このご本には深い洞察の奥にとても温かな思いやりが溢れています。
学門をされる方の中には、往々にして、立場上そうだからさぞ・・・といったふうな読みで、ライバルとか敵対視とかの範疇にはめ込んで決めつけてしまう傾向が見られます。人間だから、たぶん、ライバル的立場にならざるを得ない関係なら、そういう感情が湧かないわけがないかもしれませんが、そうであっても、それを乗り越えて、そうでない思慮でもって生きた人たちもいると思います。
『枕草子』の清少納言と、『源氏物語』の紫式部。そして、彼女たちの主人である一条天皇后の定子と彰子。これらの人物がライバルでなくて何だというかもしれませんが、このご本を読むと、この方々がそんなちっぽけな感情のもとで人生を生きたことでないことがとてもよくわかります。そう、このご本には、とても強く正しく生きた、美しい人生が描かれているのです。読んでよかった・・・、と心から思えるご本です。
例えば、紫式部が『紫式部日記』中で、清少納言をとても悪く書いている箇所があることが知られています。それを従来の解釈では、紫式部にとって清少納言はライバルだったから・・・。自分が仕える中宮彰子の敵の中宮定子の後宮の女房だから・・・、とあくまでも「ライバル」の次元でだけ捉え、結論として、紫式部は意地悪な女性だったというように言われてきました。
それを、山本淳子氏のこのご本ではもっと深い視点でもって見ていられます。
中宮定子は最高に魅力的な女性で、彼女の後宮では機智に富んだ笑いが絶えなかった・・・。その後に入った彰子は年齢も幼かったし奥ゆかしかったから、後宮のなかでは定子亡きあとも、「あの頃はよかった・・・」とかつてを懐かしむ思いが溢れていた。
彰子に仕える紫式部は、敏感にそれを察していたから、彰子のために定子の影を払拭しなければならなかったし、清少納言の人気を影らさなければならなかった・・・というのです。
それは、公家の日記や『栄花物語』など、資料を丁寧に読んでいけば、たしかだということがわかるのです。単純に「意地悪なことを書いているから、作者は意地悪」という論理ではなく、「意地悪なことを書かざるを得なかった環境に作者はいた」という書き方をされているのが、このご本の世界です。
一本に太い幹は、一条天皇と中宮定子の愛です。
そういってしまうと、従来の見方では、じゃあ、きっと、彰子の立場はなく書かれているのだろう・・・と思ってしまいます。でも、違うんです。山本氏の見方は。
彰子は、母親が女官あがり(キャリアウーマン)だった定子と違って、生まれついての「中宮」たるべき育ちの品格高い女性だった。いってみれば、定子は庶民的で、だから、一条天皇もそこに真に家族としての愛をもてた。が、彰子には一目置いても、定子のようには気軽に相手にできなかった。
でも、彰子は努力するのです。定子は、当時男性の領分だった漢籍の知識を身につけていて、漢籍の好きな一条天皇と、そのことでも意気投合していた。それは、定子の母がキャリアウーマンで、男性のもの、女性のもの、といった隔てなく育てたから。
が、彰子はゆくゆく入内する女性として、漢籍などもってのほかと、教育されなかった。
彰子は、自分が定子と同じように、一条天皇に親しく接してもらいたくて、みずからの意思で漢籍の勉強をはじめます。それが、『紫式部日記』にある、紫式部の彰子への『白氏文集』の購読です。この彰子の内心の努力を、ここまで細やかに描きだされた世界。これがこの山本氏の世界です。
彰子は入内当初、まったく定子のようにはなれそうもないただのお姫様です。でも、自分の努力で、いつかしら、「賢后」とまでいわれる女性に成長したのでした。
つまり、一条天皇をはさんで「ライバル」であった定子と彰子、その二人の女性のどちらへも、山本氏はふくよかに見守る書き方をされているのです。とても和む世界です。
紫式部は、定子が中宮だった時代、そして、失脚した時代にはまだ『源氏物語』を書いてはいず、彰子に仕える女房でもありませんでした。一女性として、雲の上の人たちの話として、宮廷の事件に翻弄された悲劇の中宮定子の運命を見ていました。
「実際、定子と桐壷更衣もは不思議に符合するところがある」と、山本氏は書かれます。中世には一条天皇を桐壷帝のモデルとする説が存在したそうですが、『河海抄』で否定されてなくなったとか。
が、山本氏は書かれます。「私は、定子と桐壺更衣の符合は看過すべきではないと考えている」と。そうなのです。私も以前からなんとなくそんなことを感じていました。でも、彰子に仕える紫式部にそんなことはありえないと、無意識のうちにその考えを押しやっていました。でも、山本氏の視点は違います。その奥があるのです。
紫式部は人間として、一人の女性として、同じ女性である定子の悲しみを受け止めた。それが、意識するとしないとにかかわらず、作品に滲みでた・・・
「重要なのは精神の符合のほうだ。『源氏物語』は文学史上画期的な作品だが、その新しさは第一に精神のリアリティにある。ファンタジーやロマンの世界を脱し、現実の愛や執着、生身の人間性を描いたということだ。桐壷帝のエピソードはその一つである。」
このご本の深さには、もっと深く書かせていただきたいものがあるのですが、時間がなくてできないので、取り急ぎ、今日読み終わった新鮮なところで書きとめておきます。私が好きな本は、その本によって書かれた人たちが美しく甦る・・・、真のところを理解してもらって有難うと微笑まれるようなご本です。私も、今、『河内本源氏物語』校訂者源光行を書いていて、光行の真の思いを浮かびあがらせられたらと思っています。
織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/