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2008.2.21 三角洋一氏「『海道記』の動物描写について」を拝読して・・・

 鎌倉時代の紀行文学『海道記』は、作者が記されてなく、未だ解明されていません。以前は、鴨長明説が有力だったらしいのですが、現在は有り得ないこととして否定されています。冒頭に貞応二年(1223)四月に京を発って鎌倉へ赴くとあり、鴨長明はその時点ですでに故人です。

 一説に源光行説があって、これが内容からみて一番適切そうなのですが、書いてある内容と光行の事跡と合わないところがあり、確証が得られません。

 でも、私は、『河内本源氏物語』の校訂者として、ずっと光行を追っていて、『海道記』作者は光行でいいと思ってみています。記述の合わない箇所は、例えば「初旅」とあるのが、光行はそれ以前に10年前後、すでに鎌倉で暮らしています。

 が、それでもなお光行が作者として妥当と思うのは、というより、光行でしか有り得ないと思うのは、いかにも漢学者らしい文体に加えて、その内容です。

 光行は、承久の乱のときに、後鳥羽院方につきました。10年前後鎌倉にいて幕府に仕えていたにもかかわらず、です。それは、先日、飛鳥井雅経との交流で少し触れて書きましたが、鎌倉にいては文明に取り残されてしまうのを痛感して鎌倉を離れ、在京していたからでした。上洛した光行は、後鳥羽院に北面の武士として仕えます。そこに承久の乱が勃発。成り行き上、光行は院方の人物になってしまいました。

 鎌倉としては、当然激怒します。斬罪にあうところを、鎌倉に仕えてした子息親行(ちかゆき)の奔走で助かります。が、同じ立場で、親行のような助けのなかった人たちは、鎌倉に護送される途中でつぎつぎに斬られています。

 『海道記』には、下向の途次、その斬られた人たちの地にさしかかると、その人たちが宿の柱に書き残した詩歌を見て涙を流し、とめどもなく長い感慨を記しています。それは、たまたまそれを目にしたから思いが湧いたというよりも、そもそも、旅の目的が、自分一人が助かって、他の人たちが露と消えたことに対する罪の意識からくる、それらの人たちへの哀悼の旅ではなかったかと思うに十分な、量と質です。

 文学ですから、いくら紀行文とはいえ、日時を正確に書く必要はありません。それどころか、一度は罪人になっている身ですから、作者として知られたくない思いがあった・・・。そうしたら、あえて到底自分とは見破られない嘘を書くでしょう。例えば、「初旅」くらいのは。

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の執筆は、あと少しの項目を残して完了します。その最後が、光行のこの『海道記』との関わりなのです。ですので、『海道記』という文字が目に入ると、目を通すのが習慣になっています。

 書店にあった『国語と国文学』(おそらく最新号)に、三角洋一氏「『海道記』の動物描写について」があるのを見て、早速図書館でコピーして拝読しました。(『国語と国文学』は一本の論文だけを目的に購入するにはちょっと高いんです・・・)

 「動物描写」から光行の作者説が浮かび上がるのを期待しても無理とは思いましたが、ともかく読ませていただきました。三角氏の説は、「漁夫や小蟹、蛙などに注がれる作者の視点を、仏教的な思惟で押えられるか」ということです。結果は、なんて書いてしまっては三角氏に畏れ多いのですが、かなり、相当「深い」のでした。私には、やはり、光行くらいの人でないと、教養的にも、歩んできた人生波乱の経験的にも、これは書けない・・・と思いました。

 三角氏によると、『海道記』は、「動物の振る舞いや人の行ないをわが身のこととして内省する作者」が、「漁師にあっても魚においても、生きていくための営みが命を縮めることになる不条理を見据え」た、「中世の知識人の手になる、儒仏の思想にもとづく観察、表現を展開させた一級の作品」となるそうです。

 三角氏は作者については一言も触れていませんが、私はやはり作者は光行だ、という思いを強くしました。

 久し振りに仏教の深みの論文を拝読して、心が浄化されました。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

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