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2008.1.26 新倉の断層と京極為兼の和歌

 糸魚川―静岡構造線をだしたら、どうしても書かずにいられなくなる場所があります。それは、山梨県早川町にある新倉(あらくら)の大断層。しかも、逆断層です。

 断層というのは、地震などで岩盤がスパッと割れてその両面が左右など反対方向ににずれること。地層をみるとよくわかります。逆断層とは、通常は新しい地層が上にあるのが、地中の活動の結果、逆になって、被さっている地層のほうが古い地層の断層のことです。新倉の断層は、元来地中奥深くに埋もれているはずの断層が、露頭にでていて、しかも見上げるくらいに巨大なことで有名です。どれくらい有名かってことのお話をこれからしようと思います。

 昨日書いた「糸魚川―静岡構造線」の旅は、太平洋側の静岡にはじまり、日本海側の糸魚川に終わります。静岡は登呂遺跡のあるあたり。あの一帯は平野部ですが、列島中心部から小高い丘のような山が幾筋も延びてきて、平野部の下にもぐり、海中へと消えていきます。そこに構造線があるので、構造線自体は見ることができません。

 以前、登呂遺跡を舞台にした物語をシナリオで書いて、サンリオ映画脚本賞で特別に企画奨励賞をいただいたことを記しましたが、そのように登呂遺跡は私にとって忘れられない親しみのある遺跡です。その遺跡が、構造線の旅で、私のなかでふたたび巡りあうのも、何かの縁で不思議な気がしました。考えてみると、何故、突然、登呂村がこの世から消えたのか謎とされていますが、構造線上にあった村ならば、地震とかなにか、そういう天災があったと考えていいかもしれません。発掘調査でそのあたりの何かがでているのでしょうか。

 糸魚川側の終点は、有名な親知らず海岸です。絶壁のしたにあるこの海岸は、如何にも構造線の先っぽという気がしました。ここでは、姫川などの転石がさらに砕けて流された、アルビタイトの小石を拾うことができるので、11月の真冬のような光景だというのに、二人か三人、下を向いて探して歩いている人がいました。結構、皆さん、拾いにくるのだそうです。私も、少し拾ってみました。この石に翡翠が入っているのかな・・・、ともっているのが楽しみな石です。でも、割ってみないとわからない。割って、入っていたら嬉しいけれど、なかったら、割らないほうがよかった・・・。となりますね。

 構造線の両端がそうなら、中央部はというのの一つが、山梨県の新倉の断層です。露頭というのは、本来地中に埋もれている岩石や地層が、地表に現われていること。これは感動です。地表にであうと、ついつい足をとめてしばし見入ってしまいます。岩盤の露頭も然りです。新倉の断層は、見あげるほど高い崖の上から下まで、スパっと、断層線が入っています。小さな断層しか見たことがなかった私は、目の前にある崖を目にしながら、「どれが断層?」と、思わず探してしまいました。

 そこは、身延山の近くといったらわかりやすいでしょうか。そこをさらに山深く入っていったところにあります。辺鄙な奥地なこときわまりないので、人ひとり出会わない、かなり怖い思いをしました。が、行ったとき、突然マイクロバスが一台来て停まりました。そこから先は徒歩、という地点です。私もそれから歩いて探そうと思っていたところでした。バスから袖まくりをしたチェックのシャツを着た、青年のような方がおりてきて、「断層を見にいらしたんですか?」と聞かれました。それが、静岡大学の地質学の新妻先生で、「それでしたら、あとに着いてきてください。ちょうど僕たちも行くところですから」とおっしゃってくださいました。

 新妻先生が、「地質学の学会が終わって、彼らを現地見学に案内してるんですよ」と説明してくださったとおり、氏のあとについて降りてこられたのは、皆さん、外国の方々ばかりでした。私は、その人たちのあとについて、小道を抜け、草むらの茂みを抜けて河原へ下り、無事に断層のある場所へたどりつけたのでした。

 一行は、その後、翌日伊豆半島へまわるというお話でしたが、外国の地質学の学者さん方を案内するほどの断層ということなのです。その方々が、河原に立って断層を見上げたときに、「おおうっ!」というような、感嘆のどよめきが起きていました。

 その河原にどれくらいいたでしょうか。断層は大きすぎて、ふつうの広角レンズでは収まりきれず、撮るのに相当もどかしい思いをしました。おそらく、河原からでなく、どこか遠く離れたところにいたほうが、シャッターチャンスにはよかったかも、です。ただ、地質学者の方々は、地質そのものに触れるのが目標ですから、ハンマーを持って川に入り、断層の真下までいって・・・、ということをされていました。

 前に、「慈円さまの微笑み」で、小説を書く際にモデルは決めないけれど、描写には思い描くことがあると記しました。実は、このときの一行にいらしたベルギーの学者さんが、尖った鼻に鋭いまなざしの、物凄く風格・品格のある素敵な方でした。その方が、断層の下の岩場を一人思索されながら歩いていられるお姿を、私はずっと目で追っていました。何か、鷲の紋章でも背負っていられるような、そんな感じでした。

 「白拍子の風」で、範理(のりまさ)さまという、舞楽をする一人のお公家さまを登場させました。その人物の容姿は、まったくのそのベルギーの学者さんです。

 新倉ではもう一つ、私の文学観に深く浸みこむ思い出があります。断層へいくまでのあいだ、車窓から見える景色が、手前の山、その奥の山、さらにその奥の山、というふうに、山並が幾重にも幾重にも重なって見えました。山と山のあいだから次の山の三角が見え、その山と山のあいだから・・・というふうな光景です。

 岩佐美代子先生のご著書で京極派歌人を追っていたとき、そのリーダーである京極為兼の歌を先生が紹介されていました。

   沈み果つる入日の際にあらわれぬ霞める山のなお奥の峰

 この歌こそ、私には、新倉の断層を訪ねたときの「さいはて」の感覚とともにある歌です。岩佐先生の『京極派和歌の研究』中の、「為兼歌論と唯識説」に、私はうなっています。糸魚川―静岡構造線の地質学のような世界から、いきなり国文学になってしまいましたが、私にとってはどちらも重要。「さいはて」を知った為兼の心情に、旅の一点で触れることのできた新倉の断層。この旅がなかったら、あるいは、為兼の歌に接しても、綺麗な光景の歌・・・という印象に過ぎなかったかもしれません。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/

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