2008.6.7 『十六夜日記』阿仏尼が住んだ鎌倉の邸宅跡
相続にかかわる訴訟のために鎌倉に下向した阿仏尼が住んだ邸跡です。江ノ電の極楽寺駅をおりて歩いていったところにあります。
阿仏尼は藤原定家息為家の晩年の妻。後妻です。先妻は宇都宮氏の女性で為氏らこどもが何人かいます。遅くなって生まれた阿仏尼とのあいだにできた子の為相の将来を心配した為家が、一旦は長子為氏に譲った細川荘を、為相への相続に切り替えたところから問題が発生します。
為氏は為家の決定を受け入れますが、いざ為家が亡くなると、それを無視。埒があかないので、阿仏尼が幕府に直接訴えるために、建治3年(1277)、鎌倉に下向したのでした。為氏は阿仏尼とはほぼ同年齢と思われ、それだけでも相当複雑な関係がうかがわれます。
結局、阿仏尼の生前に訴訟の決着がつくことはなく、20年もの長きに渡って争われた結果、為相の勝利となります。ここにあの金沢文庫の金沢北条氏当主貞顕がからんでくるのですが、長くなりますので、ここでは省略。いつか書きますね。
『十六夜日記』は阿仏尼が鎌倉に下向した際の紀行文です。ここに、住んだ邸の記述があります。
東(あずま)にて住むところは月影の谷(やつ)とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなればのどかに過ごして、波の音、松の風絶えず。
「山寺」は極楽寺。「浦」は由比ガ浜です。極楽寺駅一帯の奥には今も月影ガ谷(つきかげがやつ)の地名があるそうです。でも、この碑がたっている邸あとは谷戸ではなく、江ノ電の線路際。電車が通ると画面左端にもう写りこむ位置です。
住んでいたのはこの場所ですが、墓は北鎌倉と鎌倉のあいだの横須賀線の線路脇にあります。寿福寺の近くです。線路をはさんだ向かいに浄光明寺があり、子息の為相が住んだのはそこの藤ガ谷というところでした。為相の墓がその裏山にあります。為相の母の墓をいつでも眺められるようにという意向で、裏山からみおろせる場所に造ったといわれています。
訴訟での下向といい、『十六夜日記』が他の女流文学に比してあまり匂いやかでないために、どうしても阿仏尼の評価は「母は強し」みたいな、力の勝った女性に思われがちです。でも、もともとは安嘉門院のもとに女房として出仕もしていましたし、為家との出逢いが『源氏物語』を介してというように、優美な世界の人でした。為家が『源氏物語』の書写をしてくれる書き手を探していたところ、娘の一人が阿仏尼を連れてきたという発端です。若くて文学的にも秀で、秘書として有能な阿仏尼に為家がほれ込んでしまったのでした。まさか、その後、訴訟のような殺伐とした人生が待っているなど、夢にも思わない、『源氏物語』さながらの甘い新婚生活が嵯峨でおこなわれたのですが・・・
阿仏尼が極楽寺の付近に住んだのは、出家して縁のあった奈良の法華寺の関係で、律宗の繋がりといわれます。
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