また雪が降りました。ベランダに置いた盆栽の紅梅がちょうど咲き誇って、それに降り積もる雪は風情があって格別。深夜なのに、窓を開けて見入ってしまいました。
昨日、降雪の予報を聞いて、積もる前にと慌てて図書館へ行ったら、近藤富枝先生の『紫式部の恋』があって借りてきました。たぶん、出てすぐだったと思いますが、以前に一度拝読している本です。が、昨年、王朝継ぎ紙の世界を垣間見させていただきましたので、改めて読ませていただきたくなったのです。近藤先生は、王朝継ぎ紙の復活活動をされている方です。源平の争乱で滅びた継ぎ紙を、今の世に・・・と。
信じられないほど精緻で精巧で華麗な料紙の世界。日本が誇る、日本独特の、雅な「紙の文化」。それが、源平の争乱で一時流行らなくなったとしても、世のなかが落ち着いたときに、長い時代、誰も復活させようとしなかったことが驚きです。それを近藤先生は、個人の意志で、個人の情熱で、はじめられたのでした。当時、作家としてお名前を拝していたので、たしか新聞だったと思いますが、取り上げられた記事を目にしたときは、思わず夢中になって読んでしまいましたし、敬服しました。だって、作家だけでも大変なのに、継ぎ紙にまで精力を注がれるなんて・・・。まさか・・・と絶句したような思いの記憶があります。
http://homepage2.nifty.com/tsugigami2/
そのころまだ健在で活躍されていた、辻が花染めの久保田一竹氏と並んで、お二人の世界はずっと憧れでした。遠い、手が届かない、高嶺の花のような世界ではあっても・・・。文化は、一度滅びると、復元に凄い情熱をかける人が現れないかぎり埋もれたままになってしまうのですね。
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/02/fuji/index.html
『紫式部の恋』にこういうフレーズがありました。
「作家というものはしょせん自分を語りたくて小説を書くのであって、生涯に自伝を何度も書いている作家も少くない。しかし正面切ってそれを語りたがらない作家もあり、そうした作家は小説のなかにフィクションらしく見せながら自分を語っているのを発見する。」
これはちょっと私にも思い当たることがあり、ニヤッとしてしまいました。近藤先生も作家ならではこそのこのフレーズ。これを紫式部と『源氏物語』の関係に当てはめて、『紫式部の恋』は進行していきます。そして、作家ならではの直感で探り当てた“恋人”!!・・・。以前、拝読したときから、私はこの近藤説がもう頭から離れなくて、たぶん、これが真実だろうと思っています。その恋人とは・・・
書店販売されているご本ですし、もう新刊ではありませんから、答をここで書いていいですよね。上映中の映画なら、許されませんが。
まず、空蝉の事件に、近藤先生は紫式部を当てはめられます。紫式部にも、空蝉同様の「身分の高い貴公子」との逢瀬があっただろうと。
そして、それは、光源氏にも匹敵する男性なのだから、知性が高い人・・・
そして、紫式部の周辺から割り出したその人物とは、具平親王(ともひらしんのう)でした。
具平親王が光源氏のモデルの一人といわれていることは知っていました。親王には、「夕顔」事件にそっくりの経歴がお有りなのです。すなわち、身分の低い雑仕女の女性に非常に心惹かれ、愛された。が、ある月の夜、その女性を連れて宿泊した先で、物の怪に憑かれてその女性が絶命してしまうのです。その女性の名を「大顔」といいました。紫式部はそれを「夕顔」として執筆したというのですが、まさか恋の相手・・・とまでは思いませんでした。
近藤先生のご著書では、父為時のゆかりの具平親王の周辺に、少女のころ、紫式部は女の童(めのわらわ)として出仕していたのではないかと。そして、そこで、文学的資質豊かな具平親王の環境に浸り、趣味を同じくする物語好みの同性の女友達がたくさんいた・・・。そういう中で、いつしか恋が芽生えて・・・。
光源氏の激しい求愛に、「身分が違う・・・」と、必死の思いで我が身を抑え、二度と応じない「強さ」は、紫式部自身の哀切極まりない過去があったからこその叙述だった・・・
とても、説得力がありますよね。私は『源氏物語』を洞察力深く研究される学者の方々の専門書も好きですが、女性作家の方々の、こうしたご自身の内側から肉薄して照射されての解明には、いつも、うーんと唸って読ませていただいてしまいます。それは、おそらく、決して学問では捉えきれない部分です。
具平親王に関してのその後ですが、紫式部が道長のもとに出仕していたとき、道長息の頼道と、親王の娘との婚姻の話がもちあがります。道長は、紫式部が具平親王とゆかりであることを知っているので、とりもって欲しいみたいなことを式部にもちかけます。『紫式部日記』に書かれている内容です。
このあたりのことも近藤先生は書いていられますが、私はかつて、別の方のご著書でも読んだ覚えがあって、痛烈な印象になっていますので、書かせていただきます。
紫式部は、この持ちかけに困ったのです。それで、道長にとって色よい返事ができなかった・・・。つまり、断ったか何かした・・・
『源氏物語』は「源氏」の物語なんです。「源氏」は、皇子に生れて天皇になる資格がありながら、事情で臣下におろされてしまった方のことをいいます。具平親王は「源氏」です。紫式部は『源氏物語』で、現実にはかなわない「源氏」の君の栄光を描きだしました。藤原氏である道長のもとに仕えながら。
表向きの華やかな流れにひきずられてだけ読んでいると気づきませんが、この矛盾には、ん?、こんなことがあっていいの?・・・、と思わざるを得ません。紫式部は、大丈夫だろうかと。
案の定というか、結局その後、紫式部は道長と相容れない険悪な関係になります。それを、道長の誘いに応じなかったからという単純な見方の説もありますが、ここに具平親王を入れると、ぐっと信憑性がでてきます。
紫式部は、たしかに一時期道長を敬愛し、それを光源氏に投影させて書きました。が、たしかな人間性に根ざす紫式部は、権力者に表裏一体する過酷さ、冷酷さに批判する気持ちを次第に抑え難くなっていきます。そうして、その対極にある具平親王世界を守ったのでしょう。
先日、彰子の妹の≪妍子≫の三条天皇への入内で、それ以前から入内していて天皇と相思相愛だった≪せい子≫のことを書きました。近藤先生も、やはりこれは書いてらして、「若菜の巻で女三宮が降嫁したのちの紫の上の苦悩は、彰子が一条天皇のもとへ入内したときの定子の思いに通じる。さらに三条期になってから≪姸子≫が入内したときの≪せい子≫の心境とも等しいだろう」と書かれています。
今年は源氏物語千年紀ですが、千年前の時点で、五十四帖中のどこまで完成していたかは解明されていないそうです。私は、≪姸子≫入内に画策する道長を身近に接して見ていた紫式部が、女性として≪せい子≫の立場を推察してあまりある思いで書いたのが、「女三宮降嫁事件」ではないかと今は思っていますので、千年前の時点で完成していたのは、「若菜」巻の前まで。すなわち、第一部までという気がしています。(どなたかこういう学説を書いていられるでしょうか・・・)
「若菜」巻以降を第二部といいますが、これははっきりと、栄華に上りつめた光源氏が暗転していく世界を描く。すなわち、道長への批判。彰子につかえて身近に接しているあいだに、ここまで紫式部は権力者への批判力を磨いていました。
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