« 2008.3.19 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 1 | Main | 2008.3.21 源氏物語千年紀情報・・・中国の新聞でも紹介。「一つの奇跡」と! »

2008.3.20 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 2

 だが、旅する人の心を魅きつけてやまないこのかがやかな海景を見ても、愁苦なお晴れぬ旅びとがいる・・・、というフレーズで、神野氏の花山院熊野御幸の紹介ははじまります。

 これも引用から、「第六十五代、花山天皇、在位わずか一年十ヵ月、歴代のみかどのなかでも前代未聞の“天皇の皇居脱出”を演じた悲劇のひとである」・・・

 時代は藤原道長の父兼家が右大臣だった時。愛する女御に先立たれて世をはかなんでいた帝は、兼家にだまされてひそかに内裏を抜け出し、出家します。

 それは、兼家が子息の道兼(道長の兄)をつかって、仏門に入り、女御の菩提を弔うようそそのかしたもので、帝がだまされたことに気づいたときには既に遅し。皇位は、兼家の娘(道長の姉)が産んだ一条天皇に譲られていました。自動的に院は帝位をすべり墜ち、法皇の身分になっていたのです。

 と、ここまでは知っていました。こういうことがあったから、道長の時代があったのです。一条天皇こそ道長の娘の彰子が嫁ぎ、紫式部が仕えることになる天皇です。ひどい話ですが、『源氏物語』を生み出した貢献からか、また、道長自身にそういうあくどさが片鱗もないことから、花山院という犠牲者については、今まであまり深く踏み込んで書いた文章に接することなくきていました。それで、私としてはただ漠然と、なんとなくしっくりこないものを、胸の奥にしまい込んで。

 それが、この神野氏の熊野御幸の記述ではっきりしました。やはり、しっくりこなくて当然だったのです。だまされて出家したとき、院は十九歳。この若さにも驚きました。十九歳となったら、それはもう悲劇的過ぎます。道長の世を謳歌する権力の下には、こうした犠牲があったのです。例え、道長自身が直接かかわるものでなくても・・・。

 今まで読んだ本の中では、だまされたと知って落胆する帝の話のあと、流れは道長の出世への道程となります。花山院は若い身空で出家して、失意のどん底のまま、忽然として歴史の表舞台から消えます。

 人一人の生涯が、こうして抹殺されていくのです。釈然としない思いはここにありました。それがはからずも、神野氏の著述によって、院のその後がわかりました。仏門以外に進む道のなくなった院は、播磨国書写山に赴いたり、比叡山にのぼったりします。が、それでも傷ついた帝の心は癒されず、熊野の道に分け入ったのでした。それは「御幸というにはあまりにもわびしい旅であった」そうです。

 詳細は『大鏡』にあるようですが、「海人の塩焼く煙の立ち昇るのを見て、今、もし自分がこの地で果てて火葬されても、その煙は漁夫の焚く火で、誰も天皇だった自分の煙とは思うまい」というような歌さえ詠まれるほど。

 その後も、「近露皇子」の名の由来となるエピソードがあり、「近露の村郷を見おろす箸折峠に、現在も花山院が法華経と法衣を埋納したと伝える宝きょう印塔がある」そうです。「塔はすでに相輪を失い、四仏梵字も摩滅し、木立ちの静寂のなかにひっそりうずくまっている」そうです。

 それにしても、十九歳で人生のすべてを失うような経験・・・。ご著書を拝読して、この孤独な天皇が一挙に私には身近な人に、生きて、呼吸する、生身の人に感じられています。

 まさに、「熊野への道は、さまざまな時代さまざまな人びとが、それぞれの思いを抱いて辿った道」なのでした。

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

|

« 2008.3.19 神坂次郎氏『藤原定家の熊野御幸』を読む 1 | Main | 2008.3.21 源氏物語千年紀情報・・・中国の新聞でも紹介。「一つの奇跡」と! »