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2008.1.20 宮坂宥勝先生と「慈円さまの微笑み」

 小説を書くというと、よくモデルが誰かが問題になりますが、私の場合、特定の誰かに限って書いたことはありません。ただ、雰囲気とか仕種を描写するときに、あのとき、あのときの、誰それがどうだった・・・というような、それはしっかりと思い出しながら書いています。

 「白拍子の風」は、私がはじめて手がけた歴史小説で、所属する短歌結社「月光の会」の同人誌『月光』に、20回にわたって連載させていただきました。中世が舞台で、白拍子という立場の女性を主人公とし、天台座主慈円とのプラトニックな恋愛が主軸に展開する物語です。

 最後は筆が乗って毎月の連載になりましたが、そこに行くまで、慣れない歴史への下調べやら、取材旅行やらで、この小説にかかっていた期間は4年を優に越えています。なので、主人公の気持ちにすっかり私自身が入り込み、「慈円さま」にすっかり私も思いが入って、執筆が終わった今でも、例えば兼実とか、頼朝とか、誰々と、客観的に叙述する場合でも、慈円さまに関しては、「慈円さま」としか書けないでいます。

 その慈円さまの描写に、こういう箇所がありました。

 「慈円さまは、ほかにも神楽を舞うか訊ねられました。舞いませんとお答えしますと、慈円さまはふっと口許に笑みをお見せになりました。澄んだ、穢れのない、はかなくてそのまま虚空に吸い込まれて消えてしまいそうな、寄りかかろうとするとするっと向こうに突き抜けてしまいそうに透明な、かといって空虚などでは絶対にない、なにか笑みそのものが未来永劫そのときその場所に存在した記憶となって残ってゆくというような、わたくしにははじめて見る不思議な微笑でした。修行を積まれたお方の笑みというのは、このようなものなのだと思いました。」

 これは、一度だけ、岡谷の照光寺の宮坂宥勝先生をお訪ねして、月輪観(がちりんかん)という朝の座禅のような観想の会に参加させていただいたときの、宮坂先生を思い出しながら書いたものです。宮坂宥勝先生といえば、ご著書もたくさんお有りになり、日本の密教界の最高権威の方。そういう方と、一度でもお目にかかることができたということは、以後の私のとても強い励みというか、心強い信念になっています。

 当時、宮坂先生はご自坊の照光寺で、ご自分がご用で他県に出られない限り毎日、朝6時から有志の信者さんに対して、月輪観と法話の会を行われていました。現在、先生は京都の智積院の化主でいられ、照光寺は今ご子息の宥洪氏が継がれています。

 私が訪ねさせていただいたのは、真鍋先生のご紹介でした。「空海の哲学」というカルチャーの講座のあと、それは写仏という実技の講座に変わりました。活字世界に生きたい私は、内心、なんで・・・と困り果てましたが、真鍋先生の密教世界にもっと接しさせていただいていたく、しぶしぶ受講を継続。数年近く写仏をさせていただき、時を過ごしました。

 そのなかで、先生がよく、「密教は頭で理解するものでなく、体得するものです。」とおっしゃいました。「空海の哲学」という、どんなに続けても終わることがないはずの魅力的な講座をやめて、写仏に変わったのも、そうしたご意志あってのことでした。

 が、どんなに写仏をしても、そんなに簡単に密教の奥義に入り込めるわけがありません。一応文章を書く文学畑の人間として、写仏だけをやっていても、何か足りない、これはまだ違う・・・という、生意気なもどかしい気持ちが湧いてくるのは当然の成り行きでした。

 しばらく悶々としたあと、真鍋先生にその気持ちをぶつけてみました。「月輪観をしてみますか」と先生はおっしゃられ、東京でそれをしている道場がないか、探してくださいました。が、その当時は結局、高野山でなら行われているけれど、高輪にある東京別院にはないということに。それで、先生の師でいられる岡谷の宮坂先生のところへ紹介してくださったのでした。

 早朝の会でしたから、前日に長野に入って、諏訪湖のほとりのホテルに宿をとり、その夜のうちにチェックアウトを済ませて、翌朝、まだ誰もいないホテルの暗いフロントを背に出発しました。夏の早朝の道の両側に、黄色い月見草がたくさん群れて、さわやかに風に揺らいでいるのが記憶に残っています。

 月輪観というのは、禅でいう座禅ですが、禅が「無」を目指すのと対極的に、密教では「有」を志向します。目も、座禅が閉じるのと違って、半眼(はんがん)という薄開き。密教では、身体そのものが悟りの場で、それが即身成仏なのです。

 たった一度の経験で偉そうなことの何もいえたものではありませんから、これ以上のことは書きませんが、その朝、宮坂先生は、はじめての私に対してみずから手の印の組み方や、観想の進め方をお話してくださいました。そのあと、信者の皆様が帰られたあとも、こちらへどうぞと畳のお部屋に通してくださって、お話を伺いました。夏の開け放された扉の向こうには、綺麗に手入れされた緑のお庭が見えていました。

 「白拍子の風」に描かせていただいた、「慈円さまの微笑み」は、そのとき、宮坂先生から感じた、先生の存在感です。あの日以降、どの方にお目にかかっても、ああいう、空気のような、やわらかな、あたたかな、ほわっとした、包み込むような、優しさにくるまれるような、広大な感覚にとらわれたことはありません。梅原猛先生がご著書のなかで、宮坂先生とご一緒にある風景をご覧になったときの思い出として、同じようなことを書かれているのを拝見したことがあります。そのとき、ああ、やっぱり・・・と思ったのでした。

 以来、先生の穏やかな笑みはずっと心のなかにあり、それが私の深いところの活力になっているのですが、「白拍子の風」を書いているあいだ中、慈円さまの「修行を積まれたお方」としての厳しさ・優しさ・穏やかさを書くときは、いつも宮坂先生の思い出に空気のように包まれていました。

 何故、今頃、こうしたことを思い出したかというと、この「慈円さまの微笑み」について、お便りをいただいたのが、菱川善夫先生との文学的なつながりの最初だったからです。それまでは、ご講演のお姿を撮らせていただいたカメラマンという立場でした。

 この文章が載った号のあと、突然、菱川先生から封書のお便りがありました。そこには、「慈円の微笑について考えています。どうしてこうもこのことに惹かれるのだろうと。不思議な微笑です・・・」というようなことが書かれていました。私は逆に、背後に宮坂先生の大きな存在があるこの箇所に惹かれてやまないという、菱川先生のご感性に感動しました。ここに着目していただけたことが、何よりも嬉しかったのでした。

 その後も、菱川先生には「語録」としてまとめておきたいような、文学をする立場の者として、意義深いお言葉をたくさんいただいています。宮坂先生の思い出も、書かせていただいたらきりがありません。ほんとうに、たくさんの方のご配慮や恩恵があって、今の私があることをしみじみ思います。

小説「白拍子の風」 http://ginrei.air-nifty.com/
織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/

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