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2008.1.13 「北条実時と『異本紫明抄』」について

 記憶って忘れていたと思っても、ふとしたきっかけでそのシッポをつかむと、映画のスクリーンに映し出される世界のように、そのときのことが甦りますね。なんで、こんなに広い世界を忘れていることができたのかしらと、不思議に思うくらいに。

 昨日、桑山先生に「北条実時と『異本紫明抄』」を読んでいただくことが叶わなかったあたりを書いていたら、この論文について、あまり説明していなかったことに気がつきました。これは私がこれから書いていく上で、テーマ的にも、領域としても、ほぼターニングポイントとなっている論文なのに、です。

 なぜ、この論文を仕上げることになったのかをいうと、話はまた宇都宮歌壇を調べていたことに遡ります。私自身忘れていたり、こんぐらかってしまっていたりしますので、一度整理してみますね。

 まず、ほんとうの最初は、「寺院揺曳」というエッセイを書いたこと。そこで、藤原定家の孫の冷泉為相が、じつは神奈川県立金沢文庫がある称名寺を訪ねていたのでは・・・という興味深い事象に巡りあい、可否を実証しようとしたことが、そもそもの発端です。

 歌人で名高い定家ですが、もちろん、定家自身が関東に下ったことはありません。が、その息の為家は、宇都宮歌壇中の人物の娘と結婚していて、関東と縁が深く、嫡子二条為氏は鎌倉に下って暮していましたし、宇都宮にも訪れています。為家自身も一度、鎌倉を訪れたことがあります。

 余談になりますが、そのとき寄宿した先は、昨日話題にあげた飛鳥井雅経の息で、北条実時の娘婿となる雅有の父の、飛鳥井教定邸ではなかったか・・・とは、私の推測です。新古今歌人として仲のよかった定家と雅経の息子同士、馴染みでしたから。

 冷泉為相は、為家の後妻の阿仏尼とのあいだにできた子です。為氏は宇都宮氏の娘が母。為家亡きあと、阿仏尼が『十六夜日記』の旅をして鎌倉に下ったのは、相続争いの訴訟のためでした。為相が晩年の子だったために、心配した為家は、一度為氏に譲った荘園を、為相の相続に変えるのです。一旦は承諾した為氏ですが、為家が亡くなるとそれを守らず、そのために阿仏尼が鎌倉に直訴に赴いたという事情です。

 私はあまりこういうあたりに興味がありませんので、詳細は割愛させていただいて、その為相と称名寺の関係に話を移します。

 謡曲「青葉の楓」に、為相が称名寺を訪れたことが描かれています。紅葉しない楓を見て、旅の僧が不思議に思って訊くと、為相に褒められたことがあるので、それを誇りに、以来紅葉するのを止めたと、楓の精が答えたという話です。従来、それはあまりに突拍子もない話として、単なる伝承に過ぎないとされていました。

 ですけれど、宇都宮氏と縁戚関係をもった御子左家ですから、ありえないことではないとの予測で、私はそれを実証する一文をしたためました。それは「冷泉為相と武州金沢称名寺」としてまとまり、『歴史と文化』第3号に載せていただきました。「論文を書いてみませんか」と、高橋文二先生が書く機会をくださったのでした。そのときは研究ノートとされてしまいましたが、高橋先生は、「あれで、いいんです。国文学としては十分に論文になっています」といってくださいました。金沢文庫の学芸員の方からも、納得のご感想をいただいています。

 それを調べているなかで、『異本紫明抄』という源氏物語の注釈書の著者に、宇都宮時朝と北条実時のどちらかという、二つの説があるのを知りました。宇都宮氏関係の書籍を調べていましたから、時朝説が大きくとりあげられているなかに、小さく「実時説もある」という一行をみつけたのです。これは私には青天の霹靂で、はじめて知る世界。興味をもったのですが、金沢文庫ではあまり問題になっていなくて、「北条実時」展の図録でも、「『異本紫明抄』の著者という説もある」程度のご紹介。こんな偉大な業績が、ほんとうに実時のものかを確かめる人はまだいられなかったのです。

 金沢文庫長でいらした真鍋俊照先生が、ご還暦記念の論集をだされるときに、私にも「書いてみませんか」とお誘いくださいました。それで、金沢文庫にもっともふさわしい題材として、実時説を実証してみようと思い立ったのです。先生は、「いいね・・・」とおっしゃって、楽しみにしてくださいました。

 『異本紫明抄』の原本の一つは、宮内庁書陵部にありました。いつも同じことを繰り返しますが、私は人文系の学問を修めていませんので、古文書の扱いについても学んでいません。それで、その方面のことからは距離を置いていましたが、論文を書くとなれば、そうもいっていられません。奇しくも、「勘仲記を読む会」に書陵部に勤務される方がいらして、意を決して、「私でも拝見できるのでしょうか」と伺いました。その方に閲覧の仕方等を教えていただいて、半日、書陵部の隅にこもって、必要ページをマークし、コピーを依頼して、そのうちの四枚を論文とともに、真鍋先生の記念論集に載せたのでした。書陵部勤務の方は、歴史学の方ですから、『異本紫明抄』をちらっとご覧になって、「これのどこが面白いのか、理解できない」と笑ってられましたが。

 長くなりましたが、流れを整理すると、「寺院揺曳」で為相を調べた→そのとき宇都宮氏を調べる中で、『異本紫明抄』の著者に実時説があるのを知った→それをテーマに調べて書いた→「北条実時と『異本紫明抄』」としてまとまった、となります。これは、真鍋俊照先生の『仏教美術と歴史文化』(法蔵館)に収めていただいています。2005年秋刊行です。

 それからが今になるのですが、実時と源氏物語の関係に興味が深まって、最初は、中世の「源氏のひじり」と呼ばれた実時の娘婿の雅有を、その後、実時書写の『尾州家河内本源氏物語』をと関心を抱いていって、とうとう、源氏物語の写本世界、源光行・親行親子校訂になる『河内本源氏物語』についての考察を、この春、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』を上梓する運びとなり、それらのためにこのブログをはじめたのでした。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/ 

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