2009.3.27 井の頭公園の桜・・・開花状況
井の頭公園の桜の今日の様子です。なかなかスカッと晴れた日に撮れなくて、この写真のときも曇り空。でも、明日から週末なので、もしかしてどんな様子か知りたい方がいらっしゃるかな?って思って、撮ってきました。桜は青い空をバックに撮ると映えるんです。
最初の二枚は、先日「今年最初の一輪」でご紹介した木。やはり一番咲き誇っています。
三枚目は中央ゾーンへ向かう途中の木。だいたいがこんな咲き加減。この木はまだ咲いている方と思ってください。
最後は先日ご紹介した全景写真のその後。枯れ木の山みたいな岸部だったのが、少し、咲いているのがわかるようになってきました。全盛期にはこのこんもりした山が全部ピンクで埋め尽くされます。
今日はビッグサイトで開催中のフォト・エキスポに行ってきました。目下、「今の」写真の傾向を猛勉強中。写真大学をでて、写真を仕事にしていたって、デジタルの時代になった今、そんなの感性が違う世の中に通用しないって気づいたのです。で、猛烈な勢いで「今風」の感性の吸収に努めています。桜は青空をバックに撮ること! という先程のアドヴァイスも、その過程で読んで知ったばかり。ふうん・・・、なるほどって思いました。
昔の写真は、対象物そのものを如何に忠実に迫力あるように撮るか、です。が、今は逆。如何に対象物から意識をそらして軽く撮るか・・・。だから、暗い写真は嫌われ、昔だったら露出オーバーって怒られそうなくらいに明るく白いハイキーが好まれています。
これって、ただの技術の違いです。感性が求める方の技術を駆使すればいいんです。ただ、感性そのものを入れ替えないと、撮るときにそっちの技術を選択することができない・・・
感性を入れ替えるって、ほんとうに大変です。でも、なんとなく、半分くらいかな? 今の写真が撮れるようになってきました。
それで思ったんですが、これって、藤原定家と後鳥羽院の新しい歌風で成った『新古今和歌集』のときと同じ。『新古今和歌集』の斬新さは、単にといってしまえば語弊がありますが、作風の違いというより、技術の違いなんです。鴨長明なんか、いち早くその技術に転向したから後鳥羽院に愛でられて和歌所の一員になった。飛鳥井雅経もその技術の踏襲が上手だったから、歌は人よりあとから始めたのに撰者にまでなった。源光行は鎌倉にいて、そういう技術の革新に乗り遅れたから、歌人として認められていたにも関わらず一首しか入集しなかった・・・
と、こんなふうに表現と技術は表裏一体です。とはいっても、鴨長明は技術さえあれば作れてしまう歌風に嫌気がさして、その後古い歌に戻ります。古い歌・・・、それは心の底から発した思いを歌う歌。
ただ古いものだけにこだわっていては技術の革新はできません。でも、新しいものを真似するだけでは本当の表現にはなりません。真の作品は何か・・・、そんなことの発露を願って目下四苦八苦しつつ写真を模索しています!!
話があちこち蛇行してしまいました。これにこだわって書いたら、一晩かかっても書き切れないかも。で、もう止めにしますが、今日学んだいいヒントを書き添えておきますね。それは、「桜を撮るときは、露出をプラス1のオーバーに撮ること」。そうすると桜がただの白い花でなく、ほのかな桜色に写るそうです。これなんか、昔の写真技術からいうと反対のような気もして驚きました。帰って早速試してみたかったのですが、ご覧のように曇り空では無理。RAW現像でほのかに赤く染めました。
追記(30日):プラス1の露出補正で桜を撮ってみましたが、白く飛んでしまって、ほのかにピンクどころか本当に露出オーバー。私は今までマイナス1/3で撮っていましたので、比べたら、やはりマイナスの方が確か。聞き違いだったのでしょうか・・・。たしかに「プラス1」と聞こえたのですが。30日アップの記事の写真は全部マイナス補正です。
それにしても桜は日本文化の代表で、歌も日本文化の代表なのに、定家の歌は梅の方が印象が強烈。これも、定家の心には治承寿永のころの、平家文化全盛期に過ごした青年時代の思い出と密接に結びついているからです。定家の歌は、心から発した思いが技術によって表現となった稀有な存在です。