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2008.4.29 関東で数少ない平安仏像のある高幡不動・・・

 高幡不動で行われた峰岸純夫先生のご講演を拝聴してきました。内容については簡単に記せないので、今はテレビ放映の情報を。

 5月14日(水) NHK「その時歴史は動いた」で、「岡倉天心」をするそうです。その中で、天心が造った美術院の関連から、京都の仏像など文化財の修復の現場が放映されるそうです。ちょうど、高幡不動の大日如来像が修復中で、それが見られるとか。貴重な機会ですね。

 高幡不動には不動明王像もおられますが、大日如来像ともども、平安時代の仏像だそうです。関東での平安仏像は珍しいので、修復院でも、「関東にもこういう仏像があったんですか・・・」と驚かれたとのことでした。

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2008.4.28 明日、峰岸純夫先生のご講演があります!!

 明日、峰岸純夫先生のご講演があります。タイトルは、「高幡不動の歴史と板碑」です。

■講演「高幡不動の歴史と板碑」
   日時: 4月29日 14:00
   場所: 高幡不動
   内容: 文永の板碑が高幡不動に移されるのを記念して

 峰岸先生は毎年四月に高幡不動でご講演をされています。毎年、違う演目で、それがいつもサスペンスのような新鮮な謎解きを含むもの。主に檀家さんのような地元の方々が聴衆ですから、ご専門でいられる歴史のお話をわかりやすくお話されても十分なのに、初めて聴くようなお話ばかり。わくわくして楽しいんです。

 一度、「毎回あんなふうに謎解きをされるのは、テーマを探すこと自体大変ではないですか?」とお伺いしたことがあります。お答は、「結構、苦しいです・・・」って。なのに、安易に流れることをされないで、毎年、毎年、ほんとうに新鮮なお話をしてくださいます。

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2008.4.27 源氏物語千年紀情報・・・河添房江先生のトークセッション「世界の中の源氏物語―国風文化を問い直す―」

 『光源氏が愛した王朝ブランド品』の著者でいられる河添房江先生のトークセッション、「世界の中の源氏物語―国風文化を問い直す―」があるそうです。

 ■日時: 6月28日(土) 19:00~
 ■場所: ジュンク堂書店池袋本店 4階カフェにて
 ■定員: 40名 (電話または来店1階サービスカウンターにて先着順受付)
 ■入場料: 1000円(ドリンク付)
 ■問合せ: 池袋本店 03-5956-6111

 平安時代は国風文化、『源氏物語』はその象徴・・・と高校時代に教えられたまま、ずっと疑いもなく思ってきましたが、河添先生の『光源氏が愛した王朝ブランド品』を拝読すると、貴族は舶来品を好んで蒐集しています。秘色青磁に代表される陶磁器だけでなく、それは日常生活の全般に及んでいることがよくわかります。遣唐使が廃止されて、純粋に日本文化だけで成り立っている平安文化・・・という誤解をしっかり認識させられました。

 不思議だったのは、国文学者のはずの河添先生にどうしてこういう視点が? ということでした。ご著書を拝読していると、発掘調査に携わっていたときに馴れ親しんで読んでいた歴史学関係のご本を読んでいるような感覚になるのです。

 それは、先生の生い立ちの記事を読んで納得しました。先生は最初は歴史学者になられたかったとのこと。国文学を当初から目指していられたわけではなかったのです。

 これって、凄く素敵なことと思います。多角的な視野が、それまで閉塞的だったとか、突破口なく固まっていた、というような世界の視野を広げるってこと、よくありますよね。

 山中裕先生も、私は国文学者でいられるとばかり思っていました。が、山中先生も歴史学の方だったのです。歴史学の視点で国文学の世界を読み解いてこられたから、『歴史物語成立序説』や、『平安時代の年中行事』のようなお仕事ができたのですね。

 領域を飛び越えた不思議なお仕事・・・と思うときには、たいてい、その方がご専門外でいられます。

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2008.4.24 七月に源氏物語写本の歴史についての講座を考えています!

230  七月の初めに八王子で源氏物語写本の歴史についての講座を考えています。

 タイトルは、「写真で見る 源氏物語写本の歴史」。副題は、「鎌倉で二大写本のひとつの『河内本源氏物語』ができるまで」。

 私の原点はカメラマンです。好きで鎌倉を撮って歩いて、鎌倉に一級の源氏物語文化があるというこのテーマに突き当たりました。

 京都で生まれた『源氏物語』。なのでどうしても『源氏物語』は京都のもの・・・みたいに、東国育ちの私なんか、ちょっとひがんでいました。

 でも、鎌倉にもれっきとした『源氏物語』文化があったのです!! それは、二大写本の一方の雄である『河内本源氏物語』。もう一方の雄は、藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』です。こちらは京都で成立しました。

 『河内本源氏物語』自体は残っていませんが、その写本のうちの最も由緒正しいとされるのが、北条実時書写の、『尾州家河内本源氏物語』です。こちらは現在、名古屋市の蓬左文庫の所蔵で、重要文化財です。鎌倉が滅亡したために流出したのでした。

 北条実時は金沢文庫の創設者。冒頭に載せた写真は、その金沢文庫のある称名寺境内です。実時の邸宅があった場所から、苑池を見おろして撮ったものです。実時が見ただろう光景として・・・

 『源氏物語』の二大写本の一つである『河内本源氏物語』は、校訂者源光行が鎌倉に下向したために、鎌倉で成立しました。金沢文庫はその終着点です。

 京都→鎌倉→金沢文庫という流れを、今まで撮り溜めた写真をご紹介しながら、説明させていただく講座にしたいと考えています。詳細はこれから練ります。とりあえず、写真をピックアップして、パワーポイント処理しなくては!! 忙しくなりそうです。

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2008.4.24 我が家のうさこちゃん

61019tanya717  家にはうさぎがいます。名前はターニャ。女の子です。この写真は一去年の10月19日撮影。家に来た日のものです。生後一か月、手のひらにすっぽり収まる小ささでした。

 うさぎの一歳は、人間の二十歳だそうですから、今はもうれっきとした女性? 成長してすっかり大きくなりました。ピーター・ラビットそっくりです。ネザーランドドワーフという種類です。

 うさぎは人になつかないと言いますが、ターニャは人の言葉がわかるようです。最初はびっくりしました。「ターニャ、おいで」と言ったら、きょとんとこっちを見て、ソファからピョンと飛び降りて、こっちに来たんです。半年位前のことだったかな・・・

 ずっとこの一室で育ってます。雑木林が近い環境ではカラスが多くて、うっかりさらわれたら大変。なので、一度も外に連れて出ていません。ターニャにとってはこの部屋が全世界。ケージから出すと我がもの顔に走り回っています。

 ぴょんぴょんうさぎが跳ねたり、走りまわっている部屋って、なんだか不思議です。あり得ない!!って感じ。最近は主張が一人前で、人間たちは負けっ放し。でも、可愛いいターニャです!!

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2008.4.23 源氏物語千年紀情報・・・国文学研究資料館移転記念特別展「よみがえる時―春日懐紙を中心に―」

 国文学研究資料館がこの春、品川区から立川市に移転しました。それを記念して「よみがえる時―春日懐紙を中心に―」が開催されます。新しい庁舎を見るのも楽しみなので、行ってみたいと思っています。

■「よみがえる時―春日懐紙を中心に―」
    日時: 5月26日(月)~6月20日(金)
    場所: 立川市新庁舎 03-3785-7131

 春日懐紙というのは、「奈良春日若宮の神主であった中臣祐定をはじめ、祐定の周辺の歌人たちが用いた懐紙。紙背に万葉集を書写してあるのが特徴」だそうです。

 懐紙って、後鳥羽院の熊野御幸の際の熊野懐紙や、称名寺の連歌懐紙など、背景に奥深い歴史があって興味深いですね。

 称名寺の連歌懐紙は、たしか、鎌倉幕府が滅亡して、当然檀越だった貞顕らもいなくなったあとほどない時期に書かれたものと記憶しています。そんな時期に連歌を?と疑問をもちましたが、おそらく追悼の意を込めた会だったのだろうと読んだ記憶があります。たった一枚の懐紙ですが、それを知ってから見ると、ぐっと胸迫るものがあって、辛くなりました。それにしても、優雅な追悼・・・とも思います。

 品川区にあった古い国文学研究資料館は、こどものころの私が毎日遊んで過ごした戸越公園と道をはさんで真隣です。そのころの公園には孔雀がいて楽しかった思い出は以前、このブログでご紹介しました。

 孔雀とともに思い出深いのが、この資料館の場所で、当時、そこは淀んだ池に鬱蒼と生い茂った木立ちの枝が垂れ、ほの暗い庭。その奥に壊れそうな廃屋があって、とても不気味でした。敷地は隙間のあるコンクリートの塀にぐるりと囲まれていましたから、私はよく、怖いもの見たさに、その隙間から覗き込んで見ていたものです。

 この資料館の場所も、戸越公園も、江戸時代は細川家、そして明治時代に三井家の所有となったものです。池のある庭園をもつ廃屋は三井家のものだったのでしょうか。しょっちゅう見ていても、そのおどろおどろしさに見飽きなくて、そんな覗き込んでいる幼い私の姿が自分で見えるようですから、よほど興味があったのでしょうね。『秘密の花園』というこども向けの小説が好きで、それが私の「庭好き」の原点と思っていますが、結構、その先にこの三井家の光景があるのかも。

 私のなかではずっと廃屋だったのが、いつのころからか国文学研究資料館になり、それを知ったとき、まず思ったのは、「あ、あの池がある敷地の中に入れるかも・・・」でした。それで、図書室を利用しがてら行ってみたら、淀んだ池や鬱蒼とした木立は綺麗に整備されていたものの、配置や光景は当時のまま。建物も、奥の蔵もそのままで、こどものころには禁断のお邸を、内側から見ていることが不思議でした。そんな事情で、資料館の関係者でもないのに、なんだか自分のもののような親近感を勝手に覚えていたのですが・・・

 移転した立川市は三鷹市とは近くです。図書室を利用させていただくには便利になりました。でも、もう、あの三井家の廃屋の敷地に入ることができなくなったと思うと、寂しいですね。

戸越公園http://www.eurus.dti.ne.jp/~toshibo/togoshikouen01.htm

 国文学研究資料館では、10月には源氏物語一千年記念特別展「このわたりに若紫やさぶらふ-源氏物語画帖と古写本の世界-」が開催されるそうです。

■「このわたりに若紫やさぶらふ-源氏物語画帖と古写本の世界-」
    日時: 10月4日~10月31日
    概要: 重要文化財等の絵画、古写本など多数展示。期間中ギャラリートーク数回あり

国文学研究資料館http://www.nijl.ac.jp/
「よみがえる時―春日懐紙を中心に―」http://www.nijl.ac.jp/~koen/tenji08.htm
「春日懐紙」http://www.nijl.ac.jp/~koen/20041kasuga.htm

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2008.4.22 源氏物語千年紀情報・・・京都国立博物館特集陳列「平安時代の考古遺物―源氏物語の時代―」・彰子の経箱が出展されています!

 京都国立博物館で、特集陳列「平安時代の考古遺物-源氏物語の時代-」として、特別に展示されているそうです。企画展ではないので、平常展示館です。企画展はチェックしていましたが、平常館での特別展示とは・・・、見逃していました。

 会期: 4月2日(水)~6月29日(日)
 場所: 京都国立博物館 平常展示館2室

        京都市東山区茶屋町町527 TEL075-525-2473

 主な展示に、道長の経筒といっしょに、彰子の経箱があります。道長の経筒は割と頻繁に拝することができますが、彰子の経箱の出展は珍しいのではないでしょうか。「金銀渡宝相華文経箱」といって、国宝です。とても繊細で優雅。彰子の人柄がしのばれて、拝して素敵だなと感動します。

 この経箱は、比叡山横川に埋められていたもの。他の納入物もありましたが、発掘されて地上にでてまもなく落雷にあって焼失。経箱だけは展覧会か何かで他所に行っていたので助かったという経緯があります。落雷にあっていたら・・・と思うと感無量ですね。なにか、天の配慮といった気さえします。
http://www.gaido.jp/machikado/machikado.php?ID=3756

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2008.4.20 今年も「あしなが学生募金」がはじまりました。

092_2  用があって渋谷に出ました。駅で、大きな声を張り上げている高校生の男の子。そして、並んで三人の女の子。それぞれ募金箱をもって立っています。

 あ、今年も・・・と思って見ると、やはり胸に、緑の文字で「あしなが基金(もう少し詳しく、ですが・・・)」と書かれた白いたすきが。そうです。今年も学生たちによる「あしなが学生募金」の街頭募金がはじまったのです。

 この募金は、病気や災害で父親を失い、母子家庭となった少年・少女の、進学の夢を助けるためのもの。募金していただいたパンフレットによると、「1970年に交通遺児の高校進学支援募金を秋田大学生が提唱」とあります。最初は交通遺児のためのものでしたが、今は災害遺児、病気遺児、それから自死遺児にも支援の輪が広がりました。

 「あしなが」は、小説「あしながおじさん」によるもの。うろ覚えですが、身よりのない少女が「あしながおじさん」が助けられて成長していくというもの。小学生のとき、夢中になって読みました。それにあやかっての命名の募金。なんて夢があるんだろうと、この募金のはじまった当初から、私は個人的に関心をもってきました。それで、街頭募金の期間中、箱をもって立っている学生さんたちを見ると、できるかぎり寄っていって箱に幾らかずつ入れさせていただいています。一回に大きくお札で・・・よりも、どの学生さんのグループにも入れられるようにと、500円硬貨で・・・。だって、金額はともかく、誰も入れてくれなかったというより、一人でも多くの人が入れてくれた・・・という感触の方が、学生さんたちには励みになるでしょ!

 私は中学二年のときに父を亡くしました。私立の女学校だったから、お葬式が済んで登校したとき、同級生たちがそれぞれ労わってくれた中で、「もう学校を辞めるんだと思ったわ。私んちなんかサラリーマンだから、父が死んだら実践なんて行かせられないって、母が言ってたもの」という言葉があり、妙に心に残っています。

 幸い、私の家はサラリーマンではなく、父はフリーのカメラマンで、定収入確保のための写真店を営んでいましたから、そのお店を母が継いで、生活はそれまでどおりやっていけたし、学校も辞めなくて済みました。

 でも、それなりに苦労もしました。まず、国文科に進みたかったのに、母を手伝うために写真の大学へ進まなくてはならなかったこと。中学・高校と文学関係の部活ばかりしていたので、当然誰もが間違いなく国文科進学と思ってくださっていた状況にもかかわらずです。とても惜しまれましたし、説得もされました。担任以外の先生も動いてくださって母に当たってくださったり・・・。でも、最後は私の決断で写真大学に進み、今に至っています。

 そして、今、こうして書いている中で知り合って見ていただいている先生方からは、「もし貴女がそのまま国文に進んでいたら、今頃は学者になれていたのに・・・」と言っていただいています。たぶん、そうでしょうね。なのに、進路が違ったばかりに、今書いている国文の内容の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』も学説として発表できず、自費出版するしかないのです。

 そうなんです。今だから書けるものを書いていて、遠回りが決して無駄ではないことを承知で言いますが、若いときの進学如何は、その人の人生を左右するのです。決して悩んだり苦しんだりしているわけでありませんが、迂回は確実に「大変」です。一度軌道をはずれたら、もとに戻すのに相当のエネルギーがいるのです。できるなら、一人でも多くの若い方に、私のような苦労、遠回りをしないで済むようにしてさしあげたい!と切に思います。

 今の私の立場では、街頭募金に寄付するしかできませんが、夢は「織田百合子」の名前で、それが募金に役立つ一環になること。時々、今からでも事務局のお手伝いをしたいと考えないこともないのですが、それをしていると原稿に支障をきたします。私の役割は、原稿を仕上げて、本にして、それが社会のなかで立場を作って、そのことで「織田百合子」が若い方のためになることができるようになること。

 長い長い原稿を書いていて、苦しいときもありますが、最終目的の半分の位置を占めるこのことのためにも止められないと思うのです。最終目的のもう半分は? それはもちろん、書いた作品に命を吹き込むことです。

■あしながおじさん資料請求
メール:soumu@ashinaga.org
TEL:03-3221-0888
FAX:03-3221-7676

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2008.4.19 地震がありそうな夜空

A075 A049  空を見ていて地殻の活動がわかるといったら不思議に思われるでしょうけれど、実際、空の状況や雲のようすで、地震の発生を予測することができるんです。

 地震は、地殻の活動である岩盤の破壊などによって起きますよね。そのときに電磁波が発生し、それが地表に洩れ出て空へ昇り、上空で雲となって顕れます。だから、地震前兆の雲は電気を帯びているので、一目瞭然、ぎらぎらしている場合が多いですね。

 地下の岩盤の破壊時には、電磁波だけでなく光も発生しますから、夜、特に顕著な発光が見られる日は、翌日地震に注意です。そんなときは、いつもより夜空が明るいのでわかります。今夜はそれが顕著で、夕刻頃から空ばかり見ています。

 写真を二枚、ご紹介しますね。上の一枚は当地三鷹市から見た南西の空。23:12撮影です。ここでは南東から雲が発生していて、その雲のエッジがレリーフ状に縁取られて見えます。これは発光を受けての現象です。ふつうの雨雲にこの現象はありません。

 下の一枚は、西です。19日22:59撮影で、この方向に前兆が現われると、よく愛知や岐阜で地震があります。今夜はこんな時間なのに、ご覧のように雲が白く、間近の発震が予測できました。気象庁の地震情報で「4月20日01時00分頃 愛知県西部 M4.2 」が確認されています。

 地震予知は、注意していれば、「いつもと違う」という感覚である程度予測可能です。井戸水が下がった・・・、動物がおかしい・・・、カラスが異常・・・、空が不気味・・・等など。最近では、電波時計が不受信、あるいは異常な数値を示すなどの現象が地震の前兆になることもわかっています。電波時計が25:○○なんていう有り得ない表示をしたと思ったら、地震があったらもとに戻ったなど。これらはみんな日常のなかのほんの些細なことで、誰でも注意していればわかることです。

 中国では、かつて、周恩来さんが、民間にこれら前兆を覚えさせて、わらべ歌のようなもので身につけさせて、そういう異常があったら届け出る機関を造ったことがあるそうです。大きな地震の前にはそういう情報が集中します。あるとき、異常な集中があったので、その村の人を全員非難させたら、やはりその村に被害級の地震があって、みんな助かったという事実があるそうです。周恩来さんでない体制になって、その配慮がなくなったとか・・・。施政者の方の姿勢次第でこんなことができるんです。地震予知なんて眉唾と思わずに、科学的に根拠あることとして、みんなで感覚を生かしあう世のなかになったらいいですね。

 昨日18日、関東は異常な気象に見舞われました。まるで台風並みの異常さ。突風で千葉ではクレーン車が倒れた被害もありました。我家でも巨大に育った木工薔薇の木が倒れてたりして大変でした。雷も発生したようで、気象庁の雷状況を見ると、房総沖と東海沖に集中して落雷がありました。雷もその地域に電気が溜まっているための発生ですので、しばしば地震前兆になります。集中豪雨もそうです。その意味で、昨日の異常気象はとてもいやな感じです。空は見ていて美しいし、壮大で、撮っていて感動してやまないのですが・・・

http://ginrei.air-nifty.com/ginrei/(こちらのブログでは主に地震雲の写真を載せています。)
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2008.4.18 永井路子氏『平家物語の女性たち』を読んで・・・日野法界寺と平重衡のこと

237  フランスのヌーボー・ロマン系統で小説作法を学んだために、歴史小説には今まであまり接してきていません。それを、何故、今頃になって集中して永井先生の作品を読ませていただいているかといえば、今書いている『源氏物語』写本の世界をいずれ小説化したいとの思いがあるからです。

 『平家物語の女性たち』は小説ではありませんが、『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』で書いている源光行が、青春時代に接した、あるいは近くで垣間見した女性たちだから・・・。光行は平家文化圏で育った人物です。

 このご本では、登場人物が分類されていて、「恋人たち」「妃たち」「人妻たち」「二人のヒロイン」となっています。

 「恋人たち」では、祇王や小督局、千手前など。
 「妃たち」では、祇園女御、二代后。
 「人妻たち」では、小宰相、維盛妻、そして、大納言典侍など。
 「二人のヒロイン」は、建礼門院と二位の尼時子です。

 「二人のヒロイン」を読み終えてからご紹介しようと思ったのですが、昨日読んだ「大納言典侍」のことが終日頭から離れず、ともすると思い出してそのことを考えている状態ですので、書くことにしました。

 大納言典侍は、平重衡の北の方です。私は重衡のフアンで、特に千手前とのエピソードは、『平家物語』でも数少ない東国の女性の登場ですから、格別の思い入れをもっています。

 種明かしをしてしまいますと、「白拍子の風」という小説を書いたとき、第一部の「京の章」では平家文化全盛期に白拍子として絶頂を極めた銀嶺姉さまを主人公にしていますが、実は、この物語はそもそも第二部の「鎌倉の章」を先に書き始めていて、その主人公の人物造型に千手前のエピソードがありました。でも、第一部を書かなくてはならなくなって完成させたら、そのままになって、未だ手つかずでいますが・・・

 話がそれてしまいましたが、南都焼討の重罪を負った重衡は、囚われの身となって鎌倉に護送されます。そこで頼朝の配慮で千手前という女性と一時的な温かな日々を送るのですが、やはり南都の僧侶たちが許さず、斬られるために南都へ送られるのです。残された千手前は悲しみのあまりに出家したとも、早逝したともいわれます。

 大納言典侍は重衡が鎌倉に護送されているあいだ、日野に隠れ住んでいました。そして、奈良へ向かう途中の重衡と再会するのです。

 このあたり、『平家物語』のなかでも一際印象の深いところです。永井先生のこの章でも、心を込めて現代語訳で再会を紹介されています。私もここで引用したいところですが、辛いので遠慮・・・としか。

 そして、この一文に出会いました。「大納言典侍は日野にある法界寺で供養した」と。

 じつは、以前このブログで、「三島由紀夫『中世』と日野法界寺」を書いたとき、この寺院が重衡ゆかりでもあることを知りました。それより以前、『平家物語』を読んだときには、京都の土地勘がなくて法界寺と結びつかず、法界寺を訪ねたときは、目的がまったく違うものにあって気がつきませんでした。ブログにまとめようとしてネットを検索している中で知り、驚いたのでした。

 重衡と北の方大納言典侍との最後になったこの別れの場面は、一度読んだだけでも一生忘れられない重さです。それが、日野の法界寺だったなんて・・・

 大納言典侍はその後生き延びて、同じく生き延びる運命を授かった建礼門院徳子に仕えて生涯を過ごします。

織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/(【古典と風景】に日野法界寺と、重衡が千手前と過ごした鎌倉の地の大蔵幕府跡の写真があります。)

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2008.4.17 源氏物語千年紀の由来・・・『紫式部日記』から

 もうすでに周知のこととして進めてきてしまいましたが、今年2008年が、何故、源氏物語の千年紀なのか・・・、その根拠となっている『紫式部日記』の一節を書きとめておきたいと思います。

 『紫式部日記』は何度読んでもいいですね。文章に緊張があってこちらまで身が引き締まります。文学としていいもの、内容が素晴らしいもの、作品として優れたもの・・・と、散文文学で魅力ある作品はいろいろありますが、文章で緊張させられるものは紫式部だけです。それと、強いていうなら、宗教の方ですが、空海・・・。このお二人には、本を開いて、文字が目に入ってくるだけで、すっと背筋を正される思いがします。

 では、少し長いですけれど、引用させていtだきます。

 入らせ給うべきことも近うなりぬれど、人々はうちつづきつつ心のどかならぬに、御前には、御冊子作り営ませ給うとて、明けたてば、まず向いさぶらいて、色々の紙選りととのえて、物語の本ども添えつつ、所々に文書き配る。かつは綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす。「何の心地か、冷たきにかかる技(わざ)はせさせ給う」と聞こえ給うものから、よき薄様ども筆墨など持て参り給いつつ、御硯をさえ持て参り給えれば、とらせ給えるを、惜しみののしりて、「もののくまにて向いさぶらいて、かかる技しいず」とさいなむなれど、かくべき墨筆など給わせたり。
 局に、物語の本どもとりにやりて隠し置きたるを、御前にあるほどにやおらおわしまいて、漁らせ給いて、皆、内侍の督の殿に奉り給いてけり。よろしう書き変えたりしは、皆、ひき失いて、心もとなき名をぞとり侍りけんかし。

 というものです。これは、紫式部が仕える一条天皇中宮彰子が出産のために、実家の土御門邸にさがっていたときのもの。無事、皇子を出産されて、まもなく内裏へ還御されるにあたり、手土産にするための『源氏物語』の冊子を作っているという記事です。この彰子の出産が寛弘五年で、1008年にあたることから、2008年が千年後ということになるのです。

 紫式部は総司令官のような役割をしていて、「色々の紙を選んで、書写する分担の本を添えて」、あちこち書写していただく人に宛てて依頼文を書いて送ったりしています。そして、書写されてきたものには、「綴じ集め」たりして・・・。いわば、「チーム彰子」の一大プロジェクトのような冊子作りです。大変といいながら、活気があって楽しそうです。

 ここで面白いのは、やはり料紙好きの私にとっては、「色々の紙選りととのえて」と「薄様ども」とある、紙のこと。国宝「和漢朗詠集」のようなああいう色のとりどりの紙が集まっているのだろうなあ、と想像が膨らみます。

 さらに大変なのが、『源氏物語』自体の本文の問題がここにはあるんです。

 紫式部が自分の局にしまっておいた『源氏物語』の本を、式部が彰子のもとにいる隙に、道長が忍び込んで、「漁らせ給いて」、持って行ってしまったというのです。そして、それを、彰子の妹で三条天皇中宮の妍子にさしあげてしまった・・・

 現在、紫式部自筆の『源氏物語』原本は残っていません。今、私たちが読めるのは、藤原定家や源光行らの手になる写本が伝わっているからです。そして、写本にはそれぞれの校訂者の意図が入っていたり、書写の際のミスがあったりして、どれが紫式部の原文に一番近いのだろうということが、国文学の世界では重要な問題です。

 が、『紫式部日記』のこの記述には、その原本が一つでないことが記されているから大変。まず、紫式部が方々へ書写依頼をするために配った本があります。これは書写されて、彰子のもとでまとめられます。そして、もう一つ、紫式部がまだ校正の終わっていずに局に隠しておいた本。それを道長が勝手に持ち出して妍子に渡してしまったのです。おそらく妍子もまた、彰子のようなプロジェクトを采配して冊子作りをするでしょう。

 少なくとも、この時点で、紫式部の原文には二通りあることになります。紫式部の唯一絶対の原文などない、といっていいかもしれない状況です。

 それにしても、道長もうきうきと『源氏物語』の冊子作りには関心をもって動いているようすが窺われて面白いですね。

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2008.4.16 慶滋保胤「池亭記」を読む・・・紫式部が生きた時代の京都

 聴講させていただいているゼミで、慶滋保胤(よししげのやすたね)の「池亭記」を読みました。これは、982年に書かれたもので、紫式部の生年が970年代といわれていますから、ほぼ紫式部が生きた時代の京都が描かれているわけです。

 これによると、「西の京」は「沼や池ばかりで荒れ果てて廃墟のよう」とあります。よく、平安京の図を見ますが、そこでは「西の京」も「東の京」も朱雀大路をはさんで左右対称に、理路整然と碁盤の目状に整った都に描かれています。が、実際は「池亭記」のような状況だったようです。

 たった一枚、ただの一つの図や模型では、すでに失せてしまった建物も、これからのものも、あらゆる年代のものがいっしょくたに存在していて、さもそれが平安京の光景と思われてしまいますが、そうではなかったんですね。例えば、羅城門は980年に倒壊し、以後再建されなかったという事実・・・そういうことをしっかり見極めて見なければと思います。

 「池亭記」の冒頭を少し紹介させていただきます。私なりに現代表記にあらためます。

 我、二十余年よりこの方、東西の二京をあまねく見るに、西の京は人家ようやく稀らにして、ほとほとに幽墟に近し。人は去ることありて来(きた)ることなく、家は壊(やぶ)るることありて造ることなし。その移■(いし・移動すること)するに処(ところ)なく、賎貧にはばかることなき人はこれに居り。或いは幽隠亡命を楽しび、まさに山に入り田に帰るべき者は去らず。みずから財貨を蓄え、奔営に心あるがごとき者は、一日といえども住むこと得ず。

 という状況。これが紫式部の時代の平安京の一画の実態でした。この記述の続きに源高明の邸宅の描写があって、立派なものだったが、左遷されて主なきあと廃屋になって、二度とかつての栄華はもどらなかった・・・と続きます。源高明は須磨に流された光源氏のモデルの一人といわれています。

 貴族の邸宅や立派な寺院が建ち並んだ「東の京」はまたべつの光景でしょうけれど、それにしても、『源氏物語』の末摘花や、桐壷更衣亡きあとの実家の家のように、主がさびれてしまうとすぐ荒れ果てた邸宅となってしまう時代。草や木の鬱蒼と茂るのと表裏一体となって平安京はあったんですね。

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2008.4.15 源氏物語千年紀情報・・・「中古文学会」春季大会公開講演

「中古文学会」春季大会のなかの一般の方も来聴歓迎の講演会です。
今年は源氏物語千年紀記念の企画のようです。聞き逃がせないですね。

【『源氏物語』の時空 ―建築史・美術史の視点から―】
日時:2008年5月10日(土) 13:00~17:00(開場12:00)
場所:龍谷大学深草学舎 顕真館
中古文学会 http://www.ryukoku.ac.jp/web/information08/080510.html
(満席となった場合は、別会場でネット中継があります。)
*一般来聴歓迎・事前申込不要・無料

講演内容
●『源氏物語』と『源氏物語絵巻』の空間表現
川本重雄氏(京都女子大学教授)
●国宝源氏物語絵巻とその復元模写をめぐって
四辻秀紀氏(徳川美術館副館長)
●講演後、高橋亨氏(名古屋大学教授)の司会でディスカッションがあります。

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2008.4.14 永井路子氏『炎環』を読んで・・・

067  思うことあって、永井路子先生の『炎環』を読んでいました。それは、今までドラマや映画で飛鳥井雅経が登場するのを見たことがないと思っていたのに、ずっと以前の大河ドラマ「草燃ゆる」のキャスティングを見たら、名前があったのです。しかも、藤原定家まで。

 残念なことに、私はそれを見ていなかったので、どういう登場の仕方かしらと知りたくて、ネットで検索したら、原作が永井路子先生の『炎環』『北条政子』『つわものの賦』を三つを合わせたものとありました。それで、図書館へ行って借りてきたのでした。

 私の小説修行はフランス文学の系統で学びましたので、歴史小説をほとんど読んでいません。永井路子先生のは、ときどき、エッセイとかで主に歴史のなかの女性を紹介されるものに接しただけ。でも、勘仲記を読む会とかに参加して、実朝暗殺の真実が、従来歴史でいわれているようなものでなく、小説の永井説が正しいだろうといわれ、今ではすっかりそれが定着していると聞いたりして、いずれは読まなくてはと思っていました。

 やはり、迫真でした。今まで思っていた歴史小説とはまったく違うものを見た気がしています。年代順に事実を人の心理に即して追って書く。それも、五年とかそれ以上とかの長い年月をスパッ、スパッと、書いていく。そうすると、長年の心理の積もり積もったものが、ある時代に瞬間となって吹きだして事件となる・・・。とても説得力ありました。学ぶこと、とても大でした。

 それには、やはり、人間が書けているからですね。私も頑張らなくてはと思いました。

 白い山吹が、昨日ご紹介した黄色い山吹と隣合わせで咲いています。清楚で、同じ山吹でも黄色いのとはまた別。綺麗な一枚が撮れたので、『炎環』に感謝しつつ載せます。

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2008.4.13 山吹の花が満開です。そして、山吹といえば玉鬘・・・

016 003  山吹の花を植えたくて緑化センターを探したことがありました。でも、季節が違ったのかなくてあきらめていたところ、別のホームセンターでもう売れないとばかりに奥の方に投げだされていた小さな鉢植えがあり、購入しました。

 これも、木蓮のとき同様、50センチばかりの丈で、水遣りも放棄されていたからひからびていて、育つかなあと思いつつ植えたものです。そのときは「八重山吹」とあり、私としては一重が欲しかったのですが・・・

 それが、ご覧のとおりの華やかさ。しかも、八重でなく、一重。楽しみに見守っていたのですが、年毎に増えてみるみる藪状態。種が落ちてどんどん株が増えるんです。ここまで成長するのにそんなに年数はかかりませんでした。リビングの正面に見えるような位置に植えたので、毎年春になると窓の外が黄金色に輝き豪勢です。

 山吹は古い花のイメージがあるのでしょうか。ガーデニングのブームにあまりとりあげられない気がします。でも、私の庭感覚は基本的に源氏物語の「野分」なので、荒れた感じが好きなんです。庭作りとしては邪道なのを充分承知で。だから、なんでも、茂ったり、枝垂れたりするような風情ある木ばかり植えてしまいます。

 mixi仲間に本物の庭師さんがいらして、その方がアップされる庭の木や花はそれは見事。取り合わせから植物の種類から、なにもかも当然として、私が一番感動するのはその植物の生気漲る葉の色。こってりと緑が深くて内部から輝いているんです。同じエビネを育てても、葉の色の深みが徹底的に違う・・・。私のエビネが可哀想になってぼやいたら、葉の下にワラを敷くといいですよって教えていただきました。じかに土がつかないように。

 仕方ないですよね。手入れが違うんですから。私はほんとうは庭仕事って好きなんですが、原稿に集中すると気持が向かなくなって放りっ放しにする日が重なる。自然、庭は荒れ放題の「野分」状態。でも、もともとそれが好きだから、「風情あるなあ」なんて、勝手に悦にいっています。なのに、季節がめぐると、お花たちはきちんきちんと咲いてくれて、楽しませてくれてます。

 源氏物語のなかで実際の植物としての山吹の記憶はないけれど、山吹色といえば玉鬘。光源氏が新春の晴着を容易するのに、それぞれの女性の個性にあった色の装束を択びます。それぞれ納得のいく選択のなかで、玉鬘は山吹の色の装束。若さが輝くばかりに匂いでているのがよくわかります。
http://www.sachio-yoshioka.com/2002jp/0109/p7.html

 でも、こんなことを恋人にされたら辛いでしょうね。実際、紫の上は、光源氏が明石の君のために択んだ高貴な紫と白い色に屈辱を感じます。現代の感覚からしても、この取り合わせには目をみはりますよね。ここのところ、読むたびに、作家としての紫式部の凄さを思います。

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2008.4.12 HP【2008年春 桜】に桜の写真をまとめました!

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 ほとんどこのブログに載せたとおりですが、一括してまとめました。素敵な春の思い出です。

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2008.4.11 大好きな木蓮が咲きました!!

024_2 005_3 019_2   紅い木蓮です。もうずっと昔、地元の農協のバザーで、針金のように細くて50センチほどしかない丈の鉢植えで買った木。

 鉢植えの間、ずっと成長しないでそのままでした。たぶん、10年以上。それが、たまたま、ふっと、地植えしたらみるみる伸びて、今はこんなに。嬉しかったですね!!

 母の田舎では、大きな白い木蓮が村の入口に立っていて、遠くからでも目印になったとか・・・

 我家の紅い木蓮は、それに比べたらまだまだ細い若木だけれど、鉢植えのときを思い起こすと嘘のよう。

 木って、凄いですね!!!!

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2008.4.10 井の頭公園の桜の写真・・・水際

078 173 212 214 219 268 294  井の頭公園の桜の写真もこれで最後です。これもオシドリを撮った日のものです。ほんとうに、振り返ってみれば最高の日でした。その後は曇ったり、晴れたら花が散り終わっていたり・・・

 水面(みなも)・水際(みぎわ)・・・水辺の光景はほんとうに素敵です。花も単体だとただの「桜」ですが、水辺にあると「光景」になり、自然の景物のひとつとして宇宙化します。写真は、「物」を撮るのではないのですね。

 今まであまり身近過ぎて井の頭公園の桜を撮るのを避けてきました。でも、ブログに毎日更新と決意表明したおかげで、桜といっしょに「自然の景物」を楽しむことができました。美しい日本の自然に感謝して井の頭公園の桜の連載を終了させていただきます。次は、五月に入ってから孔雀の連載を・・・と思っているのですが、できたらいいですね。頑張って撮りにいきましょう!!

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2008.4.9 井の頭公園の桜の写真・・・見事な花筏

120 127 174 182 195  井の頭公園の桜ももうすっかり散って、残っているガクの赤みで木がほんのり染まっています。

 オシドリを撮ったこの日がおそらく最高の見ごろだったのでしょう。木に花は咲き誇り、風に花びらがひらひらと舞い、散った桜に池の水面が埋め尽くされて・・・

 時間がないこともありますが、たぶん、行ってももうこれ以上のショットは望めないという気持があって、その後撮りに行っていません。この日はほんとうに目も彩な世界でした。今日は花びらで埋め尽くされた水面をまとめておきます。

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2008.4.8 山本淳子氏『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』を読んで・・・

 このご本には深い洞察の奥にとても温かな思いやりが溢れています。

 学門をされる方の中には、往々にして、立場上そうだからさぞ・・・といったふうな読みで、ライバルとか敵対視とかの範疇にはめ込んで決めつけてしまう傾向が見られます。人間だから、たぶん、ライバル的立場にならざるを得ない関係なら、そういう感情が湧かないわけがないかもしれませんが、そうであっても、それを乗り越えて、そうでない思慮でもって生きた人たちもいると思います。

 『枕草子』の清少納言と、『源氏物語』の紫式部。そして、彼女たちの主人である一条天皇后の定子と彰子。これらの人物がライバルでなくて何だというかもしれませんが、このご本を読むと、この方々がそんなちっぽけな感情のもとで人生を生きたことでないことがとてもよくわかります。そう、このご本には、とても強く正しく生きた、美しい人生が描かれているのです。読んでよかった・・・、と心から思えるご本です。

 例えば、紫式部が『紫式部日記』中で、清少納言をとても悪く書いている箇所があることが知られています。それを従来の解釈では、紫式部にとって清少納言はライバルだったから・・・。自分が仕える中宮彰子の敵の中宮定子の後宮の女房だから・・・、とあくまでも「ライバル」の次元でだけ捉え、結論として、紫式部は意地悪な女性だったというように言われてきました。

 それを、山本淳子氏のこのご本ではもっと深い視点でもって見ていられます。

 中宮定子は最高に魅力的な女性で、彼女の後宮では機智に富んだ笑いが絶えなかった・・・。その後に入った彰子は年齢も幼かったし奥ゆかしかったから、後宮のなかでは定子亡きあとも、「あの頃はよかった・・・」とかつてを懐かしむ思いが溢れていた。

 彰子に仕える紫式部は、敏感にそれを察していたから、彰子のために定子の影を払拭しなければならなかったし、清少納言の人気を影らさなければならなかった・・・というのです。

 それは、公家の日記や『栄花物語』など、資料を丁寧に読んでいけば、たしかだということがわかるのです。単純に「意地悪なことを書いているから、作者は意地悪」という論理ではなく、「意地悪なことを書かざるを得なかった環境に作者はいた」という書き方をされているのが、このご本の世界です。

 一本に太い幹は、一条天皇と中宮定子の愛です。

 そういってしまうと、従来の見方では、じゃあ、きっと、彰子の立場はなく書かれているのだろう・・・と思ってしまいます。でも、違うんです。山本氏の見方は。

 彰子は、母親が女官あがり(キャリアウーマン)だった定子と違って、生まれついての「中宮」たるべき育ちの品格高い女性だった。いってみれば、定子は庶民的で、だから、一条天皇もそこに真に家族としての愛をもてた。が、彰子には一目置いても、定子のようには気軽に相手にできなかった。

 でも、彰子は努力するのです。定子は、当時男性の領分だった漢籍の知識を身につけていて、漢籍の好きな一条天皇と、そのことでも意気投合していた。それは、定子の母がキャリアウーマンで、男性のもの、女性のもの、といった隔てなく育てたから。

 が、彰子はゆくゆく入内する女性として、漢籍などもってのほかと、教育されなかった。

 彰子は、自分が定子と同じように、一条天皇に親しく接してもらいたくて、みずからの意思で漢籍の勉強をはじめます。それが、『紫式部日記』にある、紫式部の彰子への『白氏文集』の購読です。この彰子の内心の努力を、ここまで細やかに描きだされた世界。これがこの山本氏の世界です。

 彰子は入内当初、まったく定子のようにはなれそうもないただのお姫様です。でも、自分の努力で、いつかしら、「賢后」とまでいわれる女性に成長したのでした。

 つまり、一条天皇をはさんで「ライバル」であった定子と彰子、その二人の女性のどちらへも、山本氏はふくよかに見守る書き方をされているのです。とても和む世界です。

 紫式部は、定子が中宮だった時代、そして、失脚した時代にはまだ『源氏物語』を書いてはいず、彰子に仕える女房でもありませんでした。一女性として、雲の上の人たちの話として、宮廷の事件に翻弄された悲劇の中宮定子の運命を見ていました。

 「実際、定子と桐壷更衣もは不思議に符合するところがある」と、山本氏は書かれます。中世には一条天皇を桐壷帝のモデルとする説が存在したそうですが、『河海抄』で否定されてなくなったとか。

 が、山本氏は書かれます。「私は、定子と桐壺更衣の符合は看過すべきではないと考えている」と。そうなのです。私も以前からなんとなくそんなことを感じていました。でも、彰子に仕える紫式部にそんなことはありえないと、無意識のうちにその考えを押しやっていました。でも、山本氏の視点は違います。その奥があるのです。

 紫式部は人間として、一人の女性として、同じ女性である定子の悲しみを受け止めた。それが、意識するとしないとにかかわらず、作品に滲みでた・・・

 「重要なのは精神の符合のほうだ。『源氏物語』は文学史上画期的な作品だが、その新しさは第一に精神のリアリティにある。ファンタジーやロマンの世界を脱し、現実の愛や執着、生身の人間性を描いたということだ。桐壷帝のエピソードはその一つである。」

 このご本の深さには、もっと深く書かせていただきたいものがあるのですが、時間がなくてできないので、取り急ぎ、今日読み終わった新鮮なところで書きとめておきます。私が好きな本は、その本によって書かれた人たちが美しく甦る・・・、真のところを理解してもらって有難うと微笑まれるようなご本です。私も、今、『河内本源氏物語』校訂者源光行を書いていて、光行の真の思いを浮かびあがらせられたらと思っています。

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2008.4.7 井の頭公園の花びらの水面にカイツブリも・・・動画風に

043 044 045 046 047  仲のいいオシドリを慕ってついていっているような感じでした。カイツブリなら、見ているあいだに、ふつうならしょっちゅう水にもぐるのに・・・

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2008.4.6 井の頭公園の桜の花びらの絨毯を進む番のオシドリ・・・動画風に

017 018 019 020 026 028 029 034 035 037 040 042 049  通常、オシドリというと思い浮かぶ綺麗な羽根の鳥はオスです。メスは地味で、馴れないとカモと見分けがつきません。あれだけ綺麗なオスだから、さぞかし優位かと思いきや、最後までメスがリードしていました。

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2008.4.6 源氏物語千年紀情報・・・京都文化博物館「源氏物語千年紀展~恋、千年の時空をこえて」

 源氏物語千年紀のイベントで、私が一番最初に、「あ、行かなくちゃ」と思ったのがこの展示です。それから、京都ではいろいろな催しがあることを知り、注意するようになりました。なぜかというと、源氏物語の写本が出ているから。たしか『河内本源氏物語』が出されるんです。今、ちょっと、どこでそれを読んだのか手元にメモがないので書けませんが、とにかく、『河内本源氏物語』をメインテーマに書いている私としては見逃すわけにいかないと思ったのでした。(追記4/10:メモがみつかりました。大島本・尾州家河内本・石山寺縁起・日記絵巻・・・が出展されるそうです。)

 以下、詳細をお知らせします。

■源氏物語千年紀展 ~恋、千年の時空(とき)を越えて
     2008年4月26日~6月8日
     
国宝「紫式部日記絵巻」「御堂関白記」,重文「石山縁起絵巻」や
     海外から里帰りする「源氏物語画帖」をはじめ約160点の展示

     京都文化博物館 075-222-0888
     
http://www.bunpaku.or.jp/

 四月になったら始まるのだなあと心づもりにしていて、気がついたらもう四月。それにしても京都では見落とせない企画が満載。早く行きたいのに・・・と、どう日程をたてたらいいか思案しながら楽しみにしています。羨ましいというより、企画があるから奮起して行く情熱の湧くというもの。感謝しましょう・・・。

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2008.4.5 井の頭公園の桜の写真・・・眠りながら流れてきた鴨・4コマ漫画風に

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 丸くなって眠っている鴨が流れてきました。首を背中の羽根のなかに埋もれさせて。

 花びらで埋まった水面に航跡をつけて・・・

 でも、ホントに眠ってるの? もしかして、ホントに生きてる?

 ちょっと、心配・・・

 と思ったら、何事もなかったように起きて、戻ってきました。

 そして、何事もなかったように、去っていきました・・・

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2008.4.5 井の頭公園の桜の写真・・・花びらの絨毯の水面

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 水面(みなも)という言葉の響きが好きです。そして、撮りに出て水場があると、気がつくと水面に見入って水の動きを撮っています。水面は風の動きを伝え、水中の生き物の棲息を伝え、ひとつとして同じ表情を見せず、見ていて飽きることがありません。

 桜の季節、花が終わりに近づくと、公園の水面が散った桜で埋め尽くされます。それを撮るのが楽しみで、豪華な花を撮りながら、その時期を待つのが習慣になっています。

 でも、今年は花を中心に撮っているので、時間帯が合わないのか、いつものピンクに埋め尽くされた花びらの絨毯に遇っていません。この花びらの絨毯を花筏と呼ぶことは、今年はじめて知りました。今年の花筏のベストショットはもうこれくらいかなあと、寂しいけれど仕方なくこの数枚をご紹介することにしていました。昨日載せたのと同じ日の撮影です。これはこれで風情ありますが、桜にも夕暮時にはこういう表情があるんですね。

 でも、今朝、別の時間を狙って公園に行きました。もう、目が覚めるほどの見事なピンクの絨毯のショットが撮れました。しかも、待っていたオシドリまで。明日、ご紹介させていただきますね。

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2008.4.4 井の頭公園の桜の写真

001 038 051 062 087 092 105 107 110 158  昨日の井の頭公園です。桜は最盛期を過ぎて大分茎の茶色が目立ってきました。これから葉桜の緑が揃うまで、どんどん見頃が失われていきます。

 最初は花の終わるのを見届けるまで撮ろうと思ったのですが、桜はやはり華やぎの美学が似合う花。散る風情は綺麗ですが、散って去られた木はさびしいですね。撮影は今後井の頭公園に限らないで、枝垂れや八重の咲き誇ったところを探して歩きます!

 以前は散った花びらが池に溜まって水面を覆い尽くし、翌朝などは、誰もいない池に花びらのピンクの波が静かにたゆたって風情がありました。でも今は毎日ゴミさらいしているのでしょうか。散っているはずなのに、水面にあまり花びらが溜まっていません。花筏の写真は撮れないかも・・・

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2008.4.4 河添房江先生の『光源氏が愛した王朝ブランド品』を読む 2・・・孔雀について

 『源氏物語』から離れて、少し個人的なことになりますが、楽しい発見がありました。それは、孔雀について。

 私は、このブログも、ホームページ本体も、タイトルを「孔雀のいる庭」しています。それは、何も、孔雀のあの華麗さに憧れてではなく、孔雀が私にとってとても親しい鳥、一番身近な思い出のある懐かしい動物だからです。

 このブログの最初の頃にも書きましたが、幼いころ、東京は下町の品川区に住んでいました。家のすぐ前に戸越公園という、江戸時代の大名庭園が区に寄贈されて公園になっている場所があり、そこが私の遊び場でした。朝から夕方まで、私と妹はまるでその公園が自宅の庭であるかのようにして遊んでいたんです。

 大名庭園というからには、もとは大名のお屋敷だったということ。そう、細川家の別邸でした。中央に池があり、その周囲を築山が囲む立派な回遊式の庭園でした。公園になってもそれはそのままそっくり残されていて、池の端には巨石を並べてぽんぽんと踏んで渡っていく橋があり、そこを過ぎて築山に入っていくと滝があって、ほんとうに瀑布の水が落ちていました。夏にはその滝壺が私たち子供の遊び場となり、さらに築山を登っていくと、途中に大きな石燈籠があったり、一番高いところから見下ろす池は広々と水を湛えていました。

 さらに進んでまた平地に出たところの端に檻があって、そこに孔雀がいたんです。最初は三羽いたと思うのですが、いつからか二羽になったような記憶です。毎日毎日、私と妹はその築山を駆け巡って遊んでいましたから、孔雀とは毎日接していました。檻に向かって話しかけるのが日課でした。見事な羽根を広げる姿を何度見たでしょう。見ている目の前で広げてくれるときもありますし、遠くで遊んでいて広げるのが目に入ると、駆け寄って行ってしばしうっとり眺めていました。幼い私には、孔雀は決して特別な鳥ではなかったのです。

 昨年、原稿を書いていて、自費出版で本にしようと考えたとき、最後のページにロゴマークを入れたくなり、どんな図案にしようか考えました。最初はカラーのような植物をデザイン化したのを考えていたのですが、参考のために図案集を見たときに、孔雀のイラストが目に入り、そうしたら途端にかつての記憶が甦って、「これだ!!」と、即座に心が決まりました。ちょうど、プルーストの『失われた時を求めて』で、主人公がマドレーヌを口にした途端に記憶が甦ったような、そういう感覚でした。

 原稿が長引いているので、ロゴマークもまだ作成途中ですが、一応、下絵はできています。あとはロットリングで描くだけ・・・。おのずから、タイトルは「孔雀のいる庭」になりました。とても自然な発露でした。

 でも、いったい何故あんな小さな公園に孔雀がいるのかなど、考えたことはありませんでした。他に動物がいるわけでなく、孔雀だけがいたんです。それを、ブログで紹介しているときに、ふっと、「そうか、孔雀は、もと大名屋敷だったときに飼われていたんだ・・・。それが公園になってからも檻ごと残って・・・」と気がつきました。たぶん、そうなのでしょうね。でなかったら、あんな貴重な鳥が、ほとんど地元の人しか来ない小さな公園にいるはずありませんもの。

 前置きが長くなりましたが、河添先生の『光源氏が愛したブランド品』に、舶来の陶磁器や薫物に混じって、舶来のペットという項目がありました。女三宮の唐猫は有名ですが、他に鸚鵡や孔雀が・・・とありました。

 ん、孔雀?と、孔雀の文字に目がない私は、このご本を手にとってぱらぱらと内容を見ていたときに、まっ先にこの項目を読ませていただきました。そうしたら、なんと、道長の邸宅に孔雀が飼われていたことがあるらしいんです。引用させていただきます。

 『栄花物語』では、道長が建立した法成寺の庭が、極楽浄土もかくやとばかり孔雀と鸚鵡が存在する庭園として語られています。もっとも、長和四年(1015)二月十二日の条のように、宋商人の周文裔から大宰大監の藤原蔵規を経由して、孔雀が三条天皇に献上された際、道長はそれを下賜されています。
 道長は孔雀を土御門邸で飼育し、孔雀は卵を十一個産みますが、百余日を経ても孵化しなかったといった苦労話もあったようです。

 道長の土御門邸の庭に孔雀がいたなんて・・・。「孔雀のいる庭」は、道長の庭でもあっただったんだ・・・・・・・・と、勝手に道長と運命の糸で結ばれているように思ってしまった私は顰蹙でしょうか。

 でも、考えてみれば、細川邸で飼われていたこと自体が、「孔雀と鸚鵡は天皇をはじめ皇族や摂関家の庭にしか置けない珍獣だった」ことの名残りだったのではないでしょうか。たまたま家の近くにあった公園がそういう由緒の庭園で、幼いゆえに自分の庭のように縦横無尽に遊んでいただけのことですが、ほんの個人的に懐かしさからつけたタイトルが、道長につながるなんて、なんて幸運なんでしょう・・・と思ってしまいました。戸越公園には、お屋敷が建っていただろう平場に、池を見おろす格好で藤棚がありました。たぶん、今でもあるでしょうから、藤の花の頃、行ってみましょうか・・・

 もうじき五月。孔雀が羽根を広げるのは繁殖期の五月が見事だそうです。放し飼いの動物園へ行って撮るのを楽しみにしています。撮ったらまたご紹介させていただきますね!

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2008.4.3 河添房江先生の『光源氏が愛した王朝ブランド品』を読む 1

 先日、『源氏物語』にも登場する秘色(ひそく)の青磁について書いて、そのときに検索したら河添先生が福岡の鴻臚館まで行って調べてらっしゃる記事に接し、マイブーム的興奮度が同じなので、すっかり嬉しくなってしまいました。

 そういう中で、河添先生が『光源氏が愛した王朝ブランド品』というご本を出されているのを知って、早速ネットで注文して届いたので拝読させていただいています。秘色の青磁についてどういうふうにまとめていられるのかしらと、興味津津でした。

 が、今日は陶磁器ではなく、コスチュームの項で思ったことを書かせていただきます。

 角川選書のこのご本はとてもわかりやすくて、驚くほどに現代的に光源氏のいた王朝世界がわかる仕組みになっています。まず、タイトルの「ブランド」にもびっくり。でも、考えてみれば、ブランド品は今だけでなく、その時代、その時代にあるものですから、河添先生のこの徹底ぶりは凄い新しいと思います。私なんか、どうしても、『源氏物語』の時代を古風に古風に霞の奥に閉じ込めて考えてしまいたい方なので、ギクッとしました。

 例えば、こんなふうです。末摘花が毛皮を着ていて源氏が驚く場面は有名ですが、それは父君譲りのもので時代遅れです。でも、舶来好みのその父君の時代では、「毛皮ブーム」があった・・・。今と変わりませんね。

 秘色青磁に限らず、陶磁器やガラス等の輸入品を貴族が競って集めたことについての目次は、「平安のブランド陶磁器」・・・。お香は、「平安のフレグランス」。室内調度は、「平安のインテリア」。そして、光源氏が身につけた「唐の綺」という舶来ものの生地による装束については、「舶来ブランドのコスチューム」・・・。いわれてみれば、みんな、まさにそうなんです。びっくり!! 

 でも、表向きこんなに身近に現代的で軽そうでも、中身は違います。とても奥が深く大切なことがその項目ごとに書かれています。胸のすく思いで一々の項目を読ませていただいたのですが、中で、コスチュームの段でこれは書いて残しておきたいと思うことがありましたので、ご紹介させていただきます。

 それは、光源氏と朧月夜の苦しい恋がはじまったばかりのこと。朧月夜と最初の契りを結んだあと、なんとかして再会したいと願う光源氏は、朧月夜の父君から藤の花の宴に招待されて、このときとばかりに朧月夜のいる邸宅を訪れます。

 そのとき、光源氏は、「桜の唐の綺の御直衣」を着ていました。ほかに招かれた人たちは、当主の右大臣に敬意を表して参内のときと同じ黒い正装。そのなかでの光源氏の登場を、河添先生は、「いまでいえば、さしずめ黒のモーニングの集団に、淡いピンクのタキシード姿のヒーローが颯爽と姿をあらわしたようなものでしょうか。」と書かれます。

 わかりやす~い!! と、椅子から飛びあがってしまうような衝撃を受けました。古式ゆたかな、雅な世界とばかり思っていた藤の宴のシーン。なのに、突然、まるでSMAPの木村拓哉さんが登場されたような感覚。『源氏物語』を古典として読むと「古典」ですが、当時の読者は、たぶん、SMAP感覚だったのでしょう。楽しい発見でした。

 が、今書きたいのはその先。これにはもっとしみじみした先があるんです。そこが『源氏物語』。だから、『源氏物語』なんです。

 平安時代の装束では色が重要です。位によって、年齢によって、許された色、着られない色と、色で「文学」が成り立ってしまうほど。その真骨頂ともいうべきものの意味が、この光源氏の「桜の唐の綺」にはこめられていました。

 桜の色を着ることができるのは、40歳未満。このときの光源氏は37歳なので、ぎりぎり可能でした。そしてその美で他を圧倒したのです。

 が、桜といえば、柏木と女三宮。国宝『源氏物語絵巻』でも、病に伏す柏木の周囲の調度には桜がいっぱい描かれていて、「桜」が二人の不義密通の象徴であることが明らかです。それもそのはず、柏木が女三宮を思い染めるはめになった蹴鞠の庭は、桜が満開の時期でした。愛猫が飛び出して御簾をあげたので女三宮の姿が外から見えてしまった・・・、それを垣間見て柏木が恋してしまった・・・、そのときに女三宮が身にまとっていたのが、「桜の細長」だった・・・、という事情です。それを河添先生は、こう書かれます。

 「桜の細長」の姿は、光源氏の正妻でありながら、不釣り合いな女三の宮の若さを際だてるものだからです。女三の宮の姿に釣りあうのは、やはり、「桜の直衣」姿の夕霧や柏木の世代なのです。

 う~ん、意味が深い・・・と思ってしまうのは私だけでしょうか。くどくどしい説明は避けますが、かつては自分が「桜色」で旧態然とした世界を圧倒した光源氏が、今度は若い世代から逆襲にあってしまいます。誰もが年をとって、世代交代で誰もが経験していくことなのでしょうけれど、身につまされる話です。それを、『源氏物語』では「桜」というコスチュームの色で暗示しているんです。奥が深いことこのうえないし、それを読み解く現代までの累々と築かれてきた研究史も、みんな凄いとしか言いようがなく、先生方が苦心して解かれた作品の隠れた意味を知って読む醍醐味を思います。

 ただ、忘れてはならないのは、たしかに人間である限り逃れられない「老い」という悲哀を浴びる光源氏ですが、光源氏が若くて桜色の装束で登場したとき、彼はほとんど神のようなオーラを放つ人間だった。

 夕霧や柏木たち子息の代の若人は、たしかに桜色の合う年代かもしれないけれど、それはふつうのことで、彼らは神のような存在には一度としてならなかったし、常にふつうの人、人間界から離れることのない人々だったということ。

 『源氏物語』における光源氏のただならなさは、それこそがこの物語の中心と思います。

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2008.4.2 「この木なんの木・・・」候補みたいな桜たち

241 260 266 299 300 301 305 315 330 335  ジブリ美術館裏手の広場は、近くに建物など何もなくて、広~い芝生の敷地に桜たちが一本また一本と立っています。なんだか、日立のCM「この木なんの木 気になる気になる・・・」の歌をほうふつとする光景。

 でも、先日訪ねたときは日曜日の、しかも真昼。家族連れのお弁当タイムで人が入らないショットを撮るのは到底無理。それで晴れた日の朝撮りに行こうときめていました。

 正確にいえば井の頭公園の続きというか、はずれのような場所ですが、さすがここまでは足を延ばす人もなく、美術館もまだ開館前だったので、思ったとおりに人が一人も入らないショットを納めることができました。育ったら、さぞ見事な光景になるでしょうね。楽しみです。

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2008.4.1 日本で唯一! 野川の600メートルもの桜並木のライトアップ・・・とにかく綺麗でした。

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 野川は国分寺市恋ケ窪に発し、小金井市、三鷹市、調布市、世田谷区を通って多摩川に合流する東京都の川です。東京にしては珍しい、自然の風情が残るその名どおりの可愛らしい川です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B7%9D_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)

 その調布市に入って流れる野川の両脇に、染井吉野が満開。毎年一日だけそのライトアップが成され、今年は4月1日でした。

 私は今年はじめて知ったのですが、もう18年も続いているのだそうです。なんでも、その地域にあるアート・システムさんという会社が、最初はご自分たちのお花見の宴会用に一本だけライトアップしたところ、付近の住民の方から「素敵だった・・・」との声が寄せられ、ならば今年は数本を・・・と、その会社の方が年々増やしていかれて、気がついたら600メートルにも及ぶ長~い桜のトンネルのライトアップになっていたとか。それはもう、息をのむほどの素晴らしさでした。

 照明は、実際に映画やテレビの撮影に使っているという日中の太陽光に限りなく近いという器具。それを川床にずらっと幾つも幾つも並べて、下から両岸の桜を照らしだしていました。その照明器具は雨に弱いので、絶対に降らない見極めと開花状況を見定めて日を決めるのだそうです。一夜だけなのに数百万はかかるとか。いくら住民の方に評判がいいといっても、凄いことだと思います。

 京都の桜とか、名園、名木の桜はいろいろありますが、これだけ長いライトアップは、ほんと、日本で唯一なんでしょうね。最初は狂喜して撮りっぱなしでしたが、いつのまにか、撮るのはもういい、ひたすら見るだけにして満喫しようという気持ちになっていました。観光地化してなくて、歩いている人はほとんどが普段着の家族連れ。商業化もしてなくて、ただのどかに歩くだけ。ゴミの散らかりようもありません。とっても清々しい気のするお花見でした。まさに、こんな世界があるんですね・・・

織田百合子Official Webcitehttp://www.odayuriko.com/

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