2008.1.12 桑山浩然先生と『蹴鞠の研究』
「勘仲記を読む会」には桑山浩然先生がいられて、峰岸先生からこの会のお誘いを受けたとき、「浩然なんてお坊さんみたいな名前だけど、そうじゃないんですよ。紹介しますから・・・」と、何度かいわれました。東大史料編纂所を経られて、お会いしたときは国士舘大学の教授でいられました。
じつは、私はそのころ「歌人瓔珞」と題するエッセイに挑戦していて、そこで飛鳥井雅経について調べて書いていました。雅経は藤原定家とならぶ新古今歌人の代表的存在です。人文系の出身でない私には、雅経にたいする事前の知識はそれだけでした。
何故、雅経をというと、ゆくゆく孫の飛鳥井雅有が、鎌倉で北条実時の娘婿となって、『尾州家河内本源氏物語』が成立する発端の存在になるからです。飛鳥井家は京都の家系なのに、何故、そんな人物が金沢文庫のゆかりの人に・・・?というのが書こうと思った動機でした。それで、雅有が何故鎌倉にいたかを探っていったら、淵源は祖父の雅経までさかのぼったという次第です。
雅経は、父頼経が義経に加担した罪で頼朝の逆鱗に触れ、伊豆に流罪になった事情で、自身も鎌倉に下向するはめになったのでした。鎌倉では頼朝の信頼を得て、頼家に蹴鞠を教えていました。そう、飛鳥井家は蹴鞠の家だったのです。雅経は好青年だったらしく、大江広元女と結婚して不自由なく活動していました。
そのあたりを書き込んでまとめた原稿を、峰岸先生に見ていただいていたので、峰岸先生は私に桑山先生をご紹介してくださろうとなさっていたのです。桑山先生に『蹴鞠の研究』という、とても大部の貴重なご著書がお有りになるので。
私はといえば、雅有を調べたときに、そこに蹴鞠についてもかなり詳細に載っていたために、『蹴鞠の研究』を知らずにいました。それで、会に参加させていただいて、桑山先生とかなり親しくお話させていただくことになっても、蹴鞠について伺うこともなく過ぎていました。気がついたのは、だいぶたってから。その日の会が終わって、喫茶店でお話をしているなかで、たぶん、私が雅経の原稿について話したからだと思いますが、「私も以前、蹴鞠について書いたことがあるんですよ」とおっしゃられて、その本のことを教えてくださったのでした。
驚いて、すぐ国会図書館へ行って、拝見。コピーさせていただきました。それを知ってから雅有のときの資料に戻って改めて見ると、その方の参考文献に桑山先生の『蹴鞠の研究』が、しっかりと挙げられていました。峰岸先生は、宇都宮歌壇のときと同様に、すべてお見通しで本をお貸しくださったり、桑山先生を紹介してくださったりしていられるのですが、歴史の分野に足を踏み入れて日の浅い私には、峰岸先生がしてくださることの意味に気づくのが、だいぶ後になってからばかりです。
「勘仲記の会」での桑山先生のご指導は、私にはとても得難い経験でした。『勘仲記』は勘解由小路兼仲という、鷹司兼平に仕えていた中世のお公家さんの日記です。ですので、儀式などの次第の流れが綿密に書かれています。が、名詞が羅列されているだけの漢文では、よほど状況を頭に描いて読まないと、そのときの人物の作業動線など思い浮かびません。桑山先生はそのあたりの曖昧を許されないのでした。担当の発表者がちょっとでも曖昧だと、鋭くそこをついて、徹底的に解明までもっていかれるのです。中世のお公家さんの日記は、こう読むのだということを、そこで私も徹底して教えていただきました。
桑山先生との思い出を一つ書かせていただきます。それは、日記に「出衣(いだしぎぬ)」の記事があり、国文学でなら周知のこの言葉が、歴史学の院生さんたちには馴染みがなかったらしく、しばらく討議になりました。それで私は百聞は一見に如かずの思いで、翌月の会に『紫式部日記絵詞』から、その部分をコピーして持っていきました。すると、桑山先生は、「この絵巻の成立はいつですか?」と言われたのです。史料として正確かどうかと問われたのです。どきっとしました。
『源氏物語絵巻』の成立は白河院の時代ということはわかっていました。が、『紫式部日記絵詞』は時代がくだって、鎌倉時代の成立かも・・・と、漠然としかわかっていなかったことに、そのとき気づきました。
家に帰って、そのあたりを調べ、そうして、天福元年に藤原定家が後堀河院のもとで各種絵巻の制作にあたったことが『明月記』に書かれていて、現存の『紫式部日記絵詞』もそのときのものではないかと思われるという、国文学での論考部分をコピーして、桑山先生に送らせていただきました。
先生からはすぐにメールでお返事がきて、「大変面白かった。ほんとにこれがほんとうかなあと疑いたくなるほど面白かったです」というような内容でした。冷静でシビアでいられる先生のうきうきしたお心が届くようなメールに、思わずこちらまで楽しくなったのでした。
桑山先生は、まもなく足を痛められ、入院されたりしていましたが、原因がわからないまま悪化。佐藤和彦先生より一年早く亡くなられました。私の「北条実時と『異本紫明抄』」が活字になったとき、先生はもう会にお見えになることができなくなっていて、それからまもなくのことでした。
ご葬儀のあと、気落ちされている峰岸先生に、こんなことがありましたと、「出衣」の一件をお伝えすると同時に、同じコピーを送らせていただき、桑山先生のメールを添付させていただきました。峰岸先生からも、メールで、「桑山メール、しみじみ拝見。それにしても、国文学者の想像力に脱帽。たったの『明月記』の記事から、これだけのことを推測するとは・・・」といただきました。
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