2009.6.26 馬場あき子先生の『女歌の系譜』から、俊成卿女について・・・
連載中の小説「花の蹴鞠」がもうしばらくすると『新古今和歌集』成立の嵐のなかに突入しますので、そのあたりの人間関係を探るべく、いろいろな書物をあたっています。
まず最初に二条院讃岐を調べていて、讃岐が60代になって再び歌人として後鳥羽院に召されたことを認識。先日は『源家長日記』を図書館で借りてきたことを記しました。これは、後鳥羽院の近臣としての日記で、最初は上京した雅経が蹴鞠を披露するあたりから、これもやがて『新古今和歌集』の人脈へと入っていっています。それから、鴨長明の『無名抄』。他に『増鏡』もあります。
と、こんなふうに自宅にある本から図書館のものまで、目につくものを片端から網羅しつつある状況。でも、ほんというと、義務で読む本はつまらないんですよ。日記だから淡々としてる・・・。感興の湧くものではありません。私は恣意的傾向が強いから、感興が湧かないといくら必要とわかっていても進まなくて、そのうち眠くなって・・・
でも、馬場あき子先生の『女歌の系譜』は違いました!! 俄然、目は醒めて、感興が湧くどころかぐいぐい引き込まれて、改めて馬場先生の文章力の凄さに感嘆することしきりで拝読させていただきました。
『女歌の系譜』は、女流歌人について書かれたもので、必要な歌人だけを抜粋してコピーしたものしか手元にないので曖昧ですが、たしか、伊勢・小野小町・小侍従・建礼門院右京大夫・俊成卿女・宮内卿・永福門院・・・が書かれていたと思います。私が目下必要なのは小侍従から宮内卿まで。永福門院は大好きなのですが、これを読んでしまうと気分が『新古今和歌集』を越えて『玉葉和歌集』にいってしまうこと必定なので、ぐっと我慢してコピーしませんでした。いずれ、また・・・です。
小侍従は、二条院讃岐より少し年が上。というより、讃岐の父頼政とも交渉をもった女性。恋多き女として他に後白河天皇や後徳大寺実定らがいるほど。実定の妹の『平家物語』で二代后として描かれる多子に仕えていました。「待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥は物かは」の歌で「待つ宵の小侍従」と呼ばれました。二条院讃岐が「沖の石の讃岐」と呼ばれたように代表となる一首をもつ歌人です。
この小侍従もまた讃岐と同様、晩年になって後鳥羽院に召しだされて活躍します。讃岐より10歳か20歳近くか年が上ですから、7~80代になっています。誰の言葉かわかりませんが、後鳥羽院に女流歌人が少ないからと呼び出されたとき、彼女たちのあいだでは光栄に思うどころか、「念仏のさまたげ」と迷惑がったとか・・・。読んだとき、思わず吹き出してしまいました。
肝心の俊成卿女を書かないうちに長くなってしまいましたが、こんな感じで、馬場先生のこのご著書は、今まで名前だけ知っていて、ほとんど百人一首の一枚の札程度でしかの存在だった彼女たちが俄然血肉をもって喜怒哀楽そのままに浮かびあがって書かれているのです。建礼門院右京大夫も、目下の執筆には気分の妨げになるので読みませんが、その後の俊成卿女・・・、これが凄いんです。目をみはりました。
俊成卿女も、「下萌えの少将」と呼ばれるに至った名歌、「下萌えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲の果てぞ悲しき」があります。
今まで、俊成の孫、定家の姪という華々しい家系でありながら、私はあまりこの方に興味をもっていませんでした。それは、やはり、馬場先生も書いていられますが、実人生においての「華」がないからでしょう。歌は俊成卿女に劣るにしても、建礼門院右京大夫には平資盛との悲恋というロマンがあります。
でも、俊成卿女にあるのは、捨てられた妻・・・という立場。俊成卿女は源通親息の通具と結婚し、子供をもうけながら、夫は栄達のために彼女を捨て別の女性と結婚します。そして、終世、彼女はその「捨てられた妻」を背負って生きていくのです。それを馬場先生は冒頭できっぱりとこう書かれます。
歌人としての輝かしい経歴と、女としての時めかぬ人生とが、俊成卿女ほど落差のある場合も珍しい。
そう、だからこそ、私も今まで「下燃え」の煙がくすぶっているようにしか彼女を感じられないでいたのです。でも、違いました。さすがやはり御子左家の血筋の女性ですね。それを書かれる馬場先生の最後にいくほど筆の冴えること!!!
乱れ散り、砕けこぼれる露のすがたに、俊成卿女は秋の恋の怨情をうたったが、その対極にあるものとして俊成卿女がえらんだのは、<春のあはれ>ではなく、<冴え侘び>た冬の澄徹であった。
俊成卿女の冬の世界は、氷結の夜の世界に、しんとしてかがやく月光をもって特色的であったことは、その主題意識を考えさせるのに充分である。
この、すべてが枯れ静まり、散りつくしたのちのあらわなかたちを貌とする季節をみつめつつ、俊成卿女の堅固な冬の思想は定まり、人生的な観照はきわまってゆくのである。
と、まだまだ引用して残しておきたい文章はたくさんあるのですが、止めます。とにかく、最初の「時めかぬ・・・」ではじまった冴えない女性論のような俊成卿女論が、途中から俄然「観照」の追及めいてきて、『摩可止観』を愛した定家や、冬の月を愛した紫式部がやたらとほうふつする俊成卿女の深さにおりたっていくのです。そう、なんだかここの俊成卿女、紫式部ですね。単に「冬の月」を愛でるからばかりでなく。
思ったのですが、これは、馬場先生も書き始められるまでこんなふうになるとは思わなかったのではないしょうか。筆が先生ご自身を誘導して書かしめた・・・、そんなことを感じさせる文章、文体でいられます。
こういう文章にあうと、私は俄然奮起してこちらの意欲まで掻き立てられます。よく、眠くなる文章と血肉の踊る文章とどう違うののだろうと考えるのですが、それはもうやはり個性というしかない・・・。馬場先生はその個性をお持ちになられる方なのだと感嘆したのでした。(すでに高名な方に当たり前のことをいうようですが、でも、このご文体は只者ではありませんでした!!)
●写真は今年最初の朝顔。去年の種がプランターにこぼれていて、土を掘り返したら発芽してみるみる延びて咲きました。西洋種の朝顔です。最近、この種類が流行ってますね。プランターにはふつうの日本種のも生えてますが、こちらはのんびり。まだ半分ほどの丈にしかなってません。