« 2008.1.31 高野山霊宝館の国宝『阿弥陀聖衆来迎図』のこと | Main | 2008.2.2 『芸術新潮』源氏物語特集号とターナーの夕焼け »

2008.2.1 平清盛と「福原の夢」と『源氏物語』

 高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』を拝読中です。これは、私が「『源氏物語』について書いていたら、『平家物語』になってしまいました」と、何かの折のついでに峰岸純夫先生にメールしたときに、返信で教えていただいたもの。執筆中の『紫文幻想』で、何故源光行が『源氏物語』写本を作ったかを追っていたら、光行が平家文化のなかで育ったからという実態が見えてきて、それをジョーク混じりにお伝えしたからでした。

 清盛については従来悪いイメージで教えられてきましたが、このあたりの歴史を把握するようになってからは、かえって尊敬とか憧れといったような素敵な思いがしみじみ湧いてきています。それは、「白拍子の風」執筆のための取材で訪れた六波羅密寺で、清盛像に接して極まりました。偉人の彫像はあまたありますが、これほど清らかで知性高い像は他に知りません。

 そのあと、大河ドラマ「義経」で、渡哲也さんが演じられた清盛。もうこれで、私の中での清盛像は定まりました。私のなかで、清盛は「優美な精神をもつ知性の人」なのです。その後、展覧会で清盛の自筆という書状にも接しましたが、胸のすくような気高い書風でした。こういう文字を書く人に、気品のないはずはありません。

 ドラマのなかで、渡哲也さん扮する清盛と、滝沢秀明さん(タッキー)演じる義経が、三十三間堂のあの暗い堂内で、千体の仏像のあいだを巡りながら、互いに相まみえることなく、声だけで再会と訣別を果たした場面・・・。息をのむ思いで、今も私のなかに鮮やかです。あのときは、平家に決起する決意の義経が、かつての養父だった清盛にそれを告げ、暗黙の許しを得た場面だったと記憶しているのですが。

 そして、あのドラマでも、清盛のなかでの「福原」の位置が、理想郷として描かれていました。私は、清盛についてあまり知らなかったので、これは新鮮な情報でした。
http://www.netpassport.or.jp/~winoguti/kodaishi/tabiyukigosho.htm

 今回、高橋昌明氏のご著書を教えていただいて、タイトルに「福原の夢」が入っていたので、興味をもってすぐ購入させていただきました。去年のことでした。2007年11月の刊行ですから、書店に並んですぐのこと。きっと峰岸先生も贈呈されて知られたばかりだったのでしょう。

 このご著書で知ったのですが、「平家の貴族化」というけれど、平家の人が「貴族」になったことは一度もないとのこと。平家一門の公卿は、清盛の嫡子重盛でさえ、「院評定を含め各種の公卿議定に参加していない」そうです。なので、「平家の公卿たちは、ほとんど並び大名の域を出るものではなかった。」

 私の『紫文幻想』は、貴族化した平家文化を前提に書いています。一瞬、ちょっと困ったな・・・という思いはしましたが、でも、そうではなくて、貴族の趣味たる「詩歌」「管弦など、雅な文化はたしかに「貴族化」しているのだからいいかと。厳密に歴史学で語るのと、文学的に心情で探るのとでは、同じ事柄が同じ判断でなくなります。

 『紫文幻想』に書いていますが、平家一門の人たち自身が、それをいやというほど知っていました。だからこそ、切磋琢磨して、雅な文化を身につけたのです。その根底に、清盛の「知性」があったというのが、私の論旨です。なにしろ、清盛は、幼少時代、白河法皇の寵妃祇園女御に育てられ、かの待賢門院とも身近に接しています。時の権力の中枢にいた女人たちの、最高の雅のなかで育った清盛が、野卑な精神の持ち主であるはずがありません。おのれの率いる一門が蔑視されないよう、最高の貴族趣味の具現をめざしたのは偶発的なものでなく、明確な清盛の意志のもとでした。そのお手本となったのが『源氏物語』であり、最高の作品が建礼門院徳子です。そして、その先に理想郷「福原」があった・・・

 徳子については書きたいことがたくさんあります。そして、それは『紫文幻想』の最終章になる予定です。あと少しで、そこにかかります。福原については、最近とみに行ってみたい気持ちが募っています。高橋氏のご著書には精細な地図も載っていました。訪ねたら、また写真をホームページに載せますね。

 最後に、もう一つ、興味深いご説がありましたので、それを紹介させていただきます。それは、頼朝が築いた鎌倉幕府を、日本史では最初の武士による幕府といっているが、氏は、その前に、清盛の六波羅幕府があったといっていいといわれます。鎌倉幕府にしても、朝廷あっての幕府に過ぎなかったのだから・・・

 そして、頼朝が朝廷の力が及ばない遠隔地鎌倉に幕府を築いたのは、案外、清盛の福原隠遁後の朝廷との微妙なバランスを見てのことだったのかもしれない、と。

 さきほど、『源氏物語』がお手本だったと書きましたが、高橋氏はまた別の見方をされています。後白河法皇にとって、清盛は『源氏物語』中の明石入道に過ぎなくて、徳子は明石の君だった・・・。福原は『源氏物語』における須磨・明石のあの明石だったというのです。生粋の貴族でないために、紫の上にひけをとらない人柄であっても、身を引いて生きなければならなかった明石の君。中宮となった徳子に対しては、かの兼実でさえも、そういう視点のぬぐい去ることはなかったようです。

織田百合子Official Webcite http://www.odayuriko.com/ 

|

« 2008.1.31 高野山霊宝館の国宝『阿弥陀聖衆来迎図』のこと | Main | 2008.2.2 『芸術新潮』源氏物語特集号とターナーの夕焼け »