2008.3.16 「角屋」発見別本源氏物語と京都島原東鴻臚館の関係について・・・
奈良・平安時代に福岡、難波、京都にそれぞれあった鴻臚館のうち、朝、福岡の鴻臚館の写真をHPに載せました。そうして京都の鴻臚館が『源氏物語』中の「桐壷」巻に登場することを前回記しました。
その後、その所在地をネットで検索していたら、なんと、それは島原の遊郭の地になっていて、先日ニュースになった「別本源氏物語」発見の角屋さんと隣のような関係。あまりの偶然に、遠く東国に住んで土地勘のない私はびっくり。どうして・・・と、違和感に捉われました。
そして、そのことがずっと心から離れないでいるうちに、なんとなく必然の流れが読めてきたので、ここにまとめておきます。もしかしたら多分、京都の地元の方たちには当然の、自明の理なのかもしれません。でも、それならそれで、誰かが書いてくださってもいいものを、発見のニュース当日の記事にはそれらしいことには何も触れられていませんでした。そして、その後も・・・
私の推測はこうです。
平安時代に設置された京都鴻臚館は、『源氏物語』にも登場するような、外国からの客人をもてなす迎賓館として機能していた。→そこには光源氏の相を占ったような高麗人もいた。→時代が変わって鎌倉時代になると、鴻臚館は廃止。→その後、幾多の変遷のあと、やはり客人をもてなすという立地条件からか従来の環境からか、自然な経緯で遊郭に。→京都で唯一太夫を置いたほどの角屋には、高貴な客人もいて、その方から太夫か誰か角屋の人が「別本源氏物語」を下賜された・・・・
というような流れが私には浮かびました。ほんとうに、京都の方には自明の理かもしれませんし、間違っているかもしれませんが、平安時代の光源氏の物語が、同じ地で、「別本源氏物語」として現代の世に現れたことの不思議を、こうして目の当たりにできたなんて、素敵です。
聞けば、角屋さんは壬生のあたりとか。一度だけ、京都駅から嵯峨へ向かうタクシーの車中で、運転手さんに案内していただいたことがありますが、あの場所を、幼い光源氏が従者に伴われて、高麗の相人に会うために通ったのだと考えると、・・・・、凄いですね!!!
壬生は観光地的には新撰組で知られていますが、どうして「幼い光源氏も訪れた場所」というような触れ込みを、私のような遠い地に住む源氏ファンにわかるようにアピールして下さらないのでしょう??? 鴻臚館は西と東にあったようですから、どちらかの区別がつかないとか、いろいろ事情があるのかもしれませんね。追い追い、調べてみます。
織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/