2008.4.3 河添房江先生の『光源氏が愛した王朝ブランド品』を読む 1
先日、『源氏物語』にも登場する秘色(ひそく)の青磁について書いて、そのときに検索したら河添先生が福岡の鴻臚館まで行って調べてらっしゃる記事に接し、マイブーム的興奮度が同じなので、すっかり嬉しくなってしまいました。
そういう中で、河添先生が『光源氏が愛した王朝ブランド品』というご本を出されているのを知って、早速ネットで注文して届いたので拝読させていただいています。秘色の青磁についてどういうふうにまとめていられるのかしらと、興味津津でした。
が、今日は陶磁器ではなく、コスチュームの項で思ったことを書かせていただきます。
角川選書のこのご本はとてもわかりやすくて、驚くほどに現代的に光源氏のいた王朝世界がわかる仕組みになっています。まず、タイトルの「ブランド」にもびっくり。でも、考えてみれば、ブランド品は今だけでなく、その時代、その時代にあるものですから、河添先生のこの徹底ぶりは凄い新しいと思います。私なんか、どうしても、『源氏物語』の時代を古風に古風に霞の奥に閉じ込めて考えてしまいたい方なので、ギクッとしました。
例えば、こんなふうです。末摘花が毛皮を着ていて源氏が驚く場面は有名ですが、それは父君譲りのもので時代遅れです。でも、舶来好みのその父君の時代では、「毛皮ブーム」があった・・・。今と変わりませんね。
秘色青磁に限らず、陶磁器やガラス等の輸入品を貴族が競って集めたことについての目次は、「平安のブランド陶磁器」・・・。お香は、「平安のフレグランス」。室内調度は、「平安のインテリア」。そして、光源氏が身につけた「唐の綺」という舶来ものの生地による装束については、「舶来ブランドのコスチューム」・・・。いわれてみれば、みんな、まさにそうなんです。びっくり!!
でも、表向きこんなに身近に現代的で軽そうでも、中身は違います。とても奥が深く大切なことがその項目ごとに書かれています。胸のすく思いで一々の項目を読ませていただいたのですが、中で、コスチュームの段でこれは書いて残しておきたいと思うことがありましたので、ご紹介させていただきます。
それは、光源氏と朧月夜の苦しい恋がはじまったばかりのこと。朧月夜と最初の契りを結んだあと、なんとかして再会したいと願う光源氏は、朧月夜の父君から藤の花の宴に招待されて、このときとばかりに朧月夜のいる邸宅を訪れます。
そのとき、光源氏は、「桜の唐の綺の御直衣」を着ていました。ほかに招かれた人たちは、当主の右大臣に敬意を表して参内のときと同じ黒い正装。そのなかでの光源氏の登場を、河添先生は、「いまでいえば、さしずめ黒のモーニングの集団に、淡いピンクのタキシード姿のヒーローが颯爽と姿をあらわしたようなものでしょうか。」と書かれます。
わかりやす~い!! と、椅子から飛びあがってしまうような衝撃を受けました。古式ゆたかな、雅な世界とばかり思っていた藤の宴のシーン。なのに、突然、まるでSMAPの木村拓哉さんが登場されたような感覚。『源氏物語』を古典として読むと「古典」ですが、当時の読者は、たぶん、SMAP感覚だったのでしょう。楽しい発見でした。
が、今書きたいのはその先。これにはもっとしみじみした先があるんです。そこが『源氏物語』。だから、『源氏物語』なんです。
平安時代の装束では色が重要です。位によって、年齢によって、許された色、着られない色と、色で「文学」が成り立ってしまうほど。その真骨頂ともいうべきものの意味が、この光源氏の「桜の唐の綺」にはこめられていました。
桜の色を着ることができるのは、40歳未満。このときの光源氏は37歳なので、ぎりぎり可能でした。そしてその美で他を圧倒したのです。
が、桜といえば、柏木と女三宮。国宝『源氏物語絵巻』でも、病に伏す柏木の周囲の調度には桜がいっぱい描かれていて、「桜」が二人の不義密通の象徴であることが明らかです。それもそのはず、柏木が女三宮を思い染めるはめになった蹴鞠の庭は、桜が満開の時期でした。愛猫が飛び出して御簾をあげたので女三宮の姿が外から見えてしまった・・・、それを垣間見て柏木が恋してしまった・・・、そのときに女三宮が身にまとっていたのが、「桜の細長」だった・・・、という事情です。それを河添先生は、こう書かれます。
「桜の細長」の姿は、光源氏の正妻でありながら、不釣り合いな女三の宮の若さを際だてるものだからです。女三の宮の姿に釣りあうのは、やはり、「桜の直衣」姿の夕霧や柏木の世代なのです。
う~ん、意味が深い・・・と思ってしまうのは私だけでしょうか。くどくどしい説明は避けますが、かつては自分が「桜色」で旧態然とした世界を圧倒した光源氏が、今度は若い世代から逆襲にあってしまいます。誰もが年をとって、世代交代で誰もが経験していくことなのでしょうけれど、身につまされる話です。それを、『源氏物語』では「桜」というコスチュームの色で暗示しているんです。奥が深いことこのうえないし、それを読み解く現代までの累々と築かれてきた研究史も、みんな凄いとしか言いようがなく、先生方が苦心して解かれた作品の隠れた意味を知って読む醍醐味を思います。
ただ、忘れてはならないのは、たしかに人間である限り逃れられない「老い」という悲哀を浴びる光源氏ですが、光源氏が若くて桜色の装束で登場したとき、彼はほとんど神のようなオーラを放つ人間だった。
夕霧や柏木たち子息の代の若人は、たしかに桜色の合う年代かもしれないけれど、それはふつうのことで、彼らは神のような存在には一度としてならなかったし、常にふつうの人、人間界から離れることのない人々だったということ。
『源氏物語』における光源氏のただならなさは、それこそがこの物語の中心と思います。
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