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2008.3.11 京都で別本系源氏物語写本発見のニュース!!

 昨夜のニフティのTOPページのニュースに次のような記事がありましたので、ご紹介させていただきます。

源氏物語写本は鎌倉末期=第6巻「末摘花」の別本-重文「角屋」で保存・京都
3月10日18時1分配信 時事通信

 国の重要文化財「角屋」(京都市下京区)に保存されている源氏物語の写本が、鎌倉時代末期に書かれたことが10日、大阪大学大学院文学研究科の加藤洋介准教授(平安文学)らの鑑定で分かった。
 一般に読まれる源氏物語の基となっている写本は、歌人藤原定家(1162~1241)による「定家本」。それ以外の現存は非常に少なく、加藤准教授は「鎌倉時代に定家本以外の系統が普及していたことを裏付ける資料になる」としている。
 今回、鎌倉末期と判明した写本は、源氏物語54巻のうちの第6巻「末摘花」の別本。鎌倉期の末摘花の別本で現存するのは、重文指定の旧摂関家の陽明文庫本(同市右京区)と京都御所(同市上京区)の東山御文庫本の2冊だけだ。

 私もほんとうに最近になって知って驚いたことですが、ひと口に『源氏物語』といっても、作者の紫式部自筆による原本は残っていないんですね。

 なのに、私たちが今読むことができるのは、昔の人が累々と書き残してくれた写本があるから。それが、「源氏物語写本」なんです。昔は印刷技術なんてありませんでしたから、本は書写することによって広まりました。木版印刷ができるようになったのは、ようやく江戸時代になってから。なので、鎌倉時代も、室町時代も、戦国時代も、みんな、本は必死になって書き継がれたもので読んでいたんです。

 源氏物語写本には、書写された経緯から、三通りの本文があります。ニュースの「別本」はそのことを言っているんです。

 『源氏物語』の本文に3通りあることに気づいて分類されたのは池田亀鑑氏でした。昭和20年代のことでした。その3通りとは、

 1. 藤原定家の校訂による「青表紙本源氏物語」
 2. 源光行・親行親子の校訂による「河内本源氏物語」
 3. 二つのどちらにも属さない「別本系源氏物語」

です。命名の由来は、「青表紙本源氏物語」は、表紙が青かったことから。「河内本源氏物語」は、光行・親行親子が二人とも河内守だったことからといいます。昨夜のニュースでは、3の別本系源氏物語中の「末摘花」だったというわけです。
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/museum/exhibit/book/03.html

 私がこれから刊行しようとしている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、鎌倉時代成立の写本の歴史を追う内容です。タイトルの「人々」は、藤原定家と源光行・親行親子のことです。この方々が、どうして膨大な量の源氏物語の校訂作業をしようなどと思い立ったか・・・・。ただ学問のためだけではない事情がそこにはありました。そこにはとても胸を打つ悲話があるのですが、それは原稿が本になった段階でご紹介させていただきますね。

 現代の私たちが読んでいるのは、「青表紙本」です。「河内本」は鎌倉時代には「青表紙本」より普及していました。それが、「青表紙本」優勢になったのは室町時代後半頃から。定家を歌の神様のように崇める風潮とともに、「青表紙本」ばかりが書写されるようになったからです。江戸時代、本居宣長や賀茂真淵によって源氏物語研究が熱心にされていますが、「河内本」は名前だけが残っていて、実物を見た人はすでにいなくなっていました。

 私たちは、瀬戸内寂聴さんのわかりやすい現代語訳や、もう「古典」といっていいほど格調高い文学になってしまった与謝野晶子さんや谷崎潤一郎氏訳を手にして、容易に源氏物語世界に浸ることができますが、背景には、涙ぐましいばかりのこうした事情がありました。

 それにしても、大の男たちが、源氏物語を書写することに生涯の情熱をかけるなんて、素敵と思いませんか?

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/ 

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