2009.4.23 『源氏物語』花宴巻における藤の宴を思う・・・国領神社の千年乃藤を撮ってきました!!
調布市布田にある国領神社の境内では、今、「千年乃藤」が見頃です。広大な藤棚のなかに入って下から見上げると、さながら「藤曼荼羅」と呼びたいような光景が目に飛び込みます(下から二枚目)。ほんとうは週末が見頃なのですが、天気予報が週末は大荒れというので、青空のまぶしい今日、思い立って出掛けました。
藤は大好きな花です。何の花が一番好き?と訊かれたら、薔薇もいいし、でも、蘭のほうがいいし・・・と迷いますが、たぶん、「藤」と答えることになるでしょう。それには、やはり、日本人として古典に馴染んでいるから・・・という背景があります。
国領神社の「千年乃藤」については、最後の写真で説明をご覧ください。樹齢400~500年だそうですが、畏敬の念を込めて「千年乃藤」と呼んでいるのだそうです。たくさん撮ってきました。一部をご紹介させていただきます。ざっとご覧ください・・・
藤というと、思い出すのは『源氏物語』における「藤の宴」。「花宴」巻にあります。そう、朧月夜が登場するあの巻です。「花宴」巻は藤原俊成が「源氏物語を読まない歌詠みは遺恨」という言葉を残した有名な巻です。歌人なら、「花宴」巻のような素養を持つべしと。これは『六百番歌合』での判詞ですが、以来、歌人にとって『源氏物語』を身につけることが必須の教養となったという経緯です。
この「花宴」では、二つの花の宴が描かれます。最初は「桜の宴」。その折に光源氏と朧月夜との逢瀬があります。ふつう、その出逢いが有名なので、「花宴」といえば桜・・・みたいな感覚になっていますが、最後にもっと重要なシチュエーションとして「藤の宴」があるのです。なぜ重要かって・・・、それは、右大臣家の藤の宴に招かれた光源氏が朧月夜と再会して彼女が誰なのかを知る場面だから。
私なんか、出逢いの場面より、再会のここのほうがたまらなく好きですね。俊成の判詞も、ここを指して言っているのではないかと思います。
桜の宴の夜、「朧月夜に似るものはなし」と口ずさみながらふらふらと現れた朧月夜。その逢瀬を忘れがたくて、頑として名前を明かさなかった彼女が誰なのか、右大臣家の姫君の一人と見当をつけた光源氏は、藤の宴に招かれたのを機に右大臣家に乗り込みます。右大臣家といえば、光源氏を敵対視するいわば敵地。いつもはうっとおしいのでそういう誘いには乗らないのですが、向かうのです。
このあたりの機微、どういうことってほどでもないのに、紫式部の筆致は細やかです。唸るほどに上手いんです。右大臣家でも、ほんとうは光源氏に来て欲しくない。でも、当代きっての光源氏の来ない宴席など、ランクがさがってしまうので呼ぶしかない。なのに、光源氏はしぶしぶといった面持ちで来ようとしない・・・(これは、光源氏はの計算です。それっとばかりに誘いに乗るような軽薄なことはしないんです。)・・・。仕方なく右大臣はさも恭しいように息子を迎えに遣わしてさらに誘う。すると、「待たれては」というふうにやっと光源氏が腰をあげる・・・
さらに、そこが凄いんですが、光源氏は当代きっての権力者の自邸に招かれていくというのに、敬意を表した正式の装束でなく、「桜の、唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、しりいと長く引きて」といった、とても風流な、目をひく華やぎの、一歩くだけた装いで、しかも、みんなより遅れて到着。誰もが正式の渋い装束でかしこまって揃って待っているなかに、一人、主人公のように後から現れるんです。この心憎さ。
『源氏物語』を読む人は一応みんな光源氏の見方ですからいいのですが、実際にこんな人が身近にいたらたまらないなあって、私なんかはいつも思います。でも、きっと、華やかなスターといわれる方々の世界って、こうなのでしょうね。こういう演出ができるというのも、スター(光源氏も含めて)という立場の方の必須の条件なのでしょう。ここに『源氏物語』が昔、平家一門を筆頭に男の人たちのあいだで競って読まれた秘密があると私は思っています。
公卿社会に「仕事」をもって生きていくには、こういう機微を持って、身をもって実践する能力が必要。『源氏物語』を読むと、それが自然に身につく・・・というような、有職故実のみならずの「機微のテキスト」だったのでは、というのが最近私がたどりついた『源氏物語』に対する実感です。ふつうの男でしかないふつうの人たちは、『源氏物語』を読んで、「ふーん、軽々しく乗ってはいけないんだ・・・」などと、密かに心にとめたことでしょうね。
話がそれてしまいましたが、この藤の宴で光源氏は朧月夜を探りあてます。それが、もう、たまらないほどひそやかに美しく、せつない、シチュエーション。紫式部の才能全開といった筆致の場面です。
男たちの宴席を適当にやり過ごして光源氏は、真の目的の朧月夜を探すために、酔った振りをして女たちが集う部屋に近づきます。女たちは御簾の蔭から宴席のようすを興味津津に伺っていたのですが、かの光源氏の訪いに胸ときめかせ、ざわめきます。朧月夜がいるのはこのあたりと見当をつけた光源氏は、最初の逢瀬のときにとりかわした扇を題材に歌を詠みかけます。すると、さも賢そうに一人の女人が返歌をする・・・
なみなみならない秘密の逢瀬、情事だった光源氏と朧月夜。その重さに対して軽々と返歌をしてくるようでは、この「女性はあの人ではない」と、光源氏は判断。すると、そこに一人だけ、応えることもできずにただ時々深く溜息をもらす女性がいる・・・。「この人だ!」と思った光源氏は几帳越しに朧月夜の手を捕らえると、たしかにそうだった・・・
といのが「花宴」の最後です。最初の出逢いの積極的な「動」の世界からの、この朧月夜のどうにもやるせなくせつない、ただひたすら溜息をもらすしかない「静」の世界への転換。紫式部の心理を読む筆致って、凄いですね。そして、この艶なるなまめかしさ。私には朧月夜の洩らす溜息がほのかに桜色に染まって見える気がするほどです。こんなところにも、最初の「桜の、唐の綺の・・・」という、紫式部の布石が、計算ではなく、無意識にはたらいているのでしょうね。俊成の「幽玄」という歌の理論の原点と思っています。
朧月夜というと、どうも、積極的で華やかな女性ととられがち。後半ではそういう面もなくもありませんが、つつましやかを最高の華とする紫式部は少なくとも主人公の女性をそうは書きません。ここの「ため息を洩らすしかないせつなさ」なんて、恋した女性の描き方の極致です。朧月夜の真の姿がここにあります。
出崎監督のアニメ『Genji』では、朧月夜はみずから光源氏を誘惑する非常に積極的な女性に描かれていました。アニメだからそれはそれでいいし、短時間のうちに朧月夜のエピソードを処理しなければならないとしたら、ああするしかないだろうなあ・・・と、それはそれで楽しく拝見しました。そこをもっと追究して須磨への左遷にもっていくのかと思ったら、最後は藤壷との心理の深まりで、朧月夜もやはり小道具の一人だったという終わりは、なんか、朧月夜のためにもったいないと思いましたが・・・