2008.4.17 源氏物語千年紀の由来・・・『紫式部日記』から
もうすでに周知のこととして進めてきてしまいましたが、今年2008年が、何故、源氏物語の千年紀なのか・・・、その根拠となっている『紫式部日記』の一節を書きとめておきたいと思います。
『紫式部日記』は何度読んでもいいですね。文章に緊張があってこちらまで身が引き締まります。文学としていいもの、内容が素晴らしいもの、作品として優れたもの・・・と、散文文学で魅力ある作品はいろいろありますが、文章で緊張させられるものは紫式部だけです。それと、強いていうなら、宗教の方ですが、空海・・・。このお二人には、本を開いて、文字が目に入ってくるだけで、すっと背筋を正される思いがします。
では、少し長いですけれど、引用させていtだきます。
入らせ給うべきことも近うなりぬれど、人々はうちつづきつつ心のどかならぬに、御前には、御冊子作り営ませ給うとて、明けたてば、まず向いさぶらいて、色々の紙選りととのえて、物語の本ども添えつつ、所々に文書き配る。かつは綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす。「何の心地か、冷たきにかかる技(わざ)はせさせ給う」と聞こえ給うものから、よき薄様ども筆墨など持て参り給いつつ、御硯をさえ持て参り給えれば、とらせ給えるを、惜しみののしりて、「もののくまにて向いさぶらいて、かかる技しいず」とさいなむなれど、かくべき墨筆など給わせたり。
局に、物語の本どもとりにやりて隠し置きたるを、御前にあるほどにやおらおわしまいて、漁らせ給いて、皆、内侍の督の殿に奉り給いてけり。よろしう書き変えたりしは、皆、ひき失いて、心もとなき名をぞとり侍りけんかし。
というものです。これは、紫式部が仕える一条天皇中宮彰子が出産のために、実家の土御門邸にさがっていたときのもの。無事、皇子を出産されて、まもなく内裏へ還御されるにあたり、手土産にするための『源氏物語』の冊子を作っているという記事です。この彰子の出産が寛弘五年で、1008年にあたることから、2008年が千年後ということになるのです。
紫式部は総司令官のような役割をしていて、「色々の紙を選んで、書写する分担の本を添えて」、あちこち書写していただく人に宛てて依頼文を書いて送ったりしています。そして、書写されてきたものには、「綴じ集め」たりして・・・。いわば、「チーム彰子」の一大プロジェクトのような冊子作りです。大変といいながら、活気があって楽しそうです。
ここで面白いのは、やはり料紙好きの私にとっては、「色々の紙選りととのえて」と「薄様ども」とある、紙のこと。国宝「和漢朗詠集」のようなああいう色のとりどりの紙が集まっているのだろうなあ、と想像が膨らみます。
さらに大変なのが、『源氏物語』自体の本文の問題がここにはあるんです。
紫式部が自分の局にしまっておいた『源氏物語』の本を、式部が彰子のもとにいる隙に、道長が忍び込んで、「漁らせ給いて」、持って行ってしまったというのです。そして、それを、彰子の妹で三条天皇中宮の妍子にさしあげてしまった・・・
現在、紫式部自筆の『源氏物語』原本は残っていません。今、私たちが読めるのは、藤原定家や源光行らの手になる写本が伝わっているからです。そして、写本にはそれぞれの校訂者の意図が入っていたり、書写の際のミスがあったりして、どれが紫式部の原文に一番近いのだろうということが、国文学の世界では重要な問題です。
が、『紫式部日記』のこの記述には、その原本が一つでないことが記されているから大変。まず、紫式部が方々へ書写依頼をするために配った本があります。これは書写されて、彰子のもとでまとめられます。そして、もう一つ、紫式部がまだ校正の終わっていずに局に隠しておいた本。それを道長が勝手に持ち出して妍子に渡してしまったのです。おそらく妍子もまた、彰子のようなプロジェクトを采配して冊子作りをするでしょう。
少なくとも、この時点で、紫式部の原文には二通りあることになります。紫式部の唯一絶対の原文などない、といっていいかもしれない状況です。
それにしても、道長もうきうきと『源氏物語』の冊子作りには関心をもって動いているようすが窺われて面白いですね。
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