームページに連載しようと思いました。昨日、終日かかって第一回をアップしました。最終回の21回まで、折を見つつ載せていくことにします。
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昨日、吾妻鏡の会の帰り、駅の構内に書店があったので入りました。知らない街の書店て、入ると楽しいですよね。行き慣れたお店と違う棚の配置なので、ふっと、思わぬ見つけものをすることがあって。もっとも昨日の収穫は、ふだん行きつけの書店でも手にしたでしょう新刊でしたが・・・
それは、山中裕先生の『藤原道長』。2008年1月1日発刊の、ほんとうに新年早々できたてほやほやのご著書でした。今年の幸先はいいなあと悦にいって購入しました。でも、驚きました。山中先生が吉川弘文館のこの人物叢書にまだ道長を書いてらっしゃらなかったなんて、と。目にしてはいないけれど、当然、もうあってしかるべき・・・と思っていました。
まだ最初しか読んでいませんが、道長について書かれていた部分に、心が広がる思いをしたので、そこを引用させていただきます。
「道長は決してあせらず、強硬なこともせず、人の気持ちを充分に考慮に入れながら事を運んでいく。ここに平和な文化の華がひらき、女流作家たちが続出したのも、道長が最高の地位に就いてよき政治を行っていたからということができよう。道長の人物の賜物によるものであった。」
そうなんですね。ほんと、ここ、感動しました。たしかに紫式部は偉いけれど、道長という大きな懐、土壌、あってのことでした。
いいなあ、早く、私も、そんな懐、土壌のなかに入りたい・・・とは内心の呟き。でも、いいんです。私にも近々、『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』が生まれます。ここにくるまで、たぶん、道長のようなたった一人ではないけれど、分散して、とてもたくさんの方々の恩恵があったことは確かです。感謝!!です。
昨日書いた、吾妻鏡の会にお誘いくださった峰岸純夫先生はそのお一人で、峰岸先生に宇都宮歌壇についてご教示いただいたことから、鎌倉歌壇に目がいき、そこから河内本源氏物語の源光行に関心が広がったのでした。
峰岸先生は、同じ人物叢書に『新田義貞』を書いていられます。そのなかで、私が撮った稲村ケ崎の写真を使っていただいていますので、書店とかでこの本を手にとられたら、ご覧になってください。ほんとうは、その写真には、峰岸先生も写っているんですが、「編集者にカットされてしまった」そうです。新田義貞の鎌倉攻めが可能だったのは引き潮だったからということで、先生に引き潮のときに案内していただいたときのものです。
この人物叢書には、一昨年亡くなられた佐藤和彦先生も『楠正成』を書かれる予定でした。なんでも網野善彦先生が書かれる予定をされていたところ、亡くなられたので、佐藤先生が引き継がれたとか・・・。
私は、個人的に、先生から正成論を伺って、早くご本にしてくださいと、よくお願いしていたのですが、にこにこと、まあまあ、などといって延ばしてられました。そのころは峰岸先生もまだ新田義貞にとりかかっていられなくて、お二人でお互いを見合って冗談を言い合ってらっしゃったのですが、さすが、峰岸先生が『新田義貞』を刊行されてからは本気になられたようでした。
私は歴史学は専門でないので、どこか間違っているかもしれませんが、ここは個人的に伺っての私なりの受け止めた内容ですので、違っていたら許してください。佐藤先生の人物叢書にこだわるのには、私なりの理由があって、今思うと、それは『楠正成』でなく、『足利尊氏』を書かれようとなさっていたのだ思いますが、先生はその下準備にご旅行にでられて、どこかのお墓を検証なさってこられ、「これで確信がつかめた・・・」と、そのお墓の写真をコピーして見せてくださったことがあるのです。
それからまもなく先生は急逝され、ご本の完成は永久に見ることができなくなりました。先日、年末の片付けものをしていたら、思いがけなく、佐藤先生にいただいたそのときのお墓の写真のコピーがでてきて、「これは、佐藤先生が独自に解釈、あるいは発見なさったお墓なのに、この論考はどなたが継いで書かれるのだろう・・・」と、ふっと、この件を、どなたか別の学者さんがご存じで書かれることもあるのかしらなどと、思ってしまいました。私みたいな素人の門外漢の口をだすことではないことと思い、このコピーのことは秘めておこうと思っていたのですが、思いがけず、新年早々、山中裕先生の人物叢書『藤原道長』に接して、思念が幾層にも広がってしまいました。
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年が明けて、今日からやっと普通の生活になります。というのも、昨日7日は参加している「吾妻鏡を読む会」の一月例会で、なんと、年明け早々、私が発表担当だったのです。それで、お正月休み返上で、そのためのレジュメ作りに図書館へ行ったりと奔走しました。テキストは木版印刷の寛永本です。担当は二回目で、前回は石橋山合戦のところでした。
この会は、一昨年急逝された佐藤和彦先生が講師をされていた「古文書を読む会」を継承したもので、突如佐藤先生を失って呆然としていた会員の方が、佐藤先生のご葬儀に弔辞を読まれた峰岸純夫先生に、講師として来てくださるようお願いしてできたもの。
佐藤先生のときは、毎回先生が古文書を一通用意してらして、それを読み解く会だったそうですが、峰岸先生になってから、吾妻鏡を読む会になりました。私は峰岸先生にお誘いいただいて参加。お陰で、吾妻鏡を最初から読むという、滅多に遭遇することのない得難い体験をさせていただいています。まだはじまったばかりなので、頼朝が旗揚げしたあたりの治承4年の条を読んでいます。
昨日の担当箇所は、10月13日・14日の条。甲斐武田の人たちが駿河にでて、目代の橘遠茂軍を滅ぼすところ。源氏物語世界に心酔して過ごしたい私には、まったくもって縁のない、どちらかといえば見たくもない野蛮な世界です。戦でも、せめて頼朝とか、維盛とかならともかく・・・ですよね。
武田氏といっても、風林火山の信玄の時代をずっと遡った、いわば武田氏の祖というべき人たち。吾妻鏡のなかでもあまり重要事項でない条なので、調べてもほとんど資料がなく、最後はインターネットを駆使してのレジュメ作りとなりました。
ショックだったのは、13・14日の両隣の条が鎌倉の頼朝関係だったこと。前の人が担当された12日条は、「頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所の小林郷北山に遷したてまつった」ところ。そして、次の人の15日条が「頼朝がはじめて鎌倉に入り」、16日に「頼朝の御願として、鶴岡八幡宮若宮で長日の勤行をはじめた」という内容。私のところだけ、優美とか気品からほど遠い、甲斐武田氏の駿河での戦闘なのです。鎌倉を信奉する私としては、鶴岡八幡宮の由来となる発端のところを担当したかったなあ・・・と、思ってしまいました。(でも、忙しいお正月に、そんな重要箇所を調べだしたらキリがなかったでしょうから、助かったのは事実ですが。)
昨日は、16日の「鶴岡若宮において長日の勤行を始めらる」とある、その若宮が問題となりました。現在の境内に「若宮」があるからです。勤行はその若宮で行われたのかしら・・・という疑問がとびだし、まさか・・・と否定しながら、明確に本宮と若宮を区別して説明できずに、曖昧なままになってしまいました。
それで、今朝、調べました。結果をメモっておきますね。
鶴岡八幡宮は、もともとは源頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ガ浜に勧進したもの。それを、頼朝が現在の場所に移したのでした。境内には上宮と下宮があり、上宮が脇に大きな銀杏の樹がある石段をのぼっていた先にある本宮。下宮はその石段の下の舞殿の脇の現在の若宮です。
若宮には二通りの意味があり、ひとつは「本宮の分社」。もうひとつは「祭神が本宮の祭神の子だから」。なので、16日の「鶴岡若宮」は、「石清水八幡宮の分社たる鶴岡八幡宮」の意味で、現在の建物でいうと石段の上の本宮でのこととなりました。
今日から普通の生活に入るので、このブログを「日々の記録」として、できるだけ毎日更新していこうと決意しました。書いておきたいことがなくても、一行でも・・・の気持ちで取り組んでいきたいと思います。
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あけましておめでとうございます。昨年夏に、執筆中の原稿の書き直しに入ってブログの更新を中断していたら、予定外に長引いて、年が明けてしまいました。その間、いろいろあって、途中経過を書いておきたく思っても、あまりに多様すぎてまとまらず、原稿の執筆と、この原稿の将来へ向けての算段とに明け暮れました。やっと、なんとか落ち着いて、ここにまとめてご報告させていただきます。
まず、今年、執筆していた原稿を、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』と題して上梓します。ほんとうは昨年夏に刊行して、秋からはそれを手に普及活動にまわっているはずだったのですが、思いがけず書き直すはめになり、今もまだ終わらずに、「この春」刊行がめどです。でも、その分、とても中身が濃くなり充実しました。
今年2008年は、紫式部が源氏物語を完成させて千年の記念の年です。昨年あたりから、主に京都で、秋以降からは東京でも、【千年紀】に向けての記念行事が行われるようになりました。私の本もその関連です。テーマは従来もっていたのですが、千年紀を知って、自分のなかでタイムリミットが定まりました。でも、私は、どこにも、どの分野にも所属しない、いわば一匹狼ですので、孤軍奮闘するしかありません。それで、このブログを立上げて準備に入り、暮れに「織田百合子のOfficial Website」を立ち上げてこの本の基地を作り・・・といった作業をしています。「売る」ためではありません。源氏物語の歴史の真実の姿を知っていただくための普及です。
出版は一度経験しているので、今回は結構冷めています。そして、内容も、前回は小説だったのが、今回は学術的内容。なので、本の普及には違いがあります。前回は一冊でも多くの人に手にして頂く、「買って」頂くことが至上命令でした。が、今回は、出版社をとおしていませんし、源氏物語についての理解のための普及ですから、何が何でも「売る」必要がありません。それどころか、この世界を理解されることのない「義理」での購入に媚びる気持もないのです。わかっていただく方が手にとって下さるまで、いつまでも家に「在庫」として積んでいきたいと思います。「作者がこの世にいなくなった百年後の人たちのためにもある本」だから・・・。(このセリフは、原稿を見ていただいた方に頂きました。)
本の内容ですが、源氏物語写本といっても、一般の方には馴染みがないでしょう。私も最初はそうでした。それが何故か本をだすまでに嵌ったのには、長~い歴史があります。考えてみると、ここに来るべくして来たのです。
源氏物語は高校生のときに与謝野晶子訳で親しんでいました。大学は国文科に進みたかったのですが、家の事情で写真大学に行き、卒業後はカメラマンとなってかけ回り、文学とかけ離れた生活になりました。源氏物語の世界に帰ったのは、仕事をやめて家にいたとき、新聞に駒澤大学の公開講座の案内を見てでかけたのがきっかけ。高橋文二先生の「橋姫」巻だったと思います。拝聴して、この先生のお講義をもっと聴きたいと思った私は、意を決して、ご講演の終了後、先生のところまで赴いて、「どこかのカルチュアーで教えてらっしゃいませんか?」とお訊ねしたのでした。そうして教えていただいた八王子そごうの友の会の教室に通うようになり、それから教室は京王プラザホテルに移り、と変遷はありましたが、かれこれ三十年近く、高橋先生の源氏物語を拝聴させていただいています。
高橋先生のお話が楽しいのは、受講生が主婦ばかりというのに、そんなことには一切無頓着に専門のお話を深めてくださること。そこで、何回か、古注釈の『河海抄』とか『湖月抄』とかの名を耳にしました。最初はなんのことかわかりませんでしたが、いつかしら、耳に滲みついて馴染みとなり、そんなことが、今回の上梓の根本になっています。
もう一つのご縁は、神奈川県立金沢文庫長でいらした真鍋俊照先生です。最初、文学を志す者として、私も一応小説家を志しました。それで、一冊本を出すまでにはなりましたが、現代小説の世界にはとてもついていけず、挫折。精神的に立ち直れなくなって、救いを求めて飛び込んだのが、真鍋俊照先生の「密教」の教室でした。NHK文化センターでのことです。そこで数年、空海の哲学と、実際にその教義を身につけるための写仏とをお習いしました。何故、真鍋先生の教室を選ばせていただいたかというと、私は森敦先生の小説の大フアンで、森先生の『マンダラ紀行』というご著書に真鍋先生のことが書かれていたからです。森先生が高野山を訪ねられたときのことです。その部分を引用してみますね。私にも懐かしい章です。
「昼近く約束の時間に、真鍋俊照さんが根本大塔の前に来られた。わたしはこの人の数多い著書によって、多くを教えられた。根本大塔といっても、慈尊院で見た多宝塔と変わらない。ただコンクリート建てで、比較にならぬほどスケールが大きい。二層になった軒に吊るされた風鐸が、あるともない風に実に美しく鳴っている。
森 ほんとに澄んだいい音ですね。
真鍋 根本大塔は大日如来のシンボルですから、あれは大日如来の発する音であり、声なのです。密教の認識の中には、常に生きた人間と自然が一体になるような、手だてが必ず介在しているんです。それがどんなものにもあるんです。四国八十八ヵ所を巡礼なさると聞きましたが、おなじように鈴を振りますね。あれもそうです。
手だてと聞いてわたしは口を出そうとしたが、差し控えた。口を出すには風鐸の音があまりに美しかったからである。」
どうでしょう。とても美しいでしょ。私はこの文章に出会ってから、以来、心のなかのどこかで、ずっと風鐸の音が鳴り続けています。源氏物語の高橋文二先生も、自然による慰藉ということに観点を置かれて、『風景と共感覚』というご著書を著されています。私は、このお二方の先生に、日本人としての感性を培っていただいたと思っています。その真鍋俊照先生が金沢文庫という、中世資料の宝庫の文庫長でいられたことが、私の源氏物語との出会いの第二章の幕開けでした。
金沢文庫の創設者北条実時に、源氏物語の写本があるのは、何度か展覧会で見て知っていました。実時は、鎌倉幕府の重鎮で、蒙古襲来の折には、陰で執権時宗を支えた人です。そういう武将の実時と源氏物語の結びつきに違和感があり、それがずっと心にひっかかっていました。それが、高橋先生のお話から源氏物語の古注釈に関心がいったとき、実時の書写本は『尾州家河内本源氏物語』といって、代々徳川家に伝わり、今は名古屋の蓬左文庫所蔵となって重要文化財にまで指定されている、とんでもないものだということがわかりました。鎌倉幕府が滅亡したとき流出し、それが足利将軍家のものとなり、室町幕府が滅びて徳川家に入ったという経路です。
真鍋俊照先生がご還暦記念論集をだされることになったとき、私にも書くチャンスを下さいました。それで、文庫にゆかりの題材をと思い、即座に「実時と源氏物語の関係について書かせていただきます」とお答えしました。それは「北条実時と『異本紫明抄』」としてまとまり、2005年秋刊行の記念論集『仏教美術と歴史文化』(法蔵館)に収められました。この論文に端を発したのが、今回の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』です。
実時書写の『尾州家河内本源氏物語』は、完成して間もない、源光行・親行親子校訂による『河内本源氏物語』を借りて写したものです。光行の子息の親行が、鎌倉幕府に仕えていたために、いわば実時と同僚。そんな訳で借りるのが可能だったのでした。
源氏物語には、藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』と、源光行・親行親子校訂の『河内本源氏物語』の二大双璧といわれる写本があります。『青表紙本源氏物語』は京都で、『河内本源氏物語』は鎌倉で成立しました。なので、西と東の成立のライバルのような関係に思われています。
が、もともとは、源光行も京都の人。藤原定家とは一歳違いの盟友です。それが、どうして鎌倉で源氏物語写本を成立させたのでしょう。何故、光行は鎌倉に下ったのでしょう。そして、何故、西と東に分かれた二人が、奇しくも二大双璧といわれる、同じような写本を完成させたのでしょう。その謎に挑戦し、解き明かしたのが、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』です。ここでは、今までライバル視されていた二人がライバルでなかったどころか、同じ心の痛みを分け合う同士だったことがわかりました。これは、今まで、国文学者のどなたも書かれていない世界で、私自身でさえも驚いている画期的な展開です。
私としては、国文学の世界にとても貢献する内容と思っているのですが、もしかしたら、それは甘い考えで、逆の発想でいうと、従来唱えていた先生方の説から真っ向から対立する危ない説になってしまうのかもしれません。そうしたら、どうなるでしょう。無視ならまだいいとして、抹殺されたらお終い。そんなことを考えたら、正式の学問の世界で勝負するより、これを若い方々に知っていただいて、これからの常識になっていくことを考える方が賢明という結論に達しました。サイトを立ち上げてインターネットの世界で知っていただこうとしているのも、電子書籍化を考えて、若い世代の方々が購入しやすいようにと考えたのも、みんなその思いからです。
暮れから頑張って、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』を紹介させていただくサイトを立ち上げました。この本に興味をお持ちいただけましたら、メールください。上梓したとき、贈呈させていただきます。サイトは、http://www.odayuriko.com/。メールはそこから頂けます。