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2008.6.28 写真展【写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―】を開くことにしました! 1

262_2  6月22日・・・急に思い立って写真展を開くことを決めました。きっかけはパワーポイントで編集して鎌倉の源氏物語について講演をしたいと思ったこと。それで写真を選びはじめたら、それだったら写真展ができる・・・と気がついたのです。おかしいですね。昔とった杵柄で、写真展などとっくに思いついていいはずなのに、ネット社会に埋もれていたらパワーポイントしか念頭にありませんでした。

 6月23日・・・会場を予約しました。八王子市学園都市センターのギャラリーホールです。こちらではいつも源氏物語の会で会議室を利用させていただいています。ネット予約が可能で、空き状況の確認もできるのでとても便利です。都心のギャラリーだったらこんな急な予約は不可能と思いますが、とりあえず空き状況を確認したら、8月28日(木)~8月31日(日)の四日間がとれました。秋にと思ったのですが、それはさすがに満杯。それ以降だと年末になってしまいます。忙しいとは思ったのですが、二か月後の8月末ならかえって一挙に片付けられていいかも。

 6月24日・・・試案としてワードで流れを作ってみました。タイトルも決めて、【写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―】。不思議ですね。特に考えていたわけでもないのに、ワードで打ち始めたらすうっとこのタイトルが浮かんだのです。写真は鎌倉を撮りはじめてからもう10年以上にもなるほど溜まっています。その頃はまだフィルムカメラでしたから、スライド状態。PCで使用するにはスキャナーで取り込まねばならず、試案の段階でそれをしている暇はありません。とりあえずHPに載せたりしてPC内に取り込んである画像で編集してみました。写真と古典のコラボレーション的構成です。キャプションを写真のスペースと同じくらいな量にして、根拠となった古典や論文の引用を重視しての展示予定です。以下のような内容です。(ここではとりあえず文字だけ載せますので、写真はHPでご確認ください。)
 1.『源氏物語』に、
   現在紫式部の原本は残っていません。なのに、私たちが『源氏物語』を読むことができるのは、昔の人々が累々と書写し残してくれた写本があるからです。
  
(写真は、源氏物語のイメージ画像)
 
2.『源氏物語』の二大写本とは、
   藤原定家校訂の『青表紙本源氏物語』と、源光行・親行親子校訂の『河内本源氏物語』です。『青表紙本源氏物語』は京都で、『河内本源氏物語』は鎌倉で成立しました。現在活字化されて私たちが読んでいるのは、『青表紙本源氏物語』系統の本文です。
  
(写真は、嵯峨の定家小倉山荘付近)
 
3.定家と光行の青春は、
  平家文化全盛の時代でした。20歳前の二人は平家の公達たちを憧れの眼差しで仰ぎ見ながら歌を詠み合うなどして文学的感性を培っていました。
  
(写真は、厳島神社)
 
4.光行の父や叔父は、
   平家に仕えていました。光行も、後徳大寺実定や源通親のもとで福原京をつくる造営の準備作業に勤しんでいることが『源平盛衰記』にあります。
  
(写真は、京都高台寺より六波羅遠望)
 
5.源平の争乱のあと、
   光行は鎌倉幕府に仕えます。頼朝・頼家・実朝に仕えました。特に文学青年実朝には『蒙求和歌』他の三部作を贈るなど親身になって尽くしています。
  
(写真は、鎌倉大倉幕府跡)
 
6.鎌倉には、
   後に新古今歌人となる飛鳥井雅経がいて、頼家に蹴鞠を教えていました。その蹴鞠の腕を買われて雅経は上洛します。
  
(写真は、京都御所の蹴鞠会場)
 
7.後鳥羽院により
   『新古今和歌集』が成立します。飛鳥井雅経は撰者になっていました。が、光行は鎌倉にいたために一首しか入選しませんでした。その後光行は上京して後鳥羽院に仕えますが、承久の乱後また鎌倉に戻ります。そして鎌倉で生涯を終えます。
  
(写真は、水無瀬離宮跡)
 
8.『河内本源氏物語』は、
   鎌倉で光行によって校訂作業が開始されました。それはえんえんと続けられ、子息の親行に引き継がれます。親行は鎌倉で将軍家に仕えていました。そこでは北条実時が小侍所別当として近侍していました。武士でありながら高い教養を重んじる実時は親行と懇意になります。そして、親行に源氏物語の講義をさせるなど、宗尊親王の御所で『源氏物語』ブームを引き起こします。
  
(写真は、源氏物語イメージ画像)
 
9.『尾州家河内本源氏物語』は、
   『河内本源氏物語』の中でも最も由緒ある写本です。それは親行が『河内本源氏物語』を完成させた3年後に、実時が直接親行から借りて書写したものであることが奥書からわかるからです。横浜市金沢区にある称名寺と隣接する金沢文庫は実時が創建しました。『尾州家河内本源氏物語』は、最初は金沢文庫に収められていました。が、鎌倉の滅亡とともに流出。足利将軍家から徳川家へと所有者を経たあと、現在は名古屋市の徳川美術館に併設されている蓬左文庫の所蔵になっています。重要文化財に指定されています。2008年は源氏物語千年紀ですが、源氏物語というと京都のものとばかり思われていて、記念のイベントも京都に集中しています。けれど、鎌倉でも『尾州家河内本源氏物語』のような立派な写本を生みだす文化がありました。2008年はこの写本の完成750年の記念の年でもあります。それを祝いたいと思います。
  
(写真は、横浜市称名寺苑池)

 6月25日・・・ワードの試案をある方にお見せしたら、「これは面白いなあ。僕も見たいよ」とおっしゃっていただきました。手応えを感じて嬉しかったです。

 6月27日・・・用があって八王子市学園都市センターに行ったついでに予約の確認をしたら、催物案内に載せるので「催物詳細記入票」に記載して届けてくださいとのこと。行事スケジュールをどこかに貼って紹介していただけるそうです。こんなのはじめて!! 『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』を知っていただくためにこのブログを立ち上げたりして、今まで何もかも一人でやってきたのでなんだかとても暖かい気持ちになりました。

 6月28日・・・モバイルPCルークスをやっと本格的に使用する下準備として、今までランダムに使っていた状態を白紙化したくなり、吉祥寺のヨドバシへ持っていってリカバリをしてきました。これはパワーポイント用に購入していたものですが、その目的にたどりつかないまま何年かたってしまいました。それでオフィスは2003。まだXPです。そのあいだにパワーポイントは2007になっていて、これはその前のバージョンより性能がとてもよくなっているので遅れてよかったかも。このソフトも購入してインストールしていただきました。さあ、いよいよやるぞ!といった心境です。

 冒頭の写真は源氏物語ミュージアム展示室での撮影です。写真展にこれらの画像も使わせていただけるかなどのそういう確認もこれからしていきます。

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2008.6.26 高橋文二先生のラジオ講座「紫式部のみた京都」がはじまります!!

204  NHKラジオ第二放送のカルチャーアワーで、高橋文二先生の「紫式部のみた京都」がはじまります。テキストもできあがって昨日から書店に並びました。紫式部が生きた時代の京都を先生がどうお話してくださるのか、楽しみです。

*7月3日~9月25日
 毎週木曜日 20:15~20:45
 再放送金曜日 10:15~10:45

 写真は源氏物語ミュージアムの第一室で撮らせていただきました。こういう写真て映画の撮影所でなければ撮れないものなのに、ネットで見ていたらどなたかがこのミュージアムでは撮影が「可」でしたと書いていらして、驚きました。それからはもう、行きたくて行きたくて・・・。五月の京都行きはいろいろ目的はありましたが、気持のなかではこの撮影がメインでした。

 とにかく綺麗!! 日本人は中世以降の茶道などの影響で「わび・さび」が良しとされ、寺院も朱塗りの新しいものより剥落して茶色の木肌になった渋い寺院を堪能する習性がありますよね。私も以前はそうでした。でも、大阪の四天王寺を訪ねたとき、それこそ輝くような朱塗りの伽藍に囲まれて立ったとき、これが当時の人たちの寺院に対する崇敬の光景なんだ・・・と、目の覚める思いがしました。それから、私は寺院も、こういう牛車のような造り物も、新しいからといって、現代の作だからといって、軽視する気持ちがなくなりました。特に平安時代は「色」に対してとても繊細な感性の時代です。当時のままに復元されたその「新しさ」が、紫式部たちその時代に生きた人たちの見たそのまま、感動したそのままなのです。

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2008.6.25 石山寺の写真と写真展について・・・

036  ふと思い立って写真展を開くことにしました。そんなに急なギャラリーの確保は無理だろうと思いながら、とりあえずいつも使用させていただいている施設の空き状況を確認すると、八月末に連続して予約することができました。8月28日~31日の四日間です。

 これから約二か月後ですので、すぐに写真をピックアップして決めなければなりません。テーマは、執筆中の『紫文幻想』と同じく、「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」。それを「写真でたどる源氏物語の歴史」という趣向でします。

 昨日、ワードで、とりあえず幾つか写真を並べて構成をしてみました。執筆中の原稿のことなので、私のなかでは明確。それを写真で並べるだけのことです。問題は初期のころの写真は全部フィルムカメラで撮っていて、スライドになっていること。スキャンしなければならないのが手間です。

 冒頭の写真は石山寺です。2004年10月29日の撮影です。写真のピックアップをはじめたらでてきました。源氏物語千年記なので早く載せたかった写真です。その名のとおり凄い石の光景でびっくりしました。でも、この頃はもうデジカメで撮っているんですね。そういえば雲の写真を撮りはじめたきっかけがデジカメ移行だったから、2003年10月が境かも。鎌倉を歩きまくっていたころはフィルムカメラです。

 フィルムカメラで撮ったものは写真プリントで、デジカメのは印刷で、となるのかと思いきや、主人に相談したら、「君、まだそんなこと言ってるの? 今どき、写真の焼き付けなんてする人いないよ・・・」だそうです。そうっか、フィルム撮影のだってスキャンすればいいんだと、そこで気がつきました。時代は変わっています!!

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2008.6.22 連載小説「花の蹴鞠」第一回を書きました。これから・・・

60802kajuuji054  所属している短歌結社月光の会で、歌誌「月光」が隔月刊で復刊されることになりました。以前、「白拍子の風」や「寺院揺曳」を連載させていただいた同人誌です。そこに新しくまた小説を連載させていただくことになり、書いていました。

 小説のタイトルは「花の蹴鞠」。新古今歌人で定家とも親交のあった飛鳥井雅経の妻の大江広元女が主人公です。雅経に生涯寄り添って過ごし、承久の乱の年に雅経をみおくったあと、栂尾で明恵上人に帰依して過ごした女性です。

 大江広元は京から下った文人で、頼朝の腹心として源家三代将軍に仕え、鎌倉幕府の中心を担った人物として有名です。その娘が新古今歌人の雅経と結婚していたことはあまり知られていません。ちょっと意外な関係で、私もそれを知ったときはどういう繋がり?と驚きました。伏見宮廷で「源氏の聖(ひじり)」と称された飛鳥井雅有が鎌倉幕府の重鎮の北条実時の娘婿と知ったときの衝撃といっしょです。

 雅経が蹴鞠の名人でもあったためにタイトルを「花の蹴鞠」としました。頼朝にはじまって後鳥羽院、藤原定家、源通親、安達景盛といったそうそうたる人物。そして、『新古今和歌集』の成立から承久の乱といった大変な時代をまたいでの大河ドラマにもなる状況です。いっそ、大河ドラマにしていただきたいな・・・。私の文学修業はシナリオからはじまったので、大河ドラマは私の夢の頂点です。映画化よりも、小説の芥川賞よりも・・・。黒澤明監督が美術の絵の個展をするのが夢だったけどあきらめていたら、「乱」だったか「影武者」だったかで絵のコンテを描いて、それがあまり見事だったので展覧会が開かれることになり、「夢がかなった」と喜んでいられたのがとても印象的でした。私も夢をもちつづければいつかは・・・と!!と思っています。

 いったいに中世鎌倉には思っているより多くの「京の有名人」が下向しています。政治的には重要な役割を果たしているわけではないので、あまり知られていませんが、文化的にはとても深い基層をこの人たちがつくっています。なにしろ、文化は人の意志・思いの繋がりですから。

 でも、どうして後鳥羽院仙洞で『新古今和歌集』撰者とまでなった飛鳥井雅経が鎌倉の女性と? とはどなたも思われるでしょう。第一回ではそのあたりの事情をわかりやすく書きました。復刊「月光」第一号は7月末にでます。そうしたら、HPでの連載も考えています。読んでいただけたら・・・嬉しいですね。

 フォトショップやメールで使っていたウインドウズXPのパソコンが壊れて不自由しています。週末は新しくノートを購入しました。これが思いがけなく安く手に入ってびっくり。吉祥寺にヨドバシカメラができたのですが、土曜日にたまたま入ったら、入口に山と積み上げられた機種が購入を考えていたまさにそれ。その場で買って、メモリ増設などしていただいて、夕刻には持って帰りました。これからいろいろ新しい環境をつくっていかなければならず、手に入った喜びとは別にフウ~ッ、です!

 写真は京都は日野の勘修寺(かんしゅうじ or かじゅうじ)です。訪ねたとき睡蓮がとても見事でした。ちょうどその時期。今頃はまた咲いて輝いていることでしょう。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/spot/sp_kansyuuji

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2008.6.15 真っ赤な夕焼け

0615a  19:13撮影の北西の空です。全身が赤く染まるような感じの夕焼けでした。

 フォトショップは依然壊れていて、これはヴィスタ内臓のフォトレタッチで画像処理しました。機能がよくわからなくて、画像サイズなど行き当たりばったりです。

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2008.6.13 我が家のうさこちゃん 3

747 754  まだ何も準備がないまま家に連れてきたので、ケージを買うまでプランターの棚と段ボールの箱とバスタオルとで囲いをつくって入れていました。ちっちゃいのにいっちょまえの動きをして、それはもう可愛いったら・・・

 下の写真に写っている黒くて丸いふたつの粒はターニャの糞。乾いていて、ころころして、うさぎの糞は処理が楽。でも、繊細で、甘えっこに育ててしまったから、ちょっと家を空けて寂しがらせると、トイレでないところにチビッたり、軟便をしたり、慌てさせます。一昨日もたまたま家族が全員出はらって夕方までひとりぽっちにしてたから、帰ったら敷いている畳の上に軟便がべっちょり。可哀想になって、掃除よりも先に抱きあげてました。そのときの見上げた目の恨めしそうなこと・・・、しばらく治りませんでした。うさぎは人になつかないっていいますが、ターニャに関するかぎり、そんなことありません。

 昨夜、フォトショップを入れているPCが壊れてしまいました。重要データは外付けのHDに保存してあるからいいのですが、メールは全部向こうでしていました。復活しないで再インストールか、もしかしたらPC自体の買い替えになるかもしれないので、新しい方のアドレスでわからなくなったのもあるかも。まだ実感がなく、これから真っ青になる事態がおきなければ・・・と思っています。とりあえずフォトショップが使えなくなったので、当分画像アップができそうにありません。あ~あ・・・

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2008.6.12 玄奘の『大唐西域記』をめぐって

 昨日、聴講させていただいているゼミで、玄奘の『大唐西域記』に話が及びました。専門の仏教とは関係のない国文学のゼミなのですが、訓点について教授が話されているなかで、『西域記長寛点』というのがあり、それは『大唐西域記』のことで、長寛年間に興福寺の僧侶が訓点を入れたものである・・・というような流れでした。

 たまたま購入されたばかりの『大唐西域記』が研究室にあると思いだされて、教授がわざわざ取りに行って見せてくださいました。古書店で購入されたという貴重書です。

 それを開いたとき、あ、これ、読んだことがある・・・、とそんな気がしたのです。それは、玄奘が記したインドへの求法の旅の際の見聞録です。でも、上下2巻になったその貴重書そのものを読んだ覚えはないので、直訳全部を読んだのか、どなたかが要約されたのだったのか、思い出せません。でも、とにかく読んだ覚えがあって、それは質・量ともにかなりなハードな体験で、そして、そのとき、とても感動したのです。そして、昨日、その貴重書のページを開いたとたん、そのときの感動が一気に甦って、そのあと気分はずっとさわやかでした。

 その本を読んだことを何故そんなに明瞭に覚えているかには訳があって、こんなことを書くと真面目な仏教者の方から顰蹙を受けてしまいそうですが、それまで、私は「アンチ玄奘」でした。経典の訳者として、真諦や鳩摩羅汁の方から入った私は、そのお二方と訳を異にする玄奘に対して、なんとなく反目するような気分をもっていました。単純に野球で阪神ファンの人がアンチ巨人を吹聴するような次元の話です。仏教の世界に「アンチ」などもっての他と怒られてしまいますね。

 それで、仏教に関心をもってさまざま本を読み耽っても、玄奘に関する分野だけは意識的に避けていました。が、何かの折に、やはりこれは読んでおかなくてはと思って、図書館にあったその本を借りて一気に読んだのでした。そして、やはり、読んでよかったと思いました。玄奘を勝手に嫌いと思っていた思いをすっかり拭い去ることができましたから。

 昨日から、その本がどういうタイトルだったか、『大唐西域記』の訳本だったのか、どなたかがまとめられたものだったのか、一生懸命思い出そうとしているのですが、どうしてもわかりません。図書館のあのコーナーのあの棚にあった本・・・とまではっきり覚えているのですが。先ほど、図書館の蔵書検索でそれらしいキーワードを入れてみましたが、該当する本はありませんでした。

 でも、昨日、思いがけず西域記の文章に触れて、その時代の真摯な魂に触れて、ロマンあふれる光景を彷彿とすることができて、今もこころがとてもゆたかです。仏教書の世界には、思念が触れるだけで精神の中枢を取り戻させられる力があります。

 こんなことを思うのも、その前日まで読んでいた井上靖さんの『敦煌』の影響も大きいと思います。久々に小説を書くことになって、文体を模索しはじめたとき、ふっと、『敦煌』を思ったのでした。高校時代に夢中になった本です。それで、小林秀雄さんの監修でだされた文学全集の井上靖さんの号を出して、二日間、読みふけりました。堪能しました。そして、心が西域の光景と仏教に対する思いとに満ちあふれました。そんな翌日に『大唐西域記』がでてきたのです。これもなにかの因縁なのでしょう。そういえば、先日行った東京国立博物館の「国宝 薬師寺展」にも、玄奘像がでていました。

 なんだかとりとめのない話になってしまいましたが、私にはちょっとした西域事件でした。

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2008.6.9 我が家のうさこちゃん 2

722 712 710  我が家のうさこちゃんシリーズの二回目。名前はターニャ。また家に来た当日の写真をアップさせていただきます。2006年10月19日だから、一年半ちょっと前ですね。今はもうすっかり成長して部屋を縦横無尽、我が物顔に走りまわっていますが、この日はまだ不安そうに人の顔をうかがってばかりいました。

 写真のように手のひらに収まる小ささだったから、ショップから家に連れて帰るのにボール紙の箱に入れられて来たんですよ!お店のお兄さんが、じゃあ、って、小さな箱にするっと入れたときはびっくりしました。

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2008.6.8 【国宝 薬師寺展】最終日、夜間開館のお勧め

 上野の東京国立博物館で開催されている「国宝 薬師寺」展ですが、今日が最後ですので取り急ぎアップさせていただきます。

 昨日、やっと私も行くことができました。日を追って混雑が報道され、90分待ち、二時間待ちなどと聞くに及んで、無理かなあと半ばあきらめていたのですが、先週届いた東京国立博物館のメールマガジンに、「4日から最終日の8日まで、20:00までの夜間開館をしていますのでどうぞ」とあり、行くことにしました。結果として、夜間開館はお勧めです!! 今日が最後なのでお役にたたないかもしれませんが、とりあえず、これからと思っていられる方に間に合えばいいと思い、書きますね。

 昨日は、15:30頃上野に着きました。その時点で70分待ち。都美術館に用があって行って、再び戻った17:00頃には30分待ちになっていて、待ち合わせた主人と合流して中に入ったら20分待ちの行列の最後尾。観覧し終わってでてきた19:00過ぎには並ばずに入れる状況になっていました。もし、最終日で混雑するからとあきらめている方がいられたら、17:00過ぎに行かれればいいですよ!! 

 ちなみに、都美術館に行ったのは、月光の会でご一緒の有賀真澄さんから案内をいただいていたからでした。「駒(こま)展」(駒の字は本当は違って、馬偏の難しい字です。)に作品をだされています。絵画とオブジェで、繊細で美しい、妖しい世界。 有賀さんの世界にはいつも立ち去り難く拝見させていただいています。10日(火)までです。

訂正:有賀さんの「こま展」は、「齣」でした。馬偏とばかり思い込んでいて失礼しました。

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2008.6.7 『十六夜日記』阿仏尼が住んだ鎌倉の邸宅跡

145  相続にかかわる訴訟のために鎌倉に下向した阿仏尼が住んだ邸跡です。江ノ電の極楽寺駅をおりて歩いていったところにあります。

 阿仏尼は藤原定家息為家の晩年の妻。後妻です。先妻は宇都宮氏の女性で為氏らこどもが何人かいます。遅くなって生まれた阿仏尼とのあいだにできた子の為相の将来を心配した為家が、一旦は長子為氏に譲った細川荘を、為相への相続に切り替えたところから問題が発生します。

 為氏は為家の決定を受け入れますが、いざ為家が亡くなると、それを無視。埒があかないので、阿仏尼が幕府に直接訴えるために、建治3年(1277)、鎌倉に下向したのでした。為氏は阿仏尼とはほぼ同年齢と思われ、それだけでも相当複雑な関係がうかがわれます。

 結局、阿仏尼の生前に訴訟の決着がつくことはなく、20年もの長きに渡って争われた結果、為相の勝利となります。ここにあの金沢文庫の金沢北条氏当主貞顕がからんでくるのですが、長くなりますので、ここでは省略。いつか書きますね。

 『十六夜日記』は阿仏尼が鎌倉に下向した際の紀行文です。ここに、住んだ邸の記述があります。

 東(あずま)にて住むところは月影の谷(やつ)とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなればのどかに過ごして、波の音、松の風絶えず。

 「山寺」は極楽寺。「浦」は由比ガ浜です。極楽寺駅一帯の奥には今も月影ガ谷(つきかげがやつ)の地名があるそうです。でも、この碑がたっている邸あとは谷戸ではなく、江ノ電の線路際。電車が通ると画面左端にもう写りこむ位置です。

 住んでいたのはこの場所ですが、墓は北鎌倉と鎌倉のあいだの横須賀線の線路脇にあります。寿福寺の近くです。線路をはさんだ向かいに浄光明寺があり、子息の為相が住んだのはそこの藤ガ谷というところでした。為相の墓がその裏山にあります。為相の母の墓をいつでも眺められるようにという意向で、裏山からみおろせる場所に造ったといわれています。

 訴訟での下向といい、『十六夜日記』が他の女流文学に比してあまり匂いやかでないために、どうしても阿仏尼の評価は「母は強し」みたいな、力の勝った女性に思われがちです。でも、もともとは安嘉門院のもとに女房として出仕もしていましたし、為家との出逢いが『源氏物語』を介してというように、優美な世界の人でした。為家が『源氏物語』の書写をしてくれる書き手を探していたところ、娘の一人が阿仏尼を連れてきたという発端です。若くて文学的にも秀で、秘書として有能な阿仏尼に為家がほれ込んでしまったのでした。まさか、その後、訴訟のような殺伐とした人生が待っているなど、夢にも思わない、『源氏物語』さながらの甘い新婚生活が嵯峨でおこなわれたのですが・・・

 阿仏尼が極楽寺の付近に住んだのは、出家して縁のあった奈良の法華寺の関係で、律宗の繋がりといわれます。

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2008.6.6 『とはずがたり』二条が見ただろう、極楽寺坂からの鎌倉遠望・・・成就院より

166 163 171  極楽寺を参拝して鎌倉へ向かう途中の坂道が極楽寺坂です。

 その途中にある成就院から見下ろして見る鎌倉の光景は有名です。なにしろ、こんなふうにして一望のもとに鎌倉を眺められる唯一のスポットですから。そして、その参道の両脇に紫陽花が植えられていて、花を見る好スポットとしても有名です。この季節のこの光景の写真をご覧になった方は多いでしょう。たまたま稲村ガ崎を歩いた帰りでしたが、紫陽花が咲きはじめたばかりでみずみずしく、以前から訪ねてみたかった場所なのでラッキーでした。

 『とはずがたり』二条は、鎌倉へはこの極楽寺坂を通って入りました。これも有名な一節を。

 あくれば鎌倉へ入るに、極楽寺という寺へ参りて見れば、僧の振る舞い都に違わず、懐かしく覚えて見つつ、化粧坂という山を越えて鎌倉のかたを見れば、東山にて京を見るには引き違えて、階段(きざはし)などのように、重々に、袋のなかに物を入れたるように住まいたる、あな物侘びしとようよう見えて、心とどまりぬべき心地もせず。

 二条は極楽寺に参拝しました。そこで見た極楽寺の僧侶たちは「都に違わず」とありますから、姿・形、挙措・動作の一切が洗練されて優美だったのでしょう。長い旅路でずっとむさ苦しい環境のなかにいた二条に、「都に違」わない光景は、心潤すほっとしたものだったことと思います。当時の仏教が、いかに現代と違って、華やかなひとつの文化として人々の心に浸透し、憧れられていたかを伺い知る貴重な一節と思います。

 ここでは化粧坂からとなっていますが、このあと由比ガ浜へおりていますので、成就院のこの場所から眺めた光景を描写したと思っていいのでしょう。その鎌倉は、「ぎゅうぎゅうに物を袋に詰めた」ように家屋が折り重なって建っているように見えた。とても京都で東山から見下ろした都の光景には似ても似つかない侘しいものだった、そうです。

 この感覚、わかりますね。最初に鎌倉に慣れて、それから京都の街区をタクシーで走った私は、行けども行けども道が尽きない平安京の広さにびっくりしましたから。二条は鎌倉の狭さにびっくりしたわけですが、「階段のように折り重なって、袋のなかにぎゅうぎゅう物を入れたみたいに住んでいる」という表現、上手いなあと思います。たんに、「坂のうえから見た鎌倉は狭い」だけでないこの表現があるからこそ、二条の鎌倉入りの印象を際立たせているんですね。

 それにしても、かつての極楽寺が後深草院に愛されて宮中の雅を知り尽くしている二条の目にも「それと同等」と映ったほど、当時の極楽寺は栄えていたんです。現在からは伺い知れない文化圏がここにあったんですね。

 写真は三枚とも成就院前からの遠望。浜は由比ガ浜。下の方に参道へ昇る階段入口の山門が見えています。三枚目右奥に見えている青い屋根の伽藍は材木座地域の光明寺です。

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2008.6.4 新田義貞軍の後をたどって、潮が引いた稲村ガ崎を渡ってきました!

034 049 120  百聞は一見にしかず・・・ですから、とりあえず画像をアップさせていただきます。最初の三枚は、潮が引いた稲村ケ崎の先を、時に膝下まで海水につかりながら歩いている一行です。

 江ノ電の稲村ガ崎駅をおりて歩いて数分の稲村ガ崎公園から海に入りました。この日の最大干潮は11:08。それを過ぎるとまた潮が満ちてくるので、それまでに渡り終わらなければなりません。10:30少し前に入ったのですが、途中、「潮が満ちはじめているから早く!」の掛け声に、やはり恐怖を覚えました。三枚目あたりまで来ると岩場が一段高くなっていてほっとしましたが。

 一枚目は、その稲村ガ崎公園の下から海に入ったときの光景。左端の崖が稲村ケ崎。鎌倉はその奥に隠れていて、遠くに三浦半島が見えています。二枚目は稲村ガ崎の先端を鎌倉の方へ回り込んでいるところ。三枚目はその後で、もう少しで鎌倉に上陸というところです。

 次に歩きながら撮った光景を・・・。ウニがたくさんいましたし、タコも、イソギンチャクも、動いていました。岩は侵食されてほとんど芸術的。普段は撮れない稲村ガ崎の反対側の光景もバッチリ撮りました。一枚目は稲村ガ崎公園にあった碑。遠くに江の島が見えています。最後は、引率の峰岸純夫先生が、「剣を海に投げ込んだのはあのあたりでしょうかねえ」と見上げながら指さされた稲村ガ崎の崖です。新田義貞は武運を祈って剣を海に投げ込み、それが功を奏したと『太平記』にあります。八枚目のピンクの海草の写真には、二個、黒いウニが隠れています。ウニって、一個ずつ穴に嵌まっているんですね。本来なら、海中の光景です!

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2008.6.3 再び孔雀の写真を撮ってきましたが 5・・・【膨らんだり、羽根が煽られたり、いろいろな孔雀の動き】

262 007 048 049 349  孔雀の画像アップの最後は動きをテーマに並べてみました。孔雀というと、開いた羽根の見事さに、完成された肖像画のような構図の写真しか見たことがなかったのですが、こうして追って見ると動きがとても細やかで、一方で獰猛で、とても多彩。興味は尽きません。羽根を開いた写真だけでは忘れていた「孔雀も生き物なんだ」という発見は新鮮でした。

 でも、とにかく陽のあたる場所での開いた羽根の孔雀を撮りたい!! 時間がなくて今年は無理かもしれませんが、一応、あきらめずにもう一度行ってみようと思っています。

 朝、用があって郵便局に行ったら、自分だけのオリジナル切手を作ることができるんですね。80円切手が10枚で1200円。一枚につき40円割高だけど、孔雀の切手って、そういえばないなあ、作ってみようかしら・・・などと思ってしまいました。マイ・切手!!です。

 しばらく孔雀の写真で文学の話題を書きませんでしたが、久々に小説を書くことになりそう。二か月に一回の小さな連載なので書きかけの『紫文幻想 ―源氏物語写本に生きた人々―』の邪魔にならずにできるでしょう。それより、主人公をこの原稿にも登場する人物の周辺にもっていくので、相乗効果でいい結果がでるといいなと思っています。

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2008.6.2 再び孔雀の写真を撮ってきましたが 4・・・【孔雀が飛んだ!! 鳥だから当たり前ですが・・・】

077 310 351 352  まだデジタルを使いこなせなくて恥ずかしいのですが、飛んだ孔雀の画像を載せておきます。日陰だからスローシャッターになってしまって、飛んだ瞬間をピントがあって、ブレていなくて、という画像をご紹介できずにごめんなさい。でも、珍しいので・・・

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2008.6.1 再び孔雀の写真を撮ってきましたが 3・・・【陽があたってかがやく尾羽根の色】

116 119 101 087 110  陽があたってかがやくと、尾羽根はこんなに綺麗です。陽のあたった場所で羽根を開いた孔雀を撮りたいのですが・・・

織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/

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