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2009.5.31 東京藝術大学大学美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展

003_2 005_2 008_2 写真は東京藝術大学大学美術館で開催中の『尼門跡寺院の世界』展の図録(一枚目)と、チラシの表と裏です。綺麗でしょ!! 図録もチラシもデザインのモチーフはどちらも散華。散華は寺院の儀礼法要の際に、僧侶がお経を唱えて巡りながら、華籠(けこ)という籠に入れた散華を、左手に華籠をもち、右手で散華を幾枚かずつ放り投げる、あの蓮の花びらをした紙のことです。

 法要の際の、その放り投げられた色とりどりの散華が舞い落ちるようすの綺麗なこと!! さながら極楽というのでしょうね。舞い散った散華はそのままになって儀式が終了しますから、集まってきた会衆はそれを拾えます。私も何回かの機会があって大切にもっていますが、昨日行った展覧会での散華を見て驚きました。散華って、手描きだったんです!! 

 二枚目の写真をご覧になってください。このたくさんの、しかも細やかに書き込まれた綺麗な絵がみんな手書きなんですよ!! 私は法要の際の思い出とともにいただいた散華を大切に思っていたのですが、現代のは印刷・・・。印刷のない中世の時代にあっては手描きで当然なのでしょうけれど、これはほんとうにびっくりしました。尼門跡寺院という奥床しい世界の、最高位の方々の所持される散華だからでしょうけれど、ほんとうに、「これが散華なのだ・・・」という驚きでした。(だからといって所持している散華への思いが下がるわけではありませんが・・・)

 この展覧会は、中世の尼僧史を研究されているコロンビア大学名誉教授のバーバラ・ルーシュさん方のお力で開かれました。バーバラ・ルーシュさんが最初に関心を寄せられた無外如大という尼僧が鎌倉の金沢北条氏の出身といわれている関係で、金沢文庫にレプリカの像(出展されています)があったりして、私もその関連で以前からこの世界には興味をもっていました。バーバラ・ルーシュさんの展覧会への思いを図録から引用させていただきます。バーバラ・ルーシュさんはドナルド・キーン氏のお弟子さんでいられます。

  振り返ってみると、このような先例を見ない展覧会の始まりは、もう20年以上も前のことになるだろうと思います。日本文学・文化史を長年にわたって研究し、同時に教えてまいりましたが、日本における仏教の歴史に関する限り、仏教の世界は基本的に男僧たちがつくり上げた世界であるという説明に慣らされてきました。ところが、驚いたことに、1980年代のある日、これを真っ向から打ち消す出来事に遭遇しました。まったく偶然のことでしたが、ほとんど無名に近い、ある禅師の等身大の彫刻、すなわち頂像彫刻にお目にかかる機会がありました。よく見ると、それは男僧ではなく、尼僧でした。名前は無外如大禅尼といい、13世紀、臨済禅の尼五山では一番位の高い尼寺の住職でもありました。まるで生きておられるような眼が私の眼と合った瞬間、錠前の鍵が回転する音を聞きました。今まで知られることのなかった尼僧たちの世界への扉が開き、背中を押されたように感じました。

 尼門跡寺院についてはあまり知られていませんよね。私も一番印象に深い感覚といったら、三島由起夫の『豊饒の海』四部作の最後、『天人五衰』の最後で、晩年になった本多が、出家して籠っている聡子を、その尼寺に訪ねるシーン。

 そのシーンは、いつ思い出しても名場面で、うーんと唸って、深いところで人生を左右されてしまっているのかもしれないほど読後は強烈です。尼門跡寺院展について書こうと思ってはじめた記事ですが、せっかくなので、三島由起夫のその文章を改めて見直したくなりました。引用させていただきますね。

(これからでかける用があって恐縮ですが中断。この項はのちほど続けます。無外如大のことなど、書きたいことはたくさんあって・・・)

続き:
中断したままになってしまいました。済みません。無外如大に関しては次の6月4日の記事【峰岸純夫先生のご著書『足利尊氏と直義』に関連して・・・】で書きました。で、ここでは中途半端になっている三島由起夫の『天人五衰』からの引用のみを記させていただきます。これについて書くとまた長くなりますので・・・

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶の榻が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

 記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った・・・、この文章・・・、一回でもこれに目を通したら生涯染まってここから離れなくなる、そんな文章ですよね。私も、いつとなく、記憶もなければ何もない・・・というフレーズにふっと左右されて生きていると感じること度々です。

 作品では月修寺とありますが、モデルとなった尼門跡寺院は奈良の円照寺とか。芸大の展示にも円照寺のコーナーがありましたが、三島由起夫作品との関連には触れていませんでした。ふつうなら一言書いてくださっていいと思うのに、信仰世界に徹する内容の展示。きっぱりしていて、そこに尼門跡寺院の格というか、真髄をみた気がします。

 でも、三島由起夫はこれを書いて、編集者さんに取りにくるようその日の朝に約束しておいて、自身は原稿を置いたまま市ヶ谷の自決の場へと出て行ったんです。編集者さんは作品の一連の文章から三島由起夫の覚悟を察していられたとか。活字になって世に出た本を自分が絶対に見ることはないと知りながら書き進めた文章・・・。それこそ三島由起夫はどのような思いだったのかと考えるとき、「記憶もなければ・・・」が自然にでた、ほんとうに自然の文章だったと思わざるを得ません。究極の文章と思います。

 でも、今これを引用していて、『平家物語』の後白河法皇が寂光院を訪ねた折の、花を積んで山から下りてきた建礼門院徳子の場面がほうふつとしたのですが、あるいは三島の胸にもあったかもしれません。

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2009.5.29 平岡篤頼先生の翻訳、クロード・シモン『アカシア』を手にして・・・

003 『アカシア』はクロード・シモンのノーベル賞受賞後の作品です。例によってとても長~い、書籍としては分厚い、そして、文章もとても長~い長編小説です。

 翻訳の平岡篤頼先生の小説のカルチャーで私は小説作法を学びましたので、いわばシモンは私の小説の原点・・・。長~い文章も、私の大切な原点です。

 平岡先生は早稲田の仏文で文学を教えてらっしゃいましたが、日本におけるヌーボーロマン紹介の第一人者。そしてシモンの翻訳の他の追随を許さない第一人者でいられますから、ノーベル賞を受賞したシモンが来日したとき、案内役を務められたのが平岡先生でした。なので、私たち受講生もその恩恵をこうむって、ノーベル受賞者の日本での動向をリアルタイムで伺えたのでした。燃えていましたね、あの頃は。ヌーボーロマンに刺激されて日本の文壇が。

 昨夜、ふと、書棚に白い背表紙の『アカシア』が目に入って手にとりました。そうしたら、プルーストのマドレーヌではないのですが、さながらに一挙にあの頃の感覚がよみがえって、懐かしさに胸までどきどきして、ちょっとうるっとまでして、眠れなくなってしまいました。一旦はベッドに入ったのですが、気になってどうしようもないので起き出し、本を手にとって、「訳者あとがき」を読みました。そうしたら、そこに、平岡先生の生の声が溢れているようで、忘れていた小説の原点に立ち返ったようで、それはとても大切なことなので書いておこうと思った次第です。(と、さながら、シモンのようでしょ?平岡先生当時の感覚を思い出すと文章が長くなってしまうんです!

 ある夜彼は一枚の白紙を前にテーブルに向かった。いまは春だった。部屋の窓はほの温かい夜の闇に向かって開いていた。庭に生えている大きなアカシアの木の枝の一本がほとんど壁に触れていて、電燈に照らしだされたいちばん近くの梢が彼にも見え、ペン先に似たかたちの葉が闇を背景にかすかにひくつき、楕円形をした小葉が電燈の明かりでどぎつい緑に色づいて、時折冠毛みたいに動き、まるでそれ自身の力にうながされているみたいで、まるで木全体が目覚め、武者ぶるいし、気合をいれるみたいで、それからすべてが鎮まり、葉群ももとの不動の姿を取りもどすのだった。

 これは『アカシア』のほんとうの最後の最後の文章です。平岡先生はこれを「訳者あとがき」で引用されています。一旦寝たベッドから抜け出して本を手にとり、ここを見たとき・・・、平岡先生が何をおっしゃられたいかが一瞬にして胸に甦りました。

 これに対して平岡先生はこう書かれます。

 シモンにとっては、小説を書くとはこのことのように≪窓≫から外を(記憶を)覗くのに似た行為であり、その≪起源≫をたどってゆくと、小説を書くことを思いたった南仏の古い屋敷の窓から見えたアカシアの葉群に回帰した・・・と

 「『アカシア』は三人称で書かれているとはいえ、完全な≪私小説≫ともいえる。」のです。この「訳者あとがき」は全部引用・ご紹介したいくらい深い内容です。久々に、「文学」に触れました。そして、いかに遠く平岡先生の世界から離れていたかが思われました。

 先生はすでに他界されています。先生がパリに研究留学されていらしたとき、パリから、「貴女の小説を僕の手で翻訳した本がパリの書店で並ぶ日を待ってます。」とお手紙いただきました。それを目指して、ほんとうは内心死に物狂いで書いていたのですが間に合いませんでした。でも、心の中では今も先生の仏訳に叶う力の作品を!とは思い続けています。

 で、ここで何を言いたかったかというと、目下連載中の「花の蹴鞠」の文体なんです。前作品の「白拍子の風」はまったくのヌーボーロマン文体で書きました。とても自由に、溢れるほどの思いで、自然体で、すらすら書けました。(内容は悲恋で苦しかったのですが・・・)

 これは、ヌーボーロマンとか、いわゆる「意識の流れ」文学を知った方には理解していただけましたが、一般の読者の方には文章が長いと不評で、そのために全体が難しくみえて連載の途中で匙を投げる方が続出。理解して下さった方のなかには短歌評論の一人者でいられた菱川善夫先生のような方がいらしたのですが、それは菱川先生が国文学の出身でいらしたからで、とにかくたいていの方に「あれは・・・」と忌避されるような状況でした。

 いくら内容がよくても(自分でいうのも何ですが、「白拍子の風」はアニメにも映画にも、宝塚にもなっていいくらい綺麗な雅な世界です!)、とにかく読んでいただけないことには話になりません。それで、今回の「花の蹴鞠」はぐっと文体を変えて、まず文章を短くしました。わかりやすいと言っていただいてます。でも、以前の「白拍子の風」ファンの方からは不評なんです。「なんで変えちゃったの・・・」「前のほうがよかったわ・・・」とか、「今度のには深みがない・・・」とか

 仕方ないと思います。どっちの方にも満足いただけるなんて今のところ無理。歴史小説なので歴史に翻弄される流れのなかで「深さ」が浮かびあがればいいと覚悟してきました。が、心の底で、「白拍子の風」の文体を捨てていることに「自分で自分を鬼にしていている」ような無理を感じていました。

 昨夜の『アカシア』事件はそこを突いてきたんですね。平岡先生の原点に帰りなさいってことでしょうか。考えます!!

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2009.5.22 峰岸純夫先生の新しいご著書『足利尊氏と直義』を拝読して・・・

Muromati035  写真は京都の今出川通りにある室町幕府跡の碑です。足利義満造営の花の御所はこのあたりとか・・・。京都の地理に詳しくないので、地図を頼りに「室町幕府跡」を探して撮ってきたものです。が、尊氏が開いた初期幕府の地とは別のようですね。

 こちらのサイトによると、【この石碑には、「従是東北 足利将軍室町第趾」と刻まれています。この地点より東北は室町幕府・足利将軍の邸宅跡であるという意味です。室町幕府の敷地は、東西を、烏丸通と室町通、南北を今出川通と上立売通の囲まれた長方形の敷地です。】とのことです。http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/isibumi.htm

 峰岸純夫先生が『足利尊氏と直義』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー272)というご著書をだされて拝読させていただきました。『太平記』の世界は私には難解なのですが、興味深く読ませていただきました。で、このブログでもご紹介させていただこうと思い、写真を何にしようか考えたときに、これを撮っていたことを思い出しました。2005年に中世都市研究会が京都で行われたときに行って撮ったものです。

 峰岸先生のこのご著書によると、最後には決裂する尊氏・直義兄弟ですが、もともと二人は協力しあっていて、互いの資質を活かして認めあっていた。で、幕府の地を決めるときに、尊氏が京都を望んだのに対し、弟の直義は鎌倉をと願ったそうです。室町幕府というと京都としか思い浮かばないのに、鎌倉になっていた可能性もあったんですね。

 峰岸先生のこのご著書は不思議な内容です。いわゆるふつうの『太平記』の時代の本とちょっと違って、とても人間的…というか、先生のお人柄の成せる技だなあと。眼差しがとても温かいんです。決裂する兄弟を描くわけですから、どっちかを悪者にしたり、どちらか方についた視線になってもおかしくないのに、読んでいて「どっちが悪いの?」「こんなに両方いい人だったら、殺しあうことないじゃない・・・」って、ずうっと不思議に思いつつ進んでいました。

 それもそのはず、最後の方になってわかったのですが、二人は夢窓疎石に師事し、疎石も二人を絶賛しているんです。夢窓疎石といえば権力に屈する人でなく、鎌倉にあって時の執権貞時に召されても拒否しとおしたくらいの人ですから、室町幕府の将軍という権力におもねってそんなことをいう方ではありません。しかも、直義に関しては『夢中問答集』という業績までが残っているのです。峰岸先生のご本から引用させていただきますと、「『夢中問答集』は、直義と夢窓の禅修行に関する九三項目の問答集で、在家の女性や仏道に志すものの指針となるようにという直義の意を受けて大高重成が編集したものである。」

 峰岸先生が引用されている川瀬一馬氏校注・訳『夢中問答集』は私も持っていますが、これがこういう関係の直義の手になるものだったとは、ほんとうに『太平記』世界に疎い私には意外なところでの新発見です。仏教なら仏教の側からだけ、歴史なら歴史の側からだけ、国文学なら国文学の側からだけしか見ていないと、大局的・総合的把握ができないということですね。

 その夢窓のような人物に評価されている二人が殺しあわなければならなかったなんて・・・、そこが武士の世界なんでしょうね。直義の死を尊氏の側の毒殺説もあるそうですが、峰岸先生は尊氏にその意思があったとは思わないとはっきりと書いていられます。これは、政治面だけの利益関係でみれば汚い見方になってしまうのを、人間性からみると絶対にそれはありえないという見方にもなるということ。峰岸先生ならではのことと思います。

 私は最近、政治や文学の表舞台の第一線で活躍するのでない、いわゆる有名な人でない人物を掘り下げていますから思うのですが、どうも、学者さんという方は、こんな言い方をしたら顰蹙かもしれませんが、「学者になった・・・、のぼりつめた・・・」という一種の勝者の立場にいられるから、目線が上から的なんです。それと、こうだからこう・・・と、構図が一元的というか対立的。有機的な温かい人間性が入っていないんです。二人いればライバルとか・・・。直義が突然不自然な死に方をしていれば、こういう状況の中では「殺された・・・」として当然。そして、殺したのは尊氏の意志・・・と。

 そこを「そうは思わない」とされる峰岸先生に感動しました。先生はとてもあっけらかんとされた方ですが、深いところに宗教のような「敬虔」が根底にあられます。最近の真慈悲寺研究も、ただの頼朝の御願寺探究ではなく、多摩地域の聖域「多摩霊場論」となって広がってお話されます。国東半島のような広大な霊場的性格が多摩にもあったなんて・・・と、これは凄い新発見で嬉しかったですね。

 拝読しながら書かせていただこうと思った関心事はたくさんあったのですが、ここでは書き切れません。なので、最後にこれだけは・・・ということを。それは、神護寺の頼朝像に関することです。

 神護寺の巨大な三枚の似絵は、頼朝・重盛・光能像として有名ですが、1995年に米倉迪夫『源頼朝像―沈黙の肖像画』が出て、実は違う・・・ということが明かされて大問題になりました。そうではなくて、足利尊氏・直義・義詮だというのです。頼朝といえばあの像が浮かんで、その品格で頼朝のイメージが定着しているわけですから、違うとなれば大問題。当時から米倉説のほうが正しいという印象はもっていましたが、それを認めてしまうと教科書に載っている写真から変えなければならない・・・、それではあまりに弊害が大きいというわけで(でもないのかな?)、最近ではこの問題は不問に付すといったかたちで、正式な決着がついていません。

 峰岸先生はこのご著書で、先生も米倉説支持を表明されていました。私としてはもやもやしていたものの霧が晴れた思いですが、じゃあ、頼朝の正式なお顔は?となると、それはもうほんとうに困りものです。だって、あの像に憧れて頼朝ファンになっている人だっているわけでしょ(私もその一人・・・です。)。三枚の像のどれが尊氏で、どれが直義かは峰岸先生のご著書の後半をお読みになってください。米倉先生のご著書よりは新刊ですから書店ですぐ手にできますから。

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2009.5.20 三島義教氏『初代問注所執事 三善康信 ―鎌倉幕府の組織者―』について・・・

019 所属している『吾妻鏡』を読む会の発表当番・・・、月曜日に無事終わりました。ふう~っと一息ついたところです。

 今回の担当は「養和二年(1182)二月八日」で、頼朝が伊勢神宮に御願書を奉納したという条。担当箇所の大部分はその御願書の紹介です。

 草案をつくったのは三善康信で、彼は鎌倉幕府の初代問注所執事として知られています。が、同様に京下りの文人として頼朝の側近で活躍した大江広元に比べ、どちらかというと影の薄い地味な存在に思われています。

 従来の三善康信像は、頼朝の乳母の甥の関係で、源平の争乱時、京にあって平家の動向を頼朝に知らせた功により鎌倉に召され、初代問注所執事になった・・・と、もっぱら頼朝の縁戚関係でひきたてられたふうに言われてきました。

 三善康信は、ここのところの私にとって最重要人物の一人です。それは、三年がかりで書き進めている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』で源光行を追って書いていますが、源平の争乱時、その光行の父が平家に与した咎でつかまり断罪にあうところを、光行を鎌倉まで伴って頼朝に面会させ、父の助命嘆願をさせたというのが、三善康信だからです。

 頼朝の甥で初代問注所執事・・・という経歴だけしか知られていない康信と、光行の関係がわからず、光行の年譜を作成された池田利夫先生も、康信の関係が光行本人となのか光行父となのかわからないと書いていられます。それで私もそこのところを探るべく、康信関連の本を探していました。光行父光季はあまり知られていませんが、建春門院滋子や建礼門院徳子の周辺ではたらいた形跡があるので、たぶん中宮職の関係ではないかと踏んで、それで、中宮属(さかん)三善康信という経歴から、康信は光行の父光季と中宮に仕える役職で一種の同僚として知りあっていたのでは・・・というのが私の結論です。

 それで、康信が仕えた中宮が誰か知りたく本を探しました。康信についてはほんとうにあまり書かれてなくて、ただ一冊、三島義教氏『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』があるだけ。でも、そこにばっちりと康信が仕えたのは育子中宮とありました。そして、光行父光季の滋子・徳子の時期とも重なるので、二人の面識があったというのは確信していいでしょう。光行はおそらく親友光季の助命に、子息光行を伴って鎌倉に下向。頼朝に面会させて一緒に嘆願したのです。その甲斐あって、光行の父は助かります。

 さて、この三島義教氏『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』が、これがもう、凄いんです。三島氏はいわゆる歴史専門の学者さんではありません。経歴を拝見しても、東大法学部卒。建設省などを経て退官後に三善康信研究に着手。十五年の歳月を費やしてこの書を完成されたそうです。専門でいられないので出版にためらっていたところ、多くの学者さんに送って問うても異論が出ず、何よりも角田文衛先生に認めていただいたことに勇気を得て出版されたとか。十五年という歳月のとおりに、中身は非常に濃いものがあります。感動しました。

 こんなふうに研究が進んでいない康信。「頼朝の甥という縁故関係」のみで語られてきたのには、鎌倉幕府のなかの問注所だから、資料は『吾妻鏡』をあたれば充分・・・のようなことで、もっぱら『吾妻鏡』に登場する面だけで評価がされてきたのですね。

 が、三島氏のこのご著書に、驚くべきことが書かれていました。康信は、頼朝に仕えたあとも、同時に京にあって蔵人方五位出納という地位を得て、吉田経房のもとではたらいているのです。それは、経房の日記『吉記』に書かれていて、そのことから三島氏が結論づけられたのは・・・康信が鎌倉に派遣された背景には経房がいて、後白河法皇の意向のもとに京・鎌倉のパイプ役として、頼朝にもゆかりのある康信がふさわしい人物として選ばれた・・・と。

 重要なことなので引用させていただきます。

 これまで、康信は、専ら、『吾妻鏡』掲載記事から論ぜられ、(中略)、康信は鎌倉に赴き、乳母の甥の故に頼朝の私的な恩喚を受けた京下向の下級官人で、広元のあの華々しい朝廷との政治交渉ぶりと違って、頼朝の分身となり、専ら鎌倉に出仕してただ地道に厄介な問注所の整理のみを務めてきた人物としか評価されなかった。

 後白河法皇は頼朝の恩賞に「諸国武者押妨取締の宣旨」を沙汰し、諸国には参議左大弁経房が布告し、今後の武者世界の恒久平和確立の責任を頼朝に委譲する画期的な国家的治安維持機構を発足させた。この戦略実践のため、その四月、蔵人方五位出納康信は、鎌倉の頼朝のもとに派遣され、京と鎌倉の政治の橋渡しの役割の任務を与えた。

 この『吉記』の五位出納康信は今までまったく着目されてませんでした。十五年の歳月を傾けての三島氏の労あって発見されたのです。そして、康信のほんとうの姿が浮かび上がった・・・。

 鎌倉だからといって鎌倉サイドだけの史料で片づけていては駄目だったのです。京の側の史料と複合させてはじめて真実の姿が見えてくる・・・

 所属している『吾妻鏡』の会のメンバーは、私なんかのひよっこと違って十何年来、古文書を読み続けていられる方々ばかりですが、従来の歴史観には熟知されていても、こうした穴のような個々の史実には触れられる機会がなくて、この康信の件も初耳。『吉記』にあるとなれば疑いようがなく、ほんとかなあ・・・と狐につままれたようなお顔をされながらも、でも、「今日は面白かった。御苦労さま」と、ポンと肩を叩かれたような反応をされました。光行の関連で興味をもたなかったら、私だって従来どおりのちっぽけな存在でしか担当箇所の康信を発表できなかったでしょう。

 康信もそうですが、私が追っている「河内本源氏物語」の源光行だってそうです。光行に関してもほんとうに断片的にしか知られていません。で、そのほんの『吾妻鏡』に書いてある部分だけで断定して、下級武士だから何々・・・と、蔑視的扱いの評価が下されてます。でも、詳しく調べれば、人脈関係をみても、たんなる下級武士の範囲ではない生活、人間像が浮かびあがります。一面的な視野でもって人を見下すような評価をするのだけは止めてくださいと、ここのところの私は声を大にして言いたいと思います。

●写真は撮ってきたばかりのシロツメクサ。さわやかに晴れた公園でみつけました。

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2009.5.16 二条院讃岐の「沖の石」は若狭・・・?

 都立図書館に行って森本元子さんの『二条院讃岐とその周辺』(笠間書院)をコピーしてきました。まだぱらぱらと目を通しただけですが、讃岐周辺についてしっかり書かれていて、探していたとおりの書物に出逢いました。中に気になった事項がありましたので書いておきます。それは、「沖の石」について・・・

 有名な歌枕で「沖の石」といえばもう昨日ご紹介させていただいた写真の多賀城市にある陸奥の地ですよね。が、讃岐の歌の「沖の石」は若狭だったような感じがあるんです。

 それは若狭の国松永(福井県)の三方湖で、二条院讃岐の父頼政の旧領地だったとのこと。武人でありながら大変な歌人でもあった頼政の娘ですから、歌枕の知識も父のもとで育んだとしたら、この若狭の「沖の石」が彼女の念頭にあったとしていいわけですよね。近くには讃岐の墓もあるとか・・・

 もっとも、陸奥の「沖の石」にも可能性があって、結婚した重頼が陸奥守だったそうなので、讃岐も陸奥を訪れていたのだろうという説もネットでみました。でも、重頼は若狭の地頭でもあったとかで、夫からの関連では決められません。

 このあたりまだ詰めていませんので、とりあえず若狭説もあるというご報告を。私としては学生時代から思い込んでいた【歌枕「沖の石」=陸奥】のイメージが強く、意識を切り替えるのは大変です。

 讃岐はあまり知られていませんが、『二条院讃岐とその周辺』によると、二条院宮廷で若き女流歌人として名を成したあと、二条院の崩御で宮中を退出。その後結婚して第一線から退いていたのを、後鳥羽院が自身の歌壇に女流が少ないのを欠点に思って、新人・年配を問わず才能ある女流を召しだした中に讃岐もいた・・・ということらしいです。

 そのときはもうすでにかなりの年になっていて、男性歌人のなかには古い歌風から抜けられずに新風の新古今歌壇についていけない人が多かったのを、讃岐は柔軟な感性ですっかり一新、みずみずしい作風をすぐ身につけたとか。

 このときの後鳥羽院歌壇の新進気鋭の女流歌人といったら俊成卿女がいて、宮内卿がいます。宮内卿なんか、かつて讃岐が二条院に仕えていたころの若さですから、そういうなかに混じって少しも臆せず堂々と新しい歌風を身につけたというのは凄いですね。目立たない存在なのにしっかり自分をもっている・・・そんな感じを受けました。

 さて、この二条院讃岐・・・、私の「花の蹴鞠」の明子さんと、二条院宮廷でどのように交わらせていきましょうか・・・。楽しみです。

 宮内卿と書いたら、気持ちがすっかり新古今になってしまいました。この女性は讃岐と正反対に強い個性で印象が強烈です。好きなんです。彼女の歌。一首、書いておきます。

 うすく濃き野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え

 どうもやはり新古今の周辺は強烈ですね。二条院讃岐について書きだしておきながら、ほんの関連で宮内卿と記しただけでもう引きずられてます(笑)。エッセイならこれでどんどん広がってもいいのですが、目下は「花の蹴鞠」に戻らなくてはならないので、気を引き締めて集中します。

 後鳥羽院歌壇の華やかさに心が染まったついでに書いてしまいます。(これはイメージを固定してしまうから絶対書かないでおこうって決めていたことですが・・・)。それは、「花の蹴鞠」の主人公の飛鳥井雅経のキャスティングについて・・・

 少し前から私の中で雅経を演じる俳優さんが決まっています。それは三浦春馬さん。雅経って個性がないようでいて不思議な魅力があって、頼朝にも、後鳥羽院にも、藤原定家にも、ふつうならつきあうのに大変といった強烈な個性の面々に、誰からも一様に、それも並々でない親しさで愛されてしまうんです。そんな純粋無垢のようなキャラの俳優さんなんかいるかしらって不安だったのですが、あるとき、ふっと何かの写真で春馬さんの目に引き込まれて・・・、この人だ!!って。

 今朝、その春馬さんがテレビにでてらしていて、舞台をなさるんですね。なんだか「星」とか「ゴージャス」とかつくタイトルの。両脇を先輩格の岸谷さんと寺脇さんにはさまれて、なんだかやっぱり頼朝と後鳥羽院にはさまれてるみたいで映えていました。観たいなあ、なんて。

 いつか「花の蹴鞠」がドラマ化されることがあったら、原作者として三浦春馬さんを推します!! いつになるか・・・。でも、春馬さんが演じられる年のうちに完成させないと、ネ(笑)。ちなみに、女主人公の広元女典子のキャラはまだ決まっていません。でも、春馬さんは絶対・・・です。でも、お読みになる方はご自身のイメージどおりでいいんですよ・・・といっても、もう春馬さんがインプットされてしまいました?

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2009.5.15 「沖の石」の二条院讃岐について調べています・・・

151 129 138 162  再掲画像があるかもしれませんが、これは昨年10月に訪ねたときの歌枕「沖の石」です。宮城県多賀城市にあります。

 沖の石で有名なのは百人一首の二条院讃岐の「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそしらね乾く間もなし」です。

 なぜ、今、二条院讃岐かっていいますと、ほんとうは讃岐その人でなく、二条院について知りたく、周辺を探っているところなのです。で、今は、讃岐という女性・・・

 最初に二条院について知らなくてはと思った発端が、連載中の小説「花の蹴鞠」に登場させている安達盛長妻の明子(仮称)が二条院に仕えた女房「丹後内侍」だったことから。主人公飛鳥井雅経妻の典子に人生を教える重要な先輩格の女性として彼女を書き始めて、それではもっと彼女の過去を知らなくてはと思ったのがそもそもでした。(でも、これって、この小説を書き出すまでは思ってもいなかった展開なんですよ! 書き進めていくなかでどんどん盛長とその妻の明子のことが膨らんで、今ではちょっと危ないことに、主人公の雅経夫妻よりも興味津津・・・)

 それから、次に、「ん、また二条院?」と思ったのは、夏の締め切りで北条実時周辺の万葉集事情を書こうと思っているのですが、その資料を集めていたら、どうも、鎌倉に来て実時のあたりにあった万葉集は二条院あたりからの・・・と。まだ一回目をとおしただけのうろ覚えですが、とにかく、二条院が万葉集にかかわっていられるらしいのです。

 今までの私の二条院に対するイメージといったら貧困で、後白河院と親子でありながら対立して院政に逆らった天皇・・・くらい。あと、『平家物語』中で二代后多子を二度目の入内させた問題の天皇・・・としか。ですから、あまりいいイメージではなかったのです。

 どうも、これは、二条院に対立する側の意見ばかりでできたイメージらしく、実際、万葉集の資料として拝読している論文では、仁和寺に預けられていたころは仏典や漢籍の嗜みもよく賢い人物といわれていたそうですし、万葉集も、その漢籍をたしなんだ力で万葉集の訓みをされているやはり聡明な人物。同じ一人の天皇に、こうも違う色合いで、何も知らない私たちに史実を伝えてしまう事実って、何なのでしょうね。疑問です。

 そしてさらに偶然というには不思議なのですが、所属している『吾妻鏡』を読む会で、来週発表当番。これは半年に一回くらいきます。そのときに一ページ分担当するのですが、そこに三善康信がでてきます。康信といえば「河内本源氏物語」の光行を、光行の父の助命に鎌倉まで伴って頼朝に紹介した人物。いわば、ここ三年以上関わっている内容の事柄です。なので、ちょっと得意分野。それで、発表に必要な分以上に深く読み込んでいって面白がっていたら、結局三善康信も二条院后育子に仕えた二条院宮廷の人物だったのです。そこに、二条院と美福門院得子のことが書かれていました。

 後白河院と親子でありながら対立というのも理解できなかったのですが、謎が解けました。二条院は産まれてすぐ生母と死別。赤ちゃんのときから育てられたのが美福門院得子という、後白河院の母待賢門院璋子の超超ライバルだった女性。そういう女性に育てられて後白河院を良く思う訳ありませんよね。いわば、物心ついたときから後白河院への憎しみを植え付けられて育っていたということなのでした。

 でも、そういうこととはべつに、二条院が賢い人だったらしいことは、万葉集の事実でも頷けます。この二条院に仕えていたのが讃岐という女性。盛長妻明子が二条院に仕えていたなら、同僚として讃岐を知っていたのでは・・・との思いから、讃岐を調べれば過去の明子を書けるかなあと・・・

 でも、二条院讃岐を書いた著作ってあまりないんですね。杉本苑子さんの『二条院の讃岐』は拝読しましたが、明子の出る幕はなくて、とりあえず明日都立図書館に行って調べてみます。

 でも、多賀城市の沖の石は不思議でした。見るからに海岸にあって当然の石が何の変哲もない住宅地の真ん中にぽっかり出現しているんです。一枚目の写真でおわかりいただけるでしょ。近くにはあの有名な松島がある土地だから地殻的には不思議はないのでしょうけれど。

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2009.5.12 実践女子大学ホームページの【空蝉】の動画

039 昨年源氏物語千年紀のイベントで行われた十二単衣の着付けが、【空蝉】の演出で動画アップされているのを拝見しました。

 貴重な映像・・・、でもほんとうに十二単衣って独特です。私はこの独特な王朝文化(装束とか料紙など・・・)が好きなので、その色合い・香りの感じられるものが王朝文化なのだと・・・

 出崎監督のアニメ【Genji】についての最終的な感想のまとめを書けないでいるのが気になっているのですが、映像が最後の回になるほど王朝文化から離れていて、観ているときはセリフに引き込まれて感嘆していたのですが、さて振り返って感想をまとめようとすると、なんだか『源氏物語』ではないので困っています

 実践女子大学ホームページの動画へは、国文学科へいくと見られます。

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2009.5.6 『月刊 エアライン』5月号【羽田の変貌】から羽田空港の思い出を・・・再掲ですが「マレーネ・ディートリッヒさん」

Haneda013 書店の前を通ったら、青い表紙の飛行機の写真の雑誌が目に入り、【羽田の変貌】という特集号だったので、あっと思って楽しみに買って帰りました。

 もう○十年も昔・・・(笑)、当時はまだ東京写真短期大学といっていた現東京工芸大学を卒業してすぐ、私は羽田空港内の空港写真部の中でカメラマンとして勤務していました。ちなみに母校が現在の四年制東京工芸大学になったのは、私が卒業して翌年だったか、その翌年だったか、そんな頃です。

 今でこそ成田に国際空港が移り、羽田は国内線専用になっていますが、当時はまだ国際線もいっしょでした。ターミナルビルには国内線用と国際線用がありました。空港内のニュースから設備一切を撮るのが空港写真部の仕事ですから、私も男性カメラマンに混じって、ランプから飛行機の整備場や日航のオペレーションセンターなど、施設内のあちこちを撮ってまわっていました。赤い腕章をつけて・・・

 成田に国際空港が移転するのを機に、通い切れないのを理由に退職しました。国内線専用となった羽田は、やはり見るのが侘しくて、もったいないなあ・・・、交通機関を考えたら、外国からいらっしゃる方のためにも国際線として使うべきなのに・・・と思っていました。近年、羽田の再開発が進み、国際線としての復活も考えられているそう。いいことだと思います。『月刊 エアライン』5月号はそんな変貌する羽田の特集でした。懐かしい場面もあり、変貌ぶりに驚く面もあり・・・で、楽しんで見ています。通勤に一歩空港内に踏み込んだときに感じる飛行機の油の臭いとか、キーンというジェットを吹かす音・・・などなどが一気に甦るようです。

 羽田の思い出を書きだしたらキリがありませんので、一つだけ、もう一つのブログ≪ゆりこの銀嶺日誌≫に載せてある「愛知万博のときのマレーネ・ディートリッヒさんの思い出」を再掲させていただきます。

【マレーネ・ディートリッヒさんの想い出】
 愛知万博が開かれています。
 日本に於ける最初の万博は大阪万博でした。1970年開催です。当時私は写真短大をでたばかりで、羽田空港写真部にカメラマンとして勤務していました。
 万博が終わる最後になって、マレーネ・ディトリッヒさんが会場内でのエキジビションの為に来日されました。ショーが無事終わって、たしか翌日だったと思うのですが、羽田から帰国されたのでした。当時はまだ羽田は国際空港でした。
 ディートリッヒさんといえばもう凄い方ですから、当然新聞社各社では出発の写真が欲しいところです。けれど、ディートリッヒさんはお仕事以外で撮られるのは大嫌いということでした。それで、招聘元のプロダクションから緘口令が敷かれて、空港内での撮影は一切禁止ということになりました。
 でも、新聞社としてはそうはいきません。どうしても一枚欲しいわけです。それで依頼が空港内にある写真部に来ました。
 デスクはT氏という英語堪能のとても敏腕な方でした。三十名ほどいたカメラマンの中で紅一点だった私は大変可愛がっていただき、下積みから段階を昇っていかなければ到底撮らせていただけないような仕事も回していただいていました。(当然嫉妬もされましたし、今から思うと済みません!・・です・)私はそのT氏の「行こう!」の一声で、何を撮るのかもわからずカメラを持って従いました。
 通行証代わりの赤い腕章をはめ、通関手続きを終えた搭乗者の方々がいるロビーへ行く道すがら、はじめてマレーネ・ディートリッヒさんが今空港にいらして、それを撮らせていただくのだけれど、少しでもカメラを向けたのがわかると大変なことになるから、ようすを見つつ待つのだと教えられました。
 ディートリッヒさんはすらりとした長身に浅いブルーのジーンズの上下、同じ色のつばのついた帽子を被りという姿でした。ロビーにはたくさんの人がいましたが、日本人で気づいた人は一人もいませんでした。でも外人の方はさすが擦れ違う毎に誰もがはっとなさっていました。中には気軽に声をかけて握手を求める方もいられ、ディートリッヒさんも笑顔で応えていられました。そして、時には一角にあるカウンターバーでくつろがれたりと。
 一部始終を撮りたかったのですが、なにしろあれだけの映画に出演された方です。レンズの気配は後ろにあっても察知されてしまうでしょう。じっとこらえてT氏と二人で目で追いながら、撮るチャンスを窺いつつ時を待ちました。
 結局、ロビーで撮らせていただく機会はありませんでした。そのままディートリッヒさんは搭乗。私たちもランプに出ました。でも、既にディートリッヒさんは飛行機の中です。どうするのだろうと思っていると、T氏がタラップを昇って行かれました。そして、ドアの所でスチュワーデスさんと何か話しています。スチュワーデスさんが奥へ消え、再び現われたと思うとT氏に何か告げ、そして、T氏は降りて来られました。
 こういうことでした。
 「往年のファンです。一枚だけ撮らせて下さいと取り次いで貰ったら、一枚だけならOKということになった。今、ドアの所に出てくるから、そうしたら撮ってくれ」
 しばらくしてディートリッヒさんがドアの前に現われました。私は「一枚だけ」の言葉を肝に銘じて前に進み出て一礼し、カメラを向けさせていただきました。
 ディートリッヒさんも想定外の若い女の子のカメラマンに、ん?と目をとめて下った気がします。そして、手を挙げて「撮ります」の合図をし、カメラに向いて頂いたのを確かめて、シャッターを切りました。もう一枚!と、どんなに思ったでしょう。「Once more , please」といえば許していただけそうな雰囲気でした。でも私は「一枚だけ」を厳守しました。
 今思えば、生涯で最大の緊張の一枚だったかもしれません。でも、若かったし、それにディートリッヒさんと目が合った時の温かさみたいなものが胸にあって、不安はありませんでした。
 写真は翌日の英字新聞各社共通で載りました。手元には日付の判を押したその切抜きが一枚だけ、黄色くなりかけてあります。このブログにアップしたいのですが、肖像権の問題などわかりませんので、当分私一人の範囲で納めておきます。
 愛知万博が開催されて、ニュースで万博の文字を見るたびに、私にはディートリッヒさんの思い出が懐かしく甦ります。

●写真は、『月刊 エアライン』5月号と、JALの模型飛行機。これって優れもので、ドアの開閉ができるんですよ。ただ開けたり閉じたりするだけでも楽しい!! 開けて撮ってみました。でも、今って、カメラマンとはいわないんですね。フォトグラファー、って。私もそう記すべきかと思うのですが、当時の通称のほうがしっくりして変えられないでいます。

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2009.5.3 明星山麓の翡翠峡・・・小滝川の巨大な石

Photo 再掲かも知れませんが、画像データの整理をしていたら出てきたので載せますね。

 正確な記録がうずもれてしまっているのでうろ覚え・・・、間違っていたらごめんなさい。ただ、これは明星山の真下を流れる川の中で撮ったということだけは事実です。それが、小滝川だったような・・・。日本海に流れ込む姫川の支流です。

 明星山はロッククライミングの聖地です。その真下に、小滝川の翡翠峡はあります。翡翠は緑色ですが、アルビタイトという真っ白な原石の中に埋もれています。通常、割ってみないと中に翡翠があるかどうかわからないのですが、この石は表面が剥落していて、中の翡翠が絵巻を広げたように見えていました。素敵でした。

 この写真を撮るために、私は川の中に入ったのですが、足首までつかりながらの撮影で、川のなかの石と石を伝って歩くことの不安定なこと!! この写真を撮った直後、ぐらっと、踏んでいた石がひっくりかえって、私も川のなかにドボン! ニコンのカメラは思いきりレンズの鏡胴を石にぶつけるし、私は膝を打って血は出るし・・・で、大変でした。なにより悔やまれたのは、せっかくここまで撮りに来たのに、カメラが壊れてはどうにもならない・・・。翌日は糸魚川市の青海川へ回る予定だったのに・・・。仕方ないので、駅の売店で「写るんですカメラ」を買って、青海川の翡翠峡撮影は「写るんです」でした。

 でも、それはもう迫力ある写真は撮れました。青海川の翡翠峡は、明星山の麓の小滝川と違って開けてなくて、深い深い山中。それをかなりハードな小道を伝いおりなければたどりつかない秘境でした。

 糸魚川の青海町には翡翠を展示する自然史博物館があって、その建設に力を尽くされた小野健氏がいられます。今年のお年賀状には何か記念イベントがあるそうで、「撮影にいらっしゃいませんか?」と書いていただきました。行きたいのはやまやまですが・・・

 これを撮ってから何年たつでしょうね。私の撮影旅行は小説の取材を兼ねていますから、このときは地質学に嵌って、長瀞の緑泥片岩の石畳とか、新倉の断層とか、地質関係のものばかりを撮っていました。それが、今は源氏物語関係の雅な文化のものばかり。地質に燃えていたころとあまりに違って、小野健氏にお年賀状をさしあげるのもちょっと気が引けている昨今です。でも、「撮りに・・・」といわれると、やはり、地質っていいなあ・・・と。なにしろ、目には見えない地中の奥深くを感じるロマン満載ですから。

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2009.5.2 私の論文「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」(『駒澤国文』所収)について・・・

087  今年3月刊行の『駒澤国文』に載せていただきました論文、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」について書かせていただきます。

 これは、『源氏物語』の二大写本といわれる『青表紙本源氏物語』の校訂者である藤原定家と、『河内本源氏物語』の校訂者の源光行の二人が、如何にどっぷり平家文化に浸って育ったか・・・、そして、それが如何に深く二人の文学的感性に影響を及ぼしたかを明かし、それが『源氏物語』写本という偉大な業績につながった、ということを論理立てた内容です。

 『源氏物語』は紫式部が書きました。けれど、紫式部が書いた原典は残っていません。現在、私たちが読むことができるのは、昔の人が書き残してくれた写本があるからです。

 室町時代中期まで、写本のなかでも源光行校訂の『河内本源氏物語』が主流でした。藤原定家の歌人としての価値が高まると同時に、定家校訂の『青表紙本源氏物語』が主流になり、『河内本源氏物語』は忘れられていきます。現在、私たちが読んでいる活字化された『源氏物語』はみな『青表紙本源氏物語』です。

 定家と光行は1歳違いの同世代人です。その二人が、後世「二大写本」といわれる写本を成し遂げたわけですから、当然、そこには何らかの関係があったことは誰しも思います。が、そこのあたりはまだ深く研究されてなくて、定家は公卿、光行は下級武士、といった身分も違うことなどから、二人の関係はあまりなかった・・・、あったとしても仲がよかったとは思えない・・・、さらに、ライバル・・・、みたいなぎくしゃくした見方がなされてきました。「光行の『源氏物語』研究の深まりに焦った定家が、歌の家としての権威を保つために焦って『青表紙本源氏物語』をはじめた」というような。

 最初にこの説を拝見したときに、まず私はこれに対して違和感を覚えました。これは、違う・・・と。私は学者ではありませんから、いわゆる国文学世界の常識的見方に染まっていません。代わりに、小説を書いたり、写真を撮ったりと、自由に時空をさまよい歩いてきましたから、どこかに人間関係についての機微を熟知しているようなところがあります。

 最初、定家を知ったのは、小説で新人賞を頂いて、そのときの審査員でいらした福島泰樹先生に短歌結社「月光の会」のお誘いをいただき、入会してから。短歌についての俄か勉強のなかで塚本邦雄氏の新古今美学に目もくらむような衝撃を受け、そこから『新古今和歌集』について、それらの歌人について、網羅して本を読みました。なので、私の定家研究は作品から入っています。そのときの疑問が、「定家はそんなに恋愛に耽溺したわけでもなさそうなのに、どうしてこんなに妖艶な歌が作れるのだろう・・・」ということでした。

 光行に興味をもつことになったのは、新人賞受賞のあと、プレッシャーから第二作が書けなくて文学に挫折し、その苦しみから救われるためにカルチャーの仏教の講座を受講したことに端を発します。それは密教の「空海の哲学」という講座でしたが、その講師でいらした真鍋俊照先生が、金沢文庫の学芸員でいらして(のちに文庫長になられますが)、それで中世史料の宝庫とわれる金沢文庫の展示を度々拝見していました。

 その展示になかに、金沢文庫の創設者北条実時書写の『源氏物語』があって、そのときの疑問が、「実時は鎌倉幕府の重鎮という武人なのに、どうして『源氏物語』のような雅な業績があるのだろう」ということでした。実時書写の『源氏物語』こそ、光行がはじめて子息の親行が完成させた『河内本源氏物語』なのでした。そして、それは現在『尾州家河内本源氏物語』と呼ばれて重要文化財にまでなっています。

 その後、遺跡発掘調査の仕事について歴史に視点がいったりと、いろいろあったあと、真鍋先生がご還暦記念論文集『仏教美術と歴史文化』に書く機会をくださって、そして書いたのが「北条実時と『異本紫明抄』」です。ここで、実時が如何に深く『源氏物語』に造詣を深めていたかを明かしました。『異本紫明抄』というのは『源氏物語』の注釈書で、そんなものを成すほど実時の源氏熱は高かったのです。この研究のなかで、光行にかかわる重大な文言の書かれた『原中最秘抄』と出会いました。

 『原中最秘抄』には、光行が、後徳大寺実定・後京極良経・藤原俊成・源通親息の久我通光の四人から『源氏物語』について協力があったと書かれています。が、ここでも光行は侮られていて、光行のような下っ端役人にこんな凄いブレーンがいるはずがないという、胡散臭い見方までありました。ここでも私は直感で「違う。これは事実だ」と思いました。文献に縛られないで、文学とか写真といった時空のなかで生きていると、おのずと、人の感情の流れが読めているらしいのです。

 でも、それらはあくまでも私の直感にしか過ぎませんでしたし、打ちだされている立派な学者さんの説に反論する力は、もとより私にはありませんでした。それでそういうことを書いて本にして、自費出版で世に訴えよう・・ととりかかったのが、ずっと、これまでこのブログでご紹介させていただいている、『紫文幻想―『源氏物語』写本に生きた人々―』です。そんなことできっと、私の「時空」は飽和状態になっていたのでしょうね。昨年の夏、源氏物語千年紀にかけて、私は写真展を開きました。それが、【写真展「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」】です。

 この時点での私の視点は、真鍋先生の論文集に載せていただいた「北条実時と『異本紫明抄』」がメインでした。「鎌倉にもれっきとした『源氏物語』文化があった」ということを知っていただこうと・・・

 その目的で、藤原道長の邸宅跡「京都御所の一画」から、平家文化の時代・頼朝の鎌倉から、実時の称名寺・・・と、時代順に、そのときそのときの人の動きに合わせて、40枚の写真を並べていったのです。

 ただたんたんと、時空に合わせて、選んだ写真を時系列に並べただけでした。特別ななんの意図もなく、ただそれまで撮り溜めていた記録としての写真を、京都から鎌倉へと順に並べただけなのです。

 が、並べたとき、圧倒的な迫力で迫ってきたのが「平家文化」でした。それは、定家と光行が生きた20歳までの「時代」でした。「こんなにも二人は平家文化に染まって育ったんだ・・・」という驚きは衝撃でした。なにしろ、定家は「紅旗征戎吾が事にあらず」なんて『明月記』に書き込んだりしたものですから、定家は平家とは無関係・・・みたいな印象が強いのです。

 なにかおかしい、二人が平家文化と無関係なはずはない・・・と、写真展会場で、圧倒的な迫力をもって迫って来る平家文化の写真に押し倒されそうな思いで、これをなんとかして明かしたい思いに駆られました。

 そんなとき、ちょうど写真展が終わった直後でした・・・、三年間大学院ゼミを聴講させていただいていた高橋文二先生から、「今度の『駒澤国文』はぼくの退官記念号なので、何か書いてみませんか」というお電話を頂戴したのです。即座に、「あれを書きたい」と思い、その旨をお伝えさせていただきました。高橋先生には写真展にもいらしていただいてますので、意味はすぐ了解していただけました。

 そして、できたのが「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」です。『河内本源氏物語』の光行の叔父季貞が清盛の側近だったことなどから、光行が平家一門内での育ちだったこと、そして、定家はずっと平家歌壇の一員として経盛りや経正・資盛らと親しかったこと、などを羅列して、定家が平家と無関係どころか、それらの人々が壇ノ浦で果てたときに、どんなに悲痛だったかを明かしました。そして、光行と定家が俊成のもとで、兄弟のようにして『源氏物語』を学んだだろうことも。

 そういう二人が成した『源氏物語』写本です。定家の歌の妖艶さの原点は平家文化だったのです。「かきやりしその黒髪の筋毎に打ち伏すほどに面影ぞたつ」と歌ったとき、定家の脳裏には見知った平家の女人の誰彼が面影として浮かんでいたはずです。『源氏物語』の妖艶さは、王朝文化の再来といわれた平家文化に通じます。二人が成した『源氏物語』写本には、親しかった平家の方々への追悼の思いが込められていた・・・というのが私の論旨です。

 思いが溢れて、どう書いても舌足らずな思いしか残らずもどかしいのですが、とにかく私のなかでは、「二大写本を成さなければならなかったほどの悲痛」を抱えた二人(定家・光行)への思いが溢れています。一応、論文にまとめて気持の整理はついていますが、ただそれだけでは目的の半分も達成していません。私の目的は、二人の思いを普遍的に日本国民全体に浸透すること。なのに、一個人の主張なんて、誰もとりあげてくれません。でも、私は、日本文化の基層ともいうべきこれらの事情を、「常識」として、皆様に知って欲しいと心から願っています。(ずっと、一人で戦って書いてきましたので、つい、これについて語ると激してしまうんです。ごめんなさい。)

 読んでみたい、少し知ってみたいと思われる方がいらしたら、抜刷をコピーして送らせていただきます。メールをいただけましたなら、嬉しく存じます。

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