2009.5.31 東京藝術大学大学美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展
写真は東京藝術大学大学美術館で開催中の『尼門跡寺院の世界』展の図録(一枚目)と、チラシの表と裏です。綺麗でしょ!! 図録もチラシもデザインのモチーフはどちらも散華。散華は寺院の儀礼法要の際に、僧侶がお経を唱えて巡りながら、華籠(けこ)という籠に入れた散華を、左手に華籠をもち、右手で散華を幾枚かずつ放り投げる、あの蓮の花びらをした紙のことです。
法要の際の、その放り投げられた色とりどりの散華が舞い落ちるようすの綺麗なこと!! さながら極楽というのでしょうね。舞い散った散華はそのままになって儀式が終了しますから、集まってきた会衆はそれを拾えます。私も何回かの機会があって大切にもっていますが、昨日行った展覧会での散華を見て驚きました。散華って、手描きだったんです!!
二枚目の写真をご覧になってください。このたくさんの、しかも細やかに書き込まれた綺麗な絵がみんな手書きなんですよ!! 私は法要の際の思い出とともにいただいた散華を大切に思っていたのですが、現代のは印刷・・・。印刷のない中世の時代にあっては手描きで当然なのでしょうけれど、これはほんとうにびっくりしました。尼門跡寺院という奥床しい世界の、最高位の方々の所持される散華だからでしょうけれど、ほんとうに、「これが散華なのだ・・・」という驚きでした。(だからといって所持している散華への思いが下がるわけではありませんが・・・)
この展覧会は、中世の尼僧史を研究されているコロンビア大学名誉教授のバーバラ・ルーシュさん方のお力で開かれました。バーバラ・ルーシュさんが最初に関心を寄せられた無外如大という尼僧が鎌倉の金沢北条氏の出身といわれている関係で、金沢文庫にレプリカの像(出展されています)があったりして、私もその関連で以前からこの世界には興味をもっていました。バーバラ・ルーシュさんの展覧会への思いを図録から引用させていただきます。バーバラ・ルーシュさんはドナルド・キーン氏のお弟子さんでいられます。
振り返ってみると、このような先例を見ない展覧会の始まりは、もう20年以上も前のことになるだろうと思います。日本文学・文化史を長年にわたって研究し、同時に教えてまいりましたが、日本における仏教の歴史に関する限り、仏教の世界は基本的に男僧たちがつくり上げた世界であるという説明に慣らされてきました。ところが、驚いたことに、1980年代のある日、これを真っ向から打ち消す出来事に遭遇しました。まったく偶然のことでしたが、ほとんど無名に近い、ある禅師の等身大の彫刻、すなわち頂像彫刻にお目にかかる機会がありました。よく見ると、それは男僧ではなく、尼僧でした。名前は無外如大禅尼といい、13世紀、臨済禅の尼五山では一番位の高い尼寺の住職でもありました。まるで生きておられるような眼が私の眼と合った瞬間、錠前の鍵が回転する音を聞きました。今まで知られることのなかった尼僧たちの世界への扉が開き、背中を押されたように感じました。
尼門跡寺院についてはあまり知られていませんよね。私も一番印象に深い感覚といったら、三島由起夫の『豊饒の海』四部作の最後、『天人五衰』の最後で、晩年になった本多が、出家して籠っている聡子を、その尼寺に訪ねるシーン。
そのシーンは、いつ思い出しても名場面で、うーんと唸って、深いところで人生を左右されてしまっているのかもしれないほど読後は強烈です。尼門跡寺院展について書こうと思ってはじめた記事ですが、せっかくなので、三島由起夫のその文章を改めて見直したくなりました。引用させていただきますね。
(これからでかける用があって恐縮ですが中断。この項はのちほど続けます。無外如大のことなど、書きたいことはたくさんあって・・・)
続き:
中断したままになってしまいました。済みません。無外如大に関しては次の6月4日の記事【峰岸純夫先生のご著書『足利尊氏と直義』に関連して・・・】で書きました。で、ここでは中途半端になっている三島由起夫の『天人五衰』からの引用のみを記させていただきます。これについて書くとまた長くなりますので・・・
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶の榻が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った・・・、この文章・・・、一回でもこれに目を通したら生涯染まってここから離れなくなる、そんな文章ですよね。私も、いつとなく、記憶もなければ何もない・・・というフレーズにふっと左右されて生きていると感じること度々です。
作品では月修寺とありますが、モデルとなった尼門跡寺院は奈良の円照寺とか。芸大の展示にも円照寺のコーナーがありましたが、三島由起夫作品との関連には触れていませんでした。ふつうなら一言書いてくださっていいと思うのに、信仰世界に徹する内容の展示。きっぱりしていて、そこに尼門跡寺院の格というか、真髄をみた気がします。
でも、三島由起夫はこれを書いて、編集者さんに取りにくるようその日の朝に約束しておいて、自身は原稿を置いたまま市ヶ谷の自決の場へと出て行ったんです。編集者さんは作品の一連の文章から三島由起夫の覚悟を察していられたとか。活字になって世に出た本を自分が絶対に見ることはないと知りながら書き進めた文章・・・。それこそ三島由起夫はどのような思いだったのかと考えるとき、「記憶もなければ・・・」が自然にでた、ほんとうに自然の文章だったと思わざるを得ません。究極の文章と思います。
でも、今これを引用していて、『平家物語』の後白河法皇が寂光院を訪ねた折の、花を積んで山から下りてきた建礼門院徳子の場面がほうふつとしたのですが、あるいは三島の胸にもあったかもしれません。