« 2008.2.13 飛鳥井雅経と鎌倉の蹴鞠 | Main | 2008.2.15 媚薬のような定家の歌 »

2008.2.14 後鳥羽院だからこそできた『新古今和歌集』の歌風

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆を再開したら、ちょうど『新古今和歌集』の時代にさしかかっていて、そうか、だから長く中断していたのだ・・・と思い出しました。

 というのも、以前、それは夢中になってこの世界に浸り、定家のこととか、後鳥羽院とかの本をむさぼるようになって読んでいますから、その「大変」さというものがわかっています。勝手気ままに堪能している分にはいいのですが、原稿のなかの一部分にちょこっと要約して書かなければならないと予感したときから、ふうっと溜息をつく思いで、手をだすのが億劫になってしまいました。

 なぜって、熱狂の世界を、淡々と客観的に書くなんて味気ないし、かといって、熱狂をコンパクトにまとめるなんて至難の技。よほどその世界を熟知していないとできることではありません。以前、堪能していたときならできたと思いますが、気分が国文学から離れて歴史になり、文学が和歌から離れて源氏物語になりと、嗜好がまったく変わってしまっていますから、もう、まったく、巨大な暗礁に乗り上げた感じで、考えただけで疲れ果ててしまい、それでいろいろ勝手に理屈をつけては中断していたのだと思えてきました。

 年末・年始の人事的多忙の極みを越え、今また節分という季節の変わり目まで越えて、ようやく原稿に向かって思うのは、『新古今和歌集』世界を書こうとするには、ずっと書きつづっていた光行の、どちらかというとつつましやかな学問的気分を払拭し切らなければならなかったということ。引きずっていては書けないんです。長い中断は、おそらくその為の長い休息だったんでしょう。

 光行の雅経との関係には、『新古今和歌集』の歌風が大きくかかわっています。それで、それを書こうとして、かつて大量に集めてまわった『新古今和歌集』関係の資料をとりだし、要約できる参考文献を探していたら、次第に当時の気分が甦ってきました。

 『新古今和歌集』の歌風は、一言でいって妖艶美です。なので、甦ってきたということは、私のなかが妖艶な気分・・・、妖しく、優美で、頽廃的な・・・

 次第に魅力が戻ってきて、わくわくする気分になっていって、ああ、書けそう・・・というところまできて、そうして気がついたら、今度は、「今、光行の鎌倉について書けといわれても、抵抗感あって書けないだろうなあ・・・」と。

 書くって、そういうことなんです。とっても気分はわがままです。

 せっかくですから、『新古今和歌集』の歌風についてまとめておきます。

 一口に『新古今和歌集』といい、撰者として定家、歌人には雅経がいて・・・と、さまざまよく知られていますが、改めて資料を読み返して思うのは、後鳥羽院の凄さ。定家たち撰者はその手足にすぎませんでした。若き獅子の撰集だったから、専制君主ならではの横暴さの極みだったから、『新古今和歌集』の歌風はあんなふうに見事にまとまったのです。だから、『新古今和歌集』の歌風は、「まったくの後鳥羽院一人の趣向」といって過言ではありません。定家の歌風は、後鳥羽院に摂取されたからこそ生き残って評価されているんですね。そうでなかったら、対立する六条家歌壇に潰されたまま世にでていません。

 後鳥羽院は、高倉院の皇子ですから後白河院の孫。院最愛の寵妃建春門院滋子の孫です。滋子は平清盛の妻時子の妹です。ということは、後鳥羽院は生粋の平家文化人。即位のとき、4歳でした。幼年期は雅な平家文化のなかで育っていたんですね。

 後鳥羽院が有名になるのは、源平の争乱という無骨な時代に帝位につくところからです。そして、専制君主として遊興のかぎりを尽くすという、若い猛々しい血気盛んな人物として・・・

 そのイメージから、従来あまり雅な王朝風の平家文化はむすびついては語られてはいません。が、院の資質の根底は、れっきとして「王朝風」。つまり、妖艶美なのです。

 後鳥羽院がさまざまな遊びにあきて歌に本腰を入れはじめたとき、藤原定家はまだ歌人としては若くて無力。当時隆盛の六条家歌壇に完全に押されていました。院が和歌活動に意欲を燃やし、『正治初度百首』を募ったときも、六条家側の陰謀で、作者からはずされていたのです。そこを、父俊成が、後鳥羽院に直訴して、作者に加わることができたのでした。

 が、蓋をあけてみれば、定家の圧勝。定家の新鮮な歌風に院は惹きつけられ、定家の昇殿を許すまでになり、院の和歌へののめり込みが本格化します。その結実が『新古今和歌集』となりました。あまりに新しい定家の歌を、「新儀非処達磨歌」と誹謗してやまなかった、古い体質の六条家歌人はおのずと衰退します。気の毒ですが、時代の波ですから仕方ありません。

 その定家の歌風の根幹が妖艶美。平家文化の妖艶美をひきずっている院にぴたり嵌まったというわけです。

 この歌風の代表的な歌を書かせていただきます。私の大好きな歌ばかりです。もう、なんといっていいかわからないくらいに、素敵です。

  大空は梅の匂いに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月
  霜まよう空にしおれし雁が音の帰るつばさに春雨ぞ降る
  春の夜の夢の浮橋とだえして峯にわかるる横雲の空
  梅の花匂いを移す袖の上に軒もる月の影ぞあらそう
  駒とめて袖うちはらう蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 少し光行に触れておきますと、定家といっしょに平家文化圏で成長した光行ですが、この妖艶な平家文化を基底とする『新古今和歌集』には、撰者になっていないどころか、一首しか歌が採用されていません。それは、光行が鎌倉にいたから・・・

 中央の、後鳥羽院による和歌の熱狂に、完全に光行は取り残されてしまっています。代わりに、鎌倉でいっしょだった雅経が、蹴鞠で召されて上洛し、歌にめざめて撰者にまでなった・・・

 光行の落胆、失望、後悔といった忸怩たる思いは、考えるだけでも痛切です。このことが、光行のその後の人生を大きく左右したというのが、『紫文幻想』での私の論法です。

注: 後鳥羽院が好きで頻繁に通った水瀬離宮の写真がHP【中世の遺跡と史跡】にあります。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

|

« 2008.2.13 飛鳥井雅経と鎌倉の蹴鞠 | Main | 2008.2.15 媚薬のような定家の歌 »