2008.1.17 藤原道長の経筒
三宅先生の経塚研究のご業績を書いたら、拝読中の山中裕先生『藤原道長』が、ちょうど道長の金峯山詣での項にさしかかり、このことを書いておきたくなりました。
仏教を詳しく学ぶまでは、たぶん、経石を見て敬虔な気持ちになるなどなかったと思います。地中に埋められた、経文の書かれた石なんて、神々しいよりはむしろおどろおどろしいものとして、不気味に思えたことでしょう。
けれど、経典の意味を知り、歴史を知って、経石に対したとき、それは、不思議というか、感動以外のなにものでもありませんでした。出土遺物としての分析のためというよりは、むしろ、自分の感動のために、純粋に、ひたすら純粋に、経石を手のひらに乗せて、何度眺めたでしょう。なにしろ、石は我が家にあり、2500個の経石の、分断され、ばらばらにされた経文の復元は、私ひとりの手に委ねられていたのです。左にコピーした法華経を置き、右手でつかんだ経石の経文が、法華経のどの部分にあたるか・・・、ひたすら石に書かれた経文の断片を頭に浮かべ、ぶつぶつと口で唱えながら、照合し続けました。
この経石を担当させていただけると決まったとき、経石だけでなく、埋経という世界を知ろうと、図書館でその分野の本を探して、参考にさせていただいた中に、三宅先生の『経塚論考(コウは別の漢字ですが・・・)』がありました。
ちょうど、そのころ、三宅先生が、たしか群馬県立博物館だったと思いますが、講演されることを知り、伺いました。展示は道長の経筒世界で、そこではじめて道長の経筒や中宮彰子の経箱を知ったのです。
寛弘四年(1007)、道長は金峯山に詣でて、そこに自筆の法華経などを収めた金銅製の経筒を埋めて帰ります。それが江戸時代に発掘されたために、私たちが現在、博物館の展示で見ることができるのです。そこには、道長の名とともに、寛弘四年の文字が彫られています。これが、発掘された経筒では最古のものとされていますが、とても大きく、立派さにおいても、その後の他の経筒をはるかに凌いでいます。
九条兼実の経塚について書きましたが、経筒や経塚は、優雅な貴族世界のものです。財力に任せて立派な鋳物製の経筒をつくり、華々しい儀式とともに、経塚として地中に埋める・・・。そこには、宇治平等院鳳凰堂の絢爛豪華な内部空間につうじる、きらびやかな世界が繰り広げられています。
それに比して、経石は、ただの石に経文を書いたものですから、どこにも色からして「金」の存在はなく、経文の価値を知らなければ、地味を通り越して不気味です。それもそのはず、経石は、経文を地中に埋めるという貴族世界の風習が、民間におりてきたもので、財力がないから石を用いただけのもの。根底にある思いは同じです。すなわち、経典に対する敬虔さ。末法の世となった現世から救われたいという祈りの思いは・・・
源氏物語に心酔している私は、道長の経筒によって埋経世界の華麗さに目覚め、経石の分類に携わっているあいだ中、心のなかは仏教世界の黄金色に彩られてゆたかでした。
三宅先生が繰り広げられた埋経世界のゆたかさ、山中先生の道長・・・を知らずに、たんに石としての経石を見る人と、知って見る人の違いを、すんでのところで「知らないで見る人」だった私としては、「知る」ことの限りないゆたかさに驚異を覚えてやみません。
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