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2008.1.19 菱川善夫先生と『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』のこと

 昨夜は装丁家の間村俊一さんの第一句集『鶴の鬱』(角川書店)の出版記念会。飯田橋のホテル メトロポリタン エドモントが会場でした。私と間村さんの出会いは、所属している短歌結社「月光の会」を通じてです。会の同人誌『月光』の装丁を、間村さんが手がけられているご縁からでした。素敵なデザインの凝ったお年賀状に、いつも堂々とした俳句を一句載せてくださるので、間村さんが俳句をなさっていることは知っていましたが、昨夜はその全貌を拝見することのできた楽しいひとときでした。

 昨夜は、この出版記念会の発起人のお一人だった菱川善夫先生の和子夫人が、わざわざ北海道から上京されて、出席されていました。菱川先生は、昨年の暮れ、間村さんの句集が刷り上がる寸前に急逝されたのでした。私は和子夫人とも少し面識がありましたので、どういうお気持ちでいられるかと心を痛めていましたが、まさか、昨夜の会においでになられるとは思ってもいませんでしたから、とても驚きました。

 さすが、フランスで絵の個展をなさる方だけあって気丈でいられると感嘆しました。が、あとで直接伺ったら、「そうじゃあないんですよ。ホテルを出る二時間前まで、どうしようか、このまま帰っちゃおうかと、ベッドで寝ていました。」とのこと。いっしょに、心で泣いてしまいました。それで、今日は、菱川先生のことを書かせていただきます。

 私と菱川先生の出会いは、月光の会が催した講演会に菱川先生をお迎えしたときのこと。記録係にカメラマンとして駆り出されてご挨拶したのがはじまりでした。その日の二次会で、たまたま私が山中智恵子さんの『明月記をよむ』を読んでいる話をしたら、先生が「明月記なんて読むの?」と驚かれたのです。

 私は短歌世界に疎く、月光の会に入会していても、短歌とは無縁に「文学」として福島先生のフィールドに加わらせていただいているだけですから、短歌世界では神様のような存在の菱川先生を存じ上げていませんでした。それで、そのとき、何故そんなに驚かれたのか理解できませんでした。先生は国文学畑のご出身で、高名な風巻景次郎先生の門下生。評論家になる前は国文学者となることを嘱望された方だったんです。

 その後、いろいろ書き残しておきたい貴重な思い出は尽きませんが、今日は現在執筆中で、この春刊行予定の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』に限って書かせていただきます。

 この原稿にかかったのは、一昨年の秋ごろでした。昨年三月のある文学賞に向けて書き出したのが始まりです。が、三月になっても終わらずにしまったので、それで意を決して自費出版をという運びになったのでした。なにしろ、今年は源氏物語千年紀。せっかく源氏物語にかかわる本を出すなら、この年にと思ったのです。

 この本について書きだすと長くなりますので、割愛しますが、最初はただ単に「『河内本源氏物語』校訂者の源光行を調べて書く」程度のはじまりでした。光行についてはあまりわかってなく、資料もあまりありませんし、『吾妻鏡』にもほんの数回くらい登場するだけ。これでいったい書けるのだろうかと、相当不安な出だしでした。

 が、それが、意外な展開になって、なんと、『源氏物語』写本をつくった光行は、平家文化の真っただ中に生まれて育った、生粋の平家文化人だったということがわかったのです。『源氏物語』写本として、光行の『河内本源氏物語』と二大双璧を成す『青表紙本源氏物語』校訂者の藤原定家も、同様でした。二人は一歳しか違わない同時代人です。

 これまで、『源氏物語』と『平家物語』はあまり関係なく、定家と光行もライバルとしてあまり仲がいいとは思われていませんでした。まして、定家は『明月記』のなかで、現実に起こっている源平の争乱は、文学者である自分とは関係ないというようなことを記していますので、定家を平家文化の人とする常識はまったくありませんでした。ただ、谷山茂氏お一人を除いて。

 谷山氏は、『新古今和歌集』の妖艶美を、選者定家らが、感性の磨かれる思春期を平家文化絶頂期に育った故というご論文を発表されています。

 それが、光行にも当て嵌まったのです。そして、それこそが、定家と光行の、奇しくも時を同じくして生きた二人の文学者が、『源氏物語』写本という膨大な業績を、生涯をかけて成し遂げる原動力となったのでした。

 原稿の第一章でそんなことがわかってきたので、当初、本のタイトルは『平家レクイエム』と決めていました。そして、その第一章を菱川先生に送らせていただいたのが、昨年の春でした。

 先生からはすぐお返事をいただきました。そこには、「驚きましたね。平家文化の余光のなかで、源氏物語と平家物語がドッキングし、定家と光行が見えない糸で結ばれて・・・」と書かれていました。

 古典に関する文章を書くようになってから、私は菱川先生のご感想を戴くのがとても楽しみで、とても力強い応援になっていました。そのころまだ先生が国文学者でいられたことを存じ上げませんでしたから、どうしてこの方はこんなに国文学世界に理解があられるのだろうと不思議に思いながら。

 いつもお便りは嬉しく有り難く貴重な内容でしたが、このときのご感想はなかでも特別に嬉しかったですね。とても自信になり、安堵をいただきました。なにしろ、内容は、まだどなたも書かれたことがないどころか、定家と光行が互いに反目し合っているというようなことの方が、国文学の世界では通用しているのが現状ですから。

 この本が出た暁には、きっと、菱川先生が最初にどこかに取り上げて、書評をしてくださることを、私は信じていましたし、楽しみにしていました。以前にも、名もない私の「白拍子の風」という小説を、北海道の新聞のコラムに載せてくださったりしていましたので。が、先生が亡くなられて、その夢も消えました。

 昨年秋、原稿のための取材で厳島神社を訪れた際、「新平家物語」という風雅な名のお菓子をみつけて、菱川先生にお送りしました。原稿が終りにさしかかっていて、刊行のめどが立ってきた報告を書き添えて。すぐにお葉書のお礼状が届きました。そこには、「必ずや詩神が天恵を与えてくれると信じています。」と書かれていました。

 先生の訃報をきいてしばらく茫然自失状態が続いたあと、ふっと、先生のこのお言葉が、先生の私に対する遺言だったんでは・・・と思いました。何かを感じられて、先生は渾身の思いをこめて書いてくださったのでは・・・と。

 間村さんの出版記念会でお会いして、和子夫人のそのことを申し上げてみました。すると、夫人は、「そうだと思いますよ。あのころはもう書くのも辛くなりかけてましたから、字が乱れてましたでしょ。」と。気がつかなかったのですが、訃報を知って改めてお葉書を見たときに、字が乱れていることを私も認めていました。

 それからずっと、原稿を書きながらも菱川先生のことが頭にあり、過ごしていたとき、ふっと、そうだ、先生のあのお手紙を「あとがき」に載せさせていただこうと思いました。叶わなくなった先生のご書評の代わりに。そして、それに何より、先生のあのお手紙が、この本の内容を顕著にコンパクトにまとめて教えてくださっていますから。

 昨夜、和子夫人にそのことを申し出てみました。「載せさせていただいていいでしょうか。」と。夫人は、「どうぞ、そうして下さい。織田さんのことは主人もいつも心にかけていましたから。」と。そして、私はそのお手紙をコピーして、和子夫人にお送りさせていただくことをお約束して別れました。

 年末年始の所用以外にもいろいろあって忙しく、一月には書き上げている予定だった原稿に、今年に入ってまだ一度もとりかかっていません。このままでは、標榜している「春刊行」も危うくなりそう。でも、昨夜和子夫人にお目にかかったのを機に、また原稿世界に戻ることにします。ご訃報に接しても、泣いたり涙を流したりする悲しみよりは、呆然自失状態でした。昨夜、和子夫人にお目にかかったら、突然涙が溢れて困りました。和子夫人の方が気丈でいられるのに・・・。菱川善夫先生のご冥福を心からお祈り申し上げてやみません。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/

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