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2008.2.8 小倉百人一首は宇都宮歌壇と・・・

 鎌倉時代、東国には、宇都宮文化圏という、中央の鎌倉幕府よりも京の雅な文化を築いた氏族がありました。当然、そこには、宇都宮歌壇なるものも存在していました。栃木県宇都宮市でのことです。

 私がそれを知ったのは、もうほんとうに最近のことですが、それを知ると同時に、そこには日本人なら誰でも知っている、あの小倉百人一首の成立の経緯が明らかになって、大変驚きました。知る人ぞ知る小倉百人一首の成立の歴史ですが、たいていの人は、おそらく少し前の私同様ご存じないでしょうから、少し書かせていただきます。

 私が宇都宮歌壇に関心をもった最初は、ホームページに連載中の歴史随想「寺院揺曳」で、冷泉為相(れいぜいためすけ)について書いたときです。

 為相は藤原定家の孫。そう、小倉百人一首の生みの親の孫ということになります。定家の子息為家の子で、母は『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼です。この為相が、現在金沢文庫になっている横浜市金沢区の称名寺を訪ねたという伝承があり、従来、そんなことはあり得ないというだけの思惑で、ほんとうに伝承扱いされていました。謡曲『青葉の楓』に、昔為相という都の公卿が称名寺を訪れた、という内容が歌われているのです。

 が、私は定家の家系である御子左家の観点から鎌倉の歴史を見ていた関係で、いや、これはあり得るぞ・・・との直感がはたらき、それを探って書きました。それは、「冷泉為相と武州鎌倉称名寺」という研究レポートにまとめ、「風土と文化」という学会の機関誌に載せていただきました。

 その中で、京極為兼と為相が宇都宮氏の蓮瑜(れんゆ)という人物と懇意で、その関係で・・・ということを書いたのです。

 「冷泉為相と武州金沢称名寺」にまとめる前、その案は、「寺院揺曳」で生まれました。前にも書きましたが、この「寺院揺曳」のなかで『親玄僧正日記』を参考に使わせていただき、その翻刻をされたメンバーのお一人だった峰岸純夫先生とのご縁ができました。そのときはまだ、蓮瑜について書きながら、蓮瑜もその一員である宇都宮歌壇なるものがどれほど凄いかの実態については、まったくの無知でした。

 が、『宇都宮市史』を編纂された峰岸先生には思うところがお有りだったのでしょう。「寺院揺曳」をお送りして読んでいただいてまもなく、「『宇都宮市史』をお貸ししますから、出て来られませんか」とお電話がありました。

 たしか、高円寺だったと思いますが(阿佐ヶ谷だったかも・・・)、これからある集まりに行かれるというその駅の改札口で待ち合わせて、私は二冊の『宇都宮市史』をお借りしました。二冊というのは、市史編と宇都宮歌壇編とです。その両方に、宇都宮歌壇についての驚くべき内容が詳述されていました。それは、まさに、青天の霹靂というか、目から鱗というか、私には一挙にそれまでの古い世界が崩れて新しい世界が現出した驚きの内容でした。

 ここからは、ホームページ【中世の遺跡と史跡】中の、「栃木県尾羽寺・宇都宮氏族墓域」http://www.odayuriko.com/を参照していただきながらだとわかりやすいのですが、宇都宮氏は、三代朝綱が頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人になるより前から、京と密接な関係をもっていました。京の女性を妻に迎えた当主もあったりして、幕府のある中央文化圏であるはずの鎌倉よりもよりもずっと雅な京風文化を築いていたのです。

 為相や為兼と親しかった蓮瑜は七代当主宇都宮景綱です。が、今ここで取り上げたい当主は、頼朝・頼家に仕えた五代頼綱です。その妻の一人が北条時政の娘で、時政が平賀朝雅を将軍に要する陰謀を企てて失脚したとき、娘婿である頼綱も共謀の嫌疑をかけられます。頼綱は出家して身の潔白を表明したのでした。そして、蓮生と名乗って京に移り、嵯峨に住んだのです。住居を中院山荘といいます。

 その山荘の近くにたまたまあったのが、藤原定家の小倉山荘でした。もともと東国宇都宮にあっても、雅な気風に育った蓮生です。歌へのたしなみもあり、定家を師とする交流がはじまりました。そして、中院山荘の襖を飾るための百首の歌の色紙を定家に依頼。そうしてできたものを基に、現在の小倉百人一首が生まれたのでした。

 定家との交流はそれだけではとどまらず、二人は息子と娘の婚姻関係まで結びます。つまり、定家息為家の妻は、蓮生の娘という東国育ちの女性なのです。母は北条時政の娘ですから、為家は時政の孫と結婚したことになります。これにも驚きました。定家が、北条時政と縁故関係にあったなんて・・・

 『明月記』には、蓮生の娘が、身重であるにもかかわらず遠出するか何かして元気で、「さすが東国の娘は違う・・・」みたいに、定家があきれはてた記述があったりします。このあたり、面白いですよ!

 小倉百人一首の成立に関する話はここまでですが、この先をもう少し続けます。

 為家はその後、若い阿仏尼(まだ出家していませんから正式にはこの呼称は変ですが・・・)と情熱的な恋愛をします。阿仏尼は、蓮生娘とのあいだにできた嫡男為氏とほぼ同年齢でした。その阿仏尼と住んだのが、嵯峨の小倉山荘。これも、ホームページ【古典と風景】に「藤原定家『嵯峨小倉山荘』」として、写真を載せましたので、ご覧になってください。http://www.odayuriko.com/。この為家と阿仏尼とのあいだに生れたのが為相です。

 為相とともに蓮瑜と親交のあった京極為兼は、為家の二男京極為教の子です。なので、為相にとっては甥にあたりますが、為相が為家の晩年の子だったために、甥の為兼のほうが年が上です。

 蓮瑜も、出家する前は宇都宮景綱といって、鎌倉幕府に仕え、評定衆にもなった有力御家人でした。執権時宗の時代です。蓮瑜の叔母が為家の妻。つまり、為相や為兼と縁故関係で結ばれている間柄です。このあたりを、彼の歌集の『沙弥蓮瑜集』から探っていって、為相が称名寺を訪れた可能性があることを「冷泉為相と武州金沢称名寺」で明かしました。

 為兼は伏見宮廷で京極派歌壇なるものを築いた、伏見宮廷での歌のリーダーです。永福門院の信頼も篤く、『玉葉和歌集』の単独撰者です。伏見天皇の使いとして、鎌倉に何度も下向し、「寺院揺曳 6」で記した佐々目遺身院の頼助とも懇意でした。

 このあたり複雑ですが、文字でなく、人間一人一人の動きとして捉えると、思いがけず当時の鎌倉の文化人の生き生きした交流が見えてきて新鮮です。かの夢窓疎石まで登場して・・・

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

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