朝、途中からだったのですが、岸恵子さんがでてらしたテレビに見入ってしまいました。それは、フジテレビの「ボクら」という番組で、数学者の藤原正彦さんと、鳥越俊太郎さんの、三人の対談でした。
終わりかけていて、最後のほうの数分をたまたま見ただけなのですが、凄く考えさせられる内容でした。岸恵子さんも、終わりに、「手が震えてきました・・・」とおっしゃられたほどの。
主に藤原正彦さんの言葉ですが、例えば、「昔はエリートというと、無駄なものをいっぱい身につけていて総合的な判断のできる、庶民の手の届かない人だった。今は、政治家にしても、経済家にしても、その道のエリートというだけでただの経済人、ただの政治家。庶民になってしまった。だから総合的な判断などできる訳がなく、外国へ行って、真のエリートである人たちに交じると臆してしまうんですよ・・・」というようなお話。
他にもあるのですが、今はこれに関連して思ったことを書きます。
以前、外国の話ですが、貴族というのは「美人」の人としか結婚しないとか聞きました。ほんとうに愛する女性がいても、美人でなかったら愛人として確保していて、結婚は「美人」の人と・・・とか。ほんとうかどうか知りませんが、だから貴族はみんな男性も女性も美しいのだといわれると、確かに・・・と思ったのでした。
それから、貴族の方って、とにかくよく趣味が広いですよね。遊びもよくなさるし、その幅の広さにはいつも感服してました。でも、それは、ゆとりがあるから・・・だとばかり思ってましたが、違うんです。「幅が広くないと真の貴族ではない」そうなのです。だから、チャールズ皇太子が「イギリス式ガーデニング」のプロであることに驚いていてはいけなくて、貴族(皇族)だからこそ、本格的なそういう趣味がおありなわけだのです。
これらは外国の話として聞いてたのですが、日本を見てもそうですね。昔から、光源氏の多彩に驚いていましたが、逆に考えると、光源氏だから多彩・・・。多彩でなかったら貴族(皇族)ではないし、豊かではない訳です。
現代の分業化された世の中では、歌を詠むのは歌人。絵を描くのは画家。楽器を奏でるのは音楽家。舞ったり演じたりするのは歌舞伎役者とか能・狂言師。政治家は政治家。財界人は財界人と、その世界、世界の人のものと決まっていて、異次元の能力を持っていなくてもいいんです。
でも、平安時代の貴族を見ると、男性は歌も詠むし、舞もやる、楽器は演奏できて当然。しかも、その道、道での一級の技術・・・。だから、『源氏物語』の「紅葉賀」巻での光源氏の青海波の舞のようなことがありえたのです。
これは、物語世界だからではなく、実際に、平家の公達がそうでした。『建礼門院右京大夫集』で、舞人としての務めを果たした維盛を光源氏をほうふつとして見ていますし、重衡の多彩さ優雅さぶりほんとうに貴公子ってこうなのだろうなあと思います。
思うのは、現代はメジャーで測れる能力だけで人を見ているし、そういう見方しか教えていないし、第一に、そういうふうにしか人を育てていないということ。ゆとり教育とかいいながら、ちっともゆとりなんて育てていないと思います。真のゆとりって、厳しいものだと思います。真にゆとりを持ててこそ、真にゆとりある生き方ができる・・・
貴族だから優雅でいいなあと思ったら大間違い。舞は習わなくてはならないし、歌もマスターしなくてはならない。絵も描けなくてはいけないし、筆跡も一流でなくてはならない。恋文を書くにも、筆跡だけでなく紙の選定からして見る目をもっていないと侮られる・・・。そうしたところに真の貴族性があるわけです。のほほんと過ごしていて身につくものでないことばかりです。
私は以前から貴族の方々のそうした幅の広さには敬服して見ていましたが、藤原正彦さんの「そうであってこそ総合的な判断のできる人」説には唸ってしまいました。
私はなにも貴族信奉者ではないんですよ。私は東国生まれだし、両親も系図的に京都とは無縁。いくら『源氏物語』に憧れても、その時代に生きていたら、たぶん、「空蝉」にもなれない庶民だったと思います。でも、『源氏物語』が好きなのは、そうした「一級の人」の世界だから。自分はともかく、人間は「一級の人」が好きです。
以前、「白拍子の風」という小説を書きました。これは、中世の白拍子という芸能をする一人の女性が主人公なのですが、平家の公達の一人の資盛に愛されて至福を味わいながら、平家の滅亡でそれを失い、以後、人生の目標を失いつつ必死に何かを求めて生きる話です。
そのとき、白拍子などという一種の高級娼婦みたいな主人公を書いているものですから、一部の男性読者の方には誤解されていろいろ言われました。ちょうど、あんなに真面目で堅苦しい紫式部が、『源氏物語』なんか書いているから誤解されて、道長に「好きもの」なんて口説かれたような現象です。私は「物語のほんとうのところを理解されてないなあ」と、いつも辟易して思っていました。
あるとき、北海道から菱川善夫先生がでてらして、「白拍子の風」について感想を頂いたりしていたとき、「でも、白拍子だから誤解されて・・・」と、ぼそっとそのことを愚痴ったんです。先生はすぐに理解されて、「媚を売るだけで貴顕の愛を得られるものではない」と、吐き捨てるようにおっしゃいました。
まさに、そうなんです。私は、それを書きたかったし、そこのところを訴えたかったんです。朝の番組の話に戻りますが、一級の努力をして一級の技を身につけた人の判断力は、何もしないでふつうに生きている人と違うと思います。これは格差とか差別とかの問題ではありません。道徳の問題でもありません。人生の本当の意味は、自分のなかにあるのだと思います。努力した分、それが外に滲みでて人を高くしていくのではないでしょうか。
私は家柄からして平安時代に生まれても『源氏物語』世界には入り込めないと思ったから、ならば、せめて入り込める職業をと考えて「白拍子」を書きました。ただの娼婦なら遊女でよかったわけですが、そこに「一級の努力」というものを付加させたかったので、白拍子にしました。ゆとりとはゆたかさでなければいけないと思います。このあたり、「白拍子の思想」とか題して、私の持論にしてもいいかもしれませんね。
現代はとにかく、人間の気高さとか孤高とかというものを忘れた時代と思います。人間はほんとうは気高いものなのに、それを引き出す努力をしないから、うすっぺらなところで一喜一憂して・・・。寂しいかぎりと思います。ここまで書くと、長尾雅人氏の『中観と唯識』の世界になるのですが、また考えることにします。
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