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2008.3.31 今日の井の頭公園の桜の写真

128 138 161 188 209 223 233 302 314 324 328 342  ようやく晴れて、「桜に青空」の撮影ができました!!やはり輝いてます。華やぎが全然違う・・・

 今日は二度、撮りに出ました。夕焼けがもっと焼けるかと思ったのに、雲がなくていきなり暗くなってしまいました。夕焼けは雲次第です。

 最後の写真は池の水際。もうほんとうの池のラストで、この先は神田川・・・というあたりです。池の奥に「お茶の水」という湧水地があって、水は細長くて川のような池を流れてきて、この写真の手前にある小さな関門をくぐると神田川です。神田川は新宿など都心を通って隅田川に合流し、最後は東京湾にでます。井の頭公園で散った花びらさんたちが、隅田川で河岸の桜さんたちの花びらと合流・・・なんてなるのでしょうか。

 水際に散った花びらが吹き寄せられています。昨日はほとんどありませんでした。これからどんどん増えていきます。最後には線でなく面の広がりで水面を埋め尽くします。これを「花筏」っていうのだそうです。綺麗な言葉ですね。知りませんでした。mixi仲間に教えていただいたんですけど、思わぬ知識が広がりました。花筏の日々の変化が、散る桜のバロメーターです。

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2008.3.31 調布市野川の桜のライトアップ

 野川の河岸に並ぶ桜並木のライトアップのお知らせです。私も今年教えていただいたばかりで未体験ですが、例年の写真を拝見すると素晴らしい!!んです。日程は一日だけで、それが明日。雨天順延だそうですが、晴れるといいですね。カメラをもって出かけます。詳細は以下をご覧ください。
http://www.arc-system.co.jp/info_nogawalightup.html

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2008.3.31 しばらく前ですが、「さかなのうた」という動画が・・・

 2月末のこと、ある女の子の卒業制作の動画が評判になっていると紹介されました。たまたまついていたテレビだったのに、ふっと興味をもって見てしまいました。

 「犬尾」という名前で作られたその動画は、なんだかジブリの映画を見ているような完成感。大学に提出したあと、動画のサイトに投稿したら、あっというまに人気になったそうです。

 しかも、添付されたコメントが、「みんなのうた的・自主制作音楽アニメーション。アニメどころか映像作ったこともないくせに、血迷って卒業制作に選んでしまい死ぬ思いをしました。
アニメと音楽とうたと、ひとりで孤独につくりました」というもの。動画制作のみならず、作詞・作曲から歌手まで、全部自分でこなしているんです。一人で作ってこの完成感!!! と誰しもが驚異を覚えて当然のできごとでした。

 卒業制作というからには、美大か、アニメの学院か、そういう関係の大学です。番組では大学の名前に触れなかった(最初から見てなかったので見逃したかも・・・)ので、ネットで検索しました。なんと、彼女は私の学校の後輩だったんです。

 画面に映っていた彼女は細身のとても清楚な人。卒業後は医療関係の事務につくことが決まっているといいながら、動画の人気で関係各所から問い合わせ殺到とか。技術を生かせるところに就けたらいいなあと思いながら、あまり急激に才能を求められて押しつぶされないようにして欲しいなとは切に思いました。フランソワーズ・サガンみたいに18歳でデビューして生涯ととおして成功した作家は珍しく、早い成功はきっとその後苦しみます。久保田早紀さんの「異邦人」という歌が大好きでしたが、あまりにヒットしためにプレッシャーで次ができずに苦しんでられるドキュメント番組を観ました。私にしても、新人賞をいただいた作品を「誰もが生涯に一作書ける小説」なんていわれて、平気で次が書けそうな気持ちにまで回復したのは15年もたってのやっと最近です。苦しみが人も作品も強くし、深くもしてくれますが、潰されてしまったらお終いですものね。

 彼女がいた大学は東京工芸大学ですが、私がいたときは東京写真短期大学でした。地下鉄丸ノ内線の中野坂上にありました。当時、写真専門の大学は日大の芸術学科と、千葉大と、そして、私の大学でした。短大ですが、学科・学部というのでなく、写真だけの大学は唯一でしたので、通称「写大」でとおっていました。私が卒業した翌年か二年後かに厚木に四年制の大学ができて、中野坂上校舎も中野キャンパスとして健在です。学部の写真だけでなく、コンピューターからデザインからアニメまで多彩。「さかなのうた」の彼女が在籍されていたのは「メディアアート表現学科」というらしいです。
http://www.t-kougei.ac.jp/

 厚木ができて随分変わったのだろうなあと思っていましたが、二年前、大学院の聴講に卒業証明書が必要でとりに行ったら、新しい校舎にはなっていましたが配置は変わらず、ああ、あの辺に学食があったんだ・・とか、懐かしんできました。ギャラリーとかできていて、卒業生としてここで展示できるくらいになりたいなあなどと思って帰ったのですが・・・。 

 東京工芸大学の今は大きいかもしれないけれど、短大のころは「小さな大学」でした。でも、細江英公さんとか、立木義浩さんとか、先輩にはそうそうたる方がいられますし、自信と自負にあふれたキャンパスでした。ただ、私は、女子校出の文学畑の少女でしたから、活気についていけず落ちこぼれ。技術だけは父がカメラマンだったので身についていて卒業できましたが、挫折のほろ苦い思い出いっぱいの場所です。

 でも、「さかなのうた」はいいです!! 「死ぬ思いで」つくることは制作者なら誰もが経験すること。そんなところにも共感しています。是非、ご覧になってください!!http://zoome.jp/inuo/diary/2/

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2008.3.30 ジブリ美術館裏手に桜の広場が!! 晴れていたらもっと綺麗だったのに・・・

043 009 030 033 039 051 052 088  しばらく通っていなかったので、こんな桜の広場があるなんて知らずにびっくりしました。いつのまに・・・といった感じです。冬に通ったときには咲いていなかったので気付かなかったのでしょう。

 それにしても桜の成長って速いですね。ジブリ美術館ができてからこんなふうに桜を植えたのでしょうけれど、もう見応えありますものね。ただ、まだ若い木ばかりです。井の頭公園の老木の風情とはまた別でした。

 公園がほぼ染井吉野で埋め尽くされているのと対照的に、ここは桜の見本市みたいにいろんな種類がありました。だから、色も濃いのから薄いのまで。立ちが上がって咲く木もあれば、枝垂れの列も・・・。

 八王子に多摩森林科学園という、日本全国からほぼ網羅した種類の桜を植えている一帯があります。山じゅうが桜だらけで、遊歩道になっている山道を順路通りに歩いていくのですが、ほぼ一か月、全部の種類が早咲きから遅咲きまで順々に咲いていくので、いつ行っても山は満開。歩いていると、空気のなかからほわっと湧いて現れるようにして、どこからか飛んできた花びらが突然現れるんです。それはもう幽玄な世界。
http://www.tachikawaonline.jp/local/sakura/14_shinrin.htm
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kanko/shizen/001778.html

 ジブリ美術館裏手の広場は、そんなではありませんが、いろんな種類の桜があるのに目がとまりました。晴れていたらもっと綺麗だったでしょうね。日曜日なので、お弁当を広げている家族で地面は埋め尽くされていました。ジブリに行ったら、ここでお弁当・・・っていいかも。美術館の裏手の出口を出たらもうすぐそこです。晴れたらまた行ってみます。

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2008.3.30 光源氏が真の「貴族」だったことの意味・・・

 朝、途中からだったのですが、岸恵子さんがでてらしたテレビに見入ってしまいました。それは、フジテレビの「ボクら」という番組で、数学者の藤原正彦さんと、鳥越俊太郎さんの、三人の対談でした。

 終わりかけていて、最後のほうの数分をたまたま見ただけなのですが、凄く考えさせられる内容でした。岸恵子さんも、終わりに、「手が震えてきました・・・」とおっしゃられたほどの。

 主に藤原正彦さんの言葉ですが、例えば、「昔はエリートというと、無駄なものをいっぱい身につけていて総合的な判断のできる、庶民の手の届かない人だった。今は、政治家にしても、経済家にしても、その道のエリートというだけでただの経済人、ただの政治家。庶民になってしまった。だから総合的な判断などできる訳がなく、外国へ行って、真のエリートである人たちに交じると臆してしまうんですよ・・・」というようなお話。

 他にもあるのですが、今はこれに関連して思ったことを書きます。

 以前、外国の話ですが、貴族というのは「美人」の人としか結婚しないとか聞きました。ほんとうに愛する女性がいても、美人でなかったら愛人として確保していて、結婚は「美人」の人と・・・とか。ほんとうかどうか知りませんが、だから貴族はみんな男性も女性も美しいのだといわれると、確かに・・・と思ったのでした。

 それから、貴族の方って、とにかくよく趣味が広いですよね。遊びもよくなさるし、その幅の広さにはいつも感服してました。でも、それは、ゆとりがあるから・・・だとばかり思ってましたが、違うんです。「幅が広くないと真の貴族ではない」そうなのです。だから、チャールズ皇太子が「イギリス式ガーデニング」のプロであることに驚いていてはいけなくて、貴族(皇族)だからこそ、本格的なそういう趣味がおありなわけだのです。

 これらは外国の話として聞いてたのですが、日本を見てもそうですね。昔から、光源氏の多彩に驚いていましたが、逆に考えると、光源氏だから多彩・・・。多彩でなかったら貴族(皇族)ではないし、豊かではない訳です。

 現代の分業化された世の中では、歌を詠むのは歌人。絵を描くのは画家。楽器を奏でるのは音楽家。舞ったり演じたりするのは歌舞伎役者とか能・狂言師。政治家は政治家。財界人は財界人と、その世界、世界の人のものと決まっていて、異次元の能力を持っていなくてもいいんです。

 でも、平安時代の貴族を見ると、男性は歌も詠むし、舞もやる、楽器は演奏できて当然。しかも、その道、道での一級の技術・・・。だから、『源氏物語』の「紅葉賀」巻での光源氏の青海波の舞のようなことがありえたのです。

 これは、物語世界だからではなく、実際に、平家の公達がそうでした。『建礼門院右京大夫集』で、舞人としての務めを果たした維盛を光源氏をほうふつとして見ていますし、重衡の多彩さ優雅さぶりほんとうに貴公子ってこうなのだろうなあと思います。

 思うのは、現代はメジャーで測れる能力だけで人を見ているし、そういう見方しか教えていないし、第一に、そういうふうにしか人を育てていないということ。ゆとり教育とかいいながら、ちっともゆとりなんて育てていないと思います。真のゆとりって、厳しいものだと思います。真にゆとりを持ててこそ、真にゆとりある生き方ができる・・・

 貴族だから優雅でいいなあと思ったら大間違い。舞は習わなくてはならないし、歌もマスターしなくてはならない。絵も描けなくてはいけないし、筆跡も一流でなくてはならない。恋文を書くにも、筆跡だけでなく紙の選定からして見る目をもっていないと侮られる・・・。そうしたところに真の貴族性があるわけです。のほほんと過ごしていて身につくものでないことばかりです。

 私は以前から貴族の方々のそうした幅の広さには敬服して見ていましたが、藤原正彦さんの「そうであってこそ総合的な判断のできる人」説には唸ってしまいました。

 私はなにも貴族信奉者ではないんですよ。私は東国生まれだし、両親も系図的に京都とは無縁。いくら『源氏物語』に憧れても、その時代に生きていたら、たぶん、「空蝉」にもなれない庶民だったと思います。でも、『源氏物語』が好きなのは、そうした「一級の人」の世界だから。自分はともかく、人間は「一級の人」が好きです。

 以前、「白拍子の風」という小説を書きました。これは、中世の白拍子という芸能をする一人の女性が主人公なのですが、平家の公達の一人の資盛に愛されて至福を味わいながら、平家の滅亡でそれを失い、以後、人生の目標を失いつつ必死に何かを求めて生きる話です。

 そのとき、白拍子などという一種の高級娼婦みたいな主人公を書いているものですから、一部の男性読者の方には誤解されていろいろ言われました。ちょうど、あんなに真面目で堅苦しい紫式部が、『源氏物語』なんか書いているから誤解されて、道長に「好きもの」なんて口説かれたような現象です。私は「物語のほんとうのところを理解されてないなあ」と、いつも辟易して思っていました。

 あるとき、北海道から菱川善夫先生がでてらして、「白拍子の風」について感想を頂いたりしていたとき、「でも、白拍子だから誤解されて・・・」と、ぼそっとそのことを愚痴ったんです。先生はすぐに理解されて、「媚を売るだけで貴顕の愛を得られるものではない」と、吐き捨てるようにおっしゃいました。

 まさに、そうなんです。私は、それを書きたかったし、そこのところを訴えたかったんです。朝の番組の話に戻りますが、一級の努力をして一級の技を身につけた人の判断力は、何もしないでふつうに生きている人と違うと思います。これは格差とか差別とかの問題ではありません。道徳の問題でもありません。人生の本当の意味は、自分のなかにあるのだと思います。努力した分、それが外に滲みでて人を高くしていくのではないでしょうか。

 私は家柄からして平安時代に生まれても『源氏物語』世界には入り込めないと思ったから、ならば、せめて入り込める職業をと考えて「白拍子」を書きました。ただの娼婦なら遊女でよかったわけですが、そこに「一級の努力」というものを付加させたかったので、白拍子にしました。ゆとりとはゆたかさでなければいけないと思います。このあたり、「白拍子の思想」とか題して、私の持論にしてもいいかもしれませんね。

 現代はとにかく、人間の気高さとか孤高とかというものを忘れた時代と思います。人間はほんとうは気高いものなのに、それを引き出す努力をしないから、うすっぺらなところで一喜一憂して・・・。寂しいかぎりと思います。ここまで書くと、長尾雅人氏の『中観と唯識』の世界になるのですが、また考えることにします。

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2008.3.29 今日の井の頭公園の桜の写真

031 042 049 060 091 104 137 159  冬のあいだたくさんいたオナガガモなどの水鳥がまったくいなくなって、ほんのカイツブリとキンクロハジロ(たぶん・・・)が残っているだけ。みんな、暖かくなって北国へ帰ってしまったのかなあ・・・

 井の頭公園ではオシドリを孵化させて放鳥しています。何年か前、はじめて池にオシドリを見たときは驚きました。動物園か日本画でしか見たことのない鳥や動物が自然のなかにいると、びっくりしますよね。その後、孵化運動をしていると知り、楽しみだったのですが・・・。オシドリって、いるだけで、まさにあの日本画の構図そのままです!!!

 最初の頃はよく見たオシドリでしたが、じきにいなくなったと思ったら、オシドリもまた渡鳥なのか井の頭公園にはいつかないようです。一度などは我が家上空を通過したことがあり、朝、庭にオシドリ特有のあの大きな綺麗な色の羽が落ちていました。

 数羽だけ、冬には池の奥の方にいました。それで今朝はその場所へ行ったのですが、一羽もいませんでした。桜にオシドリの写真は無理かも・・・

 井の頭公園の桜に「満開」情報がでました。明日はジブリ美術館の方へ足を延ばしてみようかな!!

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2008.3.28 今日の井の頭公園の桜の写真

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 桜が終わるまで、できたら毎日撮ってみますね!

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2008.3.28 今日の井の頭公園の桜

 朝、テレビで井の頭公園の桜が中継されていて、「もう、ほんとに満開のようですね!」と言っていたので、私もカメラを手に見に行きました。でも、桜って、枝先から咲いていくそうで、たしかに下のほうでは可愛らしく開いた花がいっぱいですし、木全体も花咲爺の魔法にあったように咲き誇ってみえますが、印象はというと満開にはまだ・・・

 池のほとりを歩きながら、ふと、「朝日に匂う山桜花」とくちづさんでいるのに気付きました。昨日は写真を撮るなら早朝が・・・と書いたのですが、本居宣長のこんな句に影響されているのかも・・・などと思ってしまいました。敷島の大和ごころを人問えば・・・でしたっけ。

 桜は散るときが美しいっていいますが、ほんとうですね。まだ咲染めたばかりですから、一周しているあいだ、はらはらと散ってくる花弁にはひとつも逢いませんでした。だから、桜の華やかさから遠くて、三分咲きくらいの「若さゆえの生硬さ」が感じられました。

 でも、たくさんの咲き誇った木が池の水際にしな垂れている光景は、やはり井の頭公園ならではのもの。宴会用の陣取りもまだはじまってなくて、早春のちょっと厳しい美しい時間を楽しみました。

 なかで、昨日ご紹介したボート乗り場付近の小さな枝垂れ桜はほぼ満開。周囲の染井吉野に交じって、そこだけ少し赤みの強いピンクでぼんぼりのように咲いているので、「これだけ色が濃いわねえ」と一際目をひいてました。人気スポットになりそう・・・。レンギョウの黄色が綺麗だし、キンクロハジロかなにかの水鳥も泳いでいました。

 井の頭公園といえば、オシドリを放鳥すべく育てているのですが、桜にオシドリなんていう日本画の題材そのままの光景を今年狙います!!

 写真は、後ほどアップします。

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2008.3.27 井の頭公園の桜が今週末見頃になりそうです!!

 寒い日が続いていたのが急に暖かくなって、あちこちで桜が突然開花しました。歩いていても、驚くばかりに、あら、ここも・・・。ああ、あそこも・・・と。

 井の頭公園の桜は池の水際に枝が垂れ下がるようにして咲くので、目に彩です。(但し、地を埋め尽くす宴会の人並み、早朝からの無粋な陣取りのブルーシートがなければ・・・)

 満開は来週?と思っていたのですが、どうも、今週末には見頃を迎えそう。

 桜の時期になると、私は人波を見たくないので、思いきり早朝に出かけます。朝日に輝くピンクの桜は、それは綺麗!! それにはやはり晴れた日がいいですね。青い空が池に映って桜とそれは綺麗なコントラストを描き出します。

 水際の桜は染井吉野ですが、ボート乗り場付近に一本、枝垂れ桜があります。まだ小さな木ですが、枝垂れが好きなので、一番のお気に入りスポットです。水際の土手に黄色いレンギョウが咲くので、それは華やかです。

 今年はまだ撮っていないので、2006年に撮った桜を載せますね。都内の桜を巡ったときで、たしか、六義園だったと思います。立ち姿が見事でした。

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2008.3.26 源氏物語千年紀情報・・・『京都源氏物語地図』(思文閣出版)

 記念の年ならではの企画いっぱいの今年。イベントだけでなく、地図にもそれができました。思文閣出版発行の『京都源氏物語地図』です。大著『紫式部伝』を出された角田文衛先生監修ですから、頼もしいかぎり。早速購入させていただきました。期待以上にわかりやすく、いつもの京都とは異次元の京都がそこにはありました。本体価格800円です。買っておかないと損、の感じです。今度京都に行ったら、これを手に歩きたいですね!!

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『京都源氏物語地図』
思文閣出版 075-751-1781
全国書店で販売
現在の地図に平安京復元条坊を重ね、源氏物語ゆかりの邸宅などを掲載。
案内をかねた小冊子付き
リンク先 http://www.shibunkaku.co.jp/

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2008.3.24 八王子城御主殿跡遺跡出土のベネチア製レースガラスのこと

 先日、東京中世史研究会主催の八王子城御主殿跡遺跡出土の遺物を含めた見学会があって参加しました。

 八王子城は戦国時代に後北条氏の北条氏照が築いた、「関東屈指の山城」です。お城というと、ふつう姫路城や熊本城のような天守閣のある壮麗なお城を想像しますが、山城という種類があるのを、私も遺跡調査の仕事についてはじめて知りました。世の中には思いもよらずに知らないでいることが多いですね! そこには、攻められても大丈夫なことを前提にして造られた戦国時代の山城。平和になってから造られた近世の平城、という歴史の推移があるようです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Tokyo/Hachiouji/index.htm
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/004416.html

 でも、山城は、遺跡調査にかかわる人なら誰もが熟知かというと、そうではなくて、たまたま携わった遺跡の調査員のお一人にその世界では有名な山城マニアの方がいらして、その方のご教示で私もちょっと人よりは詳しく・・・という経緯です。

 山城は、ふつうのお城が平地に聳えているのに対して、文字通り山の上に建てられています。山の上ですから当然平地がないところを、山を崩して平場(ひらば)を造り、そこに城を築きます。この平場は、建物がなくなった今でも、山としては不自然な形で残っているので、先ほどのマニアの調査員の方によると、「電車に乗っていて、窓から見てても、あ、あれは山城だ!!」とわかるそうです。慣れてくると、私でも「そうかも・・・」くらいにはわかります。だって、ピラミッドのように垂直に天へ向かって収束していくはずの山肌の一部が、人為的に削られたとしか思えない、妙に平たい部分があるんですから。こうして見ると、小さい規模を入れると、相当な数の山城が中世にはあったようです。

 八王子城は、天正18年(1590)、豊臣秀吉軍のなかの前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。たった一日の決着だったそうです。城主が住んでいたお城には女性もたくさんいましたし、悲話はたくさんありますが、ここには書かないでおきます。

 その御主殿跡の発掘が行われて、そこから大量の陶磁器などの遺物が出土しました。なにしろ、たった一日での落城ですから、逃げるとかの持ち出す機会が失われて、生活していたそのままの状況で遺物が残った訳です。もちろん、落城時の混乱とその後の推移で、焼けたり、壊れたりし、失われたものも大量ですが。

 その御主殿跡から発見された遺物のなかに、なんと、ベネチア製のレースガラスがあったんです!!  これは、中世のこの時代に、八王子城のなかで、こんな輸入品を愛好していたということ。中世史ご専門の方も驚かれたような交易史上の大変な証拠です。
http://hachipo.com/modules/tinyd4/index.php?id=7
http://www.la-gatta.com/venetian/history.html
http://www.venetianbazaar.com/gallerielavorazioni/filigrana%20zanfirico.html

 私はたまたま八王子城を掘ってらした調査員の方と知り合いだったので、八王子市郷土資料館で「発掘された八王子城」という展覧会が開催されたとき、その図録に載せる陶磁器の写真を撮らせていただきました。そのときに、はじめてこのレースガラスと対面し、感慨深かったですね・・・

 このレースガラスを発見された調査員の方とも懇意にしていただいていますが、最初は「まさかそんな大変なガラスだなんて誰も思わないから、単なる雑魚として捨てられるところだった」そうです。でも、その方は陶芸とか骨董品とかに趣味が広くて、さらにガラス好き! 一目で「ベネチアンガラス」と閃いて、捨てる行為にストップをかけられたとか。

 よかったですね・・・。その方がいられなかったら、この発見は永久に闇に消えてしまうところでした。調査員て、カッコいいお仕事ですが、趣味が広くないと目が利かない・・・、知らないと必要なものも見分けられない・・・で、大変なお仕事です。その分、冥利に尽きることもたくさんお有りですが。

 話がそれますが、学芸員さんのお仕事もそうで、金沢文庫の文庫長をしていらした真鍋俊照先生からも、そういう捨てられるはめになったものが重要文化財級の発見になった危機一髪のお話を何度か伺いました。趣味はたくさん持つべきですね。絶対に人を深くしてくれます!!

 八王子城の遺物について書いたら、撮影した陶磁器たちのことも書きたくなるのですが、今日はベネチアンガラスでまとめました。先日の見学会では、その陶磁器たちと再会できて楽しみました。眺めるだけで、撮っていたときの感触が手に甦るんです。旧知の調査員の方々とも久しぶりにお会いできたし、いい日でした。『雑兵たちの戦場』を書かれた藤木久志先生も参加されていて、私もこのご著書には目から鱗のような感慨を抱かせていただきましたのでこれについても書かせていただきたいのですが、またの機会にします。ただ、先生が「雑兵」から抱いていたイメージから遠い、とても繊細そうな上品な方だったのに驚いたことだけを付しておきます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/read007.htm

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2008.3.23 運慶の仏像について・・・

 先日、運慶作とみられる木造大日如来像がオークションに出され、三越さんが12億とかの金額で落札されたニュースがありました。

 個人蔵とされていたその仏像について、テレビで詳細を追っていたのですが、もとは足利市にあった寺院のものだったとか。運慶は関東での活躍が多いなあと思ったので書きます。

 はじめて関東の運慶を意識したのは、神奈川県横須賀市芦名にある浄楽寺の阿弥陀三尊像です。これは、和田義盛建立の鎌倉時代の寺院で、仏像の胎内にあった銘札から運慶作とわかったときは非常な驚きだったとききます。普段は収蔵庫に納められていて拝観できませんが、私は真鍋俊照先生が会長を務められる密教図像学会の例会で、三浦半島の寺院を巡るバスツアーがあったときに参加させていただいて対面が叶いました。

 もう一件の東国における運慶の仏像は、伊豆の願成就院にあります。やはり阿弥陀三尊像です。こちらは北条時政ゆかりの寺院です。これほど貴重な仏像ですから、さぞかし厳重な警戒のもとにしまわれているかと思いきや、さびれた木造の寺院内に、いともあっけなく、観光地のガイドさんつきで対面させていただけたのには驚きました。拝観したい人には警戒が厳しくて観られないのは残念ですが、あまり安易なのも心配になります。

 その後、神奈川県立金沢文庫でも運慶作の仏像が判明したとか・・・。この展示に行きそびれたので詳しいことはまだ理解していませんが。
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tokuhou.htm

 こうして見ても、神奈川県、静岡県、栃木県と、運慶作の仏像が関東にかなり広まっていることが伺えます。運慶というと東大寺南大門の仁王像から奈良の人というイメージが強いのですが、実際の活躍はどうだったのでしょう。運慶をめぐって書いたら、案外面白い文化史かできるかも・・・

http://blog.goo.ne.jp/tivgdtd/e/4d2ee2296daa2http://www.nifty.com/8a77f76609e2bdb6af5
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/kaikoku/tanbou/26.html

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2008.3.22 王朝継ぎ紙合同作品展のお知らせ

 昨年夏にほんの三回だけ参加させていただいた近藤富枝・陽子先生の王朝継ぎ紙教室ですが、ベテランの生徒さん方による作品展のご案内をいただきました。

 これは、夏に伺ったお教室でも出品される方がいらして、たしか、源氏物語五十四帖中の「柏木」をテーマに取り組んでいらっしゃいました。15年とか長く続けていらっしゃる方だと、それまでに染めた紙(料紙)をたくさん持っていらして、「ここにこの色を置きたいのだけれど・・・」とか、「ここはこの色でいいですか・・・」など、次々にいろいろな紙を取り出されるので、初心者の私などは目をみはってしまいました。それで、「全部、ご自分で染められたんですか?」などと野暮なことを訊いて、「そうよ・・・」のお返事に、「・・・・」と感心するばかり。

 教室のカリキュラムの段階ははっきりできていて、はじめての人は出来ている料紙をいただいて、それを切って貼ります。それだけでもう継ぎ紙を作ったと思ったら大間違い。「継ぐ」作業に慣れたあと、本当の料紙制作に入ります。それは、紙を染めること。そして、箔を散らしたり、葦手のような草や鳥の文様を描き入れること。染めるとき、グラデーションにしたかったら、同じ色の濃淡で何枚も作ります。

 作品展にはすべてのカリキュラムを終えた方しか参加の資格がないようなので、きっと見応えあると思います。よかったら、足をお運びになってください。

 王朝継ぎ紙合同作品展
   3月24日(月)~29日(土)
   10時~18時(初日は13時より。最終日は16時まで)
   小津和紙博物館(小津ギャラリー) 03-3662-1184
   入場無料
     東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅A4出口徒歩5分
     JR総武線快速 新日本橋駅5番出口徒歩2分
     東京メトロ日比谷線 小伝馬町駅3番出口徒歩5分

 29日には一日講習会もあるようです。(申込制)

http://homepage2.nifty.com/tsugigami2/

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2008.3.21 源氏物語千年紀情報・・・中国の新聞でも紹介。「一つの奇跡」と!

 ちょっと前になりますが、珍しい記事がありました。これは、京都の角屋さんで別本源氏物語が発見されたニュースを検索していたときにみつけたものです。

 それによると、「上海の朝刊紙「東方早報」は文化面1ページを使った『源氏物語千年紀』という特集を掲載した」そうです。「物の哀れなど日本文化の原点をこれほど深く紹介するのは珍しい」とか。

 以下、抜粋・引用させていただきます。

 源氏物語が現れたのは中国の宋時代。中国での長編小説はそれから500年後ということを考えれば一つの奇跡といえる。どうしてこの栄光を奪われてしまったのか。
 現代の中国人作家が源氏物語を好むため、知らず知らずのうちに影響を受けている。
 
また関連記事では、紫式部が漢詩に造詣が深かったことに注目し、「中国・唐代の豊かな文化の強い影響を受けたものだったと指摘した。・・・

 中国での日本文学の普及は一部の研究者に限られていて、現代文学では村上春樹さんとかが読まれているそうです。そうした中での、『源氏物語』の紹介は異例といえるものだそうです。

 紫式部さん快挙!! ですね。

 中国にはよく『源氏物語』に並ぶ作品といわれるものとして『紅楼夢』があります。私はこれは中学のときに、「少年少女世界文学全集」のなかの一冊で読んだことしかありませんが、なんだか中国の朱塗りの綺麗な邸宅のなか(実際の挿絵はモノクロでしたが・・・)を、一人の少年がくるくると行ったり来たり動き回って、楽しい読後でした。たぶん、何も理解していなかったでしょう。でも、『紅楼夢』が『源氏物語』と匹敵しうる文学ということは、たぶん、そうなんだろうなと思います。

 その中国で『源氏物語』称賛の記事が書かれるということは、やはり、凄いことと思いました。

 ちなみに、私の『源氏物語』体験の最初は、小学校の図書館にあったもので、大きな活字で一冊の単行本にまとめられたもの。しかも、一ページもの大きな挿絵が何枚も入っていましたから、大変なダイジェスト本。でも、私はそれに魅了されてしまって、以来、『源氏物語』に染まって過ごしています。

 あのときの挿絵が、たぶん、私の原点なのでしょうね。十二単と直衣の装束の男女・・・、それに憧れている気がします。だから、平安貴族の映画やドラマには嵌まります。野村万斎さんの映画「陰陽師」、稲垣吾郎さんのドラマ「陰陽師」、渡哲也さんが清盛を演じられた大河ドラマの「義経」・・・、みんな素敵でした!!

 なんだか、中国の『源氏物語』紹介という高尚な記事から話がそれてしまいました。

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2008.3.20 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 2

 だが、旅する人の心を魅きつけてやまないこのかがやかな海景を見ても、愁苦なお晴れぬ旅びとがいる・・・、というフレーズで、神野氏の花山院熊野御幸の紹介ははじまります。

 これも引用から、「第六十五代、花山天皇、在位わずか一年十ヵ月、歴代のみかどのなかでも前代未聞の“天皇の皇居脱出”を演じた悲劇のひとである」・・・

 時代は藤原道長の父兼家が右大臣だった時。愛する女御に先立たれて世をはかなんでいた帝は、兼家にだまされてひそかに内裏を抜け出し、出家します。

 それは、兼家が子息の道兼(道長の兄)をつかって、仏門に入り、女御の菩提を弔うようそそのかしたもので、帝がだまされたことに気づいたときには既に遅し。皇位は、兼家の娘(道長の姉)が産んだ一条天皇に譲られていました。自動的に院は帝位をすべり墜ち、法皇の身分になっていたのです。

 と、ここまでは知っていました。こういうことがあったから、道長の時代があったのです。一条天皇こそ道長の娘の彰子が嫁ぎ、紫式部が仕えることになる天皇です。ひどい話ですが、『源氏物語』を生み出した貢献からか、また、道長自身にそういうあくどさが片鱗もないことから、花山院という犠牲者については、今まであまり深く踏み込んで書いた文章に接することなくきていました。それで、私としてはただ漠然と、なんとなくしっくりこないものを、胸の奥にしまい込んで。

 それが、この神野氏の熊野御幸の記述ではっきりしました。やはり、しっくりこなくて当然だったのです。だまされて出家したとき、院は十九歳。この若さにも驚きました。十九歳となったら、それはもう悲劇的過ぎます。道長の世を謳歌する権力の下には、こうした犠牲があったのです。例え、道長自身が直接かかわるものでなくても・・・。

 今まで読んだ本の中では、だまされたと知って落胆する帝の話のあと、流れは道長の出世への道程となります。花山院は若い身空で出家して、失意のどん底のまま、忽然として歴史の表舞台から消えます。

 人一人の生涯が、こうして抹殺されていくのです。釈然としない思いはここにありました。それがはからずも、神野氏の著述によって、院のその後がわかりました。仏門以外に進む道のなくなった院は、播磨国書写山に赴いたり、比叡山にのぼったりします。が、それでも傷ついた帝の心は癒されず、熊野の道に分け入ったのでした。それは「御幸というにはあまりにもわびしい旅であった」そうです。

 詳細は『大鏡』にあるようですが、「海人の塩焼く煙の立ち昇るのを見て、今、もし自分がこの地で果てて火葬されても、その煙は漁夫の焚く火で、誰も天皇だった自分の煙とは思うまい」というような歌さえ詠まれるほど。

 その後も、「近露皇子」の名の由来となるエピソードがあり、「近露の村郷を見おろす箸折峠に、現在も花山院が法華経と法衣を埋納したと伝える宝きょう印塔がある」そうです。「塔はすでに相輪を失い、四仏梵字も摩滅し、木立ちの静寂のなかにひっそりうずくまっている」そうです。

 それにしても、十九歳で人生のすべてを失うような経験・・・。ご著書を拝読して、この孤独な天皇が一挙に私には身近な人に、生きて、呼吸する、生身の人に感じられています。

 まさに、「熊野への道は、さまざまな時代さまざまな人びとが、それぞれの思いを抱いて辿った道」なのでした。

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2008.3.19 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 1

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の原稿で、久我通光について書かなければならないところにさしかかっています。が、通光についてはほとんど知られてなく、また彼を中心にとりあげた資料も皆無といっていいほどです。

 そんな中で、若い通光が、父親の源通親ともども、後鳥羽院の熊野御幸に参加したことを知りました。なんでもいいから手がかりが欲しいところです。そうしたら、書店で、この定家の『後鳥羽院熊野御幸記』について書かれた文庫本を目にし、購入しました。定家の随伴はこのときの一回限りです。が、幸いなことに、このときに、通光も参加しています。

 でも、せっかく一行のなかに二人揃っているのに、定家の筆はまだ少年の域を出ない通光のことになど触れてくれません。通光について知りたい希望は、この書では適えられませんでした。でも、それ以上に、やはり、読み応えがあって引き込まれましたので、ご紹介させていただきます。

 後鳥羽院の熊野詣熱は凄まじく、生涯で29回に渡っています。そして、一年のうちに2度も決行している年が4回。これは、当時の旅の難解さを考慮すると大変な数です。定家が供奉したこのときは4度目。後鳥羽院、29歳。定家、40歳です。

 私は熊野御幸の道程など実態をまったく知らなかったので、巻末に付されている地図を参照しながら読みました。それによると、熊野御幸といって思い浮かぶ険峻な岩を登ったりの山道は、ずっと後半なんですね。「王子」というポイント、ポイントをたどっていくのですが、九十九王子と象徴的にいわれるほど王子はたくさんあります。

 定家の記述に沿って順路をたどると、都を出た一行は鳥羽離宮に寄り、そこから桂川・淀川と下って、河口の窪津王子に着きます。ここが最初の王子で、そこから大阪湾沿いに点々と各王子をたどって馬目王子で大阪が終わり、次の中山王子から和歌山県。このあたりはずっと陸地で、藤白王子に至ってはじめて南海の大海原を見ることになります。それは急峻な坂道をのぼりつめたあとに突然開ける光景のようで、定家も、「遼海を眺望し興無きにあらず」と記したほどの、とにかく素晴らしい眺望のようです。

 紀伊水道沿いにさらに南下して、出立王子からいよいよ熊野山中へ入ります。そこからまた王子をたどりつつ難行苦行の山道を登って熊野本宮。それから熊野灘側の新宮に下り、さらにそこから那智大社へ。那智大社から熊野本宮に戻って、来た道を戻る、というルートでした。往路、16日。帰路、6日の旅でした。

 定家の奔走ぶりは大変なもので、40歳の身には応えたでしょう。それに比して若い後鳥羽院の闊達さ。宿泊先の王子で何回か歌会が催され、日中の奔走で疲れ果てている定家もお召しに預かって歌を詠んでいます。3度目の参詣の折に詠んだ歌の書かれたものが、現在展覧会などでよく目にする「熊野懐紙」です。飛鳥井雅経の熊野懐紙によく接するのですが、定家のがないなあと思っていました。3度目は参加していなかったのだから、無くて当然なんですね。逆に、4度目のことときは雅経が参加していません。
http://search.nifty.com/webapp/imagesearch?select=1&cflg=%B8%A1%BA%F7&q=%B7%A7%CC%EE%B2%FB%BB%E6

 このご著書は定家の悲惨さを記す従軍記の紹介みたいなものですが、中に心打たれたものに、花山院の熊野御幸がありました。ほんとうは、今日はそれを書いておきたくてはじめたのですが、せっかくだから行路をと思って書いていたら長くなってしまいました。明日、ご紹介させていただきます。
http://www.kumanogenki.com/nyumon/nyumon.html
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93

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2008.3.18 源氏物語千年紀情報・・・明石市の「石山寺」展

 これも私は行ける可能性がないのですが、行きたいなあ・・・と悔しい企画です。

明石市立文化博物館特別展「石山寺の美ー観音・紫式部・源氏物語ー」展
2008/4/5~2008/5/11
明石市立文化博物館 078-918-5400 
紫式部や源氏物語に深いゆかりのある石山寺の寺宝の展示。
重要文化財「石山寺縁起絵巻」や国宝を含む約70点。


 明石も須磨もまだ訪ねていないので、神戸の福原遺跡と一緒に今年あたり行きたいと思っていたところです。

 以前このブログでご紹介した高橋昌明氏の『平清盛 福原の夢』をようやく読み終わりました。私は本を一気に読破するたちでなく、必要に応じて手にとるので・・・。今、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の原稿で、源通親を書くところにさしかかり、それでまた読むことになって・・・という流れです。

 石山寺は滋賀県なのに、明石での展示というのも面白いですね。源氏物語享受史でも重要となる石山寺・・・、図録があったら取り寄せたいと思います。

http://www.ishiyamadera.or.jp/
http://www.akashibunpaku.com/

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2008.3.17 源氏物語千年紀情報・・・石清水八幡宮の文化講演会

 期日が迫っているし、今は京都まで出かけている余裕がないので、私自身はあきらめていますが、魅力溢れるイベントですのでご紹介させていただきます。以下、引用です。

●第三回文化講演会 お宮を語る「神社と源氏物語」
九州に下り育った夕顔の娘である玉鬘が都に上り、まず参詣した男山山上に鎮座する石清水八幡宮において、神楽の調べと講演、パネルディスカッションを開催。紫式部が生きた平安時代にタイムスリップする楽しいひとときをお過ごしください。

神楽の調べ : - 庭燎・あぢめ作法 - 
展示文化財解説 田中君於氏(石清水八幡宮研究所主任研究員)
講演会 : テーマ 「源氏物語と八幡宮」 
講演1 坂井輝久氏(京都新聞文化報道部編集委員) 
講演2 生井真理子氏(同志社大学非常勤講師)
パネルディスカッション:坂井輝久氏 生井真理子氏 田中君於氏
開催日:平成20年3月23日(日曜日) 午後1時~午後5時
場所:石清水八幡宮 青少年文化体育研修センター及び清峯殿(八幡市八幡)
料金:無料
お問合せ:石清水八幡宮  電話:075-981-3001 

 以前、長く私は石清水八幡宮に参詣することに躊躇していました。それは、『徒然草』に、仁和寺の老僧が参詣したとき、石清水八幡宮の本殿は山上にあるのに、麓の末社も立派な造りだった為、それを本殿と思いこんで参拝し、山へは登らずに帰って恥をかいたという話があるのが胸に残っていて、私も行ってそんなことになったら大変という思いがあったからです。おかしいでしょ(笑)。

 その後、所属させていただいていた「日本歴史文化学会」主催のシンポジウムが石清水八幡宮で行われたときに、会場が山上の会館だったので、これなら絶対間違うことはないと安心して参加。無事、参詣することを果たしました。ほっとしています。http://www.iwashimizu.or.jp/index/toppageh2002.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

 23日の文化講演会で惹かれるのは、「神楽の調べ : - 庭燎・あぢめ作法 -」です。庭燎は、「にわび」と読みます。本来は宮中の賢所の観る者の誰もいない庭で、楽人たちだけが座り、楽を奏して神との交感をはかるという御神楽です。途中、人長(にんじょう)という、白い装束をつけて榊の枝をもった舞人が進みでて、中央に焚かれた焚き火に榊をかざしながら、神の降臨を祈りつつ舞うのです。

 誰も観ることのできない、厳かなことこの上ない神事ということで、想像するだけでもぞっとする崇高な空間。憧れていました。それが思いもかけず観ることができたのは、国立劇場で「初めて」という上演があったからでした。早々にチケットを購入して、身を固くしつつ観て参りました。

 その後、テレビで、東京国際フォーラムでの公演が放映されたことがあり、ビデオに撮りました。が、なにしろビデオ。劣化して、早くCDに移さなくてはと思っています。このビデオを菱川善夫先生にお送りさせていただいたとき、国文学をされていた方ならではの深い読みの感激のお便りをいただき、私も感激した思い出があります。

 神秘な神楽の世界は魅惑的です。この世界には、高橋文二先生からのご教示で嵌まりました。高橋先生の『物語鎮魂論』には、「『神楽歌』の世界」という一章があります。とても素敵なご文章です。その高橋先生は、先の石清水八幡宮での放生会では、山折哲雄氏とご一緒に衣冠束帯の装束をつけられて参列されました。お写真を見せていただきましたが、とてもしっくりと似合ってらっしゃいました。

 神楽歌は、日本コロンビア社から、『日本古代歌謡の世界』というCDの4枚組が発売されています。少々お値段ははりますが、阿知女作法(あじめのさほう)から東遊び(あづまあそび)、久米歌など、古代歌謡が一切収められていて、とても有難いセットです。

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2008.3.16 「角屋」発見別本源氏物語と京都島原東鴻臚館の関係について・・・

 奈良・平安時代に福岡、難波、京都にそれぞれあった鴻臚館のうち、朝、福岡の鴻臚館の写真をHPに載せました。そうして京都の鴻臚館が『源氏物語』中の「桐壷」巻に登場することを前回記しました。

 その後、その所在地をネットで検索していたら、なんと、それは島原の遊郭の地になっていて、先日ニュースになった「別本源氏物語」発見の角屋さんと隣のような関係。あまりの偶然に、遠く東国に住んで土地勘のない私はびっくり。どうして・・・と、違和感に捉われました。

 そして、そのことがずっと心から離れないでいるうちに、なんとなく必然の流れが読めてきたので、ここにまとめておきます。もしかしたら多分、京都の地元の方たちには当然の、自明の理なのかもしれません。でも、それならそれで、誰かが書いてくださってもいいものを、発見のニュース当日の記事にはそれらしいことには何も触れられていませんでした。そして、その後も・・・

 私の推測はこうです。

 平安時代に設置された京都鴻臚館は、『源氏物語』にも登場するような、外国からの客人をもてなす迎賓館として機能していた。→そこには光源氏の相を占ったような高麗人もいた。→時代が変わって鎌倉時代になると、鴻臚館は廃止。→その後、幾多の変遷のあと、やはり客人をもてなすという立地条件からか従来の環境からか、自然な経緯で遊郭に。→京都で唯一太夫を置いたほどの角屋には、高貴な客人もいて、その方から太夫か誰か角屋の人が「別本源氏物語」を下賜された・・・・

 というような流れが私には浮かびました。ほんとうに、京都の方には自明の理かもしれませんし、間違っているかもしれませんが、平安時代の光源氏の物語が、同じ地で、「別本源氏物語」として現代の世に現れたことの不思議を、こうして目の当たりにできたなんて、素敵です。

 聞けば、角屋さんは壬生のあたりとか。一度だけ、京都駅から嵯峨へ向かうタクシーの車中で、運転手さんに案内していただいたことがありますが、あの場所を、幼い光源氏が従者に伴われて、高麗の相人に会うために通ったのだと考えると、・・・・、凄いですね!!!

 壬生は観光地的には新撰組で知られていますが、どうして「幼い光源氏も訪れた場所」というような触れ込みを、私のような遠い地に住む源氏ファンにわかるようにアピールして下さらないのでしょう??? 鴻臚館は西と東にあったようですから、どちらかの区別がつかないとか、いろいろ事情があるのかもしれませんね。追い追い、調べてみます。

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2008.3.16 HP【古典と風景】に博多の鴻臚館(こうろかん)遺跡を追加しました。京都の鴻臚館は『源氏物語』に登場します。

 九州へ行ったら是非訪ねて見たかった遺跡です。昨日の『源氏物語』に登場する「秘色青磁」について書かれた河添房江氏のご文章で、この遺跡のことが出ていましたので、HPに写真をアップしました。
http://www.odayuriko.com/

 詳細は昨日ご紹介した河添氏のサイトですでに書かれていますので、ここでは簡単にHPでの解説を付させていただきます。

 鴻臚館は古代における迎賓館です。博多の玄界灘に臨むここでは、大陸から渡ってきた多くの役人、商人、僧侶らが滞在し、旅の疲れを癒したり、都へ上る許可を待ったりしています。滞在されたなかには鑑真和上はじめ、多くの歴史上著名な方々がいられます。博多は中世港湾都市のなかでも最大規模の港でした。大陸から多くの文物がもたらされ、大変な賑わいの国際都市でした。鴻臚館遺跡は、平和台球場の建設に伴って発見されたそうです。遺跡では発掘当時の遺構と、一部想定復元された建物と、発掘された大量の陶磁器を見ることができます。

 よく、歴史を見ていると、奈良や平安の時代に、大陸に渡った僧侶や役人たちが帰国すると、一時期九州に滞在している記事に出くわします。一種の足止めのような感じのするこれは何だろうと思っていました。それが、この鴻臚館という迎賓館だったのですね。足止めのような重たいイメージだったのですが、訪ねてみると、まあ豪華!! これなら半年とかの長い逗留でも辛い生活ではなかったようと、安心しました。

 それにしても、発掘された陶磁器の豊富さ。質・量ともに、凄いものでした。

 平安時代、鴻臚館は博多の他に大阪と京都にありました。京都の鴻臚館は『源氏物語』に登場します。それは「桐壷」巻でのことで、あまりの光源氏の賢さに、父桐壷帝が高麗人の人相見のような占い師にお伺いをたてる内容です。宮中に呼ぶわけにいかないので、光源氏を占い師が滞在している鴻臚館へ遣るというくだりです。高麗の相人は、光源氏を見るなり驚いて、「国の親ともなるべき相。だが、そうなれば国の乱れともなる」と言います。光源氏が臣下にくだって源氏姓を名乗ることになるエピソードです。やはり、大陸から訪れた人物が滞在していたことの実感できる文章です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E8%87%9A%E9%A4%A8(鴻臚館)

追記:偶然でしょうか。それとも、地元の方にはなにか当然のような関連性があるのでしょうか。たまたま「鴻臚館」の語が検索ワードの「瞬!コレ」になってとりあげられたので、それをたどっていったら、京都の鴻臚館の画像を紹介されているブログがありました。それで、拝見したら、京都島原東鴻臚館は、先日「別本源氏物語写本」が発見されたというニュースの「角屋」さんの隣だったらしいんです。角屋さんは大夫をおいたほどのお店だとか。接待という意味では、鴻臚館跡としてふさわしいということだったのでしょうか・・・。遠方者の私にははじめて知る京都の「顔」です。(武蔵野に住んでいながら、新撰組に興味がなくて・・・。近藤勇の生家とか、沖田総司ゆかりの高幡不動など、近いのに・・・。どうやら、東鴻臚館も角屋さんも壬生のあたりということがわかりました。)
http://kyoto-albumwalking.cocolog-nifty.com/blog/00/index.html
http://shigeru.kommy.com/rakugo18.htm

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2008.3.15 『源氏物語』と幻だった「秘色(ひそく)青磁」のこと

 昨日、紫式部の生きた時代の考古学展のことを書いたら、『源氏物語』に書かれている「秘色の青磁」を思い出しました。これは、文字資料ではわかっているものの、いったいどういうのが「秘色」なのか、長いあいだ実態がわからないとされていたものです。

 それがわかったのは、中国の法門寺という地下宮殿で発見された副葬品の青磁と、リストにあった「秘色青磁」という記載の照合からでした。

 法門寺遺跡の展覧会は、2000年に「皇帝からの贈り物」展として、サントリー美術館で開催されました。もちろん、もう、待ち切れない思いで飛んでいきました。そして、それは、もう、絶句したまま立ち尽くして見るしかなかった素晴らしさでした。

 『源氏物語』では「末摘花」巻に書かれていて、今ちょっと本文を抜き書きしている時間がないので、ネットから河添房江氏のご文章を引用させていただきますと、

御台、秘色やうの唐土のものなれど、人わろきに、何のくさはひもなく、あはれげなる、まかでて人々食ふ。

八月の出逢い以来、遠ざかっていた末摘花邸を新春になってようやく訪れた光源氏は、その邸内をまじまじと観察する機会を得た。そこで、まず彼が目にしたのは、女房たちが貧しい食事をする姿であった。「何のくさはひもなく」とは、品数の少なさをいい、ここでは、主人の末摘花に出した貧しい食事のお下がりをさらに仕える女房が退出して食べているというのである。だが、食器だけは、光源氏の遠目にも「秘色やうの唐土のもの」を使っていると見えた。

という状況です。落ちぶれてはいても高貴な姫君である末摘花。父君譲りの高価な「唐土の器」を使っているという設定です。
http://homepage1.nifty.com/fusae/essay3.htm

 河添氏のご文章の後半に博多の鴻館について書かれてあります。ここも、舶載陶磁器の出土では超超一級。なにしろ博多は当時の国際貿易の拠点だったのですから。今でいう迎賓館です。中世の港湾都市研究で第一に名が挙げられる場所です。もう、ほんと、「ざっくざっく」と出土しています。ここの画像もいつかご紹介させていただきますね。それにしても、河添氏の目的物との出逢いを求めての「わくわくするような意気込んだ」ごようす、こんな高名な方でもそうなんだなあと、身近に感じて嬉しくなってしまいました。

 中国の法門寺遺跡を実際に訊ねられた方のサイトがありましたので、ご覧になってください。舶載陶磁器フアンの私には夢のような内容です。
http://humi.cside.com/And_So_On/yousyu/yousyu.htm

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2008.3.14 源氏物語千年紀情報・・・紫式部が生きた時代の考古学展!

 源氏物語千年紀を記念して、イベントがたくさん企画されています。このときでなければあり得ない貴重な企画ばかり・・・。見逃してはもったいないと思うのですが、主だったものが京都に集中しているのは、当たり前とはいえ、辛いです・・・

 昨日、それら情報をチェックしていたら、とても興味深いものがありました。それは、京都市考古資料館で開催中の「紫式部の生きた京都」展。

http://www.kyoto-arc.or.jp/

 私は以前、遺跡発掘調査の仕事に従事していましたので、こういう企画にはもう、目がキラッです。

 だいたいに、東京の、言ってしまえば当時としては片田舎だった三鷹で掘っていても、遺跡からはほとんど遺物は出ませんでした。

 石器時代や縄文時代は別です。野川とか井の頭公園とか、水のある場所なら石器も土器も、それなりに貴重なものが出土していました。が、文明が進んだ時代になると、東京での中心地は、古代なら府中。近世になると江戸。その中間に位置する三鷹での遺物や遺構の出土はほんとうに寂しい限りでした。

 ほんのわずか陶磁器とかの出土品があると、「あった!!!」とばかりに大切に大切に処理して保存します。それが小さな破片でも。

 そこへ、例えば鎌倉で掘っていられる方とかが見学にいらっしゃいますよね。そうすると、それら大事に扱われている遺物を見て、「何、これ・・・」と、訝しそうに手にとられて訊きます。そしておっしゃるには、「こんなの、俺たちだったら誰も掘った時点で拾いあげないよ」と。

 唖然としつつ、泣きたいくらいな気持ちでした。

 それは、逆に、私たちが見学にいったときに、溢れるくらいに出土した陶磁器などの山を見れば実際にそうだと実感させられます。私は、遺物の勉強は、携わっていた遺跡内ではなく、見学させていただいたあちこちの遺跡でさせていただきました。鎌倉では中世を。近世は本郷の東大内での発掘などで。

 そうして見学させていただいた中で、西でしか発掘されない「白瓷(しらし)」という陶磁器があるのを知りました。そして、もう、私はその陶磁器に魅了されてしまいました。いわゆる白磁になるのかもしれませんが、その区別はまだ私のなかでついていません。私が見せていただいたのは、たしか、国産の白磁で、いわゆる中国の白磁とは違う気がしました。ネットで画像があったので載せさせていただきますが、私が拝見したものは、もっと薄くて、口縁に綺麗な反りがあったような・・・(曖昧でごめんなさい。でも、このサイトでBACKをクリックしていただくと、その説明がバッチリ成されていました。感激!!感謝です。)
http://www.sisia.or.jp/homepage-contest/hpc2004/minoyaki/J-15/REKISI/SIRASI.HTM

 ただ、そのときに説明されたのが、「これが平安時代に貴族が日常使っていた食器で、京都ではざっくざっく出るよ」とのこと。なんて優美な形状でしょう。それに、白い・・・。主に鎌倉で目の保養をさせていただいた「武士文化」での食器とのあまりの違いに私は絶句し、目が釘付けになりました。

 書ききれなくなりそうなのでまとめますが、とにかく、考古学の展示というのは、当時の人が実際に手にとっていた器物を目にすることができるんです。「紫式部の生きた時代の考古学展」なら、紫式部が実際にどういう生活をしていたかを知ることができるんです。そこに「白瓷」もあるでしょうか。あれ以来、一度も目にしていないので楽しみです。一見ならずとも、何度でも見学させていただきたい展示です。

 例えば、「藤原道長建立の法成寺(ほうじょうじ)緑釉瓦・仁和寺八角円堂緑釉瓦・天徳四年(960)の内裏火災時の焼けた壁土や土器  など」というような遺物が並んでいるんですよ!!  開期はすでにはじまっていて、来年の一月まで。京都へ行かれる機会があったら、是非お寄りになってください。

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2008.3.13 名古屋市博物館に「紫式部日記絵詞」が出ています!!

 「紫式部日記絵詞」は、国宝「源氏物語絵巻」ほど見る機会がありません。それが、今、名古屋市博物館で開催中の開館30周年記念特別展「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」展に出展されているそうです。
http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji080301.html
「森川如春庵の世界」展は終了しました!

 名古屋市博物館のサイトからの引用ですが、「森川如春庵(1887~1980)は、益田鈍翁らとともに佐竹本三十六歌仙絵巻の切断に立ち会い、巻頭の『柿本人麿』を引き当てた人物として、あるいは今は切断されてそれぞれ国宝や重要文化財に指定されている紫式部日記絵詞の発見者として知られています」。

 この森川如春庵氏の蒐集品が一括して名古屋市博物館に移管しているそうです。開催中の展覧会は、それを軸に、他の所蔵品となっているものも含めての、森川如春庵氏の世界を再現しようとするものだそうです。

 「紫式部日記絵詞」は発見されたときは一巻の巻子本でした。発見者にちなんで森川本と呼ばれたそうです。益田鈍翁氏が購入するにあたって裁断され、現在五島美術館等の展覧会で観るような、一段ごとのものになっています。切断の際の状況もサイトで紹介されていますが、勇気がいったでしょうね。
http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/index.html

 去年の徳川美術館での「王朝美の精華 石山切展」に行ったとき、拝聴した福田行雄氏のご講演で、このときは『西本願寺本三十六人家集』から、「伊勢集」と「貫之集 下」を切断した際のエピソードを伺いました。このときも益田鈍翁氏がかかわってらして、福田氏の祖父でいられる田中親美氏がこの二つの集と決められたそうです。石山切とは、この二つの集をいいます。
http://www.tokugawa-art-museum.jp/special/2007/05/index.html

 名古屋市博物館に行きたいと思っているのですが、時間の融通がつかなくて無理になりそう・・・。五島美術館所蔵なので、何回か観てはいますし、五島美術館ならこれからも機会がありそうだし・・・で、決めかねています。それにしても、古美術蒐集家の世界って、凄いですね。

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2008.3.12 HP【寺院揺曳】最終回をアップしました。夢窓疎石が横須賀に庵を結んだ場所は現在米軍基地の中。その意味を考えたら一つの結論に達しました。

 2001年9月11日夜、私は夢窓疎石が庵を結んだ場所を撮るために横須賀へ行くべく、カメラ機材などの準備をしていました。脇ではテレビにニュースステーションがついていて、いつもどおりに久米宏さんがお話をされていました。

 私はなんとなくその声を耳にしながら支度をしていたのですが、ふっと久米宏さんの声のトーンが変わり、戸惑った感じで、「たった今、アメリカの貿易センタービルに小型機が突っ込んだもようです」とのこと。私も理解し難い内容に画面を見るとテロップが流れていて、久米さんも理解し難い表情を浮かべられながら、テロップを覗き込んでいられました。

 これが、あの「9.11 アメリカ同時多発テロ」の始まりでした。私には運命の巡りあわせとしか思えないのですが、連載エッセイ「寺院揺曳」最終回は、はからずもこの事件と重なっています。

 「寺院揺曳」の後半は、藤原定家の孫の冷泉為相が称名寺を訪ねた事実があったかを実証する内容です。これまで為相と交流のあったさまざまな方との人脈をたどりつつこの最終回にたどりつきました。そして、最後に残った方が夢窓疎石でした。

 為相が鎌倉に住んでいたとき、厳しい修行の旅も終わりにかかった夢窓疎石が鎌倉に戻り、横須賀に庵を結んでいました。二人の交流は、為相とは歌を詠みあう仲として、夢窓疎石とは師として交流のあった高峰顕日を介してはじまったことが前回までのあらすじです。その高峰顕日はすでに那須雲厳寺で亡くなっています。

 その頃、称名寺では長く六波羅探題として京都にいた第三代当主貞顕が、鎌倉に戻っていました。その貞顕が下向して最初に着手したのが、称名寺の伽藍建立や苑池の整備。称名寺の浄土式庭園が成るのは、貞顕の手によるこの時代です。

 貞顕と為相は、おそらく京都で親交があったものと思われます。のみならず、母阿仏尼の代で片付かなかった訴訟が、為相の代で勝利したとき、貞顕は幕府の役人としてその決定の任務にあたっていました。

 為相が横須賀の夢窓疎石を訪ねたとき、称名寺ではすでに金堂が完成し、苑池の整備も終わっていました。横須賀から東京湾添いの湊である六浦までは、舟でほんの近距離です。上陸したら称名寺まではもう本当にすぐです。こういうもろもろの事情を考慮すると、為相の称名寺訪問は事実として容易にあり得る話でした。おそらく貞顕は、完成し立派になった称名寺に為相を招待したのでしょう。

 というところで、連載の最後は、為相が夢窓疎石に送り出されて舟に乗り、六浦に向かって漕ぎいだす、映画のシーンのような余情たっぷりの終わりにしようと、当初の予定では決めていて、楽しみにしていました。が、突然の、「9.11テロ」事件の勃発。そんな悠長なことは吹き飛んで、私も一時期、ほんとうに書くことの意義について考えさせられ、連載を続けていいものか悩み続けました。

 だいたいに、夢窓疎石の庵跡が横須賀の米軍基地内になっているということを知った次元で、あまりのミスマッチに違和感を覚えました。それでも、長い歴史のなかではそんなこともあるか・・・くらいに受け止めていました。が、そこに「9.11テロ」事件までが重なるとは・・・

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 ニュースステーションのテロップで「小型機の突入」だった個人レベルの操縦ミス程度の事件が、小型機ではなく旅客機で、しかも貿易センタービルだけでなくペンタゴンや、その他もう一機まで・・・と、次々と想像を絶する情報や光景がテレビに映しだされます。私が訪ねようとしていた夢窓疎石の庵が中にあった米軍基地はすぐに封鎖され、中に入れなくてもせめて門を撮ってこようと考えたいた私は、物々しい戒厳令下になってしまったテレビの画像の中のその門を呆然として見ているしかありませんでした。

 どうして、こんなことに・・・・

 と、必死で考えました。その答えが、「夢窓疎石は将来を見通していて、あえてそこに庵を結んだのだ」という結論でした。詳しい経緯は最終回に書いていますので省略しますが、疎石に限らず、禅僧に限らず、偉大な方には「叡智」が備わっています。「叡智」とは、未来を見通す力です。人間の愚かな部分を熟知した方には、将来この事件のようなこともあり得ないことではないことが察知できていたのだと思います。だから、あえて、自分に最もふさわしくない場所に庵を結び、そのミスマッチに唖然とさせて、私のような者にも考える手だてをくださったのです。

 最終回は、はからずも、歴史エッセイの枠を超えて、このような事柄を書くことになりました。ここには、菱川善夫先生から頂戴したお手紙を載せさせていただいています。とても大切な内容と思いますので、北海道にいられる先生にお電話して、掲載のご許可をいただいて載せたものです。本文までお読みいただけない方のために、引用させていただきます。このお手紙によって錯綜していた私の精神も落ち着き、救われました。以下、「寺院揺曳」最終回から、

 夏の終わりに菱川善夫先生からお便りをいただきました。そこにつぎのようなご文面がありました。「その十五」で、『親玄僧正日記』の庭舞のようすを有機的感覚で想像したことにたいして書いてくださったお言葉です。私信ですが、これは菱川先生の文学にたいする、世界全体にたいする思いでもいられると思いますので、書き写させていただきます。

 この《有機的感覚》が、いま文学にも求められるべきだと考えています。九・一一以後の世界の複雑な変化と動きをつかまえるためには、単なる感情的反応だけでは駄目ですね。かといってパターン化された危機意識だけでも陳腐になるでしょう。まさしく《有機的感覚》が必要なのだと思っていたところです。

 私は一度も先生に同時多発テロ事件との関連、それからあとの思いを打ち明けてはいません。にもかかわらず、菱川先生はその奥の必死な思いを読みとってくださったのです。びっくりしました。このお便りで一挙に私は原点に引き戻されました。夢窓疎石について書きながら、同時に私は同時多発テロ事件以後の世界を考えずにいられなくなりました。そして、気がついたのです。これこそが、夢窓疎石がそこに庵をむすんだ意義にほかならないと。

 今改めて拝読しなおても、菱川先生にはほんとうに助けていただいた思いが募ります。先生のお便りは、ほんとうにいつも有機的、かつ先鋭的、かつ、とても凛々しく美しいものでした。

 最終回では、高峰顕日が住された那須雲厳寺を訪ねたことも記しました。名前のとおり、雲の上のような、とても厳しい感じのする立地条件のところでした。ところどころ巨大な岩が露出して・・・。それに関連して、以前このブログでもご紹介した糸魚川―静岡構造線上の山梨県にある新倉の断層にも話が及んでいます。高峰顕日という方もまた、人知を超えた自然の摂理のなかに生きていられました。

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 歴史探訪エッセイ「寺院揺曳」は、2002年9月10日に(完)の文字を記しました。

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2008.3.11 京都で別本系源氏物語写本発見のニュース!!

 昨夜のニフティのTOPページのニュースに次のような記事がありましたので、ご紹介させていただきます。

源氏物語写本は鎌倉末期=第6巻「末摘花」の別本-重文「角屋」で保存・京都
3月10日18時1分配信 時事通信

 国の重要文化財「角屋」(京都市下京区)に保存されている源氏物語の写本が、鎌倉時代末期に書かれたことが10日、大阪大学大学院文学研究科の加藤洋介准教授(平安文学)らの鑑定で分かった。
 一般に読まれる源氏物語の基となっている写本は、歌人藤原定家(1162~1241)による「定家本」。それ以外の現存は非常に少なく、加藤准教授は「鎌倉時代に定家本以外の系統が普及していたことを裏付ける資料になる」としている。
 今回、鎌倉末期と判明した写本は、源氏物語54巻のうちの第6巻「末摘花」の別本。鎌倉期の末摘花の別本で現存するのは、重文指定の旧摂関家の陽明文庫本(同市右京区)と京都御所(同市上京区)の東山御文庫本の2冊だけだ。

 私もほんとうに最近になって知って驚いたことですが、ひと口に『源氏物語』といっても、作者の紫式部自筆による原本は残っていないんですね。

 なのに、私たちが今読むことができるのは、昔の人が累々と書き残してくれた写本があるから。それが、「源氏物語写本」なんです。昔は印刷技術なんてありませんでしたから、本は書写することによって広まりました。木版印刷ができるようになったのは、ようやく江戸時代になってから。なので、鎌倉時代も、室町時代も、戦国時代も、みんな、本は必死になって書き継がれたもので読んでいたんです。

 源氏物語写本には、書写された経緯から、三通りの本文があります。ニュースの「別本」はそのことを言っているんです。

 『源氏物語』の本文に3通りあることに気づいて分類されたのは池田亀鑑氏でした。昭和20年代のことでした。その3通りとは、

 1. 藤原定家の校訂による「青表紙本源氏物語」
 2. 源光行・親行親子の校訂による「河内本源氏物語」
 3. 二つのどちらにも属さない「別本系源氏物語」

です。命名の由来は、「青表紙本源氏物語」は、表紙が青かったことから。「河内本源氏物語」は、光行・親行親子が二人とも河内守だったことからといいます。昨夜のニュースでは、3の別本系源氏物語中の「末摘花」だったというわけです。
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/book/03.html

 私がこれから刊行しようとしている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、鎌倉時代成立の写本の歴史を追う内容です。タイトルの「人々」は、藤原定家と源光行・親行親子のことです。この方々が、どうして膨大な量の源氏物語の校訂作業をしようなどと思い立ったか・・・・。ただ学問のためだけではない事情がそこにはありました。そこにはとても胸を打つ悲話があるのですが、それは原稿が本になった段階でご紹介させていただきますね。

 現代の私たちが読んでいるのは、「青表紙本」です。「河内本」は鎌倉時代には「青表紙本」より普及していました。それが、「青表紙本」優勢になったのは室町時代後半頃から。定家を歌の神様のように崇める風潮とともに、「青表紙本」ばかりが書写されるようになったからです。江戸時代、本居宣長や賀茂真淵によって源氏物語研究が熱心にされていますが、「河内本」は名前だけが残っていて、実物を見た人はすでにいなくなっていました。

 私たちは、瀬戸内寂聴さんのわかりやすい現代語訳や、もう「古典」といっていいほど格調高い文学になってしまった与謝野晶子さんや谷崎潤一郎氏訳を手にして、容易に源氏物語世界に浸ることができますが、背景には、涙ぐましいばかりのこうした事情がありました。

 それにしても、大の男たちが、源氏物語を書写することに生涯の情熱をかけるなんて、素敵と思いませんか?

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2008.3.10 HP【寺院揺曳】20をアップしました。なんと、『吾妻鏡』は宗尊親王を追慕してやまない北条顕時の編纂だったのです!!

 藤原定家の孫の冷泉為相が称名寺を訪ねたという伝承が事実かどうか探っていくなかで、次第に当時の鎌倉における文化人交流が明らかになってきました。

 そこで、為相と実際に交流のあったことを記す歌が残る夢窓疎石から、夢窓疎石の師である高峰顕日へと話が進みました。

 その高峰顕日は、一時期、鎌倉の浄妙寺の住持を務めていました。そして、その浄妙寺は、金沢実時息の顕時の娘が嫁い貞氏のお寺だったのです。

 金沢文庫の図録にこうあります。、「金沢北条氏と足利氏は、北条顕時の娘が足利貞氏の正室となり、嫡子高義が誕生したことによって親密な関係を築いていた」と。

 貞氏の子の一人が足利尊氏です。顕時の娘は尊氏の母となった女性と同じ立場にありました。これを知ったとき、歴史初心者の私にはとても驚きの事実でした。もし、顕時の娘が尊氏を生んでいたら歴史は変わっていたでしょう・・・と。

 『吾妻鏡』は石井進先生方のご研究で、安達泰盛派の人の手になるものだったことがわかっています。顕時はその泰盛の娘婿です。

 さらに、さまざまな方のご研究によって、『吾妻鏡』の原資料の一つに、藤原定家の『明月記』が用いられていることが明らかです。顕時の時代、定家の孫の為相が鎌倉に下向しており、その為相所持の『明月記』が借用されたものと、五味文彦先生が書かれています。

 その為相は、「寺院揺曳」の連載でこれまで書いてきましたが、夢窓疎石や高峰顕日らと親しい間柄でした。そして、並々ならぬ深さで禅に帰依していた顕時は、当然、それら禅宗の僧侶と接していました。

 その高峰顕日が住持を務める浄妙寺が、顕時の娘ゆかりの寺院だったのです。

 顕時は、鎌倉に下向された後嵯峨天皇皇子の第六代将軍宗尊親王に仕えていました。鎌倉武士のなかでも際立って文人気質といわれる顕時の人柄は、少年時代から御所で育った、いわば宗尊親王の薫育のためでしょう。

 その宗尊親王は、幕府の手で、京都に帰される更迭の憂き目にあっています。それを決定した幕府の高官の一人に、父実時がいました。親しんで育った親王の無念を、顕時は黙って見ているしかなかったのです。

 『吾妻鏡』は、顕時の時代に編纂が成されています。そして、従来、謎とされていたことに、宗尊親王の京都への帰還を最後に、ぷつっと切れて終わっています。それで、後続部分の消失説もありました。が、顕時の宗尊親王への追慕による編纂と解釈すれば、辻褄があいます。

 為相の称名時訪問の謎を解き明かす過程で、思いもかけず、『吾妻鏡』の編纂の秘密にまで至ってしまいました。これは、推察に推察を重ねたもので、実証はできませんが、人と人とのつながり、そして、人の心の中の推移を重ねあわせるという、有機的連関のなかで見えてきたものです。

 連載は2001年から2002年にかけて致しました。最終回は、2002年9月11日のアメリカ貿易センタービルに旅客機が突入した事件に関連して書いています。これも、夢窓疎石との関連で考えると、有機的連関のなかにありました。次回がその最終回です。

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 この連載当時、『吾妻鏡』の編纂者に顕時を特定したご研究はありませんでした。ただ、金沢北条氏関係の人だろうと、それならば教養高く実践力もある実時ではないか・・・・とだけ。顕時も助けただろうとか・・・

 あれから10年近くたっています。現在のご研究の成果がどこまで発展しているか、知りませんが、この段階では新説と思っていました。

 この連載は、金沢文庫の学芸員さんのご好意で、文庫の図書室にコピーを置かせていただいています。完成当時、本にしたらいいのに、といって下さった方もいられますが、まだそこまでには至りませんでした。

 今日、久しぶりにこの回をアップしてみて、やはり、あのとき本にしておけばよかったなあ・・・などと考えています。『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』から手が離れたら考えたいですね。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/(称名寺の写真は【古典と風景】にあります。風雅を愛する晩年の顕時が散策を楽しんだという名園です。) 

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2008.3.8 どうしてこうも定家の歌はふくよかなのでしょう・・・

 いつも思うのですが、藤原定家の歌は他を圧倒して別格ですね。上手な歌、好きな歌、凄い歌はたくさんあり、私も、「好きな歌を一首」といわれたら、別の方のをあげたりするかもしれませんが、定家の歌はそういう次元にとらわれない、もっとずっと格調高い別次元のものに感じます。

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 こんなこと、国文学関係の方にいったら、何を今更といわれてしまうでしょうけれど、今回、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』を執筆中で、その原稿がちょうど後鳥羽院仙洞に話が及んできたものですから、その関係の本を借りに図書館へ行きました。そうしたら、「定家」を関する本が何冊かあって、みんな以前、もう夢中になって拝読したもの。

 当時、私はまだ「歌」に目覚めていませんでしたから、何だか気になって借りて、読んだら嵌まって・・・という具合に、私の歌修行は「定家」の歌を読むことから・・・、正確にいえば、「定家」の歌の読み方を詳説してくださったこれらの本を読むことからはじまりました。

 だから、歌の歴史や作歌のイロハ抜きに私の歌世界は広がっていますので、かなり偏っているとは常々思っていました。

 でも、最近、?・・・・、もしかしたら偏っていないかも・・・、と思うようになっています。というのは、定家の歌は、発表当時、「新儀非処達磨歌」といって、歌壇で対立する相手方から非常な誹謗・中傷を受けていたのです。「達磨のようにわけのわからない歌」というわけです。

 でも、その「新儀非処達磨歌」とレッテルの貼られた歌のなかに、かの有名な「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」があるのです。そして、定家のこれら「新儀非処達磨歌」と退けられた歌の作風が若い歌人に浸透し、その後の歌界を席巻し、今に至っているのです。その最先端の人というのが後鳥羽院だったことは、以前記しました。後鳥羽院の「見る目」がなければ、いくらいい歌でも引き上げられることなく、時代の闇に埋もれてままになっていたでしょう。

 『新古今和歌集』が成るには、後鳥羽院の力が必要でした。けれど、その後鳥羽院を衝き動かすには、定家の歌の「斬新さと華やかさと寂寥が表裏一体の歌風」がなければあり得ませんでした。

 やはり、定家の歌には、何か、はかり知れない魅力があります。

 そんなことを、最初に知った何冊かの本をご紹介させていただきます。これを読まなかったら、今の私はないと思っているような本たちです。図書館の本たちですが、久しぶりに借りてきて手元にありますので・・・・。ずっと以前に読んでいるので、夢中になって読み進むというのではなく、ぱらぱらと開いては定家の世界に浸っていて、「やはり、ふくよかだなあ」という感慨に浸っています。

 図書館からお借りしているのは、拝読順に、
  『定家の歌一首』 赤羽淑 桜楓社 昭和52年
  『妖艶 定家の美』 石田吉貞 塙書房 昭和54年
  『定家百首 良夜爛漫』 塚本邦雄 河出書房新社 昭和48年

 当時はまだネットで探して購入なんて考えられなかったので、似た本を探して購入したのが、
  『藤原定家 美の構造』 吉田一 法政大学出版局 1986年
  『新古今新考―断崖の美学』 塚本邦雄 花曜社 1981年

です。読みこむということは、いくら一人で熱心に活字をたどっても、著者の、作品の、奥深く入り込むことなどできません。作品の背景には歴史があり、作者が得た宗教や知識・思想・哲学があり、読者によって読み解かれた感性の蓄積があります。個人の力など皆無に等しいのです。最初は受け売りかも知れなくても、その作品に接したその時点までの、歴史・思想・感性を知って、そこをスタートとして自分の世界を築いていくことがとても大切と思います。現代は個性を重視するまりに、こういうことからくるふくよかな発想を枯渇させてしまっているのではないでしょうか。

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2008.3.4 HP【寺院揺曳】19をアップしました。夢窓疎石と高峰顕日の美しい師弟関係をご紹介します。

 夢窓疎石ほど有名な禅宗のお坊さまはいられないと思いますが、師は高峰顕日という方でした。高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇、亀山天皇のご兄弟でいられます。

 冷泉為相(れいぜいためすけ)の鎌倉での人脈を探っていくと、為相が高峰顕日と歌の世界で交流をしていたことがわかります。京の宮廷を知っているどうし、鄙の地鎌倉で、それは相当心許せる深い交わりだったでしょう。

 為相の私歌集『藤谷和歌集』には、「正和五年九月、仏国禅師鎌倉より下野の那須へ下り侍りける時、春は必ず下りて山の花を見るべきと契りけるに、十月入滅し侍りければ、仏応禅師のもとに遣わしける」の詞書のある、
  咲く花の春を契りしはかなさよ風の木の葉のとどまらぬ世に
の一首があります。

 鎌倉にあって為相は「藤谷(ふじがやつ)」に住んでいました。藤ガ谷は、鶴岡八幡宮に近い扇ガ谷の浄光明寺がある一帯の谷戸の一つです。浄光明寺の裏山には為相の墓である宝きょう印塔(ほうきょういんとう)があります。そこに立って見下ろした位置の、横須賀線をはさんだ向こうに母阿仏尼の墓があります。為相は母阿仏尼の代で片付かなかった訴訟問題を引き継いで鎌倉に住んでいました。
http://www.kamakura-burabura.com/meisyokamakurajyoukoumyouji.htm

 その為相が、交流のあった高峰顕日(仏国禅師)の入滅に際して詠んだのが、先ほどの歌です。為相は高峰顕日を介して夢窓疎石と知り合ったのではないでしょうか。もっと後になると、夢窓疎石の歌集に為相との交流を明かす歌がでてきます。

 僧侶という方は、師を求めて、あるいは修行のために、それはそれは大変な移動をよくされます。高峰顕日も、夢窓疎石もそうで、年譜をつくると、しょっちゅう鎌倉での在・不在が入れ替わっているのがよくわかります。

 その年譜のなかで、高峰顕日と夢窓疎石が鎌倉にいて、そして、為相もいた・・・という年次を探っていくのが私の手法ですが、そうしてみると、三者がいっしょに鎌倉にいた時期がかなり特定されてきます。

 高峰顕日は、北鎌倉にある浄智寺の住持をしていて、その時期に為相は頻繁に接触していたようです。扇ガ谷と浄智寺は近いですものね。そこに修行の旅から戻った若い夢窓疎石が訪れるのです。
http://www.kamakura-burabura.com/meisyokitakamakurajyoutiji.htm

 夢窓疎石はその浄智寺で「大悟」、すなわち悟りを開きます。そのときの高峰顕日とのやりとりが残されていますので、「寺院揺曳 19」から引用、ご紹介させていただきます。


 禅における大悟、そして印可というものがどういうものなのか、あまり接する機会はないと思いますので、ここで高峰顕日(仏国)と夢窓疎石の問答を佐々木容造『訓註 夢窓国師語録』から引用して紹介させていただきます。まず、夢窓疎石の大悟のことを。

  五月末のある日、夢窓は庭前の樹の下に坐って涼をとっていた。いつの間にか夜が更けて暗くなってしまい、疲れていたので庵に入り、床に上ろうと、壁のない所をあると誤認して体をもたせかけると、転倒してしまった。夢窓は思わず失笑、途端に忽然と大悟した。そこで次のような投機の偈を作った。

多年掘地覓青天  多年、地を掘って青天を覓め、
添得重重礙贋物  添え得たり重重礙贋の物。
一夜暗中■碌甎  一夜、暗中に碌甎を■げ、 
等閑撃砕虚空骨  等閑に撃砕す虚空の骨。

  また一偈を作った。

西秦東魯 信不相通  西秦東魯、信は相通ぜず、
蛇呑鼈鼻 虎咬大虫  蛇、鼈鼻を呑み、虎、大虫を咬む。

  柳田聖山氏によれば、日本における禅宗の歴史の中で、開悟の道程を自ら明らかにしたものは、夢窓が初めてではないかということである。次に、印可を受けたときの高峰顕日との問答を。

仏国、「古人は山には深く入らなければ、見地を脱することができないという。私は君が山深く入ったと聞いているが、見地を脱することができたのか」。
夢窓、「もともと見地などありません。どうして脱したとか、脱しないとか、論ずることがありましょうか」。
仏国、「普段、君はどんな所で躬行履践しているのか」。
夢窓、「頭をあげると残照があります。もとより住居の西にあります」。
仏国、「天と地が分かれていないとき、残照はどこにあるのか」。
夢窓はからからと大笑いした。
仏国、「笑いの裏に刀がある。それは人を殺すのか、人を活かすのか」。
夢窓、「そのような刀は、我が伝家の宝刀(人々本具の宝剣)ではありません」。
仏国、「もしそうなら、空の城に賊が入って来るではないか」。
夢窓、「来年になれば、新しい枝があって、春風に乱れ動いて未だ休むこともありません」。
仏国、「春風はまだ吹いていないが、どうだ」。
夢窓、「花が開くのに、春の力を借りることはありません」。
仏国はそれに深くうなずいた。夢窓が逆に仏国に質問した。
夢窓、「今までの問答はどこに行ったのですか」。
仏国は立ち上がって夢窓に問訊をした。夢窓も退いた。翌日また丈室に行くと、
仏国、「昨日わしが立ち上がって問訊したとき、なぜ突き倒さなかったのか」。
夢窓、「和尚は自ら倒れました」。
仏国は呵々大笑した。

 夢窓疎石の大悟のとき、為相は鎌倉にいました。高峰顕日と親しく接していた為相には、歴史的瞬間のその緊張のときがあったことがわかったでしょう。史実にはあらわれませんが、貴重な禅宗の僧侶の一瞬に、貴重な文学者の目が、このときにありました。歴史を探ってみていくことの醍醐味がここにあります。

 このときの夢窓疎石はまだ若く、為相とゆとりある交流のできる年代ではありません。が、後年になってふたたび巡り会い、その記録が歌に残って・・・、それが、実は、為相の称名寺訪問が事実だった推測への手がかりになるのです。この回ではまだ高峰顕日と夢窓疎石の美しい師弟関係を明かすことに終始していますが。

 「寺院揺曳」は全部で21回の連載でした。残すところ、あと二回になりました。振り返りつつ、懐かしみつつ、ここで再掲させていただいています。が、この連載で夢窓疎石という方を、高峰顕日という方との師弟関係の麗しさを知ったことは、生涯の私の宝になっています。

 高峰顕日が那須に籠った雲厳寺も訪ねました。が、それはまだフィルムカメラの時代のもので、リバーサルです。スキャナーで取り込んでご紹介できる日はいつでしょう。いつか、ホームページの【中世の遺跡と史跡】に載せたく思っているのですが・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub8525unganzi.html

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2008.3.3 HP【寺院揺曳】18をアップしました。

 この回では、佐々目遺身院に住されていた益性法親王(やくしょうほっしんのう)をめぐって書いています。益性法親王は亀山天皇皇子。そういう方が鎌倉に下向されたのは、仁和寺御流伝授のためでした。

 前回も書きましたが、鎌倉の仏教というと浄土宗や日蓮宗を思いますが、鎌倉でも仁和寺御流のような純然とした旧仏教の普及がはかられていたのです。この仁和寺御流を、金沢北条氏第三代当主の貞顕(さだあき)が称名寺にも伝えるべくはたらいています。

 この貞顕が、冷泉為相と、六波羅探題時に京都で会っているか・・・・。

 鎌倉に帰った貞顕は、下向していた為相と再会したか・・・。

 このあたりを記す資料はまったくありません。ただ、時代的にはまったく一緒。そして、狭い京都の宮廷社会、狭い鎌倉の武士社会にあって、ほぼまったく同じ空間を二人を生きています。

 謡曲「青葉の楓」にある、冷泉為相が称名寺を訪ねたというのが、まったくの伝承か。はたまた、事実だったか・・・

 為相が、称名寺の檀越貞顕と、これほど同じ時空を生きたことが明らかなら、称名寺訪問もあり得たと思いませんか?

 このあとの回で、交流があった人脈をたどることで、次第にそれが明らかになっていきます。

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2008.3.1 HP【寺院揺曳】17をアップしました。

 この回では為相・為兼の時宗との関わりを探っています。

 鎌倉仏教というと、私たちはふつう浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などの新仏教を思いますが、それは、鎌倉時代に生まれた仏教というだけです。実際の鎌倉仏教では、密教などの旧仏教と新仏教が並立していました。そして、旧仏教は支配者側に、新仏教は庶民の側にあって、互いに勢力を張っていたのです。決して、奈良・平安時代からの旧仏教をおしのけて新仏教が台頭したというわけではありませんでした。

 それを黒田俊雄氏が「顕密体制論」として打ち出され、当時は驚愕の思いでもって受け止められたといいます。この回では最初にその「顕密体制論」について説明させていただいています。とても明快な区分けが成されていて驚きですが、時間軸や人間関係などの明確な把握無しに、ただ鎌倉仏教というだけで語ってしまうと、従来のような誤った見方で通用してしまうのですね。あまりにも当たり前のことが見逃されていた事実に唖然としました。

 その後、時宗に入るのですが、そこでは、佐藤和彦先生から拝受した大分県立博物館でのご講演を引かせていただき、時宗の戦場での働きを紹介させていただいています。時宗という教団は、武士たちといっしょに戦場に赴き、刃に倒れた武士たちの回向をする役割を果たしていたそうです。胸打たれる内容で、佐藤先生の温かなお人柄が窺えるご講演です。

 為相と為兼は、この教団の真教と親しく交わっていました。それは、歌を通じての交流であり、かつ、宗教という深い思索をするどうしの接触でもありました。それは、『他阿上人法語』に記されていて、それを紹介させていただきました。

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2008.2.29 HP【寺院揺曳】16をアップしました。

 この回でようやく、冷泉為相が神奈川県称名寺を訪ねたという伝承が事実かどうかの考察に入ります。為相は藤原定家の孫。そういう京都の公卿が、東国の、鎌倉とは峠を隔てた東京湾添いの遠くの地に足を踏み入れたなど、まずあり得ないとして、従来ただの伝承と思われていました。

 為相が鎌倉に居住することになったのは、阿仏尼が『十六夜日記』を記すことになった鎌倉への下向で有名な、相続をめぐる裁判に関してでした。母阿仏尼の在世中にそれは片付かず、為相までが東国に下る結果になっていました。

 この時期の金沢北条氏の当主は、すでに第三代貞顕(さだあき)になっています。貞顕は六波羅探題として長く京に暮らしています。二人が直接会ったことを記す資料はありませんが、事象を照合していくと、二人の交流といったものが見えてきます。不思議ですね。定家の孫と称名寺の関係者とが交流していたなんて。

 為相は鎌倉で多彩な方々と交流しています。その内のお二人に、かの有名な高僧の夢窓疎石と高峰顕日とがいられます。高峰顕日は夢窓疎石の師です。

 これらの方々との接触の過程をたどって、為相が称名寺を訪ねたかどうかを探っていきます。非常に魅惑的な鎌倉時代の鎌倉における文化人の方々の交流世界が見えてきます。それは、今までどなたも書かれたことのない世界です。私が鎌倉の文化、鎌倉の源氏物語文化、といったものに嵌まっていく原点となった考察です。

 冒頭で、「人には人の時が流れている・・・」という書き出し方をしました。それは、人がどこで誰と接触しているかわからない、もしかしたらあのとき、誰々とすれ違っていたのかも・・・という、自分ではわからない、けれど、映画のシーンのような他人の目には見えていた・・・というような、人生の不思議を思って書いたものです。

 それは、写真を学ぶなかで見知ったアンリ・カルティェ・ブレッソンの「決定的瞬間」からきている、私の人生の視点です。私の根底には、「映像」があります。映像として、映画のシーンとして、一時期の鎌倉における文化人交流を浮かびあがらせたのが、「寺院揺曳」の後半の叙述になりました。

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