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2009.5.6 『月刊 エアライン』5月号【羽田の変貌】から羽田空港の思い出を・・・再掲ですが「マレーネ・ディートリッヒさん」

Haneda013 書店の前を通ったら、青い表紙の飛行機の写真の雑誌が目に入り、【羽田の変貌】という特集号だったので、あっと思って楽しみに買って帰りました。

 もう○十年も昔・・・(笑)、当時はまだ東京写真短期大学といっていた現東京工芸大学を卒業してすぐ、私は羽田空港内の空港写真部の中でカメラマンとして勤務していました。ちなみに母校が現在の四年制東京工芸大学になったのは、私が卒業して翌年だったか、その翌年だったか、そんな頃です。

 今でこそ成田に国際空港が移り、羽田は国内線専用になっていますが、当時はまだ国際線もいっしょでした。ターミナルビルには国内線用と国際線用がありました。空港内のニュースから設備一切を撮るのが空港写真部の仕事ですから、私も男性カメラマンに混じって、ランプから飛行機の整備場や日航のオペレーションセンターなど、施設内のあちこちを撮ってまわっていました。赤い腕章をつけて・・・

 成田に国際空港が移転するのを機に、通い切れないのを理由に退職しました。国内線専用となった羽田は、やはり見るのが侘しくて、もったいないなあ・・・、交通機関を考えたら、外国からいらっしゃる方のためにも国際線として使うべきなのに・・・と思っていました。近年、羽田の再開発が進み、国際線としての復活も考えられているそう。いいことだと思います。『月刊 エアライン』5月号はそんな変貌する羽田の特集でした。懐かしい場面もあり、変貌ぶりに驚く面もあり・・・で、楽しんで見ています。通勤に一歩空港内に踏み込んだときに感じる飛行機の油の臭いとか、キーンというジェットを吹かす音・・・などなどが一気に甦るようです。

 羽田の思い出を書きだしたらキリがありませんので、一つだけ、もう一つのブログ≪ゆりこの銀嶺日誌≫に載せてある「愛知万博のときのマレーネ・ディートリッヒさんの思い出」を再掲させていただきます。

【マレーネ・ディートリッヒさんの想い出】
 愛知万博が開かれています。
 日本に於ける最初の万博は大阪万博でした。1970年開催です。当時私は写真短大をでたばかりで、羽田空港写真部にカメラマンとして勤務していました。
 万博が終わる最後になって、マレーネ・ディトリッヒさんが会場内でのエキジビションの為に来日されました。ショーが無事終わって、たしか翌日だったと思うのですが、羽田から帰国されたのでした。当時はまだ羽田は国際空港でした。
 ディートリッヒさんといえばもう凄い方ですから、当然新聞社各社では出発の写真が欲しいところです。けれど、ディートリッヒさんはお仕事以外で撮られるのは大嫌いということでした。それで、招聘元のプロダクションから緘口令が敷かれて、空港内での撮影は一切禁止ということになりました。
 でも、新聞社としてはそうはいきません。どうしても一枚欲しいわけです。それで依頼が空港内にある写真部に来ました。
 デスクはT氏という英語堪能のとても敏腕な方でした。三十名ほどいたカメラマンの中で紅一点だった私は大変可愛がっていただき、下積みから段階を昇っていかなければ到底撮らせていただけないような仕事も回していただいていました。(当然嫉妬もされましたし、今から思うと済みません!・・です・)私はそのT氏の「行こう!」の一声で、何を撮るのかもわからずカメラを持って従いました。
 通行証代わりの赤い腕章をはめ、通関手続きを終えた搭乗者の方々がいるロビーへ行く道すがら、はじめてマレーネ・ディートリッヒさんが今空港にいらして、それを撮らせていただくのだけれど、少しでもカメラを向けたのがわかると大変なことになるから、ようすを見つつ待つのだと教えられました。
 ディートリッヒさんはすらりとした長身に浅いブルーのジーンズの上下、同じ色のつばのついた帽子を被りという姿でした。ロビーにはたくさんの人がいましたが、日本人で気づいた人は一人もいませんでした。でも外人の方はさすが擦れ違う毎に誰もがはっとなさっていました。中には気軽に声をかけて握手を求める方もいられ、ディートリッヒさんも笑顔で応えていられました。そして、時には一角にあるカウンターバーでくつろがれたりと。
 一部始終を撮りたかったのですが、なにしろあれだけの映画に出演された方です。レンズの気配は後ろにあっても察知されてしまうでしょう。じっとこらえてT氏と二人で目で追いながら、撮るチャンスを窺いつつ時を待ちました。
 結局、ロビーで撮らせていただく機会はありませんでした。そのままディートリッヒさんは搭乗。私たちもランプに出ました。でも、既にディートリッヒさんは飛行機の中です。どうするのだろうと思っていると、T氏がタラップを昇って行かれました。そして、ドアの所でスチュワーデスさんと何か話しています。スチュワーデスさんが奥へ消え、再び現われたと思うとT氏に何か告げ、そして、T氏は降りて来られました。
 こういうことでした。
 「往年のファンです。一枚だけ撮らせて下さいと取り次いで貰ったら、一枚だけならOKということになった。今、ドアの所に出てくるから、そうしたら撮ってくれ」
 しばらくしてディートリッヒさんがドアの前に現われました。私は「一枚だけ」の言葉を肝に銘じて前に進み出て一礼し、カメラを向けさせていただきました。
 ディートリッヒさんも想定外の若い女の子のカメラマンに、ん?と目をとめて下った気がします。そして、手を挙げて「撮ります」の合図をし、カメラに向いて頂いたのを確かめて、シャッターを切りました。もう一枚!と、どんなに思ったでしょう。「Once more , please」といえば許していただけそうな雰囲気でした。でも私は「一枚だけ」を厳守しました。
 今思えば、生涯で最大の緊張の一枚だったかもしれません。でも、若かったし、それにディートリッヒさんと目が合った時の温かさみたいなものが胸にあって、不安はありませんでした。
 写真は翌日の英字新聞各社共通で載りました。手元には日付の判を押したその切抜きが一枚だけ、黄色くなりかけてあります。このブログにアップしたいのですが、肖像権の問題などわかりませんので、当分私一人の範囲で納めておきます。
 愛知万博が開催されて、ニュースで万博の文字を見るたびに、私にはディートリッヒさんの思い出が懐かしく甦ります。

●写真は、『月刊 エアライン』5月号と、JALの模型飛行機。これって優れもので、ドアの開閉ができるんですよ。ただ開けたり閉じたりするだけでも楽しい!! 開けて撮ってみました。でも、今って、カメラマンとはいわないんですね。フォトグラファー、って。私もそう記すべきかと思うのですが、当時の通称のほうがしっくりして変えられないでいます。

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