2009.5.2 私の論文「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」(『駒澤国文』所収)について・・・
今年3月刊行の『駒澤国文』に載せていただきました論文、「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」について書かせていただきます。
これは、『源氏物語』の二大写本といわれる『青表紙本源氏物語』の校訂者である藤原定家と、『河内本源氏物語』の校訂者の源光行の二人が、如何にどっぷり平家文化に浸って育ったか・・・、そして、それが如何に深く二人の文学的感性に影響を及ぼしたかを明かし、それが『源氏物語』写本という偉大な業績につながった、ということを論理立てた内容です。
『源氏物語』は紫式部が書きました。けれど、紫式部が書いた原典は残っていません。現在、私たちが読むことができるのは、昔の人が書き残してくれた写本があるからです。
室町時代中期まで、写本のなかでも源光行校訂の『河内本源氏物語』が主流でした。藤原定家の歌人としての価値が高まると同時に、定家校訂の『青表紙本源氏物語』が主流になり、『河内本源氏物語』は忘れられていきます。現在、私たちが読んでいる活字化された『源氏物語』はみな『青表紙本源氏物語』です。
定家と光行は1歳違いの同世代人です。その二人が、後世「二大写本」といわれる写本を成し遂げたわけですから、当然、そこには何らかの関係があったことは誰しも思います。が、そこのあたりはまだ深く研究されてなくて、定家は公卿、光行は下級武士、といった身分も違うことなどから、二人の関係はあまりなかった・・・、あったとしても仲がよかったとは思えない・・・、さらに、ライバル・・・、みたいなぎくしゃくした見方がなされてきました。「光行の『源氏物語』研究の深まりに焦った定家が、歌の家としての権威を保つために焦って『青表紙本源氏物語』をはじめた」というような。
最初にこの説を拝見したときに、まず私はこれに対して違和感を覚えました。これは、違う・・・と。私は学者ではありませんから、いわゆる国文学世界の常識的見方に染まっていません。代わりに、小説を書いたり、写真を撮ったりと、自由に時空をさまよい歩いてきましたから、どこかに人間関係についての機微を熟知しているようなところがあります。
最初、定家を知ったのは、小説で新人賞を頂いて、そのときの審査員でいらした福島泰樹先生に短歌結社「月光の会」のお誘いをいただき、入会してから。短歌についての俄か勉強のなかで塚本邦雄氏の新古今美学に目もくらむような衝撃を受け、そこから『新古今和歌集』について、それらの歌人について、網羅して本を読みました。なので、私の定家研究は作品から入っています。そのときの疑問が、「定家はそんなに恋愛に耽溺したわけでもなさそうなのに、どうしてこんなに妖艶な歌が作れるのだろう・・・」ということでした。
光行に興味をもつことになったのは、新人賞受賞のあと、プレッシャーから第二作が書けなくて文学に挫折し、その苦しみから救われるためにカルチャーの仏教の講座を受講したことに端を発します。それは密教の「空海の哲学」という講座でしたが、その講師でいらした真鍋俊照先生が、金沢文庫の学芸員でいらして(のちに文庫長になられますが)、それで中世史料の宝庫とわれる金沢文庫の展示を度々拝見していました。
その展示になかに、金沢文庫の創設者北条実時書写の『源氏物語』があって、そのときの疑問が、「実時は鎌倉幕府の重鎮という武人なのに、どうして『源氏物語』のような雅な業績があるのだろう」ということでした。実時書写の『源氏物語』こそ、光行がはじめて子息の親行が完成させた『河内本源氏物語』なのでした。そして、それは現在『尾州家河内本源氏物語』と呼ばれて重要文化財にまでなっています。
その後、遺跡発掘調査の仕事について歴史に視点がいったりと、いろいろあったあと、真鍋先生がご還暦記念論文集『仏教美術と歴史文化』に書く機会をくださって、そして書いたのが「北条実時と『異本紫明抄』」です。ここで、実時が如何に深く『源氏物語』に造詣を深めていたかを明かしました。『異本紫明抄』というのは『源氏物語』の注釈書で、そんなものを成すほど実時の源氏熱は高かったのです。この研究のなかで、光行にかかわる重大な文言の書かれた『原中最秘抄』と出会いました。
『原中最秘抄』には、光行が、後徳大寺実定・後京極良経・藤原俊成・源通親息の久我通光の四人から『源氏物語』について協力があったと書かれています。が、ここでも光行は侮られていて、光行のような下っ端役人にこんな凄いブレーンがいるはずがないという、胡散臭い見方までありました。ここでも私は直感で「違う。これは事実だ」と思いました。文献に縛られないで、文学とか写真といった時空のなかで生きていると、おのずと、人の感情の流れが読めているらしいのです。
でも、それらはあくまでも私の直感にしか過ぎませんでしたし、打ちだされている立派な学者さんの説に反論する力は、もとより私にはありませんでした。それでそういうことを書いて本にして、自費出版で世に訴えよう・・ととりかかったのが、ずっと、これまでこのブログでご紹介させていただいている、『紫文幻想―『源氏物語』写本に生きた人々―』です。そんなことできっと、私の「時空」は飽和状態になっていたのでしょうね。昨年の夏、源氏物語千年紀にかけて、私は写真展を開きました。それが、【写真展「写真でたどる源氏物語の歴史―鎌倉で『河内本源氏物語』ができるまで―」】です。
この時点での私の視点は、真鍋先生の論文集に載せていただいた「北条実時と『異本紫明抄』」がメインでした。「鎌倉にもれっきとした『源氏物語』文化があった」ということを知っていただこうと・・・
その目的で、藤原道長の邸宅跡「京都御所の一画」から、平家文化の時代・頼朝の鎌倉から、実時の称名寺・・・と、時代順に、そのときそのときの人の動きに合わせて、40枚の写真を並べていったのです。
ただたんたんと、時空に合わせて、選んだ写真を時系列に並べただけでした。特別ななんの意図もなく、ただそれまで撮り溜めていた記録としての写真を、京都から鎌倉へと順に並べただけなのです。
が、並べたとき、圧倒的な迫力で迫ってきたのが「平家文化」でした。それは、定家と光行が生きた20歳までの「時代」でした。「こんなにも二人は平家文化に染まって育ったんだ・・・」という驚きは衝撃でした。なにしろ、定家は「紅旗征戎吾が事にあらず」なんて『明月記』に書き込んだりしたものですから、定家は平家とは無関係・・・みたいな印象が強いのです。
なにかおかしい、二人が平家文化と無関係なはずはない・・・と、写真展会場で、圧倒的な迫力をもって迫って来る平家文化の写真に押し倒されそうな思いで、これをなんとかして明かしたい思いに駆られました。
そんなとき、ちょうど写真展が終わった直後でした・・・、三年間大学院ゼミを聴講させていただいていた高橋文二先生から、「今度の『駒澤国文』はぼくの退官記念号なので、何か書いてみませんか」というお電話を頂戴したのです。即座に、「あれを書きたい」と思い、その旨をお伝えさせていただきました。高橋先生には写真展にもいらしていただいてますので、意味はすぐ了解していただけました。
そして、できたのが「『源氏物語』二大写本に秘めた慰藉―『平家物語』との関係をめぐって―」です。『河内本源氏物語』の光行の叔父季貞が清盛の側近だったことなどから、光行が平家一門内での育ちだったこと、そして、定家はずっと平家歌壇の一員として経盛りや経正・資盛らと親しかったこと、などを羅列して、定家が平家と無関係どころか、それらの人々が壇ノ浦で果てたときに、どんなに悲痛だったかを明かしました。そして、光行と定家が俊成のもとで、兄弟のようにして『源氏物語』を学んだだろうことも。
そういう二人が成した『源氏物語』写本です。定家の歌の妖艶さの原点は平家文化だったのです。「かきやりしその黒髪の筋毎に打ち伏すほどに面影ぞたつ」と歌ったとき、定家の脳裏には見知った平家の女人の誰彼が面影として浮かんでいたはずです。『源氏物語』の妖艶さは、王朝文化の再来といわれた平家文化に通じます。二人が成した『源氏物語』写本には、親しかった平家の方々への追悼の思いが込められていた・・・というのが私の論旨です。
思いが溢れて、どう書いても舌足らずな思いしか残らずもどかしいのですが、とにかく私のなかでは、「二大写本を成さなければならなかったほどの悲痛」を抱えた二人(定家・光行)への思いが溢れています。一応、論文にまとめて気持の整理はついていますが、ただそれだけでは目的の半分も達成していません。私の目的は、二人の思いを普遍的に日本国民全体に浸透すること。なのに、一個人の主張なんて、誰もとりあげてくれません。でも、私は、日本文化の基層ともいうべきこれらの事情を、「常識」として、皆様に知って欲しいと心から願っています。(ずっと、一人で戦って書いてきましたので、つい、これについて語ると激してしまうんです。ごめんなさい。)
読んでみたい、少し知ってみたいと思われる方がいらしたら、抜刷をコピーして送らせていただきます。メールをいただけましたなら、嬉しく存じます。