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2008.2.28 HP【寺院揺曳】15をアップしました。宇治平等院前庭の洲浜の写真を載せました。

 この回は主に『親玄僧正日記』の親玄と今小路西遺跡との関係について書いています。今小路西遺跡というのは、鎌倉の御成門小学校の建て替え時に現われた中世の遺跡です。大量の高級舶載陶磁器が出土したことから、鎌倉幕府の高級官僚の屋敷跡といわれます。安達泰盛の邸宅だったという説もあります。

 高級舶載陶磁器とは、中国の主に宋の時代の磁器製品で、景徳鎮窯の青磁が有名です。今小路西遺跡からは、酒会壷(しゅかいこ)と呼ばれる特殊な形状の青磁の壷が大量に出土しました。

 酒会壷では、先に称名寺の金沢北条氏第二代当主顕時の墓から出土したものが有名だということを記しました。顕時も、『親玄僧正日記』に登場します。

 連載で、私が「それにしても親玄はどこに居住していたのだろう」と書いたのを読まれて、峰岸純夫先生がお電話を下さり、今小路西遺跡がそうではないかと思っているとの旨をお話してくださいました。根拠は、遺跡から「白砂」が発掘されているからです。

 白砂は、寝殿造りの邸宅の南庭に敷かれていることで知られています。あと、寺院の庭にも敷かれています。仁和寺を訪ねたときに、この「白砂の庭」を見たときは感動しました。あと、宇治平等院の前庭にもありますね。あのような光景が今小路西遺跡にもあったのです。これは、ただの武家屋敷ではありません。というよりも、寺院と思ったほうがしっくりきます。

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 それで、そのことを、連載「15」で、遺構から確かめてみました。結構リアルに浮かびあがってきたものがあり、自分でも面白かったのですが、ここは、考古学の知人の方からも反響をいただきました。菱川善夫先生からもご丁寧なお便りをいただき、とても嬉しかったことが思い出されます。菱川先生のお便りは、そのままご紹介させていただきたいくらいの名文です。剣先の鋭い、きらっとした刃のような風格がお有りです。

 あと、今小路西遺跡出土の高級舶載陶磁器ですが、調査報告を拝見すると、「ふつうの日常生活のものではないのが多い」とあります。酒会壷など、ふつうの暮らしに用いるものではありませんし、高級官僚でも、持っていたとしてせいぜい一個でしょう。それが大量にあったということは・・・、やはり峰岸先生の寺院説が正しい気がします。

 それにしても、酒会壷で有名な顕時と、その顕時も登場する『親玄僧正日記』の親玄が住していたかもしれない遺跡出土の大量の酒会壺・・・

 今小路西遺跡が「寺院」跡だったことは証明されていませんし、峰岸先生のお声も鎌倉の報告書には反映されていませんが、酒会壷は単なる偶然ではないと私は思っています。

追記:写真の宇治平等院は2006年5月4日撮影です。洲浜と呼ばれる白砂の水際が新しくなってからのものです。発掘調査によって確かめられた遺構どおりの形状で復元されましたので、これより以前の、例えば美術書や絵葉書等の写真とはかなり違う光景になっています。水際の小石も、どこから採取されたかを調査し、わざわざそこのものを使うようこだわって復元したそうです。

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2008.2.27 HP【寺院揺曳】14をアップしました。

 昨日アップした「寺院揺曳」13で、京極為兼についての項を終わり、この回から冷泉為相について考察する予定でした。が、書き忘れていたことがあって、この回もやはり為兼について終始しています。

 主だった内容としては、『中務内侍日記』や『徒然草』、『玉葉和歌集』から為兼について触れて書いている部分を引用し、為兼がどういう風姿で、どういう評判の人物だったかを考えています。

 また、為兼が藤原定家の曾孫であることから、御子左家の系図をさかのぼって、俊成と縁戚関係のある女性の日記、『讃岐典侍日記』について書き、定家の歌の根幹を成す「妖艶美」はここに源流があるのでは・・・という論を展開しています。

 これまでずっと歴史的観点でもって為兼を見、また、書いてきましたが、この回はとても文学的で、「寺院揺曳」のなかでは異質な、余情ただよう内容になっています。

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2008.2.26 HP【寺院揺曳】13をアップしました。

 「寺院揺曳」13は、下向した京極為兼の記事が『親玄僧正日記』にある驚きからはじまります。親玄が久明将軍を訪問すると、先に為兼が来ていて、将軍と話していたのでした。おそらく、御簾の向こうで・・・

 そこまで将軍に近寄ることができませんから、親玄は気配で両者のようすを感じるだけです。ということは、親玄の嗅覚や聴覚と一体になって、読む私たちは為兼を感じるのです。

 これって、凄いことと思いませんか。文学上、誰それに関する記述は多くあり、それによって私たちは「知識」として知ることができるわけですが、「感じる」レベルの記述なんて、そうそうありません。私はまだこの日記での経験だけです。それも、将軍と高級官僚との談話の場面、しかも、御簾と通して、となると、それはもう、馥郁とした王朝生活の一場面そのもの。『源氏物語絵巻』の世界に薫りまで伴って・・・です。興奮して書いてしまいました。

 この「13」で京極為兼に関係する記述は終わり、冷泉為相に話が移ります。

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2008.2.25 源通親のこと

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、『河内本源氏物語』の校訂者源光行の生涯を追って書いています。

 光行には『水原抄』という大部の源氏物語の注釈書があったようですが、残念なことに現在それは残っていません。ただ、子息の親行以降の人々が、光行の偉大さを世に残すために、『水原抄』から重要な箇所を抜粋した『原中最秘抄』という書が残っていますので、それによって概要が知られるだけです。それは、ほんとうに大変な業績だったようです。

 『原中最秘抄』には、光行が『源氏物語』の校訂を成すにあたって、四人の人物から協力を得たということが記されています。それは、藤原俊成、後徳大寺実定、後京極良経、久我通光、です。

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』では、その四人と、光行が生涯のどの時点において接触したかを、年譜を追うかたちで書き進めています。種明かしをしてしまいますが、その順をいうと、後徳大寺実定、藤原俊成、後京極良経、久我通光、です。実定とは思春期のころ。俊成、良経とは『新古今和歌集』の時代に、そして、通光とは・・・

 原稿は三人の考察を終えて、これから最後の一人、久我通光の考察に入ります。

 通光は源通親息です。それで、原稿は通親の説明からはじめることにして、図書館へ行って、吉川弘文館の人物叢書から、橋本義彦著『源通親』を借りてきました。

 従来、通親は冷徹な政治家とのみ語られていて、まったく悪者でした。私もそう思っていました。というのも、私は藤原定家が仕えた人というので、九条兼実の贔屓です。その兼実を失脚させたのが、通親だったのです。

 兼実の日記『玉葉』に、通親を悪く書いてあり、通親自身に日記がないことから、従来の解釈では『玉葉』どおりの人物で思われていました。が、それは、対立し、失脚させられた人物の目で書かれたものです。そのまま受け入れていいはずはありません。私は歴史の国文学も素人から入りましたから、当初はまったく鵜呑みに通説を信じ、通親は大嫌いなどと思っていました。

 けれど、いろいろな事情を知ってくると、どうも違います。

 まず、通親は、帝位を降りて失意の高倉院に従って厳島神社に参詣した『高倉院御幸記』を残しています。これは、『源氏物語』が底流に書かれた雅な紀行文学として知られています。どうも、冷徹な悪い政治家というのとは、イメージが違います。

 それから、通親の身内にかの道元禅師がいられます。従来、道元は通親の子息といわれていました。が、最近では子息の通具息といわれているそうです。そうだとすると、通親の孫ということになります。いずれにしても、道元のような高邁な宗教家をだした家系が、そんなにひどい精神の家であるはずがありません。

 さらに、光行が子息通光に多大な貢献をされたと記録にあるからには・・・、これは相当、今までの通親に対するイメージを払拭してかからなければならないようです。というわけで、しばらく通親世界に入ります。

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2008.2.24 HP【寺院揺曳】12をアップしました。

 『親玄僧正日記』を読み込んでいく内容の項です。北条実時息で、金沢北条氏第二代当主の顕時(あきとき)が日記に登場します。それは、平禅門の乱で頼綱が滅ぼされたからでした。安達泰盛の娘を妻にしていた関係で、頼綱が泰盛を討った霜月騒動のあと、顕時は千葉に流され蟄居生活をしていました。

 霜月騒動で安達氏の主だった男子がほぼ全員殺されています。復帰した顕時は、その後、安達氏当主的役割も担って、幕府の中枢ではたらきます。武士というよりも文人気質の顕時は、執権貞時の信任を得て穏やかな晩年を送りました。

 この顕時の文人気質ですが、私は少年期に宗尊親王に仕えたためと思っています。親王は顕時を可愛がっていたそうですから、きっと、顕時は、鎌倉人でありながら、京風の文化を身につけて育ったのでしょう。父親の実時が親王に仕えていましたので、その縁で出仕したのだと思います。

 私は、金沢北条氏の三人の当主のうちで、顕時が一番好きです。金沢文庫を創設し、蒙古襲来時には時宗を助けと、際立って優秀だった初代実時。長く六波羅探題にいて、鎌倉に帰ってからは三人のうちただ一人執権になって金沢北条氏の最盛期を築いた三代貞顕(さだあき)のあいだにあって、あまり語られることのない地味な存在ですので、『親玄僧正日記』に登場したときには嬉しかったですね。生き生きと感じられました。

 顕時に関して、考古学的には、称名寺境内のお墓から取り出された青磁の酒会壷(しゅかいこ)が有名です。これについても、私は『親玄僧正日記』とのかかわりで思うところ有りで、いつか掌編に書いてみたいなあと思っています。「ある日の北条顕時」みたいな題で、老年になった顕時が、称名寺境内の池を眺めながら、かつての日々を思う・・・みたいな。

 「寺院揺曳」12では、『親玄僧正日記』から、京極為兼の書状を紹介させていただいています。伏見宮廷に仕える歌人為兼。藤原為家の孫ですから、定家の曾孫。そういう為兼が醍醐寺僧正の親玄と接触していて、親玄は佐々目遺身院の頼助と交流があって・・・と、思いがけない人脈の発見にわくわくして書きました。

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2008.2.23 竜巻のような褐色の強風の中・・・、撮りに出ました!

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 14:30頃、急に窓から見る空に黄砂のような風が吹き荒れて、急いで撮りにでました。防寒コートにフード、マスクにサングラスという出で立ちです。通りでは看板が風に唸るし、物は飛んで来そう・・・、足元ではしょっちゅう小さな竜巻状の風の走りが起きています。
 まさかほんとうに竜巻になるのではないだろうけれどと、常に周囲を見回して、竜巻の通り道だったら大変なのでとても注意しました。頭のなかは、自分が吹き飛ばされるか、無事に帰ったとしても家が飛ばされていたなんてことも・・・、といろいろ思念が吹き荒れました。
 こんなときに撮りに出るなんて無謀と思いながら、でも止められないのが以前にカメラマンをしていた習性です。カメラマン根性の底には決定的瞬間を見逃したくない思いが強烈に根付いています。それはきっと生涯変わらないでしょう。ただ、私は人為的・事件的なものは絶対に撮りません。撮りたくないのです。撮るのは、人間が畏怖することを忘れてはならない自然だけと決めています。
 今日の風は異常過ぎました。この土地に住んではじめてする経験、というよりも、生まれてからこの方、こんな風の経験はなかったと思います。風は西から来て、東へ駆け去りました。風が抜けてこちらでは青空が見えたころ、東の都心で電車が止まるテレビのテロップが出始めました。千葉の友人の話では雨と落雷もあったそう。日本海の低気圧の影響だそうですが、東の千葉も気になります。
 ほんとうは、この規模の異常さなら、一眼レフを持ち出したかったのですが、砂塵にやられるのがわかっていますから、コンパクトのデジカメにしました。そうしたら、見事に「迫力負け」。撮っているときの必死さほどの画像が撮れずにしまいました。でも、記録として載せておきます。

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2008.2.22 長尾雅人氏『中観と唯識』から興福寺の無着・世親像へ・・・

 昨年暮れに、「織田百合子」の公式サイトを立ち上げるために、ドリームウィバーの対応書や何か参考になるものをと、書店をうろうろ回っていたら、仏教書の棚の前にさしかかり、ふと目を止めたのが、長尾雅人氏『中観と唯識』でした。岩波書店刊行で、「待望の復刊」ということを記す目立つ帯がついていたのでした。

 なんとなく気になっていた本ですので、手にとって中を繰らせていただきました。そうしたら、すうっと、身体の中心に気がとおって、心がとても穏やかになりました。

 そういえば、唯識なんて、夢中になって読んでいたのはいつだったかしら・・・と懐かしくなり、購入しようと価格を見たら、七千円を出ています。字は細かいし、今は読んでいる余裕がないからと、一度はあきらめました。が、その後もぐるぐると書店をまわっていても、心の中ではこの本のことばかり考えています。それで、再び仏教書のコーナーに行ってこの書をとると、やはりすうっと心が澄んでいきます。

 そうか、ここのところずっと歴史ばかり追っていて、こういう心の書から離れていたからなあと、自分の今の心境が、如何に殺伐としているか気づかされて、愕然としました。読書って、そのときどきの読みふける傾向で、そのときの自分のありようを知らされますね。結局、こんなに心が透き通るならと、『中観と唯識』を買って帰りました。清涼剤としてはちょっと高価でしたが・・・

 その後、ずっと、本は本棚に置かれたままでした。サイトを立ち上げたり何やかやと、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』のために、心を尽くしていたからです。でも、PCを打っていて、ふと目をあげるとこの本がある・・・。すると、ふっと、心が落ち着く・・・、みたいなことを繰り返していて、清涼剤としてはとても効果大でした。

 先日、三島由紀夫の「中世」を読んでいたら、まさに「これぞ、文学!」の思いが湧いて、いつからこういう薫り高い文学から離れていたのだろうと、感慨に浸ってしまいました。『紫文幻想』を書いていても、源光行の人生を追って書いているので、どちらかといえば伝記、歴史の範疇・・・。文学とはほんとうに久しく遠ざかっているのです。

 「中世」は足利義政を主人公とする中世が舞台の小説です。読み始めてすぐ、そこに底流する仏教観に、心が浸透されました。そして、そうか、三島は『豊饒の海』で唯識を書いていたのだった・・・と思念が行き、そうしたら、なんだかとてもその世界が懐かしくなって、ふと目を向けたその先に、長尾雅人氏『中観と唯識』がありました。

 そうか、やはり、読みたいなあ・・・という気になって、目次を繰り、「転換の論理」という項目を選んで読み始めています。わからないながらも、心の澄んでいく世界です。

 そうして、無着・世親という名の頻出するこの本の世界から、興福寺の無着・世親像を思い出しました。このお像に拝したのは、たしか東京国立博物館だったと思うのですが、展覧会会場ででした。奥まった部屋の一室に、特別な扱われ方でお二人は立っていられました。
http://www.kohfukuji.com/kohfukuji/01_index/f_main_d.html

 凄い、と思いました。

 たぶん、この二体の仏像は、彫刻のなかでも他を圧する最高峰・・・という気がしました。

 いったいに、仏師といわれる方々は、どれくらいに仏教を修めて仏像をつくられるのでしょう。運慶・快慶といった方々の仏教理解は、高位の僧侶といった方々に匹敵するレベルかもしれません。無着・世親二体にあらわれている静謐・・・。唯識の祖のこのご兄弟を、これだけの風格で彫り上げるには、並大抵の仏教理解ではできない気がします。おそらく、難しい教義はともかく、全身全霊で彫る彫刻作業は、仏教の修行と悟りの行為そのものになのでしょうね。

 『中観と唯識』に無着の文字が目にはいったことから、こんなふうな思考の流れになっています。私はご兄弟のうち、無着になんとなく惹かれ、この文字を目にするだけで、すうっと心が澄んでいき、まさにわたしにとっての清涼剤なんです。仏教の専門の方には怒られてしまいそうな不埒な話ですが、これも一種の救いと思って許されて欲しいですね。

 ちなみに、世親には『唯識二十論』があり、真鍋先生には読むよう勧められています。で、一応、「読んで」はみましたが・・・。こういう著は、読んで、活字に目をとおして、理解して、わかる・・・というものではありませんから、大変。なんだか、いろいろ書いていたら、これらの世界が懐かしく甦ってきました。

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2008.2.21 三角洋一氏「『海道記』の動物描写について」を拝読して・・・

 鎌倉時代の紀行文学『海道記』は、作者が記されてなく、未だ解明されていません。以前は、鴨長明説が有力だったらしいのですが、現在は有り得ないこととして否定されています。冒頭に貞応二年(1223)四月に京を発って鎌倉へ赴くとあり、鴨長明はその時点ですでに故人です。

 一説に源光行説があって、これが内容からみて一番適切そうなのですが、書いてある内容と光行の事跡と合わないところがあり、確証が得られません。

 でも、私は、『河内本源氏物語』の校訂者として、ずっと光行を追っていて、『海道記』作者は光行でいいと思ってみています。記述の合わない箇所は、例えば「初旅」とあるのが、光行はそれ以前に10年前後、すでに鎌倉で暮らしています。

 が、それでもなお光行が作者として妥当と思うのは、というより、光行でしか有り得ないと思うのは、いかにも漢学者らしい文体に加えて、その内容です。

 光行は、承久の乱のときに、後鳥羽院方につきました。10年前後鎌倉にいて幕府に仕えていたにもかかわらず、です。それは、先日、飛鳥井雅経との交流で少し触れて書きましたが、鎌倉にいては文明に取り残されてしまうのを痛感して鎌倉を離れ、在京していたからでした。上洛した光行は、後鳥羽院に北面の武士として仕えます。そこに承久の乱が勃発。成り行き上、光行は院方の人物になってしまいました。

 鎌倉としては、当然激怒します。斬罪にあうところを、鎌倉に仕えてした子息親行(ちかゆき)の奔走で助かります。が、同じ立場で、親行のような助けのなかった人たちは、鎌倉に護送される途中でつぎつぎに斬られています。

 『海道記』には、下向の途次、その斬られた人たちの地にさしかかると、その人たちが宿の柱に書き残した詩歌を見て涙を流し、とめどもなく長い感慨を記しています。それは、たまたまそれを目にしたから思いが湧いたというよりも、そもそも、旅の目的が、自分一人が助かって、他の人たちが露と消えたことに対する罪の意識からくる、それらの人たちへの哀悼の旅ではなかったかと思うに十分な、量と質です。

 文学ですから、いくら紀行文とはいえ、日時を正確に書く必要はありません。それどころか、一度は罪人になっている身ですから、作者として知られたくない思いがあった・・・。そうしたら、あえて到底自分とは見破られない嘘を書くでしょう。例えば、「初旅」くらいのは。

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆は、あと少しの項目を残して完了します。その最後が、光行のこの『海道記』との関わりなのです。ですので、『海道記』という文字が目に入ると、目を通すのが習慣になっています。

 書店にあった『国語と国文学』(おそらく最新号)に、三角洋一氏「『海道記』の動物描写について」があるのを見て、早速図書館でコピーして拝読しました。(『国語と国文学』は一本の論文だけを目的に購入するにはちょっと高いんです・・・)

 「動物描写」から光行の作者説が浮かび上がるのを期待しても無理とは思いましたが、ともかく読ませていただきました。三角氏の説は、「漁夫や小蟹、蛙などに注がれる作者の視点を、仏教的な思惟で押えられるか」ということです。結果は、なんて書いてしまっては三角氏に畏れ多いのですが、かなり、相当「深い」のでした。私には、やはり、光行くらいの人でないと、教養的にも、歩んできた人生波乱の経験的にも、これは書けない・・・と思いました。

 三角氏によると、『海道記』は、「動物の振る舞いや人の行ないをわが身のこととして内省する作者」が、「漁師にあっても魚においても、生きていくための営みが命を縮めることになる不条理を見据え」た、「中世の知識人の手になる、儒仏の思想にもとづく観察、表現を展開させた一級の作品」となるそうです。

 三角氏は作者については一言も触れていませんが、私はやはり作者は光行だ、という思いを強くしました。

 久し振りに仏教の深みの論文を拝読して、心が浄化されました。

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2008.2.20 HP【寺院揺曳】11をアップしました。

 この回から、『親玄僧正日記』に入ります。『親玄僧正日記』はあまり知られていませんので、「寺院揺曳」から引用してご紹介させていただきます。

 親玄という方は久我道忠の息。醍醐寺にはいり、二十八歳で師親快より受法。柔和な性質でかつ密教僧として資質が秀でており、師の信用も篤かった。すくなとくも正応五年以前、すなわち四十八歳までには鎌倉に下っていたと思われる。のちに醍醐寺座主までのぼりつめた方です。(写真は醍醐寺五重塔)

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 親玄が鎌倉に滞在、佐々目遺身院に住していたときの日記で、のこされている記述は正応五年から永仁二年にかけての三年間。祈祷僧として幕府や将軍家に近侍していたため、貞時や久明親王の日常がことこまかに書かれていて、『吾妻鏡』なきあとの、鎌倉末期の公武関係を理解するうえで貴重な史料となっているそうです。

 日記には、密教修法(すほう)である「孔雀経法」についての記述があり、それをめぐって書いているうちに、思いがけない発見をしました。「孔雀経法」というのは、孔雀明王像をかかげてする祈祷法で、仁和寺の守覚法親王が、中宮徳子の安産祈願に修されたのが有名です。国家にかかわる祈祷法といっていいでしょうか。

 私は、もともと孔雀が好きでしたが、それとはべつに仁和寺の宋画「孔雀明王像」に惹かれていましたから、『親玄僧正日記』にこの修法が登場したときも、まさかこんな発見につながるとは思わずに、ただ、「仁和寺の孔雀経法」が鎌倉でも行われていたという興味でもって、日記のなかからその部分をピックアップしたのでした。が、なんと、それは「平禅門の乱」にかかわっていたのです。

  平禅門とは、平頼綱のこと。あの安達泰盛を倒した頼綱が、今度は貞時に倒されることになる内乱です。鎌倉の「孔雀経法」は、ひそかに頼綱調伏の意を込めて修せられていました。親玄は、「平禅門の乱」にかかわっていたのでした。この回は、それをめぐって書いてあります。ちなみに、親玄は久我家の出で、『とはずがたり』二条とは非常に近しい間柄です。二条はどこにも登場しますね!

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、先週、今年に入ってようやく原稿執筆を再開。今日、源光行と飛鳥井雅経の項を書き終えました。光行と『新古今和歌集』は、一見まるで関係なく見えますが、深いところで光行の人生を左右しています。それに飛鳥井雅経がかかわっているのです。

 今まで知られている部分だけの通史的理解では見えなかった、人と人のつながりを掘り起こしています。歴史も文化も、「人間の動き」あってのこと。「人間がつくる」ものですから、人と人のつながりが思いがけない事象へ発展したからといって、驚いてもはじまりませんね。それよりか、事件や事象の側からだけで人間を語っていた従来の視点では、一面でしかなかったのだということを実感しています。

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2008.2.19 三島由紀夫「中世」から日野の法界寺へ・・・

 文庫本『ちくま日本文学 三島由紀夫』で「中世」を読んでいたら、ふと、日野の法界寺を思い出して、HP【古典と風景】http://www.odayuriko.com/に画像をアップしました。登場人物が足利義政で、応仁の乱という言葉に触発されてのことです。堂内は撮影禁止で、外観だけの写真ですが・・・。境内は、当時はもっとずっと広かったそうです。

 「中世」は、一月の源氏物語の会で、高橋文二先生から読むよう勧められた小説です。源氏物語のお話のなかでのことでしたが、どういう脈絡だったか忘れました。が、読まなくてはという気持ちだけは残っていて、図書館の全集で探そうと思っていたところ、通りがかった書店の店頭に積み上げられていたこの文庫本をみつけたのでした。「中世」が入っているかしらと、まさかそんな都合のいいことが・・・と思いながら手にとると、入ってました! それで購入して帰って、早速読んでいるというわけです。

 高橋先生は源氏物語がご専門ですが、三島由紀夫にも造詣が深くいらして、『三島由紀夫の世界―夭逝の夢と不在の美学』という本も出されています。私は長年のカルチャーのお講義のなかで、三島由紀夫の古典への造詣の深さに触れたお話に、とても養っていただきました。戦争中、燈火管制のもとで、三島由紀夫は世情への暗澹たる思いを抱きながら、一人『新古今和歌集』に浸り、そうすることで自分のなかに美学を鍛え上げていった・・・とか。

 谷崎潤一郎も、戦争中、『源氏物語』の現代語訳に没頭しつつ、殺伐とした世の中にあっても、みずからの精神の孤高性を保っていたといいます。

 古典にはそれだけの力があります。というか、長い歴史を生き抜いた古典には、それだけの命の輝きがあるのでしょう。暗い戦時下で、どれだけの文学者が古典の輝きに照らされて生きる思いを研ぎ澄まされてしのいだか・・・

 「中世」も、そうした三島由紀夫の古典への造詣を語る作品のひとつと思っていました。そうしたら、意に反して、れっきとした小説・・・。困ったなと、一瞬ひるんだのですが、読みに入ったら・・・

 ひるんだというのは、目下のところ執筆中ですから、感情に入り込まれるような他の作品は読まないことにしているからです。なので小説はもうほんとうに、随分久しく読んでいません。

 が、「中世」は・・・、一瞬でも目を通したら、そのままぐぐっと読み進まざるを得ない。そういう小説でした! もう内心あきらめて、「これは、読むしかない」と・・・

 「中世」については、とうてい書き流せませんので止めますが、その代わりに、「応仁の乱」で触発された日野の「法界寺」について少し書きます。京都府伏見区の日野にある寺院で、日野富子をだした日野氏の菩提寺です。

 日野は、古典を読んでいるかぎりでは馴染みの土地ですが、観光地としてはほとんど人の訪れることのない一帯です。でも、近くには醍醐寺があり、勘修寺(かじゅうじ)があり、小野小町ゆかりの随心院があり、といったふうに、とても由緒ある地域なのです。勘仲記を読む会に参加して、中世のこの時期のことを何も知らなかったので、京都に行く機会があったとき、一念発起して訪ねました。

 出発前に、仏教美術史家の真鍋俊照先生にお会いすることがあり、その話をしたら、「是非、法界寺の小壁を見てきなさい」と言われました。「飛天の壁画があって、仏教美術史上とても貴重なものなのです」とのことでした。法隆寺の金堂壁画は焼失してしまいましたが、それに匹敵するほどの価値だそうです。鎌倉時代の作です。真鍋先生のお話で、それまで漠然とだった日野の旅行の目的が、明確に「法界寺」の壁画に定まったのでした。

 その壁画は、国宝の阿弥陀堂のなかにあります。真鍋先生のいわれた「飛天像」は、お話をうかがっているうちに、「ああ、あれが・・・」と、飛天像では美術書を繰ればかならず目にする有名なものです。ですから、そういう貴重な物件なら、さぞ厳重に保存されていることでしょうからと、ほんとうに拝観させていただけるのか、心配でした。

 が、お寺の方に申し出て、幾ばくかの拝観料を払うと、そのお寺の方が「どうぞ、ついて来てください」と、いとも簡単にその国宝建築のなかへ招じ入れてくださったのには驚きました。壁画はその内陣にあり、お寺の方の懐中電灯に照らされて浮かびあがる飛天は、まさに美術書で目にしたことのある飛天で、嘘のような驚きにつつまれながら、一生懸命目に焼きつけながら拝観させていただきました。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/hitenzou.htm(下のほうに飛天の画像があります)

 この阿弥陀堂ですが、形式が常行堂といって、私が惹かれてやまない様式の寺院建築です。それは、宇治平等院の鳳凰堂を思い浮かべていただければわかりやすいと思いますが、正方形の空間の中央に阿弥陀さまを配し、周囲が巡れるようになっています。たいていその四面の壁に目もあでやかな彩色壁画がほどこされています。

 門外漢の私などは、美術史的にそんな呑気な綺麗事の言い方をしてしまいますが、ほんとうは、常行堂は、九十日間、不眠不休で念仏を唱えながらぐるぐると阿弥陀さまの周りを周りつづける「常行三昧」という行をするお堂です。比叡山横川で円仁によってはじめられました。なぜか、私はこの行に心惹かれているのです。大原三千院の往生極楽院、中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、大分の富貴寺など、みんなこの形式です。訪れて、内陣に入ると、今も、どのお堂にも、剥落してはいますが、当時はさぞ目も彩だっただろう壁画のあとが残っています。

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2008.2.18 「宮廷のみやび」展の「御堂関白記」と道長の経筒

 最終週の今頃になってお勧めするのもどうかと思いますが、まだ一週間ありますので、展示で印象深かったことを記しておきます。

 まず、最初の展示室に入って驚いたのは、いきなりそこに「御堂関白記」があって、それが寛弘四年(1007)八月の金峯山詣でのところで、しかも、そのときに埋められて、江戸時代に発掘された道長の経筒があること。

 今まで、何度か「御堂関白記」は観ましたが、寛弘四年の箇所ははじめて。経筒も何回も観ていますが、その埋納を記した部分の「御堂関白記」と同じ空間で観るのははじめて。さらに経筒といっしょに発見された、道長書写の「法華経」まであり、これは観るのもはじめて・・・と、私にははじめて尽くしの驚くべき空間が演出されていました。

 書は人を表わすといいますが、図録から、道長の人となりをほうふつとする解説を引用させていただきます。それは、自筆「法華経」についての部分です。

 公家によるこうした写経行為が通常、功徳を積み、後世の保障を目的としており、その信仰を示すものとされているだけに、ともすれば謹厳な面持ちを持つ、言い換えれば緊張感が漂うような印象を見るものに与えるのに対して、道長は実にゆったりとした雰囲気の中でこの経巻を書写していたように感ぜられる。位人臣を極めた人間のゆとりを感じさせる文字といえよう。

 以前、平家納経について書いたときに、清盛の筆跡について触れましたが、清盛の字は、一瞬見ただけで目が釘付けになったほど清冽。シャープな筆致で、ほれぼれするほど綺麗でした。道長の字は、あれほど長く太平の世に君臨しつづけた人物のものとは思えない、とても穏やかな、ゆるやかな感じです。これが両者のそれぞれの人生を象徴しているとしたら、ほんとうにそうだと思ってしまいました。

 『源氏物語』という偉大な業績を成し遂げるのに必要不可欠だった道長と紫式部の関係に水をさしたくないので言い控えてしまいますが、後年両者が決裂したという事実。それが、こういう筆跡の道長に対する紫式部の暗黙の判断で、清盛にだったら、あるいは式部は最後まで従ったのでは・・・、などという気がしないでもありません。道長を私は嫌いではなく、それどころか憧れの人でもあるのですが・・・

 同じ第一室に、『源氏物語』五十四帖のうちの二十帖が展示されています。おかしいのですが、これはいわゆる定家書写とかの特別なものではないし、「御堂関白記」や経筒が国宝なのに対して、重要文化財です。名宝に優劣つけるわけではありませんが、ずっと淡々と「御堂関白記」を観てきた人たちが、このコーナーに来たとたん、「あ、源氏物語!」と、口に出して感嘆し、先に見入っている人が振り返って、「そうなんですよ・・・」みたいに、知り合いでもないのに、突然知り合いのように肩を並べていっしょに見始めるような光景が繰り広げられたこと。多くの名品に圧倒されたとばかりに黙々と見て回る人の会場で、その一画だけがなんだか華やいでいました。『源氏物語』の力って凄いですね。

 この五十四帖は、解説によると、「この『源氏物語』は、藤原定家の手による『青表紙本』、源光行・親行親子の校訂した『河内本』といった著名な二系統の写本とは別本系統の古本三十九巻に、『青表紙本』十五巻を加えた五十四巻からなる」そうです。鎌倉時代に書写されたもので、別本系統では最も古く、「平安時代における『源氏物語』の姿を知ることのできる重要な伝本」だそうです。

 この「『源氏物語』の姿」についてですが、展示されていた五十四帖は、サイズ・形ともに折り紙のような大きさの、ほぼ正方形のものでした。私は思わず心のなかで、「小さい・・・」と呟いてしまいました。なぜなら、見慣れている『尾州家河内本源氏物語』がその二倍以上はあるだろう大きさの長方形なのです。

 これについては、逆の話を読んだことがあり、おかしいのですが、以前、写本を研究されている方の本を読んだときのこと。この方は、京都における写本である『青表紙本源氏物語』を見慣れてらしたので、はじめて『尾州家河内本源氏物語』を目にしたとき、「大きい!」と、大変驚かれたとのことでした。

 それくらい、京都の『源氏物語』と、鎌倉の『源氏物語』は違うのです。受容の形態が違うのでしょうか。その研究者の方は、「さすが威厳を保とうとする鎌倉武士の作ったもの・・・」というような理解を書かれていました。

 第一室の「御堂関白記」と『源氏物語』で話が終始してしまいましたが、ほかにも回るほどに一々「目を点、口からため息」にするしかない「凄い」方々の書ばかり。このブログで書かせていただいてきたお名前だけを列挙させていただいても、後鳥羽院、後深草天皇、花園天皇、重盛、飛鳥井雅経、俊成、定家、為相。圧巻は、最後の部屋の一番最後の展示で、明恵上人の「夢記」。絶句して、思わず立ちすくんでしまいました。

 あと、これは書いておかなければといのが、「粘葉(でっちょう)本和漢朗詠集。昨年夏に近藤陽子先生の王朝継ぎ紙教室に三回だけでしかありませんが、参加させていただいて以来、魅了されてやまない「料紙」の世界です。これも、図録から解説を引用させていただきます。

 「薄茶・白・黄・赤・藍などの具引きを施した上に、亀甲・牡丹・雲鶴・唐草などの文様を雲母(きら)で摺りだした舶載の美しい唐紙(からかみ)」は、料紙の説明。唐紙に舶載のものがあったんですね・・・。見慣れた唐紙とはやはり少し違いました。

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2008.2.18 HP【寺院揺曳】10をアップしました。

 霜月騒動で安達泰盛を討った平頼綱をめぐって書いた章です。泰盛ファンの私にとっては「憎き奴」の頼綱ですが、京極為兼が単独撰者となった『玉葉和歌集』が成立するためには、頼綱あってのことで、これは「感謝」なのです。

 文学者為兼ではない、政治家為兼の活躍するこのあたり、ずっと以前に解明しつつ書いていたころのわくわくした思いを取り戻しました。『とはずがたり』二条も、頼綱に会っていたりして・・・

 それにしても、二条という女性は不思議です。

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2008.2.17 「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」展のこと

 東京国立博物館で開催されている「宮廷のみやび 近衛家1000年の名宝」展にいきました。もっと前に行きたかったのですが、時間がとれずに、来週終了という時期になってやっとです。でも、堪能してきました。

 源氏物語とか、九条兼実とか、そういうことを如何にも偉そうに書いているので、あるとき、知人のお知り合いで旧華族の方がいらして、その方のお名前が特殊で読めなかったので、知人にお訊ねしたら、「○○だよ。君の専門だろ」といわれてしまいました。内心、ぎくっというか、とても驚きました。

 ぎくっとしたのは、「如何にも偉そうに書いていて・・・」と、心のなかでいつも恐縮しているからです。驚いたのは、華族の方々のことが専門だなんて思っていなかったからです。固有名詞を書かせていただいても、今現実に子孫の方々がいられる「○○家」のことではなく、源氏物語といった文学や、歴史が動いた機動力・起爆剤になった方々としてです。そのあたり、いつも心のなかで、ほんとうに「偉そうに書いて・・・」と申し訳なく思っています。藤原定家についても、呼び捨てに書いたりして、今現実に生活していられる冷泉家の方に、ほんとうに恐縮しつつなのです。

 で、「宮廷のみやび」展に行ってのことですが、私は定家から九条兼実に入ったので、藤原氏の流れを九条家側からしか見ていませんでした。なので、他家の方々の話になるといつも系図を参照しつつですが、複雑で、ほとんど理解の外でした。なので、近衛家についてもほとんど知識がなく、この展示への魅力も、「御堂関白記」が出ているから・・・

 第一会場の入り口に近衛家の説明があって、はじめてその流れとか、九条家との関係が理解できました。私にとっては目から鱗。なので、それを図録から引いて書かせていただきます。

 まず、近衛家は藤原氏の宗家ということ。ですので、展示は、ほんとうにそうそうたる名宝ばかりです。私に馴染みの深いお名前だけになりますが、系図を記しますと、

 藤原鎌足→不比等→師輔→兼家→道長→頼通→忠通→基実→となって、この基実から近衛家と九条家にわかれます。基実と兼実は兄弟なのです。九条家は、

 道長→頼通→忠通→兼実→良経→道家→頼経→、となります。

 道長はいわずと知れた紫式部が仕えた人。父の兼家は、『蜻蛉日記』作者の道綱母を苦しめた夫という関係です。子息頼通は宇治平等院を開いた人・・・、と思いはいろいろ広がります。 

 文学に登場する方しか私には馴染みがないので、近衛家の方々のお名前はほとんどはじめてといった方ばかり。中にお一人、『とはずがたり』二条に関係する「近衛の大殿」の鷹司兼平がいらして目が行きました。基実から数えて四代目の当主兼経の兄弟です。

 九条家の側でいうと、兼実の兄弟に慈円、良経は昨日も書いた新古今歌人、道家は東福寺の創設者で、北条実時の漢学の師清原教隆が仕えた人物。その息頼経は、実朝のあとの第四代将軍として鎌倉に下向されました。

 人の世界は、圏内に一人有力な文学者がいるかいないかで、印象が随分変わるなあと、最近とみに思います。例えば、道長にしても、紫式部がいなかったら、こんなに偉大に評価されたでしょうか。系図に並ぶ他の方々と同様の、政治家としての評価でとどまっていたのではないでしょうか。

 逆に、例えば宗尊親王など、ご自身を光源氏と自負されて生きた方のそばに、紫式部のような人がいて、親王のお相手をした女性の方々を源氏物語のように、生きた人物として描いたら・・・、おそらく宗尊親王のお人柄への理解のみならず、存在がずっと普遍化したことと思います。

 文学には命を吹き込む力があります。大変ではあっても、偉大な功労があっても、「文学」に昇華されないかぎり、歴史の一コマ。本物の文学に書かれてはじめて、「人」も偉大になる・・・。そんな気がしています。今のところ、それが該当するのは道長と紫式部の関係だけで、だから、源氏物語の価値がこれほど高いんですね。

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2008.2.16 HP【寺院揺曳】9をアップしました。

 いよいよ、佐々目遺身院の頼助と、京極為兼の接点を記す『親玄僧正日記』にと突入します。この回はまだ前哨戦ですが。

 昨日の日記に書いた「光厳院」についても触れてあります。そこを少し引用・ご紹介させていただきます。

 為兼ひきいる京極派和歌の基盤である持明院統の天皇をここにあげさせていただくと、後深草天皇の皇子でいられる伏見天皇にはじまり、後伏見天皇・花園天皇・光厳天皇となります。いっぽう二条家が師範の大覚寺統は、亀山天皇の皇子後宇多天皇から後二条天皇、そして、後醍醐天皇でいられます。
 この方々が、ほぼ交代々々に天皇の位につかれて権力交代がなされ、それにともなって臣下の方々の栄達、失脚が繰りかえされました。
 帝位につかれた方々を歴代順に列挙させていただくと、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇・伏見天皇・後伏見天皇・後二条天皇・花園天皇・後醍醐天皇・光厳天皇となり、そこに持明院統、大覚寺統のどちらかをあてはめて考えると、いかに政権がめまぐるしく変わったかわかります。
 益性法親王は亀山天皇の皇子でいられますから大覚寺統で、帰洛後の後醍醐天皇のもとでの重用というのもうなずかれます。ということは、佐々目遺身院自体が大覚寺統、釼阿も益性法親王の弟子として大覚寺統、ひいては称名寺も、ということになるのでしょうか。

 一方、宇都宮歌壇と為兼の関係についても記述が始まりました。そこも引用・ご紹介させていただきます。

 
なお、この時期の鎌倉歌壇のようすをうかがうことのできる資料として、『沙弥蓮愉集』があり、永仁元年に為兼が鎌倉に下向したという興味深い記述がある。蓮愉の没年は永仁六年だから、まさに為相の第Ⅰ期中の人物なのです。
 蓮愉の出家前の名は宇都宮景綱といい、宇都宮頼綱の孫。二条為氏、京極為教とは従兄弟にあたる。
 この当時宇都宮には鎌倉とはちがう文化圏があって、宇都宮歌壇というべきものが存在していた。そういう背景があってか為家が頼綱の娘と結婚し、為氏と為教が生まれた。
 蓮愉はその宇都宮歌壇の中心人物で、従兄弟の子である為世や為兼と親しく接し、上洛した折には為兼邸での歌会に参加するなど活躍していた。

 鎌倉にかつてあって、今は廃寺となってしまっている「佐々目遺身院」の歴史をひもどこうと始めたエッセイでしたが、いつかしら、藤原定家の孫の冷泉為相や曾孫の京極為兼の登場するところとなり、歌壇史めいてきています。歴史を人脈でたどると、いわゆる通史とはべつの世界が見えてきて面白いですね。このエッセイは、ずっと前に所属している福島泰樹氏主宰の短歌結社の同人誌に連載させていただいたものですが、とりとめもなく綴っていったのに、なぜかすべてが有機的結合の円のなかに入り込んでくるという、とても不思議な経験をしました。

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2008.2.15 媚薬のような定家の歌

 昨日、『新古今和歌集』について書いて定家の歌に触れたら、禁断症状がでてしまったような感じです。長く禁欲生活をつづけていたような気さえしています。

 定家の歌に熱中したのはいつだったでしょう。きっかけが何だったか、その前後を思いだせないのですが、図書館にならんでいる定家関連の本を借りて読みふけった時期がありました。中に塚本邦雄氏『新古今新考―断崖の美学』がありますが、それは最後のほうです。が、『新古今和歌集』には、まさに「断崖の美学」といった極みの美学があります。そのころは、まだ、『新古今和歌集』が何か、定家がどういう歌人かも、それほど知らずに入ったので、開示された世界は強烈でした。

 塚本邦雄氏と書くと、話がそれていってしまいそうなので、かいつまんでお話しますが、氏は後京極良経の歌を非常に評価していられます。たぶん、定家よりも。たぶん、それは、作歌される方ならではのアンテナなのだろうな・・・と、私は思っていますが。ともあれ、私は、素人的には地味で堅実な良経歌の良さに、塚本邦雄氏経由で目覚めました。

 歌そのものは歴史と関係ありませんから、歴史的には、良経は九条兼実息で、後鳥羽院宮廷に仕えた摂政。『新古今和歌集』では仮名序を書いた人・・・でいいのですが、歌を知っていて、例えば光行との交流などを書いたり読んだりしていると、良経そのひとが人間として立ちあがって動いてくれます。定家も、後鳥羽院も・・・

 塚本氏が絶賛される良経の歌を一首、あげさせていただきますね。
  うちしめりあやめぞかおる時鳥(ほととぎす)鳴くや五月の雨の夕暮

 また話がそれていってしまいますが、私は国文学者岩佐美代子先生の大ファンで、先生の出されるご著書はほぼ網羅して拝読させていただいています。中でどれが好きかといわれても、どれもどれもなのですが、中に読売文学賞を受賞された『光厳院御集全釈』があります。これも、夢中になって読ませていただきました。

 ちょうどそれを読んでいたころ、歴史学者の佐藤和彦先生とお話する機会があり、先生は『太平記』時代のご専門で、光厳院にはご造詣深くいられますから、ふと、バッグに入っていた岩佐先生の『光厳院御集全釈』をとりだして、「こういうご本があるんですけど・・・」と、恐る恐るお見せしました。

 佐藤先生は驚かれて、「知らなかったなあ。これは、凄い。僕も買いましょう」といわれて、食い入るようにページをめくりつつ、目を通されていました。光厳院の歴史を知りたいと思われる方は、どんな歴史書よりも、岩佐先生のこのご本に目を通されたほうがいいですよ。それはもう、緻密に、歴史と、院ご自身の心の襞の奥にまで入って理解させていただけます。

 で、話を戻すと、光厳院も、岩佐先生経由で歌を知っているから、『太平記』など歴史で光厳院の情勢を読むことになっても、ただ歴史として「名前」だけが動くのでなく、「ああ、あの燈(ともしび)の歌を作られた人・・・」というふうに、情緒をもって読むことができます。

 定家の歌の妖艶さを書こうとしてはじめたのですが、思いがけず話が膨らんでそれていってしまいました。

 図書館で網羅して読ませていただいた定家関連の歌の本は、それは私を魅了してやまず、読みふけっているうちに、いつかしら、作歌そのものの秘密というか、読者としては歌の読み方というか、そういう客観的な力も身についた気がします。特にそれは、塚本邦雄氏のご著書が効果大ですね。氏には、『夕暮の諧調』というご著書があります。これも媚薬のようなご著書で、こういう本を読ませていただくなかで、私は『新古今和歌集』世界の理解に深まりました。

 それについてまとめようとしたタイトルの「媚薬のような定家の歌」ですが、書いているうちに拡散してしまいました。代わりに、『新古今和歌集』全般、『新古今和歌集』そのものが媚薬的世界なのだということで、今日は閉めさせていただきます。

 いつまた光厳院の話にいけるか覚束ないので、タイトルを裏切りますが、光厳院の燈の歌の連作をご紹介させていただきます。

  さ夜ふくる窓の燈つくづくと影も静けし我も静けし
  ふくる夜の燈の影をおのずから物のあわれに向かいなしぬる
  過ぎにし世いまゆくさきと思い移る心よいずらともし火のもと
  ともし火に我も向かわず燈もわれに向かわずおのがまにまに

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2008.2.14 後鳥羽院だからこそできた『新古今和歌集』の歌風

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆を再開したら、ちょうど『新古今和歌集』の時代にさしかかっていて、そうか、だから長く中断していたのだ・・・と思い出しました。

 というのも、以前、それは夢中になってこの世界に浸り、定家のこととか、後鳥羽院とかの本をむさぼるようになって読んでいますから、その「大変」さというものがわかっています。勝手気ままに堪能している分にはいいのですが、原稿のなかの一部分にちょこっと要約して書かなければならないと予感したときから、ふうっと溜息をつく思いで、手をだすのが億劫になってしまいました。

 なぜって、熱狂の世界を、淡々と客観的に書くなんて味気ないし、かといって、熱狂をコンパクトにまとめるなんて至難の技。よほどその世界を熟知していないとできることではありません。以前、堪能していたときならできたと思いますが、気分が国文学から離れて歴史になり、文学が和歌から離れて源氏物語になりと、嗜好がまったく変わってしまっていますから、もう、まったく、巨大な暗礁に乗り上げた感じで、考えただけで疲れ果ててしまい、それでいろいろ勝手に理屈をつけては中断していたのだと思えてきました。

 年末・年始の人事的多忙の極みを越え、今また節分という季節の変わり目まで越えて、ようやく原稿に向かって思うのは、『新古今和歌集』世界を書こうとするには、ずっと書きつづっていた光行の、どちらかというとつつましやかな学問的気分を払拭し切らなければならなかったということ。引きずっていては書けないんです。長い中断は、おそらくその為の長い休息だったんでしょう。

 光行の雅経との関係には、『新古今和歌集』の歌風が大きくかかわっています。それで、それを書こうとして、かつて大量に集めてまわった『新古今和歌集』関係の資料をとりだし、要約できる参考文献を探していたら、次第に当時の気分が甦ってきました。

 『新古今和歌集』の歌風は、一言でいって妖艶美です。なので、甦ってきたということは、私のなかが妖艶な気分・・・、妖しく、優美で、頽廃的な・・・

 次第に魅力が戻ってきて、わくわくする気分になっていって、ああ、書けそう・・・というところまできて、そうして気がついたら、今度は、「今、光行の鎌倉について書けといわれても、抵抗感あって書けないだろうなあ・・・」と。

 書くって、そういうことなんです。とっても気分はわがままです。

 せっかくですから、『新古今和歌集』の歌風についてまとめておきます。

 一口に『新古今和歌集』といい、撰者として定家、歌人には雅経がいて・・・と、さまざまよく知られていますが、改めて資料を読み返して思うのは、後鳥羽院の凄さ。定家たち撰者はその手足にすぎませんでした。若き獅子の撰集だったから、専制君主ならではの横暴さの極みだったから、『新古今和歌集』の歌風はあんなふうに見事にまとまったのです。だから、『新古今和歌集』の歌風は、「まったくの後鳥羽院一人の趣向」といって過言ではありません。定家の歌風は、後鳥羽院に摂取されたからこそ生き残って評価されているんですね。そうでなかったら、対立する六条家歌壇に潰されたまま世にでていません。

 後鳥羽院は、高倉院の皇子ですから後白河院の孫。院最愛の寵妃建春門院滋子の孫です。滋子は平清盛の妻時子の妹です。ということは、後鳥羽院は生粋の平家文化人。即位のとき、4歳でした。幼年期は雅な平家文化のなかで育っていたんですね。

 後鳥羽院が有名になるのは、源平の争乱という無骨な時代に帝位につくところからです。そして、専制君主として遊興のかぎりを尽くすという、若い猛々しい血気盛んな人物として・・・

 そのイメージから、従来あまり雅な王朝風の平家文化はむすびついては語られてはいません。が、院の資質の根底は、れっきとして「王朝風」。つまり、妖艶美なのです。

 後鳥羽院がさまざまな遊びにあきて歌に本腰を入れはじめたとき、藤原定家はまだ歌人としては若くて無力。当時隆盛の六条家歌壇に完全に押されていました。院が和歌活動に意欲を燃やし、『正治初度百首』を募ったときも、六条家側の陰謀で、作者からはずされていたのです。そこを、父俊成が、後鳥羽院に直訴して、作者に加わることができたのでした。

 が、蓋をあけてみれば、定家の圧勝。定家の新鮮な歌風に院は惹きつけられ、定家の昇殿を許すまでになり、院の和歌へののめり込みが本格化します。その結実が『新古今和歌集』となりました。あまりに新しい定家の歌を、「新儀非処達磨歌」と誹謗してやまなかった、古い体質の六条家歌人はおのずと衰退します。気の毒ですが、時代の波ですから仕方ありません。

 その定家の歌風の根幹が妖艶美。平家文化の妖艶美をひきずっている院にぴたり嵌まったというわけです。

 この歌風の代表的な歌を書かせていただきます。私の大好きな歌ばかりです。もう、なんといっていいかわからないくらいに、素敵です。

  大空は梅の匂いに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月
  霜まよう空にしおれし雁が音の帰るつばさに春雨ぞ降る
  春の夜の夢の浮橋とだえして峯にわかるる横雲の空
  梅の花匂いを移す袖の上に軒もる月の影ぞあらそう
  駒とめて袖うちはらう蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 少し光行に触れておきますと、定家といっしょに平家文化圏で成長した光行ですが、この妖艶な平家文化を基底とする『新古今和歌集』には、撰者になっていないどころか、一首しか歌が採用されていません。それは、光行が鎌倉にいたから・・・

 中央の、後鳥羽院による和歌の熱狂に、完全に光行は取り残されてしまっています。代わりに、鎌倉でいっしょだった雅経が、蹴鞠で召されて上洛し、歌にめざめて撰者にまでなった・・・

 光行の落胆、失望、後悔といった忸怩たる思いは、考えるだけでも痛切です。このことが、光行のその後の人生を大きく左右したというのが、『紫文幻想』での私の論法です。

注: 後鳥羽院が好きで頻繁に通った水瀬離宮の写真がHP【中世の遺跡と史跡】にあります。

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2008.2.13 飛鳥井雅経と鎌倉の蹴鞠

 昨日予定していて書けなかった、飛鳥井雅経と鎌倉の蹴鞠について書いておきますね。深夜になって、久々に『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆を再開したら、ちょうど雅経と蹴鞠のことを書いたところで中断していました。早く原稿を再開しなければという気持ちが高まってきていて、それで最近、雅経について思うことが増えていました。

 久々というのは、去年の暮れ以来ということ。年末・年始のもろもろの用と、サイト【孔雀のいる庭】の立ち上げに明け暮れて、原稿に向かう気分になれないでいました。でも、久々に戻った原稿は新鮮で、ほどよく客観視もできて、いいかも・・・。なにしろ、年内には書き上げなくてはとの思いで、猪突猛進していましたから、頭がこんがらかりはじめていました。

 前置きはさておいて、飛鳥井雅経に入ります。雅経は、10代の後半から20歳代にかけて、鎌倉の頼朝のもとにいました。大江広元の娘と結婚して、広元邸で暮らしていたようです。

 この広元邸が、現在の鎌倉のどこになるのか知りたいと思っているのですが、頼朝の第一の腹心ですから、当然大倉幕府に近い場所、となるでしょう。が、『吾妻鏡』には、鶴岡八幡宮から六浦へ抜ける道をかなり行ったところの谷戸に、広元の邸宅があり、そこでは裏山の深山幽谷の風情を取り込んで生かした庭園が整備され、将軍の渡りもあったほどの立派な邸宅だったといいます。

 北条実時が、やはり幕府に一番近い一等地に住居を構えながら、称名寺という風雅な別邸を建てていそしんだように、幕府に仕える重臣は、政治家としての住宅と、ゆとりある別邸とを使い分けていたようです。雅経は頼朝に仕えるといっても、頼家の蹴鞠の相手といったような役職ですから、狭い中心部の住宅に住んだというよりは、風雅な奥地の別邸で、雅な新婚生活を送っていたと考えるほうがいいでしょうね。

 六浦へ抜ける道沿いのその邸宅は、おそらく寝殿造りで、暮らしは京都風の雅なものだったろうと私は想像しています。なぜなら、広元自身、京から下ってきた文人ですから。

 でも、新古今歌人の雅経が、一時期、鎌倉のああいう場所で(一度、あのあたりを歩いて見渡したことがありますので・・・)暮していたと考えると不思議です。

 雅経が何故蹴鞠の名人になったかというと、祖父頼輔が蹴鞠の家を確立したからです。それが、何故、鎌倉に下るはめになったかというと、父頼経が源平の争乱の際に義経に加担して、頼朝の逆鱗に触れ、伊豆に流されたからでした。ここには、兄宗長が従っています。

 当時、雅経は10代でしたが、何故か、兄のようには罪に問われずに京に残りました。が、いつかしら、鎌倉に下ったらしく、20代半ばで頼家の蹴鞠の相手をしている記事で、突然登場します。そのころ、大江広元女とも結婚。幕府のなかに雅経がいることが、どれほどそこに京風の文化の香りをもたらしたことでしょう。頼朝自身、都に育って、根底は雅な生活を渇望して生きた人でしたから、頼朝がどれほどか雅経の存在に心安らいだか、目に見えるようです。たぶん、雅経が鎌倉に本格的に蹴鞠を定着させた人といっていいのでしょう。

 その雅経が、今日、新古今歌人として生粋の都人に思われているのは、後鳥羽院に召されて上洛し、新古今撰集の波に巻き込まれたから。

 でも、召された理由は、「蹴鞠の名人」としてでした。広元女と結婚していた雅経は躊躇しますが、頼朝が「行くべきだ」と後押して送りだしたそうです。頼朝自身、雅経を失うのは痛恨の極みだったはずなのに・・・

 蹴鞠の師を失った頼家のその後は、『吾妻鏡』を読んでいても、可哀想です。広元も同情して、京からわざわざ立派な蹴鞠を取寄せて贈ったりしています。おそらく、娘婿雅経に選ばせて届けさせたのでしょう。頼家は嬉しかったでしょうね。

 雅経が去ったあと、いつしかそこに兄宗長が入り込んできて、鎌倉の蹴鞠指南は宗長のはじめた「難波家」が中心になります。祖父頼輔のはじめた「蹴鞠の家」は、雅経の代にになって、「難波家」と「飛鳥井家」に分かれます。雅経が飛鳥井家の祖です。それで鎌倉の蹴鞠は難波家で定着かというと、そうではないことが『吾妻鏡』を読んでいくとわかります。

 雅経の子の飛鳥井教定(のりさだ)が京から下ってきて、将軍家に仕え、そこで蹴鞠をするのです。難波家はやきやきし、種々難癖をつけたりして、両家の争いは加熱する一方でした。そのあたり、『吾妻鏡』から、蹴鞠の項だけを抜き出して流れを見ると、面白いですよ。当事者にとっては大変な問題なので、心が痛みますが。

 教定の子が、飛鳥井雅有です。実時の娘と結婚するあの雅有です。7歳で幕府内で蹴鞠を披露して見せたという記事もあります。雅有は晩年、伏見宮廷に仕え、そこで「源氏のひじり」と呼ばれるなど、風雅な都人にみえますが、じつは、生い立ちは「鎌倉の人」なのです。(「大蔵幕府跡」はHP【古典と風景】http://www.odayuriko.com/をご参照ください。)

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 幕府には重鎮として実時がいますし、実時と教定はともに将軍に仕える仲ですから、その娘と息子の婚姻は自然な流れでした。華やかさにおいて、飛鳥井家のほうが勝っていますから、難波家の人たちは大変だったと思います。

 ともあれ、ここに、『尾州家河内本源氏物語』という、実時書写の『源氏物語』写本がつくられる土壌ができました。将軍には、歌の指南役として、光行の子の親行(ちかゆき)が近侍していましたから。

 光行がはじめた『河内本源氏物語』は、親行によって完成します。実時の『尾州家河内本源氏物語』は、完成してまもない書写本として、『河内本源氏物語』では最も由緒ある写本です。それは、『源氏物語』最後の巻「夢の浮橋」の奥書に、実時の自筆で、花押と、「親行から借りた」という事情と、正嘉二年という年号が記されていることでわかります。

 この正嘉二年は、西暦1258年。今から750年前になります。つまり、源氏物語千年紀の今年2008年は、『源氏物語』だけでなく、『尾州家河内本源氏物語』にとっても、750年という節目の記念の年なのです。昨年秋の東京国立博物館で催された「大徳川展」に、現在の所蔵先である蓬左文庫から、54帖のうちの4帖が出展されていました。「夢の浮橋」帖も出展されていて、奥書の花押もしっかりと見させていただきました。何度見ても、いいですね・・・
http://housa.city.nagoya.jp/collection/index.html

 はるばる名古屋から来た重要文化財の『源氏物語』写本。なんだか遠い話のようですが、東国の私たちにとっては、鎌倉で生まれた、れっきとした「鎌倉の『源氏物語』」です。東国の人はもっと誇っていいと思います。

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2008.2.12 飛鳥井雅経と蹴鞠の桜・・・

 そうだ、写真があったと思い出して準備していたら、すっかり時間がたってしまいました。今日は「飛鳥井雅経と鎌倉の蹴鞠」と題して書こうとはじめたのですが、蹴鞠会場を撮っていたことを思い出したのです。私はまだ実際に蹴鞠をするところを見ていないので、この写真を撮ったときが最初で最後の蹴鞠体験です。それでも、「わあ、ここで蹴鞠をするんだァ・・・」と感激しました。いつか、行事の日程を調べて見に行きたいですね。

 HP【古典と風景】に「京都御所と蹴鞠の庭」として写真を載せました。春の秋の二回、一般公開される京都御所。それを訪ねて行ったら、敷地内の一画に蹴鞠の会場がありました。四隅にマンホールのような鉄格子の嵌まった穴があります。プレーをするとき、そこにそれぞれ柳・桜・松・楓の木を植えます。それを懸かり(かかり)といって、鞠を蹴り上げるときの高さの目印にするそうです。詳しいことは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%B4%E9%9E%A0でご覧になってください。

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 今日はもう時間がありませんので、予定を変更して、「蹴鞠の名人」飛鳥井雅経ならではの歌が『新古今集』にありますので、それをご紹介させていただいて終わりにします。鎌倉の蹴鞠も、語りはじめたらとめどもなくなりますので・・・

 『新古今和歌集』雑歌上より
    最勝寺の桜は、鞠の懸かりにて久しくなりにしを、その木、年経りて風に倒れたる由、聞き侍りしかば、男(おのこ)どもに仰せて、異木(ことき)をその跡に移し植えさせし時、まず罷りて見侍りければ、あまたの年々、暮れにし春まで立ち馴れにける事など、思い出でて詠み侍りける
    馴れ馴れて見しはなごりの春ぞともなど白河の花の下陰

 最勝寺は白河の「六勝寺」と呼ばれる、六つある「勝」がつく寺院の一つです。現在の平安神宮の南一帯がその地だそうです。雅経は、ここにあった最勝寺の境内で蹴鞠をしていたんですね。しかも、度々。それが、「馴れ馴れて」の言葉になりました。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike40.html

 その最勝寺の「懸かり」の桜が年を経て風に倒れたので、別の木に植え替えることになりました。歌は、長く自分の蹴鞠を見守ってきてくれたその桜を悼んで、その前に訪ねて名残りを惜しんだという内容です。懸かりの木と一体になって長年プレーをしてきた、雅経ならではの素敵な歌と思って好きな歌です。

 でも、平安神宮のあのあたりで、雅経が蹴鞠をしていたなんて・・・

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/【古典と風景】「京都御所と蹴鞠の庭」をアップしました。

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2008.2.11 東国生まれの三人の妻

 執筆中の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、あと少しの項目を残して完成です。この「人々」は、『青表紙本源氏物語』校訂者の藤原定家と、『河内本源氏物語』の源光行・親行親子をさすのですが、主人公は光行です。定家と光行は一歳違いで、ともに平家文化最盛期に思春期を生きました。そんなあたりを探りつつ、光行の人生を追うかたちで書いています。

 これから飛鳥井雅経についての項に入ります。雅経は新古今歌人として有名。定家よりすこし年少で、気難しいといわれている定家も、雅経にはおおらかに接し、たがいの家を行ったり来たりの交流をしています。後鳥羽院にも愛されていたりと、誰からも愛されるので、人柄のいい魅力ある人物だったのでしょう。なので、苦労など知らない生粋の「都人」と思っていたら、とんでもない・・・。あの雅経が・・・と思うような大変な青春期を送っていたのでした。

 そして、この雅経は光行とも交流があって、このことが少なからず光行の人生に航路を定めさせた・・・というようなことを、これから書くのですが、あまり知られていないこのあたりですので、探れば探るほど、意外な人物どうしの接触が見えてきて、不思議です。通史のうえでは語られていないから、光行とこの人が・・・、まさか・・・・、と思いつつ年表や周囲の状況を見ていくと、どうしても交流があったとしか思えない・・・、あったどころか、影響をすら受けている・・・・・、というような発見の連続で書いています。楽しいですよ!!

 さて、雅経と光行の交流がどこであったかというと、鎌倉なんです。生粋の「都人」と思っていた雅経が、じつは若いころは鎌倉にいて、頼朝に庇護されて暮らしていたんです。飛鳥井家は蹴鞠の家だから、頼家に蹴鞠を教えていました。『吾妻鏡』には、将軍になっても頼家が蹴鞠に夢中で周囲の顰蹙を浴びる記事が多発しますが、その淵源は雅経でした。

 愛される質の雅経は、鎌倉でも人々に愛されていて、頼朝にも可愛がられていたようです。その雅経がどうして京へのぼって新古今歌人にまでなったかというと、それは、後鳥羽院が雅経の蹴鞠の腕を見込んで京へ召したから。雅経は躊躇しますが、雅経のためを思って背中を押して送り出したのが頼朝でした。このあたり、頼朝の大きさを思います。素敵ですよね、この配慮!!(可哀想なのは、蹴鞠の師を失った頼家ですが・・・)

 何故、京へ?は解決したとして、もともとは都人だった雅経が、何故鎌倉に下向していたかというと、それは源平の争乱にあったからです。父頼経が義経に加担した罪で頼朝の逆鱗に触れ、伊豆へ流されました。その関係で、いつのころからか、雅経も下向したようです。そして、そこに光行も下向して・・・と、一時期雅経と光行は鎌倉幕府のなかでいっしょでした。

 さて、頼朝には「京下りの文人」として有名な腹心の大江広元がいました。雅経は、この広元女を妻にしています。頼家に蹴鞠を教えていたころのことです。頼朝お気に入りの若い京の貴公子です。頼朝が勧めれば広元も嫌とはいわなかったでしょうし、広元自身、京の出身ですから、落人とはいえ京の流儀を身につけた雅経に肩入れしていたことでしょう。が、私はそこに、広元女その人が夢中になって惚れ込んだ、というような状況の方が可能性高い気がします。

 だって、東国生まれとはいえ、もともとは京の人間である広元に育てられた女性です。無骨な鎌倉にあって京への憧れを抱いていたところに、若い貴公子が落ち伸びてきた・・・。気の毒さもあって親身になって世話をしたのではないでしょうか。年齢はわかりませんが、私は彼女のほうが雅経より年長と見ています。このあたり、ドラマ化したら、絵になりますよね!! 鎌倉幕府の敷地内で蹴鞠をする雅経。それを熱い視線でみつめる広元女。そこに桜の花が吹雪のように散って・・・

 蹴鞠に桜吹雪といえば、『源氏物語』の柏木が女三宮を垣間見て悲劇を生み出すきっかけとなった有名な場面ですが、ここはもっとのどかです。

 雅経が後鳥羽院に召されて京へのぼるとき、広元女もいっしょに行きました。当然、家どうしの交流があった定家とも面識の仲になりますよね。『明月記』には、彼女の動向も書かれています。

 細かく書く余裕がないのではしょりますが、雅経は、承久の乱の年の、乱がはじまる前に没しています。かつて恩を受けた頼朝の鎌倉と、現在恩を受けている後鳥羽院との戦を見ないで済んだ雅経の幸運を思います。

 残された広元女は雅経を思って衰弱し、明恵上人に帰依してなくなります。ここのところで、ほんとうに彼女が夫を愛していたことがわかり、胸を打ちます。定家も「女の鏡」みたいな敬服の言葉を書き残しています。あのあまり褒めない定家がです。

 「妻三人」と題してはじめて、まだ一人目でこんなに長くなってしまいました。残る二人のうち一人は、前にも書いた定家息為家の妻。宇都宮蓮喩の娘です。

 三人目が、雅経の孫の、飛鳥井雅有の妻。『尾州家河内本源氏物語』を書写した人物として、ここのところずっと書いている北条実時の娘です。なんと、実時の娘婿は新古今歌人雅経の孫だったんです。これは驚きでした。

 金沢北条氏の系図を見ていると、ふと、中に「飛鳥井雅有」という文字が目につきました。一時期、『新古今集』を夢中になって読んでいた時期がありますから、「飛鳥井」といえば「雅経」。その人に関係のありそうな名前が、なんで、東国の一族のなかに?と疑問を抱いたのが、これまで書いてきたようなもろもろのことの広がるきっかけでした。

 昨日も書きましたが、鎌倉を研究される方は、表舞台の政治や内乱がメイン。文化は、『源氏物語』文化があったことすら関心外の世界です。実時の娘婿というほどの位置にありながら、鎌倉関係のご研究で、「飛鳥井雅有」について書かれた論文を知りません。歯がゆくなって、私なりに調べていたら、もの凄い大きな世界が見えてきました。華やかで、教養あって、雅な、もう一つの鎌倉の面が。

 きりがありませんから、実時女に話を移しますと、彼女も雅有の上洛に従って京へのぼっています。記録としてはありませんが、二人のあいだの子供がまだ少年のころ、嵯峨の為家の山荘に雅有とともに訪れていますので、当然、母親たる彼女も嵯峨に暮らしたことがあるでしょう。実時の娘が嵯峨に住んで、為家や後妻で『十六夜日記』の作者の阿仏尼と親交があったなんて、考えれば考えるほど不思議です。なんて世界でしょう。文学も歴史も、京は京、鎌倉は鎌倉。文学は文学、政治は政治と、切り離してだけ考えるから、こういう交流が今まで見えてこなかったんですね。

 『尾州家河内本源氏物語』はこの実時女のもとだったと思われますが、一旦京へのぼった家族はふたたび下向したようです。そういう事情のなかで、この写本が金沢文庫所蔵になっていったのでしょう。

追記: HP「寺院揺曳」8をアップしました。

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2008.2.10 『源氏物語』の二大写本のひとつは鎌倉でできました!

 また雪が降って、近くの井の頭公園もさぞ雪景色で綺麗だろうと思ったのですが、もう春がほんとうに近いんですね。朝のうちに雪は融けてしまいました。夕刻、そんな公園を歩いているとき、ふと、気がついたのです。重要なことを書き忘れていたことに。

 そういえば、雪景色というと、いつも思い出すのが称名寺です。称名寺の写真を撮りつめていたころ、四季折々の光景をもちろん撮りたいと思いますよね。それで、雪が降ると、あ、行かなくては! と思うのが習慣になっていた時期がありました。

 でも、都市圏での雪は、たいてい昼ごろには融けてしまいます。東京の多摩東部からだとたっぷり二時間はかかるので、着いたころには綺麗な雪景色なんてどこにも・・・、ということばかりでした。

 一回だけ、一応、これぞ「称名寺」の雪景色というのを撮ったことがあります。その後撮っていませんが、どんどん称名寺の境内も面変わりしているので、これから雪が積もったとしても、あのときほどのショットは撮れないのではと思っています。

 でも、残念ながら、これはまだフィルムカメラでの時代。スライドで見るリバーサルフィルムでの撮影です。手元にはあっても、デジカメのようには簡単にネットに載せられないのが辛いですね。もう少し落ち着いたら、そのころの写真を全部デジ処理して、逐次、ご紹介させていただきます。

 で、昨日、春の称名寺の写真をHP【古典と風景】に載せましたが、その解説に、なんと、現在私が一番訴えたかったことを書き忘れていたのです。画像をアップすることばかりに気が行っていたとしても、なんということをと、公園を歩きながら唖然としてしまいまいた。

 私は今、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』と題する原稿を書いています。HPやこのブログをはじめたのも、上梓したとき、この本の存在を皆様に知っていただくのが目的です。というのも、私は公の機関のどこにも所属していませんので、個人で奮闘するしかないのです。経験で、それは「無力」ということを、いやというほど知っていますから、あっさりと人脈を介しての「人頼み」は止めました。それよりもっと普遍的に皆様に知っていただきたいから。

 というのは、語ると長い話になりますが、「鎌倉における『源氏物語』」というテーマ自体が無力なのです。京都で、京都の紫式部の、京都の源氏物語・・・なら、いくらでも売れるでしょうけれど、あまり知られていない、しかも無骨で無粋なイメージしかない鎌倉での源氏物語なんて、ふつうには魅力ないんでしょうね・・・。(『芸術新潮』源氏物語特集号で、三田村雅子氏が「鎌倉のプリンス宗尊将軍の夢」と題して見開きで書いていられますが、これは画期的なんです。千年紀でなかったら取り上げられない話でした。)

 話を戻しますが、ご覧になっていただいた「春の称名寺」の光景、綺麗でしょ! ここは京都かと見まがうばかり・・・。それもそのはず、称名寺の庭園は、長く六波羅探題をつとめた三代当主貞顕が、京都滞在中に六勝寺などさまざまな名園をまわって目に焼き付け、鎌倉に帰ってからすぐに造園に着手して整備したもの。鎌倉中心部の禅宗様庭園と一線を画して優美なんです。貞顕は実時の孫ですが、実時の時代にすでに境内は基本的にこの形式でした。貞顕は規模を大きくしたのです。

 HP【古典と風景】の写真のなかで、実時の邸宅の阿弥陀堂から眺めた苑池の光景というのがあります。それは、池の端の一段高くなった広場から見下ろして撮ったものですが、ここに立つと、いつも、実時が見下ろしただろう視線というものを、私は感じます。読書家であり、勉強家であり、思索家だった実時が、鎌倉中心部の殺伐とした世情から離れてこの綺麗な光景を見おろしたとき、いつも何を思ったのでしょう。

 実時は優れた政治家たらんと、漢籍の政治家向きの学問を積んだことばかりがいわれていました。が、彼は、なんと、『源氏物語』も書写して残しているのです。称名寺とか金沢文庫にしげく通うようになってそれを知ったとき、驚きました。

 どうも、学者さんとか、学芸員さんとか、特に鎌倉関係の専門者の方々は、男性だからか、「鎌倉」のイメージの「武家文化」中心で、関心が歴史や政治中心でいられますね。で、実時書写の『源氏物語』という、国文学世界では貴重な遺産も、ほとんど語られないままでした。『芸術新潮』源氏物語特集号の三田村雅子氏のあの豪奢な紹介でさえ、千年紀でなかったら、もっと規模が小さかったと思います。

 で、その実時書写の『源氏物語』ですが、これが大変なものなんです。現在は名古屋市蓬左文庫所蔵になっていて、重要文化材に指定されていて、『尾州家河内本源氏物語』と呼ばれています。それは、実時書写→金沢文庫所蔵→鎌倉の滅亡で流出→足利将軍の手元に→徳川家→徳川家ゆかりの蓬左文庫、という流れからきています。

 これほど読まれている『源氏物語』ですが、紫式部が書いた原本というものは存在していません。私たちが読むことができるのは、昔の人たちが書き写してくれた写本があるからです。その写本のうち、二代写本というのが、藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』と、源光行・親行親子校訂の『河内本源氏物語』です。

 これは、西の『青表紙本源氏物語』に対して、東の『河内本源氏物語』と、双璧をなす存在です。そう、『河内本源氏物語』は「東」、すなわち、鎌倉で成立したんです。鎌倉時代、鎌倉の地にもれっきとした源氏物語文化があったのです。

 実時書写の『尾州家河内本源氏物語』は、『河内本源氏物語』のなかでも、最も古く由緒ある書写本です。なぜなら、巻末の「夢浮橋」の奥書に、自筆で実時の花押と、書写の年と、「親行の本を借りて」という内容が記されているからです。

 実時は鎌倉幕府のなかでも執権北条氏の身内ですから、重鎮。親行は幕府に仕える家臣ですが、ともに文学を愛好する仲間として親交があったのでしょう。ともに、宗尊親王に仕えていましたし、親王ご自身が優秀な歌人でいられましたから。

 つまり、『尾州家河内本源氏物語』は、完成成ってすぐの『河内本源氏物語』を、親行からじきじきに借りて書写したものなんです。ですから、HPにアップした称名寺の写真は、『尾州家河内本源氏物語』の生誕地ということ。

 そんな大切なことを書き忘れるなんて! どうも、書きたいこと、お伝えしたいことがたくさんありすぎて、頭が錯綜しています。

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2008.2.9 近藤富枝先生の『紫式部の恋』・・・お相手は?

 また雪が降りました。ベランダに置いた盆栽の紅梅がちょうど咲き誇って、それに降り積もる雪は風情があって格別。深夜なのに、窓を開けて見入ってしまいました。

 昨日、降雪の予報を聞いて、積もる前にと慌てて図書館へ行ったら、近藤富枝先生の『紫式部の恋』があって借りてきました。たぶん、出てすぐだったと思いますが、以前に一度拝読している本です。が、昨年、王朝継ぎ紙の世界を垣間見させていただきましたので、改めて読ませていただきたくなったのです。近藤先生は、王朝継ぎ紙の復活活動をされている方です。源平の争乱で滅びた継ぎ紙を、今の世に・・・と。

 信じられないほど精緻で精巧で華麗な料紙の世界。日本が誇る、日本独特の、雅な「紙の文化」。それが、源平の争乱で一時流行らなくなったとしても、世のなかが落ち着いたときに、長い時代、誰も復活させようとしなかったことが驚きです。それを近藤先生は、個人の意志で、個人の情熱で、はじめられたのでした。当時、作家としてお名前を拝していたので、たしか新聞だったと思いますが、取り上げられた記事を目にしたときは、思わず夢中になって読んでしまいましたし、敬服しました。だって、作家だけでも大変なのに、継ぎ紙にまで精力を注がれるなんて・・・。まさか・・・と絶句したような思いの記憶があります。
http://homepage2.nifty.com/tsugigami2/

 そのころまだ健在で活躍されていた、辻が花染めの久保田一竹氏と並んで、お二人の世界はずっと憧れでした。遠い、手が届かない、高嶺の花のような世界ではあっても・・・。文化は、一度滅びると、復元に凄い情熱をかける人が現れないかぎり埋もれたままになってしまうのですね。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/02/fuji/index.html

 『紫式部の恋』にこういうフレーズがありました。

 「作家というものはしょせん自分を語りたくて小説を書くのであって、生涯に自伝を何度も書いている作家も少くない。しかし正面切ってそれを語りたがらない作家もあり、そうした作家は小説のなかにフィクションらしく見せながら自分を語っているのを発見する。」

 これはちょっと私にも思い当たることがあり、ニヤッとしてしまいました。近藤先生も作家ならではこそのこのフレーズ。これを紫式部と『源氏物語』の関係に当てはめて、『紫式部の恋』は進行していきます。そして、作家ならではの直感で探り当てた“恋人”!!・・・。以前、拝読したときから、私はこの近藤説がもう頭から離れなくて、たぶん、これが真実だろうと思っています。その恋人とは・・・

 書店販売されているご本ですし、もう新刊ではありませんから、答をここで書いていいですよね。上映中の映画なら、許されませんが。

 まず、空蝉の事件に、近藤先生は紫式部を当てはめられます。紫式部にも、空蝉同様の「身分の高い貴公子」との逢瀬があっただろうと。

 そして、それは、光源氏にも匹敵する男性なのだから、知性が高い人・・・

 そして、紫式部の周辺から割り出したその人物とは、具平親王(ともひらしんのう)でした。

 具平親王が光源氏のモデルの一人といわれていることは知っていました。親王には、「夕顔」事件にそっくりの経歴がお有りなのです。すなわち、身分の低い雑仕女の女性に非常に心惹かれ、愛された。が、ある月の夜、その女性を連れて宿泊した先で、物の怪に憑かれてその女性が絶命してしまうのです。その女性の名を「大顔」といいました。紫式部はそれを「夕顔」として執筆したというのですが、まさか恋の相手・・・とまでは思いませんでした。

 近藤先生のご著書では、父為時のゆかりの具平親王の周辺に、少女のころ、紫式部は女の童(めのわらわ)として出仕していたのではないかと。そして、そこで、文学的資質豊かな具平親王の環境に浸り、趣味を同じくする物語好みの同性の女友達がたくさんいた・・・。そういう中で、いつしか恋が芽生えて・・・。

 光源氏の激しい求愛に、「身分が違う・・・」と、必死の思いで我が身を抑え、二度と応じない「強さ」は、紫式部自身の哀切極まりない過去があったからこその叙述だった・・・

 とても、説得力がありますよね。私は『源氏物語』を洞察力深く研究される学者の方々の専門書も好きですが、女性作家の方々の、こうしたご自身の内側から肉薄して照射されての解明には、いつも、うーんと唸って読ませていただいてしまいます。それは、おそらく、決して学問では捉えきれない部分です。

 具平親王に関してのその後ですが、紫式部が道長のもとに出仕していたとき、道長息の頼道と、親王の娘との婚姻の話がもちあがります。道長は、紫式部が具平親王とゆかりであることを知っているので、とりもって欲しいみたいなことを式部にもちかけます。『紫式部日記』に書かれている内容です。

 このあたりのことも近藤先生は書いていられますが、私はかつて、別の方のご著書でも読んだ覚えがあって、痛烈な印象になっていますので、書かせていただきます。

 紫式部は、この持ちかけに困ったのです。それで、道長にとって色よい返事ができなかった・・・。つまり、断ったか何かした・・・

 『源氏物語』は「源氏」の物語なんです。「源氏」は、皇子に生れて天皇になる資格がありながら、事情で臣下におろされてしまった方のことをいいます。具平親王は「源氏」です。紫式部は『源氏物語』で、現実にはかなわない「源氏」の君の栄光を描きだしました。藤原氏である道長のもとに仕えながら。

 表向きの華やかな流れにひきずられてだけ読んでいると気づきませんが、この矛盾には、ん?、こんなことがあっていいの?・・・、と思わざるを得ません。紫式部は、大丈夫だろうかと。

 案の定というか、結局その後、紫式部は道長と相容れない険悪な関係になります。それを、道長の誘いに応じなかったからという単純な見方の説もありますが、ここに具平親王を入れると、ぐっと信憑性がでてきます。

 紫式部は、たしかに一時期道長を敬愛し、それを光源氏に投影させて書きました。が、たしかな人間性に根ざす紫式部は、権力者に表裏一体する過酷さ、冷酷さに批判する気持ちを次第に抑え難くなっていきます。そうして、その対極にある具平親王世界を守ったのでしょう。

 先日、彰子の妹の≪妍子≫の三条天皇への入内で、それ以前から入内していて天皇と相思相愛だった≪せい子≫のことを書きました。近藤先生も、やはりこれは書いてらして、「若菜の巻で女三宮が降嫁したのちの紫の上の苦悩は、彰子が一条天皇のもとへ入内したときの定子の思いに通じる。さらに三条期になってから≪姸子≫が入内したときの≪せい子≫の心境とも等しいだろう」と書かれています。

 今年は源氏物語千年紀ですが、千年前の時点で、五十四帖中のどこまで完成していたかは解明されていないそうです。私は、≪姸子≫入内に画策する道長を身近に接して見ていた紫式部が、女性として≪せい子≫の立場を推察してあまりある思いで書いたのが、「女三宮降嫁事件」ではないかと今は思っていますので、千年前の時点で完成していたのは、「若菜」巻の前まで。すなわち、第一部までという気がしています。(どなたかこういう学説を書いていられるでしょうか・・・)

 「若菜」巻以降を第二部といいますが、これははっきりと、栄華に上りつめた光源氏が暗転していく世界を描く。すなわち、道長への批判。彰子につかえて身近に接しているあいだに、ここまで紫式部は権力者への批判力を磨いていました。

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2008.2.9 HP【古典と風景】に「神奈川県『武州金沢称名寺』」をアップしました。

 昨日書いた、冷泉為相が訪れた神奈川県横浜市金沢区にある称名寺境内の庭園です。この一画に謡曲『青葉の楓』が植えられていて、今はその何代目かの若い楓です。池の端に伝承の立札が立っています。

 「一人の旅の僧侶が境内を訪れたときに、他がみな紅葉しているのに、一本だけ青々としたままの楓があるのを不審に思ってみていると、楓の精が現れ、「昔、一人の公卿が紅葉を愛でてくれた。それを栄誉に思って、以来紅葉するのを止めたのだ」と語ったという内容です。その公卿が冷泉為相でした。

追加: 「寺院揺曳」7もアップしました。

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2008.2.8 小倉百人一首は宇都宮歌壇と・・・

 鎌倉時代、東国には、宇都宮文化圏という、中央の鎌倉幕府よりも京の雅な文化を築いた氏族がありました。当然、そこには、宇都宮歌壇なるものも存在していました。栃木県宇都宮市でのことです。

 私がそれを知ったのは、もうほんとうに最近のことですが、それを知ると同時に、そこには日本人なら誰でも知っている、あの小倉百人一首の成立の経緯が明らかになって、大変驚きました。知る人ぞ知る小倉百人一首の成立の歴史ですが、たいていの人は、おそらく少し前の私同様ご存じないでしょうから、少し書かせていただきます。

 私が宇都宮歌壇に関心をもった最初は、ホームページに連載中の歴史随想「寺院揺曳」で、冷泉為相(れいぜいためすけ)について書いたときです。

 為相は藤原定家の孫。そう、小倉百人一首の生みの親の孫ということになります。定家の子息為家の子で、母は『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼です。この為相が、現在金沢文庫になっている横浜市金沢区の称名寺を訪ねたという伝承があり、従来、そんなことはあり得ないというだけの思惑で、ほんとうに伝承扱いされていました。謡曲『青葉の楓』に、昔為相という都の公卿が称名寺を訪れた、という内容が歌われているのです。

 が、私は定家の家系である御子左家の観点から鎌倉の歴史を見ていた関係で、いや、これはあり得るぞ・・・との直感がはたらき、それを探って書きました。それは、「冷泉為相と武州鎌倉称名寺」という研究レポートにまとめ、「風土と文化」という学会の機関誌に載せていただきました。

 その中で、京極為兼と為相が宇都宮氏の蓮瑜(れんゆ)という人物と懇意で、その関係で・・・ということを書いたのです。

 「冷泉為相と武州金沢称名寺」にまとめる前、その案は、「寺院揺曳」で生まれました。前にも書きましたが、この「寺院揺曳」のなかで『親玄僧正日記』を参考に使わせていただき、その翻刻をされたメンバーのお一人だった峰岸純夫先生とのご縁ができました。そのときはまだ、蓮瑜について書きながら、蓮瑜もその一員である宇都宮歌壇なるものがどれほど凄いかの実態については、まったくの無知でした。

 が、『宇都宮市史』を編纂された峰岸先生には思うところがお有りだったのでしょう。「寺院揺曳」をお送りして読んでいただいてまもなく、「『宇都宮市史』をお貸ししますから、出て来られませんか」とお電話がありました。

 たしか、高円寺だったと思いますが(阿佐ヶ谷だったかも・・・)、これからある集まりに行かれるというその駅の改札口で待ち合わせて、私は二冊の『宇都宮市史』をお借りしました。二冊というのは、市史編と宇都宮歌壇編とです。その両方に、宇都宮歌壇についての驚くべき内容が詳述されていました。それは、まさに、青天の霹靂というか、目から鱗というか、私には一挙にそれまでの古い世界が崩れて新しい世界が現出した驚きの内容でした。

 ここからは、ホームページ【中世の遺跡と史跡】中の、「栃木県尾羽寺・宇都宮氏族墓域」http://www.odayuriko.com/を参照していただきながらだとわかりやすいのですが、宇都宮氏は、三代朝綱が頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人になるより前から、京と密接な関係をもっていました。京の女性を妻に迎えた当主もあったりして、幕府のある中央文化圏であるはずの鎌倉よりもよりもずっと雅な京風文化を築いていたのです。

 為相や為兼と親しかった蓮瑜は七代当主宇都宮景綱です。が、今ここで取り上げたい当主は、頼朝・頼家に仕えた五代頼綱です。その妻の一人が北条時政の娘で、時政が平賀朝雅を将軍に要する陰謀を企てて失脚したとき、娘婿である頼綱も共謀の嫌疑をかけられます。頼綱は出家して身の潔白を表明したのでした。そして、蓮生と名乗って京に移り、嵯峨に住んだのです。住居を中院山荘といいます。

 その山荘の近くにたまたまあったのが、藤原定家の小倉山荘でした。もともと東国宇都宮にあっても、雅な気風に育った蓮生です。歌へのたしなみもあり、定家を師とする交流がはじまりました。そして、中院山荘の襖を飾るための百首の歌の色紙を定家に依頼。そうしてできたものを基に、現在の小倉百人一首が生まれたのでした。

 定家との交流はそれだけではとどまらず、二人は息子と娘の婚姻関係まで結びます。つまり、定家息為家の妻は、蓮生の娘という東国育ちの女性なのです。母は北条時政の娘ですから、為家は時政の孫と結婚したことになります。これにも驚きました。定家が、北条時政と縁故関係にあったなんて・・・

 『明月記』には、蓮生の娘が、身重であるにもかかわらず遠出するか何かして元気で、「さすが東国の娘は違う・・・」みたいに、定家があきれはてた記述があったりします。このあたり、面白いですよ!

 小倉百人一首の成立に関する話はここまでですが、この先をもう少し続けます。

 為家はその後、若い阿仏尼(まだ出家していませんから正式にはこの呼称は変ですが・・・)と情熱的な恋愛をします。阿仏尼は、蓮生娘とのあいだにできた嫡男為氏とほぼ同年齢でした。その阿仏尼と住んだのが、嵯峨の小倉山荘。これも、ホームページ【古典と風景】に「藤原定家『嵯峨小倉山荘』」として、写真を載せましたので、ご覧になってください。http://www.odayuriko.com/。この為家と阿仏尼とのあいだに生れたのが為相です。

 為相とともに蓮瑜と親交のあった京極為兼は、為家の二男京極為教の子です。なので、為相にとっては甥にあたりますが、為相が為家の晩年の子だったために、甥の為兼のほうが年が上です。

 蓮瑜も、出家する前は宇都宮景綱といって、鎌倉幕府に仕え、評定衆にもなった有力御家人でした。執権時宗の時代です。蓮瑜の叔母が為家の妻。つまり、為相や為兼と縁故関係で結ばれている間柄です。このあたりを、彼の歌集の『沙弥蓮瑜集』から探っていって、為相が称名寺を訪れた可能性があることを「冷泉為相と武州金沢称名寺」で明かしました。

 為兼は伏見宮廷で京極派歌壇なるものを築いた、伏見宮廷での歌のリーダーです。永福門院の信頼も篤く、『玉葉和歌集』の単独撰者です。伏見天皇の使いとして、鎌倉に何度も下向し、「寺院揺曳 6」で記した佐々目遺身院の頼助とも懇意でした。

 このあたり複雑ですが、文字でなく、人間一人一人の動きとして捉えると、思いがけず当時の鎌倉の文化人の生き生きした交流が見えてきて新鮮です。かの夢窓疎石まで登場して・・・

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2008.2.7 今日の空は壮大でした。日没時には灼熱色に焼けました!

 今日は朝から空が活動していました。朝の雲は撮れなかったというか、昨日の日記が長くてほぼ徹夜状態でしたので、起きるのが遅く、撮りにでる気力が湧きませんでした。でも、稀に見る綺麗な複雑な空でした。南南東発生の雲のようでした。こちらからは伊豆諸島方向にあたります。小田原では大きな彩雲になって見えたそうです。

 撮れなくて惜しかった・・・と思っていたら、午後は今度は西からの雲で、やはり荘厳に。これは結構不気味なというか、迫力のある空になりました。

 雲を撮っていると、旅行にでなくても、ちょっと数分足を運ぶだけで、映画のスペクタクルシーンさながらの雄大な光景を目にすることができます。それが病みつきになって今に至っています。空は地球の地殻の活動の結果が影響するものですから、空の活発化は地球内部の状況を推し量る手立てです。こんな小さな街の一画で、こんな凄いことが、関心を向けさえすれば、毎日毎日起きているのを目にすることができるのです。

 今日撮った空をアップさせていただきます。

A108 A141 A150 A179 A189 A192

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2008.2.7 HP【古典と風景】に「藤原定家『嵯峨・小倉山荘跡』」をアップしました。

 藤原定家が「小倉百人一首」のもととなる、百首歌の色紙を選定した地です。のちに子息為家が阿仏尼といっしょに住み、飛鳥井雅有が源氏物語の講釈を聞きに通いました。

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2008.2.6 みんな源氏物語を生きて・・・、後白河法皇までも

 昨日、『とはずがたり』二条が女楽で出奔したと書きましたが、それは、ご兄弟の後深草院と亀山院がいろいろ勝負事をして、負けたほうが罰ゲームの催し事をしたときのこと。再度の復讐戦で後深草院が負け、伏見殿で音楽会をすることになったのでした。その趣向が、『源氏物語』の「若菜」巻にある六条院での女楽だったのです。

 「若菜」巻は、臣下としては最高位について幸福絶頂の光源氏が、さらに地盤固めのようにして迎えた女三宮降嫁事件のために、それまで平和だった六条院の調和が乱れ、「光る君」の話が一挙に暗転していく最初の巻です。その典型的なエピソードが、六条院の女楽でした。

 長年連れ添った糟糠の妻、何ひとつ足りないところのない紫の上に対して、まだそれほど際立った取り柄もない幼い女三宮。紫の上に対して何の不満ももっていなかったにもかかわらず、ただ自身の妻としてふさわしい地位の女性がいないとの理由で、内親王の女三宮を正妻に迎え入れた光源氏です。けれど、迎え入れたものの、女三宮のあどけなさ、物足りなさはどうしようもなく、何とかして紫の上たち先輩方に侮られないよう苦心惨憺するのです。そうして教えこんだのが琴でした。

 『源氏物語』での女楽は、女三宮が琴、明石の君は琵琶、紫の上は和琴、という取り合わせです。その合奏は素晴らしく成功し、中でも紫の上の和琴は、楽器のなかでも難しいのによくできたのですが、何といっても女楽の企画自体が女三宮をひきたてるためのもの。並みいる立派な女性陣のなかで、なんとか引けをとらずによくできた女三宮に対し、光源氏はほっと胸をなでおろし、その晩は女三宮のもとで休みます。

 結局それが女三宮の降嫁以来、耐えに耐えていた紫の上の我慢に限界をきたし、その夜から発病。以降、「御法」巻の臨終へと悲劇は雪崩のように加速するのです。

 が、『とはずがたり』の女楽は、紫の上の不幸など無関係に、ただ華やかな余興としてはじまります。が、そこでも、二条にとっては紫の上と同じような屈辱の場が待ち受けていました。

 二条はその美貌と才気とで後深草院をはじめ、男性陣の心を捉えてきましたが、父大納言が早逝しているので、紫の上と同じく地位が不安定です。そこに、二条の後見人である祖父(善勝寺大納言隆顕の父)が、自分の娘を引き立てようと、当日になって、その娘を二条より上席に移してしまうのです。しかも、祖父は新参のその娘を女三宮に見立てて琴を弾かせ、二条には身分の低い明石の君の琵琶。

 衆目のもとでいきなり下の席に移動させられ、抵抗する二条。善勝寺大納言も、恋人の西園寺実兼もとりなしてくれるのですが、隆親は譲らず、あまりのことに二条は出奔してしまったのでした。結局、『源氏物語』と同じ経緯の踏襲となってしまいました。

 どうにも、女性陣の命ををかけた必死の訴えに対し、男性陣の浮薄さは救いようがありません。(隆顕と実兼は別として・・・)『源氏物語』自体、紫式部が身を削る思いで執筆したというのに、それを扱う権力者道長も浮薄でした。現代でも、女性の読者は、並びいる女性主人公の人生のなかに自分の人生を見出そうと真面目に接しているのに対し、どうも『源氏物語』の華やかな面ばかりが強調されて流れています。

 その一つの理由としてあげられるのが、主人公光源氏が男だからではないでしょうか。読者としての男性陣は、みんな光源氏になってしまうようです。内心、みんな、そこのところで陶酔しきっているのですね。如何に自身が魅力ある男性で、苦難に対してもめげずに頑張っているか・・・。光源氏がそうあったように、と。だから、自分がしかけた恋で女性が傷つくことに対して、完全に不感症なのです。そんなのは付随してくる問題でしかなく、そういうのはあって当たり前、数あるほど勲章・・・、の世界。

 先日、高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』で、清盛が光源氏を意識していた一方で、後白河法皇も、ご自身を光源氏とて、清盛は明石入道、徳子は明石の君とみなしていたと書かれているのを拝読したときには驚きました。平和で、余興に打ち興じていられるよき時代の後深草院がご自身を光源氏と思いなして生き、二条を幼時から引き取って育んだのも、光源氏と紫の上の関係を踏襲してのことというのは理解できなくありませんが・・・。頼朝に「天下の天狗」とまでいわしめた後白河法皇と光源氏では、ちょっとイメージが違いすぎます。清盛は・・・、清冽さにおいて似合うかも・・・(エコヒイキ!)

 『芸術新潮』源氏物語特集号で、三田村雅子氏が、鎌倉に下向された後嵯峨天皇の皇子、第六代将軍の宗尊親王を、「鎌倉のプリンス」と見出しをつけていられました。そう、宗尊親王も、たしか『増鏡』だったと思いますが、「この皇子こそ光源氏のよう・・・」と周囲に愛でられて育っています。幼少時からそうだったなら、成長してもその自覚があって当然。おそらく、宗尊親王の御所における源氏物語熱の根底には、二条と後深草院に負けない「源氏物語を我が身に生きる」風潮があったことでしょう。

 なんだか書ききれませんが、というより、昨日書こうと思っていた「源氏物語を生きる」内容とちょっと気分が違っているのを感じているのですが、それは、今日、出光美術館に行って「王朝の恋」と題する『伊勢物語絵巻』の展示を見てきたことが大きいと思います。

 「王朝の恋」というからには、絵巻や色紙にはさぞかし華やかな十二単の女性が多く描かれていることと思っていました。それが意外にも、描かれているのは主人公の「業平」のような男性ばかり。女性は必要に応じての脇役。添え物としての登場でしかありませんでした。単なる「目的格」存在なのです。

 ふーん、王朝の恋の主役は「男」だったのだ・・・と思ったとき、『源氏物語』の主役が男であることから、軒並みの権力者が、自身を「光源氏」化して生きたことが、理解できた気がしました。『源氏物語』は女性にとっては「恋」の物語ですが、男性には「権力」の物語なんですね。

 それにしても、紫式部は女性なのに、男性に対してここまで「勘違い」させてしまう文学を作り出したなんて・・・。でも、もしかしたら、これが一番の紫式部の男性に対しての「一矢を報いた」結果になったのかもしれないですね。皮肉にも。

 そして、国宝『源氏物語絵巻』の凄さ。こうして見て、改めて思うのは、この絵巻は決して表面的な事象を捉えて描いていない。それどころか、本文にはない意図をすら加えて、深い深いところの物語を適切に絵画化している。この絵巻では、決して女主人公は添え物ではありません。見事に「中心」です。表面的に中心なだけでなく、心も、中心に描かれています。

 三田村雅子氏の『芸術新潮』の解説で一例をあげれば、例えば「御法」巻。ここは病み果てた紫の上のもとに、光源氏と育ての子の明石中宮が訪れ、最後の別れとなる場面ですが、こちらを向く紫の上の顔をしっかりと描き、まず読者の胸に苦悩を突き刺す。向き合う訪問者の二人のうち、明石中宮が紫の上に近く、光源氏は画面左下へ遠心力で撥ね退けられるようにして遠くいる。三田村氏は「この距離が最後に心を許したのは明石中宮であって、女三宮降嫁という裏切りをした夫を許していないことを表現している」というようなことを書かれています。

 この深さ・・・、昨日見た『伊勢物語絵巻』や色紙、それから江戸期に流行した数々の源氏絵、それらにはまったく見受けられません。それは、男性陣がみずからを光源氏化して余興に打ち興じる浮薄さと共通すると思うのは私だけでしょうか。

付記: 浄土式庭園」に白水阿弥陀堂の苑池の写真を追加しました。

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2008.2.5 鞆の津から『とはずがたり』二条へ

 鞆を書いたら、もう一人、書きたい人物がいます。それは、『とはずがたり』の作者二条。彼女も、鞆を訪れたことが『とはずがたり』には書かれています。出家して求道の旅に出、鎌倉に滞在したあと京に戻り、その後のことです。

 『とはずがたり』を読んだのは、遺跡発掘調査の最初の仕事になった地元三鷹の遺跡のときでした。この遺跡は「島屋敷遺跡」といって、柴田勝家の孫の勝重が住んだ陣屋跡があった遺跡です。柴田勝家といえば信長の妹のお市の方が嫁いでいますが、勝重はお市の方ではない別の女性の血筋です。
http://www.mitaka-iseki.jp/jousetsu2/newpage16mk.htm

 この遺跡の発掘に、第一次、第二次と携わらせていただきました。『とはずがたり』を読んだのは、第一次のときです。第二次では、『平家物語』。通勤時間を読書に充てると、結構充実した思い出ですね。

 このとき、たしか外で出土した土器の破片を洗いながらだったと思うのですが、数人の20代の女性と水をはったバケツを囲みながら喋っていて、その話をしました。中に史学科出身の人がいて興味を示し、話がはずみました。が、そのとき意外だったのは、彼女が『とはずがたり』を知らなかったこと。卒業のとき、教授から大学院に進む気はないかと訊ねられたというほどの彼女がです。「面白そうですね・・。私も読んでみます。」といって、すぐに読みとおした報告がありました。

 どうやら、『とはずがたり』は国文学の領域で、歴史学では習わないようなのです。私には同じ「鎌倉時代の『とはずがたり』」で、歴史でもあり文学でもあるのに。この驚きは、このあとも何回となく経験します。

 一番驚いたのは、また『とはずがたり』のことになりますが、『勘仲記』という中世のお公家さんの日記を読む会でのこと。以前にも書きましたが、私は素人ながら、『親玄僧正日記』について文章を書かせていただいたことがきっかけで、その翻刻にあたられた峰岸先生に誘っていただいて参加させていただいていました。

 『勘仲記』は、勘解由小路兼仲が、鷹司兼平に仕えた日々の記録を記したものですが、ここに、しょっちゅう、「善勝寺大納言」という人物が登場します。

 最初にそれを見たとき、ほんとうに驚きました。なぜなら、彼は『とはずがたり』に登場する人物で、たしか従兄か叔父だったと思いますが、両親を失って後盾のない二条を、妹のように気遣ってくれる、二条にとっては物凄い大切な人なのです。よく読むと、二条の恋人「雪の曙」たる西園寺実兼と同じくらいの頻度で書かれています。(ちょっと大げさですが・・・)

 源氏物語の女楽を模した行事で、身よりのない二条があまりの屈辱に耐えかねて出奔したときも、居場所を知って実兼に知らせたのも、この善勝寺大納言隆顕でした。

 それほどの人物なので、私は彼が登場するたびにわくわくするのですが、会の誰も、彼の存在になど留意しません。なぜなら、彼は「歴史上で重要人物」でないから・・・

 兼仲が使える鷹司兼平ですら、彼こそ後深草院と密談の上で二条を自分のものにした「大殿」なのに、それも、歴史学の人たちには関心外でした。『とはずがたり』と一時期の『勘仲記』は、まったく表裏一体のものであるにもかかわらず。

 私は小説を書く見地のもとで、文学を読み、歴史を学ぶからでしょうか、『とはずがたり』は『とはずがたり』であって、歴史的にも面白い・・・、文学としても面白い・・・、結局どちらの観点で見ても、面白いものは面白いんです。そして、多角的に見るからこそ、見えてくるものがある・・・。歴史だけの視点で一つのものを見、文学だけの視点でひとつのものを見るだけでは、身落としてしまうものがとてもたくさんある気がします。

 網野善彦先生は、従来の文献学だけの歴史学では駄目と、考古学とのコラボレーションを提唱されました。その成果が、如実に、日本の中世史を前進させました。私は、この先をもう一歩進んで、歴史学と国文学とがコラボするのが理想と思っています。こんなのは、素人だから言ってられることで、専門に研究される方には、そんな暇ない!と一喝されそうですが・・・

 以前、このことを峰岸先生にお話したことがあります。先生は面白がられて、善勝寺大納言について『勘仲記』と『とはずがたり』の両方の視点から書いてみたら?・・・といわれました。が、そのときはどう調べても善勝寺という寺院の所在がわからずあきらめました。

 今回、『紫文幻想』を書くためにいろいろ調べているなかで、建礼門院徳子をめぐって「善勝寺」がでてきたのには驚きました。晩年の徳子は、善勝寺大納言隆顕の子孫となる人々の庇護を受けていたのです。奇縁と思いました。そこには、探れば必然が見えてくるのでしょうけれど。そして、場所もわかって、善勝寺は、白河の地にあり、巨大な法勝寺などとまとまった一画ににあった寺院でした。

 二条という方は、ほんとうに不思議な巡りあわせの女性です。鎌倉に滞在して、安達泰盛を討った平頼綱の兄と懇意になったくだりを読んだときは驚きましたが、ずっと時代がくだったところで、今度は建礼門院徳子とも繋がるかもしれないなんて・・・

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2008.2.4 瀬戸内海の光の波頭と井伏鱒二さんの『さざなみ軍記』

 井伏鱒二さんの『さざなみ軍記』は大好きな小説のひとつです。

 私は小説を読んでも印象だけが残って、ほとんど細部を覚えていないのですが、強烈に残る印象というものがあって、それが強烈なほど、好きな小説になります。

 『さざなみ軍記』から受けたその強烈な印象は、「きらきらした眩いばかりの光の波頭」。どうしたらこんなに見事な描写ができるのかしらと、私が小説家になってもこれはできない・・・と、ただただ感嘆したものでした。

 それが、偶然にも井伏さんの故郷、広島県福山市を訪れたことで、「どうしたら」の謎が氷解しました。井伏さんは、その光の波頭を全身に浴びて見て育ったのです。

 それは、阪神大震災の起きる前年秋のことでした。何故、これを書くかというと、福山へ行くには新幹線で神戸を通過します。それが、あの震災で新幹線が不通になり、「あのとき通過した地を、今だったらできないんだ・・・」と、二重の意味で震災が実感されたのでした。

 そのころ、遺跡発掘調査の仕事についていて、プレハブの調査事務所での会話。前夜の「中世の遺跡を勉強する会」で知ったばかりの「草戸千軒町遺跡」に行きくなった私は、「日帰りは無理ですよね」と、教えてくださった調査員の方に訊ねたのです。最初、「そりゃあ、無理だよ」と笑っていたその方が、しばらくして時刻表をもってきて、「ひょっとして、無理じゃないかもだよ。ほら、新幹線のぞみの始発で発てば、10時には福山に着くから・・・」と。

 そんな訳で、10月の下旬、休暇をいただいて、一人、東京駅6時発の新幹線のぞみ1号に乗り込みました。たしか、明石あたりを通過したときが9時でした。

 「草戸千軒町遺跡」というのは、福山市の芦田川の中州で発掘された中世の遺跡で、当時「日本のポンペイ」といわれていました。発掘によって、忽然と中世の都市があらわれたからです。地元の人は、それ以前から陶磁器や墓石、古銭など、生活用品が折々に掘られてでてくるので、不思議に思っていたそうです。

 今はもう、発掘も終わり、遺跡は埋め戻されています。私が早急に訪ねなくてはと思ったのは、その埋め戻し作業が完了するかも・・・というお話を聞いたからでした。

 行くからには、福山について、ガイドブックを買って調べます。そうしたら、なんと、福山市は井伏鱒二さんの故郷だったのです。俄然、私は色めきだって、それから、「草戸千軒町遺跡」がメインなのか、井伏さんの文学散歩がメインなのか、どっちかわからない興奮に駆られてしまいました。そのとき、新幹線の車中で読みふけったのが、携帯用に買ってもっていった文庫本の『さざなみ軍記』でした。学生時代に一度読んだだけの小説を、旅行が決まったとき、即座にあれを持っていこう!と思ったのです。

 「草戸千軒町遺跡」については、ホームページの【中世の遺跡と史跡】でご紹介していますので(http://www.odayuriko.com/)、それをご覧になっていただくとして、今は、井伏さんの文学に絞って書かせていただきます。

 鞆は、芦田川の河口にある中世の湊町です。ここが、『さざなみ軍記』では、「室の津」として描かれているというので、昼までに芦田川中流の中州を見たあとは、鞆に出て、井伏さんの文学空間を満喫してきました。

 このことを知って、改めて井伏さんの作品を見直すと、「草戸千軒町遺跡」について書かれた文章もありますし、『鞆ノ津茶会記』があります。何も知らずに読んでいて、それでも面白かったのが、このときの旅行を機に改めて読んで、もう堪能しました。安国寺という寺院も訪ねましたが、こここそ『鞆ノ津茶会記』の舞台なのです。

 仙酔島のことなど、そのときのことを書けばきりがなくなるので止めますが、この旅行で、『さざなみ軍記』の「光の波頭」が、たんなる描写ではなく、井伏さんの身体に浸み込んでいる記憶、肉体となった記憶なのだ、だからこそ、ああいう描写になったのだ、ということを痛切に、身に染みてわかりました。瀬戸内海は、「光の波頭の海」、「光るさざなみの海」で、今でも思い出すと光に包まれるような気持ちになります。

 文学は、理で書いても、ああいうふうにはなりません。肉体に同化して朦朧となった記憶が文字に滲みでるのでなければ・・・

 『さざなみ軍記』は、都落ちしていく平家の若い公達が主人公です。たしか、「室ノ津」だったと思いますが、土地の娘との淡い恋も描かれていて、軍記というのにとても優雅です。それが、『平家物語』の経正の優雅と結びついて、私のなかにはあります。先ほど、ホームページに経正ゆかりの「竹生島」の写真をアップしたら、琵琶湖の湖面のきらきらした光の波頭に、突然この物語が甦りました。瀬戸内海と琵琶湖では違うのに、経正を介して共通するものがあるのを、不思議に思います。

 竹生島に上陸して振り返って見たときの琵琶湖です。
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三内丸山遺跡に展示されている翡翠の写真を載せました。

 1月25日の記事、「糸魚川―静岡構造線と翡翠峡」に、三内丸山遺跡から出土して展示されている翡翠の写真を追加しました。
http://ginrei.air-nifty.com/kujaku/2008/01/index.html

追記: ホームページ【古典と風景】に、「Ⅳ 琵琶湖『竹生島』」をアップしました。
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2008.2.3 雪の庭の萩と称名寺の浄土式庭園

 朝から積もった雪で、ふとガラス越しに庭を見ると、萩が雪の重みで先端が地面に届くほど大きくしなっていました。折れたのかしらとドキッとして庭にでました。見ようによっては折れたとしか思えない状況で、半ばあきらめながら。

 この萩は「木萩」といって、木の萩です。紫がかったピンクの花が咲きます。萩には、木萩と草萩があることを、この木を購入して知りました。萩が好きで、とくに源氏物語の「野分」の場面を思い起こさせるような、草になびく感じの萩が欲しくて、緑化センターで探しました。そうしてこの木をみつけて買ったのですが、それは、夏だったから。

 じつは、私が欲しかった「野分の庭」のような感じのでる宮城野萩は草萩で、それは秋にでるもの。夏だったので、「木萩」しかなかったという事情です。夏に花が咲きます。その後、宮城野萩も購入して、それも茂って、今年白い花をつけました。それは秋に咲きました。

 幸い、木は折れてなくて、雪を払うとピーンと勢いよくもとに戻りました。ほんとうは、木萩は花の終わったあと、かなりの枝を切り詰める剪定作業をしなければならないのですが、去年は『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』のことで目一杯、手一杯でしたので、気にはしていてもできませんでした。それで、枝が伸び放題に伸びていたのです。そこに雪が積もって、重みで潰れてしまったのでした。ちなみに、草萩は剪定というより根元から一切を刈り取ってしまうのだそうですが、これもまだしていません。

 こんなことなら、一日くらい庭作業をするのだったと後悔したのですが、でも、雪は夜まで降り続くという予報なので、鋏をもってきて、雪のなかでの枝切り作業となりました。

 久し振りです。庭木をいじるのは。この庭がお気に入りになってきたのは、ほんの最近です。というのは、最初にこの萩が、そして次に白山吹と黄色の山吹とが来て、しなしなと枝が風に揺れる風情を醸しだしてくれるからです。最初はいろいろと試みましたし、一度は万葉調にと思ったこともありましたが、「萩を植えたい」と思ったときから明確に、「源氏の庭」を志しています。それも、紫の上の「春の庭」や中宮の「秋の庭」といったような豪勢な美を競うものでなく、「野分の庭」のような庭。源氏物語絵巻の影響が強いのでしょうか、風になびく草むらの風情が好きなんだと悟りました。

 で、ちらつく白い雪のなかで作業しながら、ふと、「庭って、やはりいいなあ」ということ。そして、ふと、「貞顕もこうだったのかしら・・・」と思ったのです。すぐに、「まさか・・・」とは思いましたが。

 金沢文庫に隣接する称名寺は、北条実時創建です。梵字「阿」字のかたちの池を有する「浄土式庭園」として知られています。

 称名寺自体は、実時の別業を寺院にしたものでした。庭も、発掘されて復元されている現在のかたちより少し小さかったといいます。でも、小さくても、私は、実時の別邸で、のちに阿弥陀堂となった建物が建っていた広場に立って、池をみおろすと、実時もここで『源氏物語』のことなどを考えながら窓から池を眺めていたのだろうな・・・という感慨に浸ります。広場は、池より一段高くなっていますので、優雅な気分でみおろせるのです。

 貞顕は長く六波羅探題として、京都に暮らしていました。それで、鎌倉幕府のなかでは最も京の雅な文化を吸収している人物の一人です。『増鏡』のなかでも、六波羅探題として凛々しい姿が描かれ、「こんなところに貞顕が・・・」と驚いたことがあります。

 その貞顕が、鎌倉に戻って手がけたのが、苑池の整備でした。現在、称名寺を訪れて見ることのできるのは、この整備された庭園です。

 この時代、鎌倉の中心部では、時頼の建長寺、時宗の円覚寺というふうに、禅宗様の寺院が中心に建てられていました。貞顕のめざした「浄土式庭園」は、少し時代が古いのですが、あえてそうしたことに、文化人金沢北条氏たる所以といわれます。いかめしい禅宗様と対照的に、京の雅な文化をほうふつとするのが浄土式庭園です。あまり残っていませんが、宇治平等院、平泉毛越寺、いわき市白水阿弥陀堂などがあります。

 貞顕は京都に滞在しているあいだ、法勝寺などたくさんの寺院の庭園をめぐって歩いたことと思います。その蓄積が称名寺の庭園に生かされているのだろうと思って見ると、またひときわの思いがします。

追記: 白水阿弥陀堂浄土式庭園苑池です。
Siramizu07_3Siramizu09   

お詫び:貞顕が登場する古典を『とはずがたり』と書きましたが、『増鏡』でした。2月12日訂正

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2008.2.2 『芸術新潮』源氏物語特集号とターナーの夕焼け

 『芸術新潮』で源氏物語千年紀記念の特集が組まれていて、「国宝≪源氏物語絵巻≫全56面一挙掲載!」とあるので買いました。絵巻の図版は、五島美術館とかいろいろな展覧会に絵巻が出展されるたびに図録を買ってもっているので、もういいだろうと思いながら、やはりついつい買ってしまいます。

 中の特集記事の解説は三田村雅子氏。『新潮』に「記憶のなかの源氏物語」という連載を長いあいだ続けて来られて、終えられたばかりです。(たぶん、数年に渡って。たぶん、完了しています。)

 これは、源氏物語の享受史や研究史を、もの凄く精密に調べて書かれた、もの凄く膨大なもの。もうずっと文学系の雑誌を見ることから離れていたので、私はこの連載を知りませんでした。去年、駒澤大学の聴講ゼミで高橋文二先生が院生さんに、「あの連載、どこまで進んだ?」と問われたことではじめて知り、広尾の都立中央図書館へ行って、初回から最新回までのコピーをとってきました。室町時代までの内容でした。

 興味深く拝読させていただきました。私としては、今書いている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』と重なる内容ですので、鎌倉時代をどのように捉えて書いていらっしゃるのか、確かめておく意味もありました。それについての結果は、上梓した『紫文幻想』で見ていただくこととして、現在、国文学界で鎌倉時代の源氏物語について、「源光行」の名をだして書かれているのは三田村氏だけといっていい気がします。少し前は研究史として、そうそうたる学者の方々が書いていられましたが。

 この『芸術新潮』でも、「鎌倉に花ひらくプリンス宗尊親王(むねたかしんのう)の夢の本」の項が、しっかりと見開き二ページで紹介されていました。右のページに私がテーマとしている北条実時書写の『尾州家河内本源氏物語』が、左のページに藤原定家の『青表紙本源氏物語』が、綺麗なカラー写真で載せられています。

 源氏物語の話はこれだけにして、今日ここで書きたかったのは、同じ雑誌のうしろの方に、興味ある記事をみつけたのです。「天文学者が実証した画家たちの夕焼け色観察力」と題するものです。

 なんでも、「アテネの自然科学者たちが、地球温暖化の歴史を科学的にあとづけるため、ルネサンス以降の絵画を分析している」のだそうです。

 「夕焼けを描いた作品の色調を測定することで、制作当時の地球成層圏に浮遊していた火山性ダストの量が推算できるという」ことなのだそうです。

 「研究者たちは、1500年から1900年のあいだに制作された『夕焼け画』554点の画像を集め、作品ごとに『赤と緑の色彩比』を測定し、たとえばターナーの作品が、火山噴火の直後とそれ以外の時期でどう変化するか調べた。」

 この年代のあいだの1883年にインドネシアのクラカタウ火山の大噴火があります。

 結果は、「噴火後3年以内に制作された『火山性の夕焼け画』は、他にくらべてきわだって赤っぽく描かれていたことが判明した」そうです。それは、掲載されている、噴火前の絵と、噴火後の絵とでは、明らかに赤みが違うことで一目瞭然でした。

 私はターナーの絵が大好きです。好きな画家を一人挙げよといわれたら、たぶん、ターナーと答えるかも。(日によって違うから、ダ・ヴィンチとかモローとかいうときもあるでしょうし、いい加減ですが。)ターナーの絵が印象派に影響を及ぼしたといいますが、あの空気感がたまらないですね。なので、代表例にターナーが挙げられているのも必然と思います。

 記事では、「歴代の画家たちがきわめて忠実に夕焼けの色を表現してきた」とありますが、だからこそ、それでこそ、ターナーの絵であり、印象派なのに・・・と、私は思ってしまいました。

 私は夕焼けの時間帯の空の色が大好きです。雲を撮っていて続いているのは、あの色があるからとさえ思います。限りなく澄んだ青い色に、オレンジの色が入って、そこに白とグレーの微妙なトーンが複雑に絡み合って、もうなんとも表現できない見事さです。

 所属している月光の会に、有賀真澄さんとう画家さんがいられて、よく上野の東京都美術館に招待していただくのですが、彼の絵の色の繊細さ、微妙さ、複雑さ、美しさ、その絶妙さにいつも感嘆して帰ります。文章では絶対にあれは「書けない」。いくら言葉でそれを表現しようとしても、「できない」。無力さに打ちひしがれる思いで、いつも帰途につきます。

 それが、空を撮るようになったら、それに近いものを「自分のもの」とすることができるようになった・・・。これは、驚きでした。とくに、夕焼け時の空の色の、一刻一刻変化する微妙さ。もう、夢中でシャッターを切ります。そして、そんなとき、いつも、有賀さんを思い浮かべているのが不思議ですね。

 地震雲というと不気味ですが、撮っているのは「空」。そして、「雲」。まさに、光と影の、色の世界。印象派であり、「ターナー」です。私自身はたいしたことのない一人の人間に過ぎなくても、空は雄大であり、宇宙です。それを、自分の手で「ものにすることができる」なんて・・・。その醍醐味がなければ、いくら「予知」という大義名分があっても、雲の撮影は続きません。

 地震雲といえば、古来、偉大な文学者も着目されています。古くはゲーテ。そして、近代では島崎藤村。地震雲の研究史のなかでそれを知ったとき、なんだか「間違ったことではない」保証をされたような、非常に力強い味方をみつけたような気持ちになりました。私はまだ読んでいませんが、ゲーテの色彩に関する文章は、それは見事とか。きっと、空の、夕焼け時の微妙な色を観察しあげた結果でしょう。

追記: 昨年撮った夕焼け画像を添付します。火山の噴火だけでなく、大きな地震があるときも、空に影響します。スマトラ地震の年の夕焼け観測の回数は異常でした。

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追記2: 2月3日、鹿児島の桜島が噴火しました。1月30日の珍しい彩雲はこの前兆だったのでしょう。

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2008.2.1 平清盛と「福原の夢」と『源氏物語』

 高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』を拝読中です。これは、私が「『源氏物語』について書いていたら、『平家物語』になってしまいました」と、何かの折のついでに峰岸純夫先生にメールしたときに、返信で教えていただいたもの。執筆中の『紫文幻想』で、何故源光行が『源氏物語』写本を作ったかを追っていたら、光行が平家文化のなかで育ったからという実態が見えてきて、それをジョーク混じりにお伝えしたからでした。

 清盛については従来悪いイメージで教えられてきましたが、このあたりの歴史を把握するようになってからは、かえって尊敬とか憧れといったような素敵な思いがしみじみ湧いてきています。それは、「白拍子の風」執筆のための取材で訪れた六波羅密寺で、清盛像に接して極まりました。偉人の彫像はあまたありますが、これほど清らかで知性高い像は他に知りません。

 そのあと、大河ドラマ「義経」で、渡哲也さんが演じられた清盛。もうこれで、私の中での清盛像は定まりました。私のなかで、清盛は「優美な精神をもつ知性の人」なのです。その後、展覧会で清盛の自筆という書状にも接しましたが、胸のすくような気高い書風でした。こういう文字を書く人に、気品のないはずはありません。

 ドラマのなかで、渡哲也さん扮する清盛と、滝沢秀明さん(タッキー)演じる義経が、三十三間堂のあの暗い堂内で、千体の仏像のあいだを巡りながら、互いに相まみえることなく、声だけで再会と訣別を果たした場面・・・。息をのむ思いで、今も私のなかに鮮やかです。あのときは、平家に決起する決意の義経が、かつての養父だった清盛にそれを告げ、暗黙の許しを得た場面だったと記憶しているのですが。

 そして、あのドラマでも、清盛のなかでの「福原」の位置が、理想郷として描かれていました。私は、清盛についてあまり知らなかったので、これは新鮮な情報でした。
http://www.netpassport.or.jp/~winoguti/kodaishi/tabiyukigosho.htm

 今回、高橋昌明氏のご著書を教えていただいて、タイトルに「福原の夢」が入っていたので、興味をもってすぐ購入させていただきました。去年のことでした。2007年11月の刊行ですから、書店に並んですぐのこと。きっと峰岸先生も贈呈されて知られたばかりだったのでしょう。

 このご著書で知ったのですが、「平家の貴族化」というけれど、平家の人が「貴族」になったことは一度もないとのこと。平家一門の公卿は、清盛の嫡子重盛でさえ、「院評定を含め各種の公卿議定に参加していない」そうです。なので、「平家の公卿たちは、ほとんど並び大名の域を出るものではなかった。」

 私の『紫文幻想』は、貴族化した平家文化を前提に書いています。一瞬、ちょっと困ったな・・・という思いはしましたが、でも、そうではなくて、貴族の趣味たる「詩歌」「管弦など、雅な文化はたしかに「貴族化」しているのだからいいかと。厳密に歴史学で語るのと、文学的に心情で探るのとでは、同じ事柄が同じ判断でなくなります。

 『紫文幻想』に書いていますが、平家一門の人たち自身が、それをいやというほど知っていました。だからこそ、切磋琢磨して、雅な文化を身につけたのです。その根底に、清盛の「知性」があったというのが、私の論旨です。なにしろ、清盛は、幼少時代、白河法皇の寵妃祇園女御に育てられ、かの待賢門院とも身近に接しています。時の権力の中枢にいた女人たちの、最高の雅のなかで育った清盛が、野卑な精神の持ち主であるはずがありません。おのれの率いる一門が蔑視されないよう、最高の貴族趣味の具現をめざしたのは偶発的なものでなく、明確な清盛の意志のもとでした。そのお手本となったのが『源氏物語』であり、最高の作品が建礼門院徳子です。そして、その先に理想郷「福原」があった・・・

 徳子については書きたいことがたくさんあります。そして、それは『紫文幻想』の最終章になる予定です。あと少しで、そこにかかります。福原については、最近とみに行ってみたい気持ちが募っています。高橋氏のご著書には精細な地図も載っていました。訪ねたら、また写真をホームページに載せますね。

 最後に、もう一つ、興味深いご説がありましたので、それを紹介させていただきます。それは、頼朝が築いた鎌倉幕府を、日本史では最初の武士による幕府といっているが、氏は、その前に、清盛の六波羅幕府があったといっていいといわれます。鎌倉幕府にしても、朝廷あっての幕府に過ぎなかったのだから・・・

 そして、頼朝が朝廷の力が及ばない遠隔地鎌倉に幕府を築いたのは、案外、清盛の福原隠遁後の朝廷との微妙なバランスを見てのことだったのかもしれない、と。

 さきほど、『源氏物語』がお手本だったと書きましたが、高橋氏はまた別の見方をされています。後白河法皇にとって、清盛は『源氏物語』中の明石入道に過ぎなくて、徳子は明石の君だった・・・。福原は『源氏物語』における須磨・明石のあの明石だったというのです。生粋の貴族でないために、紫の上にひけをとらない人柄であっても、身を引いて生きなければならなかった明石の君。中宮となった徳子に対しては、かの兼実でさえも、そういう視点のぬぐい去ることはなかったようです。

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2008.1.31 高野山霊宝館の国宝『阿弥陀聖衆来迎図』のこと

 高野山の霊宝館に、『阿弥陀聖衆来迎図』(あみだしょうじゅうらいごうず)という、とても巨大な来迎図があります。来迎図は浄土教系の仏画です。が、私がその存在を知ったのは、青山のNHK文化センターに通っていたときの、真鍋俊照先生のお話のなかででした。真鍋先生は密教の僧侶でいられますが、仏教美術がご専門ですので、浄土教の美術についても教えていただいていたからです。

 浄土教美術と密教美術の違いを一言でいうと、描かれているほとけ様が、浄土教の場合は阿弥陀さま、密教は大日如来となります。なので、『阿弥陀聖衆来迎図』は浄土教の仏画となります。

 来迎図というのは、「往生しようとしている人」を、たくさんの菩薩さま方を従えた阿弥陀さまが、迎えにこようとして、雲に乗っておりて来られる図です。あちらから降りて来てくださるのですから、ほとけ様が「来る」構図です。

 密教では、即身成仏が主眼ですから、ほとけ様が助けに来てくださるのを待つことはしません。ひたすら大日如来というほとけ様の前で観想を積み、その境地に達するよう目指します。つまり、密教では、人間が「行く」構図です。

 今、ほとけ様の前で、と書きましたが、正しくは「はさまれて」でしょうか。というのは、密教の仏画である曼荼羅には二種あって、一つは胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)。もう一つが金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)です。観想は、この二幅の曼荼羅を左右両脇にして、その中心に人間が座して行います。そして、一体となることを願うのです。

 専門でない私がこれ以上書くのははばかれるのですが、このあたりのことを、真鍋先生から毎回とても丁寧に教えていただいていました。それは、とてもしなやかでふくよかで、素人の私にもとてもわかりやすいお話でした。

 一例をあげますと、胎蔵界曼荼羅の中央上部に△のマークがあります。それを先生は指して、「ここにこのマークがありますね。ほとけといっても、人間の目には見えません。見えないし、ほとけは遍満しているものですから、人間はどこに向かって拝めばいいかわからない。人間は見えないと不安なんです。だから、仮にここにこういう目印を置いて、それに向かって拝めばいいんです。すると、人は安心するのですね・・・」というような。

 もちろん、その△のマークがそんな他愛ない話でないことは明らかです。でも、一般庶民の素人の私たちには、それで十分。まさに、「安心」するわけです。以来、私も、拝むときは、「どこに向かってするのでもない、ただ仮にこのほとけ様に向かって拝んでいるのだけれども、この具体的な形象はこの世での仮の手だてなのであって、ほんとうはもっと奥の広い宇宙に遍満するほとけの世界に向いているのだ」というような感覚になります。

 曼荼羅といっても、ご存じない方もいられるでしょうから、ご参考までにURLを付しておきます。企業のサイトのようですが、とても綺麗です。左が金剛界曼荼羅で、理性の世界の「智」を。右が胎蔵界曼荼羅で、慈悲の世界の「理」をあらわすそうです。両方を合わせて「金胎不二」(こんたいふに)といい、すなわち宇宙です。
http://www.j-reimei.com/mandala.htm

 『阿弥陀聖衆来迎図』から話がそれてしまいましたが、来迎図というと有名なのは、知恩院の『阿弥陀二十五菩薩来迎図』です。「早来迎」の名で知られる、とても綺麗な仏画です。構図がシャープなので、何も知らないで見ていたころは、来迎図のなかでは一番惹かれていました。が、これは、来迎図のなかで、もっとも時代がくだったときのもの。というのは、人間世界はせっかちですから、阿弥陀さまが降りてこられるのを次第に待っているのがもどかしくなり、「早く降りて来てください」との願いに応えて、ほとけ様の一行が急スピードで降りてこられる図なのです。だから、構図が急角度。そのためにシャープに見えるというわけです。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/butsuga/item06d.html

 高野山の『阿弥陀聖衆来迎図』は、阿弥陀さまが真正面を向いて中央に座していらして、その周りをにこやかに菩薩さま方が取り巻いてられるという、とてもゆったりして穏やかな構図です。斜めに降りてこられる構図しか知らなかった私には驚きでした。
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/kaiga.html

 真鍋先生のお話を聴いて、是非とも拝観したくなった私は、所蔵先の高野山霊宝館の展示状況を調べました。貴重なものですから、展示は劣化・破損を恐れて、二年だったか四年だったか、何年おきにしか展示されないとのこと。そして、そのときは前年に終わったばかりでした。がっかりしましたが、その後まもなく、どこかの展覧会で出展されるとのことで駆けつけ、無事拝観させていただき、感動した思い出も懐かしいですね。展覧会会場の一つの壁面を占めてしまうほどの、とにかく巨大な仏画でした。

 昨日、彩雲を見て、『阿弥陀聖衆来迎図』を思い出しました。彩雲を見ると、いつも仏画を思うのは、ほとけ様が乗っていられる雲、「紫雲」が、この彩雲ではないかと思うからです。

 地震予知を目指して、私はここ四年ほど、いわゆる「地震雲」を撮っています。「地震雲」といっても特殊な雲ではありません。ただ、一定の形状や発生の仕方があって、経験の積み重ねでそれが地震の予知に繋がるのです。そういうなかで、彩雲ともかなり遭遇しました。
http://ginrei.air-nifty.com/

 実をいうと、彩雲は、大きな地震の前触れです。地震が起きる原因の地中での岩盤の破壊時に電磁波が発生し、それが地表に湧き出て大気中に遍満すると、それがプリズムのようになって彩雲となる・・・・、簡単にいってしまうと、そういう経緯になります。ですから、彩雲ができるほどの空というのは、よほど電磁波が多いということ。大きな地震の前触れということになります。といっても、見えたその地域で起きるのでないので、脅える必要はありません。ただ、世界のどこかで・・・。それは、遠い国での発生でも、日本で彩雲になって見られる規模、ということ。(自分さえ助かればいいというのではなく・・・)

 私が不思議に思っているのは、古代の人は、この地震との関連を知っていたのかしらということ。紫雲というと綺麗ですし、瑞雲といえばおめでたいようですが、そもそも来迎図は往生しようとする人のためのもの。彩雲の綺麗さだけに捉われたわけでないだろう、古代の人の感性を私は凄いと思ってやみません。

 長くなっていますので閉めますが、高野山の『阿弥陀聖衆来迎図』は、もとはといえば比叡山の重宝でした。織田信長が比叡山を焼き打ちで攻めたときに、これを燃やすわけにいかないと、お寺の人が懸命になって持ち出し、高野山に収めてもらったという経緯で、現在高野山の重宝となっているそうです。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/ 「寺院揺曳」6をアップしました。

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