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2008.2.10 『源氏物語』の二大写本のひとつは鎌倉でできました!

 また雪が降って、近くの井の頭公園もさぞ雪景色で綺麗だろうと思ったのですが、もう春がほんとうに近いんですね。朝のうちに雪は融けてしまいました。夕刻、そんな公園を歩いているとき、ふと、気がついたのです。重要なことを書き忘れていたことに。

 そういえば、雪景色というと、いつも思い出すのが称名寺です。称名寺の写真を撮りつめていたころ、四季折々の光景をもちろん撮りたいと思いますよね。それで、雪が降ると、あ、行かなくては! と思うのが習慣になっていた時期がありました。

 でも、都市圏での雪は、たいてい昼ごろには融けてしまいます。東京の多摩東部からだとたっぷり二時間はかかるので、着いたころには綺麗な雪景色なんてどこにも・・・、ということばかりでした。

 一回だけ、一応、これぞ「称名寺」の雪景色というのを撮ったことがあります。その後撮っていませんが、どんどん称名寺の境内も面変わりしているので、これから雪が積もったとしても、あのときほどのショットは撮れないのではと思っています。

 でも、残念ながら、これはまだフィルムカメラでの時代。スライドで見るリバーサルフィルムでの撮影です。手元にはあっても、デジカメのようには簡単にネットに載せられないのが辛いですね。もう少し落ち着いたら、そのころの写真を全部デジ処理して、逐次、ご紹介させていただきます。

 で、昨日、春の称名寺の写真をHP【古典と風景】に載せましたが、その解説に、なんと、現在私が一番訴えたかったことを書き忘れていたのです。画像をアップすることばかりに気が行っていたとしても、なんということをと、公園を歩きながら唖然としてしまいまいた。

 私は今、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』と題する原稿を書いています。HPやこのブログをはじめたのも、上梓したとき、この本の存在を皆様に知っていただくのが目的です。というのも、私は公の機関のどこにも所属していませんので、個人で奮闘するしかないのです。経験で、それは「無力」ということを、いやというほど知っていますから、あっさりと人脈を介しての「人頼み」は止めました。それよりもっと普遍的に皆様に知っていただきたいから。

 というのは、語ると長い話になりますが、「鎌倉における『源氏物語』」というテーマ自体が無力なのです。京都で、京都の紫式部の、京都の源氏物語・・・なら、いくらでも売れるでしょうけれど、あまり知られていない、しかも無骨で無粋なイメージしかない鎌倉での源氏物語なんて、ふつうには魅力ないんでしょうね・・・。(『芸術新潮』源氏物語特集号で、三田村雅子氏が「鎌倉のプリンス宗尊将軍の夢」と題して見開きで書いていられますが、これは画期的なんです。千年紀でなかったら取り上げられない話でした。)

 話を戻しますが、ご覧になっていただいた「春の称名寺」の光景、綺麗でしょ! ここは京都かと見まがうばかり・・・。それもそのはず、称名寺の庭園は、長く六波羅探題をつとめた三代当主貞顕が、京都滞在中に六勝寺などさまざまな名園をまわって目に焼き付け、鎌倉に帰ってからすぐに造園に着手して整備したもの。鎌倉中心部の禅宗様庭園と一線を画して優美なんです。貞顕は実時の孫ですが、実時の時代にすでに境内は基本的にこの形式でした。貞顕は規模を大きくしたのです。

 HP【古典と風景】の写真のなかで、実時の邸宅の阿弥陀堂から眺めた苑池の光景というのがあります。それは、池の端の一段高くなった広場から見下ろして撮ったものですが、ここに立つと、いつも、実時が見下ろしただろう視線というものを、私は感じます。読書家であり、勉強家であり、思索家だった実時が、鎌倉中心部の殺伐とした世情から離れてこの綺麗な光景を見おろしたとき、いつも何を思ったのでしょう。

 実時は優れた政治家たらんと、漢籍の政治家向きの学問を積んだことばかりがいわれていました。が、彼は、なんと、『源氏物語』も書写して残しているのです。称名寺とか金沢文庫にしげく通うようになってそれを知ったとき、驚きました。

 どうも、学者さんとか、学芸員さんとか、特に鎌倉関係の専門者の方々は、男性だからか、「鎌倉」のイメージの「武家文化」中心で、関心が歴史や政治中心でいられますね。で、実時書写の『源氏物語』という、国文学世界では貴重な遺産も、ほとんど語られないままでした。『芸術新潮』源氏物語特集号の三田村雅子氏のあの豪奢な紹介でさえ、千年紀でなかったら、もっと規模が小さかったと思います。

 で、その実時書写の『源氏物語』ですが、これが大変なものなんです。現在は名古屋市蓬左文庫所蔵になっていて、重要文化材に指定されていて、『尾州家河内本源氏物語』と呼ばれています。それは、実時書写→金沢文庫所蔵→鎌倉の滅亡で流出→足利将軍の手元に→徳川家→徳川家ゆかりの蓬左文庫、という流れからきています。

 これほど読まれている『源氏物語』ですが、紫式部が書いた原本というものは存在していません。私たちが読むことができるのは、昔の人たちが書き写してくれた写本があるからです。その写本のうち、二代写本というのが、藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』と、源光行・親行親子校訂の『河内本源氏物語』です。

 これは、西の『青表紙本源氏物語』に対して、東の『河内本源氏物語』と、双璧をなす存在です。そう、『河内本源氏物語』は「東」、すなわち、鎌倉で成立したんです。鎌倉時代、鎌倉の地にもれっきとした源氏物語文化があったのです。

 実時書写の『尾州家河内本源氏物語』は、『河内本源氏物語』のなかでも、最も古く由緒ある書写本です。なぜなら、巻末の「夢浮橋」の奥書に、自筆で実時の花押と、書写の年と、「親行の本を借りて」という内容が記されているからです。

 実時は鎌倉幕府のなかでも執権北条氏の身内ですから、重鎮。親行は幕府に仕える家臣ですが、ともに文学を愛好する仲間として親交があったのでしょう。ともに、宗尊親王に仕えていましたし、親王ご自身が優秀な歌人でいられましたから。

 つまり、『尾州家河内本源氏物語』は、完成成ってすぐの『河内本源氏物語』を、親行からじきじきに借りて書写したものなんです。ですから、HPにアップした称名寺の写真は、『尾州家河内本源氏物語』の生誕地ということ。

 そんな大切なことを書き忘れるなんて! どうも、書きたいこと、お伝えしたいことがたくさんありすぎて、頭が錯綜しています。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

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