●ごあいさつ
源氏物語二大写本である『青表紙本源氏物語』と『河内本源氏物語』は、亡くなった平家の方々を偲ぶ心から生まれました。『青表紙本源氏物語』の校訂者藤原定家と、『河内本源氏物語』の校訂者源光行は、一歳違いの同世代です。二人が二十歳の頃は平家文化の全盛期でした。二人はそこで平家の公達方と一緒に歌を詠みあうなどして青春時代を過ごしました。平家文化は二人の生の、文学の、原点でした。
平家が朝敵となって都落ちしたとき、二人は親しかった方々の、恩ある方々の、滅びゆくのを、成す術もなくじっと辛さに耐えてみすみす見送るしかありませんでした。でも、二人の心には、平家の方々の思い出は、華やかだった文化の思い出とともにずっとあり続けました。『源氏物語』写本の校訂作業は、そういう二人の心におのずと芽生えて始められました。なぜなら、平家文化は王朝文化という源氏物語世界のこの世での具現にほかなりませんでしたから。
二大写本といわれる両書が、そういう二人によって成されたことは、決して偶然ではないと思います。この作業に没頭しているあいだ、二人は平家の方々と生きて交流できたのです。それは、どんなにか懐かしく、ひたすら楽しい、至福のひとときだったことでしょう。二人は決して学問として『源氏物語』写本を仕上げたのではありませんでした。文学として、おのれの、ひいては平家の方々の生きた証として、成し遂げたのです。
この写真展は作品展ではありません。すべて小説や論文を書くための取材で撮り溜めた写真ばかりです。そのために一枚一枚に意味があります。それを時系列に並べたら、このような世界が浮かびあがりました。藤原定家の心になって、源光行の心になって、ご高覧いただけましたなら幸いに存じます。
●キャプション
第一章 『源氏物語』の世界
1. 藤原道長の土御門殿跡
角田文衛氏「土御門殿と紫式部」より/仙洞御所の北池と南池との境をなす狭い部分に架された石橋の辺が土御門殿の南限であり、北限は清和院御門に通ずる広い道路敷地の北の緑地帯南辺である。大宮御所と仙洞御所の境界は、大体のところ土御門殿の西限とみてよかろう。
2.孔雀(多摩動物園にて撮影)
河添房江氏『光源氏が愛した王朝ブランド品』より/長和四年(1015)二月十二日条のように、宋商人の周文裔から大宰大監の藤原蔵規を経由して、孔雀が三条天皇に献上された際、道長はそれを下賜されています。道長は孔雀を土御門邸で飼育し、孔雀は卵を十一個産みますが、百余日を経ても孵化しなかったといった苦労話もあったようです。
3.京都府 宇治平等院
角田文衛氏「源氏物語の遺跡」より/光源氏は、宇治に別荘をもっており、それは嫡男の夕霧に伝えられた。この別荘が藤原道長の「宇治の別業」をモデルとしていたこと、そしてそれが平等院の地にあったことは、早く一条兼良が指摘した通りであって、これについては学界に異議はみられない。
4.京都府 宇治上神社
角田文衛氏「源氏物語の遺跡」より/浮舟の父に当る八の宮の山荘・宇治宮は、夕霧の山荘の川を隔てた真向かいにあり、河辺に接して営まれていた。(中略)夕霧の山荘の真向かいは、宇治神社の境内となっている。(中略)恐らく紫式部は、同じ真向かいと言っても、神社の南に接した河畔、現在、朝日窯元のある場処に宇治宮を想定していたとおもう。
第二章 『源氏物語』写本の世界
5.滋賀県 石山寺
奥田勲氏「紫式部と『源氏物語』」より/寛弘元年(1004)、紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていた。(中略)参籠から何日目か、八月十五日の夜、月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮かび、手近にあった『大般若経』の紙背に、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋ひしく……」と、書き始めた。
6.京都府 蘆山寺
角田文衛氏「紫式部の居宅」より/紫式部の居宅は、蘆山寺の境内、すなわち京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町三九七番地にあったと判定されるのである。
角田文衛氏「土御門殿と紫式部」より/土御門殿の東北の筋向いは、藤原為頼・為時兄弟の邸宅、すなわち紫式部の家であった。
7.滋賀県 日吉大社
池田利夫氏『河内本源氏物語成立年譜攷』治承二年(1178)より/八月二十三日以前か、日吉社五首歌合が催され、光行が出詠したか。俊成判詞あり。/日吉社五首歌合/源光行/よよをへて玉ゆへなきし人たにもつゐにはかくとしられやはせぬ 【注:『原中最秘抄』には光行が『河内本源氏物語』を成すにあたり恩恵を受けたとする四人の名前があり、俊成はその一人です。】
8.京都府 石清水八幡宮
西澤誠人氏「顕昭攷―仁和寺入寺をめぐって―」より/ 源光行は、『和歌文学大辞典』によると「和歌を藤原俊成・定家に学んだらしい」とあるが、和歌の指導者として仰いだのはむしろ六条家歌人、特に顕昭ではなかったろうか。光行は、石清水社系の歌合にほとんど出詠しており、石清水文芸サークルの代表的一員であった。
第三章 平家文化の時代
9.京都府 白河院跡
高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』より/清盛は伊勢平氏の棟梁の実子ではなく、実は白河法皇の落し胤で、忠盛は育ての親だった。(中略)保安元(1120)年七月一二日、忠盛の最初の妻が急死しているが、この女性を清盛の母と考える点については従来異論がない。彼女の死に際して貴族の日記は、「仙院の辺」、すなわち白河法皇の身近に仕えていた女性だと記す。【注:清盛の側近には光行の叔父「源大夫判官季貞」がいます。】
10.広島県 厳島神社
高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』より/社殿の大規模化は、長寛二(1164)年の平家納経の奉納に前後して始まったと考えられ、仁安三(1168)年十一月に完成をみる。【注:光行は福原遷都の宮城地定めの際、後徳大寺実定・源通親に仕えました。『原中最秘抄』には光行が『河内本源氏物語』を成すにあたり恩恵を受けたとする四人の名前があり、実定と通親息の通光はそのうちの二人です。】
11.大分県 宇佐八幡宮
『平家物語』より/この経正、十七の歳、宇佐の勅使を承って下られけるに、その時青山(琵琶)を給わって、宇佐へ参り、御殿に向かい奉り、秘曲を弾き給いしかば、いつ聞き慣れたる事はなけれども、供の宮人おしなべて、緑衣の袖をぞ絞りける。聞き知らぬ奴までも村雨とはまがじな。めでたかりし事共なり。
12.琵琶湖 竹生島
『平家物語』より/経正は詩歌管弦に長じ給える人なれば、かかる乱れの中にも心を澄まし、湖の端に打ち出でて、遥かに沖なる島を見渡し、供に具せられたる藤兵衛有教を召して、「あれをばいずくと言うぞ」と問われければ、「あれこそ聞こえ候竹生島にて候え」と申す。「げにさる事あり。いざや参らん」とて、藤兵衛有教、安衛門守教以下、侍五六人召し具して、小舟に乗り、竹生島へぞ渡られける。
13.高御座(京都御所)
伊井春樹氏『源氏物語注釈史の研究 室町前期』より/白河院か後白河院の周辺で作成された源氏絵巻(注:国宝『源氏物語絵巻』)が、建礼門院の所有となり、やがて平家滅亡後に将軍家(注:鎌倉第六代将軍宗尊親王)へと伝来したものと考えられる。【注:光行の父光季は建礼門院徳子の安産祈願に催された田楽奉納で神主代を勤めました。】
14.京都府 大原三千院
『平家物語』より/文治二年の春の頃、法皇(注:後白河)、建礼門院大原の閑居の御住い(注:寂光院)御覧ぜまほしう覚し召されけれども、二月三月の程は風激しく余寒も未だ尽きせず、峰の白雪消えやらで、谷のつららもうち融けず。春過ぎ夏来たって、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ御幸なる。
15.奈良県 興福寺
『吾妻鏡』治承四年(1180)十二月二十八日条より/今日、重衡朝臣南都を焼き払うと云々。東大・興福両寺の郭内、堂塔一宇としてその災を免れず。仏像・経論同じくもって回禄すと云々。
16.奈良県 東大寺
興福寺と同じく重衡の南都焼討で灰燼に帰した東大寺は、建久六年(1195)に再建されます。その落慶供養に上洛した頼朝の供奉者のなかに光行がいます。光行はこれより以前に鎌倉に移住し、頼朝に仕えていたのでした。
第四章 鎌倉 その一
17.鎌倉 鶴岡八幡宮
『吾妻鏡』元暦元年(1184)四月十四日条より/源民部大夫光行・中宮大夫屬入道善信等、京都より参着す。光行は豊前前司光季(光行父)平家に屬するの間、これを申し宥めんが為なり。【光行は平家に仕えてつかまった父の赦免に、三善康信に伴なわれて鎌倉に下向し頼朝に嘆願したのでした。この時は許されてすぐ帰洛します。】
18.鎌倉 流鏑馬
鎌倉には頼朝に仕えて飛鳥井雅経がいました。光行と同じく源平の争乱で運命を狂わされて下向した一人です。頼家に蹴鞠を教えており、その腕を買われて後鳥羽院に召され上洛します。そして藤原定家らとともに後鳥羽院歌壇の一員となり、『新古今和歌集』撰者になっていきます。
19.鎌倉 大倉幕府跡
頼朝が開いた最初の幕府、大倉幕府は現在の清泉小学校の場所にありました。南都焼討の罪で捕らえられ鎌倉に護送された平重衡は、ほぼ一年間、頼朝に一室を与えられここで過します。身の回りの世話をする千手の前とのひとときの平和な日々でした。
20.京都府 日野法界寺
角田文衛氏『平家後抄 上』より/輔子(重衡の妻)は醍醐寺の僧で東大寺の大勧進の任にあった俊乗房重源を通じて重衡の梟首を貰い受け、骸と同様、日野において荼毘に付した。(中略)彼女はまた近くの法界寺で衆僧を請じて重衡のために追善供養を催し、その冥福を祈り、自らは落飾して尼になったのである。
第五章 鎌倉 その二
21.鎌倉 白旗神社
鶴岡八幡宮境内にある頼朝を祀る神社です。頼朝亡き後も光行は鎌倉に留まり、頼家、実朝、と源家三代将軍に仕えました。特に実朝には文学の師として多大な影響を与えています。実朝が暗殺されたとき、光行はすでに帰洛しており、子息親行が鶴岡境内のその場に居合わせました。
22.鎌倉 御鎮座祭
コロムビアCD『日本古代歌謡の世界』解説書より/毎年十二月十六日夕刻五時より、鎌倉鶴岡八幡宮の社頭で、源頼朝公開府以来伝承される八幡宮神職による「其駒人長舞」が奏される。大石段、大銀杏、そして篝火、中々の雰囲気で、なんとも幽玄の世界であった。
23.鎌倉 永福寺跡
永福寺は頼朝建立の寺院です。宇治平等院と同じ伽藍形式で、大倉幕府裏手にありました。中央が二階大堂、左右に阿弥陀堂と薬師堂が並びます。光行は阿弥陀堂の担当奉行でした。『吾妻鏡』建仁三年(1203)十二月十四日の条では、将軍に就任したばかりの実朝に供奉して光行も参拝しています。
24.鎌倉 朝比奈切通し
一方を海に、三方を山に囲まれた鎌倉には七つの切通しがあります。朝比奈切通しは鎌倉と称名寺のある六浦を結びます。東京湾に面した六浦は当時、唐船が何艘も停泊する外港でした。
第六章 『新古今和歌集』の時代
25.大阪府 水無瀬離宮跡
後鳥羽院による『新古今和歌集』は元久元年(1205)三月に完成。光行の入集は一首でした。撰者のなかに藤原定家と飛鳥井雅経がいます。後京極良経が仮名序を書きました。【注:『原中最秘抄』には光行が『河内本源氏物語』を成すにあたり恩恵を受けたとする四人の名前があり、良経はその一人です。】
26.京都府 仁和寺
新儀非拠達磨歌と誹謗されていた定家の歌風に魅せられ、後鳥羽院は和歌に傾倒します。それが『新古今和歌集』になりました。定家がその新しい歌風を確立したのが、仁和寺の守覚法親王主催による『仁和寺宮五十首』でした。/大空は梅の匂ひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月/春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるる横雲の空
27.京都府白河 最勝寺跡
『新古今和歌集』より/最勝寺の桜は鞠の懸かりにて久しくなりにしを、その木年経りて風に倒れたる由聞き侍りしかば、をのこ共に仰せて異木をその跡に移し植えさせし時、まず罷りて見侍りければ、数多の年々暮れにし春まで立ち馴れにける事など思い出でて詠み侍りける/藤原雅経朝臣/馴れ馴れて見しはなごりの春ぞともなど白河の花の下蔭
28.比叡山 無動寺谷明王堂
比叡山南端にある無動寺谷は深い谷です。明王堂は千日回峰行の根本道場です。『新古今和歌集』きっての歌人慈円が、若い頃籠ったのが無動寺谷の大乗院で、兄兼実の日記『玉葉』では「無動寺法印」と呼ばれています。慈円は『平家物語』を編纂したといわれ、光行は『平家物語』執筆者の一人といわれています。
第七章 承久の乱前後
29.京都府 嵯峨小倉山荘跡
定家は後鳥羽院の勅勘を受けて蟄居。古典籍の書写に没頭します。親行とは『拾遺愚草』の清書を依頼したり、『新古今和歌集』の校合をするなどの交流がありました。貞応二年(1223)書写の『平瀬本源氏物語』横笛巻は親行によるものと思われます。
30.京都府 嵯峨二条良基墓所
角田文衛氏「藤原定家の小倉山荘」より/定家の小倉山荘の地が二条家の道平の山荘となり、その子の良基に伝えられた(中略)。定家の小倉山荘は、現在の二条墓をその一隅にもつ二尊院門前の善光寺山町中部、東部、往生院町東部―いずれも愛宕路の東側に亙っていた。【注:嘉禄元年(1225)、定家の『青表紙本源氏物語』完成】
31.京都府 高台寺より六波羅遠望
光行は晩年の建礼門院徳子に娘美濃局を女房として出仕させています。それは徳子が大原から移られた白河善勝寺においてと思われます。その後徳子は鷲尾の金仙院(注:現在の高台寺)に。角田文衛氏は『平家後抄 下』で「女院は毎日、朝な夕なに金仙院の桟敷からどのような心情をもって眼下の六波羅第址のあたりを見渡しておられたのであろうか」と書かれています。
32.京都府 高台寺時雨亭
角田文衛氏『平家後抄 下』より/鷲尾の中腹の稜部―現在、伏見城より移建したと伝えられる重要文化財の時雨亭と傘亭が建っているあたり―に家成の三重塔があり、それに近接して女院の陵が営まれたと推定されよう。【注:貞応二年(1223)三月、建礼門院徳子崩御】
第八章 称名寺と『源氏物語』
33.称名寺 境内苑池
横浜市金沢区にある称名寺は北条実時の創建です。実時は鎌倉幕府の重鎮として泰時・経時・時頼・時宗ら代々の執権を補佐しました。鎌倉に住む傍ら称名寺境内に別邸を構え、隣接して金沢文庫を創設。また、小侍所別当として将軍に近似。特に第六代将軍宗尊親王が文学少年だったことから、文化・教養を重んじる実時は親身になって仕えました。
34.称名寺 実時邸跡より望む
実時が仕えた将軍御所には親行の他、飛鳥井雅経息の教定がいました。親行は光行から『河内本源氏物語』校訂作業を引き継いでおり、教定は宗尊親王に源氏物語色紙絵屏風を制作するなど、御所には『源氏物語』熱が起きています。
『吾妻鏡』建長六年(1254)十二月十八日条より/御所において光源氏の物語の事御談義あり。河内守親行これに候ず。
35.称名寺 北条実時銅像
■『河内本源氏物語』完成
東山御文庫本奥書より/嘉禎二年(1236)二月三日始校書。建長七年(1255)七月七日果其篇 朝儀大夫源親行
■『尾州家河内本源氏物語』完成
夢の浮橋奥書より/正嘉二年(1258)五月六日河州李部親行之本終一部書写之功畢 越州刺史平(花押)【注:実時】(2011.9.16追記:その後の研究で、『尾州家河内本源氏物語』は実時の正嘉二年書写本そのものではなく、さらに八年後の文永三年頃に宗尊親王によって作られたことがわかりました。実時の奥書はそのときに転載されたようです。)
36.称名寺 隧道
称名寺境内と金沢文庫を結ぶ隧道です。鎌倉市内で火災にあって蔵書を失った経験から、実時は称名寺と文庫を山一つ隔てて造りました。実時は教定息の飛鳥井雅有と娘を結婚させています。雅有は鎌倉で育ち、教定とともに親子で将軍家に仕えましたので、実時女との婚姻は自然な運びでした。舅実時が往来するこの隧道を雅有も通ったのでしょうか。
第九章 その後の『源氏物語』
37.称名寺 謡曲『青葉の楓』
謡曲『青葉の楓』は、定家の孫の冷泉為相が称名寺を訪れた伝承を謡っています。為相は為家の晩年の子で、母は『十六夜日記』作者阿仏尼です。鎌倉は藤ヶ谷に住んでいました。称名寺の檀越である金沢北条氏当主は三代貞顕になっていました。
38.称名寺 北条貞顕作庭の景石
貞顕は六波羅探題として長く京都に滞在しました。鎌倉に戻るとすぐ称名寺の庭園整備に着手しました。写真の景石は発掘調査の際に出土しました。為相が称名寺を訪れたのはこの庭園整備が完成した直後と思われ、貞顕に招かれたものでしょう。六波羅探題在京中から親交があったのかもしれません。
39.名古屋市 蓬左文庫前庭の牡丹
山岸徳平氏『尾州家河内本源氏物語開題』より/(尾州家本は)最初は、実時の手もとに存し、後には称名寺の文庫に蔵せられ、中頃、足利将軍の手に帰したものらしい。其の後、一部分は三條西実隆の目にも触れた。遂には、豊臣秀次の許に愛玩せられて、近衛信尹、即ち三藐院の極をも附されるに至ったものらしい。それが、大阪の役後、徳川家康の手に帰し、遂に尾州家の什物として、秘襲珍蔵せられて居たのである。
40.京都御所付近
鎌倉で、『尾州家河内本源氏物語』を成した舅実時、源氏物語色紙絵屏風を成した父教定、『河内本源氏物語』を完成させた親行といった、源氏物語に造詣の深い人物に囲まれて育った飛鳥井雅有は、後年、伏見天皇の宮廷で博識を買われて「源氏のひじり」と呼ばれました。富小路殿は、伏見天皇の父帝後深草天皇の里内裏となって以来、代々持明院統の伝領となりました。
織田百合子Official Website http://www.odayuriko.com/