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2008.12.31 一年を振り返って・・・源氏物語千年紀ももう今日が最後ですね。

Kujaku2008  源氏物語千年紀の今年、たくさんの方にいらしていただいて有難うございました。私自身大変充実させていただきました。その一年ももう今日が最後です。

 源氏物語千年紀に向けて、『源氏物語』の二大写本といわれる「青表紙本源氏物語」「河内本源氏物語」の二人の校訂者、藤原定家と源光行の写本にかけた情熱を『紫文幻想―『源氏物語』写本に生きた人々―』を今年中に上梓したいと一昨年来頑張ってきました。

 が、その後、二人が若い時、平家の方々と密接に交わっていたことを知り、原稿を最初から書き直したりしている内に、思いついて夏に写真展「写真でみる『源氏物語』の歴史―鎌倉で「河内本源氏物語」ができるまで―」を開きました。

 そうしたら、見えてきたのは、二人の平家の方々との密接な交流の実態・・・、写真て凄いですね。写真は時空を内包しているんです。ただ「京都御所・厳島神社・日吉大社・仁和寺・竹生島・・・」と写真を並べただけなのに、「定家は、光行は、この時代、生きて暮らしていたんだ!」「平家の人たちが繁栄したり、都落ちしたりした際のニュースを実際に目で見て感じて生きていたんだ!」「親しかった人たちが西海に落ち延びていくのをじっと耐えて見送らなければならなかったんだ!」「しかも、その慟哭を表に出すことはゆるされず・・・」と、いろいろな思いが湧きあがってきました。『平家物語』は二人にとって客観的な文学ではなく、悲痛な現実にほかならなかったのです。

 親しかった経正が琵琶「青山」を返しに仁和寺の守覚法親王を訪ねたニュース。それは決して定家にとって他人事ではなかったのです。今まで私は『平家物語』のこの段を心を痛めながらも美しい話として好きでした。でも、定家にとって現実と知ったとき、私にもそれが『平家物語』という文学上のできごとではなく、現実になったのです。それがどんなに悲痛だったか・・・

 写真展のあと、それを「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉」として論文にまとめました。『紫文幻想』にはそれを加えてまた最初から書き直しです。源氏物語千年紀中の上梓は不可能になりましたが、その分中身が真実に近くなりました。来年こそはと思います。

 源氏物語千年紀に終始した一年、それが終わってこのブログにももう書くこともないな・・・と気が抜けてしまいそうでしたが、来年のテーマをみつけました。それを書かせていただいて今年の締めとさせていただきます。

 すでに何回か書いていますが、HPに写真展のページを作成しようとして変に手を入れたら不具合続出。どうにも手に負えなくなってWeb講座に通いました。12月に入ってからです。それまで勝手にDreamweaverというソフトを使って作成していたのですが、そこではじめてHTMLとCSSというネットの仕組みを理解しました。

 これは衝撃的な体験でした。だって、今まで単なるメモ帳として使っていた「メモ帳」にHTMLを書き入れるとそれだけでネット上にアップされてしまうんです。私は最初からDreamweaverを買って独学でというとカッコいいですが、自分勝手に使って作っていましたので、HPはこういうソフトがなければできないと思っていました。なのに、そんな値段の張る難しいソフトを使わなくても、簡単にできてしまうんです。唖然としたというより、感動しました。ネットの世界って何だろうと無限の可能性を感じました。

 そしてCSS。これを駆使すれば思うようにデザインしたサイトの画面ができあがるんです。

 もちろん、その駆使する状態にまでいくには相当大変でしょうけれど・・・

 でも、だんだん思ってきました。来年はサイトのリニューアルの年にしようと。今までのページも理論通りに書き換えてしっかりと構築しなおそうと。(それを言ったら、Webの講師の方から、そこまで作ってしまったものに手をいれるのは相当大変ですから、新しく作り変えた方がいいですよなんて言われましたが・・・)

 いずれにしろ、来年の目標はHPの改築です。まずはお正月に写真展のページを作ってアップします。その後、デザイン的に作り替えたりして、いろいろ楽しんでやってみます。

 そんなことを考えていたらどんどん夢が膨らんで、サイトのページの背景や挿入に使う写真のデザイン処理をしたくなりました。それでまずはDreamweaverより先にPhotoshopをもっと有効に使えるようになることから始めなくては・・・と、目下そんなことをしています。

 今月、真鍋俊照先生が小学館から『仏画を描く楽しみ』というとても綺麗なご著書を出されました。35点の下絵と彩色されたお手本が載せられています。表紙もとても綺麗なご本です。拝見していたら、中に大日如来像があって、「ああ、これは以前カルチャーでお習いして私も描いた・・・」と懐かしく思い出しました。とても華麗な仏様です。私のは線描だけで彩色していません。真鍋先生には「あれをHPに載せればいいのに」と言っていただいています。来年は大切にしまってあるのを取り出して、彩色ではなくPhotoshopで孔雀の写真とのコラボレーションとかで装飾してみたくなりました。できたら公開させていただきますね。

 今年はほんとうに有難うございました。皆様、どうぞ佳いお年を!!

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2008.12.28 もう盆栽の紅梅の花が咲いています!

023_2 高さ30センチもない「小さな大木」です。枝ぶりがとっても素敵だったので買った盆栽。毎年咲いて目を楽しませてくれています。

 この時期は例年だとたくさん蕾がついて開花が楽しみな頃。そして、そこにメジロとか小さな鳥たちが来て蕾をつついて食べてしまうので、鉢を避難させなければならない時期のはず。なのに今年は・・・

 ご覧のようにもう満開に近い状況。暖冬っぽい日が続きましたが、例年に比べてそんなとは思っていなかったので不思議です。でも、梅っていいですね。私は風情あって大好きです。

 与謝野晶子訳の『源氏物語』に親しんでいた高校生の頃、全文の中から梅について書かれている文章をずらっと書き出して、各文章の見出しに自分で作った梅のマークを付して、悦にいっていました。枚数にして数枚だったでしょうか。今でも探せば古い思い出の箱に入っているのではないでしょうか。白い便箋にBicのボールペンの赤と黒を使い分けて、全部手書きしましたから、記憶に鮮やかです。手書きっていいですよね。実は、午後の授業の退屈な時なんかにこっそり書き進めていました(笑)

 『源氏物語』の梅の描写といえば、何といっても紫の上の自分の命がもう長くないのを悟って、お孫さんの幼い匂宮を呼び、「この梅が咲いたらおばあさんの私を思い出してね」と話して聞かせる場面が胸を打ちます。まだ2,3歳(?曖昧ですが・・・)の幼いながらも事の重大さを感じて匂宮が涙ぐむんです。その可愛らしさ。後年成長して浮舟を悩ます事になっても、その描写が胸にあるから心からは憎めない。というか、紫の上に免じて許さざるを得なくなってしまう・・・といったような感じです。

追記:今朝、ヒヨドリが来て蕾をついばんでいました。残っていた蕾はほぼ全滅です。メジロは無実かも・・・、ごめんなさい。

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2008.12.27 ホームページに「孔雀の写真」のページ作成成功!!

02 苦しみましたが、PCが壊れてDreamweaverのバージョンアップ版に買い替えて以来できずにいた新しいページのアップがやっと成功しました。とりあえず、「Photo Gallary」に「孔雀」という項目を作って、中に「孔雀のターン!」というページのアップを試したら成功。これで何とか続けていけるでしょう。夏に八王子で開いた写真展「鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで」のアップもたぶん、大丈夫と思います。ほっと・・・

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2008.12.26 Webの講座に通っていました・・・。面白かったですよ!!

099 XP時代のPCが壊れてVistaにした時、ソフトをすべてまたインストールしなければならなくなりました。その時に、HP作成ソフトのDreamweaverが古いバージョンだったのが気になっていたので、この際にと買い替えて入れました。それがCS3というバージョン。これで気分よくさくさくとHPの更新ができるとばかりに喜んでいたのですが・・・

 それが、そうは簡単にいかなかったのです。このいきさつはもう書いていますが、その後もどうもおかしいので、書店に行ってDreamweaverの本を買ってきてよみました。そうしたら、なんと、唖然としたことに、CS3はそれまでの古いバージョンのとまったく違う仕様だったのです。どうりで四苦八苦しても不具合な訳・・・

 それまで私は「テーブル」という方法を使って写真を並べて載せていたのですが、それができない・・・。どうして? どうして? と悩みまくっていたのですが、CS3ではその「テーブル」を使わない方法を推奨しているんです。根本から使い方を考え直さなければならないことに気がついて、素人の個人判断では無理と悟り、短期講習というのを探して二日間通いました。飯田橋にある帆風という印刷会社さんが提供している講座です。コンパクトにまとめられていて、とてもわかりやすい講座でした。

 ただ、Dreamweaverを学ぶにはWebの基礎を知っていないとできないというので、そこはまずWeb講座の習得が前提。その後にDreamweaverの講座に進めるという訳。年末ですし、ひとまずWeb講座の「1~4」というのを二日間に渡って受けて来ました。HTMLとCSSについての内容でした。

 どちらも専門用語でふつうにサイトを見ている分には何も関係ありませんが、サイトはHTMLとCSSのこの二つでできているんですね。知ってはいても何が何だかちんぷんかんぷんだったのが、お陰で一応理論としては明確に理解できました。講座は理論を教えて下さるのでなく、それを使いながら「では次に・・・をして下さい」と言われる通りに順よく進めている内に、最後には見事にそのままアップしてもいいホームページができあがっているという内容。面白かったですよ!

 HTMLとCSSといっても意味不明の方が多いでしょうけれど、見ようと思えばそれをふつうに見ることができるんです。お好きなサイトを開いて、ツールバーの「表示→ソース」というのを順にクリックしてご覧になって下さい。メモ帳が開かれて、そこに「<html><head>///」というようなのがでると思います。それがふつうに書かれた文章をネット化する記号なんです。普通の文章を決まりにのっとって<>の文字を付していくと、おのずとそれがネットになってしまうという不思議なシステムです。

 うろ覚えの超超初心者の解説なので、プロの方にはみっともない内容でしょうけれど、こうしたサイトの背景を知らないまったくの素人の方々には「目も覚めるような世界」。一度、是非、「ソース」をクリックして覗いてみてください。

 という訳で、まだ最初のWeb講座を終了しただけ。Dreamweaverを学ぶにはまた二日間通わなければなりません。年の瀬ということもあり、昨日新年早々に送らなければならないゲラも届いていますので、HPの更新はまだまだ先になりそうです。

 写真の夕焼けは10月29日のものです。

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2008.12.18 今夜はG大阪のクラブW杯・・・サッカーと蹴鞠の魅惑的な関係

191 167  サッカー・トヨタ・クラブワールドカップが行われています。今夜はガンバ大阪VSマンチェスター・ユナイテッド戦。特にサッカーに詳しくもない私でさえ観たいと思ってしまいます。ガンバ大阪の準決勝進出が決まった時、ヨカッタ!!って狂喜したくらい。でも、そんな私も、つい先日までは、今年の最優秀選手候補ロナウドって誰? ロナルドじゃなかったっけ・・・、あれ、最優秀ってロナウジーニョじゃなかった? っていう惨憺たるファンだったんですが・・・

 それが俄然興味をもったのは、「花の蹴鞠」という小説を書き始めて、最近「蹴鞠」に関する本を読んだから。蹴鞠がサッカーのルーツというのは知っていましたが、それはただ「ボールを足で蹴る競技」程度の類似と思っていました。が、そんな程度じゃなかったんです。それはもう驚きというしかない世界がそこにはありました。(「花の蹴鞠」第一回は2008.12.14記事としてここにアップしました。)

 蹴鞠については桑山浩然先生の『蹴鞠の研究』を以前このブログでご紹介させていただきましたし(2008.1.12記事)、鎌倉の蹴鞠の歴史を探って文章にしたこともあります。それに何よりあの雅やかな装束をつけた平安王朝風の競技に憧れていましたから、一応、蹴鞠通(本物を見たことはないけれど・・・)と思っていました。が、それは外側から蹴鞠を見ていただけで、蹴鞠そのものの内部に立ち入ってはいなかったのです。

 小説は論文を違って、「蹴鞠をした」ではなく、「雅経が鞠を蹴り上げた」というふうに実際の人間の動きで書かなければなりません。それにはルールや失敗があればその失敗の仕方など、実際の動きを知らなくては書けません。最初、「花の蹴鞠」を書こうと思ったときには「雅経の蹴り上げた鞠が空高くあがった」みたいに客観者の視点で書けばいいと思っていました。そういうふうにしか書けないし、と。

 が、資料を調べたり、桑山先生の『蹴鞠の研究』を再読させていただいたりしているうちに、『成通卿口伝日記』というのがあるのを知り、図書館へ行って『群書類従』という書物の中に収められているのをコピーしてきて読みました。そうしたら、面白い!! 引き込まれて一気に読んでしまいました。たぶん、サッカーファンならとてもわかる世界です!

 成通という方は、蹴鞠の聖といわれるほどの名人。白河院の時代の人です。歴史を言えば成通が頼輔の才能を見出して教え込み、その頼輔の孫の宗長・雅経がそれぞれ蹴鞠の家の難波家・飛鳥井家の祖となったという関係になります。

 その成通の口伝書によれば、成通の蹴鞠熱は「蹴鞠の庭に立つこと7000日を超え、そのうちの2000日は一日も欠けることなく・・・」といった状況。つまり、蹴鞠はそれ位練習しなければ名人になれない競技なんです。ただ蹴ればいいだけではない。そこには熟達という名人技があったんです。

 ここまで書けばおわかりでしょう。サッカーと蹴鞠の類似点。そう、サッカーも蹴鞠も競技以上に面白いのはそれぞれの選手の名人技。華麗ともいうべきあの技が醍醐味なんです。私は特にサッカーファンではありませんが、中村俊輔さんには惹かれています。それは彼の存在を知った最初からずっと。だから、2002年のワールドカップでトルシェ監督が彼を代表からはずしたときは怒りました。

 私が彼を他の選手と別格と思ったのは彼の足技。キックとか何とかいうのでしょうけれど、サッカー用語を知らないのでただ足技としか書けませんが、蹴ったボールを地面につけることなくくるくると何度も足に添わせてあげたりおろしたりしながら保つ妙技。テレビの画面に「何、これ・・・」と目が釘付けになりました。流れるように流麗で美しいと思ったのです。

 蹴鞠というと数人の人数で鞠を蹴り上げて落とさないようプレーをする競技と思われていますが、成通卿口伝書の描く蹴鞠の世界はとても精神的なものでした。途中から世阿弥の『風姿花伝』を読んでいるような気持ちになったくらい。一例をあげますね。

 (懸の木に)鞠の伝う道あり。その道を知らん為に暫見定むべきなり。大木も小木も枝茂きも茂からぬも、鞠の伝う道は違うことなし。それを知りぬるを上手とは言うなり。よくよく見定めて興に入るべし。

 その足好めばおのずから身に添い返り足出でて見る人も感じ優に見ゆ。鞠を枝にかけつと思えば一足枝の下よりすぐ身に添いて落つるを、左へも右へも便に従いて返り合えばたわやかに見ゆ。かくしなれぬれば俄かに逢にさわがず。しなあり優しきなり。

 と、蹴鞠の奥義は「如何に勝つ」ではなくて、「如何に美しく見えるか」なのです。しなやかに自然に美しくプレーできるようになる為には並大抵でない人一倍の練習が必要です。そしてそれだけ練習すれば競技としての技もおのずと身について、それが「勝」結果につながるのです。

 蹴鞠の『成通卿口伝書』を読みながら、いつかしら世阿弥の『風姿花伝』を読んでいる境地になったと思ったら、いつのまにか中村俊輔の足技が脳裏に広がって離れなくなり、「胸のすくような妙技」と思ったとき、「蹴鞠の世界」が何たるかがわかった気がして、小説の中で雅経を生かして書くことができました。それが第二回目の分で、目下編集部に収めてあります。来年の二月頃にはここにアップできると思います。ご覧になったら、蹴鞠の装束姿の雅経を思い浮かべながら、行動は中村俊輔さんのプレーを想像してください!

 写真は京都御所に設けられる臨時の蹴鞠会場です。でも、これは現在のもので、口伝書を読むと、鞠庭と呼ばれる会場には白砂が敷かれ、周囲に懸(かかり)と呼ぶ四本の木を植えます。現在の臨時会場では切ってきた木を七夕の笹のように立てます。写真の四角いマンホール状の穴がその木を刺す穴です。けれど、本当は植栽していたようです。これも生きている樹木にこそ鞠の精が宿って守ってくれるという精神的な背景があると書かれています。口伝書を読むまで懸の木の意味がわからなかったのですが、納得しました。

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2008.12.14 連載小説第一回 【花の蹴鞠】

Top1sakura花の蹴鞠 一                                    

 それは、嵐になってかなわなかったという。もし、あのとき、義経が摂津の国の大物(だいもつ)の津から船出できていたら。そして、無事、豊後の国に逃げのびて、そこで態勢をととのえて巻き返しにでていたら。そうしたら今のわたしの人生はなかった……と、よく典子は思う。だから、みもしない嵐の夜の大物の津の海原を、まるで自分の人生の象徴のように瞼に描くことができる。人生は波にもまれるものなのだ。荒々しく……。でも、そのお陰で雅経(まさつね)さまと巡りあうことができた、と典子はいつも思う。

 文治元年(1185)五月、義経は平家一門を壇ノ浦で滅ぼした。そして、生捕りにした宗盛父子を護送して鎌倉の入口の腰越につく。が、兄頼朝は義経の鎌倉入りを許さなかった。後白河院と親密な関係をもったことが頼朝の逆鱗に触れたためである。義経は忠誠を訴えるべく頼朝に書状をしたためた。そして、頼朝の腹心大江広元にそれをとどけ、とりつぎを頼んだ。しかし、広元はそれを握りつぶした。義経は失意のなかで京へ引き返す。そのことが結局は典子の人生を決めた。広元にしてもこれが後年おのれの娘婿となる若者を生むことになったなど知る由もなかった。もし、このとき、広元が頼朝を説得して義経との不和をとりのぞいていたら。そうしたら、雅経が鎌倉まで落ちてくることはなかった。

 十一月、頼朝は後白河院より義経追討の院宣をとる。義経は京を去って九州は豊後の国へ向かうべく大物の津から出航する。が、折悪しく嵐にあって遭難。豊後への逃亡計画はあえなく挫折し、義経は吉野の山中をさまよったあと藤原秀衡をたよって奥州へ逃れた。

 なぜ、義経が豊後を目ざしたか。それは知行国主の難波頼輔(なんばよりすけ)と頼経(よりつね)父子が義経を庇護した数少ない公卿だったから。寿永二年(1183)、平家が都落ちして西海にでたとき、太宰府に落ちつき九州を拠点とするのをはばんだのが頼輔だった。頼輔は国司代として赴任していた頼経に使いをだしてそれを指示した。頼経は土地の実力者を駆って一門と戦わせた。そのために一門は海原をただようことを余儀なくされ、壇ノ浦で滅びた。大物の津のときも頼経は出航を助けるべく手を打っていた。乱のあと頼経は義経加担の罪で子息の宗長ともども伊豆へ配流が決まった。頼経は雅経の父。頼輔は祖父で蹴鞠の家を確立した人物である。頼輔に蹴鞠の腕を磨かれて育った雅経はのちに蹴鞠の家の飛鳥井家の祖となる。兄宗長は難波家の祖となった。

 文治五年(1189)三月、頼経と宗長のふたりは伊豆に流された。が、雅経に咎めはなく京に残った。しかし、ここは推測になるが、雅経もまたしばらくして伊豆に赴いたのではないか。そして、そこでおそらく宗長と軋轢があったのではないだろうか。雅経はひとり鎌倉にやってきた。その時期は明らかでないが、建久七年(1196)の末には鎌倉で頼家に蹴鞠を教えている。建久七年、雅経は二十七歳だった。これらから推して雅経の鎌倉下向は建久六年(1195)、二十六歳のころだっただろう。

 大倉幕府の一画にある御所の一室で頼朝は政子とくつろいでいた。はじめて頼朝がこの屋敷に入ったのは治承四年(1180)十月だった。八月に伊豆で旗揚げして石橋山の合戦で敗れるなどしたあとのようやくの入御だった。壇ノ浦で平氏が滅びるのはそれからまだ五年後のことだ。争乱の一部始終を頼朝はここでみていた。感慨深く頼朝が思ったそのときだった。
「伊豆の紹介状をもった人物が来ておりますが」
と、盛長がとりついだ。安達盛長は頼朝が伊豆の流人だった時代からずっと仕えている家人である。政子も知っている人物からの紹介ということで、その若者との面会に政子も同席した。

 頼朝がその若者がひれ伏して待っている部屋へ入ったとき、頼朝はふと都の匂いを嗅いだ。不意をくらった思いで頼朝は政子を振り返ったが、政子には何事もなくみえた。気をとりなおして頼朝は若者の前に座った。

「顔をあげよ」
 と頼朝がいった。頼朝をみた若者の目には優美があった。都の匂いは若者の存在それ自体から発散されていた。それは十四の年まで京にいた頼朝には馴染みの深いものだった。関東の御家人たちにはついぞみたことのないものだった。懐かしい匂いだった。ずっと頼朝が封印してきたものだった。なぜならそれは関東には不要のものだったから。求めてはいけない類(たぐい)のものだったから。求めればそのときから頼朝が周囲と隔絶した人間になってしまう類のものだったから。頼朝はいつも使い慣れている部屋が、見慣れているはずの部屋が、違ってみえることに気がついた。なよやかなのだ。空気が。そして、気配が。頼朝は和んだ。
「名前は?」
 頼朝が訊いた。
「藤原雅経と申します」
 と若者は答えた。雅経は父のあとを追って伊豆に下ったが居辛いことがあり、親切にしてくれていた老人が頼朝をたよって鎌倉にでるのを勧めてくれたと言った。
「特に秀でたものをもつか?」
 と、頼朝が言うと、
「蹴鞠(けまり)にございます」
 と、雅経は胸を張って答えた。頼朝が控えていた広元に目をやると、広元は大きく頷いた。

 その日から雅経は御所に一室をもらって住むことになった。名目は十二歳になった頼家への蹴鞠の指南だった。政子は武家の子に蹴鞠は必要ないと思ったが、あえて反目することもないからと黙っていた。後年、将軍となった頼家が蹴鞠に熱中するあまりに政務を怠ったとき、あのとき反対しておけばと悔やむことになるなど夢にも思わなかった。政子は広元から雅経が京の公卿の家の出と聞き、頼朝の丁重な扱いぶりも仕方ないと許した。

 雅経が与えられた部屋はかつて平重衡(たいらのしげひら)が千手の前とともに暮らした部屋だった。治承四年十二月の南都焼打ちの罪で重衡はつかまり、鎌倉に護送されて京へ送還されるまでの一年と少しのあいだをここで過ごした。政子の配慮でつかわされた千手の前は重衡を愛し、こまやかに世話をした。それは確実に死を控えている重衡にとって束の間の平和な日々だった。穏やかに、待っている苛酷な運命にはふたりのどちらからもひと言も触れずにただ淡々と過ごした日々。永遠に、果てしなく続くと思われた日々。だが容赦なく悲劇は訪れ、送還された重衡が南都へ送られ斬首されたのを知ると千手の前は出家してその後短い生涯を終えた。

 典子は政子から、そして父広元からそれらの話を聞いていた。広元が琵琶・朗詠にたけた重衡を評して「牡丹の花」と称えたことも知っていた。典子は十代まで京で過ごした。父の下向に随(したが)って鎌倉に住んで十年になる。都の記憶はすでに遠いが、関東の男には肌にあわないものを感じていた。典子はひそかに重衡に憧れ、千手の前を羨ましく思っていた。もし自分がそういう立場になったら千手の前同様はかなく死んでもいい。そういう恋をしたいと思っていた。都の男とはどういうものだろう……。そこに雅経が突然あらわれ、重衡が使った部屋の新しい住人となった。政子から彼の世話を言いつかったとき、典子は運命の大きなうねりを感じた。 (つづく)

■所属する短歌結社、福島泰樹氏主宰月光の会の歌誌『月光』に始めた連載です。これは11月刊行の分です。これから隔月刊で書いていきます。一昨日第二回を書いて編集部に送りました。『新古今和歌集』で藤原定家と並ぶスター歌人飛鳥井雅経の生涯を追います。雅経は鎌倉幕府の重鎮大江広元女と結婚しています。それは源平の争乱で運命を狂わされて鎌倉に下向していたから。そこで雅経は頼朝に蹴鞠の腕を買われて頼家に教えて過ごします。それが評判になって後鳥羽天皇のもとに届き、京に召されます。それから新古今歌人になってゆくのです。また、広元女が鎌倉と繋がっている関係で、子息教定は鎌倉幕府に仕え、そこに同僚として金沢文庫創設者の北条実時がいたために、教定息(つまり雅経の孫)の飛鳥井雅有が実時の娘婿となるのです。私のこのあたりの探求は、この「何故東国の片隅の金沢北条氏の家系に新古今歌人の孫の雅有が婿になっているの?」から始まりました。

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2008.12.12 嬉しいニュース! HPに「中世の遺跡と史跡」が復活しました。

P4090267 P4090273_2P4090276今日は先日来四苦八苦しているHPの復活作業をしました。ドリームウィーバーというソフトを使っているのですが、使い方の正確な知識なく勝手に進めているので、先日整理したらそれまでアップできていたページが消えてしまって再開できなくなっていました。いろいろ試してみて、これなら行くか!とばかりにやってみたら、あきらめていたページが復活したと思ったら、今度は大丈夫だったページが消えたり・・・

 そんなことを先日ぼやいた日記を載せましたが、その後中断。今日時間ができたのでふと閃いた方法で消えていた「中世の遺跡と史跡」のページの復活を試してみました。そうしたら、なんと成功! 目下、嘘のような思いに包まれています。

 これは私が遺跡発掘の仕事に就いていたときの記録です。発掘調査事務所にいると様々な遺跡の発掘調査報告書や関連の本が棚に並んでいて、それらの中から行ってみたい遺跡があると訪ねて撮っていました。アップしたのはその中の一部分で、その後関心が国文学へ移ってしまいましたので中途半端なままのページです。でも、貴重な記録ですので何とか復活させたいものと思っていました。今日、あきらめつつも試みたら復活。ほっとしました。ふと閃いた方法というのはバックアップしてあった過去のデータを使うこと。いろいろ試しているうちにソフトの仕組みもわかってきました。当初はてっきりソフトを壊してしまったとばかり思っていたのですが、やり方が間違っているだけのようです。

 広島県福山市の「草戸千軒町遺跡」「石清水八幡宮と水瀬離宮」・神奈川県横浜市の「称名寺」・栃木県益子町にある宇都宮氏ゆかりの「尾羽寺」・神奈川県横浜市六浦にある小山氏ゆかりの「若犬丸の石塔」をご紹介しています。

織田百合子のHP http://www.odayuriko.com/(「中世の遺跡と史跡」をご覧下さい)

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2008.12.9 朝の金色焼けと彩雲・・・

046 048 056  朝、6:40頃の空です。昇る朝日にかかった部分の雲が金色に焼け、その中に浮かぶ白い雲が彩雲になっていました。綺麗ですね、透明な焼けって・・・

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2008.12.8 小説「花の蹴鞠」について・・・

275  福島泰樹氏主宰の短歌結社月光の会の歌誌『月光』(隔月刊)に小説の連載をはじめました。その第一回が載った号が十一月に出て、目下第二回の執筆に入っています。主人公は定家と並んで新古今歌人のスター「飛鳥井雅経」とその妻「大江広元女」。雅経は新古今歌人としての華々しさから、生涯京都在住で通した苦労を知らない人のイメージでしたが、なんと、源平の争乱で父親の頼経が義経に加担し、頼朝の逆鱗に触れて、乱のあとは伊豆に流されているんです。

 雅経自身にまで罪科が及ぶことはなかったようですが、結局その後雅経も鎌倉に下向していますから、京にいられない事情があったのでしょう。頼朝に仕えて子息頼家に蹴鞠を教えています。頼朝には愛されたらしく、広元女との結婚に際し養子にされています。大江広元といえば、鎌倉幕府中枢にあって頼朝の側近中の側近。そういう人物の娘を妻にしていたんです。それが、なぜ、京都で新古今歌人になるかといえば、蹴鞠の腕の評判をきいた後鳥羽天皇に召されたから。雅経は歌人である前に蹴鞠の達人だったのです。

 その後の雅経の活躍は、定家にも可愛がられ、華々しい一方ですから、20代を過ごした鎌倉の経歴は私にとって驚き以外の何物でもありませんでした。いつか小説にしたいと考えていたところ、『月光』の復刊にあたって「小説を」というお声を福島主宰より頂きましたので、この際とばかりに始めました。第一回を書いたのは六月で、写真展の前。いろいろあって刊行が遅れ、十一月に届きました。なので、悠長に、第二回を今頃になって書いています。順調にいけば一月刊行。その後隔月毎には書いていくことになります。

 写真展で定家と光行の平家一門との関係を実感し、写真展の後、論文に仕立てて実証しました。三月に刊行していただきます。それが終わって「気分は京都にピリオド。鎌倉に戻って」います。雅経を書くには蹴鞠の知識が重要ですが、まだ一度も観たことがありません。ネットで動画を見たりしていますが、来年は京都に行って体験したいですね。一月早々、下賀茂神社で蹴鞠始めがあるそうですが・・・。「花の蹴鞠」はいずれ連載小説としてHPに順次アップしていく予定です。

 写真は厳島神社の夜の海。対岸の夜景の光の反映です。

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2008.12.6 灼熱色の夕焼け、再び・・・

005 010 0025  冬になって空気が澄んでいるので、夕刻の焼けの色がとても綺麗です。昨日も空を見ていて予感し、撮りに出ました。その後紫がかって赤く濃く染まりましたが、私は金色のこの焼け色が好きです。

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2008.12.5 ホームページを再開しつつあります・・・

0083  秋以降メンテナンス中だったHPを少しずつ再開しています。DREAM WEAVERというソフトを使って作成しているのですが、しっかりした知識もなく作っていましたのでフォルダがたくさんになりすぎ、うっかり整理したら不具合ができて、上手くアップできなくなっていました。八月に開いた写真展の頁も準備しているのに、アップできないでいるんです。その後、原稿の締切等があって秋からずうっと「メンテナンス中」・・・。気になってはいたのですがどうしようもありませんでした。

 ようやく締切と締切のはざまができて、昨日思い立ってリモートサイトとローカルファイルの同期というのを試み、駄目なものはあきらめて、アップできたものは大切に・・・ということで、あきらめたものは「桜」と「中世の遺跡と史跡」。再開できてほっとしたのは「寺院揺曳」と「古典と風景」。とりあえず、この二つに関してはご覧になっていただけます。といっても、「寺院揺曳」の方は整理が途中ですが。「寺院揺曳」は鎌倉における仏教を探った歴史随想です。たぶん今まで見たことのない世界がそこにあります。詳細はカテゴリー「寺院揺曳について」をご参照ください。

 四苦八苦していますが、写真展の頁をアップできるまで頑張ります。それにしてもHPをいじると時間が足りないですね。今日は終日かかりっきりになってしまいました。なのに、まだ・・・

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お詫び: また原稿の執筆に入っています。HPはしばらく更新できません。(12月8日 記)

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2008.12.2 昨日の夕焼け・・・日没太陽にかかった部分が灼熱色に焼けました!

044 066 070

●16:00頃の撮影です。

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2008.12.2 源氏物語千年紀情報・・・学習院大学「源氏物語千年紀 記念シンポジウム」

Gagaku  会期が迫っている12月10日(水)のシンポジウムです。 

◆学習院大学史料館主催「源氏物語千年紀 記念シンポジウム」
日程: 12月10日(水) 16:00~19:45
場所: 学習院創立百周年記念会館1階正堂
詳細: 以下の通り
 第一部 16:00~17:00【雅楽講演】
       いちひめ雅楽会/管弦 「越天楽」・舞楽 「青海波」「陵王」
 第二部 17:30~19:45【シンポジウム】
       三田村雅子氏・佐野みどり氏
入場無料・事前予約不要

 聴講に通っている大学院の廊下に貼ってあったポスターがとても艶やかで、暗い廊下で目を引きました。源氏物語千年紀なのに関東でそれに匹敵するシンポジウムの企画がないと悲しく思ってきましたが、ここにきてようやくみつけました! ポスターの図柄は学習院大学史料館で検索するとご覧になれます。

 写真は京都の小野随身院。小野小町ゆかりの寺院です。中は襖絵や衝立など色彩ゆたかな大和絵で埋め尽くされた感の室礼ですが、写真撮影可なんです。たいていのところが「禁止」の中でこのおおらかさは!と感動。私も主人も撮りまくらせて頂きました。最近思うのですが、日本人はいつからか「絵に描いたよう」がリアリズムの反対語のようになってさも悪い事のように避けていますね。でも、リアリズムなんてたった近代になっての手法。リアリズム重視になってどんなに感覚や感性がちっぽけになったか。前にも書きましたが、朱塗りの寺院を成金趣味の代表のように忌避する風潮と合わせて、「絵に描いたよう」を忌避する習慣は間違っていると思います。

 というのも、源氏物語千年紀にかけてこのブログを編集していて気付いたのですが、王朝文化の雅さは自然の中にはほとんどないんです。雅楽の写真を掲載したくても、雅楽を鑑賞する機会はあっても、たいてい撮影禁止。しかも、現代の舞台とか、宮内庁の講演ならその一室でとか・・・、『源氏物語』「紅葉賀」に描写されるような自然と一体化した「生きた雅楽」など撮れません。撮れるのは桜とか紅葉とか、川の流れとかの自然ばかり。でなければ、行事。でも、それでは生きた王朝文化の再現にはならないのです。ここ一年、源氏物語世界を撮るのは難しいと痛感してきました。

 そこへ行くと創作の世界は自由です。いくらでも「人間も同化している生きたその世界」に遊べます。宇治の源氏物語ミュージアムの第一室も有難いし、襖絵はとても豪華。随身院の絵はたしか衝立か屏風だったと思います。こんなにゴージャスなんです。王朝世界って。それをリアリズムで・・・なんて叶いませんよね。「描いた絵」のどこが悪いんでしょう。明治時代の近代化の所産のようなリアリズム信奉に辟易している今日この頃です。(何だか激してしまいましたが、小説も短歌も、すべてその弊害が大きいと思っていますので・・・)

 話はとんでもない方向に行ってしまいました。学習院のシンポジウムが楽しみなのは、お話が国文学の三田村雅子先生と、美術史家の佐野みどり先生だから。三田村先生の源氏物語千年紀特集の『芸術新潮』は素晴らしかったし、佐野先生の小学館『じっくりみたい≪源氏物語絵巻≫』は、国宝『源氏物語絵巻』が原寸大ですべて載っている素晴らしいご著書です。しかも購入しやすいお値段で奇跡的です。

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