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2008.3.19 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 1

 『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』の原稿で、久我通光について書かなければならないところにさしかかっています。が、通光についてはほとんど知られてなく、また彼を中心にとりあげた資料も皆無といっていいほどです。

 そんな中で、若い通光が、父親の源通親ともども、後鳥羽院の熊野御幸に参加したことを知りました。なんでもいいから手がかりが欲しいところです。そうしたら、書店で、この定家の『後鳥羽院熊野御幸記』について書かれた文庫本を目にし、購入しました。定家の随伴はこのときの一回限りです。が、幸いなことに、このときに、通光も参加しています。

 でも、せっかく一行のなかに二人揃っているのに、定家の筆はまだ少年の域を出ない通光のことになど触れてくれません。通光について知りたい希望は、この書では適えられませんでした。でも、それ以上に、やはり、読み応えがあって引き込まれましたので、ご紹介させていただきます。

 後鳥羽院の熊野詣熱は凄まじく、生涯で29回に渡っています。そして、一年のうちに2度も決行している年が4回。これは、当時の旅の難解さを考慮すると大変な数です。定家が供奉したこのときは4度目。後鳥羽院、29歳。定家、40歳です。

 私は熊野御幸の道程など実態をまったく知らなかったので、巻末に付されている地図を参照しながら読みました。それによると、熊野御幸といって思い浮かぶ険峻な岩を登ったりの山道は、ずっと後半なんですね。「王子」というポイント、ポイントをたどっていくのですが、九十九王子と象徴的にいわれるほど王子はたくさんあります。

 定家の記述に沿って順路をたどると、都を出た一行は鳥羽離宮に寄り、そこから桂川・淀川と下って、河口の窪津王子に着きます。ここが最初の王子で、そこから大阪湾沿いに点々と各王子をたどって馬目王子で大阪が終わり、次の中山王子から和歌山県。このあたりはずっと陸地で、藤白王子に至ってはじめて南海の大海原を見ることになります。それは急峻な坂道をのぼりつめたあとに突然開ける光景のようで、定家も、「遼海を眺望し興無きにあらず」と記したほどの、とにかく素晴らしい眺望のようです。

 紀伊水道沿いにさらに南下して、出立王子からいよいよ熊野山中へ入ります。そこからまた王子をたどりつつ難行苦行の山道を登って熊野本宮。それから熊野灘側の新宮に下り、さらにそこから那智大社へ。那智大社から熊野本宮に戻って、来た道を戻る、というルートでした。往路、16日。帰路、6日の旅でした。

 定家の奔走ぶりは大変なもので、40歳の身には応えたでしょう。それに比して若い後鳥羽院の闊達さ。宿泊先の王子で何回か歌会が催され、日中の奔走で疲れ果てている定家もお召しに預かって歌を詠んでいます。3度目の参詣の折に詠んだ歌の書かれたものが、現在展覧会などでよく目にする「熊野懐紙」です。飛鳥井雅経の熊野懐紙によく接するのですが、定家のがないなあと思っていました。3度目は参加していなかったのだから、無くて当然なんですね。逆に、4度目のことときは雅経が参加していません。
http://search.nifty.com/webapp/imagesearch?select=1&cflg=%B8%A1%BA%F7&q=%B7%A7%CC%EE%B2%FB%BB%E6

 このご著書は定家の悲惨さを記す従軍記の紹介みたいなものですが、中に心打たれたものに、花山院の熊野御幸がありました。ほんとうは、今日はそれを書いておきたくてはじめたのですが、せっかくだから行路をと思って書いていたら長くなってしまいました。明日、ご紹介させていただきます。
http://www.kumanogenki.com/nyumon/nyumon.html
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

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