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2009.5.29 平岡篤頼先生の翻訳、クロード・シモン『アカシア』を手にして・・・

003 『アカシア』はクロード・シモンのノーベル賞受賞後の作品です。例によってとても長~い、書籍としては分厚い、そして、文章もとても長~い長編小説です。

 翻訳の平岡篤頼先生の小説のカルチャーで私は小説作法を学びましたので、いわばシモンは私の小説の原点・・・。長~い文章も、私の大切な原点です。

 平岡先生は早稲田の仏文で文学を教えてらっしゃいましたが、日本におけるヌーボーロマン紹介の第一人者。そしてシモンの翻訳の他の追随を許さない第一人者でいられますから、ノーベル賞を受賞したシモンが来日したとき、案内役を務められたのが平岡先生でした。なので、私たち受講生もその恩恵をこうむって、ノーベル受賞者の日本での動向をリアルタイムで伺えたのでした。燃えていましたね、あの頃は。ヌーボーロマンに刺激されて日本の文壇が。

 昨夜、ふと、書棚に白い背表紙の『アカシア』が目に入って手にとりました。そうしたら、プルーストのマドレーヌではないのですが、さながらに一挙にあの頃の感覚がよみがえって、懐かしさに胸までどきどきして、ちょっとうるっとまでして、眠れなくなってしまいました。一旦はベッドに入ったのですが、気になってどうしようもないので起き出し、本を手にとって、「訳者あとがき」を読みました。そうしたら、そこに、平岡先生の生の声が溢れているようで、忘れていた小説の原点に立ち返ったようで、それはとても大切なことなので書いておこうと思った次第です。(と、さながら、シモンのようでしょ?平岡先生当時の感覚を思い出すと文章が長くなってしまうんです!

 ある夜彼は一枚の白紙を前にテーブルに向かった。いまは春だった。部屋の窓はほの温かい夜の闇に向かって開いていた。庭に生えている大きなアカシアの木の枝の一本がほとんど壁に触れていて、電燈に照らしだされたいちばん近くの梢が彼にも見え、ペン先に似たかたちの葉が闇を背景にかすかにひくつき、楕円形をした小葉が電燈の明かりでどぎつい緑に色づいて、時折冠毛みたいに動き、まるでそれ自身の力にうながされているみたいで、まるで木全体が目覚め、武者ぶるいし、気合をいれるみたいで、それからすべてが鎮まり、葉群ももとの不動の姿を取りもどすのだった。

 これは『アカシア』のほんとうの最後の最後の文章です。平岡先生はこれを「訳者あとがき」で引用されています。一旦寝たベッドから抜け出して本を手にとり、ここを見たとき・・・、平岡先生が何をおっしゃられたいかが一瞬にして胸に甦りました。

 これに対して平岡先生はこう書かれます。

 シモンにとっては、小説を書くとはこのことのように≪窓≫から外を(記憶を)覗くのに似た行為であり、その≪起源≫をたどってゆくと、小説を書くことを思いたった南仏の古い屋敷の窓から見えたアカシアの葉群に回帰した・・・と

 「『アカシア』は三人称で書かれているとはいえ、完全な≪私小説≫ともいえる。」のです。この「訳者あとがき」は全部引用・ご紹介したいくらい深い内容です。久々に、「文学」に触れました。そして、いかに遠く平岡先生の世界から離れていたかが思われました。

 先生はすでに他界されています。先生がパリに研究留学されていらしたとき、パリから、「貴女の小説を僕の手で翻訳した本がパリの書店で並ぶ日を待ってます。」とお手紙いただきました。それを目指して、ほんとうは内心死に物狂いで書いていたのですが間に合いませんでした。でも、心の中では今も先生の仏訳に叶う力の作品を!とは思い続けています。

 で、ここで何を言いたかったかというと、目下連載中の「花の蹴鞠」の文体なんです。前作品の「白拍子の風」はまったくのヌーボーロマン文体で書きました。とても自由に、溢れるほどの思いで、自然体で、すらすら書けました。(内容は悲恋で苦しかったのですが・・・)

 これは、ヌーボーロマンとか、いわゆる「意識の流れ」文学を知った方には理解していただけましたが、一般の読者の方には文章が長いと不評で、そのために全体が難しくみえて連載の途中で匙を投げる方が続出。理解して下さった方のなかには短歌評論の一人者でいられた菱川善夫先生のような方がいらしたのですが、それは菱川先生が国文学の出身でいらしたからで、とにかくたいていの方に「あれは・・・」と忌避されるような状況でした。

 いくら内容がよくても(自分でいうのも何ですが、「白拍子の風」はアニメにも映画にも、宝塚にもなっていいくらい綺麗な雅な世界です!)、とにかく読んでいただけないことには話になりません。それで、今回の「花の蹴鞠」はぐっと文体を変えて、まず文章を短くしました。わかりやすいと言っていただいてます。でも、以前の「白拍子の風」ファンの方からは不評なんです。「なんで変えちゃったの・・・」「前のほうがよかったわ・・・」とか、「今度のには深みがない・・・」とか

 仕方ないと思います。どっちの方にも満足いただけるなんて今のところ無理。歴史小説なので歴史に翻弄される流れのなかで「深さ」が浮かびあがればいいと覚悟してきました。が、心の底で、「白拍子の風」の文体を捨てていることに「自分で自分を鬼にしていている」ような無理を感じていました。

 昨夜の『アカシア』事件はそこを突いてきたんですね。平岡先生の原点に帰りなさいってことでしょうか。考えます!!

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