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2008.4.16 慶滋保胤「池亭記」を読む・・・紫式部が生きた時代の京都

 聴講させていただいているゼミで、慶滋保胤(よししげのやすたね)の「池亭記」を読みました。これは、982年に書かれたもので、紫式部の生年が970年代といわれていますから、ほぼ紫式部が生きた時代の京都が描かれているわけです。

 これによると、「西の京」は「沼や池ばかりで荒れ果てて廃墟のよう」とあります。よく、平安京の図を見ますが、そこでは「西の京」も「東の京」も朱雀大路をはさんで左右対称に、理路整然と碁盤の目状に整った都に描かれています。が、実際は「池亭記」のような状況だったようです。

 たった一枚、ただの一つの図や模型では、すでに失せてしまった建物も、これからのものも、あらゆる年代のものがいっしょくたに存在していて、さもそれが平安京の光景と思われてしまいますが、そうではなかったんですね。例えば、羅城門は980年に倒壊し、以後再建されなかったという事実・・・そういうことをしっかり見極めて見なければと思います。

 「池亭記」の冒頭を少し紹介させていただきます。私なりに現代表記にあらためます。

 我、二十余年よりこの方、東西の二京をあまねく見るに、西の京は人家ようやく稀らにして、ほとほとに幽墟に近し。人は去ることありて来(きた)ることなく、家は壊(やぶ)るることありて造ることなし。その移■(いし・移動すること)するに処(ところ)なく、賎貧にはばかることなき人はこれに居り。或いは幽隠亡命を楽しび、まさに山に入り田に帰るべき者は去らず。みずから財貨を蓄え、奔営に心あるがごとき者は、一日といえども住むこと得ず。

 という状況。これが紫式部の時代の平安京の一画の実態でした。この記述の続きに源高明の邸宅の描写があって、立派なものだったが、左遷されて主なきあと廃屋になって、二度とかつての栄華はもどらなかった・・・と続きます。源高明は須磨に流された光源氏のモデルの一人といわれています。

 貴族の邸宅や立派な寺院が建ち並んだ「東の京」はまたべつの光景でしょうけれど、それにしても、『源氏物語』の末摘花や、桐壷更衣亡きあとの実家の家のように、主がさびれてしまうとすぐ荒れ果てた邸宅となってしまう時代。草や木の鬱蒼と茂るのと表裏一体となって平安京はあったんですね。

織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/

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