2009.5.20 三島義教氏『初代問注所執事 三善康信 ―鎌倉幕府の組織者―』について・・・
所属している『吾妻鏡』を読む会の発表当番・・・、月曜日に無事終わりました。ふう~っと一息ついたところです。
今回の担当は「養和二年(1182)二月八日」で、頼朝が伊勢神宮に御願書を奉納したという条。担当箇所の大部分はその御願書の紹介です。
草案をつくったのは三善康信で、彼は鎌倉幕府の初代問注所執事として知られています。が、同様に京下りの文人として頼朝の側近で活躍した大江広元に比べ、どちらかというと影の薄い地味な存在に思われています。
従来の三善康信像は、頼朝の乳母の甥の関係で、源平の争乱時、京にあって平家の動向を頼朝に知らせた功により鎌倉に召され、初代問注所執事になった・・・と、もっぱら頼朝の縁戚関係でひきたてられたふうに言われてきました。
三善康信は、ここのところの私にとって最重要人物の一人です。それは、三年がかりで書き進めている『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々―』で源光行を追って書いていますが、源平の争乱時、その光行の父が平家に与した咎でつかまり断罪にあうところを、光行を鎌倉まで伴って頼朝に面会させ、父の助命嘆願をさせたというのが、三善康信だからです。
頼朝の甥で初代問注所執事・・・という経歴だけしか知られていない康信と、光行の関係がわからず、光行の年譜を作成された池田利夫先生も、康信の関係が光行本人となのか光行父となのかわからないと書いていられます。それで私もそこのところを探るべく、康信関連の本を探していました。光行父光季はあまり知られていませんが、建春門院滋子や建礼門院徳子の周辺ではたらいた形跡があるので、たぶん中宮職の関係ではないかと踏んで、それで、中宮属(さかん)三善康信という経歴から、康信は光行の父光季と中宮に仕える役職で一種の同僚として知りあっていたのでは・・・というのが私の結論です。
それで、康信が仕えた中宮が誰か知りたく本を探しました。康信についてはほんとうにあまり書かれてなくて、ただ一冊、三島義教氏『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』があるだけ。でも、そこにばっちりと康信が仕えたのは育子中宮とありました。そして、光行父光季の滋子・徳子の時期とも重なるので、二人の面識があったというのは確信していいでしょう。光行はおそらく親友光季の助命に、子息光行を伴って鎌倉に下向。頼朝に面会させて一緒に嘆願したのです。その甲斐あって、光行の父は助かります。
さて、この三島義教氏『初代問注所執事 三善康信―鎌倉幕府の組織者―』が、これがもう、凄いんです。三島氏はいわゆる歴史専門の学者さんではありません。経歴を拝見しても、東大法学部卒。建設省などを経て退官後に三善康信研究に着手。十五年の歳月を費やしてこの書を完成されたそうです。専門でいられないので出版にためらっていたところ、多くの学者さんに送って問うても異論が出ず、何よりも角田文衛先生に認めていただいたことに勇気を得て出版されたとか。十五年という歳月のとおりに、中身は非常に濃いものがあります。感動しました。
こんなふうに研究が進んでいない康信。「頼朝の甥という縁故関係」のみで語られてきたのには、鎌倉幕府のなかの問注所だから、資料は『吾妻鏡』をあたれば充分・・・のようなことで、もっぱら『吾妻鏡』に登場する面だけで評価がされてきたのですね。
が、三島氏のこのご著書に、驚くべきことが書かれていました。康信は、頼朝に仕えたあとも、同時に京にあって蔵人方五位出納という地位を得て、吉田経房のもとではたらいているのです。それは、経房の日記『吉記』に書かれていて、そのことから三島氏が結論づけられたのは・・・康信が鎌倉に派遣された背景には経房がいて、後白河法皇の意向のもとに京・鎌倉のパイプ役として、頼朝にもゆかりのある康信がふさわしい人物として選ばれた・・・と。
重要なことなので引用させていただきます。
これまで、康信は、専ら、『吾妻鏡』掲載記事から論ぜられ、(中略)、康信は鎌倉に赴き、乳母の甥の故に頼朝の私的な恩喚を受けた京下向の下級官人で、広元のあの華々しい朝廷との政治交渉ぶりと違って、頼朝の分身となり、専ら鎌倉に出仕してただ地道に厄介な問注所の整理のみを務めてきた人物としか評価されなかった。
後白河法皇は頼朝の恩賞に「諸国武者押妨取締の宣旨」を沙汰し、諸国には参議左大弁経房が布告し、今後の武者世界の恒久平和確立の責任を頼朝に委譲する画期的な国家的治安維持機構を発足させた。この戦略実践のため、その四月、蔵人方五位出納康信は、鎌倉の頼朝のもとに派遣され、京と鎌倉の政治の橋渡しの役割の任務を与えた。
この『吉記』の五位出納康信は今までまったく着目されてませんでした。十五年の歳月を傾けての三島氏の労あって発見されたのです。そして、康信のほんとうの姿が浮かび上がった・・・。
鎌倉だからといって鎌倉サイドだけの史料で片づけていては駄目だったのです。京の側の史料と複合させてはじめて真実の姿が見えてくる・・・
所属している『吾妻鏡』の会のメンバーは、私なんかのひよっこと違って十何年来、古文書を読み続けていられる方々ばかりですが、従来の歴史観には熟知されていても、こうした穴のような個々の史実には触れられる機会がなくて、この康信の件も初耳。『吉記』にあるとなれば疑いようがなく、ほんとかなあ・・・と狐につままれたようなお顔をされながらも、でも、「今日は面白かった。御苦労さま」と、ポンと肩を叩かれたような反応をされました。光行の関連で興味をもたなかったら、私だって従来どおりのちっぽけな存在でしか担当箇所の康信を発表できなかったでしょう。
康信もそうですが、私が追っている「河内本源氏物語」の源光行だってそうです。光行に関してもほんとうに断片的にしか知られていません。で、そのほんの『吾妻鏡』に書いてある部分だけで断定して、下級武士だから何々・・・と、蔑視的扱いの評価が下されてます。でも、詳しく調べれば、人脈関係をみても、たんなる下級武士の範囲ではない生活、人間像が浮かびあがります。一面的な視野でもって人を見下すような評価をするのだけは止めてくださいと、ここのところの私は声を大にして言いたいと思います。
●写真は撮ってきたばかりのシロツメクサ。さわやかに晴れた公園でみつけました。