« May 2009 | Main | July 2009 »

2009.6.26 馬場あき子先生の『女歌の系譜』から、俊成卿女について・・・

100 連載中の小説「花の蹴鞠」がもうしばらくすると『新古今和歌集』成立の嵐のなかに突入しますので、そのあたりの人間関係を探るべく、いろいろな書物をあたっています。

 まず最初に二条院讃岐を調べていて、讃岐が60代になって再び歌人として後鳥羽院に召されたことを認識。先日は『源家長日記』を図書館で借りてきたことを記しました。これは、後鳥羽院の近臣としての日記で、最初は上京した雅経が蹴鞠を披露するあたりから、これもやがて『新古今和歌集』の人脈へと入っていっています。それから、鴨長明の『無名抄』。他に『増鏡』もあります。

 と、こんなふうに自宅にある本から図書館のものまで、目につくものを片端から網羅しつつある状況。でも、ほんというと、義務で読む本はつまらないんですよ。日記だから淡々としてる・・・。感興の湧くものではありません。私は恣意的傾向が強いから、感興が湧かないといくら必要とわかっていても進まなくて、そのうち眠くなって・・・

 でも、馬場あき子先生の『女歌の系譜』は違いました!! 俄然、目は醒めて、感興が湧くどころかぐいぐい引き込まれて、改めて馬場先生の文章力の凄さに感嘆することしきりで拝読させていただきました。

 『女歌の系譜』は、女流歌人について書かれたもので、必要な歌人だけを抜粋してコピーしたものしか手元にないので曖昧ですが、たしか、伊勢・小野小町・小侍従・建礼門院右京大夫・俊成卿女・宮内卿・永福門院・・・が書かれていたと思います。私が目下必要なのは小侍従から宮内卿まで。永福門院は大好きなのですが、これを読んでしまうと気分が『新古今和歌集』を越えて『玉葉和歌集』にいってしまうこと必定なので、ぐっと我慢してコピーしませんでした。いずれ、また・・・です。

 小侍従は、二条院讃岐より少し年が上。というより、讃岐の父頼政とも交渉をもった女性。恋多き女として他に後白河天皇や後徳大寺実定らがいるほど。実定の妹の『平家物語』で二代后として描かれる多子に仕えていました。「待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥は物かは」の歌で「待つ宵の小侍従」と呼ばれました。二条院讃岐が「沖の石の讃岐」と呼ばれたように代表となる一首をもつ歌人です。

 この小侍従もまた讃岐と同様、晩年になって後鳥羽院に召しだされて活躍します。讃岐より10歳か20歳近くか年が上ですから、7~80代になっています。誰の言葉かわかりませんが、後鳥羽院に女流歌人が少ないからと呼び出されたとき、彼女たちのあいだでは光栄に思うどころか、「念仏のさまたげ」と迷惑がったとか・・・。読んだとき、思わず吹き出してしまいました。

 肝心の俊成卿女を書かないうちに長くなってしまいましたが、こんな感じで、馬場先生のこのご著書は、今まで名前だけ知っていて、ほとんど百人一首の一枚の札程度でしかの存在だった彼女たちが俄然血肉をもって喜怒哀楽そのままに浮かびあがって書かれているのです。建礼門院右京大夫も、目下の執筆には気分の妨げになるので読みませんが、その後の俊成卿女・・・、これが凄いんです。目をみはりました。

 俊成卿女も、「下萌えの少将」と呼ばれるに至った名歌、「下萌えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲の果てぞ悲しき」があります。

 今まで、俊成の孫、定家の姪という華々しい家系でありながら、私はあまりこの方に興味をもっていませんでした。それは、やはり、馬場先生も書いていられますが、実人生においての「華」がないからでしょう。歌は俊成卿女に劣るにしても、建礼門院右京大夫には平資盛との悲恋というロマンがあります。

 でも、俊成卿女にあるのは、捨てられた妻・・・という立場。俊成卿女は源通親息の通具と結婚し、子供をもうけながら、夫は栄達のために彼女を捨て別の女性と結婚します。そして、終世、彼女はその「捨てられた妻」を背負って生きていくのです。それを馬場先生は冒頭できっぱりとこう書かれます。

 歌人としての輝かしい経歴と、女としての時めかぬ人生とが、俊成卿女ほど落差のある場合も珍しい。

 そう、だからこそ、私も今まで「下燃え」の煙がくすぶっているようにしか彼女を感じられないでいたのです。でも、違いました。さすがやはり御子左家の血筋の女性ですね。それを書かれる馬場先生の最後にいくほど筆の冴えること!!!

 乱れ散り、砕けこぼれる露のすがたに、俊成卿女は秋の恋の怨情をうたったが、その対極にあるものとして俊成卿女がえらんだのは、<春のあはれ>ではなく、<冴え侘び>た冬の澄徹であった。

 俊成卿女の冬の世界は、氷結の夜の世界に、しんとしてかがやく月光をもって特色的であったことは、その主題意識を考えさせるのに充分である。

 この、すべてが枯れ静まり、散りつくしたのちのあらわなかたちを貌とする季節をみつめつつ、俊成卿女の堅固な冬の思想は定まり、人生的な観照はきわまってゆくのである。

 と、まだまだ引用して残しておきたい文章はたくさんあるのですが、止めます。とにかく、最初の「時めかぬ・・・」ではじまった冴えない女性論のような俊成卿女論が、途中から俄然「観照」の追及めいてきて、『摩可止観』を愛した定家や、冬の月を愛した紫式部がやたらとほうふつする俊成卿女の深さにおりたっていくのです。そう、なんだかここの俊成卿女、紫式部ですね。単に「冬の月」を愛でるからばかりでなく。

 思ったのですが、これは、馬場先生も書き始められるまでこんなふうになるとは思わなかったのではないしょうか。筆が先生ご自身を誘導して書かしめた・・・、そんなことを感じさせる文章、文体でいられます。

 こういう文章にあうと、私は俄然奮起してこちらの意欲まで掻き立てられます。よく、眠くなる文章と血肉の踊る文章とどう違うののだろうと考えるのですが、それはもうやはり個性というしかない・・・。馬場先生はその個性をお持ちになられる方なのだと感嘆したのでした。(すでに高名な方に当たり前のことをいうようですが、でも、このご文体は只者ではありませんでした!!)

 ●写真は今年最初の朝顔。去年の種がプランターにこぼれていて、土を掘り返したら発芽してみるみる延びて咲きました。西洋種の朝顔です。最近、この種類が流行ってますね。プランターにはふつうの日本種のも生えてますが、こちらはのんびり。まだ半分ほどの丈にしかなってません。

|

2009.6.26 7月11日の【八千代栗谷遺跡調査報告会】のお知らせ

千葉で活動されている蕨由美さんから以下のお知らせをいただきました。

*******************************

お世話になっている皆様へ
7月11日(土)に 八千代栗谷遺跡研究会主催で下記の調査報告会を行います。
 時間:13:30~16:00
 場所:八千代市郷土博物館学習室 
 内容:
    「平戸台8号墳発掘の成果」 常松成人
    「印旛地域の子安塔の成立過程」 蕨由美

・平戸台8号墳の報告書に載っている縄文の異形台付土器などの土器片実物も、会場に
てご覧ください。
・どなたでも参加・聴講できますので、お誘いあわせのうえ、お出かけ下さい。
・参加申し込み&連絡先:常松へ(090-1120-4098)
  または、このメールの返信で。
  その際、懇親会の出欠もお知らせください。
・八千代市立郷土博物館へのアクセス
  高速鉄道村上駅より徒歩10分
  京成電鉄勝田台駅南口より米本団地行き東洋バスで市営住宅前下車徒歩2分
・「やちくりけん」ブログもご覧ください。↓
   http://yatikurike.exblog.jp/

*******************************

蕨由美さんのサイト【歴史に好奇心! さわらび通信】は必見です。内容も写真も豊富。充実されています。「失われていく歴史的景観や、路傍の文化財、民俗行事の姿や、また二度と見ることができない緊急発掘現場の記録を、ビジュアルに報告していきたいと思っています」(成徳大学ご講演より引用)というご主旨でつくられています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/

|

2009.6.24 今年の【東京国際ブックフェア】は7月9日~12日の開催です!! と、石積忠夫社長の『正直者はバカをみない』について

 「電子書籍」のキーワードで検索してこられる方がたくさんいらっしゃいますのでお知らせさせていただきます。【東京国際ブックフェア】は日本最大の本の展示会ですが、会場では「デジタル パブリッシング フェア」の一画があり、そこで電子書籍などの詳細を知ることができます。

 会場は東京ビッグサイト。入場料が1200円かかりますが、招待券を持っていけば無料です。招待券はホームページから請求することができます。
http://www.reedexpo.co.jp/tibf/

 東京国際ブックフェアというとてつもない規模の本の展示会・・・、当然なにかしらの「公」の運営と思っていたら、「リード エグジビション ジャパン株式会社」という民間企業の一事業だったんです。これを知ったときは驚きました。凄い目のつけどころだなあ・・・って。

 一昨年来、私は『紫文幻想―源氏物語写本に生きた人々』という本を上梓しようと頑張っていて、去年の源氏物語千年紀には刊行・・・と思っていたのが、書けば書くほど内容の深まる新資料の続出で原稿がまだできあがっていません。で、上梓・・・はまだ夢のまた夢・・・、でも、今年の春、千年紀の余韻がまだ冷めないうちになんとか・・・と思い、『源氏物語写本のお話』といったタイトルの簡単な概略書でもいいから一冊刊行して、「たった一冊の出版社」として、このブックフェアに出展できないかなあ・・・などと考え、出展説明書に行ったんですよ!! 自分でもなんて大胆な・・・と思いつつ。だって、そこはほんとうの出展社の方々の集まりで、大手の出版社のそうそうたる方々が全部いらしている会場ですから。

 一応、金額を支払って申込さえすればできないことはない手応えをつかんで帰りましたが、あまりに性急で、まず三か月のうちに原稿を仕上げて→刊行して→展示の準備・・・をしなければならないのはあまりに危険・・・と思って止めました。

 でも、行ってよかったのは、ブックフェアの裏側とか、リード エグジビション ジャパン株式会社という会社の理念とか、そういったことがつまびらかに把握できたこと。なによりも社長の石積忠夫氏の考え方に打たれて帰りました。

 石積忠夫氏は新潟県の出身でいらして、ブックフェアを思いつかれたのは、新潟の朝市の思い出から、本もあんなふうにいろんなところから集まって一同に展示することができたらいいのに、という発想からとうかがいました。凄いですね。

 こんなふうな社長さんですから、社風も凄い闊達で、清新明解。展示会とか野球観戦でもそうですが、よく「来場者〇○人」と発表されますよね。でも、だいたいが水増し。それが当たり前になっているような世の中で、この会社だけは「実質の数」なんだそうです。それは、来場者の名刺の枚数で数えるから・・・。入場するには名刺が必要です。そして一旦入ると首にさげるパスポートをいただけて、それさえ持っていれば、何回出入りしても、連日足を運んでもスルーです。でも、カウントは「一人」なんです。

 なぜこんなに厳密に「実質」にこだわるかっていうと、それは水増しをしてしまうと社員の士気がさがるから・・・とか。そんなんでいいや思えば真剣さから遠ざかる。実質で勝負となれば必死になる・・・ということだそうです。なので、こんな「たった一人の出版社希望」の私にまでちゃんとお電話くださって丁寧に説明会にくるよう教えてくださいました。その方の実績のためには今年出展を実現したかったのですが・・・ネ。ごめんなさい。

 こういう理念は石積忠夫社長の『正直者はバカをみない』というご著書に全部書いてあります。説明会が終わって出たロビーで販売してらして、会場で社長のお話や運営のてきぱきさに感動したばかりですから即買って帰り、帰りの車内で夢中になって読んでしまいました。人生訓としてもお勧めの一冊です。

|

2009.6.22 【琵琶湖博物館保管の滋賀県所蔵東寺文書107通、重要文化財に指定】のお知らせ!!

平安京・京都研究集会事務局の方から琵琶湖博物館の展示のお知らせを頂きました。転載させていただきます。

***********************************
               
皆さま

梅雨の候、いかがお過ごしでしょうか。
さて、琵琶湖博物館が保管する滋賀県所蔵の東寺文書107通がこの度重要文化財に指定
されることとなりました。もとは大谷雅彦氏所蔵文書として皆さまもよくご承知の史料です。そこで、ささやかなお披露目の展示を開催することといたしました。上久世庄と拝師庄に関わる5点のみの展示ですが、お近くへお越しの節は、是非ともお立ち寄りいただければ幸いです。
なお、ネットに掲載しているPDFファイルに一部誤りがありましたので、別に添付いたします。どうぞよろしくお願い申し上げます。

http://www.lbm.go.jp/tenji/btenji/topic/090623_toji_monjyo.html

〒525-0001 草津市下物(おろしも)町1091
 滋賀県立琵琶湖博物館 http://www.lbm.go.jp/

************************************

|

2009.6.20 小説「花の蹴鞠」第五回の準備に『源家長日記』を借りてきました!

011 249 272 282 写真は今年四月の白峯神宮での蹴鞠奉納のようすです。あいにくの雨で拝殿内での競技となりましたが、晴れていたら中庭に設けられた鞠庭で行われます。白峯神宮の地は執筆中の小説「花の蹴鞠」の主人公、飛鳥井雅経の邸宅があった跡地です。

 蹴鞠の鞠って、この小説を書くために意識して調べるまで、手毬の色糸もあでやかなあの綺麗な毬と混同していました。それで雅経が使う毬ってどんなのだろうと想像して、思いっきり雅な色の美しい鞠にしよう、なんて考えていたんですよ! でも、実際は写真でご覧のように真っ白。鹿皮を裏返して使って作るそうです。最初は区別ついていたはずですが、「ケマリ」と「テマリ」と似ていていつのまにかごっちゃになっていました(笑)

 「花の蹴鞠」は先週第四回を書き終えて編集部に送りました。で、第五回にかかるのですが、いよいよ雅経が後鳥羽天皇に召されて京にのぼります。それで、建久8年のそのあたりの後鳥羽天皇の宮廷事情を知るために、天皇の廷臣源家長の日記があることを知り、地元の図書館に行って借りてきました。『続々群書類従』第15巻に入っています。

 私の小説はこういう個人の日記や家集に助けられて書いています。というか、そういうのを持つ人はある意味感性が似ていて文学的なんでしょうね。だから通じるところがあって書きたい気持ちになる・・・。「白拍子の風」のときも慈円が歌を残していてくれたから心に入っていけた・・・。飛鳥井雅有も興味が持続するのは『春の深山路』など日記があるから。定家も私にとって書きやすいのは作品があるからです。

 家長日記は手にするのはじめてです。雅経が京に到着するのは2月19日。はじめて後鳥羽天皇に拝賀して蹴鞠をご覧にいれるのは25日。その頃家長は廷臣としてそれらを見ているわけですから、上洛後の雅経の動向を知るのに最適と思い、借りてきました。群書類従は本文が載っているだけなので読みこなせるかどうか・・・。まあ、来週になったら都立図書館までまた足を運んで「全註解」を借りてきます。

 さて、小説はやっと鎌倉をでて雅経の蹴鞠のプレーのところまできました。蹴鞠と言えばサッカーのルーツですが、そういわれる前からなんとなく似ているなあって感じていました。それを強く思ったのは中村俊輔さんのプレーを見たとき。足で小気味よくボールをさばいて落とさない妙技。あれって蹴鞠に通じるなあって思っていました。だからずっとファンでした。今、「花の蹴鞠」を書いていて、「雅経の妙技」って書こうとすると俊輔さんの足のプレーが脳裏に浮かびます。もちろん今のサッカーのユニフォームと、雅経が着た狩衣とは全然イメージが違うはずなんですが、私のなかでは一緒です。

 先日、ワールドカップに出場が決まったというニュースのとき、解説者が日本の力として、「中村俊輔の左足は世界に通用する」っていわれてました。今更いうことでもでもないよ・・・って感じで聞いていましたが、あの域に達するまでの鍛練といったら並大抵のものではありませんよね。蹴鞠も、神業という領域に達するまでは朝から暗くなるまでの終日、鞠を蹴って訓練したといいます。雅経があれだけの達人になったのにはそういう蓄積があったはず。私のなかで、もしこの小説が映像化したらというときのキャスティングで、雅経には三浦春馬さんと決まっていますが、こんな役に抜擢されたら大変ですよね。蹴鞠を身につけなくてはならなくて。でも、俳優さんて素人だったはずがいつのまにか殺陣をこなしてしまったりしてますから、蹴鞠のポンポンもできてしまうのでしょうか・・・

|

2009.6.18 府中市郷土の森博物館【武蔵府中と鎌倉街道】展に行ってきました!!

 府中市郷土の森博物館の【武蔵府中と鎌倉街道】展は今週の日曜日(6月21日)までです。なかなか出かける時間がとれなくて、今日やっと拝見してきました。この展覧会については、終わってしまってからでは遅いので、12日にご紹介だけはさせていただいていましたが、なにしろ時間がなくて気持ちの急く中、うろ覚えの曖昧な記述で済ませていました。展示図録のブックレットを購入してきましたので、改めて正しいご紹介をさせていただきます。12日に記した今小路西遺跡についての新史料木札についてです。

 これは、展示では「街道の始点―鎌倉」という、最初の方の展示室にありました。今小路西遺跡出土の青磁酒会壺など陶磁器の遺物に続いて、「墨書板」と図録にはあります。引用させていただきます。

 今小路西遺跡御成町171地点で2007年に出土した。一番から三番に分けて計9名の名を記していて、文永2年(1265)銘がある。何らかの警備の順番を記したものだろう。(中略)御家人の鎌倉での勤仕を示す一級資料である。

 ちょうど団体さんがいらしていて学芸員らしい方が説明をされている中に混じりました。それで聞こえてきたのですが、「これは3月に保存処理が終わって公開できるようになったばかり。この展覧会が4月からですから、本邦初公開です」とのこと。そして、「これが今中世の研究者のあいだで注目になっている新発見資料です」・・・と。

 図録と学芸員さんのお話では9名のうちの最初の「あきまの二郎さゑもん殿」が板碑の名前と共通なことにこだわっていますが、私が興味をもったのは別で、それが今小路西遺跡が安達泰盛邸だっただろうことの証になるということ。2008年10月に開かれた足利市教育委員会のシンポジウム『東国中世史の中の樺埼寺跡―足利氏・寺院・庭園』、河野真知郎氏発表の資料から抜粋させていただきます。(これは私がこの遺跡と安達氏にこだわっているので、峰岸純夫先生が送ってくださって知りました。そのときに驚いたのですが、まさかこんなに早く展示で実物を見られるなんて・・・)

 一番 あきまの二郎さゑもん殿・・・安達景盛従者の一人として飽間太郎がおり、
 一番 ささきのさゑもん三郎殿・・・安達と縁故が深い盛綱系の人物か
 二番 かたやま太郎殿・・・武蔵七党有道姓児玉党片山氏(私注:とすると・・・)霜月騒動の際、片山五郎左衛門尉基□(FAX資料で読取不明です)が安達泰盛に従って誅されている。
 三番 安達景盛従者の一人に“加世次郎”が見られる。

 と、安達氏関係の従者かもしれない名前が9名のうち何人もあるそうです。なので、こういう遺物がでたからには安達氏関係の遺跡・・・、つまり安達氏の邸宅だった可能性が強くなった・・・と、こうなるそうです。今後の展開・ご報告が楽しみですね。

 展示は他にもとても興味深いものがたくさんありました。鎌倉関係では有名な衣張山出土の大きな青磁鉢とか、顕時邸跡出土の定窯の白磁片・・・久しぶりの対面で懐かしかったです!!

 あと、個人的に最大の収穫は、企画展に合わせた常設展での府中市内での出土品のなかに、府中市指定文化財の小さな木彫の仏像があったこと。これはほんとうに小さくて、高さ4.7㎝。おそらく観音様のようです。解説には「髻(もとどり)の中に入れた念持仏かもしれない」とあります。

 私は今、短歌結社の歌誌『月光』に「花の蹴鞠」という小説を連載中ですが、先週ちょうどその「第四回」を書きあげたばかりです。そこに『吾妻鏡』にある頼朝の石橋山の合戦で敗れたときに、「髻の中に入れた念持仏をとりだして岩窟の中に置き去った」というエピソードを使ったばかり。首をかかれたときにみつかって敵に「神仏にすがる女々しい奴」と思われたくないからとの処置ですが、髻に結い込めるほど小さな仏って、ほんとにそんな仏像があるのかしらと、実は内心『吾妻鏡』の記事を眉唾ものに感じていました。でも、今日の展示のあの観音様なら可能です。髪の毛に混じってすき込んでもはみださないでしょう。ひょんなことから頼朝のエピソードの実感できた一日でした。

 展示にはもっといろいろご紹介させていただきたいことがたくさんありましたが、長くなりすぎるので、残念ですが今日はこれくらいにさせていただきます。

|

2009.6.17 滋賀県立安土城考古博物館テーマ展 【新定 長命寺文書展】のお知らせ

平安京・京都研究集会事務局の方より、滋賀県立安土城考古博物館テーマ展【新定 長命寺文書展】のお知らせをいただきました。以下、コピーして紹介させていただきます。

********************************
当館に寄託され昨年7月に滋賀県指定文化財になった滋賀県近江八幡市の長命寺文書ですが、承保元年(1074)の寄進状を最古に、中世文書303通を含む膨大な史料群でありますが、これまでなかなか公開されることがありませんでした。
今週明け9日より、7月20日まで、当館の第2常設展示室の7m程のケースを用い、テーマ展「新指定 長命寺文書展」を開催しています。長命寺文書のうち当館のテーマである佐々木六角氏と信長を中心に資料を選定して12点を展示しております。
(内容は下記参照)
ご興味のある方は、ぜひご来館下さい。お手数をおかけしますが、研究者の皆さまにご案内の程、よろしくお願いいたします。
                  090611 高木叙子

★★★テーマ展 「新指定 長命寺文書展」★★★

◆趣旨・内容:長命寺は近江八幡市長命寺町に所在する古刹で、現在も西国観音巡礼の第31番目の札所として多くの参拝者が訪れる単立寺院です。寺伝によれば、武内宿禰が開山で聖徳太子の創建と言われています。多くの古文書が伝えられていましたが、その全貌は長い間明らかにされていませんでした。平成12年度から14年度にかけて滋賀県教育委員会が行った詳細調査で、中世文書303点を含む5,475点が確認され、これを受けて平成20年(2008年)7月23日、「長命寺文書」として滋賀県指定文化財に指定されました。現在、長命寺文書は滋賀県立安土城考古博物館に寄託されていますが、指定を記念し、その中の12点をテーマ展示にて披露いたします。
 平成20年の新指定品全体は、同年8月9日から29日までの間、長浜市長浜城歴史博物館で「滋賀県新指定文化財展」として公開されましたが、本テーマ展では、長浜で公開された以外の、初公開6点を含む12点を展示します。長命寺文書中で最も古い年紀を持つ承保元年(1074)の寄進状や、鎌倉・室町・安土桃山時代に、長命寺が近江守護の佐々木氏や織田信長の家臣たちやりとりした文書を中心に、長命寺文書を紹介します。
 また、長命寺文書の他、長命寺所蔵の釈迦三尊像・弥勒菩薩像・山越阿弥陀像各1幅(ともに近江八幡市指定文化財)と、参考資料として長命寺文書の差出人である徳川家康や織田信忠の画像(ともに館蔵)も展示します。

◆展示のみどころ:これまでほとんど公開されることの無かった長命寺文書の中で、当館のテーマである、佐々木六角氏および織田信長関係の古文書を選んで展示します。信長の家臣の中でも文書残存数の少ない家臣(中川重政・坂井政尚)や信長の嫡男・信忠の書状案なども初公開となり、注目できます。また、承保元年(1081)の寄進状は、県内でも数少ない平安時代の古文書です。

◆期  間 平成21年6月9日(火)~7月20日(日)

◆会  場 滋賀県立安土城考古博物館第2常設展示室

◆開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)

◆休 館 日  月曜日

◆入 館 料 大人400円(320円)、高大生250円(200円)
       ※ただし7月18日(金)~20日(日)は、企画展料金となり大人450円(360円)となります。
          ※( )は20人以上の団体料金です。 ※信長の館との共通券もあります

◆主な展示資料(長命寺文書、□は滋賀県指定文化財)
          ※所蔵者は館蔵の肖像画二幅以外、すべて長命寺です
     □奥島庄司土師助正畠地寄進状:長命寺の近くにある奥島庄の庄司である土師助正が、亡父の遺志により船木郷にある先祖伝来の畠地を長命寺に寄進したことが記されています。11世紀後半の、非常に古い古文書です。初公開。
     □長命寺由緒書:大永6年(1526)に延暦寺西塔の快重という僧が記した長命寺の由緒。長命寺が聖徳太子の創建で観音菩薩の霊場であることなどの由緒が記されています。初公開。
     □佐々木泰綱袖判下文:佐々木氏の中で、鎌倉時代に初めて六角氏を名乗った泰綱(?~1276)の花押が据えられた命令書。長命寺と大島神社神主との相論の裁定を下した内容です。
     □佐々木頼綱書下:泰綱の二男の頼綱(1242~1310)の命令書です。琵琶湖の網人と長命寺の漁場をめぐる訴訟に対して指示を行っています。
     □佐々木時信奉加状:鎌倉幕府滅亡時の六角氏当主である時信(1306~1346)が、長命寺に馬一疋を奉納することを記した文書です。
     □佐々木定頼書状:室町時代末期の佐々木六角氏当主である定頼(1495~1552)が、長命寺浜に滞在していたとき贈られた銭に対して礼を述べた手紙です。初公開。
     □天文四年十月結解米下用状断簡:長命寺が支出した銭や米の額と用途を記入した出納帳。本資料は天文4年(1535)のものですが、長命寺にはこの前後の下用状が多く残されています。法要や寺の出費の他、佐々木六角氏の依頼で輸送や軍事に船を出した際の出納なども記されていて注目されます。
     □丹羽長秀・村井貞勝連署書状:永禄11年(1568)年の秋、信長が近江に侵攻した直後の11月24日に、家臣の丹羽・村井を通じて長命寺の領地を保障したもの。
     □織田信忠書状案:織田信長の嫡男・信忠が信長家臣の丹羽長秀に宛てた書状の写。長命寺をこれまで同様に保護するように気に掛け、柴田勝家にも伝えるよう記されています。初公開。
     □坂井政尚・柴田勝家連署書状:信長の家臣である坂井・柴田の二人が連署して長命寺に出した書状。信忠の指示により、長命寺に無理難題を持ちかける事を禁じ、長命寺を保護しています。年代が記されていませんが、坂井が元亀元年(1570)11月に戦死するので、それ以前のものです。初公開。
     □中川重政書状:中川重政は、元亀元年に信長によって安土に置かれ、柴田勝家とともに蒲生郡を任された家臣です。その後、柴田との所領争いとなり没落してしまいます。この書状は、長命寺が納めた税金について柴田と中川の間で行き違いがあった際のやりとりを示すものです。初公開。
     □徳川家康禁制:慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に対し、家康が長命寺を保護するように命じたものです。

◆関連行事 *ギャラリートーク
        日  時:6月14日(日) 午前11時~11時30分
             7月12日(日) 午後1時30分~2時
        場  所:当館第2常設展示室
               ※参加は無料ですが、入館料が必要です。
◆問い合わせ先 滋賀県立安土城考古博物館 
          〒521-1311 滋賀県蒲生郡安土町下豊浦6678
          Tel 0748-46-2424   Fax 0748-46-6140
                    E-mail:gakugei@azuchi-museum.or.jp
                    URL     http://www.azuchi-museum.or.jp/

|

2009.6.17 【第18回 平安京・京都研究集会】のお知らせ

平安京・京都研究集会事務の方から、下記のようなお知らせをいただきましたのでお知らせさせていただきます。

********************************
下記のとおり、第18回の平安京・京都研究集会を開催いたします。
今回は、平安京・京都研究集会としては初めて、近代の京都にとりくみます。
こぞっての御参加をお待ち申し上げております。

===========================================
第18回 平安京・京都研究集会

「京都の歴史イメージはどのようにつくられたか―公共の歴史学のために―」

「建都千二百年」から十数年、京都学や各種検定の盛行など、京都の歴史に対
する関心は空前の高まりを見せている。その一方、歴史学をはじめとする人文
学はその存在意義が問われているともいう。私たちはこの機会に、歴史学が社
会とどのように関わってきたのかをそれぞれの時代の現場に即して検証した
い。京都における歴史認識のあり方を、史学史としてたどるとき、私たちが直
面している課題に対しても何らかのヒントが得られるのではないだろうか。

日 時  2009年7月12日(日)
シンポジウム  午前11時~午後5時

  場所 機関誌会館5階大会議室
     (京都市上京区新町通丸太町上ル東側、市バス府庁前下車すぐ、ま
      たは地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ徒歩5分)
  報告 入山洋子氏(元京都市市政史編さん助手・近代史)
       「西田直二郎の『京都市史』をめぐって」
     秋元せき氏(京都市歴史資料館・地方自治論)
       「大正期京都の都市計画展覧会の歴史的意義について―都市計
        画をめぐる歴史意識―」
     福家崇洋氏(京都外国語大学講師・近代日本思想史)
       「川島元次郎と海外発展史研究」
     高木博志氏(京都大学・日本近代史)「公教育と京都像」
  討論 司会:小林丈広氏(京都市歴史資料館・日本近世・近代史)

主 催  平安京・京都研究集会
後 援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
問い合わせは、「平安京・京都研究集会」事務局(山田方)090-9697-8052、
電子メール<FZK06736@nifty.ne.jp>
===========================================
このメールは転送自由です。お近くでこうした会に御興味のある方がおられま
したらぜひ転送してください。
なお、この案内がご不要の方がおられましたら、ご連絡ください。配信を中止
させていただきます。
平安京・京都研究集会など、京都の歴史研究にかかわる情報の配信を希望され
る方は、上記まで御連絡ください。配信リスト(中世都市研究会京都大会メモ
リアル・リスト)に登録させていただきます。

**********************************

|

2009.6.16 玉川上水を歩いていて中世の陶磁器の破片を拾う?

004 写真は先週玉川上水べりで採取?した陶磁器の破片です。以前、遺跡発掘調査の仕事に従事していたとき、陶磁器の破片をたくさん扱いました。それで中世の陶磁器の破片には慣れていますので、? と気になって拾ってきたものです。

 上水べりには泥道がぬかるまないよう砂利が敷かれています。その砂利に混じって、時々、遺跡から出土する破片に似たものがあるのは以前から気になっていました。でも、まさか・・・ですよね。

 最初に気づいたのはもう数年も前になりますが、そのときは青磁の破片でした。青磁って、あの舶載陶磁器の宋のものです。日本製のとは胎土が明らかにちがいますから一目瞭然、わかります。そのときも数片あって拾ったのですが、まさか・・・と思ってまた置き去りにしました。厚いもので数ミリ、薄いものもありました。なまじ以前扱っていたものですから、勘違いで拾ってきたら恥ずかしいでしょ。そんな意識がはたらいて、その後も何度も気になってはみつけていたのですが、家に持ち帰ったのは今回がはじめてです。ブログでご紹介させていただこうと思って・・・

 今回拾ったのにはわけがあって、写真の左一列が口縁部分なんです。横からみると明らかですが、玉縁という形状です。これがある以上、自然のものではありません。そして、弥生式土器でもないし、中世のかわらけでもない・・・。かわらけよりは大きいですね。

 右一列の二個は他と違って、私には唐津に思えるのですが、私の手には馴染んだ質感、薄さ、形状・・・。まさか唐津が?とは思うものの、じゃあ、他に何?と聞かれて、う~ん、です。青磁の破片といい、今回のものといい、現代のものにはどうしても見えません。主人は植木鉢じゃないのって、バカにした言い方をしますが、植木鉢の破片も周囲にたくさん落ちていて、見極めくらいつきます。明治以降の近世の瀬戸風の破片もあります。この近世のものは模様があきらかに「今」ではありませんね。(追記19日:思い出しました。右側二個の破片は京焼です。唐津って書くのにためらいがあったのですが、それくらいポピュラーであり、かつマイナーな・・・というイメージで唐津という名前しか思い浮かばなくて。馴染んだ感触がそれくらい懐かしいものだったので。大違いでしたよね。ごめんなさい!!)

 上水べりを舗装するのに、どこから砂利をもってきているのでしょうね。こんな遺物が混じるなんて・・・。以前、鎌倉の化粧坂を歩いたときも、舗装砂利に混じって江戸時代の徳利の破片などたくさん見ました。下を向いて歩くのは不審ですが、古い地域を歩くとつい下を・・・。でも、上水べりでは「有り得な~い」って思ってしまいます。

 写真は、かつて報告書用に撮っていたころの並べ方をしてみました。懐かしいですね。こんなふうに、陶磁器とか土器、瓦など、とてもたくさん撮りました。八王子城出土の中世のベネチアンレースガラスとか・・・

|

2009.6.12 府中市郷土の森博物館【武蔵府中と鎌倉街道】展は6月21日までです!!

074 見学させていただいてから感想を書きたいと思っていたのですが、なかなか行く時間がとれなくて、そのうちに会期終了となってしまいそう・・・。いい展覧会と聞いていますので、お知らせさせていただきます。

 この展示では鎌倉の遺跡も紹介されていて、そこに今小路西遺跡のものがあります。今小路西遺跡は、鎌倉駅近くの御成小学校の場所です。若宮大通りとは駅をはさんで反対側になります。
https://tabidachi.ana.co.jp/card/457276

 この遺跡については書き切れないほどいろいろありますので、今は展覧会に関しての情報だけにしますが、関心をもっている理由はこの遺跡が安達泰盛邸だったかもしれないということ。ずっと以前、鎌倉の馬淵和雄さんがそういうご論文を書かれて凄い興味をもちました。けれど、その後、それが実証されないままなんとなく「違う」という風潮で終わっていました。

 が、ここにきて、やはり安達泰盛邸だったという証拠の木札(まだ展示を見ていないので曖昧です・・・)が側溝かどこかから出土して、安達家の家臣の名前が発見され、やはり安達邸だったということになったようです。それがこの展覧会ではじめて展示されているとか・・・(急いで書いていますので、ほんとうに曖昧です。学術的でなくて済みません・・・)

 先の馬淵さんの論文との関連がどうなのか知りたいところですが、そういうところ、どうなっているのでしょう。遺跡の世界から離れて長くなりますので、情報が入らなくなってしまいました。馬淵さんのご論文ももっととりあげられてもいいと思っていました。復活するといいですね。とりあえず展覧会に行って、図録などで詳しく知りたく思っています。

|

2009.6.8 綺麗でした!! 称名寺庭園の塗り替えられた橋・・・

022 027 033 053 056 077 133 昨日、神奈川県立金沢文庫の【称名寺の庭園と伽藍】展に行ってきました。「史跡称名寺境内庭園両橋復元完成記念」と銘うってあるだけあって、とても充実した展示でした。国宝の金沢貞顕像や玉簾・華曼などの宝物と共に、貞顕の書状など、久々に目にし、堪能させていただきました。

 展示で興味深かったのは、庭園の発掘調査時に出土した青磁や瓦などの遺物が結構並んでいたこと。出土した橋の橋脚もありました。古文書が多い金沢文庫の展示では珍しい気がします。それと、阿弥陀堂図や伝法潅頂図など貴重な図面があって、当時の空間を想像して楽しみました。

 図録もとても充実しています。これは、展示図録というより、研究者の方に向けての資料提供の意図が明確で、そのために展示物のほとんどが載っていない・・・。それが、展示としてはメインのような貞顕像や玉簾、愛染明王像などでもです。解説を読みたい人はすでに刊行している図録のあちこちに載っていますからそちらで見てください、って。凄い大胆な発想で驚きました。いいですね、このコンセプト。

 昨日は久しぶりに晴れて青空。塗り替えられた橋を撮るのに絶好の日和。こんな機会は滅多にないとばかりに頑張って朝のうちに出向きました。写真は朝の光がくっきりとれて綺麗です。

 随分前から称名寺境内の写真を撮っていますが、考えてみたらリバーサルフィルムのポジの時代がほとんど。デジカメになってからのもありますが、取材用に持ち歩いたコンパクトカメラのもの。きちんとした一眼レフデジカメで撮るのははじめてです。せっかく晴れたいい機会ですから、ここはばっちり納めておこうと・・・

 最初の仁王様がいられる山門の向こうに苑池は広がります。今は塞がれて通れなくなっていますが、橋はこの山門の入口から金堂まで一直線になっています。色が鮮やかなうちに是非いらしてください。まだ造りたてでのぼると木の香りがしました。

|

2009.6.4 金沢文庫【称名寺の庭園と伽藍】展は6月7日までです!

002 神奈川県立金沢文庫に隣接する称名寺は、関東にある貴重な浄土式庭園を有する寺院です。

 浄土式庭園では中央に阿字を模した池を配し、その中央に金堂に向かう橋を架けて極楽浄土を再現します。朱塗りの橋のそのあでやかなこと・・・

 でも、いくら塗り替えても歳月と共に色が褪せ、塗りなおした当初の荘厳さからはほど遠く・・・、という状況がしばらく続いていました。

 今春、何年かぶりでその橋の塗り替えが完成。金沢文庫の展示もそれに関連しての【称名寺の庭園と伽藍】という内容で、非常に充実したいい展示と伺っていました。ただ、私自身は目下のところ忙しさに体力・気力が消耗。綺麗な橋は前回の塗り替え時に撮っているからいいわ・・・と、出不精を決めつけていました。

 ところが、今日になって、ある方から展示のチラシと招待券が送られてきました。日程をみると、今度の日曜日まで。今日が木曜ですから明日・明後日には行かないと・・・という状況です。疲労感が募っていても、これは行かなくては!と思わざるを得ません。まるで「おい、こら、さぼっていないで行きなさい」とばかりに苦笑するしかない今日の郵便でした。

 でも、考えてみると、橋の塗り替え時に立ち会えるなんてそうそうある機会ではありません。怠慢からブログに記すのも忘れていましたが、この展示をご存じない方もいられるはず。そう思ったら、さぼっていたことを反省しました。どうか、間に合う方はいらしてください。お勧めは夕方。朱塗りの端が西陽に映えて映る水面はやはり極楽をほうふつして見事です。

|

2009.6.4 峰岸純夫先生のご著書『足利尊氏と直義』の関連で・・・

134 峰岸純夫先生の『足利尊氏と直義』を拝読して、そのすぐ後に東京芸大美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展に行ったときのこと・・・

 そこに、思いがけない偶然に出逢いました。ふしぎなご縁です・・・

 直義は尊氏の弟。室町幕府成立までは協力しあっての仲のいい兄弟だったのが、それぞれの立場の違いから最後は戦い合うはめになり、直義は途中で亡くなります。

 それがあまりに唐突で不自然だったために殺されたとしか思えない・・・ということになり、それなら尊氏の陰謀としか思えないといわれるようになったと、そういういきさつは『太平記』世界に疎い私は、峰岸先生のご著書ではじめて知ったのでした。

 それから、そのこととは全く関係なく、以前から行きたく思っていた東京藝術大学美術館で開催中の【尼門跡寺院の世界】展へ行きました。そして、そこに見出したのは、なんと、未亡人になった直義夫人が開基の寺院があったのです。本光院といって、北野天満宮の近くにある寺院です。図録の解説を引用させていただきます。

 本光院を開いた無説尼は、足利直義(足利将軍尊氏の弟)の夫人であった。無説尼は40歳頃、禅に強く興味をもち、臨済宗天龍寺開祖、夢窓疎石のもとに参禅していた。それは『夢中問答』でよく知られるように、直義が疎石に深く帰依していた影響であろう。出家の動機については書かれていないが、『普明国師語録』によると、無説尼は、晩年になって浮世の空しさを深く嘆き、自ら髪を断って出家したとあり、おそらく夫直義が暗殺されたことが大きな契機となったのであろう。

 【尼門跡寺院の世界】展の展示は、現在にまで残っている13の尼門跡寺院が、中宮寺・法華寺からはじまって時代の古い順に並んで紹介されています。それをたどって行ってこの本光院門跡の前に立って解説を読んだとき、びっくりしました。峰岸先生のご著書で知ったばかりの直義の死、その残された夫人のその後がこんなところで見られるなんてと。

 歴史は、政治の表舞台では男社会で、どっちが勝って、その覇者が政権を樹立、それで歴史がつくられた・・・ですが、その「男」の一人一人に家族があって、歴史なんていう漠然としたつかみようのないものでない、本物の有機的な、生きた血の通う人間の生活・思いがあるわけです。尊氏夫人なら室町幕府がらみでドラマになるかもしれなくても、直義夫人ではマイナーで誰もとりあげてもくれません。でも、人がどう着目しようとしまいと、一人の男の死の前には悲しむ女性があり、家族があるわけです。その一端が、こんなふうなかたちで伺えるなんて・・・、凄いことと思いました。

 それにしても凄い偶然ですよね。峰岸先生のご著書については22日の記事で記させていただきました。その追加でこれを書かせていただいていますが、拝読していなかったら、【尼門跡寺院の世界】展の印象は、今抱えている感想の半分だったでしょう。それくらい直義夫人の寺院の存在には驚きました。

 ちなみに、31日のブログ【尼門跡寺院の世界】展も書きかけになっていますが、そこで書いた宝慈院の無外如大尼は、鎌倉幕府ゆかりの女性で、安達泰盛の娘で北条実時息の顕時夫人といわれています。ここはまだ充分な解明がされていないので確かかどうか曖昧ですが、顕時夫人が顕時とともに無学祖元に参禅していたことは有名。私には本光院の無説尼が無外如大尼と重なってしまいました。

 無外如大尼は鎌倉で夢窓疎石の師の高峰顕日と親交がありました。その縁で顕日に当てた彼女の自筆の書状が残っていて、それが展示されていました。こんな言い方をしたら不謹慎ですが、高峰顕日のファンで、顕日が籠った那須の雲厳寺まで訪ねて行った私としては、その「けんにち」の文字のある書状をいつか見たいと思っていました。はからずもそれが展示されていて、「けんにち」の文字がどこにあるか、必死にたどって読みました。物凄い綺麗なくずし字です。すぐにはみつけられませんでしたが、確認できてほっとしました。

 【尼門跡寺院の世界】展は6月14日までです。とても荘厳な、かつ雅な気分に陥ります。お勧めの展覧会です。それから、峰岸先生は『足利尊氏と直義』のご著書について、吉川弘文館の冊子『本郷』に書かれているそうです。

|

« May 2009 | Main | July 2009 »