« 2008.1.20 宮坂宥勝先生と「慈円さまの微笑み」 | Main | 2008.1.25 HP【孔雀のいる庭】更新・開始のお知らせ »

2008.1.23 網野善彦先生と特急「あずさ」の思い出

 昨日は高橋文二先生の【源氏物語を読む会】の日で、八王子へ行きました。それで、高尾行きの電車を待って中央線の駅のホームに立っていたとき、目の前を特急「あずさ」が通過したのです。「あずさ」には網野善彦先生の強烈な思い出があり、「あずさ」を見ると、必ず網野先生を思い出して懐かしみます。

 網野先生がお元気でいられたころ、石井進先生も健在でいられましたし、それはもう、日本中が中世史ブームに熱く燃えていました。お二人は先進的なお考えの持ち主でいられて、歴史学が、文献史学と考古学に分かれていることに疑問をもたれ、それで、よく、山梨の石和にある帝京大研究所で、両者の分野に携わる方々の交流をはかるシンポジウムを開催されました。

 この二つの分野の交流は、画期的な成果をあげています。一例をあげますと、従来の文献史学重視の観点では、太平洋側がずっと文明的にリードしていたように思われてきましたが、考古学の発掘調査によって、陶磁器などの出土遺物の状況から、中世では日本海側の方が栄えていたとか・・・

 発掘調査の仕事に就いた最初の年、そのシンポジウムに調査員の方が参加されるというので、興味半分に私も申し込ませていただきました。考古学の分野ではまだ一年にも満たない経歴の新参でしたが・・・。その申込のとき、調査員の方が「懇親会はどうする?」といわれるので、そこまでは・・・と躊躇しました。が、「大丈夫だよ。一緒にいるから。」といわれて、じゃあと、出席することにしたのでした。その懇親会で、まさか、網野先生とお話することになろうとは・・・

 懇親会はシンポジウムの終了後にはじまります。そのはじまりを待って私たちが席についていると、編集者かどなたかと話をされていた網野先生が遅れて入ってらっしゃいました。が、そのときにはすでに狭い会場は満席。一つも席が空いていません。網野先生と同伴の方のお二人は、しばらく立ってどこか空いてないかと見回してられましたが、まったくない状況でした。そして、みんな、天下の網野先生が困って入口に立たれていることに気付くと、シーンと、なんだか妙な気配が漂いました。なのに、誰も立って席を譲る人はいません。

 私は、学者でもなく、考古学者でもなく、ただのど素人が興味本位に来ただけの私が抜けるのが一番と思い、席を立って、お二人のところへ行って、「どうぞ」と申し上げました。同伴の方はほっとされて、網野先生を私がいた席へ誘導。それまではよかったのですが、なんと、その方は、「ほんとうに有難うございます。どうぞ、ここへ」と、網野先生のお隣に、どこかから椅子を持ってきて座らせてくださったのです。辞退したのですが、結局私は、網野先生の真隣に、しかも、いきさつ上、向いあうように、しばし同席させていただくことになったのでした。

 あとで知ったのですが、誰も席を立たなかったのは、譲るのがいやだったためでなく、あまりに畏れ多くてできなかったのでした。ど素人の私だから、「図々しく」、率先して動くことができたのでした。というのも、そのとき、15分くらいはたっぷりと、網野先生とたった二人だけの会話をさせていただいたのですが、それが、どんなにか会場のなかで注目されていたか。

 会がひけたあと、知り合いの別の調査員の方がいらして、「あれが誰かわかってる? 中世史の世界では天皇のような人だよ。それをあんなにして話すなんて、図々しい」といわれてしまいました。後にも先にも、人生で「図々しい」と他人から言われたことは、この一回です。私としては、ただ、困っていられるのを見かねてしただけなのに・・・と、ショックでした。そのまた後で知ったのですが、その人も悪意で言われたのではなく、ただ発掘をする人特有のさわやかな、単刀直入・・・、言い換えると「ただ口が悪いだけ」・・・、なのでしたが。

 その15分間に話させていただいた会話の内容は、上行寺東遺跡という、横浜市にあった巨大な中世墳墓の遺跡に関してでした。網野先生方は、その遺跡の重要さを訴えて、市と争って保存運動をされたのですが、叶わずに遺跡は壊され、マンションが建つという、先生方にとっては痛恨の思いの遺跡です。

 私はがその遺跡について知ったときにはもう、壊されていましたが、それが金沢文庫や称名寺のある六浦という地域の遺跡だったために、個人的に非常に関心をもっていました。それで、何度か通っては、写真を撮り溜めていました。すでに、一部分だけのレプリカ遺跡になっていましたが。

 それで、私が「上行寺東遺跡」の名をだしますと、それまで穏やかだった網野先生の目が突然鋭くなり、きらりと光った感じがしました。それは、ふつうの人だったらわからない程度の変化だったかもしれません。ですけれど、一応、私はカメラマンをしていましたから、瞬間のその変化を見逃しませんでした。先生は「あの遺跡には、あれ以来行ってません」と、どちらかというと吐き捨てるような感じでおっしゃいました。それほど保存運動の叶わなかったことの憤りが生々しくいられたのでした。

 「スサノオノミコトのような、荒ぶる火を抱えた人」というのがそのときの印象です。ふだんはとても穏やかで、優しくいられる方ですが、本質はとても熱い、激しい方と思いました。素敵でした。以来、私はすっかりファンになってしまいました。もちろん、ご著書だけは、そのシンポジウムに行く前から拝読させていただいてはいましたが。

 特急「あずさ」との思い出というのは、二日間の日程でシンポジウムが終わると、一斉に皆さん、石和から帰られます。発掘をされる方は日頃から野生生活に慣れてられますから、前もって指定席を買うなんてことはなく、各停の来た電車に乗りこんで、三々五々帰ってしまわれました。私は「あずさ」の指定をとっていたので、一人、列車の到着を駅で待っていると、そこに網野先生方のグループがいらしたのです。そこにはダンディなお姿の宮田登先生もいらしたと思います。

 どきどきしました。恥ずかしいので、みつからないようにそっと動いて、列車に乗り込みました。先生方の車両は隣でした。列車が新宿につくまで、「隣の車両に網野先生がいられる」と思って幸せでした。その後も何度かシンポジウムはあり、網野先生のご講演には、ミーハーさながら「追っかけ」をし、思い出もいろいろできましたが、私の記憶には、「あずさ」といえば網野先生というほど、あの日の思い出は強烈です。

 網野先生、石井進先生、宮田登先生・・・と、あのころ活躍されていた方々ですが、もうこの世にいられません。信じられない思いで、この何年かを見ています。ただ思うのは、私が考古学の世界に入ったときに、この先生方のブームの絶頂期だったことが、その後の私をどんなにかゆたかにしてくださっているか。

 石和の駅構内の、帝京大研究所の敷地内の、シンポジウム会場の、あのときあのときの、それぞれの方の笑顔、お声、さんざめきは、今も私の眼に、耳に、あでやかです。決して、一生、消えないと思います。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/ (PhotoGallary「安芸の宮島・厳島神社」)をアップしました。 

|

« 2008.1.20 宮坂宥勝先生と「慈円さまの微笑み」 | Main | 2008.1.25 HP【孔雀のいる庭】更新・開始のお知らせ »