10. 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』…源氏物語千年紀に向けて
あけましておめでとうございます。昨年夏に、執筆中の原稿の書き直しに入ってブログの更新を中断していたら、予定外に長引いて、年が明けてしまいました。その間、いろいろあって、途中経過を書いておきたく思っても、あまりに多様すぎてまとまらず、原稿の執筆と、この原稿の将来へ向けての算段とに明け暮れました。やっと、なんとか落ち着いて、ここにまとめてご報告させていただきます。
まず、今年、執筆していた原稿を、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』と題して上梓します。ほんとうは昨年夏に刊行して、秋からはそれを手に普及活動にまわっているはずだったのですが、思いがけず書き直すはめになり、今もまだ終わらずに、「この春」刊行がめどです。でも、その分、とても中身が濃くなり充実しました。
今年2008年は、紫式部が源氏物語を完成させて千年の記念の年です。昨年あたりから、主に京都で、秋以降からは東京でも、【千年紀】に向けての記念行事が行われるようになりました。私の本もその関連です。テーマは従来もっていたのですが、千年紀を知って、自分のなかでタイムリミットが定まりました。でも、私は、どこにも、どの分野にも所属しない、いわば一匹狼ですので、孤軍奮闘するしかありません。それで、このブログを立上げて準備に入り、暮れに「織田百合子のOfficial Website」を立ち上げてこの本の基地を作り・・・といった作業をしています。「売る」ためではありません。源氏物語の歴史の真実の姿を知っていただくための普及です。
出版は一度経験しているので、今回は結構冷めています。そして、内容も、前回は小説だったのが、今回は学術的内容。なので、本の普及には違いがあります。前回は一冊でも多くの人に手にして頂く、「買って」頂くことが至上命令でした。が、今回は、出版社をとおしていませんし、源氏物語についての理解のための普及ですから、何が何でも「売る」必要がありません。それどころか、この世界を理解されることのない「義理」での購入に媚びる気持もないのです。わかっていただく方が手にとって下さるまで、いつまでも家に「在庫」として積んでいきたいと思います。「作者がこの世にいなくなった百年後の人たちのためにもある本」だから・・・。(このセリフは、原稿を見ていただいた方に頂きました。)
本の内容ですが、源氏物語写本といっても、一般の方には馴染みがないでしょう。私も最初はそうでした。それが何故か本をだすまでに嵌ったのには、長~い歴史があります。考えてみると、ここに来るべくして来たのです。
源氏物語は高校生のときに与謝野晶子訳で親しんでいました。大学は国文科に進みたかったのですが、家の事情で写真大学に行き、卒業後はカメラマンとなってかけ回り、文学とかけ離れた生活になりました。源氏物語の世界に帰ったのは、仕事をやめて家にいたとき、新聞に駒澤大学の公開講座の案内を見てでかけたのがきっかけ。高橋文二先生の「橋姫」巻だったと思います。拝聴して、この先生のお講義をもっと聴きたいと思った私は、意を決して、ご講演の終了後、先生のところまで赴いて、「どこかのカルチュアーで教えてらっしゃいませんか?」とお訊ねしたのでした。そうして教えていただいた八王子そごうの友の会の教室に通うようになり、それから教室は京王プラザホテルに移り、と変遷はありましたが、かれこれ三十年近く、高橋先生の源氏物語を拝聴させていただいています。
高橋先生のお話が楽しいのは、受講生が主婦ばかりというのに、そんなことには一切無頓着に専門のお話を深めてくださること。そこで、何回か、古注釈の『河海抄』とか『湖月抄』とかの名を耳にしました。最初はなんのことかわかりませんでしたが、いつかしら、耳に滲みついて馴染みとなり、そんなことが、今回の上梓の根本になっています。
もう一つのご縁は、神奈川県立金沢文庫長でいらした真鍋俊照先生です。最初、文学を志す者として、私も一応小説家を志しました。それで、一冊本を出すまでにはなりましたが、現代小説の世界にはとてもついていけず、挫折。精神的に立ち直れなくなって、救いを求めて飛び込んだのが、真鍋俊照先生の「密教」の教室でした。NHK文化センターでのことです。そこで数年、空海の哲学と、実際にその教義を身につけるための写仏とをお習いしました。何故、真鍋先生の教室を選ばせていただいたかというと、私は森敦先生の小説の大フアンで、森先生の『マンダラ紀行』というご著書に真鍋先生のことが書かれていたからです。森先生が高野山を訪ねられたときのことです。その部分を引用してみますね。私にも懐かしい章です。
「昼近く約束の時間に、真鍋俊照さんが根本大塔の前に来られた。わたしはこの人の数多い著書によって、多くを教えられた。根本大塔といっても、慈尊院で見た多宝塔と変わらない。ただコンクリート建てで、比較にならぬほどスケールが大きい。二層になった軒に吊るされた風鐸が、あるともない風に実に美しく鳴っている。
森 ほんとに澄んだいい音ですね。
真鍋 根本大塔は大日如来のシンボルですから、あれは大日如来の発する音であり、声なのです。密教の認識の中には、常に生きた人間と自然が一体になるような、手だてが必ず介在しているんです。それがどんなものにもあるんです。四国八十八ヵ所を巡礼なさると聞きましたが、おなじように鈴を振りますね。あれもそうです。
手だてと聞いてわたしは口を出そうとしたが、差し控えた。口を出すには風鐸の音があまりに美しかったからである。」
どうでしょう。とても美しいでしょ。私はこの文章に出会ってから、以来、心のなかのどこかで、ずっと風鐸の音が鳴り続けています。源氏物語の高橋文二先生も、自然による慰藉ということに観点を置かれて、『風景と共感覚』というご著書を著されています。私は、このお二方の先生に、日本人としての感性を培っていただいたと思っています。その真鍋俊照先生が金沢文庫という、中世資料の宝庫の文庫長でいられたことが、私の源氏物語との出会いの第二章の幕開けでした。
金沢文庫の創設者北条実時に、源氏物語の写本があるのは、何度か展覧会で見て知っていました。実時は、鎌倉幕府の重鎮で、蒙古襲来の折には、陰で執権時宗を支えた人です。そういう武将の実時と源氏物語の結びつきに違和感があり、それがずっと心にひっかかっていました。それが、高橋先生のお話から源氏物語の古注釈に関心がいったとき、実時の書写本は『尾州家河内本源氏物語』といって、代々徳川家に伝わり、今は名古屋の蓬左文庫所蔵となって重要文化財にまで指定されている、とんでもないものだということがわかりました。鎌倉幕府が滅亡したとき流出し、それが足利将軍家のものとなり、室町幕府が滅びて徳川家に入ったという経路です。
真鍋俊照先生がご還暦記念論集をだされることになったとき、私にも書くチャンスを下さいました。それで、文庫にゆかりの題材をと思い、即座に「実時と源氏物語の関係について書かせていただきます」とお答えしました。それは「北条実時と『異本紫明抄』」としてまとまり、2005年秋刊行の記念論集『仏教美術と歴史文化』(法蔵館)に収められました。この論文に端を発したのが、今回の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』です。
実時書写の『尾州家河内本源氏物語』は、完成して間もない、源光行・親行親子校訂による『河内本源氏物語』を借りて写したものです。光行の子息の親行が、鎌倉幕府に仕えていたために、いわば実時と同僚。そんな訳で借りるのが可能だったのでした。
源氏物語には、藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』と、源光行・親行親子校訂の『河内本源氏物語』の二大双璧といわれる写本があります。『青表紙本源氏物語』は京都で、『河内本源氏物語』は鎌倉で成立しました。なので、西と東の成立のライバルのような関係に思われています。
が、もともとは、源光行も京都の人。藤原定家とは一歳違いの盟友です。それが、どうして鎌倉で源氏物語写本を成立させたのでしょう。何故、光行は鎌倉に下ったのでしょう。そして、何故、西と東に分かれた二人が、奇しくも二大双璧といわれる、同じような写本を完成させたのでしょう。その謎に挑戦し、解き明かしたのが、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』です。ここでは、今までライバル視されていた二人がライバルでなかったどころか、同じ心の痛みを分け合う同士だったことがわかりました。これは、今まで、国文学者のどなたも書かれていない世界で、私自身でさえも驚いている画期的な展開です。
私としては、国文学の世界にとても貢献する内容と思っているのですが、もしかしたら、それは甘い考えで、逆の発想でいうと、従来唱えていた先生方の説から真っ向から対立する危ない説になってしまうのかもしれません。そうしたら、どうなるでしょう。無視ならまだいいとして、抹殺されたらお終い。そんなことを考えたら、正式の学問の世界で勝負するより、これを若い方々に知っていただいて、これからの常識になっていくことを考える方が賢明という結論に達しました。サイトを立ち上げてインターネットの世界で知っていただこうとしているのも、電子書籍化を考えて、若い世代の方々が購入しやすいようにと考えたのも、みんなその思いからです。
暮れから頑張って、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』を紹介させていただくサイトを立ち上げました。この本に興味をお持ちいただけましたら、メールください。上梓したとき、贈呈させていただきます。サイトは、http://www.odayuriko.com/。メールはそこから頂けます。