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2008.1.27 白い椿の夢と三条天皇妃≪せい子≫から紫の上へ

 仮眠のなかで白い椿の夢を見ました。夢のなかで、凛とした白い椿は、山中裕先生の『藤原道長』で読んだ、三条天皇の妃≪せい子(せいし)≫という女性の象徴でした。(「せい」は女偏に成という字)。

 三条天皇がまだ東宮であられたころ、すでに≪せい子≫は入内していて、東宮との愛情も特別にこまやかな間柄でした。そこに道長が二女≪けん子(けんし)≫(中宮彰子の妹)を入内させることになり、周囲は≪せい子≫を気遣います。今をときめく道長の娘に、≪せい子≫が勝てるわけがありません。いくら、東宮の愛情が深くても。(「けん」は研を女偏にした字)

 が、≪せい子≫は堂々と、「これまで身分の低い自分のような者が東宮妃として一人あることを、東宮のために心痛めていたので、≪けん子≫が入内するのは当然、かえって喜んでいる」といい、東宮のために立派な装束を仕立てたり、薫香を調合してさしあげたのです。

 この話は『栄花物語』にあるそうで、山中先生は特別な感想は書かれていませんが、かなりの行数を費やしてここを紹介されたお心のうちには、≪せい子≫を立派と評価する思いがおありだからでしょう。

 が、私は、ふと、≪せい子≫は果たしてほんとうにそうだったのかと考えてしまいました。というのも、最近、小さなあるできごとがあって、筋道がたって傍からは何の問題もないそのことで、体調を崩してしまったからです。理性では当然と思って受け入れた事柄でも、自分の存在を抹殺するような、そこまでではないにしても、ただ存在を揺るがしかねない危機感にあったとき、肉体は正直に反応してしまうのだということを実感したばかりでした。

 私の場合は、ほんの大したことのないことでしたから、ただ数日の体調の乱れで済みましたが、≪せい子≫のような場合、「立派に装束を仕立て、薫香を調合してさしあげた」あと、病気になって寝込んだというようなことはなかったでしょうか。

 『栄花物語』を読んでいないから、その先のことはわかりませんし、その後、東宮が三条天皇になられたとき、≪けん子≫とともに二后並立されていますから、立場的に揺らぐことなくいられたようです。三条天皇の変わらない愛情の深さによって。

 でも、立后の儀式では、道長の娘≪けん子≫の華々しいそれと比して、大臣もかけつけなかったほどの寂しさだったといいますから、折にふれ、寂しさや屈辱感に耐えるその後だったことは確かでしょう。

 山中先生のご著書で≪せい子≫の部分を読んで、特にそのときに思い当たる節はなかったにもかかわらず、そこがずんと心に響いたのは、それが女性には普遍的問題だからでしょう。山中先生は男性でいられるから、あっぱれ、見上げた女性!ですませていられますが、女性である側の私たちには、それが本心でないのは明らかです。陰でどんなにか苦しみ、ひそかに涙を流したことでしょう。

 最近、先にも書きましたが、ほんのささいなあることがあって、理性では受け入れても、身体が変調をきたしてしまったとき、ふっと≪せい子≫のこの話が思い浮かびました。それが、仮眠のなかで「白い椿」として屹立したのだと思います。

 そして、この思いは、突然、『源氏物語』の「紫の上」へと飛躍します。

 昔から『源氏物語』を読んでいて、女三宮の降嫁に苦しんで紫の上が病気になり、ついには命を落とすことになる流れを、漠然と、そんなことで病気になったり、衰弱したりするのかなあという疑問をもっていました。あれは、物語のうえでの結末なのだ・・・というような。紫の上の苦しみ・悲しみを、読んでいて身をもって実感しているにもかかわらず、です。人間の生命力はもっと強いものと思っていましたから。

 が、今回、些細なことで体調を崩したとき、「こんなことでこれほど肉体に出るのなら、紫の上が命を落とすほど衰弱して当然」ということが、身をもってわかりました。そして、≪せい子≫のことも、絶対にそんな綺麗事だけの表面では済まなかったはずと、今は思っています。

 もしかして、≪せい子≫の≪けん子≫入内事件は、「紫の上の女三宮降嫁事件」のモデルだったのでしょうか。『紫式部日記』にある『源氏物語』の清書作業は、寛弘四年(1008)。だから、その年には『源氏物語』は完成していたとして、今年2008年が千年紀です。

 ≪せい子≫の≪けん子≫入内事件は、寛弘七年だから、その三年後。『源氏物語』はすでに完成しています・・・、と思いつつ、いや、もしかして、その完成は、光源氏が太政大臣にまでのぼりつめるところまでで、(つまり、第一部といわれる「藤裏葉」巻までで)、第二部の「若菜」巻以降は、≪せい子≫事件後に書かれたのではないかしらと、そんな思いが今私の胸を占めています。

 紫式部は彰子に仕えていて、しかも『源氏物語』の作者として特別なはからいを受けるほど密接だったわけですから、彰子の妹の≪けん子≫の入内も、内部から一部始終をみつめていたでしょう。しかも、『紫式部日記』にあるように、外部が華やげば華やぐほど、内心に冷めた苦しみを抱える性格からして、式部が道長一族と一緒にうつつをぬかして喜んでいたとは思えません。≪せい子≫のほうに気遣う思いがいって自然ななりゆきだったと思います。それが、「若菜」巻の女三宮降嫁事件に結実した・・・

 あれほどの『源氏物語』を成しながら、その後の式部と道長の関係は冷えていたといわれますが、「若菜」巻に道長が暗に式部の自分に対する冷やかな批判を読み取ったとしたら・・・

 「若菜」巻は近代小説のような葛藤の文学といいます。それまでの「光りかがやく光の君の物語」とうって変わって、暗く辛い内容です。それを、道長一族のなかにあって、その繁栄に心から同化できないでいるのを隠しきれなくなった式部の悲鳴、と見たら・・・

 国文学の世界で、このあたりのことがすでに書かれているのかどうか知りませんが、ふとした自分の体験と、たまたま拝読したばかりの山中先生の著述から、「紫の上」にまで気持がいってしまいました。これも、ふっと、昨日日中にブログを書いていて、為兼を思い出し、「為兼歌論と唯識説」まで筆が及んで意識が深まったせいでしょう。それが、白い椿の夢となってあらわれたのでしょう。唯識は・・・ですが、ただ「唯識」と書いたり読んだりするだけで、意識がふっと深まります。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/

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