« 2009.5.20 三島義教氏『初代問注所執事 三善康信 ―鎌倉幕府の組織者―』について・・・ | Main | 2009.5.29 平岡篤頼先生の翻訳、クロード・シモン『アカシア』を手にして・・・ »

2009.5.22 峰岸純夫先生の新しいご著書『足利尊氏と直義』を拝読して・・・

Muromati035  写真は京都の今出川通りにある室町幕府跡の碑です。足利義満造営の花の御所はこのあたりとか・・・。京都の地理に詳しくないので、地図を頼りに「室町幕府跡」を探して撮ってきたものです。が、尊氏が開いた初期幕府の地とは別のようですね。

 こちらのサイトによると、【この石碑には、「従是東北 足利将軍室町第趾」と刻まれています。この地点より東北は室町幕府・足利将軍の邸宅跡であるという意味です。室町幕府の敷地は、東西を、烏丸通と室町通、南北を今出川通と上立売通の囲まれた長方形の敷地です。】とのことです。http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/muromachi-s/isibumi.htm

 峰岸純夫先生が『足利尊氏と直義』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー272)というご著書をだされて拝読させていただきました。『太平記』の世界は私には難解なのですが、興味深く読ませていただきました。で、このブログでもご紹介させていただこうと思い、写真を何にしようか考えたときに、これを撮っていたことを思い出しました。2005年に中世都市研究会が京都で行われたときに行って撮ったものです。

 峰岸先生のこのご著書によると、最後には決裂する尊氏・直義兄弟ですが、もともと二人は協力しあっていて、互いの資質を活かして認めあっていた。で、幕府の地を決めるときに、尊氏が京都を望んだのに対し、弟の直義は鎌倉をと願ったそうです。室町幕府というと京都としか思い浮かばないのに、鎌倉になっていた可能性もあったんですね。

 峰岸先生のこのご著書は不思議な内容です。いわゆるふつうの『太平記』の時代の本とちょっと違って、とても人間的…というか、先生のお人柄の成せる技だなあと。眼差しがとても温かいんです。決裂する兄弟を描くわけですから、どっちかを悪者にしたり、どちらか方についた視線になってもおかしくないのに、読んでいて「どっちが悪いの?」「こんなに両方いい人だったら、殺しあうことないじゃない・・・」って、ずうっと不思議に思いつつ進んでいました。

 それもそのはず、最後の方になってわかったのですが、二人は夢窓疎石に師事し、疎石も二人を絶賛しているんです。夢窓疎石といえば権力に屈する人でなく、鎌倉にあって時の執権貞時に召されても拒否しとおしたくらいの人ですから、室町幕府の将軍という権力におもねってそんなことをいう方ではありません。しかも、直義に関しては『夢中問答集』という業績までが残っているのです。峰岸先生のご本から引用させていただきますと、「『夢中問答集』は、直義と夢窓の禅修行に関する九三項目の問答集で、在家の女性や仏道に志すものの指針となるようにという直義の意を受けて大高重成が編集したものである。」

 峰岸先生が引用されている川瀬一馬氏校注・訳『夢中問答集』は私も持っていますが、これがこういう関係の直義の手になるものだったとは、ほんとうに『太平記』世界に疎い私には意外なところでの新発見です。仏教なら仏教の側からだけ、歴史なら歴史の側からだけ、国文学なら国文学の側からだけしか見ていないと、大局的・総合的把握ができないということですね。

 その夢窓のような人物に評価されている二人が殺しあわなければならなかったなんて・・・、そこが武士の世界なんでしょうね。直義の死を尊氏の側の毒殺説もあるそうですが、峰岸先生は尊氏にその意思があったとは思わないとはっきりと書いていられます。これは、政治面だけの利益関係でみれば汚い見方になってしまうのを、人間性からみると絶対にそれはありえないという見方にもなるということ。峰岸先生ならではのことと思います。

 私は最近、政治や文学の表舞台の第一線で活躍するのでない、いわゆる有名な人でない人物を掘り下げていますから思うのですが、どうも、学者さんという方は、こんな言い方をしたら顰蹙かもしれませんが、「学者になった・・・、のぼりつめた・・・」という一種の勝者の立場にいられるから、目線が上から的なんです。それと、こうだからこう・・・と、構図が一元的というか対立的。有機的な温かい人間性が入っていないんです。二人いればライバルとか・・・。直義が突然不自然な死に方をしていれば、こういう状況の中では「殺された・・・」として当然。そして、殺したのは尊氏の意志・・・と。

 そこを「そうは思わない」とされる峰岸先生に感動しました。先生はとてもあっけらかんとされた方ですが、深いところに宗教のような「敬虔」が根底にあられます。最近の真慈悲寺研究も、ただの頼朝の御願寺探究ではなく、多摩地域の聖域「多摩霊場論」となって広がってお話されます。国東半島のような広大な霊場的性格が多摩にもあったなんて・・・と、これは凄い新発見で嬉しかったですね。

 拝読しながら書かせていただこうと思った関心事はたくさんあったのですが、ここでは書き切れません。なので、最後にこれだけは・・・ということを。それは、神護寺の頼朝像に関することです。

 神護寺の巨大な三枚の似絵は、頼朝・重盛・光能像として有名ですが、1995年に米倉迪夫『源頼朝像―沈黙の肖像画』が出て、実は違う・・・ということが明かされて大問題になりました。そうではなくて、足利尊氏・直義・義詮だというのです。頼朝といえばあの像が浮かんで、その品格で頼朝のイメージが定着しているわけですから、違うとなれば大問題。当時から米倉説のほうが正しいという印象はもっていましたが、それを認めてしまうと教科書に載っている写真から変えなければならない・・・、それではあまりに弊害が大きいというわけで(でもないのかな?)、最近ではこの問題は不問に付すといったかたちで、正式な決着がついていません。

 峰岸先生はこのご著書で、先生も米倉説支持を表明されていました。私としてはもやもやしていたものの霧が晴れた思いですが、じゃあ、頼朝の正式なお顔は?となると、それはもうほんとうに困りものです。だって、あの像に憧れて頼朝ファンになっている人だっているわけでしょ(私もその一人・・・です。)。三枚の像のどれが尊氏で、どれが直義かは峰岸先生のご著書の後半をお読みになってください。米倉先生のご著書よりは新刊ですから書店ですぐ手にできますから。

|

« 2009.5.20 三島義教氏『初代問注所執事 三善康信 ―鎌倉幕府の組織者―』について・・・ | Main | 2009.5.29 平岡篤頼先生の翻訳、クロード・シモン『アカシア』を手にして・・・ »