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2008.1.8 吾妻鏡の会のこと・・・「鶴岡八幡宮若宮」について

 年が明けて、今日からやっと普通の生活になります。というのも、昨日7日は参加している「吾妻鏡を読む会」の一月例会で、なんと、年明け早々、私が発表担当だったのです。それで、お正月休み返上で、そのためのレジュメ作りに図書館へ行ったりと奔走しました。テキストは木版印刷の寛永本です。担当は二回目で、前回は石橋山合戦のところでした。

 この会は、一昨年急逝された佐藤和彦先生が講師をされていた「古文書を読む会」を継承したもので、突如佐藤先生を失って呆然としていた会員の方が、佐藤先生のご葬儀に弔辞を読まれた峰岸純夫先生に、講師として来てくださるようお願いしてできたもの。

 佐藤先生のときは、毎回先生が古文書を一通用意してらして、それを読み解く会だったそうですが、峰岸先生になってから、吾妻鏡を読む会になりました。私は峰岸先生にお誘いいただいて参加。お陰で、吾妻鏡を最初から読むという、滅多に遭遇することのない得難い体験をさせていただいています。まだはじまったばかりなので、頼朝が旗揚げしたあたりの治承4年の条を読んでいます。

 昨日の担当箇所は、10月13日・14日の条。甲斐武田の人たちが駿河にでて、目代の橘遠茂軍を滅ぼすところ。源氏物語世界に心酔して過ごしたい私には、まったくもって縁のない、どちらかといえば見たくもない野蛮な世界です。戦でも、せめて頼朝とか、維盛とかならともかく・・・ですよね。

 武田氏といっても、風林火山の信玄の時代をずっと遡った、いわば武田氏の祖というべき人たち。吾妻鏡のなかでもあまり重要事項でない条なので、調べてもほとんど資料がなく、最後はインターネットを駆使してのレジュメ作りとなりました。

 ショックだったのは、13・14日の両隣の条が鎌倉の頼朝関係だったこと。前の人が担当された12日条は、「頼朝が鶴岡八幡宮を現在の場所の小林郷北山に遷したてまつった」ところ。そして、次の人の15日条が「頼朝がはじめて鎌倉に入り」、16日に「頼朝の御願として、鶴岡八幡宮若宮で長日の勤行をはじめた」という内容。私のところだけ、優美とか気品からほど遠い、甲斐武田氏の駿河での戦闘なのです。鎌倉を信奉する私としては、鶴岡八幡宮の由来となる発端のところを担当したかったなあ・・・と、思ってしまいました。(でも、忙しいお正月に、そんな重要箇所を調べだしたらキリがなかったでしょうから、助かったのは事実ですが。)

 昨日は、16日の「鶴岡若宮において長日の勤行を始めらる」とある、その若宮が問題となりました。現在の境内に「若宮」があるからです。勤行はその若宮で行われたのかしら・・・という疑問がとびだし、まさか・・・と否定しながら、明確に本宮と若宮を区別して説明できずに、曖昧なままになってしまいました。

 それで、今朝、調べました。結果をメモっておきますね。

 鶴岡八幡宮は、もともとは源頼義が京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ガ浜に勧進したもの。それを、頼朝が現在の場所に移したのでした。境内には上宮と下宮があり、上宮が脇に大きな銀杏の樹がある石段をのぼっていた先にある本宮。下宮はその石段の下の舞殿の脇の現在の若宮です。

 若宮には二通りの意味があり、ひとつは「本宮の分社」。もうひとつは「祭神が本宮の祭神の子だから」。なので、16日の「鶴岡若宮」は、「石清水八幡宮の分社たる鶴岡八幡宮」の意味で、現在の建物でいうと石段の上の本宮でのこととなりました。

 今日から普通の生活に入るので、このブログを「日々の記録」として、できるだけ毎日更新していこうと決意しました。書いておきたいことがなくても、一行でも・・・の気持ちで取り組んでいきたいと思います。

織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/

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