2008.2.5 鞆の津から『とはずがたり』二条へ
鞆を書いたら、もう一人、書きたい人物がいます。それは、『とはずがたり』の作者二条。彼女も、鞆を訪れたことが『とはずがたり』には書かれています。出家して求道の旅に出、鎌倉に滞在したあと京に戻り、その後のことです。
『とはずがたり』を読んだのは、遺跡発掘調査の最初の仕事になった地元三鷹の遺跡のときでした。この遺跡は「島屋敷遺跡」といって、柴田勝家の孫の勝重が住んだ陣屋跡があった遺跡です。柴田勝家といえば信長の妹のお市の方が嫁いでいますが、勝重はお市の方ではない別の女性の血筋です。
http://www.mitaka-iseki.jp/jousetsu2/newpage16mk.htm
この遺跡の発掘に、第一次、第二次と携わらせていただきました。『とはずがたり』を読んだのは、第一次のときです。第二次では、『平家物語』。通勤時間を読書に充てると、結構充実した思い出ですね。
このとき、たしか外で出土した土器の破片を洗いながらだったと思うのですが、数人の20代の女性と水をはったバケツを囲みながら喋っていて、その話をしました。中に史学科出身の人がいて興味を示し、話がはずみました。が、そのとき意外だったのは、彼女が『とはずがたり』を知らなかったこと。卒業のとき、教授から大学院に進む気はないかと訊ねられたというほどの彼女がです。「面白そうですね・・。私も読んでみます。」といって、すぐに読みとおした報告がありました。
どうやら、『とはずがたり』は国文学の領域で、歴史学では習わないようなのです。私には同じ「鎌倉時代の『とはずがたり』」で、歴史でもあり文学でもあるのに。この驚きは、このあとも何回となく経験します。
一番驚いたのは、また『とはずがたり』のことになりますが、『勘仲記』という中世のお公家さんの日記を読む会でのこと。以前にも書きましたが、私は素人ながら、『親玄僧正日記』について文章を書かせていただいたことがきっかけで、その翻刻にあたられた峰岸先生に誘っていただいて参加させていただいていました。
『勘仲記』は、勘解由小路兼仲が、鷹司兼平に仕えた日々の記録を記したものですが、ここに、しょっちゅう、「善勝寺大納言」という人物が登場します。
最初にそれを見たとき、ほんとうに驚きました。なぜなら、彼は『とはずがたり』に登場する人物で、たしか従兄か叔父だったと思いますが、両親を失って後盾のない二条を、妹のように気遣ってくれる、二条にとっては物凄い大切な人なのです。よく読むと、二条の恋人「雪の曙」たる西園寺実兼と同じくらいの頻度で書かれています。(ちょっと大げさですが・・・)
源氏物語の女楽を模した行事で、身よりのない二条があまりの屈辱に耐えかねて出奔したときも、居場所を知って実兼に知らせたのも、この善勝寺大納言隆顕でした。
それほどの人物なので、私は彼が登場するたびにわくわくするのですが、会の誰も、彼の存在になど留意しません。なぜなら、彼は「歴史上で重要人物」でないから・・・
兼仲が使える鷹司兼平ですら、彼こそ後深草院と密談の上で二条を自分のものにした「大殿」なのに、それも、歴史学の人たちには関心外でした。『とはずがたり』と一時期の『勘仲記』は、まったく表裏一体のものであるにもかかわらず。
私は小説を書く見地のもとで、文学を読み、歴史を学ぶからでしょうか、『とはずがたり』は『とはずがたり』であって、歴史的にも面白い・・・、文学としても面白い・・・、結局どちらの観点で見ても、面白いものは面白いんです。そして、多角的に見るからこそ、見えてくるものがある・・・。歴史だけの視点で一つのものを見、文学だけの視点でひとつのものを見るだけでは、身落としてしまうものがとてもたくさんある気がします。
網野善彦先生は、従来の文献学だけの歴史学では駄目と、考古学とのコラボレーションを提唱されました。その成果が、如実に、日本の中世史を前進させました。私は、この先をもう一歩進んで、歴史学と国文学とがコラボするのが理想と思っています。こんなのは、素人だから言ってられることで、専門に研究される方には、そんな暇ない!と一喝されそうですが・・・
以前、このことを峰岸先生にお話したことがあります。先生は面白がられて、善勝寺大納言について『勘仲記』と『とはずがたり』の両方の視点から書いてみたら?・・・といわれました。が、そのときはどう調べても善勝寺という寺院の所在がわからずあきらめました。
今回、『紫文幻想』を書くためにいろいろ調べているなかで、建礼門院徳子をめぐって「善勝寺」がでてきたのには驚きました。晩年の徳子は、善勝寺大納言隆顕の子孫となる人々の庇護を受けていたのです。奇縁と思いました。そこには、探れば必然が見えてくるのでしょうけれど。そして、場所もわかって、善勝寺は、白河の地にあり、巨大な法勝寺などとまとまった一画ににあった寺院でした。
二条という方は、ほんとうに不思議な巡りあわせの女性です。鎌倉に滞在して、安達泰盛を討った平頼綱の兄と懇意になったくだりを読んだときは驚きましたが、ずっと時代がくだったところで、今度は建礼門院徳子とも繋がるかもしれないなんて・・・
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