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2008.5.31 再び孔雀の写真を撮ってきましたが 2・・・【雄なのに貴婦人のような孔雀】

056 206 233 272   孔雀のゴージャスさはともかく、なんて動きが優美なんでしょう。そして、気高い・・・。二枚目の写真なんか、ナポレオンの奥様のジョセフィーヌを思いませんか?

 三枚目の写真は、一部だけ陽があたっている場所を通過しているところ。羽根がかがやいています。他の写真はまったくあたっていません。なので、ほとんど青緑のみ。陽があたったときと、あたらないときとではこんなに色が違います。

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2008.5.30 再び孔雀の写真を撮ってきましたが 1・・・【孔雀のターン】

183_2 184_2 186_2 187_2 188_2 189_2 5月26日に多摩動物園でふたたび孔雀の写真を撮ってきました。繁殖期の5月が羽根が生え揃って一番美しい季節と聞いていましたので、そろそろ行かないと今度は抜けてしまうと焦っていました。が、ここの孔雀は羽根の密度が薄いのでしょうか。伸び具合としては最盛期に近いと思うのですが、どうも、羽根を透かして奥の景色が見えてしまう不満が残りました。(ん? 今気がついたのですが、もう抜けはじめているのでしょうか・・・)

 でも、孔雀はやはり見事! しっかり羽根を開いて見せてくれました。しかも、ファッションショーのように優雅にターンまでして・・・。羽根は重いのでしょうね。この日は風が強かったので煽られて立っているのがやっとのようにふんばっていました。ターンもそれに対応しての動作だったのでしょうか。

 忙しくてなかなか行くことができず、この日の午後、撮る時間帯としていいとは思えませんでしたが、とりあえず出かけました。入園したのが3時半。案の定、陽が影って、孔雀の羽根のあのきらびやかさが出ません。このあと降りて陽のあたっている舗道を歩いたとき、それはもう見事に、茫然とするほど美しい発色を見せて輝いていました。なんとか時間をつくって午前のうちに撮りに出たいものです。

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2008.5.28 京都紀行9(ラスト)・・・京都文化博物館【源氏物語千年紀展~恋、千年の時空を超えて~】

111  今回の京都行きの最大の関心だった京都文化博物館【源氏物語千年紀展~恋、千年の時空を超えて~】は、私にとってまさに「驚異の展示」でした。「こんな展示あるう?」って、ほとんど内心絶句しつつ観てまわりました。

 さすが京都ですね。展示内容の集め方もさることながら、集める方針のしっかりされていること!! 凄いと思いました。写真は会場でいただいてきたチラシです。二つ折になっていて、開くと中にやはりカラーで展示物の写真が幾つか紹介されています。

 ここでは写本に関する展示をご紹介させていただきます。現在執筆中の原稿は『河内本源氏物語』という写本をテーマにしたものですので、当然、この展覧会への主目的も写本を観ることでした。が、予想以上の展示で感動してしまいました。

●出品目録「第3章 写本 その営みと美」から
・重文 源氏物語(前田本) 藤原定家筆
・重文 源氏物語(大島本) 飛鳥井雅康奥書
・重文 源氏物語(尾州本) 北条実時書
・重文 源氏物語(平瀬本)
・重文 源氏物語(陽明文庫本)
・重文 源氏物語(保坂本)
・重文 源氏物語(中山本)
・国宝 明月記         藤原定家筆
・国宝 源氏物語奥入    藤原定家筆
・重文 源氏釈
・    紫明抄
・    河海抄
・重文 花鳥余情
・    源氏小鏡
・    岷江入楚
(以下、省略)

と、こんなふうに一目で写本の歴史が見てとれるようになっています。執筆中の原稿『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』は、ゆくゆくは「源氏物語(尾州本) 北条実時書」にたどりつく内容です。尾州家本といいますが、それは現在の所蔵先の蓬左文庫が徳川ゆかりである関係で、もとはといえば鎌倉の、金沢文庫で完成したものです。書写者の北条実時は鎌倉幕府の重鎮だった人物で、金沢文庫の創設者です。鎌倉が滅びたために流出して現在に至ったいるという経緯です。

 私の原稿の目的は、源氏物語千年紀の今年、鎌倉でもこんな立派な源氏物語活動があったということを知っていただいて、鎌倉でも千年紀を祝いたいとの一心からでした。ほんとうは昨年末には刊行して、鎌倉の方々に何かイベントを企画していただきたかったのですが、本の内容が思いがけず膨らんで、千年紀ももう半分過ぎた今になってもまだ執筆中という状態です。先日「平瀬本」についての項目を書き終えました。

 他に、国宝源氏物語絵巻だったとされる断簡「若紫」があって、私ははじめての対面です。あまりにこってりと低俗な修復が施されていて、まさかあの高名な国宝絵巻の断簡だとはと思われていなかったのです。佐野みどり先生の『じっくり見たい源氏物語絵巻』で紹介されていて知りました。こんなところで拝見できるなんてと興味津津で観させていただきました。

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2008.5.27 京都紀行8・・・平家一門の西八条第があった「梅小路公園」

379 394   平家一門が東の守りの六波羅第に対して西の守りとしたのが西八条第です。それがどこか、かねてから訪ねたく思っていましたので、高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』でわかりやすく地図で説明されているのを拝見して訪ねました。

 そこに、現在「梅小路公園」になっている一帯とありましたので、それを目安にタクシーに乗りました。新幹線に乗る直前の余裕のない足の運びで、詳細を確認する時間がなかったのが心残りですが、空や空気、見えた景色は昔を知っているものとして、載せておきます。JR東海道線をはさんで東寺と反対側に位置する一帯です。平安時代には朱雀大路に接した東側の八条界隈だったようです。

 公園はふつうに地元の児童やカップルが気ままに遊んだり散策する芝生の一帯ですが、中に「朱雀の庭」という入場料が必要な庭園があったので入りました。写真はそのほんの入った直後の場所で撮った光景です。奥に進めばもっと違う風情があったかもしれませんが、時間が迫っていたので、これだけ撮って走って外にでてタクシーで新幹線の駅に向かいました。

 清盛の邸宅のみならず、重盛や重衡邸があった一帯が、名前を聞いただけでは市民のためのありきたりの公園になっているようで、あまり期待はしていませんでした。が、この「朱雀の庭」に入って、かつての平家の方々の雅な思いがこの庭園にまとめられているのだとわかり、安堵しました。とても綺麗な庭園です。

http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike36.html(「平安京探偵団」より西八条第址)

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2008.5.23 京都紀行7・・・待賢門院璋子・建礼門院徳子ゆかりの「白河・六勝寺の辺り」

164 167 179 182 183  今朝の読売新聞朝刊に瀬戸内寂聴先生の「平安の女性に貫いた愛情」と題された角田文衛先生への追悼文がありました。ここのところの源氏物語千年紀に関連して、ご著書の『紫式部伝』や、ご監修の『京都源氏物語地図』など、すっかり『源氏物語』だけがご専門の先生のように思ってしまいかねない状況でした。

 が、瀬戸内先生のこのご文章で思い出したのです。角田先生にはもう一つ(もちろん、一つなんかではありませんが・・・)、強烈な、じつに魅惑的な、偉大なご業績のご著書があったのです。それは、待賢門院璋子(たまこ)の生涯を描いた『椒庭秘抄』。うっかり、それを忘れていました。瀬戸内先生はこう書かれています。

 中でも璋子の生涯を描いた『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯』は、読後に受けた鮮烈な感銘を忘れることは出来ない。それ以来、私は璋子の生涯に深い興味を持ち、やがて、璋子に憧れた西行を書くことになる。

 それが、瀬戸内先生の『白道(びゃくどう)』なのですが、このご著書も私には「読後に受けた鮮烈な感銘」を忘れることができない一冊です。『椒庭秘抄―待賢門院璋子の生涯』拝読後、すっかり私も璋子という女性の囚になってしまいました。白河院に愛された璋子にゆかりの白河の地は、現在の京都の平安神宮や動物園のある一帯だそうです。「勝」がつく天皇・上皇・女院の御願寺が六つあり、総称して六勝寺と言いいました。

 以前、中世都市研究会が京都で開かれたときに、その現地説明会で、実際に白河の発掘に当たった埋蔵文化センターの調査員の方の案内で、この地を歩いたことがありました。そのとき、六勝寺のうち一番大きな法勝寺は動物園の場所で、九重塔が建っていたのは観覧車のあたりと説明を受けました。その観覧車が一枚目の写真です。二枚目は通りに立って白河院跡方向を眺めています。右側が動物園です。

 寺院にはそれぞれ建立された方がいられます。璋子の御願寺は、円勝寺。法勝寺の南西に位置しています。じつは、今回の京都旅行の一番の目的は、角田文衛先生の『平家後抄』にあった晩年の建礼門院徳子ゆかりの地を撮ること。最晩年となった金仙院(現在の高台寺)の写真は前に載せました。その金仙院に移る前、徳子は白河の「善勝寺」に住されていたのだそうです。その善勝寺があったのが、円勝寺に接した南。奇しくも、私が憧憬する二人の女性ゆかりの寺院は隣接していたのでした。

 善勝寺は「勝」の字がつきますが、皇室の方々の御願寺ではないので六勝寺に入っていません。以前、『とはずがたり』に登場する「善勝寺大納言」を調べていて、どこにあったのかを知りたかったのですが、わかりませんでした。『平家後抄』に地図が載っていて、円勝寺に接した南と理解したのです。円勝寺は現在の京都市美術館の場所ですから、それを目印に訪ねました。建礼門院徳子の妹が嫁いだ隆房の四条家の菩提寺です。

http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike40.html(「平安探偵団」より白河・六勝寺地図)

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2008.5.22 京都紀行6・・・渉成園の睡蓮と黄菖蒲と白い鯉の写真

304 312 371 314 333 340 326 327_3http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%89%E6%88%90%E5%9C%92(渉成園)

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2008.5.19 京都紀行5・・・角田文衛先生『平家後抄』より晩年の建礼門院徳子が見た光景「高台寺」

019 007 041 055 077 099 111  執筆中の『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』では、源光行の生涯を追って書いています。その光行が平家文化の中で育ち、父ともども建礼門院徳子と縁が深かったことがわかってきました。

 建礼門院徳子は、一般には大原寂光院で終焉を迎え、その地に眠っているとされています。が、平家が壇ノ浦で滅亡したといっても、一門がすべてそこで滅んだわけでないことを書かれた角田文衛先生は、徳子はその後白河の善勝寺に移り、それから鷲尾の四条家ゆかりの金仙院に移って、そこで終焉を迎えたと書いていられます。

 『平家後抄』にこうあります。

 今日、鷲尾の地は、一帯が高台寺の墓地となっている。丘尾の平坦部に立って西方を眺めると、梢の合間からほとんど真直ぐに四条河原町通の高島屋京都店や阪急百貨店四条河原町店のビルが望まれるし、また西南の方を見下すと、六波羅蜜寺や池殿町の辺が指呼の間に望まれる。池殿町はすなわち平清盛の別邸・六波羅第の池殿の所在した場処であり、そこにはかつて建礼門院が安徳天皇を産まれ、また高倉上皇が崩じた殿舎があった。

 建礼門院が最晩年を鷲尾荘=金仙院で送られたことは、ほとんど確実といってよい。女院は毎日、朝な夕なに金仙院の桟敷からどのような心情をもって眼下の六波羅第址のあたりを見渡しておられたのであろうか。(中略)これを知る手掛りは全く遺存していないが、歴史学者としてはこの辺が最もゆかしく覚えられるのである。

 今度の京都の目的の一番がこの角田文衛先生の書かれた「徳子の視点の光景」を撮ることでした。それで、京都駅をおりるとまっ先に高台寺に向かったのです。5月10日のことでした。雨がひどく、ふつうなら写真に不向きの日に思われますが、最初の二枚のように、建物を撮るには太陽光に照らされる屋根の反射がない日の方がいいんです。それで、傘をさしながらでの撮影も苦になりませんでした。しっとりとしたいい情緒に仕上がっていますでしょ!

 金仙院はやはり角田先生の書かれたとおりに高台寺裏手に広がる墓地でした。一応巡ってみましたが、下に高台寺があるために眼下の光景を見おろせる隙間がなく、仕方なくおりて高台寺に入りました。角田先生のご推察の徳子が葬られた場所が境内の中なんです。角田先生は、

 想うに女院は、早く没した最愛の妹―隆房の妻―の近くに葬られたのではなかろうか。と仮定すれば、鷲尾の中腹の稜部―現在、伏見城より移建したと伝えられる重要文化財の時雨亭と傘亭が建っているあたり―に家成の三重塔があり、それに近接して女院の陵(みささぎ)が営まれたと推定されよう。

と書かれています。一枚目の写真が傘亭。二枚目が時雨亭です。三枚目のつつじは時雨亭の脇に咲いていたもの。徳子の晩年の境地を偲ばせるような可憐な感じに花は咲いていました。

 その下の二枚は時雨亭から小堀遠州作の名園である高台寺苑池におりる道すがらの光景です。こういう現世から離脱したような高いところに徳子は過ごし、葬られたのでした。

 最後の二枚は、高台寺の駐車場から撮りました。裏山の墓地からは眼下を見おろせなかったのであきらめていた光景でしたが、駐車場に来たらこのとおり。塔は八坂塔。京都の土地勘がないので、角田先生の書かれる高島屋がどの方角か迷いました。でも、一応、ずばりドンピシャの方角でなくても、徳子の視線で見た光景として撮ってきました。家に帰って地図で確認すると、六波羅は画面左(八坂塔の左寄)になるようです。

 5月14日、角田文衛先生は永眠されました。16日に知人からのメールで教えられました。その方とは、京都で角田先生のことで話をして大いに盛り上がってきたばかり。お約束の場所に向かうタクシーの中で、たまたま高島屋の前を通過。「あ、ここだ・・・」とめざとく思ったものでした。先生のご著書に触発されて撮りに出向いたまさにこの時期に先生の訃報を知るなんて・・・と絶句しています。さまざまな先生のご業績に心から感謝しつつ、ご冥福をお祈りもうしあげさせていただきます。

http://www.kodaiji.com/guide/annai.html#keidai(高台寺境内)

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2008.5.17 京都紀行4・・・京都市考古資料館【紫式部の生きた京都】展より「高陽院」「堀河院」「法成寺」遺跡

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 上三枚は、「高陽院(かやのいん)」遺跡。二枚目は出土した硯で、側面に波の模様の蒔絵が施されています。三枚目の白色土器の薄さ。優美でほれぼれ!!です。

 四枚目は道で、轍跡の上を踏んで進む牛の足跡! 凄いですよね。こんなものが発掘されているなんて。紫式部も歩いた道でしょうか・・・

 その下の二枚は、「堀河院」遺跡。写真は庭園遺構で、景石があるのがわかります。

 最後が、道長の「法成寺」遺跡出土の緑釉瓦です。緑の釉薬が塗ってあるなんて、京都の瓦は色まであでやかなんですね。紫式部が目にしていた法成寺の伽藍は、こういう瓦の屋根でした。

■京都市考古資料館 075-432-3245
  市バス 「今出川大宮」考古資料館前下車
  http://www.kyoto-arc.or.jp/

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2008.5.15 京都紀行3・・・京都市考古資料館【紫式部の生きた京都】展より「斎宮邸」跡

240 244 263 235 238   京都市考古資料館「紫式部の生きた京都」展より、平安京右京三条二坊十六町の斎宮邸跡の遺跡です。最初の二枚は、植生を生かして復元した斎宮邸の景観図。三枚目は出土遺物の、緑釉陶器の硯など。

 下の二枚は発掘現場のパネル写真と出土遺物です。墨書土器に「斎宮」の二文字があったことから、斎宮の邸宅とわかったそうです。パネル写真では、発掘された州浜跡に残る景石が紹介されています。完全な寝殿造りにはまだなっていない時代だそうですが、面影はありますね。

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2008.5.14 京都紀行2・・・京都市考古資料館【紫式部の生きた京都】展

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 京都市上京区今出川通にある京都市考古資料館の源氏物語千年紀記念の展示です。発掘の仕事をしていた私としては是非見たい展示のひとつでした。

 会場に足を踏み入れてまず目に入るのは、ふつうなら無彩色一辺倒のはずの考古の展示には異質の、国宝『源氏物語絵巻』のパネル。これは、出土した皿や器が、絵巻に描かれているこれではないか・・・と対比させて見ることができるようになっているもの。

 例えば、薫の五十日の祝に、光源氏が薫を抱いている絵に描かれている祝膳の食器が、出土した白い皿に該当するのではないか・・・というふうに見ることができる工夫です。一番上の写真は、『紫式部日記絵詞』の道長ですが、展示物は「藤原道長建立の法成寺(ほうじょうじ)出土の緑釉瓦」です。面白いでしょ!

 それにしても、京都の出土品は優雅ですね。「白瓷(しらし)」という白い陶器の魅力を3月14日のこのブログに書きましたが、やはり、何回見ても、う~んとため息。堪能しました。白いから優美なこともありますが、とにかく薄い!! こんなに薄かったら、持ち上げたら割れてしまうのではと心配になる薄さです。さすが京都のお公家さんは、鎌倉武士と違って仕種がなよやかだったんですね。

 当然写真撮影は不可と思いつつ、恐る恐る館の方に伺うと、「いいですよ・・・」とのお答え。でも、ブログに載せるのは駄目ですよね・・・と重ねて訊ねると、「売ったりするのでなく、行って来ました!みたいな事ならどうぞ」との事でした。親切ですね。感謝しつつ、思い切り載せさせていただきます!!

 他に、斎宮の館跡の発掘調査の結果や、高陽院など、寝殿造りの遺跡で興味深い展示がありました。これはまた明日まとめてアップさせていただきます。展示は来年の1月31日まで。入場無料です。

■京都市考古資料館 075-432-3245
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2008.5.12 京都紀行1 角屋・・・新発見の「別本系源氏物語写本/末摘花」を観ました!!

251 256 263 258  島原は新撰組ゆかりの地です。源氏物語写本新発見ニュースではじめて「角屋」さんを知った私としては、訪ねた壬生のこの地の至るところに、見覚えのあるあの新撰組の水色の三角マークが見えることに驚きました。

 そして、別本系源氏物語写本が発見された「角屋」は、まさにその新撰組と切っても切れないご縁の揚屋でした。揚屋とは、太夫などの女性を置かずに、宴会に伴ってそれら女性を呼んではべらせるお店。女性を抱える家は置屋というのだそうです。

 ちなみに島原は花街で遊郭ではありません。花街と遊郭の違いも説明されましたが、花街は女性が芸で勝負する世界。なので日中は歌舞の練習に余念がない世界です。花街と遊郭の違いは明らかで、練習した芸を発表する歌舞練習場があるかないかだそうです。江戸でいえば、遊郭である吉原には歌舞練習場がなく、花街である新橋にはあって、それが今の新橋演舞場になったとか・・・

 そんなふうに花街の説明をしたのは、これが源氏物語写本が角屋から発見されたことに深く関係するからです。

 太夫といわれる女性たちは、歌や舞などの芸だけでなく、和歌や連歌といった教養面でも優れたものを要求され、それ応えるだけのものを身につけていました。「今日の宴席は連歌の会」といわれて呼ばれれば、一緒に連歌を読むだけの力があったのです。当然、万葉集から古今和歌集など熟知していたでしょうし、源氏物語も読んでいたでしょう。そして、高度な知性の客人らと、それら会話を楽しんでいたことと思います。

 新発見の源氏物語写本は、もしかしたら太夫たる女性が客のお公家さんから贈られたものかもしれません。高貴な方をも満足させる応対をお気に召して、個人的にその方が贈ったのでしょう。花街ゆえに残った源氏物語写本・・・、ドラマにしたいような世界が垣間見えました。

 新発見の別本系統の写本「末摘花」は、ほぼ正方形の小さな型でした。私などは東国育ちで、写本も『尾州家河内本源氏物語』から興味をもちはじめたので、大学ノートより大きな長方形のタイプが通常と思っていました。が、西の写本は小さな正方形。ある写本研究家の方の文章を読んだら、もともと西の写本ばかり研究されていて、それから『尾州家河内本源氏物語』に接したとき、あまりの大きさに驚いたと書いてありました。そんなふうに、写本でさえも、西と東の文化に違いがあるのですね。

 「末摘花」は、書体もはかないようなとても優美なものでした。展示には説明のパネルもありましたが、撮影は禁止。専門の博物館ではないので写本に関する特別なチラシはなく、ただ目に焼き付けて帰るしかありませんでした。

 写真は、新撰組初代筆頭局長の芹沢鴨が、殺されるその晩に最後の晩餐となった宴会を開いた、まさにその部屋の襖絵です。源氏物語写本の撮影は許されていませんでしたが、この部屋だけは「どうぞ」ということだったので、この写真を載せておきます。

●以下はネット検索したものからの引用させていただきます。
鎌倉後期の源氏物語写本か 「末摘花」元料亭に保存
2008年3月10日 19時18分
 鎌倉時代後期に書かれたとみられる源氏物語の写本=10日午後、京都市下京区


 京都市下京区の元料亭「角屋」に保存されている源氏物語の1帖が、鎌倉時代後期の写本とみられることが分かり、財団法人角屋保存会が10日、発表した。写本は全54帖の1つ「末摘花」で、冊子状の65ページ(縦横約16センチ)。
 多数残っている藤原定家の写本「定家本」などと異なった記述がある珍しい「別本」に位置付けられ、女性が光源氏に贈る和歌を書きつける場面などに定家本より詳しい描写があった。
 調査した大阪大の加藤洋介准教授(平安文学)は「鎌倉時代に源氏物語がどのように読まれていたかを知る貴重な資料。紫式部による原典の記述を残したか、誰かが加筆した可能性がある」と話している。
 筆体や墨の濃淡などから鎌倉時代後期に書かれた可能性が高く、江戸時代に公家などが所有していた写本を角屋が譲り受けたと推測される。
 写本は15日以降、角屋で一般公開される。(共同)

京都・島原の揚屋(あげや)だった国の重要文化財「角屋(すみや)」(京都市下京区)に伝わる源氏物語の写本が、鎌倉時代後期に書かれたことが加藤洋介・大阪大准教授(平安文学)らの調査でわかり、角屋保存会が10日発表した。源氏物語の写本は鎌倉時代初期の歌人藤原定家の校訂による「定家本」の系統が大半だが、今回の写本は定家本の系統とは異なる希少な「別本」だった。15日から7月18日まで角屋で一般公開する。
 写本は第6帖の「末摘花(すえつむはな)」で、縦横16・2センチ、65枚。仮名書体や紙質などから制作年代を特定した。同時代の末摘花の写本は約10件現存するが、別本は重文指定の「陽明文庫本」など2件のみで、定家本に比べて末摘花の容姿などの描写が詳しい。
 加藤准教授は「定家の手を経ていない別本は、紫式部が生きた平安時代の写本により近い可能性があり、重文級の貴重な発見だ」としている。
 角屋は江戸時代初期から続いた料亭で、皇族や公家ともつながりがあり、写本は寄贈された可能性があるという。(2008年3月11日  読売新聞)

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2008.5.11 京都の源氏物語千年紀を堪能してきました!

 昨日、今日と二日間、京都にいました。源氏物語千年紀関連で、さまざまな催しが企画されていて、それを見てきましたので、これから当分、それをご紹介させていただくことにします。とりあえず今日は順路を書いておきますね。

・ 高台寺で建礼門院徳子ゆかりの地の写真を撮る
             ↓
・ 徳子が過ごしたことがあるという善勝寺の地を巡る
             ↓
・ 京都文化博物館「源氏物語千年紀展 ~恋、千年の時空(とき)を越えて」展
             ↓
・ 京都考古博物館「紫式部が生きた時代の京都」展
  (これは写真撮影可でした!!)

             ↓
・ 宇治の源氏物語ミュージアム
  (ここも、牛車など再現展示が撮影可でした!)

             ↓
・ 壬生の角屋さんで新発見の源氏物語写本を見る
             ↓
・ 平家ゆかりの地という西八条地区を散策する

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2008.5.6 孔雀の写真を撮ってきましたが・・・

1431021 1432024 1432028 1457100 1507084  多摩動物園の放し飼いの孔雀です。園内では7羽ほどいるそうです。

 ネットで調べて多摩動物園に孔雀が放し飼いされているのを知りました。それではと撮りに行って、入り口あたりの園の人に「孔雀はどこへ行けば撮れますか?」と伺うと、「さあ・・・」というお答え。放し飼いの孔雀は、園内を縦横無尽に動きまわっているので、どこにと聞かれても困るようなのです。聞けばすぐ場所がわかって、そこへ行けば撮れるとばかり思っていたのが大違いで、結局、出逢うかどうかわからない孔雀を求めて、広い園内を歩きまわることになりました。

 幸い、一羽の孔雀と逢うことができ、その最初から去っていくまでの状況がこれらの写真です。苦心惨憺したにもかかわらず、背景や光線の具合などでとても作品になっているとは思えず、動物の写真の難しさを痛感しました。一度など、止まっているフェンスから向かいの建物まで飛び移ったのを目撃しましたが、一瞬のことでシャッターチャンスを逃がし・・・と、悔いの尽きない孔雀撮影の初回となりました。

 5月が繁殖期で尾羽が伸びると聞き、まだ早いかもとは思いつつ、ともかく状況を見に行ったのです。たぶん、まだ羽根は伸びきっていませんね。何度か通ってみようと思っています。それにしても孔雀の高貴さ!! 魅せられて止みません。

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2008.5.4 木工薔薇の生育の速さは凄い!!

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 よその庭の垣根を這う木工薔薇の見事さに惹かれて、我家でも植えてみました。

 ほんとうにジャックと豆の木のお話のように、伸びること、伸びること!! 最初はほんの50センチほどの細い一本の木だったのが、今はこんな状況です。これも、昨日ご紹介の卯の花同様、道沿いに植えたので、毎年、通る人毎に楽しんでいただいています。

 私の庭造りは、ふつうには顰蹙を買いそうだけど、『源氏物語』の「野分」の巻が原点だから、荒れた感じが好き。「這う」とか、「絡まる」とか、「伝う」とか、「こぼれる」「枝垂れる」・・・と、そんな状況になっていくのが楽しみです。家族にも唖然とされています。春は山吹、今の季節は木工薔薇、もう少したつと夏萩。秋は宮城野萩・・・。みんな枝がしなって垂れる木ばかりです。そこに、ほんとうは、すすきを植えて風になびかせてみたい・・・なんて。

 今年は木工薔薇の花の盛りに天候に恵まれなくて、突風まで吹いたりして、花の一番いい時期の写真を撮れませんでした。上の二枚は、一輪、二輪と、咲き始めたころのもの。満開を楽しみにしていたのに、お天気の回復を待っていたら三枚目のような凄い状況になっていました。でも、これだけ茂ると、薔薇のほのかな香りがあたりに漂って、素敵です。

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2008.5.3 卯の花が咲きこぼれています!!

198 201 212  小さな株の「姫うつぎ」を買って植えたのが、みるみる成長してこんなに・・・。買ったときは20センチもなかったのに、もう腰の高さです。道沿いに植えたので、通る方々に喜ばれています。

 「うつぎ」という響きに惹かれて買ったのですが、実はこれが「卯の花」だったのですね。「卯の花の匂う垣根に・・・」の歌では知っていましたが、実際の「卯の花」って知らなくて、どんなのだろうと思っていました。「うつぎ」にはいろんな種類があるから、「卯の花」もいろいろあるのでしょう。

 立川で遺跡調査に携わっていたとき、昼休みに近隣ののどかな住宅地を歩くと、よく民家の庭に真っ白な花をつけている「うつぎ」の木を見かけました。中でも目を引いたのは「梅花(バイカ)うつぎ」で、真っ白な色がそれはもうほんとうにスノーホワイトで綺麗でした。「うつぎ」に惹かれるのは、立川のそんな経験からはじまっています。

 真っ白で、とても清楚な花です。

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2008.5.1 オーロラ状にたゆたう雲にできた虹色の暈

265 299  朝、太陽にかかった薄い雲に、虹色の暈ができました。雲が少なかったので全周にはなりませんでしたが、とても綺麗でした。

 二枚目は南東発生の雲です。たゆたうように湧いていました。地殻の活発化が伺われます。

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