2008.7.30 写真展【写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―】を開くことにしました! 17
ご案内の葉書は500枚刷りました。印刷は、本の出版でもそうですが、最初の単位の例えば100枚とかは高いんです。版を作るのにお値段が張るんですね。紙代なんてそれに比べたら僅かです。だから、300枚でも、500枚でも、100枚からほんの千円単位で違うだけ。なので、500枚刷りました。
出来上がる話をしたときに、主人が「何枚刷ったの?」というので、私は基本の100枚よりすごく多く注文したイメージが強くて、いつのまにかそれが頭のなかでどんどん膨らんで、「1000枚」なんて答えてしまいました。そうしたら主人があきれて、「内の会社で何か刷るときだって、500枚だよ」と。私は会場にも置いていらした方が欲しかったら持っていっていただきたいし、余っても将来の履歴代わりにみたいなことを思っているので、「いいじゃない・・・」とあっけらかんと答えていました。そして、届いた箱を開けたら、「500枚」。思いが増殖してたんだ・・・とおかしくなりました。もちろん、主人に訂正しましたが、主人はもう気がそれていてどうってことないような返事でした。
写真は、比叡山無動寺谷の明王堂です。千日回峰行の根本道場です。「白拍子の風」という小説で主人公にして書いた慈円が、若いときに籠ったのがこの無動谷でした。兄の九条兼実の日記『玉葉』では、「無動寺法印」と呼ばれています。慈円は幼いときに出家させられ比叡山で過ごします。その後、兼実に摂関家のために働くよう言われ、反発して籠ったのが無動寺谷でした。慈円には「正しい道」意識があって、自己の意志と関係なく入れられた仏道の道ですが、真実の道ということに生涯ずっと心の基点を置いていました。それが、「慈円の道理」です。この意識のもとで、慈円は承久の乱へ突っ走ろうとしている後鳥羽院を宥めつづけ、後鳥羽院へ向けて書いたのが『愚管抄』です。大隈和雄氏のよってわかりやすく説かれた「慈円の道理」。それを知って、すっかり私は慈円のファンになりました。そして、それが小説へとなったのです。
慈円が住んだ無動寺谷のお堂は写真の明王堂ではありません。無動寺谷に無動寺という寺院はなく、点在するそれぞれのお堂があるだけです。訪ねたとき、慈円由緒のお堂までたどりつきたかったのですが、あまりにここまで下りた谷が深くて疲労が激しく、その逆の上りを考えたら帰りのケーブルに間に合うかおぼつかなくて、あきらめました。ただ、ここが千日回峰行のお堂と知っただけでも感激でした。この前庭からははるかに琵琶湖が望めます。慈円はこういう光景を望んで何を思っていたのか考えるだけでも深い思いに浸ります。
展示する写真にキャプションをつけています。『新古今和歌集』の時代の章に、慈円ゆかりとしてこの写真を選びました。「後鳥羽院・定家・飛鳥井雅経・慈円」の四人です。ただ『新古今和歌集』歌人として慈円を入れたのですが、最初、光行と接触がないからはずそうか迷いました。でも、どうしても慈円は入れたくて、残しました。キャプションをつけていたら、慈円は『平家物語』の編纂者に比定されています。そして、光行は執筆者の一人といわれています。どこかで接点があったはずです。探っていったら、これもまた深い世界になりそうです。キャプションにそれを書くことにしました。
織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/